かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

池上本門寺 「洗心道場」(プチ修行) 7月30日・31日

2011-07-30 | 池上本門寺
スポットでの記事。
池上本門寺の行事として、今日・明日の一泊二日で「洗心道場」(プチ修行)が入っている。どんなふうなのか気になるけれど、次の機会に折り合いがつけば、参加してみたい。
明日の境内散策の時間には、池上市民大学の受講生にして、本門寺の公式ガイドのお二人の出番がある。(がんばってくださいね。と、かげながらの応援です。)

 リンク 池上本門寺>第4回 洗心道場
 リンク 第4回 洗心道場 概要と日程



池上本門寺・霊宝殿 お風入れ式

2011-07-27 | 池上本門寺

7月25日 ご霊宝お風入れ式  霊宝殿
お風入れ法要のあと、内部の一般公開。今回は、ゆっくり、じっくりと拝観しました。





御霊宝お風入れ式 とは
概要
年に1度、7月25日に、日蓮聖人御真蹟を始めとする御霊宝を開いて掲げ、風を通して虫の害やカビを防ぐとともに、御宝前にて宗祖や歴代聖人への報恩ならびに永代にわたる霊宝格護を祈願する法要を修める行事です。
江戸時代からの年中行事で、霊宝殿開館以前は一般参詣者が霊宝拝観をゆるされる唯一の機会でした。当山の御霊宝は江戸時代の地誌・ガイドブックである『江戸名所図会』や『新編武蔵風土記稿』などにも主要なものが掲載されており、江戸の人々に知られていたようです。お風入れ(当時は「什物虫払」)は、4月の千部会、10月の御会式と同様に、江戸庶民の年中行事として当山参詣のよい機会となっていました。
『東都歳時記』
[七月] 七日
〇池上本門寺什物虫払 日蓮聖人筆注法華経、同筆遺物目録、同真筆消息、貞宗太刀其余種々の霊宝ありて拝をゆるす。

『東都歳時記』は斎藤月岑の選、江戸時代の年中行事を記録したもので、天保三年(一八三二)に成立した
                      当日、いただいたパンフレットからの引用です。
昔は「什物虫払」といって、7月7日(もちろん旧暦)七夕の日だったのですね。



『江戸名所図会』や『新編武蔵風土記稿』、『東都歳時記』 斎藤月岑の名が出て、江戸検定(江戸検)も思い出す。好きな場所・項目だけならよいのだが、全体の事となるとやや気が重い。
ちょっと、きまりの悪いはなしだが、二、三年前までは『江戸名所図会』を、「絵」と書いて「会」を書けず。斎藤月岑を「げっきん」と思いこみ「げっしん」と読めず。漢字で書けでは「岑」が書けず。これらを思えば、いま、すこしは進歩しているのかな。



池上市民大学 5期・第10回講座 「自我偈」終盤と、境内散策「木の葉」

2011-07-26 | 池上本門寺・池上市民大学
2011年 7月
第5期 池上市民大学 第10回講座 受講しました。

「自我偈(じがげ)」終盤の話でいくか、本門寺境内の散策、「セミとぬけがら」から変更しての「木の葉」集めの話でいくか、やや迷う。
けれども、とりあえず(かぶとん流、得意な、好きな?)目次の羅列風で。

於「長栄の間」
①仏教の話 「自我偈(法華経 如来寿量品第十六)」の終盤 仏の願いと菩薩行の大事
講師 クラス副担任・岡本先生
落語風な軽やかな語りでの、講義・解説でありました。
『おつとめ要典』の中にある「妙法蓮華経如来壽量品第十六(自我偈)」と、説明用テキストコピーを見比べながら聞き入りました。(家にもどってから、要復習。)
○ 読経と唱題

②ワークショップ 境内散策
講師 クラス担任・吉田先生
本門寺の自然を観察しよう、の前段。「森で遊ぶ 自分だけの宝箱をつくる」として、仕切板5枚付のポケットケース(ルアーケース?)と保管・収容用の小ビニール袋が、受講生に配られました。
「身近なセミとぬけがら」についてのお話。ただ、ここ数日の涼しさにセミの声がしないのと、あまり孵化もしていないということで、急遽「木の葉」集めに変更となりました。

○ 本門寺 「本殿」周辺、境内の散策
皆でワイワイ言いながらの葉っぱ集めは楽しい。日時・樹名・場所・メモ等を記入して小袋へ。わからない葉っぱは後で調べるということで。クスの木の根元近くに、ニイニイゼミの小さな抜け殻があった。途中から加わった小野先生の説明を、皆で聞きました。

