かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

ロシア 初代駐日領事 ゴシケーヴィチ

2010-08-26 | 箱館 幕末のロシア外交
ロシアの初代駐日領事 ゴシケーヴィチの略年表

ヨシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチ
1814-1875.10.5
箱館駐在 1858年10月(安政5.9)から1865年4月(元治2)まで。

1814 ベラルーシ(白ロシア)ミンスクで司祭(ロシア正教会の神父)の子として生まれる。
1839 サンクトペテルブルグ神学校を卒業。
1840~1848 ロシア宣教師団の一員として北京に駐在。中国語・漢字を学ぶ。
     ロシア外務省アジア局に入る。
1852~ エフィム・プチャーチン率いる日本派遣使節団に中国語(漢文)通訳として加わる。
1853(嘉永6) パルラダ号で来日。
1854(嘉永7・安政1) ディアナ号で再来日。
     伊豆戸田村に滞在中、橘耕斎と知り合う。橘から日本語を学ぶ。
1855.2.7(安政1.12.21) 〇日露和親条約の締結。
1855(安政2) 帰国途中、樺太沖でイギリス軍艦に拿捕される。
     (クリミア戦争で、英露は敵対関係にあった。)
     戦争が終わるまでの9ヶ月間、艦内で抑留生活をおくる。
     この間、橘とともに日露辞典「和露通言比考」を作成する。
1857 日露辞典『和露通言比考』 サンクトペテルブルグで出版。
1857(安政4.4) 〇アメリカ人ライス(米領事そして商人)、箱館上陸。浄玄寺に止宿。

1857.12.21 ゴルチャコフ外相から初代駐日領事に任命される。
1858 早春  サンクトペテルブルグを出発する。
1858.5.17  イルクーツク着。
1858.7.21  ニコラエフスク(アムール川河口)着。
          (旅程 8,000Km !! 探検・冒険家でなく、外交官一行が)
          1858.8.19(安政5.7.4) 〇プチャーチン、日露修好通商条約の締結。
          (プチャーチンとゴシケーヴィチの連絡は。露海軍の船便による文書?)
1858. 9.17  2隻の軍艦に分乗して、ニコラエフスクを出発する。
          ゴシケーヴィチ一行は家族と書記、海軍士官、医師夫妻、宣教師、そのほか
          下男下女合わせて15人。(*1)
          (ここからナジーモフ(海軍中尉・渉外担当)の日記、始まる。)(*2)
 
1858. 10.24(安政5.9.30) 箱館に駐日ロシア領事として着任。(44)
          実行寺を仮領事館とする。同行の館員の一部は高龍寺を宿舎とする。
          箱館奉行竹内保徳・村垣範正らと交流する。
1859. 7.1(安政6.6.2) 〇神奈川(のち横浜)・長崎・箱館、開港。
1859. 8(安政6.7) ①江戸に来訪する。天暁院(大中寺)に止宿。
             東シベリア総督ムラビヨフ(アムールスキー伯爵)江戸に来航。
1859(安政6) イギリス領事ホジソン、箱館着任(仏領事兼任)。称名寺に止宿。
1860. 2(安政7.1) ②江戸に再訪する。赤羽接遇所に滞在。
           *箱館への帰路、陸路東北地方を縦断する。(*3)
1860(万延1.9) 植物学者マキシモヴィチ、箱館着。(1年間、滞在。)
1861(文久1) 〇ポサードニク号(ビリリョフ)による対馬占領事件がおきる。
1861(文久1.2) ③ゴシケーヴィチ、横浜に上陸。東洋艦隊司令官リハチョフ同行。
         赤羽接遇所で外国奉行の村垣や小栗忠順と交渉。
         英国公使オールコックらの介入姿勢もあり、ロシア海軍、対馬を退去する。
1861(文久1.6.2) 箱館 ニコライ(カサートキン)(25)、領事館付司祭として来日。
1862.9.20(文久2閏8.9) ④将軍徳川家茂(17)に謁見する。
         任務の疲れや駐在武官との対立もあり、外務省に離任願・本国帰還を求める。
         外国奉行柴田剛中と横浜鎖港問題で交渉。
1864. 6(元治1) 帰国許可が出る。
1865. 2(元治2) 箱館領事館の火災焼失。
1865. 4(元治2) 後任(ビュッオフ)に領事館運営を託し帰国。

