ロシアの初代駐日領事 ゴシケーヴィチの略年表
ヨシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチ
1814-1875.10.5
箱館駐在 1858年10月(安政5.9)から1865年4月(元治2)まで。
1814 ベラルーシ(白ロシア)ミンスクで司祭(ロシア正教会の神父)の子として生まれる。
1839 サンクトペテルブルグ神学校を卒業。
1840~1848 ロシア宣教師団の一員として北京に駐在。中国語・漢字を学ぶ。
ロシア外務省アジア局に入る。
1852~ エフィム・プチャーチン率いる日本派遣使節団に中国語(漢文)通訳として加わる。
1853(嘉永6) パルラダ号で来日。
1854(嘉永7・安政1) ディアナ号で再来日。
伊豆戸田村に滞在中、橘耕斎と知り合う。橘から日本語を学ぶ。
1855.2.7(安政1.12.21) 〇日露和親条約の締結。
1855(安政2) 帰国途中、樺太沖でイギリス軍艦に拿捕される。
(クリミア戦争で、英露は敵対関係にあった。)
戦争が終わるまでの9ヶ月間、艦内で抑留生活をおくる。
この間、橘とともに日露辞典「和露通言比考」を作成する。
1857 日露辞典『和露通言比考』 サンクトペテルブルグで出版。
1857(安政4.4) 〇アメリカ人ライス(米領事そして商人)、箱館上陸。浄玄寺に止宿。
1857.12.21 ゴルチャコフ外相から初代駐日領事に任命される。
1858 早春 サンクトペテルブルグを出発する。
1858.5.17 イルクーツク着。
1858.7.21 ニコラエフスク(アムール川河口)着。
(旅程 8,000Km !! 探検・冒険家でなく、外交官一行が)
1858.8.19(安政5.7.4) 〇プチャーチン、日露修好通商条約の締結。
(プチャーチンとゴシケーヴィチの連絡は。露海軍の船便による文書?)
1858. 9.17 2隻の軍艦に分乗して、ニコラエフスクを出発する。
ゴシケーヴィチ一行は家族と書記、海軍士官、医師夫妻、宣教師、そのほか
下男下女合わせて15人。(*1)
(ここからナジーモフ(海軍中尉・渉外担当)の日記、始まる。)(*2)
1858. 10.24(安政5.9.30) 箱館に駐日ロシア領事として着任。(44)
実行寺を仮領事館とする。同行の館員の一部は高龍寺を宿舎とする。
箱館奉行竹内保徳・村垣範正らと交流する。
1859. 7.1(安政6.6.2) 〇神奈川(のち横浜)・長崎・箱館、開港。
1859. 8(安政6.7) ①江戸に来訪する。天暁院(大中寺)に止宿。
東シベリア総督ムラビヨフ(アムールスキー伯爵)江戸に来航。
1859(安政6) イギリス領事ホジソン、箱館着任(仏領事兼任)。称名寺に止宿。
1860. 2(安政7.1) ②江戸に再訪する。赤羽接遇所に滞在。
*箱館への帰路、陸路東北地方を縦断する。(*3)
1860(万延1.9) 植物学者マキシモヴィチ、箱館着。(1年間、滞在。)
1861(文久1) 〇ポサードニク号(ビリリョフ)による対馬占領事件がおきる。
1861(文久1.2) ③ゴシケーヴィチ、横浜に上陸。東洋艦隊司令官リハチョフ同行。
赤羽接遇所で外国奉行の村垣や小栗忠順と交渉。
英国公使オールコックらの介入姿勢もあり、ロシア海軍、対馬を退去する。
1861(文久1.6.2) 箱館 ニコライ(カサートキン)(25)、領事館付司祭として来日。
1862.9.20(文久2閏8.9) ④将軍徳川家茂(17)に謁見する。
任務の疲れや駐在武官との対立もあり、外務省に離任願・本国帰還を求める。
外国奉行柴田剛中と横浜鎖港問題で交渉。
1864. 6(元治1) 帰国許可が出る。
1865. 2(元治2) 箱館領事館の火災焼失。
1865. 4(元治2) 後任(ビュッオフ)に領事館運営を託し帰国。
帰国後は海軍省から糾弾されるが、ゴルチャコフ外相はゴシケーヴィチを擁護。
