かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

「韃靼の歌 - 忘れ得ぬ人々 - 」を読んで 

2011-12-13 | 韃靼の馬
『韃靼の馬』は、日経連載が完結して単行本としても出ている。自身の感想としては、完結してはいるのだが、物語は終わっていない、というところか。
置いたままにしていた日経の切抜き、辻原さんの文を、今一度、読み返してみました。その感想です。

韃靼の歌 -忘れ得ぬ人々(上) 物語のリアル 歴史に融合

新井白石や雨森芳州は歴史上の人物であり、阿比留克人や柳成一は作者・辻原登(さん)はの創作である。辻原さんはいう。思い入れが強くなれば、それは「現実(リアル)」となる、と。シェイクスピアの「ハムレット」を引き合いにし「「歴史」というのは、史的事実と呼ばれるものと、この現実(リアル)の混合・融合によって成立する」とも言っている。
そう、阿比留克人は、思い入れのある人にとっては「現実(リアル)」なのだ。
それと後半に書かれている日本と朝鮮半島との行き来について。北朝鮮から木造船で脱出し、九月三十日、能登半島沖で発見された人たちのことにも触れている。「ソーセージを受け取った女性は子供に与えたあと手を合わせた」、この女性にとって、この一瞬、が人生のすべてなのだ。(その後、彼ら、彼女らがどうなっているのかわからない。)
そして、辻原さんは北朝鮮に拉致された人々にも言及している。「忘れ得ぬ人々の名前」として、いまだ北朝鮮にいるであろう人たちの名をあげている。
決死の思いで、使命を遂行した阿比留克人はフィクションだ。
話がだいぶ飛んでしまうが、絶対出てこないとみられたルバング島の小野田寛郎さん。彼を説得した鈴木紀夫は、実在の人物だった。ひそかに、ひそかに思う。現在(いま))、克人出でよ、と。

韃靼の歌 -忘れ得ぬ人々(下) 幸と不幸、拮抗してこそ人生

読者からの手紙の引用で始まる。克人の仲間たちとの信頼関係を、好ましいものとして大いに評価している。しかし物語のラスト、小百合と克人(この場面では金次東)が一瞬たりとも目を合わさず、エンディングに入っていったことを嘆いている。これに対し、作者・辻原さんは、溢れんばかりのコップの水に例え、「この二人は立派に自制してみせた」のである。「ひとつの思いを遂げることは、他の思いを諦めることでもある。幸と不幸が拮抗し、ないまぜになってこその人生」である、ともいっている。けれど読者にとって(かぶとん(自分)にとって)は、自制ありき、など望んでいなかった。一瞬、目が合う、コップの水がこぼれる。ここで「自制」を働かせてもよかったのではないか。作者の力量ならば、たやすいことだったのではないか。日経側の、そろそろ締めろ、の圧力に作者抗しきれず手仕舞いにした、とも見えなくもない(けなしているようで、どうもすみませぬ)。
記事の後半には、妻の恵淑(ヘスク)と石窟の如来像のことが書かれている。もちろん感激の再会であってほしい。ただ、マウル(村)が波乱含みであったのが、どうも気になるが。辻原さんは、「小百合の行く末を見届けなければ、作者として公正さを欠く」ともいっている。「この先は、読者の皆さんそれぞれに、物語の展開の自由を委ねたい」、とゲタを預けたかっこうだ。ゆえに、物語は終わったのだが、終わっていない、ともいえる。

切り抜き記事
韃靼の歌 -忘れ得ぬ人々 上 物語のリアル 歴史に融合 2011年10月2日(日)掲載
韃靼の歌 -忘れ得ぬ人々 下 幸と不幸、拮抗してこそ人生 2011年10月9日(日)掲載



