かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

『幕末維新懐古談』 高村光雲 2

2010-12-17 | 幕末
2. 私の子供の時のはなし

〇略歴(年明けまで) (数字)は数え年。
1852 嘉永5年2月18日(1852.3.8) 町人兼吉の子として、下谷源空寺門前(のちの下谷・北清島町*)に生まれる。本名、光蔵(みつぞう)。のちの徒弟時代、幸吉と呼ばれていた。
 1853 嘉永6年 米国の使節ペルリ(ペリー)が浦賀に来た。
 1854 安政1年 安政の大地震。
 1856 安政3年 大暴風。
 1860 万延元年 桜田の変。 (光雲、その時分の事をおぼろげに覚えているとの事。)
1861(10) 文久元年 母の里方、埼玉の東大寺へ奉公の下拵えに行く。(1年間)
1862(11) 文久2年 江戸に戻る。
 親類の奥州金華山の住職から寺にほしいという話がくる。
「父は無頓着で、当人が行くといえば行くも好かろうといっていましたが、母は、たった一人の男の子を行く末僧侶にするは可愛そうだといって不承知であったので、この話は中止となった。」
1863(12) 文久3年
 十二歳。当時の男の子は、十二になると奉公に出るのが普通であった。
「私は、生れつきか、鋸や鑿などをもって木片を切ったり、削ったりすることが好きで、(中略)親たちもそれに目を附けたか、この児は大工にするがよろしかろうということになった。」
「大工というものは職人の王としてあるし、職としても立派なものであるから、腕次第でドンナ出世もできよう、好きこそ物の上手で、俺に似て器用でもあるから、行く行くは相当の棟梁にもなれよう・・・」ということで、親類の大工の棟梁の家へ奉公に行くことになった。

3. 安床の「安さん」の事

で、奉公に行く前日に、髪を結ってもらおうと町内の「安床」という床屋に行った。
「安床は、大工は、職人の王なれば、大工になるは好かろうと大変賛成しておりましたが」・・・
人から頼まれていたことを思い出す。
「その人は、高村東雲という方だが、久方ぶりに此店へお出でなすって、安さん、誰か一人好い弟子を欲しいんだが、心当たりはあるまいか、一つ世話をしてくれないかと頼んで行ったんだ。」
安さんの話をいろいろと聞いて、光蔵、その気になった。
『それじゃア小父さん、私は大工よりも彫刻師になるよ』
その夜、安床は父・兼吉を訪ね、それまでのいきさつを話し、兼吉も、彫刻の方がよかろうということになった。
そして翌日には安床は光蔵をともない東雲師匠宅へ出むいた。
 高村東雲。須原屋茂兵衛出版の『江戸名所図会』を専門に摺った奥村籐兵衛の倅、
 籐次郎。光雲の生まれた長屋と同じ下谷源空寺門前の出。
光蔵(のちの光雲)の一生の運命は、この安さんの口入れで決まったようなものだ。
「後年私はこの安さん夫婦の位牌を仏壇に祭り、今日でもその供養を忘れずしているようなわけである。」

1863(12) 文久3年亥年 3月10日、仏師・高村東雲のもとで徒弟となる。

1864(13) 元治元年(甲子年・きのえねどし) 師匠東雲は「大黒様」をたくさんこしらえた。
       徒弟2年目の幸吉(光蔵)は、まだその手伝いもできなかった。
1965(14) 慶応元年丑年12月14日 浅草の大火。
       浅草三軒町から出火。当時、師匠東雲の家は浅草諏訪町。焼失した。
1968(17) 慶応元年辰年5月15日 上野の戦争。当時、師匠東雲の家は浅草駒形町。
1874(23) 明治7年3月10日 年季を勤め上げ、年明け(今でいう卒業)となる。
       師匠東雲より、「光雲」の号を授与さる。
       師匠東雲の姉エツ(悦)の養子となり、中島から高村姓となる。


* 下谷・北清島町(下谷源空寺門前) 現在の東上野6か、松が谷2(?)



