鎌倉比企谷妙本寺、池上本門寺 歴代
長興山 妙本寺
長栄山 大国院本門寺
開山は日蓮聖人ですが、実質は二祖・日朗上人からです。妙本寺、本門寺の両山の貫首(住職)は日朗上人が兼任しました。以後、両山一首(主)の制として昭和前期まで続きました。
〇鎌倉時代
文応元年(1260) 鎌倉 比企能本、法華堂を邸内に造る。(比企谷妙本寺の初め)
文永11年(1274) 池上 池上宗仲・宗長兄弟、池上の邸内に法華堂を造る。(一説)
建治2年(1276) 池上兄弟、邸内(或は山上)に一宇を建てる。(一説)
弘安5年(1282)9月 日蓮聖人、本門寺開堂供養。
10月13日 日蓮聖人、池上邸(現大坊本行寺)で入滅す。
正応元年(1288) 六老・日持、日浄の発願により宗祖像を造立し奉納する。(現存)
開祖 日蓮聖人 1222~1282 (貞応元年2月16日~弘安5年10月13日)
二祖 日朗上人 1241~1320 (寛元元年~元応2年1月21日) 下総能毛
三祖 日輪上人 1272~1359 (文永9年~正平14/延文4年4月4日) 松戸平賀
〇南北朝時代・足利時代
4世 日山 1338~1381(永徳元年) 武蔵池上(或は下総平賀)
延文4年(1359)に両山普薫。
この頃、本門寺寺領問題が起きる。日山の奔走で寺領安堵(確保)さる。
5世 日叡 1318~1400(応永7年) 身延(7世)より普山(兼職)。
諸事情により両山歴世に数えない見方もあった。
6世 日行 1387~1434(永享6年) 身延より普薫。俗姓・波木井氏。
7世 日寿 1431~1452(宝徳4年) 稚児貫主。鎌倉長尾氏(母・狩野氏)
嘉吉2年(1443)、日寿祖父狩野叡昌、鎌倉に卒。
〇応仁の乱(1467~1477)
8世 日調 1428~1501(文亀元年) 上総伊保(伊北)庄の出。俗姓・狩野氏
〇戦国時代
〇関東 北条早雲躍進の時代(後北条氏)
9世 日純 1482~1550(天文19年) 文亀元年(1501)、両山普薫。(身延日朝門弟)
〇関西 天文法華の乱(天文法難) 天文5年(1536)
10世 日陽 1496~1550(天文19年) 天文18年(1549)、両山普薫。
11世 日現 1496~1561(永禄4年) 備前岡山の出。著書「書置」(現師置文)
天文18年(1549)、大坊より両山普薫。備前法華の初め。
■ 日現卒後の二十年間、貫主空位の時代となる。(鎌倉の衰退に因)
■ 天正8年(1580)、飯高檀林の開設。
12世 日惺 1550~1598(慶長3年) 備前福岡の出。京都妙覚寺・日典系。
天正9年(1581)に両山普薫。在任18年。
天正15年 上田周防守室、仁王門の金剛王像を再興。(戦災で焼失)
● 日惺 関白二条昭実の猶子。紫衣の勅許をうける。
〇天正18年(1590)7月 小田原北条氏の滅亡。
〇天正18年(1590)8月1日(八朔) 徳川家康、江戸に入城。
天正18年 日惺、鎌倉より池上に移り、これより池上に専住する。
(日惺は、徳川家康と以前より親交があった。)
鎌倉妙本寺は、比企谷本行院(妙本寺内)が山務を代行するようになった。
■ 文禄2年(1593)徳川秀忠乳母・岡部局(正心院)、秀忠の病気平癒祈願。
(五重塔建立を発願する。)
玉沢妙法華寺の「註法華経」書写。(日惺滅後、貸借問題がおきた。)
〇江戸時代(徳川幕府)
13世 日尊 1558~1603 京都の出。俗姓・広橋家(藤原氏・日野家)。
慶長3年(1598)、両山普薫。六条本国寺系。飯高檀林の祖。
14世 日詔 1569~1617(元和3年) 備中山田の出。。(日尊門弟)
慶長8年(1603)、両山普薫。飯高、小西檀林化主(2代)より。
■ 慶長11年 加藤清正、本門寺祖師堂建立。(のち焼失、吉宗の代に再建)
(此経難持坂の石段寄進もこの頃か)
