かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

函館 歴史資料館巡り

2010-07-20 | 函館
限られた時間のなかで、函館の資料館巡りもかかせない。
目につくもの、みな見て回るわけにいかないので、歴史に関する資料館に絞った。

函館市電 末広町


函館市 北方民族資料館 (建物 : 旧日本銀行函館支店)

パンフレットの‐ご案内‐より
 北辺の風土にねざした北方民族は、伝統的な固有の文化を有しています。
 世界的に数少ない北方民族資料にあって、函館博物館旧蔵資料や函館の地から輩出した人類学・考古学・民族学の権威である馬場脩氏、児玉作左衛門氏の収集した資料は、北方文化を物語る逸品として広く内外に知られています。両氏の長年にわたる調査・研究の足跡等を踏まえ、函館が世界に誇る北方民族資料をここに紹介するものです。

  ‐北方民族の世界‐
函館市北方民族資料館は、アイヌ民族をはじめ、ウイルタ民族、アリュート民族など、激しい自然の中で生きてきた北方民族の伝統的な知恵と文化を見事に表現した、貴重な民俗資料の数々を展示しています。

〇自分の関心事で、最大のものの一つかもしれない。自然との共生、を体現する社会。そして民族。いっぽうで、他所からの経済圏の拡大と政治力に影響されていく図式。とことん衰退したかにみえるが、歯止めはかかったのだろうか。
〇地図上の、オホーツク海を中心にぐるり一周する。そしてベーリング海を中心に一回りする。それぞれの民族名を、声には出さないけれど、何度となく口の中で言ってみる。なんともいえない気持ちになる。思いがたくさんありすぎて、表現しづらい。


市立函館博物館郷土資料館(旧金森洋物店)



前出の渡邉熊四郎が、大火のあと再開業した建物。
明治期の舶来雑貨を中心とした、生活用具の展示。


はこだて西波止場美術館、北島三郎記念館、市文学館と固まっている。
今回はいずれも入らなかった。


北方歴史資料館 (社団法人 北方歴史研究協会)



北方開発と高田屋嘉兵衛
〇高田屋嘉兵衛と北前航路 〇千島、択捉探検航海 〇函館の基礎を築く 〇北洋漁場の開発 〇ゴローウニン事件 〇日露交渉 〇高田屋の財産 (パンフレットより)
高田屋嘉兵衛の銅像のレプリカ(?)、あまりの大きさに内心びっくり。
写真師・洋画家の横山松三郎のことも、もっと知らないといけないかな。
館長は高田屋七代目・高田嘉七さんとのことです。


箱館 高田屋嘉兵衛資料館 (建物 : 高田屋造船所跡地に造られた旧コンブ倉庫)



「辰悦丸」の模型、高田屋の持船の幟旗群が印象にのこった。

黒船の来航、そして開港。近代以降、今日までの函館の繁栄は有名です。
しかし、それ以前の函館が箱館と名乗っていた頃のことは一般に知られていません。
箱館は、古くより人が住んでおりましたが、蝦夷地の寒村という風情でした。
ここに北前船を操り、北方開発、遠洋漁業の基礎を築いたのが高田屋嘉兵衛です。
箱館の町は高田屋の町と伝えられた由縁です。
当資料館には、往時を偲ぶ資料が日本中から収蔵されています。
ここで高田屋の足跡を知ることが函館を知る第一歩です。
 パンフレットの、ご案内、より(部分)

高田屋嘉兵衛 案内板



和雑貨 いろは (明治期の和洋折衷住宅)


函館市電 十字街



追記
最初の五稜郭タワー・五稜郭公園見学の次に寄ったのが、向かいにある
「函館市北洋資料館」
館内では、まずホッキョクグマとトド(剥製)の出迎えがあり、びっくりさせられる。
北洋漁業全般の紹介。サケ・マス各種の展示でも、その大きさにびっくりする。どれも全長1㍍をゆうに超える。北洋海域の地図にしばし見とれる。日魯漁業コーナー(ニチロ、現マルハニチロ)で、創業者、堤清六(新潟県三条の出身)・平塚常次郎(函館四天王の一人、平塚時蔵の甥)を知る。