『幕末維新懐古談』 高村光雲 1

2010-12-15 | 幕末
『幕末維新懐古談』 高村光雲著 を読んで。

1. 私の父祖のはなし
前回の再掲載と、詳述。
〇光雲の父祖
中島重左エ門(高祖父) 因州公の藩中。
 鳥取藩士(池田家・松平)。
中島長兵衛(曽祖父) 髯の長兵衛、と呼ばれた。
中島富五郎(祖父) 町人となる。
 八丁堀で鰻屋をしていた。富本の上手な長女の急死で自棄になり、家運衰える。のち肴屋
 を始める。江戸の大火にあい、浅草の花川戸に移る。富本にのめりこみ、連で語るが、嫉み
 にあい、毒を飲まされ身体が利かなくなる(兼松、9歳の時)。
 文久3年(1863)、没(72)。(光蔵、師匠の家に弟子入りした年。)
中島兼松(父)
 9歳の時、奉公先の袋物屋をやめ家に帰ってきた。身体の悪い父親の一家を背負って立つ。
 弟が二人、妹が一人いた。
 『お父さん、何か拵えておくれ、私が売ってみるから』
 手先の器用な父親の作った玩具を縁日で売り、生計をたてる。
「幼年の時から一家の犠牲となって生活に追われたために、習い覚えるはずのことも事情が許さず、取り纏まったものにならなかったことでありました。」
「その中、兼松も段々人となり、妻をも迎えましたが、相更らず親をば大切にして、孝行息子というので名が通りました。それは全く感心なもので、お湯へ行くにも父親を背負っていく。頭を剃って上げる。食べたいというものを無理をしても買って食べさせるという風で、兼松の一生はほとんどすべてを父親のために奉仕し尽くしたといってもよろしいほどで、まことに気の毒な人でありました。けれども当人は至極元気で、愚痴一ついわず、さっぱりとしたものでありました。」
 明治32年(1899)、没(82)。

中島増(ます)(母) 埼玉下高野村の東大寺、修験の家の出。菅原道輔の次女。
「父の兼松には不相応なほど出来た婦人であった。察するに、増は、兼松の境遇に同情し、
充分の好意をもって妻となったのであったと思われます。」
「兼松には先妻があり、それが不縁となって一人の男子もあった(注:光蔵の異母兄)。
(中略)その中へ、自ら進んで来てくれて、夫のため、舅のために一生を尽くした事は、私ども
に取っても感謝に余ることである。」
 明治17年(1884)、没(70)。
中島光蔵(みつぞう)(本人) 通称・幸吉 のちの高村光雲。
高村光太郎 光雲の長男。


〇感想 一言二言。 ” あの親ありて、この子あり。” ” 親を見て、子は育つ。”
兼松、そして増、光蔵(幸吉)の親子は、そのお手本かな。


 

上野・源空寺と高村光雲(徒弟の頃)

2010-12-11 | 幕末


(画像拡大あり)




 上野・源空寺

源空寺をとりあげたのは、幕末の時代、ここ下谷源空寺門前、九尺二間の長屋で高村光雲が生まれ、そして育った土地であるからだ。
源空寺、よく知らなかったが、それで「高村光雲、云々」も、なんなので、最低限の’おさらい’は、しておこう。

〇五台山文殊院 源空寺(浄土宗)
  台東区東上野6-19-2
もとは湯島にあったが、明暦3年(1657)の大火(振袖火事・丸山火事)で類焼し、現在地へ移転した。境内には幡随院長兵衛夫妻、谷文晁、高橋景保、高橋至時、伊能忠敬の墓がある。

〇高村光雲  嘉永5.2.18(1852.3.8) - 昭和9(1934).10.10
仏師、彫刻家。東京美術学校、彫刻科教授。帝室技芸員。
主な作品 『老猿』、『西郷隆盛像』(上野恩賜公園)、『楠公像』(皇居外苑)