単行本『韃靼の馬』、刊行 ― もう一度、振り返り

2011-09-10 | 韃靼の馬

〇図書館で借りる、の顛末。
単行本『韃靼の馬』(辻原登・作)が、7月に発売になってしばらくたった。
日経新聞での連載、愛読いらい、思い入れはあるものの、購入については躊躇した。1000円以下の本については、興味がありさえすれば、衝動買いに近いかたちでも購入する。が、2000円以上となると、うーん、としばし唸る。しかも何度も読み返しているし・・・。ほんとのところは経済的な事情です。
で、最近は、たまに図書館にも行くようになっていたので、新刊の購入はどうなっているのだろうとは思ったものの、当初、図書館の受付も、さァ?、の状態だった。8月になって図書検索してみると、大田区の図書館には10何冊が各館の蔵書となっていた。けれど、全冊貸し出し中。生涯、初めて予約をいれた。タイミングよく、翌日には借りることができた。
■ (独り言)「図書検索」については、すべてを熟知しないといけない。もちろん「都立中央図書館」、「国立国会図書館」を意識してのことです。(理由は略)
 
〇『韃靼の馬』 あらたに感じたこと、知ったこと。
単行本のほうにも、宇野亞喜良(亜喜良)さんの挿画が10枚ほど載っていて、なんとなくうれしかった。雨森と克人(かつんど)、リョンハンとクギン(克人)、妹の利根・・・イメージがふくらむなあ。
とてもお気に入りで、ブログにも引用させてもらった 『閏四月 しだれ柳は老いぼれて・・・』 の阿比留詩。物語の展開でキーとなる詩であった。これが、単行本の末尾のほうに、「作中の詩、「閏四月・・・」は、金鐘漢(1914-1944)『たらちねのうた』中の詩を変奏したものです。」との、ことわりが入っていた。(ここで初めて知った。感想・・・略)

〇『海游録―朝鮮通信使の日本紀行』 申維翰(シン ユハン)・著 姜在彦(カン ジェオン)・訳注 東洋文庫252 平凡社
朝鮮通信使江戸参府の項の種本ではないか、と、どこかに書いてあったような記憶がある。すこし読んでみようと、これも図書館で借りた。ま、詳しい。「付篇 日本聞見雑記録(抄)」も見逃せない。一般的には、図版をよーく見ておけばよいか。

日本財団図書館(電子図書館) 「海と船の図書館」図録:朝鮮通信使
朝鮮通信使の図版、と書いて思い出した。ここは、目で見て読んで学ぶ、の場所かな。

〇「ウルルンドの幻 辻原 登」 日経 2011年(昭和23年)2月13日(日) 「文化」欄
「韃靼の馬」にたいする、作者・辻原さんの創作における感想が載っていて、とても貴重。

かぶとんの購読紙は読売新聞である。日経はとっていない。毎朝、散歩がてら、コンビニで買っている。「韃靼の馬」が終ったら、土曜、日曜版以外は、もう買わない、と思ったものの、安部龍太郎の「等伯」で、引き続きコンビニへ行っている。「私の履歴書」、「交遊抄」、「文化」、どれも捨てがたい。もとい。読売へ。
書評欄 2011年(昭和23年)9月4日
〇韃靼の馬 辻原登著 日本経済新聞社 2400円 評・野家啓一(科学哲学者・東北大教授) -息もつかせぬ大冒険-、と紹介していた。



『韃靼の馬』 読み返し・覚え書

2011-03-11 | 韃靼の馬
日経新聞の連載小説『韃靼の馬』もしばらく前に終了し、思い返す人もすくなくなったであろう今日このごろ。我がかぶとんはそうでもない。くり返し思い出す。辻原登(さん)ってすごいなあ。頭のどこから構想が湧いてきたのか(くるのか)、凡人には想像もつかない、と。
もう一度、じっくりと読み返すことにした。当記事は、そのさいの覚え書・メモです。
とりあえず119回「事件」の完了まで。利根の回想と、それに続く密命(徳川将軍の称号変更)をおびた克人の活躍を描写した朝鮮編「事件」。李順之(イスンジ)との出会い、柳成一(リュソンイル)との闘い、リョンハンとの出会い、どれもが強烈な印象だった。
その後のことは、またそのうちに、ということで。