■ 慶長13年(1608) 本門寺・五重塔の建立。(徳川秀忠・岡部局の寄進)
15世 日友 1570~1619(元和5年) 上総武射の出。身延17世・日新門弟(受不論)
元和3年(1617)、両山普薫。飯高檀林化主より。身延・日遠の要請。
復歴 日樹 1574~1631(寛永8) 備中黒崎の出。不受不施論の学匠(日詔門弟)
元和5年(1619)、両山普薫。飯高檀林7世、中村檀林能化より。
■ 加賀前田利家側室・寿福院の帰依を受ける。
池上本堂の再建。
本阿弥光悦、三堂扁額を寄進する。
■ 寛永7年(1630) 江戸城で身池対論。幕府裁定で日樹歴代除歴さる。
16世 日遠(にちおん) 1572~1642(寛永19) 京都の出。飯高檀林化主。身延22世
本満寺・日重、日乾の学系(受不施論・泉南教学系)。大野・本遠寺の開創。
寛永7年(1630)、幕命により両山普薫。翌年、鎌倉に隠棲。
■ 徳川家康側室・養珠院お万の方の多大なる外護あり。
17世 日東 1581~1648(慶安元年)) 出生地未詳。(日遠門弟)
寛永8年(1631) 普山。在住18年。小西檀林・飯高檀林化主・藻原寺より。
■ 寛永9年(1632) 加藤忠広、池上本門寺で待命、改易となる。
■ 正保4年(1647) 紀州徳川頼宣室・瑤林院、梵鐘を寄進する。
18世 日耀 1599~1655(明暦元年) 上総武射の出。日友、日遠門弟。
慶安元年(1648)、普山。飯高より。
■ 慶安元年(1648)、お万の方の外護により飯高の大講堂を再建する。
19世 日豊 1600~1669(寛文9年) 能登七尾の出。京都妙顕寺で出家得度。
明暦元年(1655) 幕命により両山に普薫。飯高、妙顕寺16世からの転出。
〇明暦3年(1657) 江戸明暦の大火
● 万治2年(1659)、京・深草元政、池上に師日豊を訪う。
〇寛文5年(1665) 幕府 「寺社継目御朱印頂戴御触」を出す。
(寺領朱印の書き換えの際の証文提出。幕府から受ける寺領は供養である。)
池上在住13年。身延、谷中瑞輪寺とともに、不受不施の摘発・一掃に協力す。
■ 寛文6年(1666)、瑤林院、逝去。池上に葬らる。
20世 日通 1614~1679(延宝7年) 京都の出。京都妙伝寺で出家得度。
鷹峰檀林、山科檀林を経て、飯高檀林の化主(15世)となる。
寛文2年(1662)の頃、飯高の松和田谷に松和軒を築く。
寛文8年(1668)、両山普薫。飯高檀林化主からの転出。
寛文12年(1672)、身延30世となる。
■ この頃、飯高三谷(さんさく)鼎立。中台谷・城下谷(ねごやさく)・松和田谷
■ 寛文9年(1669) 幕府、不受不施派の寺請を禁止す。
*歴史上の出来事をメインに記述しましたので、4世以降、上人称を略させてもらいました。
●鎌倉・比企谷妙本寺と池上本門寺は、池上の創建当初より両山一首(主)制でした。
昭和16年(1941)宗教団体法の公布により、 両山一首制は廃され専任貫首制となった。
●池上本門寺 正式名 :「長栄山 大国院本門寺」
大国院の院号は、日朗上人の阿闍利号による。(大国阿闍利日朗)
●寛永不受論によって王法優先の原則は確立された。徳川幕府は宗教統制を強化し、仏法を完全に王法中に収めた。
●16世・日遠以後、池上本門寺は住職補任権を失う。身延の選定した人を幕府から公許を得て住職とした。身延から独立し、両山貫主の選定をできるようになったのは22世・日玄以後のことである。
●日樹復歴は昭和6年(1931)、三百遠忌を機に74世・酒井日慎上人の尽力による。
●「註法華経」「兄弟抄」を巡る貸借問題の解決は、昭和16年。これも74世・日慎上人の代。
参考図書 『池上本門寺史管見』 石川存静・編
『池上本門寺百年史』 新倉善之・著
追)
唐突に私見が入りますが二祖・日朗上人、三祖・日輪上人を、もっともっと顕彰していかないといけない、と思っています。
