かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

紀州徳川家墓所 大田区指定史跡

2018-01-24 | 池上本門寺の歴史
   大田区文化財
   紀伊徳川家墓所
 この墓所は、養珠院お万の方[承応二年(1653)没]、および瑤林院[寛文六年(1666)没]をはじめ、主として江戸藩邸で没した藩公の内室(令夫人)を埋葬したものである。
 墓域の規模、構築の優美さなど、幕府直系大名の墓所としての威容をを示している。
 お万の方は、徳川家康の側室で、紀伊大納言頼宣(よりのぶ)、水戸中納言頼房(よりふさ)の生母である。その薫化により日蓮宗に帰依した頼宣は、法華経を信奉することが篤かった加藤清正の息女の瑤林院を妻として以来、池上本門寺との関係がより深いものとなった。
   昭和五十年三月十九日指定  大田区教育委員会



◎紀伊徳川家の墓所 8基 <大田区指定史跡>         

①松寿院 宝篋印塔  
  頼宣の息女・松姫の供養塔。光貞、芳心院の妹。延宝6年(1678)没
  「松寿院法栄日経大姉」 松平(鷹司)信平室。 寛永8年(1631)9月23日生。
②真空院 宝篋印塔
  頼宣の子・修理。紀伊二代藩主光貞の弟。寛永13年(1636)没 4歳

③養珠院 宝塔  
  徳川家康側室お万の方。蔭山殿。頼宣と水戸の頼房の生母。
  「養珠院妙紹日心大姉」承応二癸巳暦八月二十一日 承応2年(1653)没 74歳(77歳)
  お万の方の本墓は山梨県大野の本遠寺(ほんのんじ)にある。
  紀州・養珠寺、水戸・蓮華寺(のち久昌寺)、玉沢・妙法華寺 他多数。

④妙操院 一重塔  
  十一代将軍家斉の側室・お登勢の方。
  「妙操院殿円譽性日良仁大姉」  天保3年(1832) 没
  六男斉順(のち紀伊十一代)、峰姫(嶺寿院・水戸八代徳川斉脩正室)の生母。
 
⑤天真院 宝塔  
  二代光貞の正室(簾中)。伏見宮貞清親王の姫・安宮照子。
  「天眞院殿妙仁日雅大姉(尊位)」両山23世日潤花押 1625~1707 (宝永4年)没 83歳

⑥瑶林院 宝塔  
  頼宣の正室。加藤清正息女・八十姫。生年:慶長6年(1601)
  「瑶林院淨秀日芳大姉」 寛文六丙午年正月二十四日 没年:寛文6年(1666) (66)
  梵鐘、妙見菩薩像の寄進。
  墓所 和歌山・法恩寺(旧要行寺)

⑦霊岳院 宝塔  
  光貞の三女、吉宗の姉・育姫(のりひめ)。出羽久保田藩佐竹義苗室。
  「霊岳院殿日觀淨境大姉」 日玄花押 1675~1693 (元禄6年) (19)

⑧寛徳院 宝塔  
  八代将軍吉宗の簾中。伏見宮貞致親王の姫・真宮理子(さきのみやまさこ)
  「寛徳院殿玄眞日中大姉尊靈」(文字剥落)  宝永7年(1710) 没

 [塔の並びは右から左へ○番号の順]


  *紀伊徳川家(紀伊・伊勢55万5千石)付家老安藤氏は田辺、水野氏は新宮
  *瑶林院八十姫 あま姫説は誤伝。

 ・松平信平 1636~1689 (寛永13~元禄2年)
  鷹司信房の四男。(鷹司家は五摂家の一つ) 鷹司松平家の祖。(紀州徳川家縁者)
  孫延清の代に大名(上野多胡・吉井藩)となる。