1. 目次
2. 登場人物

1. 目次
 1.プロローグ 利根 (17回)
   利根の回想
 2.事件 (102回)
   釜山・倭館にて
   柳川事件の顛末
   陶工・李順之(イスンジ)と娘・恵淑(ヘスク)
   銀の道
   監察御史・柳成一の登場(54. 事件 37) 前半のやま場。馬上での対決。
   仮面劇(タルチュム)一座
   リョンハンの登場(59. 事件 42) やま場(二の太刀)。
   丹陽(タニャン)の客館
   倭館への帰館
   江戸家老平田真賢
   正使一行の釜山到着と出航
   朝鮮通信使一行の対馬・府中到着
   利根、小百合との再会
 3.東上 (77回)
   通信使船団、対馬・府中を出航
   福山 鞆ノ浦
   仙酔島での宴 満漢全席
   船上でのリョンハンと克人(クギン)
   製述官李賢の日記
   大坂 北御堂
   洪舜明・克人・唐金屋
   堂島米会所-帳合米取引
   リョンハン、濡れ衣を着せられる
   柳成一(リュソンイル)の出自
   製述官李賢の日記
   彦根にて 雨森の困惑
   新井白石 通信使一行を出迎える
 4.逐電 (64回)
   江戸 新井白石、通信使との宴
   柳成一と朴秀実
   克人とリョンハンらの歌舞伎見物
   克人と侍講・新井白石 雨森、克人に会えず
   返書奉呈で問題発生
   朝鮮通信使のその後
   大坂 鳩と通信文、盗まれる
   柳成一、阿比留文字を解読か
   柳成一と克人の対面、そして
   唐金屋の秘策
   克人、朴秀実を探すが
   リョンハン、身代わりとなって斬殺さる
   大坂町奉行所
 5.利根Ⅱ (9回)
   対馬藩の関係者への処分
   雨森と椎名、利根を訪ねる
   小百合、別れの挨拶
 6.会寧(フェリョン)) (75回)
   マウル(村)でのキム カンガンスルレ
   哥老会と唐金屋善兵衛、そして金次東(キムチャドン)
   韃靼の馬のこと(初出)
   哥老会のこと
   会寧行きの決意
   キムと恵淑(ヘスク)
   会寧遠征隊
   浦項(ポハン) 哥老会の清和号
   密航者・徐青(ソチョン)
   朴(パク)の再登場、そして徐青
   清津(チョンジン)上陸
   会寧のまち 開市
   韃靼人 チャハル・ハーン登場
   イスンジ、ガルダン・ハーンを語る
 7.マンハ旗 (58回)
   マンハ旗へ キム一行、後を追う
   マウルの恵淑と良枝
   唐金屋と兵藤十作、そして雨森
   白虎
   猿河の浮橋と綱橋
   リョンハンの幻影
   会寧の馬市 朴秀実
   ハーンの娘、匪賊に誘拐さる
   匪賊の砦、急襲
   アヌ・ハトン
   マンハ旗にて
   牧場
   天馬(汗血馬)、姿を現す
 8.原郷 (28回)
   朴秀美の最期
   会寧へ、そして清津へ
   清和号の出航
   憂陵島(ウルルンド)
   敦賀
   桟原城の書院にて
 9.エピローグ 利根 (4回)
   利根の回想。ふた月ほど前から当日まで。そして別れの時が・・・