〇略歴(年明けまで) (数字)は年齢。数え年。
1852 嘉永5年2月18日(1852.3.8) 町人兼吉の子として、下谷源空寺門前(のちの下谷・北清島町)に生まれる。本名、光蔵(みつぞう)。のちの徒弟時代、幸吉と呼ばれていた。
1861(10) 文久1年 母の里方、埼玉の東大寺へ奉公の下拵えに行く。(1年間)
1863(12) 文久3年3月10日、仏師・高村東雲のもとで徒弟となる。
 高村東雲。須原屋茂兵衛出版の『江戸名所図会』を専門に摺った奥村籐兵衛の倅、籐次郎。
 光雲の生まれた長屋と同じ下谷源空寺門前の出。
1864(13) 元治元年(甲子年・きのえねどし) 師匠東雲は「大黒様」をたくさんこしらえた。(徒弟2年目の幸吉(光蔵)は、まだその手伝いもできなかった。)
1965(14) 慶応元年丑年12月14日 浅草の大火。(浅草三軒町から出火。師匠東雲の家は諏訪町。焼失。)
1968(17) 慶応元年辰年5月15日 上野の戦争。当時、師匠東雲の家は駒形町。
1874(23) 明治7年3月10日 年季を勤め上げ、年明け(今でいう卒業)となる。
        師匠東雲より、「光雲」の号を授与さる。
        師匠東雲の姉エツ(悦)の養子となり、中島から高村姓となる。

〇光雲の父祖
中島重左エ門(高祖父) 因州公の藩中。
中島長兵衛(曽祖父) 髯の長兵衛。
中島富五郎(祖父) 町人となる。
 文久3年、没(72)。光蔵、師匠の家に弟子入りした年。
中島兼松(父)
 明治32年、没(82)。
中島増(ます)(母) 埼玉下高野村の東大寺、修験の家の出。菅原道輔の次女。
 明治17年、没(70)。
中島光蔵(みつぞう)(本人) 通称・幸吉 のちの高村光雲。
高村光太郎 光雲の長男。


参考 高村光雲 - Wikipedia
    『幕末維新懐古談』 高村光雲 岩波文庫

そう、『幕末維新懐古談』を語りたいための、前置きではありました。
高村光雲の語りがよいのか、話をまとめた田村松魚がよいのか。両方だろう。
感動の内容で、ともかく面白いし、わかりやすい。落語か講談を聞いているような感覚だ。
そして、気がついてみると、これは人生の教訓書なんだ、と思う。
さて内容はとなると、どう紹介したものか。


〇田村松魚(たむら・しょうぎょ) 小説家。幸田露伴に師事。
  1874(明治7) - 1948(昭和23)


     

シュリーマン 幕末の横浜・江戸観光 2 諸経費と物価

2010-06-03 | 幕末

シュリーマン ― トロイア遺跡の発掘で名をなす前は、世界をかけ巡る大貿易商人でした。
財をなしたシュリーマン、43歳のとき、いっさいの商業活動をやめて、世界周遊の旅にでました。
だからかどうか、『シュリーマン旅行記 清国・日本』には、かかった経費が細かく出てます。

この旅行記をもとに、当時の物価はどうだったのか、ふりかえってみます。
(シュリーマンの金銭感覚はしっかりしていたでしょうが、自分に、きちっとフランと両替(換算)ができるかどうか、いささか心もとないのですが。これも江戸検の勉強だ!?)

第四章 江戸上陸
〇上海から横浜 東洋蒸気船会社所属の蒸気船北京号 3日の行程
  運賃 100両(テール) 900フラン
  * 清からみて (後で調べ)
  * フランス通貨(シュリーマンからみて) 900フラン(90万円) 1フラン(1000円 換算)
   (以後、フランス通貨(シュリーマン)はF(S)と略。)