         帰国後は海軍省から糾弾されるが、ゴルチャコフ外相はゴシケーヴィチを擁護。
         日本人ロシア留学生の教育係を務める。
1867      退官。故郷ベラルーシに戻り、中国語・日本語の研究を行う。
         『日本語の語源について』執筆。
1875      リトアニアの首都ビリニウスで死去(61)。

 
参考 『江戸の外国公使館』 港区立郷土資料館
    ヨシフ・ゴシケーヴィチ‐Wikipedia
追加 HP 『ロシア領事館の函館開設とその活動 佐藤守男』(北大法学論集)
    検索でたどり着いた。詳しい。
    『海事集録』(ロシア海軍省の機関誌 1848~)をもとにした論文。
    ここから(*1・2)を追加。

(*1) 領事(六等文官) ゴシケービィチ(家族同伴)
    領事館付書記(十等文官) オバァーンデル
    医師(七等文官) アーリブレヒト(アルブレヒトの表記もあり)(家族同伴)
    修道司祭(ロシア正教) フィラレート
    海軍渉外担当、海軍中尉 ナジーモフ
(*2) 『海事集録』掲載文。
(*3) 陸路帰還は条約の遊歩規定外であったが、領事からの申請に幕府・外国奉行らは
    今回限りの特例として許可を出した。
    1860 安政7.2.15(露暦2.24)~3.11
    領事ゴシケーヴィチ、エリザヴェータ夫人、息子ウラジミール、医師アーリブレヒトの夫人、
    下女の総勢5名。そして同行の役人等が30名程。
      HP 『地域史研究はこだて』第19号掲載清水恵論文、より。


〇 橘 耕斎(ヤマトノフ) 1820(文政3)-1885(明治18.5.31)
〇 東シベリア総督 ムラビヨフ(アムールスキー伯爵) プチャーチンとの関係は?
    1809.8.23(8.11)-1881.11.30(11.18)
〇 カール・ヨハン・マキシモヴィチ 1827-1891  ロシアの植物学者
〇 ポサードニク号 艦長 ビリリョフ(中尉のち大佐)
〇 東洋艦隊司令官 リハチョフ(大佐)
〇 領事館付司祭 ニコライ(カサートキン) 1836.8.1(露暦)-1912.2.16
〇 駐日領事(2代) ビュッオフ 1837-1904(在任1865-68、71 在東京)


ロシア領事の役割



ロシア 遣日全権使節 エフィム・プチャーチン

2010-08-20 | 箱館 幕末のロシア外交
ロシア エフィム・プチャーチンの略年表

1803.11.8(11.20)-1883.10.16(10.28)  ()はグレゴリオ暦

1803 ロシア、サンクトペテルブルグで生まれる。
1822 海軍士官学校卒業。
1842 海軍少将となる。ペルシャとの国境画定・通商条約交渉での功績。
1842 〇イギリス アヘン戦争の結果、清と南京条約を結ぶ。
1843 皇帝ニコライ1世より、清および日本との交渉担当を命じられる。
     トルコ方面への進出が優先され、極東派遣は実現せず。
1852 海軍中将・侍従武官長に栄進する。
1852 日本との条約締結のために遣日全権使節に任ぜられる。
     ・ゴシケーヴィチ、中国語(漢文)通訳として加わる。