2. 登場人物
阿比留克人(あびる・かつんど)(クギン) 主人公。倭館勤務の対馬藩士(倭館裁判役)。朝鮮通信使の警護隊長補佐(警護副使)・通詞。
阿比留利根 克人の妹。この物語の狂言回し。可愛くて、素直で、しっかり者。兄想い。小百合を姉のように慕う。椎名とは相思相愛だが・・・
阿比留泰人(あびる・やすんど) 対馬藩の儒官。克人、利根の父親。木下順庵の弟子、白石の六つ歳下、雨森より五つ上(という設定)。
平田直右衛門真賢(さねかた) 対馬藩江戸家老。
新井白石 君美(きみよし・きんみ)。幕府・側用人。将軍家宣の侍講(実質は執政)。木下順庵の弟子。
木下順庵 恭靖木先生。木門(ぼくもん)。
雨森芳洲 対馬藩儒官。朝鮮方佐役。木下順庵の弟子。克人の親代わりのような立場。
慶雲寺寄宿の僧 少年時代の克人の剣術の師。薩南示現流。
宗義真(そう・よしざね) 第二十一代藩主。宗家中興の祖。天龍院。
篠原小百合 阿須の町医の子女。克人の婚約者。
阿比留峰 阿比留泰人の後室。利根の実母。鰐浦の網元・大浦家の出。
椎名久雄 馬廻り組。江戸家老・平田直右衛門の甥。克人の親友。
宗義方(そう・よしみち) 第二十二代藩主。
平田所左衛門 釜山・倭館の館主。
李順之(イスンジ) 倭館・茶碗窯の陶工。(実は五衛府の暗行御史)
恵淑(ヘスク) 李順之のひとり娘。
金良枝(キムヤンジ) 李順之の亡き妻。恵淑の生母。
洪舜明 朝鮮通信使の従事官。倭館を統括する東萊府(トンネ)代表。
尹時元(インシウォン) 
安洪哲(アンホンチョル) 吏曹判書(内務省長官)
姜九英(カングヨン) 備辺司局次長。
柳成一(リュソンイル) 備辺司局の監察御史。朝鮮通信使の軍官総司令。
リョンハン 仮面劇(タルチュム)一座の踊り子。広大(クァンデ)。克人の命の恩人。龍漢・・・
テウン  楊州(ヤンジュ)仮面劇一座の広大(役者)。リョンハンの相方。
老婆(ハルモニ) 一座の雑用係
趙泰億 朝鮮通信使の正使。
任守幹 朝鮮通信使の副使。
崔白淳 洪舜明付きの医師。雲南白葯を調合。
王(ワン) 王勇。洪舜明付きの漢人の調理人(厨師)。
李邦彦
李賢 朝鮮通信使の製述官。科挙首席だが庶子の出。
朴秀実 パクスシル。押物官(通信使輸送担当通訳)。狡賢い小心の小悪党。眇。
金(キム) 丹陽(タニャン)の郡守。
平田直右衛門真賢(まさかた) 対馬藩江戸家老。
土屋政直 幕府老中(朝鮮御用)。
杉村菜女(うねめ) 対馬藩国家老・朝鮮方。迎聘参判使(げいへいさんはんし)。
金子真澄 対馬藩馬廻組筆頭。椎名の上司。朝鮮通信使警護隊長。
釜山の骨董店・店主
唐金屋(からがねや) 対馬の御用商人。大坂店在住。

金始南 通信使の訳官(上々官)。
丁 通信使の副使軍官。副使・任守幹の縁故(甥)。
白 通信使の訳官。
松浦霞沼 木門十哲の一人。
土岐伊予守 大坂城代。
兵藤十作 小柄な老人。堂島米方行司筆頭、会所守。
鴻池の嬢はん
光恵(こうえ) 彦根竜潭寺の僧。
北尾春倫(はるとも) 彦根藩藩医北尾春圃の子。医学生。
森川百仲(ももなか) 彦根藩の老武士。森川許六。蕉門十哲の一人。

室鳩巣 木門の儒者。
三谷一馬 南町奉行所の同心。
塩井修次 中町奉行所の与力。
申 通信使の軍官通訳。
金斗文 通信使の上判事(はんす)。
張一清(チャンイルチョン) 通信使の軍官。のち軍官司令代行。
橘幸次郎 老中目付。
桑山甲斐守一慶(かずのぶ) 大坂東町奉行。
北条安房守氏英(うじひで) 大坂西町奉行。
平賀次孝 大坂町奉行所与力支配。