1865年6月4日 シュリーマン 横浜に上陸
(慶応元年5月11日)
〇横浜港で小船に乗り移って埠頭へ
  (船頭たちは)「テンポー」と言いながら指を四本かざしてみせた。
  船頭の労賃  4天保銭 (13スー)
  * 日本からみて 4天保銭(4800円)  1天保(100文、実勢80文)
                        実際はもっと価値がなかった
                      1天保(1200円) 1文(=15円 換算)
  * F(S)     13スー(650円)    1スー(=50円 換算)
  「シナの船頭たちは少なくともこの四倍はふっかけてきた・・・」
〇税関の官吏に、荷物検査を免除してもらおうと、心づけを用意した
  官吏二人に、それぞれ一分 (2.5フラン)
  二人は、その心づけを受け取らなかった。
  * 日本からみて 一分(22500円)   一分(1500文として)
    もしくは、一分(25000円)   一両(10万円 換算)
                    (わかりやすいので、こちらで計算)
  * F(S)     2.5フラン(2500円)
〇「三分(7.5フラン)で買えるほどの、取り付けられる携帯用の調理具、漆塗りの椀がいくつか・・・」
  三分、の数字がどこへかかるのか、調理具か、後に続く全部か。(これも後で)
  日本の新婚夫婦の所帯道具(庶民の長屋暮らしレベル?)
  * 日本からみて 三分(75000円)
  * F(S)     7.5フラン(7500円)
〇日本の生活費
  (シュリーマンの説明では)
  ・一分は16天保に相当     (約24000円~19200円)?
  ・1天保は小額貨幣(キャッシュ)100枚 (かぶ注: キャッシュとは1文のことかな。上述)
  ・キャッシュ640枚は1フランに相当する。
[日仏の物価比較・19世紀後半]
 1フラン、とは  20スー=1フラン (1スー=50円)
         100サンチーム=1フラン (1サンチーム=10円)
 パリの労働者の平均時間給 約5スー
 パン1キロの値段 約8スー  当時の労働者は、1日1キロのパンを消費していた。
 ・日本からパリへ行って、640文を両替して使う。 パン2.5キロ(1000円)が買える。
 ・シュリーマンが横浜・江戸で1フランを両替して使う。 かけそば40杯、食べられる。
                            (約9600円~12000円)
〇髪結い賃 天保銭 1枚 (16サンチーム)
  * 日本からみて 1天保(1200円)
  * F(S)     16サンチ-ム(160円)
 
「遊里の営業権は、各町ごとにセリでいちばん高い値をつけたものが、数年間にわたる独占権とともに政府から払い下げられる。遊里の収入は莫大であり、国家のもっとも大きな財政源の一つになっている。」(p.92)
(?・・・ わからないが、知りたい。どうやって調べよう?)
(であれば、「日に千両」の日本橋の魚河岸は?
 二丁町、その後の移転先、浅草猿若町の芝居町は? この税金は?)

第五章 八王子
〇イギリス人六人と連れ立って行った旅。(イギリス人、6人、とは?)
  貸馬屋から一日 6ピアストル(36フラン)で馬を借りた
  * 今度は「ピアストル」か・・・(後で)
  * F(S) 外国人同士の商い 36フラン(36000円) 妥当だとすれば・・・
  日本にも馬を一日貸し出す商売はあったのか? いくら?
〇紙の傘を売る雨傘屋 一分 2.5フラン
  * 日本からみて 一分(25000円)
  * F(S)      2.5フラン(2500円)

第六章 江戸
「敬愛する友人たち、横浜のグラヴァー商会の友人たちの親切なとりなしのおかげで・・・」(p.115)
江戸へ行けることになった。
〇「江戸旅行中一日あたり六ピアストル、すなわち三十六ピアストルの料金でクラーク氏の馬を一頭借りた。」
  * F(S)  6ピアストル(36フラン) 36ピアストル(126フラン)(12万6千円 相当)
ジャマイカ島出身の商人・クラーク氏は、その後、どうなった?

