かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

アオーレ長岡

2013-01-30 | 新潟 長岡
シティホールプラザ 「アオーレ長岡」







シアターで「長岡の大花火」を3D・4K映像で見ました。
毎年8月1日に一発の花火が打ち上げられます。これは、昭和20年(1945年)8月1日の長岡大空襲を忘れない、そして空爆被災の鎮魂の一発だそうです。
8月2日・3日の「長岡まつり」。これでもか、これでもかという打ち上げ花火の連続は、大音響とともに3D映像の効果もあいまって大変な迫力でした。
最後に、~慰霊 世界平和 復興~のメッセージ。見終わって大感激。長岡は、平成16年(2004年)10月13日の新潟県中越地震(中越大震災)でも大きな被害を出しました。復興・復旧をめざし、みんなが一丸となって前に進むには、なにか芯になるもの、ここ長岡でいえば大花火大会が必須であることを痛感しました。

リーフレットの説明から
4K フルハイビジョン解像度の約4倍の超解像度の映像・表示技術。
正三尺玉
ナイアガラ(大瀑布)
復興祈願花火「フェニックス」

アオーレ長岡
新潟県長岡市大手通1-4-10 JR長岡駅より徒歩数分。


JR長岡 駅前









池上本門寺歴代貫首(貫主・住職) 2

2013-01-27 | 池上本門寺の歴史

21世 日養 1625~1673 (寛永2~寛文13・延宝1)
     俗姓・蔭山氏。伊豆・加殿の出。養珠院お万の方の甥。
     玉沢妙法華寺・日通(のち両山20世、身延30世)に就いて出家得度。
     飯高に学び、のち14世化主となる。大野山本遠寺、玉沢妙法華寺に瑞世。
     寛文12年(1672)、両山普山。病のため翌年遷化。
22世 日玄 1634~1704 (寛永11~宝永1)
     江戸の大久保氏。谷中・瑞輪寺で出家得度。飯高城下谷の出身。
     寛文13年(1673) 真間弘法寺より普山。在住31年。
     元禄2年(1689) 南谷檀林の開設。
     元禄年間、池上本門寺は内外にわたり整備される。
     ■ 元禄11年(1698) 碑文谷法華寺、谷中感応寺 天台宗へ改宗。(幕命)
     ■ 元禄年間の頃より、お会式・万灯行列は江戸を代表する行事となる。
23世 日潤 1660~1717 (万治3~享保2)
     宝永元年(1704) 普山。在住13年。
     ● 宝永7年(1710)10月13日 池上本門寺火災。諸堂焼失す。
      (この時、日本三大大堂と称された四十間四方の祖師堂焼失)
     ● 同年、紀州徳川吉宗正室・寛徳院逝去、当山へ葬送。
     ● 正徳3年(1713) 吉宗側室・深徳院(徳川家重生母)逝去、当山へ葬送。
〇正徳6年(享保元年・1716) 徳川吉宗、8代将軍となる。
〇徳川幕府・享保の改革(質素倹約政治)
24世 日等 1652~1733(享保18年) (日潤の法兄)
     享保元年(1716) 普山。在住11年。
     享保8年(1723) 祖師堂の再建。徳川吉宗の寄進。
             (昭和20年4月、空襲をうけて焼失)
     享保11年(1726) 日等、紫衣を許さる。
25世 日顗 1681~1753(宝暦3) (にちぎ)
     享保12年(1727) 普山。
     享保15年(1730) 釈迦堂、再建(昭和20年、空襲で焼失)
     享保16年(1731)9月・10月 宗祖四百五十遠忌を奉修す。
26世 日芳 1672~1755(宝暦5)
     元文元年(1736) 真間弘法寺より普山。
27世 日章 1691~1754(宝暦4) (顗弟)
     寛延元年(1748) 真間弘法寺より普山。
     (江戸市中における開帳講中、この頃より賑わう)
28世 日侃 1695~1760(宝暦10) (にちかん・にっかん)(日顗弟)
     宝暦4年(1754) 中山法華経寺(隠居)より普山。
     ■ 宝暦5年 江戸下谷法養寺に池上本門寺旅立祖師出開帳す。
29世 日顕 1691~1767(明和4) (玄弟)
     宝暦10年(1760) 小松原鏡忍寺より普山。
30世 日利 1707~1785(天明5) (日顗弟)
     明和4年(1767) 真間弘法寺より普山。