キム 金次東(キムチャドン)。克人。
良枝(ヤンジ) キムの娘。
恵淑(ヘスク) キムの妻。良枝の母親。
イ・スンジ 李順之。ヘスクの父。マウルの村長。
哥老会の長老
尹時元(ユンシウォン) 漢城(ソウル)の美術商。
辛仁天(シンインテン) 慶尚北道哥老会の幹部。
唐金屋(からがねや) 唐金屋善兵衛。
テウン 高泰雲(コテウン)。イスンジの窯の手伝い。
王勇 「王(ワン)の宿」の主人。
崔白淳 医師。マウルに移住。
姜(カン) 姜珍生。元馬上才。マウルに移住。
安洪哲(アンホンチェル) 左議政(副首相)。
朱万年 李窯の若手陶工。元牧童。
車志良(チャ) 哥老会通詞部。会寧遠征隊の満語・蒙古語通訳。
呉光吉 清和号の船長。中国の哥老会船舶部から派遣された漢人。
具宗文 清和号の操舵長。
黄明秀 清和号の甲板長。
徐青(ソチョン)
朴秀実(パクスシル) 全羅道全州市の牧場主。徐青の雇い主。
成尚永(ソンサンヨン) 哥老会・咸鏡北道支部長。会寧への道案内人。
林南秀(イムナムス) 会寧の哥老会・弥勒舎の学監(責任者)。
チャハル・ハーン マンハ旗。韃靼人一行の頭目。
オーリ チャハル・ハーンの息子。モンゴル語で梟。
ダヤン マンハ旗。韃靼人一行の副頭目格。

オヤーチ 調教役。
ウルス マンハ旗の副頭目。留守部隊。ハーンの妻の弟。
羅津に駐留する親騎隊
野人女真の頭目
ランダル ハーンの娘。
リディール ハーンの娘。
周 漢人匪賊の斥候。
エセン マンハ旗の一員。
ジョチ マンハ旗の一員。
羅立生(らりっせい) 匪賊の頭目。
アヌ・ハトン ダヤンの元婚約者。ガルダン・ハーンの妃と同名。
ブガ マンハ旗のシャーマン。
ジャダン ハーンの妻。
チュクル/エンケ 少年の牧童(双子)。
ハラフラ 牧場ののっぽの老人(牧童)。
クトカ 牧場のちびの老人(牧童)。

クロートカヤ 誘拐されたロシア人の娘。
遊牧の韃靼人一家
ごま塩の大きな顎髯の男 親騎隊の一員。
鄭仁亮(チョンイルリャン) 親騎隊の一員。
呉元根(オウォングン) 親騎隊の一員。
丁明博(チョンミョンバク) 親騎隊(国境警備)の隊長。
ボルコンスキー 誘拐された3人のロシア娘の一人。
宗義誠(そう・よしのぶ) 対馬藩主。
ウルルンドの老人 徐青の師。
稲葉正房 幕府目付。
諏訪文九郎 幕府御馬預り。
利根の夫 対馬二十六浦・網元講の副長(ふくおさ)。
柳川調行(しげゆき) 徐青の後の名。
  

1. プロローグ 利根  1~17
    享保11年(1726)、利根は、兄・克人のことを回想する。
    15年前の正徳元年(1711)、朝鮮通信使の来日の頃を思い出している。
2. 事件  1~102
    朝鮮・倭館時代の阿比留克人。
3. 東上  1~77
    正徳元年の朝鮮通信使の江戸参府。克人、対馬藩警護副使・通詞として随行する。
4. 逐電  1~64
    朝鮮通信使、江戸参府の帰路。大坂で、柳成一(リュソンイル)と対決する。
5. 利根Ⅱ  1~9
    享保4年(1719)、利根 22歳。正徳元年の暮れからの事を回想。
6. 会寧(フェリョン))  1~(75)
    15年後。舞台は朝鮮。陶工キム・チャドンとして、マウルに生きる克人。
    対馬藩の窮状を聞き、韃靼の馬を求めての、会寧行きを決意する。
7. マンハ旗  1~58
    韃靼人チャハル・ハーン一行を追ってマンハ旗へ。
    匪賊との戦いでハーンの信をえたキム、ついに天馬にめぐり会う。
8. 原郷  1~28
9. エピローグ 利根  1~4
    享保12年(1727)、利根30歳。兄、克人との再会、そして別れ。