 1月24日は、瑤林院八十姫のご命日(三百五十三回忌)です。合掌


奥絵師・江戸狩野派の成立 探幽三兄弟のおさらい

2014-03-06 | 池上本門寺の歴史

狩野探幽(かのう・たんゆう) 探幽守信。玄徳院殿前法眼守信日道。
1602~1674 (慶長7~延宝2年) 京都生まれ。狩野孝信の長男。
徳川幕府御用絵師。鍛冶橋狩野家祖。
今に残る探幽の障壁画・屏風絵の大半は、重要文化財・重要美術品である。

狩野尚信(かのう・なおのぶ) 主馬尚信。圓心院實諦日徳。
1607~1650 (慶長12~慶安3年) 京都生まれ。孝信の次男。
竹川町に屋敷を拝領。木挽町狩野家祖。子に狩野常信。
 重要文化財「松図襖・壁貼付」寛永3年(1626)
 元二条城二の丸御殿・黒書院三の間のもの。(尚信20歳)
 (この時探幽は大広間の障壁画を担当。)

狩野安信(かのう・やすのぶ) 永眞安信。長源院殿法眼永眞。
1614~1685 (慶長18~貞享2年) 孝信の三男。
中橋に屋敷を拝領。中橋狩野家祖(狩野家宗家)。
狩野宗家の狩野貞信(狩野光信の長男)に養子として入り惣領家を嗣いだ。

狩野探幽・尚信・安信の三兄弟は狩野永徳の孫にあたる。
この時期、活動の拠点を京都から江戸に移し、徳川幕府の御用を勤めた。


墓所 池上本門寺
狩野探幽(守信) 多宝塔に向かって左手前。瓢箪(ひょうたん)墓。
狩野尚信  多宝塔に向かって右側。
狩野安信  多宝塔に向かって右側。
狩野常信(木挽町2代) 五重塔の隣(北西側)
 


〇板橋区立美術館
「江戸文化シリーズNo.29 狩野3兄弟 ~狩野探幽・尚信・安信~」
開催中 2014年3月30日まで
*ギャラリートークで学芸員・佐々木英理子さんから各絵の解説がありました。初々しい佐々木さん、着実に狩野派絵画の専門家としてのキャリアを積んでいる、と感じました。







池・玉

2014-01-05 | 池上本門寺の歴史

 池とは池上本門寺のことであり、玉とは玉澤妙法華寺のことである。その慶びとは、兩山の間に蟠る、三百數十年來の懸案が、一擧に解決したことである。
 玉澤に在るべき、註法華經 (宗祖より開山日昭聖人に御遺品として御與へになったもの) の一半が池上に、池上に在るべき兄弟鈔 (宗祖より池上本門寺開基檀越池上宗仲公兄弟に御與へになった御書) が玉澤にあることの不可解が氷解したのである。
 遡れば文祿年中の頃池上第十二代佛乘院日惺上人の弟子、聖芸院日苞上人は、玉澤第十代傳燈院日南上人 (上杉管領憲政の子) の付弟となられて、五十歳にして第十四代玉澤貫主となられた。時に惺師より、玉澤寶物の拜閲を乞はれて、之に應じたのが事の起こりで、註經の三、五、七、八及び結經の五巻が池上に止まり、兄弟鈔が玉澤に蔵され、て今日に至った。そして伊豆下狩野村を流れる大見川の日苞ヶ淵は、永遠に事の經緯を語る悲しき史跡となったのである。然るに偶々今回池上宗仲公の後裔池上幸健氏が、兩山の間に立ちて斡旋功を奏し、兩山當局も寶物の交換を快諾し、去る昭和十六年十月二十三日池上本門寺祖師堂に於いて、酒井管長猊下導師の下に嚴粛荘重なる交換の法要が營まれ、その手續き完了するに至ったのである。誠に宗門の慶事であると謂うべきである。

  胸像「池上家三十代 池上幸健氏」 碑文



読書 『養珠院 萬の方』(養珠院 お万の方)

