かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

長岡 緑の悠久山公園と長岡市郷土史料館

2010-07-31 | 新潟 長岡
前回、3月末に訪れたときは、悠久山公園は雪のなかだった。今の時期、公園全体が濃い緑に覆いつくされている。きれいな空気に満ちていて、健康にはよさそうだ。

悠久山公園 高台のお城は、長岡市郷土史料館






長岡市郷土史料館
新潟県長岡市御山町80-2 悠久山公園内




郷土史料館入口に、長岡城下町絵図




展示コーナーでの主な人たち
〇 河井継之助 1827(文政10)-1868(慶応4)
〇 小林虎三郎 1828(文政11)-1877(明治10)
〇 三島億二郎 1825(文政 8)-1892(明治25)
〇 山本五十六 1884(明治17)-1943(昭和18)

個人的な関心でいえば、だんとつに『武士の娘』の著者 杉本鉞(えつ)さん。
そして鉞さんを育てた長岡藩筆頭家老・稲垣平助家。それと長岡の風土。
頭のなかで、いまだに整理されていないものの、家・家族・親子・自立について、
とても考えさせられる。






〇 杉本鉞子 1872(明治5)-1950(昭和25)
〇 稲垣平助 1836(天保7)-1885(明治18) (茂光・重光・平)

郷土史料館の係りのかたへ
杉本鉞子さんの資料解説の小冊子をいただき、ありがとうございました。
いつか稲垣平助家のことは、自分なりに思ったこと、考えたことを紹介していきたいです。


天守閣 4階の展望台より




遠方に、弥彦山 (やや、ズーム・アップ)


長岡市街地 JR長岡駅方面


参考 越後長岡藩‐Wikipedia


8月1日(日)・2日(月)・3日(火)の3日間は 「長岡まつり」 だ。
そのうち2日・3日は大花火大会。日本の三大花火大会の一つといわれている。
「正三尺玉」の大花火。何十年も見ていない。見たいなあ。
昔の市内の夏の夕暮れ。たくさんのコウモリが、群れをなして巣に帰っていく光景と、
「ナイアガラ」をはじめて見たときの驚きを作文にしたことがある。忘れられない思い出だ。
さすがにコウモリの群れ、今は、いないだろうな。
すこし訂正。夕方、群れをなして帰っていくのはカラスで、夕闇に虫を啄ばんでいたのが
コウモリの群れだったかな。よくわからなくなった。

 

長岡 悠久山公園と蒼柴神社

2010-07-28 | 新潟 長岡

悠久山 蒼柴神社(あおしじんじゃ)
 ご祭神
  天照皇大神
  白山大神
  出雲事代主神
  牧野忠辰命
 蒼柴神社の創始
  長岡藩4代藩主牧野忠寿(ただかず) 3代藩主忠辰(ただとき)公(神号 蒼柴明神)と
  事代主命を城内に社を建てて祀る。
  天明元年(1781) 9代藩主牧野忠精(ただきよ)、現在地に蒼柴神社を建立。
  権現造りの社殿は当時のまま。

 新潟県長岡市悠久町707(悠久山公園内)
  


悠久山公園






参道沿いに「長岡藩大参事 小林病翁の碑」('米百俵'の小林虎三郎)




相撲場の土俵(休業中?)


高明門




蒼柴神社 社殿


牧野家歴代墓碑






  長岡藩主牧野家について
 長岡藩主牧野家は、三河牧野の地(愛知県豊川市内)に興り、のち牛久保城(同市内)に居城した。永禄九年(一五六六)徳川家康に服属し、天正一八年(一五九〇)家康の関東入りに従って上州大胡(群馬県勢多郡大胡町)に移り、その後越後長峰を経て、元和四年(一六一八)長岡城主として七万四千石を領した。
 そして明治元年の戊辰戦争後、同ニ年第十三代忠毅公の版籍奉還に至るまで変ることはなかった。(以下 略す)
                                       社団法人 長岡青年会議所



  長岡藩主牧野家御霊廟について
 牧野家歴代の江戸における墓所は三代将軍家光公により地を賜り、済海寺(東京都港区三田)を菩提寺としておりました。
 このたび寺の事情により墓地整理が進められ、墓碑十七基はゆかりのある蒼柴神社(御祭神三代忠辰公 悠久山遷座九代忠精公)の境内地に墓碑のみをお移しし、霊廟として安置いたしました。
  悠久史跡保存会において (注 案内文のまま)
 この間、多くの関係者、市民有志の協賛と奉仕を得て竣工するに至りました。
                                       社団法人 長岡青年会議所