朝鮮通信使
天和2年(1682) 第5代将軍徳川綱吉就任祝賀の目的で来日。
 通信使の江戸滞在中、克人の父・泰人(二十歳頃か)は通詞をつとめた。(物語上ですよ)
正徳元年(1711) 第6代将軍徳川家宣の就任祝賀で来日。 (この小説の前半部。)
享保4年(1719) 第8代将軍徳川吉宗の就任祝賀で来日。

後日談として
享保13年(1728)4月 将軍吉宗、日光社参。
 三代六十五年間途絶えていた日光社参の復活。供奉者十三万三千人を従えての示威行進も、"韃靼の天馬" いればこそ。吉宗の威光は、弥がうえにも増しに増した。


余談
〇年代・年齢は、事実と小説の内容からの推定とが混在しています。念のため。
〇朝鮮通信使の項は江戸検の学習そのもの。設問の仕方で難易度が変わってくる。
〇ふり仮名付きの漢字がやたらに(くどいが繰りかえして言う、「やたらに」)出てくるが、漢検の学習には、うってつけ。(?)
かぶとんのメモ
〇リョンハンは、男だったのか、それとも女なのか。文中の一節、別の場面だが「そこは変幻自在、融通無碍の歌舞伎狂言さ」。これでよしとするか。



『韃靼の馬』 振り返り・その2

2011-01-26 | 韃靼の馬
2010年1月24日の感想 -回想-です。
日付けの入力ミスではなくて、1年前の話ですよ。

2. 『韃靼の馬』 ― なぜ、この題名

なぜ『韃靼の馬』なのだろう。
- 朝鮮通信使 - に反応して、おもわずこの連載を楽しみつつ読んでいる。
対馬の人たち、そして今展開している朝鮮での出来事に登場している人たち、みな気になる。
が、題名からして、後から知った連載開始時の作者のことばからして、まもなくか、もうすこし先
にか、朝鮮編はおわる。
舞台は中国・清、モンゴルへと移っていくのか。
もっと広がるのか。
 
 『韃靼の馬』 (44)  事件 27

李順之(イスンジ)は会寧(フェリョン)*の人である。と書かれている。
咸鏡道会寧(ハムギヨンドウ・フェリョン)は豆満江の上流にあり、辺境、国境の町である対岸の
三合(サンホー)は清の領土である。

会寧府が置かれ、国境交易・開市が毎年冬のあいだに開かれている。清からは、多くの人たちがやってくる。会寧窯も知られている。
開市の記述ののち、馬市(ばし)の話になる。
 
 『この市が終わると馬市になる。千数百頭の清馬が取引きされる。対価は朝鮮牛で、その交換
比率は、清馬一頭に朝鮮牛七~八頭だった。
 朝鮮馬は馬体が小さく、人が乗ったままで果樹の下を通れるほどで、「果下馬」と蔑称された。
軍馬として用をなさないことから、北辺境域に配備された軍官・騎兵は、自費をもって、馬市で清
馬を調達した。辺境隊だけでなく、中央からも買い付けにやってくる。朝鮮通信使は、たびたび
徳川将軍に馬を献上しているが、それらは会寧の馬市で調達されたものである。』
                                          ( 2009.12.16 掲載)

と、いうことで「清馬」が出てくるが、いまのところ、- なぜ、この題名 - とは思ってみても・・・
                                          (2010.01.24 感想)
 *会寧 現在の北朝鮮・咸鏡北道にある町。