31世 日広 1712~1783(天明3) (芳弟)
     明和9年(1772) 仙台孝勝寺(隠居)より普山。
32世 日継 1710~1777(安永6) (利弟)
     安永4年(1775) 真間弘法寺より普山。
33世 日謙 1717~1790(寛政2) (等弟)
     安永6年(1777) 真間弘法寺より普山。
     天明4年 輪蔵の再建。(松平周防守室・浄心院、松平播磨守室・遠紹院)
          松平讃岐守室・永昌院、大蔵経を寄進す。
     ■ 天明8年 浅草わら店にて池上旅立祖師出開帳す。
〇天明3年~8年(1783~1788) 天明の大飢饉。
〇徳川家斉、11代将軍となる。(在位 天明7年・1787~天保8年・1837)
〇徳川幕府・寛政の改革 (筆頭老中・松平定信)
34世 日洪 1717~1800 (侃弟)
     寛政2年(1790) 真間より。
35世 日統 1721~1793 (顕弟)
     寛政5年(1793) 真間より。
36世 日勢 1720~1799 (利弟)
     寛政5年(1793) 真間より。
37世 日観 1720~1798 (広弟)
     寛政8年(1796) 真間より。
38世 日棟 1728~1800 (侃弟)
     寛政10年(1798) 真間より。
39世 日憲 1729~1800 (章弟)
     寛政12年(1800) 下総行徳妙応寺より。
40世 日性 1730~1806 (謙弟)
     寛政12年(1800) 浅草実相寺(隠居)より普山。
 
〇化政文化
神社・仏閣への参詣が遊山、花見、納涼などと結びつき祭礼はすこぶる盛んとなる。
41世 日洋 1736~1817 (顕弟)
     文化2年(1805) 真間より。
42世 日譲 文化 飯高文講 (謙弟)
43世 日摂 文政 本行院・真間山 (顗弟)
44世 日戒 文政 飯高・本行寺・真間山
45世 日意 文政 飯高・真間山 (洋弟)
46世 日詳 文政 飯高・真間山 (章弟)
47世 日教 1754~1844(天保15)(91) 如山系 越後・柿崎の出。俗姓・平野氏
     文政8年(1825)、普山。江戸各所において池上多宝塔再建の勧進(発願)。
     文政11年(1828)、多宝塔上棟。
     天保2(1831).10.13 宗祖五百五十遠忌奉修す。
     両山退位後も比企谷の再建に励む。「金槌教師」の名あり。
48世 日萬 1763~1838(天保9)(76)武州・大森の出。俗姓・小島氏。(章孫弟)
     天保2年(1831)、浅草大仙寺・飯高・真間より普山。
     天保7年(1836)、雑司谷・長耀山感応寺の開山。(池上末)
     (長耀山感応寺の初代住職は日詮(中延法蓮寺より))
49世 日暲 1762~1846(弘化3年)(85)
     飯高・真間山より普山。
〇大御所家斉没。 天保12年(1841)閏1月
〇天保改革(質素倹約の政治) 天保12年(1841)5月 将軍家慶、老中・水野忠邦
     ■ 天保12年(1841)、天保の改革による鼠山感応寺の取壊し(幕命)
50世 日修 弘化 飯高・柳島 (柳島顓弟)

51世 日隣 弘化 飯高・真間山 (戒弟)
52世 日遵 嘉永 飯高・本行院 (教弟)
53世 日正 嘉永 飯高・真間山 (止静雄孫弟)
54世 日英 1777~1865(慶応元年)(87)
     嘉永3年(1850)、浅草・大仙寺より両山54世へ。
     ● 優陀那院日輝、南谷檀林へ出講する。
〇ペリー浦賀に入港 嘉永6年(1853)
55世 日操 1775~1858(安政5年)(84) (洋弟)
     嘉永6年(1853)、真間山より普山。
56世 日官 安政・万延 真間山 (洋弟))
57世 日伝 文久 真間山 (教弟)
58世 日霑 文久 新曽 (譲弟) (にってん)
59世 日僖 文久・慶応 柳島 (修弟)
60世 日運 1800~1878(明治11年)
     慶応元年(1865)、下谷善立寺より60世へ。(~明治7年・1874) 在山10年
● 慶応4年(明治元年)(1868)4月1日-13日 池上本門寺、征東軍先鋒橋本少将・副総督柳原侍従の宿舎となる。13日、征東大総督有栖川宮の宿舎に充てられる。
●この間、勝海舟と西郷隆盛は池上本門寺において、非公式に会見。
     池上貫首は品川蓮長寺に退き、一時待機した。