長興山 妙本寺
長栄山 大国院本門寺
開山は日蓮聖人ですが、実質は二祖・日朗上人からです。妙本寺、本門寺の両山の貫首(住職)は日朗上人が兼任しました。以後、両山一首(主)の制として昭和前期まで続きました。
〇鎌倉時代
文応元年(1260) 鎌倉 比企能本、法華堂を邸内に造る。(比企谷妙本寺の初め)
文永11年(1274) 池上 池上宗仲・宗長兄弟、池上の邸内に法華堂を造る。(一説)
建治2年(1276) 池上兄弟、邸内(或は山上)に一宇を建てる。(一説)
弘安5年(1282)9月 日蓮聖人、本門寺開堂供養。
10月13日 日蓮聖人、池上邸(現大坊本行寺)で入滅す。
正応元年(1288) 六老・日持、日浄の発願により宗祖像を造立し奉納する。(現存)
開祖 日蓮聖人 1222~1282 (貞応元年2月16日~弘安5年10月13日)
二祖 日朗上人 1241~1320 (寛元元年~元応2年1月21日) 下総能毛
三祖 日輪上人 1272~1359 (文永9年~正平14/延文4年4月4日) 松戸平賀
〇南北朝時代・足利時代
4世 日山 1338~1381(永徳元年) 武蔵池上(或は下総平賀)
延文4年(1359)に両山普薫。
この頃、本門寺寺領問題が起きる。日山の奔走で寺領安堵(確保)さる。
5世 日叡 1318~1400(応永7年) 身延(7世)より普山(兼職)。
諸事情により両山歴世に数えない見方もあった。
6世 日行 1387~1434(永享6年) 身延より普薫。俗姓・波木井氏。
7世 日寿 1431~1452(宝徳4年) 稚児貫主。鎌倉長尾氏(母・狩野氏)
嘉吉2年(1443)、日寿祖父狩野叡昌、鎌倉に卒。
〇応仁の乱(1467~1477)
8世 日調 1428~1501(文亀元年) 上総伊保(伊北)庄の出。俗姓・狩野氏
〇戦国時代
〇関東 北条早雲躍進の時代(後北条氏)
9世 日純 1482~1550(天文19年) 文亀元年(1501)、両山普薫。(身延日朝門弟)
〇関西 天文法華の乱(天文法難) 天文5年(1536)
10世 日陽 1496~1550(天文19年) 天文18年(1549)、両山普薫。
11世 日現 1496~1561(永禄4年) 備前岡山の出。著書「書置」(現師置文)
天文18年(1549)、大坊より両山普薫。備前法華の初め。
■ 日現卒後の二十年間、貫主空位の時代となる。(鎌倉の衰退に因)
■ 天正8年(1580)、飯高檀林の開設。
12世 日惺 1550~1598(慶長3年) 備前福岡の出。京都妙覚寺・日典系。
天正9年(1581)に両山普薫。在任18年。
天正15年 上田周防守室、仁王門の金剛王像を再興。(戦災で焼失)
● 日惺 関白二条昭実の猶子。紫衣の勅許をうける。
〇天正18年(1590)7月 小田原北条氏の滅亡。
〇天正18年(1590)8月1日(八朔) 徳川家康、江戸に入城。
天正18年 日惺、鎌倉より池上に移り、これより池上に専住する。
(日惺は、徳川家康と以前より親交があった。)
鎌倉妙本寺は、比企谷本行院(妙本寺内)が山務を代行するようになった。
■ 文禄2年(1593)徳川秀忠乳母・岡部局(正心院)、秀忠の病気平癒祈願。
(五重塔建立を発願する。)
玉沢妙法華寺の「註法華経」書写。(日惺滅後、貸借問題がおきた。)
〇江戸時代(徳川幕府)
13世 日尊 1558~1603 京都の出。俗姓・広橋家(藤原氏・日野家)。
慶長3年(1598)、両山普薫。六条本国寺系。飯高檀林の祖。
14世 日詔 1569~1617(元和3年) 備中山田の出。。(日尊門弟)
慶長8年(1603)、両山普薫。飯高、小西檀林化主(2代)より。
■ 慶長11年 加藤清正、本門寺祖師堂建立。(のち焼失、吉宗の代に再建)
(此経難持坂の石段寄進もこの頃か)
■ 慶長13年(1608) 本門寺・五重塔の建立。(徳川秀忠・岡部局の寄進)
