かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

「江戸切絵図集」をバッグにいれて

2012-03-07 | 都内散策・江戸切絵図集
鳥越となりの浅草橋・甚内神社です。



石碑 甚内神社

石碑 甚内霊神


  甚内神社
                       台東区浅草橋三丁目十一番五号
 当社は「甚内霊神(じんないれいじん)」の名で、江戸時代初期に創建された。
 伝承によれば、甚内は武田家の家臣高坂弾正の子で、主家滅亡後、祖父に伴われ諸国を行脚するうち宮本武蔵に見出されて剣を学び奥義を極めた。武田家再興をはかり、開府早々の江戸市中の治安を乱したため、瘧(おこり)(マラリア)に苦しんでいたところを幕府に捕えられた。
 鳥越の刑場で処刑されるとき「我瘧病にあらずば何を召し捕れん。我ながく魂魄(こんぱく)を留、瘧に悩む人もし我を念ぜば平癒なさしめん」といったことから、病の治癒を祈る人々の信仰を集めたという。八月十二日の命日は、今も多くの人で賑わっている。
 かつて鳥越川に架かる橋の一つ「甚内橋」の名も付近に甚内神社があったからだといわれる。鳥越川は、今は暗渠となり橋もなくなったが、その名は「甚内橋遺跡」(浅草橋三丁目十三番四号)の小碑に残されている。
 関東大震災まで浅草消防署の付近にあったが焼失。その後移転。昭和五年、現在地に移った。
  平成七年三月
     台東区教育委員会
あくまでも伝承上のこと。逸話は、いくつもあるようだ。
江戸期の甚内霊神は、ジンナイ橋隣の旗本・小出兵庫の屋敷神であり、縁日には邸内での参拝ができ、とても賑わったと、どこかで読んだ。


「江戸切絵図集」に載っている、鳥越周辺の気になる地名、他。
鳥越明神
元鳥越町
猿屋町・サルヤ丁
頒暦所御用ヤシキ 幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う天文方の施設。
白川神職
吉田神職
當山修験・本山修験・羽黒修験
御書換役所
新旅籠町・元旅籠町
御□正會所
芝□□(御霊)屋御掃除ヤシキ 芝増上寺の将軍廟を管理する幕使の屋敷。
御廻□會所
知らない・聞きなれない・珍しい名も(読めない字も)たくさんに出てくる。じっくり見て、読んでいて飽きがこない。一つひとつ確かめたいところだが、(まずった)細かくなりすぎた。
この辺りは江戸開府後、正保の頃に幕府御用地となり、住民(百姓等)の多くが三谷村(山谷)に移住した。そちらは新鳥越町とよばれた。俗に「新町」(しんちょう)、ということで。
それからどうした、どうなった、と入っていくと、ここはもう塩見鮮一郎(さん)ワールドにお付き合いするほかなくなってしまう。


参考本 『江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1』 ちくま学芸文庫
     浅草鳥越堀田原辺繪図 (p.296、p.300)



写真 永田町・山王坂(坂下)あたり

2012-03-04 | 都内散策・江戸切絵図集







中) 三べ坂の坂下あたり。山王坂下に合流する。昔ならば、山王門前である。
  右手のコンクリ壁の上奥は、日比谷高校のグラウンド。
  岡筑前守(岡部内膳正) 和泉岸和田藩 藩邸は、現・都立日比谷高校。
  安摂津守(安部虎之助) 武蔵岡部藩
  渡丹後守(渡辺備中守) 和泉伯太藩
  ( )は、「江戸切絵図集」での表示です。
下) 山王坂・坂下。元々の「日吉山王大権現社」(現・日枝神社)の門前。
  「江戸切絵図集」を見ると、坂全体が参道で、鳥居が坂上・中・坂下の三箇所
  にあった。
  いまの新参道の場所(南側)は、昔は溜池(お堀)だった。


『江戸切絵図集』 永田町絵図 (p.105、p.106)