3. 韃靼、とは

韃靼 = タタール  モンゴル系遊牧民の総称。
中国・明代  モンゴルを元以来の呼称である「蒙古」で呼ぶのをやめ、「韃靼」と呼んだ。
日本      明代の表記に従う。
女真(ジュシェン)(のちの満州人)
         モンゴルのことをMongo(モンゴ)と呼んだ
中国・清代  満州人が立てた清は、韃靼の名称を「蒙古」に戻した
日本      江戸時代頃は、北アジアの諸民族を漠然と「韃靼」と呼んでいた。
         清を立てた満州人のことも韃靼人と呼んでいた。

 (参考  Wikipedia 「タタール」のうち「東アジアのタタール」)
  

4. 雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう) 略歴

1668年(寛文8年) 近江国伊香郡雨森村(現・滋賀県長浜市高月町雨森)の町医者の子として生まれた。
12歳の頃 京都で医学を学ぶ。
18歳の頃 江戸に出る。
       朱子学者・木下順庵の門下に入る。
       1685年(貞享2)頃。
1689年 (22)木下順庵の推薦で、対馬藩に仕官。
1692年 (25)対馬に赴任。
1698年 (31)朝鮮方佐役(朝鮮担当部補佐)を拝命。
1702年 (35)初めて釜山に渡る。
1703年から1705年 (36-38)釜山の倭館に滞在。
1711年(正徳1年) (44)徳川家宣就任を祝う朝鮮通信使に随行して江戸に赴く。
             正使・趙泰億
1719年(享保4年) (52)徳川吉宗就任を祝う朝鮮通信使に随行して江戸に赴く。
             正使・洪致中 製述官・申維翰( 『海遊録』の著者)
1720年 (53)朝鮮王・景王の即位を祝賀する使節団に参加して釜山に渡る。
1721年 (54)朝鮮方佐役を辞任。家督を長男の顕之允に譲る。
1729年 (62)勅使として釜山の倭館に赴く。
1734年 (67)対馬藩主の側用人に就任。
1755年(宝暦5年) 対馬厳原日吉の別邸で永眠。88歳。

 (参考  Wikipedia - 雨森芳洲 )



日経新聞・連載 『韃靼の馬』 振り返り

2011-01-22 | 韃靼の馬
去年のちょうど今の時期、江戸検定(江戸検)の学習と、ホームページ作成の手習い(独習)
を兼ねて、現在の当ブログの前身、「かぶとん 江戸検に再挑戦 !?」をやっていた。
(手間ひま労力がかかり、そのうち面倒になって更新しなくなってしまったが。)
その頃から気になって読んでいたのが 『韃靼の馬』。そして感想も何回か書いた。
当時も今も、引用が長いことを気にはしたが、ええいままよ、と、レイアウトは変えたが同じ
内容を載せます。
当時の感想と、連載が終った今とで、どう変ったか、それとも変らなかったのか。

『韃靼の馬』 追っかけ

1. 「博覧強記」 - 朝鮮通信使 - から、『韃靼の馬』へ
それにしても
日経・朝刊 最終面に連載中の 『韃靼の馬』 (辻原 登(さん)・作 宇野亜喜良・画)
最高に、かつ、めちゃくちゃに面白い !!

「博覧強記」の - 朝鮮通信使 - 2つ・3つの言葉を覚えると、ここはもうおしまい、だったが
一変した。(物語のほうが、百倍、理解が深まるかも)

- 小説家 見てきたような ウソを言い -
主人公 倭館(わかん)の対馬藩士 阿比留克人(あびるかつんど)と、李氏朝鮮・監察御使
柳成一(リュソンイル)の馬上での戦い!!
このあと、どう展開するんだ。
傷ついた克人を助けた、命の恩人、踊り子・リョンハンとの再会は?
対馬にのこる婚約者 小百合は。
そして可愛い可愛い妹の利根は。