15世 日友 1570~1619(元和5年) 上総武射の出。身延17世・日新門弟(受不論)
元和3年(1617)、両山普薫。飯高檀林化主より。身延・日遠の要請。
復歴 日樹 1574~1631(寛永8) 備中黒崎の出。不受不施論の学匠(日詔門弟)
元和5年(1619)、両山普薫。飯高檀林7世、中村檀林能化より。
■ 加賀前田利家側室・寿福院の帰依を受ける。
池上本堂の再建。
本阿弥光悦、三堂扁額を寄進する。
■ 寛永7年(1630) 江戸城で身池対論。幕府裁定で日樹歴代除歴さる。
16世 日遠(にちおん) 1572~1642(寛永19) 京都の出。飯高檀林化主。身延22世
本満寺・日重、日乾の学系(受不施論・泉南教学系)。大野・本遠寺の開創。
寛永7年(1630)、幕命により両山普薫。翌年、鎌倉に隠棲。
■ 徳川家康側室・養珠院お万の方の多大なる外護あり。
17世 日東 1581~1648(慶安元年)) 出生地未詳。(日遠門弟)
寛永8年(1631) 普山。在住18年。小西檀林・飯高檀林化主・藻原寺より。
■ 寛永9年(1632) 加藤忠広、池上本門寺で待命、改易となる。
■ 正保4年(1647) 紀州徳川頼宣室・瑤林院、梵鐘を寄進する。
18世 日耀 1599~1655(明暦元年) 上総武射の出。日友、日遠門弟。
慶安元年(1648)、普山。飯高より。
■ 慶安元年(1648)、お万の方の外護により飯高の大講堂を再建する。
19世 日豊 1600~1669(寛文9年) 能登七尾の出。京都妙顕寺で出家得度。
明暦元年(1655) 幕命により両山に普薫。飯高、妙顕寺16世からの転出。
〇明暦3年(1657) 江戸明暦の大火
● 万治2年(1659)、京・深草元政、池上に師日豊を訪う。
〇寛文5年(1665) 幕府 「寺社継目御朱印頂戴御触」を出す。
(寺領朱印の書き換えの際の証文提出。幕府から受ける寺領は供養である。)
池上在住13年。身延、谷中瑞輪寺とともに、不受不施の摘発・一掃に協力す。
■ 寛文6年(1666)、瑤林院、逝去。池上に葬らる。
20世 日通 1614~1679(延宝7年) 京都の出。京都妙伝寺で出家得度。
鷹峰檀林、山科檀林を経て、飯高檀林の化主(15世)となる。
寛文2年(1662)の頃、飯高の松和田谷に松和軒を築く。
寛文8年(1668)、両山普薫。飯高檀林化主からの転出。
寛文12年(1672)、身延30世となる。
■ この頃、飯高三谷(さんさく)鼎立。中台谷・城下谷(ねごやさく)・松和田谷
■ 寛文9年(1669) 幕府、不受不施派の寺請を禁止す。
*歴史上の出来事をメインに記述しましたので、4世以降、上人称を略させてもらいました。
●鎌倉・比企谷妙本寺と池上本門寺は、池上の創建当初より両山一首(主)制でした。
昭和16年(1941)宗教団体法の公布により、 両山一首制は廃され専任貫首制となった。
●池上本門寺 正式名 :「長栄山 大国院本門寺」
大国院の院号は、日朗上人の阿闍利号による。(大国阿闍利日朗)
●寛永不受論によって王法優先の原則は確立された。徳川幕府は宗教統制を強化し、仏法を完全に王法中に収めた。
●16世・日遠以後、池上本門寺は住職補任権を失う。身延の選定した人を幕府から公許を得て住職とした。身延から独立し、両山貫主の選定をできるようになったのは22世・日玄以後のことである。
●日樹復歴は昭和6年(1931)、三百遠忌を機に74世・酒井日慎上人の尽力による。
●「註法華経」「兄弟抄」を巡る貸借問題の解決は、昭和16年。これも74世・日慎上人の代。
参考図書 『池上本門寺史管見』 石川存静・編
『池上本門寺百年史』 新倉善之・著
追)
唐突に私見が入りますが二祖・日朗上人、三祖・日輪上人を、もっともっと顕彰していかないといけない、と思っています。