かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

池上本門寺 「深徳院墓所」調査現場の見学会(予定)

2012-07-31 | 池上本門寺・池上市民大学
最近は「池上市民大学」の記事を載せてませんでしたが、講座のお知らせハガキに、表題の「深徳院墓所」調査現場の見学会の案内が記されてました。これは行くしかない。

その前に、すこし予習をしておこうという次第です。
深徳院 1688年~1713年(元禄元年~正徳3年10月24日) 享年26歳
紀州藩第5代藩主・徳川吉宗(のち徳川8代将軍)の側室。第9代将軍・徳川家重の生母。
俗名は大久保氏、須磨(須摩)。家重は江戸赤坂の紀州藩邸の生まれ。
戒名は深徳院妙順日喜大姉。墓所・池上本門寺。
宝暦13年(1763)、従二位追贈。

吉宗が将軍職に就いたのは享保元年(1716)なので、深徳院(お須磨の方)については、紀州徳川家時代のことである。
吉宗のあと、長男・家重が徳川第9代将軍になったことにより、池上本門寺は紀州徳川家の菩提所に加え、徳川宗家菩提所の一つになった。




発掘調査に入る直前の「深徳院墓所」


参考 深徳院 - Wikipedia



池上の寺めぐり・朗師講 4.本妙院~5.理境院

2012-07-31 | 池上の寺めぐり・朗師講
小さな旅 池上の寺めぐり・朗師講 4・5
4 本妙院
5 理境院
6 池上本門寺 (別途)


4 本妙院 山号:朗栄山
大田区池上1-33-5








本妙院の案内板
池上の寺めぐり 本妙院
 縁 起
本門寺二世 日朗聖人の直弟子日傳聖人が庵室として池上の西谷に開創(年代不明)。旧称は妙蔵坊。元亀四年(1573)火災で焼失。本門寺第十二世 日惺聖人が当時の住持 本妙院日逗聖人に再建の資助を与え、南谷外溝の道端に移築再興し、本妙院とよばれるようになった。元禄3年(1690) 本門寺の防災のため支院の整備、配置換え、総門の建立、此経難持阪(石段)の改修などが行なわれ、本妙院も現在地に移されたという。






5 理境院 山号:妙祐山
大田区池上1-34-3

理境院の赤門
石碑 両山三世・當山開基 日輪上人草庵跡




理境院 本堂

扁額 妙祐山

理境院の案内板
池上の寺めぐり 理境院
 縁 起
元亨年間(1321~1324) 本門寺三世 日輪聖人の住坊として開創。大坊本行寺、照栄院と共に池上三院家の一つに列せられ、古来より朱塗りの山門(赤門)を許される。延宝年間(1673~1681)に長澤氏の母 理境院妙性日貞尼の寄進の法功をたたえ理境院と改称。慶応三年(1867) 官軍の江戸城明け渡し要求の際に、官軍参謀西郷隆盛は当院を宿舎にあてたと伝えられる。明治十一年(1878) 堂宇を小学校校舎に使用、池上小学校の前身となる。


〇池上本門寺歴代
 2世 日朗聖人 (鎌倉時代)
 3世 日輪聖人 (南北朝時代)
12世 日惺聖人 天文・天正・慶長年間。
天正18年(1590) 徳川家康、江戸へ入府。この後、日惺聖人は比企谷から池上に移住し、以後両山貫主は池上に常住する。
〇日傳(日伝)聖人 朗門の九老僧 (鎌倉時代)
〇本妙院日逗聖人

日朗聖人、日輪聖人のこと (当ブログ内でのリンクです)
『日蓮聖人 六老僧』 (宗史概論)
『日朗上人 朗門の九鳳(九老僧)』



池上の寺めぐり・朗師講 1~3 中道院・常仙院・本成院

2012-07-28 | 池上の寺めぐり・朗師講
小さな旅 池上の寺めぐり・朗師講 1~3
1 中道院
2 常仙院
3 本成院

1 中道院
大田区池上1-35-5




中道院の案内板
池上の寺めぐり 中道院
 縁起
日蓮聖人の滅後、直弟子 日頂聖人が開いた庵室を起源とする。もとは本門寺の南の谷の先にあり、いつの時代にか当地に移された。本門寺十世 中道院日陽聖人がここに隠棲したので中道院とよばれるようになる。本門寺二十五世 日顗聖人の庵室(場所は不明)不二庵が日顗聖人没後の宝暦四年(1754)中道院と合併。かつては、日顗聖人の法脈に連なる本門寺貫首の退隠後の庵室であり、現在はその位牌所となっている。

2 常仙院 山号:東照山
大田区池上1-33-1




常仙院の案内板
池上の寺めぐり 常仙院
 縁起
天文十八年(1549)本門寺九世日純聖人の退隠後の庵室として開創。もとは玉蔵坊と称した。常仙院開創に関わる伝説によると、蒲田御園村の豪士 月村宗観の葬送の際に落雷と共に妖怪が出現して死者の右腕を持ち去ったが、日純聖人の祈念によりその腕が戻った。日純聖人はこの怪異が自分の不徳の致すところとして本門寺を退き当地に隠棲したという。以来、雷除けの護符を乞う者が多く門前市をなしたと伝えられる。
一説では、日朗聖人の直系日範聖人の庵室跡ともいわれる。天保13年(1842)、鼠山感応寺の廃寺にあたり、住持妙沾院日詮聖人は当寺に隠棲した。東京大空襲で南谷檀林山門と共に全焼した。戦後、復興した。
前住職野坂法山師は仏像彫刻家であり、池上本門寺の本殿に勧請の一尊四士像の内、安立行菩薩像、祖師像を彫刻された。その作品は全国に及ぶ。(参考 常仙院「沿革」)