2013-07-26 | 池上本門寺の歴史
『養珠院 萬の方』(養珠院 お万の方) 読了しました。
玉澤妙法華寺からみた、養珠院 お万さんの本です。
お万さんが「法華篤信の人」とは前にも書きましたが、法華経・法華信徒・日蓮宗檀越として、とても大きな存在の女性であったと、あらためて思ったしだいです。

「是の經を讀み持つ者は 人々が仰ぎ見んと樂うことあたかも賢聖を慕うようである」 (法華経 安楽行品)
養珠院 お万の方は、玉澤をはじめとして身延、大野、七面山、池上、貞松、加殿、和歌山、水戸、小湊、比企谷等々、各地に祀られています。


『養珠院 萬の方』小池政恩著
 発行所・本山妙法華寺 昭和30年(1955)8月21日発行  立正大学図書館・蔵書
著者の小池政恩さんとは、玉澤妙法華寺の第61代貫首・小池政恩上人(1899~1963)
衆議院議員(昭和21年・1946) 社会福祉法人・静岡恵明学園理事長でもあった。


玉澤 玉澤妙法華寺
身延 身延山久遠寺
大野 大野本遠寺  お万さまの寺
七面山 身延七面山・七面本宮
池上 長栄山池上本門寺
貞松 静岡・貞松蓮永寺
加殿 伊豆・加殿妙国寺
和歌山 和歌山蓮心寺
水戸 水戸照長山本法寺
小湊 小湊誕生寺
比企谷 鎌倉・比企谷妙本寺


お万の方の呼び名
徳川お万の方、お万さま、蔭山どの、お万夫人、蓮華院、養珠院、養珠夫人養珠太夫人、養珠院尼公、紀陽公母君、南龍公母君
養珠院という名(法号)は没後からで、もともとは「蓮華院」(さま)と呼ばれていた。
字御万 法号 蓮華院妙紹日心 (生存中の法号・逆修戒名)




池上本門寺歴代貫首(住職) 3 近・現代

2013-03-10 | 池上本門寺の歴史
明治期以降の池上本門寺、歴代貫首

65世 文明院 新居日薩上人
66世 本雄院 鶏渓(見雄)日舜上人
67世 本良院 河田日因上人
68世 妙地院 久保田(戒静)日亀上人
69世 加歴 文静院 守本(文静)日与上人
70世 慈秀院 藤原(玄真)日迦上人
71世 慈観院 磯野(宣了)日筵上人
72世 加歴 大綱院 黒沢(円静)日明上人
73世 堯惇院 脇田(堯惇)日毅上人
74世 謙光院 酒井(恵快)日慎上人
75世 境妙院 増田(海円)日光上人
76世 加歴 竜寿院 松野(顕佑)日量上人
77世 観是院 石川(謙静)日教上人
78世 加歴 遠光院 田中(謙周)日暉上人
79世 慈光院 伊藤(海聞)日定上人
80世 文妙院 金子(弁浄)日威上人
81世 本隆院 田中(本隆)日淳上人
82世 現薫 酒井日慈上人

池上歴世 略歴
65世 新居日薩上人
    1830~1888年(天保1~明治21年) 上野国桐生の出身。
    9歳の時、大車院日軌上人(秩父妙蓮寺住職のち池上63世加歴)について得度。
    飯高檀林に学ぶ。のち金沢・充洽園で優陀那院日輝和上から宗学を学ぶ。
    充洽園を去った後、江戸駒込蓮久寺住職となる。
    明治維新後は、宗教院(のち大教院)を拠点として、宗門子弟の育成を図る。
    明治7年(1874)、身延久遠寺73世。日蓮宗初代管長に就任。(45)
    ■ 明治9年、宗名「日蓮宗」 公許となる。
    明治19年(1886)、池上本門寺65世を継ぐ。(57)
    明治21年(1888)8月29日、志半ば池上(永寿院)にて遷化す。(世寿59歳)