「この護衛の役人はわずかばかりの心付けを受取ることも許されない。彼らは、どんな辛い運命からも、その苦しみのなかばを取り除いてくれるある哲学、毅然とした諦観をもって、人生の廻り合せにただ従っている。」(p.116)
〇最初の茶屋で小さな茶碗にお茶を十六杯たのんだ
  代金 一分 2.5フラン  (かぶ注: なんか一分の請求が多い。店も適当に勘定してる?)
十六杯とは? ― 16人?  シュリーマン側の同行者は何人?
〇二軒目の茶屋で食事
  「役人の一人が「一分」と言いながら指を五本広げてみせた。」
  代金 五分 12.5フラン
  * 日本からみて  五分(12.5万円)
  * F(S)       12.5フラン(12500円)
  「宿の者は勘定書をいったん受け取ってから領収の印を押して返してくれた。」
〇「これらの船は幕府が千五百フラン以上もかけて建造されたものだが、打ち捨てられたまま・・・」(?)
〇「たくさんの店で銅や鋼鉄でできた工芸品や、値の張る象嵌をほどこした壷等を見たが、なんとこの壷につけられた値段といったら・・・。私が二級品と見たこの品に四千三百分(10,750フラン)要求されたとだけ言っておく。」(?)
〇「ここでは大小二本の刀を八十分(200フラン)で売っている。私は刀一本に百分ではどうかともちかけた。」
  * 日本からみて 八十分(200万円) 大小の刀、両方で百六十分ということか。
  * F(S)      200フラン(20万円)
この商談は成立しなかった。それにしても、シュリーマン、どのくらいのお金を持って旅をしてるのだろうか? 財産は銀行にあって、たぶん開設まもない横浜の支店から引き出し・両替をしているのだろう、と推測。
〇「日本ではいまだに弓がよく使われていて、長さ二~三メートルの弓を方々の店で見かけた。矢がいっぱい入っている漆塗りの箙付きで、一張五十八分(145フラン)である。」
  * 日本からみて 五十八分(145万円)
  * F(S)      145フラン(14.5万円)
「本は実に安価で、どんな貧乏人でも買えるほどである。」
 〇玩具の小鳥が入っている鳥籠 5~6スー  F(S) 250~300円
 〇玩具 仕掛けで動く亀      3スー     F(S) 150円
〇王子 川ぞいの有名な茶屋での昼食
  勘定書 六分 15フラン
  * 日本からみて 六分(15万円)
  * F(S)      15フラン(15000円)

第七章 日本文明論  (省略、もしくは次回)


大金持ちのシュリーマン、横浜・江戸の物価に、どう感じてたんでしょうか。
それとも、たんに金銭の交換比率に、おおきな開きがあるな、という話かな。

参考  引用・抜粋
   『シュリーマン旅行記 清国・日本』 ハインリッヒ・シュリーマン 石井和子訳 講談社学術文庫
HP 『オペラ座の音響室』 「1フラン」の記述も参考にしました。
  

シュリーマン 幕末の横浜・江戸観光

2010-05-25 | 幕末

シュリーマン 幕末の横浜・江戸滞在を、時系列で追ってみます。

「上海から東洋蒸気船会社所属の蒸気船北京号に乗り、日本の横浜に向かった。・・・」
  『シュリーマン旅行記 清国・日本』(注1) 第4章 江戸上陸、の冒頭部

1865年6月1日
  朝6時 東シナ海 日本で最初の小さな岩ばかりの島が見える地点
   「私は心躍る思いでこの島に挨拶した。・・・私はかねてから、この国(日本)を訪れたい
   という思いに身をこがしていたのである。」
  朝10時 噴火中の硫黄島(鳥島)近海を通過
  正午から午後7時 九州沿海を航行
6月3日
  富士山の見える地点
  午後4時 相模(三浦半島) 江戸湾に入る
  夜10時 横浜港に投錨
1865年6月4日(日) (慶応元年(乙丑 きのと・うし)(五月小)5月11日
  小船に乗換え、横浜上陸
  税関での検査 居留地のホテルへ 横浜の町の見学(この当時の人口 4000人)(?)
6月7日・8日
  (横浜の外国新聞、および道路上の立て札に)
  大君(14代家茂)、帝を訪ねるため、10日に東海道を通る旨の通告が出る
  (実は長州再征、3回目の上洛)
6月9日
  横浜の英国領事の発表 外国人が行列を見物できるよう、許可を得る
6月10日 (慶応元年5月17日
  大君の行列見物(程ヶ谷(現 保土ヶ谷)の集合所)(注2)
  土地柄を観察するために、歩いて行った(4マイル 6km強)
  外国人 100人くらい、警備の役人 30人くらい、が集まっていた
  大君の行列は1700人ほどであった
6月11日
  東海道を散歩
  行列を見たあたりの道で、3人の死体(前日の事件のあと、放置されたまま)を見つける