世は6代将軍徳川家宣の時代。幕府側用人・新井白石の - 将軍の称号を「日本国王」復号
とする - が、物語の軸だ。
舞台は対馬、朝鮮・・・そして・・・

白石の師、恭靖木(きょうせいぼく)先生こと木下順庵。
白石とは「木門(ぼくもん)」の後輩にして、対馬藩お抱え儒官となった雨森芳洲。

腕利きの倭館の陶工、李順之(イスンジ) 実は朝鮮国王直属の隠密、暗行御使。

虚実ないまぜで、頭の中は、ぱーぷりん。
神代文字のひとつ、日文(ひふみ)。阿比留文字とは。


『韃靼の馬』 連載の第1回で、悲しい話になりそうなことを暗示している。

 プロローグ 利根 1
 回想
 『わたしの名は利根、阿比留利根です。対馬に生まれ、育ちました。まだ一度も対馬を出た
 ことがありません。
 対馬と書いてツシマと読む。あるいはツシマと発音して対馬と書く。ふしぎでなりません
 が・・・』
 『わたしと兄は阿比留文字で手紙のやりとりをしていました。母は阿比留文字を知りません。
 いま、この島で阿比留文字が判読できるのはわたしひとりになりました。』
                                      ( 2009.11.1掲載の引用 )

 対馬時代の、兄・克人と妹・利根は、阿比留文字で詩の競作をしていた。
 阿比留叙事詩、あるいは抒情詩。第6回では、利根が兄の詩を紹介している。

 プロローグ 利根 6
  『閏四月
   しだれ柳は老いぼれていて
   井戸のそこには くっきりと
   碧空のかけらが落ちていて

   いもうとよ
   ことしも郭公が鳴いていますね

   つつましいあなたは 答えないで
   夕顔のようにほほえみながら
   つるべにあふれる 碧空をくみあげる

   径は麦畑のなかを折れて
   庭さきに杏の花も咲いている
   あれはわれらの家
   まどろみながら 牛が雲を反芻している

   ほら 水甕にも いもうとよ
   碧空があふれている』
           ( 2009.11.6掲載 引用)

 プロローグ 利根 11
  『あの事件が起きたのは、いまからちょうど十五年前のことです。元号も正徳とあらたまっ
 たその年、立春の頃のうららかなある日、わたしがつるべで水を汲んでいると、ふらりと芳洲
 先生がお庭に入ってこられ、「利根、通信使が来るよ」 』
                                      (2009.11.12掲載 引用)
  西暦 1711年、宝永から正徳へ改元。
  利根の回想は、1726年 享保11年。

 プロローグ 利根 17
 『大変なんだなあ、と小百合さまとわたしは顔を見合すことしきり。
 翌日午前、阿須に使者が立って、兄と小百合さまは結納を交わしました。
 通信使一行が江戸で任務を果たされて帰国の途次、兄と小百合さまは対馬で祝言を
 挙げる。一行を無事本国まで送り届けたあと、兄はいったん対馬に帰任し、江戸藩邸か
 京都藩邸で貿易方佐役を約束されていましたから、そのどちらかで幸せな新婚生活を
 はじめる予定でした。でも、それはとうとうかなわぬ夢となったのでございます。』
                           (プロローグの最終 2009.11.18掲載 引用)

おい、おい、おい、続きはどうなるの・・・

でも、この小説の狂言まわし 利根は兄 克人の幼馴染み、馬廻り組の椎名と一緒になる
かな(なっているかな)、という予感・・・
                                         (2010.01.20 感想)

倭館 釜山の草梁(チョリャン)倭館 1678~  いまでいえば、対馬藩の在韓国領事館か。
こちらは実在の人物
徳川家宣 1662~1712(寛文2~正徳2) 在職 1709~1712(宝永6~正徳2)
新井白石 1657~1725(明暦3~享保10) 
木下順庵 1621~1698(元和7~元禄11)
雨森芳洲 1668~1755(寛文8~宝暦5)


ま、江戸検定(江戸検)の学習も兼ねて読んでいた、ということです。
上に載せた1年前の感想を、いま読みかえしてみると、そうとうに違った展開でしたね。