66世 鶏渓日舜上人
    1831~1901年 (天保2~明治34年) 能登の出。祈祷修法の大家。
    能登本住寺で出家・得度。小石川・白山大乗寺、水戸久昌寺住職。
    水戸系白山法類(水戸久昌寺・水戸三昧堂檀林)
    明治17年、上野の彰義隊戦死者供養碑の建立。(小川興郷(椙太)の要請)
    [明治21年、新居日薩上人示寂後、宗門紛争が激化。池上後薫問題起きる。]
    池上進薫は明治24年(1891)頃 (~明治32年(1899))
    懸案の官林払下げ問題を解決し、山内諸堂の整備に努める。
    (浄財勧募のため、浅草の土冨店長遠寺で池上祖師像の出開帳を行う。)
    第12代日蓮宗管長に就任(明治30・1897)。
    [この頃、池上本門寺の寺観一新す。御会式・万灯講中、盛大になる。]
    明治32年、白山大乗寺に退隠。34年、同寺で遷化す。

67世 河田日因上人
    1828~1899年 (文政11~明治32年) 京都・竹野の出。
    堺妙国寺・日任上人に師事する。元治元年、池上の触頭・芝朗惺寺住職。
    明治3年、堺妙国寺住職。同4年、中山法華経寺(輪番)貫首となる。
    明治7年、中山法華経寺に三山輪番制を廃止し、同9年、退任す。
    明治21年の宗門紛争では同盟本山側。宗内和平・調停和解に奔走した。
    明治32(1899)年、堺妙国寺から池上本門寺67世へ。
    ほどなく山内中道院に退蔵。

68世 久保田(戒静)日亀上人
    1841~1911年 (天保12~明治44年) 静岡県清水の出。
    清水妙慶寺で得度。師範は本山村松海長寺日貫上人。
    西谷檀林、飯高檀林に学ぶ。
    駒込蓮久寺の新居日薩上人の講筵に参学。池上南谷檀林に学ぶ。
    日薩上人に随い池上・妙教院(現、法養寺)に止宿し、後進の指導に当たる。
    明治5年、小教院での僧侶教育、大教院にも出仕して日薩上人を助ける。
    京都本満寺、真間弘法寺、中山法華経寺貫主として瑞世。
    [明治21年、池上後薫問題、宗門紛争の渦中の人となる。]
    明治32年(1899)、池上本門寺68世に進薫。
    第15代日蓮宗管長(明治38年・1905)
    ■ 明治37年(1904)、日露開戦。

69世 加歴 守本(文静)日与上人
    1854~1909年 (安政1~明治42年) 東京・牛込
    日軌上人に就いて仏門に入る。日軌上人の弟子、日薩上人に師事し得度。
    池上南谷檀林に学ぶ。

70世 藤原(玄真)日迦上人
    1837~1916年 (天保8~大正5年) 大阪・大阿町
    栃木県壬生町・上田寺の日協上人(京都東山檀林の能化職)について得度。
    飯高に学ぶ。浅草・土富店長遠寺金子日視上人に師事。池上土富店法類。
    飯高檀林玄能。比企谷本行院に転任。妙本寺司務職。
    明治25(1892)年、片瀬龍口寺4世。五重塔勧募・建立(明治43)。
    明治44(1911)年、日亀上人の後をうけ池上本門寺70世へ。
    大正5(1916)年、第20代日蓮宗管長。同年、遷化された。
    [本門寺財政立直しに明け暮れした困難の時代。]