[三田 済海寺]については、以前に記事にしました。参考にどうぞ。




〇 牧野忠辰(まきの・ただとき) 越後長岡藩・第3代藩主
 1665(寛文5)-1722(享保7)
 1674(延宝2)-1721(享保6) 藩主期
   「諸子法制」発布。補佐・牧野忠清。
   1711(正徳元)、1719(享保4) 朝鮮通信使の接待役。
   墓所 池上本門寺(1996(平成7)、蒼柴神社境内に墓石移転)
〇 牧野忠精(まきの・ただきよ) 越後長岡藩・第9代藩主 老中(寛政の遺老の一人)
 1760(宝暦10)-1831(天保2)
 1766(明和 3)-1831(天保2) 藩主期


参考 HP 長岡・観光 『蒼柴神社』
    牧野忠辰‐Wikipedia
    牧野忠精‐Wikipedia



再び長岡へ

2010-07-27 | 新潟 長岡



長岡 越後滝谷の集落  中央に見える屋根は真宗滝谷山・了明寺


今一度、悠久山公園の散策と長岡市郷土史料館の訪問。それと長岡藩・牧野家の蒼柴神社(あおしじんじゃ)を参拝したい。



箱館の歴史 高田屋嘉兵衛

2010-07-22 | 箱館の歴史
箱館の歴史
幕末、安政6年6月2日(1859.7.1) 箱館開港。
それ以前、江戸後期(18世紀の最後半から19世紀前半)の箱館は、
高田屋嘉兵衛と高田屋を中心に回っていた。


高田屋屋敷跡



(案内板の内容)
  高田屋屋敷跡
箱館の発展は、高田屋嘉兵衛によってその基礎が築かれたといっても過言ではない。
明和6(1769)年兵庫県淡路島に生まれた嘉兵衛は、寛政8(1796)年28歳のとき箱館に渡り、以来、文政元(1818)年郷里に帰るまで、箱館を拠点にして回漕業や漁場経営などで巨額の富を得た。
嘉兵衛は、国後および択捉両島の漁場を開拓し、北洋漁業の先駆者として歴史に名をとどめたばかりでなく、公共事業や慈善事業に大きな功績を残した。
高田屋の全盛は、寛政13(1801)年に嘉兵衛のあとを継いだ金兵衛(嘉兵衛の弟)が、幕府の許可を得てこの地域5万坪を拝借し、その一角に豪壮な邸宅を建てた頃である。その規模は、敷地面積で2町(約220m)四方もあり、邸宅には山を築き、池を作り、また高価な石が置かれていた。
市内にはほかに高田屋嘉兵衛の銅像(宝来町)や、大町の高田屋本店跡(標柱)があり、船見町の称名寺には高田屋一族の墓や嘉兵衛顕彰碑がある。
                                                  函館市
 

高田屋嘉兵衛の像と日露友好の碑







(案内板の内容)
  高田屋嘉兵衛銅像
 この銅像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、箱館開港100年を記念して昭和33(1958)年に建てられた。制作者は函館出身の彫刻家、梁川剛一である。
 嘉兵衛は明《和6(1769)》年に淡路島で生まれ、28歳のとき箱館に渡った。文政元(1818)年に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開拓し、函館発展の基礎を築き、大きな業績を残した。
 さらに、ゴロヴニン事件という日露国家間の問題を、民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名である。 この像は、文化10(1813)年、ロシア軍艦ディアナ号が捕らわれていたゴロヴニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。 右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀している。
                                              函館市


〇高田屋嘉兵衛の略歴から始めて、業績を振り返りたいのだが、他で数えきれぬほど紹介されている。深みにはまって先へ行けなくなる予感なのでやめた。また改めて。
〇嘉兵衛の弟で後継者、高田屋金兵衛の「密貿易の疑い」「没収」「没落」の記述が、どこも一緒なのには、いささかうんざりしてしまう。嘉兵衛を支えた高田屋金兵衛の復権を願っている。
 経緯の詳細については、HP 『函館市史』デジタル版 が参考になる。
 「通説編第1巻 第3編 第4章 松前家の復領と箱館」に、窮乏・松前家のお家事情と松前御用商人。そして箱館・高田屋を没落へと追い込み、また追い込まれていく事情が記されている。
〇高田屋嘉兵衛(それと高田屋金兵衛も)と最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵、伊能忠敬等との接点、交流の有無については、とても気になる。


