かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

赤羽・善徳寺のお竹如来と町名主・馬込家

2011-04-27 | 都内散策・江戸検定

赤羽・善徳寺境内の、お竹如来へも足を延ばしました。
レトロな団地群(桐ヶ丘)の端っこにあります。


善徳寺 浄土宗

お竹如来の幟旗




お竹如来像

毎月十九日は、お竹様のご縁日




馬込家墓地




馬込家累代之墓


側面


案内板 馬込家 墓

   馬込家 墓
     北区赤羽西六-一五-二一 善徳寺境内
 善徳寺の墓域内には、江戸時代、大伝馬町の御伝馬役名主として活躍した馬込家の墓があります。
 御伝馬役とは、江戸伝馬役と呼ばれるもので、大小の伝馬町と南伝馬町・四谷伝馬町が五街道と江戸府内近郊へ人馬を継ぎ立てる夫役をいいます。町名主の馬込家は代々、この運営にあたりました。また、他の町で同様の役職にある名主家とともに、苗字・帯刀を許可され、町名主の筆頭として年頭に将軍の御目見えが許されていました。
 馬込家は、遠江国敷智郡馬込村(浜松市)の出身といわれ、本名を平八、当主になると勘解由と称していました。馬込という家名は元和元年(一六一五)五月、大坂落城の後、浜松宿の馬込橋まで徳川家康を迎えた時、五百人の人足引き連れて迎えたことを喜んだ家康から与えられたと伝えています。
 最初、菩提寺は増上寺でしたが、その後、増上寺開山聖聡の弟子の楽誉聡林が開基した善徳寺の檀家となりました。墓地は、善徳寺が数度の火災を受けて、日本橋馬喰町・浅草松葉町へと移転したのに伴って移されましたが、関東大震災によって罹災したため、昭和二年(一九二七)四月に赤羽へ移転した善徳寺とともに現在地へと移りました。
 昭和八年三月
                              東京都北区教育委員会

それで、お竹さん(お竹如来・於竹如来)もこちらに引っ越したということですね。


あとは山形県の羽黒山・荒沢寺正善院にある「お竹大日堂」。気軽には行けない。羽黒三山巡りなんていう機会ができれば、ぜひ立ち寄ってみたいです。

参考  HP 『小さな日本の風景「T.Inuiのホームページ」』(さん)
圧倒的なボリューム、すごいですね。この中の「2009年山登り(山の記録)」、「月山・出羽三山」に正善院黄金堂とお竹大日堂の記事と写真が載っています。現地の雰囲気が伝わってきます。



お竹如来(於竹大日如来)と町名主・馬込家、宝田恵比寿神社

2011-04-26 | 都内散策・江戸検定
お竹さん、「お竹如来」のことは東京タワーの周辺巡り以来、もう少し知りたいものだと思ってはいたが、興味・関心が他にも向いていて、いまいち動きがわるかった。
先だっての、江戸東京博物館 「江戸の町名主」で馬込勘解由、小津清左衛門が紹介されていた。そうだ「お竹さん」!! ということで、歩いてみることにした。
 『東京タワー下 心光院・お竹如来について』 の続編です。

まずは日本橋本町3丁目 小津本館ビル横の奥にある「於竹井戸」跡へ行ってきました。


史蹟 於竹大日如来井戸跡



  於竹大日如来縁起
 於竹大日如来は 寛永十七年(十八才の時)山形県庄内よりでて 当時の江戸大伝馬町馬込家の召使いとなる その行いは何事にも誠実親切で 一粒の米 一きれの野菜も決して粗末にせず貧困者に施した。そのため於竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたという。
出羽の国の行者 乗蓮と玄良坊が馬込家をおとづれ「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である」とつげた。主人は驚き勝手仕事をやめさせ 持仏堂を造り その後念仏三昧の道に入る これが江戸市中に拡がり 於竹さんを拝まうと来る人数知れずと言う
   於竹さんの詠んだ歌に
  手と足はいそがしけれど南無阿弥陀仏
      口と心のひまにまかせて
 延宝八年五月この世を去る 行年五十八
 五代将軍綱吉公の母堂桂昌院の歌に
  ありがたや光と共に行く末は
      花のうてなに於竹大日
於竹さんが愛用し貧困者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にあった
   昭和四十六年五月吉祥
      史蹟 於竹大日如来保存会