71世 磯野(宣了)日筵上人
    1853~1926年 (嘉永6~大正15年) 千葉県夷隅郡
    同郷の浅草善立寺・日運上人(のち池上本門寺60世)について得度。
    池上南谷檀林で学ぶ。池上樹下庵法類(後の芳師法類)。新居日薩上人に師事
    芝二本榎・日蓮宗小教院で学ぶ。のち僧侶教育の第一線に立つ。
    本山村松海長寺、浅草善立寺住職。
    大正5(1916)年、日迦上人の後をうけ池上本門寺貫主となる。(在山10年)
    大正11年(1922)、第23代日蓮宗管長。(大正14年まで)
    [本門寺の財政を立直した前会計執事・新倉海存師の功績を称う。]
    [本山、禁酒の方針から、一部解禁節酒の方針となる。]
    ■ 大正11(1922)年、池上電軌鉄道が蒲田・池上間の営業開始する。
    ■ 大正11(1922)年、日蓮聖人に立正大師の謚号奉載。

72世 加歴 黒沢(円静)日明上人
    1850~1919年 (嘉永3~大正8年) 群馬県富岡
    本山片瀬龍口寺貫主(5世)。明治期、池上本門寺山務司役の中心的存在。
    大正8年、加歴72世。

73世 脇田(堯惇)日毅上人
    1860~1928年 (万延1~昭和3年) 旧姓・菊地氏(幕臣)
    明治7年、大教院・新居日薩に師事、門弟となる。(神楽坂法類)
    明治17年、身延山法主・吉川日鑑上人のもとへ行く。
    明治21年、本山愛依智妙純寺へ瑞世(29)。
    同年の宗門紛争では、為宗会側につく。
    明治27年(1894)、日清戦争。従軍布教師として朝鮮に渡る。
    明治32年(1899)、池上本門寺顧問に就任す。
    明治34年頃、日蓮宗大学林(後の立正大学)の設立委員長となる。
    明治37年(1904)、日清戦争。従軍布教師として朝鮮、旅順に渡る。
    大正13年(1924)、「充洽園全集」の刊行。
    大正15年(1926)、池上本門寺へ瑞世。
    在山一年余、昭和3年、池上で遷化す。異名、暴風僧正。(田中智学・談)

74世 酒井(恵快)日慎上人
    1855~1944年 (安政2~昭和19年) 千葉県夷隅郡勝浦在
    幼くして飯高檀林に貰われ飯高玄能・大楠妙勝寺の市川日輝上人に養育さる
    7歳で剃髪得度。のち飯高檀林に学呂として学ぶ。(田中智学と同窓)
    大楠妙勝寺・松野長勝寺住職。巡錫中の池上62世・小林日昇上人に見出さる
    [明治14年、宗祖六百遠忌]
    明治18、19年頃、池上64世・中洲日振上人に請われ本門寺執事となる。
    明治38年、芝朗惺寺、浅草矢先実相寺を経て、真間弘法寺へ瑞世。
    ■ 大正12年9月1日、関東大震災。
    大正15年、日蓮宗管長(25代)に就任(72)する(~昭和7年。2期)。大僧正。
    昭和3年(1928)、池上本門寺へ瑞世(74世)。(74)
    [昭和6年(1931)、宗祖六百五十遠忌]
    昭和16年、日蓮宗管長(31代)に就任する。(3度目)
    昭和19年(1944)7月8日、遷化す。(世寿90歳)在住16年。管長現職。
    あだ名 “およそ天下”上人。
     
75世 増田(海円)日光上人
    1872~1952年 (明治5~昭和27年) 愛知県一宮市
    日慎上人の付弟。片瀬竜口寺(7世)、真間弘法寺(71世)に瑞世。
    日蓮宗宗務総監、宗会議長を歴任す。
    昭和19年(1944)7月、池上へ瑞世(75世)。(~昭和27年)
    ■ 昭和20年(1945)4月15日、京浜地区大空襲。
      池上本門寺の主要建造物、焼失。
    ■ 昭和20年8月15日、太平洋戦争終結。
    昭和23年、仮祖師堂の落成。(小樽観音寺本堂の移築)
    昭和27年(1952)12月15日、池上にて遷化す。(世寿81歳)