函館 ベイエリア

2010-07-18 | 函館
函館 ベイエリアの散策。

案内図の左上(北)が函館港。





遊覧船 ブルームーン


ラビスタ函館ベイ


北海道第一歩の地碑 東浜桟橋





  (案内板の内容)
 明治維新後、函館は名実ともに北海道の門戸となり、この北海道の地を踏むものがその第一歩を印したのが東浜桟橋である。
 青函航路は、明治6年 (1873年) に開拓使の弘明丸によって一般輸送を開始し、明治12年 (1879年) に三菱会社が開拓使から青函航路を譲り受け、以後、日本郵船鉄道会社などによって継続されてきたが、明治41年 (1908年) に国有鉄道の航路として比羅夫丸、田村丸が就航した。
 当時、連絡船は沖に停泊し、客は艀舟でこの桟橋との間を行き来した。この東浜桟橋は、明治4年 (1871年) に作られた。
 連絡船の桟橋は、明治43年 (1910年) 2月に若松ふ頭に新設移転したが、その後もこの桟橋は活用され、北洋漁業の根拠地などとしても重要な役割を果たしてきたが、とくに戦前の北洋漁業の発着時には、大変な賑わいをみせていた。
 この記念碑は、熊にいかりを配し、開道100年を記念して開拓に渡道した先人の足跡をしのぶと共に、北海道発展の未来を志向して昭和43年 (1968年) 9月建立されたものである。
  函館市
 


「緑の島」とヨットハーバー





函館 西波止場


はこだて 西波止場美術館


赤レンガ倉庫群(金森赤レンガ倉庫) (注1 )





大町へ


海上自衛隊函館基地隊のことはおいて、目を左(西)に転ず。
相馬㈱ (注2)



(注1)金森赤レンガ倉庫
管理・運営 金森商船㈱。渡邉熊四郎の「金森洋物店」が起源。
渡邉熊四郎(初代) 1840年(天保11年)~1907年(明治40年)
(注2)相馬㈱ (旧 相馬合名、相馬商店)
相馬哲平(初代) 1833年(天保4年)~1921年(大正10年)
越後国新発田の生まれ。北海道屈指の豪商。

参考 金森赤レンガ倉庫‐Wikipedia
    元町公園 『四天王像』の碑文
    HP 『はこだて人物誌』



函館 霧の函館山

2010-07-16 | 函館
霧の函館山。何度となく見上げる山頂部。晴れそうにない。
今回は展望はダメだと観念した。が、ためらいが残る。今度、いつ来れるかわからない。
迷ったが、あえて行くことにした。晴れの景色は、雑誌やテレビで見て想像しよう。
行ったという事実がほしいのと、伊能忠敬のレリーフも、ぜひ見ておきたかった。







山頂部の機器類も霧の中


すぐ下のロープウエィ


HBC 看板には、「国民の総意でもどそう 北方領土」


レリーフ 「伊能忠敬 北海道最初の測量地」


五月二十八日  新暦七月十九日
 土用 朝五つ迄曇る □
 より 晴天 江戸出立後の上
 天気なり 併し山々白雲お
 ほし 箱館山に登て所々の方
 位を測 夜も晴 測量・・・・
   寛政十二年 一八〇〇年
    伊能忠敬測量日誌より
昭和三十二年四月  函館市
 


ロープウエィ、下りの眺め










振り返ると、こんな感じ。




ふたたび見上げる函館山。基坂(もといざか)の起点より。

函館山に関する気になる用語
〇 地理 陸繋島(りくけいとう)
〇 歴史 函館要塞(津軽要塞)



函館 元町の教会群

2010-07-15 | 函館
函館ロープウエィ乗り場のすぐ西側、函館港と市街地を見わたせる高台に、歴史を感じさせる教会がいくつも建っている。

カトリック元町教会


函館聖ヨハネ教会


チャチャ登り、側から



中央の奥に見えるのは、後方部からの函館ハリストス正教会。
スケッチをする人たちにとって、絶好のポイントのようだ。


(1)