ここでの於竹さんの奉公先は馬込家である。以前、紹介した東京タワー下の心光院での縁起には佐久間家とある。




小津本館ビル・小津和紙
ここの2階にある「小津資料館」は必見。紙問屋・小津清左衛門店のことは別途項目を立てないとだめなくらいです。それにしても、創業350年、現在に至るというのはすごいです。


すぐそばの宝田恵比寿神社にも寄ってみました。

正一位寳田稲荷大明神の幟旗


宝田恵比寿神社
「史蹟 於竹大日如来井戸跡」の碑と同じ小路。ほぼ、はす向かいです。




  宝田神社・恵比寿神 御縁起と大伝馬町の由来
宝田神社は慶長十一年の昔三百六十余年前 江戸城外宝田村の鎮守様でありました。徳川家康公が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村の転居を命ぜられ(現在宮城内楓山附近)ましたので 馬込勘解由と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申上げ 住民を引率してこの地に集団移轉したのであります。
馬込勘解由と云う人は家康公が入府の時三河の国から随行して、此の大業を成し遂げられた功に拠り、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので 平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申上げたのが今日に至ったのであります。作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。
其の後村民の生活は金銀為替、駅伝、水陸運輸、それぞれ重要な役を賜り 馬込勘解由は名主となって三伝馬取締役に出世し御役名に因んで大伝馬町の町名を賜って、伊勢 駿河 遠江 美濃、尾張、家康公ゆかりの国々より商人を集めて、あらゆる物資の集散地として 大江戸開発と商買発祥の地として大変賑ったのであります。現在も周辺の老舗大小商社が軒を並べて 今尚盛んな取引が続いて居ります。
宝田恵比寿神は商売繁盛、家族繁栄の守護神として 崇教者は広く関東一円に及び毎年十月十九日「べったら市」 二十日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行なわれます。べったら市は「年またあらたまる」今年も年末が近づきお正月を迎える心構えをする商家にとって大切な年中行事として 旧家は今日でも恵比寿講をお祝いするのであります。
  昭和四十五年十月吉日
     (適宜、改行しました。)

お竹さんのこと(伝説・伝承上です)
元和9年(1623年) 山形県庄内の生まれ。(下記の年月から逆算して)
寛永17年(1640年) お竹さん18歳の時、江戸に出て、町名主・馬込家に奉公。
延宝8年(1680年) 5月(19日)没 享年58歳
 ・江戸の初期に遠路、庄内から出て江戸で奉公(?)
 ・上と同じく、18歳の女性が奉公(?)
 ・話が佐久間家から馬込家へと変っている。(諸事情により)

お竹さんの佐久間家ヴァージョンを紹介します。
こちらの物語では、江戸入りまでの話もあります。没年が寛永15年(1638年)3月21日。年次がやや遡ります。
 ■ HP 『山形ふるさと塾アーカイブス』
 ■ 「如来(にょらい)になったお竹(たけ)さん」-お竹大日如来ものがたり- 紙芝居映像

参考  HP 日文研 国際日本文化研究センター>データベース>於竹大日如来縁起絵巻
        ■ 国際日本文化研究センター「於竹大日如来縁起絵巻」


つづいて北区赤羽の善徳寺(浄土宗)へ。



江戸関連 4-6月の気になる催事

2011-04-25 | 美術館・博物館

平成23年(2011) 4~6月の気になる催事です。

横浜開港資料館
〇開館30周年記念 「たますくの木が見た横浜の150年 -ペリー来航から開港資料館まで」
  4月27日(水)~7月24日(日)
  〇横浜開港祭 於横浜みなとみらい地区  6月2日(木)

江戸東京博物館
特別展 「五百羅漢 増上寺秘蔵の仏画 幕末の絵師 狩野一信」
  4月29日(金・祝)~7月3日(日)
  迫力満点!! 不思議世界。仏画のイメージとは全く異質の仏画。「五百羅漢図」全100幅。

貨幣博物館
〇企画展 「貨幣・天下統一 ―家康がつくったお金のしくみ―」
  2月19日(土)~7月3日(日)
  江戸文化愛好者として、貨幣制度(三貨制度)のおさらいによい。
  日本銀行金融研究所 貨幣博物館といっても、一度行けば敷居はぐっと低くなる。



東京国立博物館
特別展「手塚治虫のブッダ展」 4月26日(火)~6月26日(日)
  仏像と漫画、トーハクでまさかの共演!