1852.9 ペテルブルクを出発する。
      イギリスでボストーク号を購入。ポーツマス港で旗艦パルラダ号と合流。
      喜望峰、セイロン、フィリピンを経由して父島に着く。
      1853.7.8(嘉永6.6.3) 〇ペリー、浦賀へ来航。
1853.8.22(嘉永6.7.18) 長崎に来航。
      長崎奉行・大沢安宅に国書を渡し、江戸からの幕府全権の到着を待つ。
1853.11.23 長崎を離れ、上海に向かう。
      クリミア戦争に参戦したイギリス軍の艦隊が極東に向かっているとの情報で。
      1853.7(1853.10)- 〇バルカンでの戦闘 ロシアとオスマン帝国。
      1854.3.28- 〇クリミアでの戦争 イギリス・フランス・オスマン帝国とロシア。
1854.1.3(嘉永6.12.5) 再び長崎に戻る。
      幕府全権・川路聖謨(かわじ・としあきら)、筒井政憲と会談。
1854.2.5 マニラへ向かう。船の修理および補給。
      1854.2.13(嘉永7.1.16) 〇ペリー、浦賀へ再来航。
      1854.3.31(嘉永7.3.3) 〇幕府 日米和親条約を締結。
1854.9  ロシア沿海州インペラトール湾で、パルラダ号からディアナ号に乗り換える。
       旗艦以外の3隻の船は、イギリス艦隊北上に備え、沿海州に残る。
       プチャーチン、ディアナ号単艦で日本に向かう。
1854.10.21(嘉永7.8.30) 箱館に入港。
1854. 11 大坂・天保山沖に到着。
1854.12.3(嘉永7.10.14) 下田に入港。
       幕府 川路聖謨、筒井政憲と交渉。
1854.12.23(安政1.11.4) 安政の大地震(安政東海地震)が発生。
       ディアナ号、津波によって大破。乗組員にも死傷者が出る。交渉中断する。
1854.12 ディアナ号、伊豆の戸田村(へだむら)に修理に向かう途中で浸水、沈没する。
       日本の船大工による代船の建造を開始する。
1855.1.1(安政1.11.13) プチャーチン、外交交渉の再開。
1855.2.7(安政1.12.21) 日露和親条約の締結
1855.3  アメリカ船を雇い、部下159名、ペトロパブロフスク・カムチャツキーに先発。
1855.4.26(安政2.3.10) 代船の完成。プチャーチン、「ヘダ号」(60人乗り)と命名する。
1855.5.8(安政2.3.22) プチャーチン一行、ペトロパブロフスクに向けて出航する。
1855.5.21 ペトロパブロフスク入港。(ロシア軍防衛隊は退却していた)
1855.6.20 ニコラエフスク着。同地から陸路を進む。
1855.7   残りの乗組員(300名程)、ドイツ船でロシア領をめざす。
        途中、樺太沖でイギリス軍艦に拿捕され捕虜となる。
        ・ゴシケーヴィチも。クリミア戦争が終わるまでの9ヶ月間、捕虜生活。
1855.11  プチャーチン一行、ペテルブルグに帰還。
      1856.3.30 〇パリ条約の成立により、クリミア戦争終結
      1856.10   〇清 アロー号事件起きる。

1857.9.21(安政4.8.4) プチャーチン、軍艦アメリカ号で再度長崎に来航。
         水野忠徳らと交渉する。
1857.10.27(安政4.9.10) 日露追加条約を締結。
         当時の清 アロー戦争の勃発で、英仏連合軍が広州、天津を占領していた。
         ロシアは調停の名目で介入する。
1858.6.13 天津で、清と天津条約を締結。
1858.7.29(安政5.6.19) 〇幕府 日米修好通商条約を締結。
1858.7.30(安政5.6.20) 神奈川に入港。
1858.8.12(安政5.7.4) 外国使節の宿館、芝愛宕下の真福寺に入る。
                 同所にて幕府側と交渉を行う。
1858.8.19(安政5.7.11) 日露修好通商条約を締結する。
1858.8.20(安政5.7.12) 江戸城で将軍家世子・徳川慶福(家茂)に謁見する。
1858      ロシアに帰国。
1858.10.24(安政5.9) ・初代ロシア領事ゴシケーヴィチ一行、箱館着任。
1859.7.1(安政6.6.2) 〇神奈川(のち横浜)・長崎・箱館、開港。
 
1859 伯爵に叙する。海軍大将・元帥に栄進する。
1861 文部大臣(国民啓蒙大臣)に任命される。
1881(明治14) 日本政府から勲一等旭日章が贈られる。
1883 80歳で死去。

1887(明治20) 孫娘のオルガ・プチャーチナ伯爵が戸田村を訪問する。
           プチャーチンの遺言により、当時の村人の好意に感謝して100ルーブルの
           寄付をする。
2008(平成20) 日露修好150年を祝う。


参考 エフィム・プチャーチン‐Wikipedia
    ヨシフ・ゴシケーヴィチ‐Wikipedia
    クリミア戦争‐Wikipedia
    『見る・読む・調べる 江戸時代年表』 小学館
    『江戸の外国公使館』 港区立郷土資料館


かぶとんの注目ポイント
普通は、和親条約、修好通商条約の中味なのだが・・・
〇海軍軍人としてのプチャーチン、生涯航行距離を知りたい。
〇プチャーチンの寄港先は何カ国、もしくは何十カ国 ?

〇世界初の、世界一周達成者は ?
〇日本人初の、世界一周達成者は ?
〇ついでに、世界一周をしようと思って、実際に世界一周をした初の日本人は ?


ふり返り。
〇もっと、当時の極東アジア(情勢)の基礎知識は必須でないの。