さらに足をのばして、元町配水場。元町地区のほぼ最上部にある。






元町配水場から見た、函館山ロープウエィ乗り場



(1) ハリストス正教会 (案内文)
 安政6年(1859年)敷地内に建てられた初代ロシア領事館の付属聖堂として建立されたのが始まりで、正しくは「函館復活聖堂」という。
 文久元年(1861年)青年司祭ニコライが、ロシアから来函し切支丹解禁を待って日本で最初にギリシア正教を布教した。(明治5年(1872年)東京転任)
 明治40年(1907年)大火で類焼したが、大正5年(1916年)聖堂はロシア風ビザンチン様式で再建された。
 この聖堂内部に、丸天井を装架しているのがこの様式の特徴である。屋根に装置された数多くの十字架と、その装飾部を飾る冠状構造が独特の形状をつくっており、緑色の銅版屋根は昭和43年に改装され、緑青を化学的に熟成したものである。
 再建当時の大鐘(重さ、約2㌧)は、大正12年(1923年)関東大震災で大破した東京ニコライ堂復興の際に移され、かわりに大小6個1組の鐘と交換された。リズムと共にメロディを送る音色から 「ガンガン寺」 として市民に親しまれたが、この鐘も戦時中供出した。
 現在の鐘は、三重県桑名市在住の美術鋳造家から昭和58年6月に献納されたものである。
 昭和58年6月、国の重要文化財に指定された。                      函館市


〇 ニコライ・カサートキン (日本の亜使徒大主教聖ニコライ)
 1836年-1912年2月16日
 正教の修道司祭・宣教師。日本正教会の創建者。
 1861年、函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。
 1872年(明治5) 東京に転任。

参考 ニコライ・カサートキン‐Wikipedia



函館 元町公園と旧イギリス領事館

2010-07-14 | 函館
函館・元町公園周辺を散策。

元町公園から見た旧函館区公会堂








元町公園 かつて箱館や道南の行政の中心地だった。


遠方に「四天王像」



左から今井市右衛門、平田文右衛門、渡邉熊四郎、平塚時蔵

副題 「函館四天王像 市民精神の源流」 (詳細は拡大画像で読んでください。)
じっくりと読んでみると、明治の函館について、とても重要な説明がされている。


ペリー広場 ペリー提督 来航記念碑 (1)


旧イギリス領事館




(2)






(1) ペリー提督 来航記念碑 案内文
 日本と和親条約を締結したアメリカ海軍提督M.C.ペリーは、1854年(安政元年)5月17日、開港される函館港を下検分するため、5艘の艦船を率いて来航した。
 滞在中には、函館湾の海図を作成したほか、銀板写真術(ダグレオタイプ)の初公開、西洋音楽の吹奏などを行い、当時の人々の驚きの様子が記録として残っている。
 このペリー来航が契機となり、蝦夷地(北海道)を統治する箱館奉行所の移転先として五稜郭が築造されることになったほか、開港場として欧米文化の影響を受け、本市が国際観光都市として発展する礎となった。  函館市

   黒船来航150周年(2004年)を目前に、日米和親の意を後世に伝え、ペリー提督を末永く顕彰するため、ここ函館の由緒ある地に「ペリー提督来航記念碑」を建立する。
 2002年(平成14年)5月17日  ペリー提督来航記念碑建立協議会

(2) 旧イギリス領事館(開港記念館) 案内文
 函館にイギリス領事館が置かれたのは、安政6年(1859年)日本最初の貿易港として開港した時のことで、函館ではアメリカ、ロシアに次いで3番目の領事館として、初代領事ホジソンが称名寺に開設しました。文久3年(1863年)に現在の元町のハリストス正教会の西隣に領事館を新築しましたが、数度の火災にあい、この建物は、イギリス政府工務省上海工事局の設計により、大正2年(1913年)に竣工したものであり、昭和9年(1934年)の閉鎖まで領事館として使用されていました。平成4年(1992年)8月からは、開港記念ホール、開港の歴史を伝える展示室、旧外国公館の雰囲気の中で食事や各種ティーを楽しめるレストラン・喫茶室などを設け、一般公開をしております。
 函館市