76世 加歴 松野(顕佑)日量上人
    1875~1952年 (明治8~昭和27年) 静岡
    池上大坊本行寺にて得度。
    明治33年、布教のため北海道に渡る。
    明治43年、獅子王会の創立。
    大正・昭和前期に、池上学林教頭、池上監督・執事長を歴任する。
    昭和8年、大坊本行寺44世。東京府布教師会長、池上法類会議長歴任。
    昭和19年、池上加歴76世に推挙さる。

77世 石川(謙静)日教上人
    1873~1957年 (明治6~昭和32年) 静岡市沓谷(駿州貞松)
    江戸川・篠崎妙勝寺にて得度。
    明治38年、池上・照栄院に瑞世。翌年、中道院住職兼任。
    宗会議員、立正大学常務理事、池上本門寺の執事・執事長等、就任。
    昭和18年、村松海長寺64世へ。
    昭和28年、池上(77世)へ瑞世。(81)
    昭和29年、北陸地方巡教勧財。次いで東北巡教。
    昭和30年11月、復歴日樹上人の墓所参拝(信州飯田)。歴代貫首として初
    昭和32年、池上で遷化す。(世寿85歳)

78世 加歴 田中(謙周)日暉上人
    1886~1967年 (明治19~昭和42年) 新潟、埼玉忍
    行田蓮華寺で仏門に入る。
    昭和18年(1943)、片瀬竜口寺(9世)に瑞世。
    昭和28年(1953)、池上本門寺復興壱百万人会常任理事長就任。復興に尽力。
    昭和32年、池上本門寺代務住職。(在山一年余)
    昭和42年、竜口寺で遷化す。(世寿82歳) 本門寺参与、池上法類の長老。

79世 伊藤(海聞)日定上人
    1892~1964年 (明治25~昭和39年) 山梨・南巨摩
    11歳、仏門に入る(手打沢妙光寺)。身延山小檀林に学ぶ。説教家を志す。
    祖山学院の頃より身延山80世小泉日慈上人に随身する。
    大正5年、駒込の天台宗大学へ留学す。在学中に手打沢妙光寺住職となる。
    大正10年(1921)日蓮聖人生誕七百年。身延で布教部員として常住奉仕す。
    真間山弘法寺・酒井日慎上人の付弟となる。千葉・松野長勝寺に転住す。
    勝浦「浜五十座」で説法・説教をし、説教師としての実績をのこす。
    大正12~13年、映画(活動写真)の弁士として弁舌布教練磨す。
    昭和3年、日蓮宗宗会議員。昭和7年、渡満。映画の弁士として布教活動す。
    昭和前期、池上本門寺山務司役(執事)を歴任す。
    昭和19年、神楽坂善国寺へ転住す。池上本門寺執事長となる。
    昭和28年、村松海長寺へ普山。本門寺参与。
    昭和33年、池上本門寺(79世)へ瑞世。

80世 金子(弁浄)日威上人
    1906~1987年 (明治39~昭和62年) 号・文妙院
    文京区西片の日本郷興善寺・金子厚山師の長男として同寺で出生。
    明治43年、厚山師の池上永寿院27世普山に伴い、池上に移住する。(5歳)
    大正2年、池上尋常小学校入学。大正8年、慈父の許で得度剃髪。
    中山法華経寺・神保弁静上人に師事し徒弟となる。
    昭和3年、立正大学卒業(国・漢の教師資格取得)。卒業してすぐ軍隊入営。
    昭和10年、池上永寿院28世として普山。(金子日如)
    太平洋戦争に応召さる。ビルマ他各地を転戦。終戦で昭和21年7月に帰還。
    戦後、教職につき、本門寺執事長、宗務院各職にも就き、宗政に関わる。
    昭和32年(1957)、比企谷妙本寺76世として普山する。池上本門寺参与。
    同じ頃、立正大学(石橋湛山学長)・高校・中学の経営にも関わる。
    昭和38年、宗務総長に就任す。
    昭和39年、池上本門寺80世に瑞世。
    [昭和44年、池上奉賛会の発足]
    [昭和44年11月、日朗上人六百五十遠忌]
    [昭和46年(1971)、日蓮聖人生誕七百五十年]
    昭和47年、日蓮宗管長(42代)就任。昭和55年、管長再任(44代)。
    [昭和56年(1981)、宗祖七百遠忌]
    昭和57年、全日本仏教会会長(第15代)に就任。

