2. 私の子供の時のはなし
〇略歴(年明けまで) (数字)は数え年。
1852 嘉永5年2月18日(1852.3.8) 町人兼吉の子として、下谷源空寺門前(のちの下谷・北清島町*)に生まれる。本名、光蔵(みつぞう)。のちの徒弟時代、幸吉と呼ばれていた。
1853 嘉永6年 米国の使節ペルリ(ペリー)が浦賀に来た。
1854 安政1年 安政の大地震。
1856 安政3年 大暴風。
1860 万延元年 桜田の変。 (光雲、その時分の事をおぼろげに覚えているとの事。)
1861(10) 文久元年 母の里方、埼玉の東大寺へ奉公の下拵えに行く。(1年間)
1862(11) 文久2年 江戸に戻る。
親類の奥州金華山の住職から寺にほしいという話がくる。
「父は無頓着で、当人が行くといえば行くも好かろうといっていましたが、母は、たった一人の男の子を行く末僧侶にするは可愛そうだといって不承知であったので、この話は中止となった。」
1863(12) 文久3年
十二歳。当時の男の子は、十二になると奉公に出るのが普通であった。
「私は、生れつきか、鋸や鑿などをもって木片を切ったり、削ったりすることが好きで、(中略)親たちもそれに目を附けたか、この児は大工にするがよろしかろうということになった。」
「大工というものは職人の王としてあるし、職としても立派なものであるから、腕次第でドンナ出世もできよう、好きこそ物の上手で、俺に似て器用でもあるから、行く行くは相当の棟梁にもなれよう・・・」ということで、親類の大工の棟梁の家へ奉公に行くことになった。
3. 安床の「安さん」の事
で、奉公に行く前日に、髪を結ってもらおうと町内の「安床」という床屋に行った。
「安床は、大工は、職人の王なれば、大工になるは好かろうと大変賛成しておりましたが」・・・
人から頼まれていたことを思い出す。
「その人は、高村東雲という方だが、久方ぶりに此店へお出でなすって、安さん、誰か一人好い弟子を欲しいんだが、心当たりはあるまいか、一つ世話をしてくれないかと頼んで行ったんだ。」
安さんの話をいろいろと聞いて、光蔵、その気になった。
『それじゃア小父さん、私は大工よりも彫刻師になるよ』
その夜、安床は父・兼吉を訪ね、それまでのいきさつを話し、兼吉も、彫刻の方がよかろうということになった。
そして翌日には安床は光蔵をともない東雲師匠宅へ出むいた。
高村東雲。須原屋茂兵衛出版の『江戸名所図会』を専門に摺った奥村籐兵衛の倅、
籐次郎。光雲の生まれた長屋と同じ下谷源空寺門前の出。
光蔵(のちの光雲)の一生の運命は、この安さんの口入れで決まったようなものだ。
「後年私はこの安さん夫婦の位牌を仏壇に祭り、今日でもその供養を忘れずしているようなわけである。」
1863(12) 文久3年亥年 3月10日、仏師・高村東雲のもとで徒弟となる。
1864(13) 元治元年(甲子年・きのえねどし) 師匠東雲は「大黒様」をたくさんこしらえた。
徒弟2年目の幸吉(光蔵)は、まだその手伝いもできなかった。
1965(14) 慶応元年丑年12月14日 浅草の大火。
浅草三軒町から出火。当時、師匠東雲の家は浅草諏訪町。焼失した。
1968(17) 慶応元年辰年5月15日 上野の戦争。当時、師匠東雲の家は浅草駒形町。
1874(23) 明治7年3月10日 年季を勤め上げ、年明け(今でいう卒業)となる。
師匠東雲より、「光雲」の号を授与さる。
師匠東雲の姉エツ(悦)の養子となり、中島から高村姓となる。
* 下谷・北清島町(下谷源空寺門前) 現在の東上野6か、松が谷2(?)
〇略歴(年明けまで) (数字)は数え年。
1852 嘉永5年2月18日(1852.3.8) 町人兼吉の子として、下谷源空寺門前(のちの下谷・北清島町*)に生まれる。本名、光蔵(みつぞう)。のちの徒弟時代、幸吉と呼ばれていた。
1853 嘉永6年 米国の使節ペルリ(ペリー)が浦賀に来た。
1854 安政1年 安政の大地震。
1856 安政3年 大暴風。
1860 万延元年 桜田の変。 (光雲、その時分の事をおぼろげに覚えているとの事。)
1861(10) 文久元年 母の里方、埼玉の東大寺へ奉公の下拵えに行く。(1年間)
1862(11) 文久2年 江戸に戻る。
親類の奥州金華山の住職から寺にほしいという話がくる。
「父は無頓着で、当人が行くといえば行くも好かろうといっていましたが、母は、たった一人の男の子を行く末僧侶にするは可愛そうだといって不承知であったので、この話は中止となった。」
1863(12) 文久3年
十二歳。当時の男の子は、十二になると奉公に出るのが普通であった。
「私は、生れつきか、鋸や鑿などをもって木片を切ったり、削ったりすることが好きで、(中略)親たちもそれに目を附けたか、この児は大工にするがよろしかろうということになった。」
「大工というものは職人の王としてあるし、職としても立派なものであるから、腕次第でドンナ出世もできよう、好きこそ物の上手で、俺に似て器用でもあるから、行く行くは相当の棟梁にもなれよう・・・」ということで、親類の大工の棟梁の家へ奉公に行くことになった。
3. 安床の「安さん」の事
で、奉公に行く前日に、髪を結ってもらおうと町内の「安床」という床屋に行った。
「安床は、大工は、職人の王なれば、大工になるは好かろうと大変賛成しておりましたが」・・・
人から頼まれていたことを思い出す。
「その人は、高村東雲という方だが、久方ぶりに此店へお出でなすって、安さん、誰か一人好い弟子を欲しいんだが、心当たりはあるまいか、一つ世話をしてくれないかと頼んで行ったんだ。」
安さんの話をいろいろと聞いて、光蔵、その気になった。
『それじゃア小父さん、私は大工よりも彫刻師になるよ』
その夜、安床は父・兼吉を訪ね、それまでのいきさつを話し、兼吉も、彫刻の方がよかろうということになった。
そして翌日には安床は光蔵をともない東雲師匠宅へ出むいた。
高村東雲。須原屋茂兵衛出版の『江戸名所図会』を専門に摺った奥村籐兵衛の倅、
籐次郎。光雲の生まれた長屋と同じ下谷源空寺門前の出。
光蔵(のちの光雲)の一生の運命は、この安さんの口入れで決まったようなものだ。
「後年私はこの安さん夫婦の位牌を仏壇に祭り、今日でもその供養を忘れずしているようなわけである。」
1863(12) 文久3年亥年 3月10日、仏師・高村東雲のもとで徒弟となる。
1864(13) 元治元年(甲子年・きのえねどし) 師匠東雲は「大黒様」をたくさんこしらえた。
徒弟2年目の幸吉(光蔵)は、まだその手伝いもできなかった。
1965(14) 慶応元年丑年12月14日 浅草の大火。
浅草三軒町から出火。当時、師匠東雲の家は浅草諏訪町。焼失した。
1968(17) 慶応元年辰年5月15日 上野の戦争。当時、師匠東雲の家は浅草駒形町。
1874(23) 明治7年3月10日 年季を勤め上げ、年明け(今でいう卒業)となる。
師匠東雲より、「光雲」の号を授与さる。
師匠東雲の姉エツ(悦)の養子となり、中島から高村姓となる。
* 下谷・北清島町(下谷源空寺門前) 現在の東上野6か、松が谷2(?)