〇映画「手塚治虫のブッダ-赤い砂漠よ! 美しく-」 5月28日(土)~

港区立 港郷土資料館
〇コーナー展「江戸開府前の港区-港区ゆかりの中世資料」
  4月22日(金)~6月15日(水)

江戸東京博物館  常設展の再開は5月1日(日)から
〇特別展示 日独交流150周年記念パネル展 「オイレンブルク伯爵のみた幕末の江戸」
  5月1日(日)~5月29日(日) 常設展示室・第2企画展示室
  池上本門寺・此経難持坂、王子の料亭・扇屋の古写真も。
〇企画展 「芝 増上寺 ~秀忠とお江の寺~」 平成24年春に延期

台東区立 一葉記念館
〇開館50周年企画展「樋口一葉と韓国」 4月19日(火)~5月29日(日)
  明治の女性であるが、江戸文化、江戸情緒の最後の伝承者、一葉。もっと知りたい。
  師匠・半井桃水は長崎対馬の出身で、韓国の文化・文学に親しんでいたという。
  一葉文学にも作風に韓国文学の影響がある、というが。
  5月12日(木) 開館50周年記念日

早稲田大学26号館「大隈記念タワー」
〇「南極100年展」  3月18日(金)~4月23日(土)
  直接の江戸関連ではないが、白瀬矗中尉、南極探検船「開南丸」(旧・木造帆船「第二
  報效丸」)、報效義会、郡司成忠、幸田露伴、幸田成友(守貞謾講へ)と当時の幸田家、
  等々。どんなことも知っておきたい。

山種美術館
〇「ボストン美術館 浮世絵名品展 錦絵の黄金時代―清長・歌麿・写楽」
  2月26日(土)~4月17日(日)



カルガモのヒナ・7羽 品川区小山の弁天池

2011-04-23 | 都内散策


カルガモの家族。次の画像にはヒナが7羽泳いでいます。

読売の都民版に、カルガモのヒナが7羽生まれたという記事が載っていました。さっそくクロスバイクで品川区小山の弁天池に向かった。乗ること30分、東急目黒線・洗足あたり、愛用の文庫版東京都市図で場所確認。地図をしげしげ見ていると、この辺は大田区・目黒区・品川区が入りくんだ区界地点だ。どのように区割りがなされたのか興味がわいたが、いまはともかくカルガモだ。弁天池は、駅のすぐそばの住宅街のなかにあった。厳島神社。(小ぶり、地元ご用達という感じです。)
目ざすカルガモ親子、池にいない。神社の世話人さんに尋ねると、いまは池をあがった端っこで休憩中とのこと。ほんとだ。母親カルガモ、うずくまって動かない。よくみるとヒナたちも母親カルガモの下にもぐっていた。世話人さん達としばらく四方山話。この小さな池は、ほんと、よく手入れが行き届いていて感心しました。コイもたくさん、亀もたくさんいる。と、やおら起きあがって歩き出した。母親カルガモを先頭に、ヒナ7羽、一列になって池の端をまわりこむ。場所をさだめ、池に飛び込む。ヒナ全部が飛び込みおわるのに、やや間があったなあ。ヨチヨチ歩き、可愛いさかり。ちなみにヒナたち、孵化してから数日とのこと。
このあとは、池の中を忙しく泳ぎ回っていた。エサ台に上がって、エサを啄ばみ、また池の中へ。コイの群もおこぼれに預かろうと集まってくる。(世話人さん・談)亀は危ない、ヒナの足に噛みつくことがあるとのこと。カラスは?、いまはやってこない。もう一回り、二回りおおきくなった頃に狙ってくる、とのこと。巣立ちの予定は7月中旬。生きていくのはたいへんだ。


母親カルガモと7羽のヒナ。拡大すると、よくわかります。



小山・厳島神社(弁天神社)