小学生の男の子、2人して「寺めぐり」のスタンプ・ラリー。エールをおくりました。


池上本門寺の参詣は、東急・池上駅方面からだと、ここらからがお寺の雰囲気になります。おおきな題目塔、その左手は蕎麦店「本門寺そば」。題目塔をすぎて、霊山橋を渡れば、参道の両側に山内寺院、正面に総門です。

大石塔(題目宝塔、題目塔)

文化8年(1811)建立。題目の文字は本門寺43世日摂聖人による。

霊山橋(りょうぜんばし)



3 本成院 山号:喜昇山
大田区池上1-35-3






本成院の案内板
池上の寺めぐり 本成院
 縁起
弘安五年(1282)日蓮聖人の直弟子日向聖人の庵室として開創。はじめは池上の北谷の地「とどめき」という所にあり、北之坊または喜多院とよばれた。その後、東谷にあった本成坊が廃寺となりこれと合併、再興された。
 慶長年間(1596~1615)本門寺十三世 日尊聖人の隠棲地として整備されたが、宝永年間(1716~1736)に現在地に移り債権、本成坊と称するようになった。


 本成院縁起
当院は山号を喜昇山、旧称は喜多院(北の坊)と称す。本門寺の旧塔頭寺院です。
寺伝によりますと、当院は佐渡阿闍梨日向上人の開基なり。日蓮大聖人の直弟で六老僧の一人にして、弘安五年池上に御来向の砌 池上右衛門大夫宗仲は草庵を造り、日向上人を住居せしめたといわれています。
当院は、はじめは池上の北谷の地、桐ヶ谷の北の端、とどめきという所にあって、北の坊または喜多院とよばれましたが、日舜上人の代に東谷にあった本成坊が廃坊になったので、これと合併・再興されました。この本成坊は日蓮大聖人の直弟で、中老僧の日源上人の庵室であったと伝わる。
慶長年間に本門寺十三世日尊上人が当院を隠棲の場所と定め、寺域の整備、充実に心がけたので寺観は一新しました。その後宝永年間の火災で焼失したので、十五世喜多院日實大徳が享保年間に現在地に移して再建、本成坊と称するようになったといわれています。                    以上
                東京都大田区池上一丁目三十五番三号
                                 喜昇山 本成院

観音堂



参考  冊子 『朗師講スタンプラリー 小さな旅 池上の寺めぐり』
     HP 『日蓮宗東京都南部宗務所』>各寺院の紹介


〇日頂聖人(伊予阿闍梨、俗姓・南条氏) 六老僧 (鎌倉時代)
〇日向(にこう)聖人(佐渡阿闍梨・安立院)六老僧 身延山久遠寺2世 (鎌倉時代)
〇日源聖人 中老僧 (鎌倉時代)
〇池上本門寺歴代
 9世 日純聖人  室町時代、天文年間。
10世 中道院日陽聖人 室町時代、天文年間。
13世 日尊聖人  慶長年間(関ヶ原の戦い、江戸幕府開府の頃)。
25世 守玄院日顗(にちぎ)聖人  江戸時代、享保の頃。
43世 日摂聖人 江戸時代の後期。




土用の丑の日~ウナギ~新月

2012-07-26 | (旧) 暦
2012.07.26

たまたまつけていたラジオ(NHK)に釘付けになった。明日27日は土用の丑の日。
旧暦のことでなく、池上本門寺のほうろく加持のことでなく、うなぎの蒲焼のことでなく(すこし関係あるかもしれない)、ニホンウナギの生態についての話だった。
ニホンウナギを研究している東京大学海洋研究所の塚本先生が、マリアナ諸島西方海域から-今日- 、日本に戻ったその足でNHKのラジオ番組に出てこられた。
そのなかで、ニホンウナギの産卵場所は前出のマリアナ諸島西方海域である、産卵は6月と7月の新月(前後4日、4日の間)に一斉産卵する、と言っていました。(近所の川や海ではないです)北赤道海流に乗り、それから黒潮に乗換え、はるばると3~4,000kmの旅をして日本の川にやってくるとのことでした。

やはり、土用の丑の日と、うなぎの蒲焼き、ウナギの稚魚(シラスウナギ)の採集が激減していること等を絡めての放送だったのかな。


旧暦ブログを記事にしている身としては、「新月」の語に反応してしまいました。
そして、遠く離れたマリアナ海域で6月・7月の新月に一斉産卵するニホンウナギ。なにか考えさせられることが多いです。
6月の新月 6月20日 (旧暦 5月朔)
7月の新月 7月19日 (旧暦 6月朔)

朔(さく)・朔日 月の始め。「月立ち」から転じて「ついたち」ともいう。旧暦の1日。
太陽・月・地球が並ぶ。人間以外の生き物は、自然界のおおいなる力の変化を敏感に感じとっているのだろうと思う。