6月18日(日)
  午後3時15分 絹の生産地・八王子を目指して出発 イギリス人 6人と、雇い馬丁 7人
  町から3マイル さる有名な石碑(記念碑)の前を通る
           (2世紀前、キリスト教徒が追放・虐殺された時代に建てられた)(?)
  豊願寺で休憩 養蚕地へ入る
  夕方6時 原町田(村)に着く 茶屋の二階に宿泊 一晩中雨
6月19日 どしゃ降り
  午前10時30分 出発
  午後1時近く 八王子に到着
  八王子の茶屋に到着 町の散策
  夕方5時頃 八王子を出る 7時に原町田、着 宿泊
6月20日
  朝、出発 横浜へ戻る

1865年6月24日
  横浜のアメリカ総領事フィシャー氏からの招待状
  (江戸の代理公使ポートマン氏を訪問するよう)が届く
 「敬愛する友人たち、横浜のグラヴァー商会の友人たちの親切なとりなしのおかげ・・・」
  出発準備
  晩 荷物を江戸へ送り出す
  クラーク氏より馬を一頭借りる
6月25日(日) どしゃ降り
  朝 8時45分 江戸に向けて出発
  騎馬警護の役人 5人 別当(馬丁) 6人
  15分ほどで神奈川宿、着
  最初の茶屋での休憩 「お茶を16杯たのんだ」
  二番目の茶屋 食事休憩
  昼ごろ 江戸の港に着く(大森?、品川のこと?)
  午後1時ごろ 江戸の町(どこ?)に入る
  午後2時ごろ 善福寺にあるアメリカ公使館に到着
  代理公使ポートマン氏による「要塞」(公使館周り)の案内
  どしゃ降りの雨 入浴後、別の警備の役人5人と、ふたたび出発
  大名屋敷を通過
  愛宕山に着く 江戸の景観、展望する
  江戸城を一巡する
  夕方7時ごろ 公使館に戻る
  夕食のあとポートマン氏と、もう一度要塞(公使館周辺)を巡回
6月26日 一ヶ月ぶりに晴れ
  朝 他の公使館を訪問するために馬で出発
  警護の武士 5人付き添う
  済海寺にあるフランス公使館へ行く 無人、放置されたまま
  (公使は江戸の刺客を恐れ、いつも横浜にいる)
  長応寺にあるオランダ公使館へ行く(オランダ代理公使も横浜)
  東禅寺にあるイギリス公使館へ行く
   (1861年7月 オールコック卿、襲撃さる)
   (1862年7月 臨時公使オニール大佐、襲撃さる)
  アメリカ公使館に戻って昼食
  午後 別の5人の役人とともに浅草観音寺の見物に出かける
  商業地域(どこ?)での見物
  浅草観音寺の山門に着く 寺の脇の墓地で馬を別当に預ける
  警護の武士5人と寺内を見て廻る
  境内の見世物を全部見て回る とりわけ独楽の曲芸に感嘆する
  大劇場での大芝居見物(役人の猛反対を押し切って)
  夕方の6時 劇場を出る
  7時半 善福寺の公使館へ帰着
6月27日
  5人の役人とともに早朝出発
  予定 団子坂にある苗床と公園、王子にある茶屋、帰路もう一度、浅草観音寺
      35マイル(55、6キロ)の周遊
    「すべてを見物し、さらにメモをとる時間を得るためにはかなり早足で廻らなくては
    ならない。」
  大名屋敷、練兵場、江戸城の堀沿いを通り、城の北端へ
  「町の低地帯を下り、もっとも賑やかな界隈へ」(神田神保町(?))
  加賀前田加賀守の屋敷から別荘地帯(下屋敷)へ
  2時間半駆け、団子坂の苗木園に着く
  王子へ行く 王子権現(現 王子神社)に登る
  予約しておいた茶屋(扇屋?)に行く 昼食
  浅草観音寺へ向かう 途中、学校(寺子屋)と鍛冶屋へ立ち寄る
  浅草観音寺とまわりの娯楽場で過ごす
  善福寺へ戻る
6月28日
  4時半に鐘の音で目が覚める
  朝の勤行を見ようと、急いで身支度する
   (かぶ注: 築地のまぐろの競り見学と、心境はまったく同じだ!!)
  「寝室を出るやいなや、役人が三人付き添って寺までついてきた。」
  7時半 騎馬役人の護衛とともに出発 別当(馬丁)6人
  深川八幡宮をめざす
  大名屋敷、港近く、大きな商店街を通り、永代橋へ出る
  1時45分 深川八幡宮へ着く
  洲崎弁天へ向かう
  すぐ近くの岸辺の茶屋で休憩
  両国橋を渡って領事館へ戻る
  昼食後、赤羽の寺(光林寺)を訪問
  1861年1月15日に暗殺された、アメリカ公使館付通訳 H・ヒュースケンスの墓へ