81世 田中(本隆)日淳上人
    1914~2010年 (大正3~平成22年) 北海道乙部町生まれ。
    昭和4年、上京。日教上人(池上・照栄院、池上本門寺77世)に師事。。
    昭和15年、立正大学卒業。同年、応召。
    昭和20年、シンガポールで終戦を迎える。
    戦後、チャンギーでBC級戦犯とされた日本軍人の教誨師を務める。
    昭和22年9月、復員。池上・照栄院住職、立正学園の教職に就く。
    昭和28年から池上本門寺勤務。のち執事・執事長。
    昭和58年、池上・照栄院内に「チャンギー殉難者慰霊碑」を建立す。
    昭和63年(1988)、池上81世として普山。(~平成11年・1999)
    平成7年(1995)、日蓮宗管長(48代)就任。(~平成11年)
    平成22年(2010)7月18日、池上にて遷化す。(世寿97歳)

82世 現薫 酒井日慈上人
    1919年(大正8年)生まれ。
    池上・實相寺、真間山弘法寺歴世。
    平成11年(1999)3月、池上本門寺82世として普山。(在任中)
    日蓮宗第51代管長 平成18(2006)~平成22年(2010)
  


明治時代
〇明治維新期の宗門 新制度下の混乱と、改革による紛糾があった。日薩上人等の努力で宗門機構の近代化へと向かった。
〇日薩上人の遷化後、合末論に絡んで、池上後薫問題が起こり、3年間、池上本門寺貫首不在が続いてしまった。
■ 三村日修上人 1823(文政6)~1892(明治24) 合末論・為宗会
金沢・充洽園に学ぶ。日蓮宗管長(明治18)・身延山法主(明治19)。管長辞任(明治23・1890)
■ 池上幸操(ゆきもと) 1855(安政2)~ 池上家29代。池上本門寺檀頭(開基檀越)
神奈川県会議員。多摩川の治水事業には生涯にわたって力を注いだ。
明治中期の池上本門寺・官林払下げ問題では、解決のために尽力している。この頃、酒匂川題目宝塔の改修を行う。(明治25・1892)
■ 田中智學(学)(巳之助) 1861(文久元)~1939(昭和14)(79)
江戸生まれ。旧姓・多田。日蓮宗の宗門に入るも、のち還俗。宗教改革を目指す。国柱会の設立(1914・大正3)。日蓮主義。明治宗教界の論客。旧師は、日進上人(弁舌説教の大家、池上の貫首代理も勤めた)。明治23、4年頃から本門寺の許可を得、五重塔辺りで傘下の立正閣の人々とともに、御会式街頭布教を始めた。


参考図書 『池上本門寺百年史』新倉善之著 1981(昭和56)
     『池上本門寺史管見』石川存静編 1966(昭和41)
     『池上本門寺史管見』(増補改訂版) 石川存静編 1969(昭和44)
     『酒井日慎上人』高橋玄浄他 伊藤海聞編 1956(昭和31)

HP『不変山 永寿院』
「住職の日々 2012-12-10」金子日威聖人(池上80世)の記事が載ってます。
 
記)
この項、「上人」称を入れました。歴史記述のつもりできたのですが、現代の項になると、池上本門寺でお世話になっていることもあって、入れよう、と相成ったしだいです。

記述途中です。なかなか先へすすまないので、ともかくもアップしました。
略歴に長短があって、内心恐縮です。随時、加筆・修正していきます。