日本人ロシア留学生の教育係を務める。
1867 退官。故郷ベラルーシに戻り、中国語・日本語の研究を行う。
『日本語の語源について』執筆。
1875 リトアニアの首都ビリニウスで死去(61)。
参考 『江戸の外国公使館』 港区立郷土資料館
ヨシフ・ゴシケーヴィチ‐Wikipedia
追加 HP 『ロシア領事館の函館開設とその活動 佐藤守男』(北大法学論集)
検索でたどり着いた。詳しい。
『海事集録』(ロシア海軍省の機関誌 1848~)をもとにした論文。
ここから(*1・2)を追加。
(*1) 領事(六等文官) ゴシケービィチ(家族同伴)
領事館付書記(十等文官) オバァーンデル
医師(七等文官) アーリブレヒト(アルブレヒトの表記もあり)(家族同伴)
修道司祭(ロシア正教) フィラレート
海軍渉外担当、海軍中尉 ナジーモフ
(*2) 『海事集録』掲載文。
(*3) 陸路帰還は条約の遊歩規定外であったが、領事からの申請に幕府・外国奉行らは
今回限りの特例として許可を出した。
1860 安政7.2.15(露暦2.24)~3.11
領事ゴシケーヴィチ、エリザヴェータ夫人、息子ウラジミール、医師アーリブレヒトの夫人、
下女の総勢5名。そして同行の役人等が30名程。
HP 『地域史研究はこだて』第19号掲載清水恵論文、より。
〇 橘 耕斎(ヤマトノフ) 1820(文政3)-1885(明治18.5.31)
〇 東シベリア総督 ムラビヨフ(アムールスキー伯爵) プチャーチンとの関係は?
1809.8.23(8.11)-1881.11.30(11.18)
〇 カール・ヨハン・マキシモヴィチ 1827-1891 ロシアの植物学者
〇 ポサードニク号 艦長 ビリリョフ(中尉のち大佐)
〇 東洋艦隊司令官 リハチョフ(大佐)
〇 領事館付司祭 ニコライ(カサートキン) 1836.8.1(露暦)-1912.2.16
〇 駐日領事(2代) ビュッオフ 1837-1904(在任1865-68、71 在東京)
ロシア領事の役割
ヨシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチ
1814-1875.10.5
箱館駐在 1858年10月(安政5.9)から1865年4月(元治2)まで。
1814 ベラルーシ(白ロシア)ミンスクで司祭(ロシア正教会の神父)の子として生まれる。
1839 サンクトペテルブルグ神学校を卒業。
1840~1848 ロシア宣教師団の一員として北京に駐在。中国語・漢字を学ぶ。
ロシア外務省アジア局に入る。
1852~ エフィム・プチャーチン率いる日本派遣使節団に中国語(漢文)通訳として加わる。
1853(嘉永6) パルラダ号で来日。
1854(嘉永7・安政1) ディアナ号で再来日。
伊豆戸田村に滞在中、橘耕斎と知り合う。橘から日本語を学ぶ。
1855.2.7(安政1.12.21) 〇日露和親条約の締結。
1855(安政2) 帰国途中、樺太沖でイギリス軍艦に拿捕される。
(クリミア戦争で、英露は敵対関係にあった。)
戦争が終わるまでの9ヶ月間、艦内で抑留生活をおくる。
この間、橘とともに日露辞典「和露通言比考」を作成する。
1857 日露辞典『和露通言比考』 サンクトペテルブルグで出版。
1857(安政4.4) 〇アメリカ人ライス(米領事そして商人)、箱館上陸。浄玄寺に止宿。
1857.12.21 ゴルチャコフ外相から初代駐日領事に任命される。
1858 早春 サンクトペテルブルグを出発する。
1858.5.17 イルクーツク着。
1858.7.21 ニコラエフスク(アムール川河口)着。
(旅程 8,000Km !! 探検・冒険家でなく、外交官一行が)
1858.8.19(安政5.7.4) 〇プチャーチン、日露修好通商条約の締結。
(プチャーチンとゴシケーヴィチの連絡は。露海軍の船便による文書?)
