長谷山 本土寺 (ちょうこくさん ほんどじ) 日蓮宗由緒寺院(本山)
千葉県松戸市平賀63
JR常磐線・北小金駅より徒歩10分
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創建年 1277年(建治3年)
開山 日朗聖人
開基 曽谷教信
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像師堂
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日像菩薩誕生水
日像菩薩石像
*
妙朗堂
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朗師門
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中央の墓塔 南無日蓮大菩薩
左側 日朗聖人
右側 日傳聖人
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* 日像菩薩石像の由来
この石像は世人より第二の日蓮聖人と称せられる日像上人のお姿である。當山の前身である豪族平賀家のニ男として生誕され、兄の日朗上人に伴われて六才で身延山に登った。大聖人は万寿丸を一目ご覧になるや この少年こそ成人ののち必ず我が法を普く宣布する大器になるであろうと、その場で経一丸という名をお与えになったという。それから七年 身延での常随給仕の歳月は流れ 病を得られた大聖人は常陸(ひたち)への湯治の途中、武蔵の国(東京)池上宗仲邸では病さらに進まれ 本弟子六名を定められたあと 特に経一丸を枕辺に召し 立教の核心であった天子への大法奏上と帝都の開教とをご命じになり御入滅になった。時に経一丸 十三才のことである。 教祖の棺前にて直ちに兄日朗上人の手で得度、その名も宗祖に似よと日像と命名された。
それから十二年 宗祖の十三回忌に當る永仁二年の春より宗祖忍難弘通のご足蹟を辿ったあと 御所の正門に立って玄題高唱、 妙法未布の地に獅子吼された。
爾来三十有余年に及ぶ布教も他宗僧俗の怨嫉激しく、為に朝廷をも動かして勅勘三度にも遂に怯む心なく、やがて時の帝 後醍醐天皇の御帰依を得、御所の一画に広大な寺地を賜り、ついで宗号公認ともいうべき御綸旨(りんじ)も賜った。この地平賀にあって 母君妙朗尼が常に法難重畳の我が子の安否に心を痛めらるるを知り 望郷思親の想いを込めてご自身の姿を自ら刻んで国許の母君に送られたという 像尊自刻の像が伝えられているが この姿はその像を模して檀家の金森一雄氏が寄進された。
〇曽谷教信 1224年~1291年(元仁元年~正応4年)
鎌倉時代後期、下総国八幡荘曽谷郷の領主。千葉氏家臣(一族)。
曽谷次(ニ)郎入道法蓮。妻女は蓮華比丘尼。
紫陽花の見頃もすぎて、季節違いではありますが、雨上がり、初めて参拝させていただきました。なかなか風情のあるお寺さんだと感心しつつ一巡りしました。紅葉の季節にはぜひ再訪参拝したいものです。
千葉県松戸市平賀63
JR常磐線・北小金駅より徒歩10分
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創建年 1277年(建治3年)
開山 日朗聖人
開基 曽谷教信
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史跡 長谷山 本土寺
長谷山 本土寺は、建治三年(一二七七)豪族平賀忠晴の屋敷内に、日蓮上人の弟子日朗を導師として招き、開堂したのが起こりです。
本土寺は池上の「長栄山本門寺」 鎌倉の「長興山妙本寺」とともに「朗門の三長三本の本山」と称される屈指の名刹で、松戸地方における日蓮宗の教団活動の中心とされました。
ここには日蓮直筆の書状類をはじめとして、松戸市域の貴重な中世資料が数多く所蔵されています。
近年においては境内の整備がなされ、「あじさい寺」として市民にも親しまれています。
平成十三年三月
松戸市教育委員会
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日像菩薩誕生水
日蓮大聖人のご遺業である天子のご教化 都の開教を年わづかに十三歳で拝命し 四十年に及ぶ大艱難の末 後醍醐帝により大願を成就され 第二の日蓮と讃えられる日像聖人は 文永六年(一二六九)八月十日 この地、平賀家に生誕されました
その時 庭前に涌きでた泉がこの井で 往古より乳出のご霊水と崇められて あまたの人々がご利益を頂いております
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妙朗堂
日像 日輪 両聖人の母君 妙朗尼の婦徳を讃えて 昭和初年建立され、日像聖人ご自刻の尊母のお像が安置されております。
このお像は 帝都開教の為 十八年まみえることのなかった御母のご逝去に 急ぎご帰省の折 庭前の誕生櫻の枯枝を以って手づから刻まれました
慈母追影の孝心を今に傳えます奥ゆかしいお姿であります
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中央の墓塔 南無日蓮大菩薩
左側 日朗聖人
右側 日傳聖人
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秋山夫人の墓
昭和四十一年松戸市文化財指定
秋山夫人は甲斐の武田一族である秋山虎康の娘で、十五才で徳川家康の側室となり、名を於都摩の方または、下山の局と称され、家康の第五子万千代君を生んだ。万千代君は後に、武田信吉を名のり天正十八年(一五九〇)に、小金城三万石に封ぜられた。秋山夫人はその翌 十九年十月六日、小金で病死した。
現在の墓石は信吉の甥、□□□□が貞享元年(一六八四)に建立したものである。
* 日像菩薩石像の由来
この石像は世人より第二の日蓮聖人と称せられる日像上人のお姿である。當山の前身である豪族平賀家のニ男として生誕され、兄の日朗上人に伴われて六才で身延山に登った。大聖人は万寿丸を一目ご覧になるや この少年こそ成人ののち必ず我が法を普く宣布する大器になるであろうと、その場で経一丸という名をお与えになったという。それから七年 身延での常随給仕の歳月は流れ 病を得られた大聖人は常陸(ひたち)への湯治の途中、武蔵の国(東京)池上宗仲邸では病さらに進まれ 本弟子六名を定められたあと 特に経一丸を枕辺に召し 立教の核心であった天子への大法奏上と帝都の開教とをご命じになり御入滅になった。時に経一丸 十三才のことである。 教祖の棺前にて直ちに兄日朗上人の手で得度、その名も宗祖に似よと日像と命名された。
それから十二年 宗祖の十三回忌に當る永仁二年の春より宗祖忍難弘通のご足蹟を辿ったあと 御所の正門に立って玄題高唱、 妙法未布の地に獅子吼された。
爾来三十有余年に及ぶ布教も他宗僧俗の怨嫉激しく、為に朝廷をも動かして勅勘三度にも遂に怯む心なく、やがて時の帝 後醍醐天皇の御帰依を得、御所の一画に広大な寺地を賜り、ついで宗号公認ともいうべき御綸旨(りんじ)も賜った。この地平賀にあって 母君妙朗尼が常に法難重畳の我が子の安否に心を痛めらるるを知り 望郷思親の想いを込めてご自身の姿を自ら刻んで国許の母君に送られたという 像尊自刻の像が伝えられているが この姿はその像を模して檀家の金森一雄氏が寄進された。
〇曽谷教信 1224年~1291年(元仁元年~正応4年)
鎌倉時代後期、下総国八幡荘曽谷郷の領主。千葉氏家臣(一族)。
曽谷次(ニ)郎入道法蓮。妻女は蓮華比丘尼。
紫陽花の見頃もすぎて、季節違いではありますが、雨上がり、初めて参拝させていただきました。なかなか風情のあるお寺さんだと感心しつつ一巡りしました。紅葉の季節にはぜひ再訪参拝したいものです。