  

函館 歴史資料館巡り

2010-07-20 | 函館
限られた時間のなかで、函館の資料館巡りもかかせない。
目につくもの、みな見て回るわけにいかないので、歴史に関する資料館に絞った。

函館市電 末広町


函館市 北方民族資料館 (建物 : 旧日本銀行函館支店)

パンフレットの‐ご案内‐より
 北辺の風土にねざした北方民族は、伝統的な固有の文化を有しています。
 世界的に数少ない北方民族資料にあって、函館博物館旧蔵資料や函館の地から輩出した人類学・考古学・民族学の権威である馬場脩氏、児玉作左衛門氏の収集した資料は、北方文化を物語る逸品として広く内外に知られています。両氏の長年にわたる調査・研究の足跡等を踏まえ、函館が世界に誇る北方民族資料をここに紹介するものです。

  ‐北方民族の世界‐
函館市北方民族資料館は、アイヌ民族をはじめ、ウイルタ民族、アリュート民族など、激しい自然の中で生きてきた北方民族の伝統的な知恵と文化を見事に表現した、貴重な民俗資料の数々を展示しています。

〇自分の関心事で、最大のものの一つかもしれない。自然との共生、を体現する社会。そして民族。いっぽうで、他所からの経済圏の拡大と政治力に影響されていく図式。とことん衰退したかにみえるが、歯止めはかかったのだろうか。
〇地図上の、オホーツク海を中心にぐるり一周する。そしてベーリング海を中心に一回りする。それぞれの民族名を、声には出さないけれど、何度となく口の中で言ってみる。なんともいえない気持ちになる。思いがたくさんありすぎて、表現しづらい。


市立函館博物館郷土資料館(旧金森洋物店)



前出の渡邉熊四郎が、大火のあと再開業した建物。
明治期の舶来雑貨を中心とした、生活用具の展示。


はこだて西波止場美術館、北島三郎記念館、市文学館と固まっている。
今回はいずれも入らなかった。


北方歴史資料館 (社団法人 北方歴史研究協会)



北方開発と高田屋嘉兵衛
〇高田屋嘉兵衛と北前航路 〇千島、択捉探検航海 〇函館の基礎を築く 〇北洋漁場の開発 〇ゴローウニン事件 〇日露交渉 〇高田屋の財産 (パンフレットより)
高田屋嘉兵衛の銅像のレプリカ(?)、あまりの大きさに内心びっくり。
写真師・洋画家の横山松三郎のことも、もっと知らないといけないかな。
館長は高田屋七代目・高田嘉七さんとのことです。


箱館 高田屋嘉兵衛資料館 (建物 : 高田屋造船所跡地に造られた旧コンブ倉庫)



「辰悦丸」の模型、高田屋の持船の幟旗群が印象にのこった。

黒船の来航、そして開港。近代以降、今日までの函館の繁栄は有名です。
しかし、それ以前の函館が箱館と名乗っていた頃のことは一般に知られていません。
箱館は、古くより人が住んでおりましたが、蝦夷地の寒村という風情でした。
ここに北前船を操り、北方開発、遠洋漁業の基礎を築いたのが高田屋嘉兵衛です。
箱館の町は高田屋の町と伝えられた由縁です。
当資料館には、往時を偲ぶ資料が日本中から収蔵されています。
ここで高田屋の足跡を知ることが函館を知る第一歩です。
 パンフレットの、ご案内、より(部分)

高田屋嘉兵衛 案内板



和雑貨 いろは (明治期の和洋折衷住宅)


函館市電 十字街



追記
最初の五稜郭タワー・五稜郭公園見学の次に寄ったのが、向かいにある
「函館市北洋資料館」
館内では、まずホッキョクグマとトド(剥製)の出迎えがあり、びっくりさせられる。
北洋漁業全般の紹介。サケ・マス各種の展示でも、その大きさにびっくりする。どれも全長1㍍をゆうに超える。北洋海域の地図にしばし見とれる。日魯漁業コーナー(ニチロ、現マルハニチロ)で、創業者、堤清六(新潟県三条の出身)・平塚常次郎(函館四天王の一人、平塚時蔵の甥)を知る。