  「現在江戸に住む唯一の外国人は公使館員、ポートマン氏、そして私である。」
6月29日 (閏5月7日)
  終日、手記「日本文明論」を書き留めていた(?)
  公使館周辺警護の警邏隊に所属していた高官の葬儀に列席(28日夜、死去)
  護衛の5人の役人と、馬で横浜へ戻る予定
7月4日 (閏5月12日)
  午前9時 イギリスの帆船エイボン号に乗船し、横浜、神奈川沖遊覧
  午後4時ごろ サンフランシスコに向けて出立。
           (世界周遊を完成したくなったため)

シュリーマン 43歳の時のことである。
その後、パリで考古学を学び、トロイア遺跡の発掘へとつながる。


(注1)参考 抜粋・引用
    『シュリーマン旅行記 清国・日本』
      ハインリッヒ・シュリーマン著 石井和子訳 講談社学術文庫
(注2)p.97 画像、についての補足
    『末廣五十三次 程ヶ谷』 朝霞樓芳幾・絵
    (『末廣五十三驛図会』(十四代将軍家茂公の東海道上洛図)芳年等 慶応元年)
    この錦絵に描かれた外国人の一人として、シュリーマンがいた!!(なんか、すごい!!)
(注2)補足の補足(そんなのあり?) 2010.7.15
 「横浜開港資料館」に寄ってみた。神奈川新聞社の記者らしき女性が、受付で、「横浜検定」の件で、と話を切りだしたところだった。こちらは「江戸検定」で、とノドまで出て、飲み込んだ。
 という話ではなくて、書籍販売所にあった『横濱 幕末明治横浜の目撃者たち』
(『横濱』 YOKOHAMA 2010年夏号 Vol.29 平成22年7月3日発行 神奈川新聞社 )をパラパラめくると、シュリーマンの記事(内心、オー)。思わず衝動買い。値段も600円と手頃だった。
 後で読んでみると、「末広五十三次 保土ヶ谷」(p.21)に似たような説明があった。「ほぼ同じ場所であろう」と断定を避けているが、シュリーマンの記述からして、これは断定してよい。
 
参考 『見る・読む・調べる 江戸時代年表』 山本博文・監修 小学館


[追記]
 著書に記述のない日。シュリーマンの行動を推測してみる。
6月5日、6日
 宿舎まわりから、そう動いていない。それに動ける情況でない。
 イギリス・アメリカ・フランス等、各国領事館への挨拶回り、江戸の情報収集。
 グラヴァー商会への挨拶と情報収集。
6月12日~17日
 来日早々、事件に出くわしたシュリーマン。
 より細かい日本および江戸の情報の収集につとめる。
 江戸への訪問ができるよう働きかけをしている。
 18日の行動から逆算して、イギリス人との親密な接触あり。
 八王子への同行イギリス人 6人とは誰のこと?(ここがポイントか?)
6月20日の午後~23日
 グラヴァー商会との接触。
6月30日~7月3日
 30日は移動日。以後、次の訪問国、アメリカ行きの準備。