〇明治
〇明治維新政府、宗教政策の大転換をはかる。
 明治元年~5年頃 神仏分離令。廃仏毀釈(仏教弾圧)
61世 日大 1815~1881(明治14年) (暲弟)
     明治7年(1874)、池上普山。
     明治9年(1876)、日蓮宗第2代管長となる。(新居日薩管長の後任)
62世 日昇 1832~1891 (充洽園四傑、感応寺系) 越後の人、俗姓・小林。
     母の兄、鎌倉実相寺・日京のもとで剃度す(6)。
     水府三昧堂、飯高檀林、加賀(金沢)充洽園で勉学す。
     明治10年(1877)、新居日薩の要請により62世を継ぐ(46)。
     明治11年、池上中教院の創設。
     明治14年(1881)10月、宗祖六百遠忌を修す。
     (御遠忌奉行のため巡錫勧財す。その時、上総で酒井日慎(27)を見出す)
63世 日軌 1806~72(加歴63世) 大車院文貞日軌(徴弟)。旧号・日運。越後柏崎。
     秩父浄蓮寺、江戸善国寺、柏崎妙行寺歴世。新居日薩の師。
     鼠山感応寺建立、征東軍宿舎使用時は、池上本門寺の寺務を担当した。
64世 日振 1847~1887 
     明治15年、64世を継ぐ。(充洽園四傑・三村日修学弟)
65世 日薩 1830~1888(天保元年~明治21年) 文明院文嘉日薩。日蓮宗中興。
     群馬・桐生、新居家の出。大車院日軌のもとで出家・得度す。
     飯高檀林、金沢立像寺・充洽園に学ぶ。
     明治6年、諸宗同徳会盟、日蓮宗代表の一人となる。
     明治7年、身延久遠寺住職(73世)。同年、日蓮宗一致派初代管長となる。
     ■ 明治9年、宗名「日蓮宗」公許となる。
     明治19年、池上本門寺65世を継ぐ。

(注)敬称、上人称、略しました。


リンク 池上本門寺歴代貫首(貫主・住職) 1




柴又帝釈天 題経寺―法華経説話彫刻 10枚目(最終図)

2013-01-26 | 法華経入門
10 法師守護の図  陀羅尼品



   法師守護の図  陀羅尼品 第二十六
 「法華経」を受持・読・誦・解説・書写することを、法師の五種の修行と言います。まず経をたもつことを誓い、読み、あるいは誦して、説き明かし、経文を書写して法華経をひろめます。修行する法師を天人も阿修羅も協力して守護するのです。
                         加藤寅之助 作(彫刻)



・陀羅尼(だらに) 梵名ダーラニー(呪文)、秘密の語。
陀羅尼品 第二十六 陀羅尼呪によって「法華経」を受持する人々を守護すると説く。


参照 1.に同じ。
『法華経 (下) 』 岩波文庫 272p.



 

柴又帝釈天 題経寺―法華経説話彫刻 9枚目

2013-01-25 | 法華経入門
9 常不軽菩薩受難の図 常不軽菩薩品
  法華経功徳の図 薬王菩薩本事品



   常不軽菩薩受難の図  常不軽菩薩品 第二十
   法華経功徳の図  薬王菩薩本事品 第二十三
 常不軽(じょうふぎょう)ぼさつは、「常に人を軽べつしない」という修行をしていましたが、却(かえ)って迫害を受けました。又、「法華経」は、寒さに火を得たように、子のところに母親が来たように、渡りに舟を得たように、闇に灯りを得たように 救いの道を示すのです。
                           小林直光 作 (彫刻)


衆人或以 杖木瓦石 而打擲之
避走遠住 猶高聲唱言
我不敢 輕於汝等 汝等皆當作佛
以其常作是語故

号之爲常不輕

衆人(もろびと、あまたのひと)、或いは杖木・瓦石を以って
これを打擲(ちょうちゃく、うちたたく)すれば、
避け走り、遠くに住(とどま)りて 猶、高声(こうしょう)に唱えて言わく
「われ敢えて汝等を軽しめず、汝等は皆当(まさ)に仏と作(な)るべし」と。
それ、常にこの語(ことば)を作すを以っての故に、

これを号(なづ)けて常不軽となせるなり。


常不軽菩薩品 第二十  世尊(仏、釈迦牟尼仏)が、得大勢菩薩(大勢至)に語る。
・常不軽菩薩  サダー・パリブータ(常に軽蔑される男、の意。)
常不軽菩薩とは、遠い遠い昔(前世)の、世尊(仏、釈迦牟尼仏)のことである。


此經能救 一切衆生者

如寒者得火 如子得母
如渡得船 如暗得燈
此法華經 亦復如是

此の経は能(よ)く 一切衆生を救うものなり。

寒き者の火を得たるが如く、 子の母を得たるが如く、
渡りに船を得たるが如く、 暗(くらやみ)に燈(ともしび、あかり)を得たるが如く、
この法華経も亦復(また)、かくの如し。


薬王菩薩本事品 第二十三  仏、宿王華菩薩に語る。
捨身供養を捧げた一切衆生喜見菩薩とは、薬王菩薩のことである、と。
  

参照 1.に同じ。
『法華経(下)』 岩波書店  134・136p.
               200・202p.