③お風入れ準備中の霊宝殿 見学
日蓮聖人御真筆、御遺物等々の展示品。学芸員の方の説明付きでの拝観でした。

午後4時すぎ。本日の講座終了。
そうそう、7月30日・31日に本門寺の行事「洗心道場」(プチ修行)が予定されており、公式ボランティアガイドのIさん、Yさんと他数名の方が、境内での案内をするそうです。打ち合わせで残っていました。(お手伝いを志願しないといけないのだが、先約、ゴルフの競技会が入っているのでパス。相すみません。)

~家の周りの草花のことも、もっと知りたくなったなあ。~
(こういう気持ちがおきてくるのも、講座に参加しているおかげかな。)
ただし、「思っているだけ、言ってるだけではだめ、実行しないと~」との姪っ子Yちゃんの声が聞こえてきそうだ。ちなみにYちゃん、お金もたいしてなさそうなのに、いま世界一周100何日間の旅に出ている。何なんだ、この行動力、この違い!?



夏のJR上越線 長岡 長岡市立中央図書館へ

2011-07-25 | 新潟 長岡
長岡訪問で、今、いちばん立ち寄りたかった所はここでした。

長岡市立 中央図書館
新潟県長岡市学校町1-2-2  JR長岡駅より徒歩15分
 バス 長岡駅東口から悠久山線(2番線)乗車、「学校町1丁目」下車





東京在で長岡とは離れていても、今はネットがあるので HP 『長岡市立図書館』は、よく見ています。「資料の検索>資料一覧」もおおいに利用させてもらってます。
でもネット上のことと、現地で実物を見るのとでは違います。
長岡市双書を読む会、読み聞かせボランティア養成講座、があったりしてうらやましい。長岡の郷土史・人物伝についての調べ物については、すべて間に合うというような図書館でした。
もちろん興味・関心は杉本鉞子(さん)と稲垣平助家のこと。
『武士の娘』から、『A Daughter of the Samurai 』へ。その他の著作も。そして館内保管庫からは、稲垣平助の『誌禄』(日記・資料)。残念ながら、今は原文をなぞるのみで読み込む力がない。



栄凉寺(浄土宗)・河井継之助
新潟県長岡市東神田3-5-6
個人的には、いいかげんパスしたい継之助。そういうわけにもいかないか。




河井家・河井継之助の墓地


   河井継之助の墓
 文政十年(1827)一月一日、長岡城下同心町(表町)に生まれた。幼少から文武にいそしみ、主に陽明学を修めた。
 河井家の禄高は、百二十石であったが、その才能を認められて長岡藩政を指導し、のちに家老上席、軍事総督となった。
 北越戊辰戦争では、新政府軍との小千谷談判にのぞみ、意見が通らず開戦となった。長岡城攻防戦では、よく奮闘してその名を高めた。長岡城を奪還した際、傷を負、 慶応四年(1868)八月十六日会津塩沢で陣没した。
                                 長岡市教育委員会
  リンク  栄凉寺 前回の訪問(冬)



長興寺(曹洞宗)・稲垣平助
新潟県長岡市稽古町1636


稲垣平助家の墓地


   稲垣平助の墓
 長岡藩筆頭家老の稲垣家は、藩主牧野候の三河(現在の愛知県)在住以来、随従して苦労をともにし、藩主をよく補佐した。長興寺は、稲垣家によって興された。
 代々平助を通称とし、家禄は幕末期で二千石であった。
 幕末の平助重光は、北越戊辰戦争の際、勤皇恭順説を唱え、藩中に孤立した。その六女鉞子(えつこ)は、アメリカに渡り「武士の娘」などを著した。
                                 長岡市教育委員会
  リンク  長興寺 前回の訪問(冬)



記念写真 アナログ放送 きょう正午に終了しました

2011-07-24 | その他
7月24日(日)





テレビ(アナログ)のテロップに
<ご覧のアナログ放送の番組は きょう午後に終了しました>
<今後はデジタル放送でご覧ください>
以下、コールセンター、お問い合わせセンターの番号

で、予定の「砂嵐」画面だが、なかなかならない。考えてみれば、いきなり「砂嵐」では刺激が強すぎるということか。

いよいよ「テレビ難民」の仲間入りだ。
それで今後どうするの?
まずは、「NHK放送受信契約の解除手続き」を、すぐしないといけない。
なんせ口座自動払いだから、手続きをしないと、これからも知らんぷりをして取られてしまう。「それは、お客さまからの申告がないとわかりませんです。ハイ」とかなんとか言われたりして。

ともかく今回の地デジ化への成り行きに嫌気がさした、ということです。
どうしても見たくなったららどうするの。いつか「踏絵」を踏んで趣旨替えをしたりするのかな。