1858. 9.17 2隻の軍艦に分乗して、ニコラエフスクを出発する。
ゴシケーヴィチ一行は家族と書記、海軍士官、医師夫妻、宣教師、そのほか
下男下女合わせて15人。(*1)
(ここからナジーモフ(海軍中尉・渉外担当)の日記、始まる。)(*2)
1858. 10.24(安政5.9.30) 箱館に駐日ロシア領事として着任。(44)
実行寺を仮領事館とする。同行の館員の一部は高龍寺を宿舎とする。
箱館奉行竹内保徳・村垣範正らと交流する。
1859. 7.1(安政6.6.2) 〇神奈川(のち横浜)・長崎・箱館、開港。
1859. 8(安政6.7) ①江戸に来訪する。天暁院(大中寺)に止宿。
東シベリア総督ムラビヨフ(アムールスキー伯爵)江戸に来航。
1859(安政6) イギリス領事ホジソン、箱館着任(仏領事兼任)。称名寺に止宿。
1860. 2(安政7.1) ②江戸に再訪する。赤羽接遇所に滞在。
*箱館への帰路、陸路東北地方を縦断する。(*3)
1860(万延1.9) 植物学者マキシモヴィチ、箱館着。(1年間、滞在。)
1861(文久1) 〇ポサードニク号(ビリリョフ)による対馬占領事件がおきる。
1861(文久1.2) ③ゴシケーヴィチ、横浜に上陸。東洋艦隊司令官リハチョフ同行。
赤羽接遇所で外国奉行の村垣や小栗忠順と交渉。
英国公使オールコックらの介入姿勢もあり、ロシア海軍、対馬を退去する。
1861(文久1.6.2) 箱館 ニコライ(カサートキン)(25)、領事館付司祭として来日。
1862.9.20(文久2閏8.9) ④将軍徳川家茂(17)に謁見する。
任務の疲れや駐在武官との対立もあり、外務省に離任願・本国帰還を求める。
外国奉行柴田剛中と横浜鎖港問題で交渉。
1864. 6(元治1) 帰国許可が出る。
1865. 2(元治2) 箱館領事館の火災焼失。
1865. 4(元治2) 後任(ビュッオフ)に領事館運営を託し帰国。
帰国後は海軍省から糾弾されるが、ゴルチャコフ外相はゴシケーヴィチを擁護。
日本人ロシア留学生の教育係を務める。
1867 退官。故郷ベラルーシに戻り、中国語・日本語の研究を行う。
『日本語の語源について』執筆。
1875 リトアニアの首都ビリニウスで死去(61)。
参考 『江戸の外国公使館』 港区立郷土資料館
ヨシフ・ゴシケーヴィチ‐Wikipedia
追加 HP 『ロシア領事館の函館開設とその活動 佐藤守男』(北大法学論集)
検索でたどり着いた。詳しい。
『海事集録』(ロシア海軍省の機関誌 1848~)をもとにした論文。
ここから(*1・2)を追加。
(*1) 領事(六等文官) ゴシケービィチ(家族同伴)
領事館付書記(十等文官) オバァーンデル
医師(七等文官) アーリブレヒト(アルブレヒトの表記もあり)(家族同伴)
修道司祭(ロシア正教) フィラレート
海軍渉外担当、海軍中尉 ナジーモフ
(*2) 『海事集録』掲載文。
(*3) 陸路帰還は条約の遊歩規定外であったが、領事からの申請に幕府・外国奉行らは
今回限りの特例として許可を出した。
1860 安政7.2.15(露暦2.24)~3.11
領事ゴシケーヴィチ、エリザヴェータ夫人、息子ウラジミール、医師アーリブレヒトの夫人、
下女の総勢5名。そして同行の役人等が30名程。
HP 『地域史研究はこだて』第19号掲載清水恵論文、より。
〇 橘 耕斎(ヤマトノフ) 1820(文政3)-1885(明治18.5.31)
〇 東シベリア総督 ムラビヨフ(アムールスキー伯爵) プチャーチンとの関係は?
1809.8.23(8.11)-1881.11.30(11.18)
〇 カール・ヨハン・マキシモヴィチ 1827-1891 ロシアの植物学者
〇 ポサードニク号 艦長 ビリリョフ(中尉のち大佐)
〇 東洋艦隊司令官 リハチョフ(大佐)
〇 領事館付司祭 ニコライ(カサートキン) 1836.8.1(露暦)-1912.2.16
〇 駐日領事(2代) ビュッオフ 1837-1904(在任1865-68、71 在東京)
ロシア領事の役割