かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

箱館の歴史 横山松三郎と高田屋

2010-08-31 | 箱館の歴史
横山松三郎と高田屋、そしてその周辺。
横山松三郎
1838.11.26(天保9.10.10)-1884(明治17).10.15
幕末・明治初期の写真師。洋画家。
択捉(エトロフ)生まれ。箱館移住。のち上京。北方漁場を開いた高田屋とは親類。

1799(寛政11)頃 *初代横山文六、高田屋嘉兵衛と択捉漁場の開発に尽力する。
1822(文政5)頃 *初代文六そして松三郎の父(のち二代目文六)も高田屋に仕える。
         初代文六は択捉漁場の支配人格。
1833(天保4) *高田屋、蕨所となる。
1836(天保7) *12月 初代文六、箱館で没する。
     *二代目文六(松三郎の父)、松前藩の場所請負人制・択捉漁場に勤める。

1838.11.26(天保9.10.10) 択捉島で生まれる。(幼名、松三郎。後に文六を襲名)
1848(嘉永1) 11 5月 父、没す。
         母ミヤ、姉2人、妹ミヨ、弟松蔵と箱館で暮らす。
1852(嘉永4) 15 箱館の呉服屋に丁稚奉公する。絵を好む。北斎の画本を模写。
1854(嘉永6) 17 肺を病んで家に戻る。療養。(肺患が生涯の持病となる。)
1854       ペリーの米艦隊が箱館に上陸したときに、初めて写真を知る。
1855(安政2) 18 商店を開くが、2年後に畳む。写真機の製作を試みる。
1857(安政4) 20 親戚の諸国神社寺院巡りの旅に、病気回復祈願のため同行する。
         奥州津軽‐江戸‐京坂‐四国讃岐‐木曾‐日光‐信州善光寺‐箱館
1858(安政5) 21 ロシア領事ゴシケーヴィチ(44)一行、着任。
1859(安政6) 22 箱館が自由貿易港となる。
         イギリス領事ホジソン夫妻が着任。フランス領事も兼任。
          (英仏蜜月時代?)
         米・露・英人より洋画・写真術を見る機会が増える。
         ゴシケーヴィチより昆虫の実写画を依頼さる。写真術を教わる。
1860(万延1) 23 ロシアの植物学者マキシモヴィチが来る。1年間の滞在。
1861(文久1) 24 ロシア領事館付司祭ニコライ(25)着任。
         「高田屋嘉兵衛肖像画写真」を高田屋四代目篤太郎に渡す。
         (松三郎の妹ミヨは、篤太郎のもとに嫁いでいた。)
         ロシアの画家レーマンが滞在する。
         ニコライに相談し、レーマンの雇人夫となる。洋画法を学ぶ。
1862(文久2) 25 箱館奉行の香港・バタヴィア行きの貿易船(健順丸)に乗り込む。
         (*1)
         写真を学ぼうとするも、品川港で渡航中止となる。
         〇下岡蓮杖(40)、横浜・弁天通に写真館を開業する。(関東初)
1863(文久3) 26 露領事館付医師アルブレヒト帰国。ゼレンスキーが交代で着任。
         箱館奉行の貿易船、再度出航する。品川に寄港、兵庫に碇泊。
1864(元治1) 27 2月、兵庫を出航して上海に滞在。欧米の洋画・写真を見聞。
         帰国後、横浜の下岡蓮杖に印画法を教わり、箱館に帰る。
1865(元治2・慶応1) 28 再び下岡蓮杖に写真と石版術を教わる。
1866(慶応2)   印画法を箱館の仲間、木津幸吉・田本研造に伝える。
         〇箱館 木津幸吉(36)、写真館を開業する。
1868(明治1) 31 更に下岡に石版印刷を学ぶ。江戸両国に写真館を開く。
         上野池之端に移る。「通天楼」と称す。
         箱館戦争が勃発する。箱館にいる母を見舞う。
1869(明治2) 32 東京に戻る。弟松蔵、通天楼で手伝いをしながら写真術を学ぶ。
         〇木津幸吉、元函館府知事清水谷公考について上京する。
         〇田本研造、木津の機械一式を譲り受けて写真館を開く。
         松三郎、門弟とともに日光全山の撮影を行う。

1871(明治4) 34 蜷川式胤(少史)の依頼で、内田九一と旧江戸城を撮影する。
         翌年、蜷川より『旧江戸城写真帖』編纂。(重要文化財)(*2)
1872(明治5) 35 湯島聖堂大成殿での、日本初の展覧会を撮影。
         正倉院の宝物等を調査した『壬申検査』に同行。(*2)
1873(明治6) 36 通天楼に洋画塾を併設する。
1876(明治9) 39 通天楼を譲渡。陸軍士官学校教官となる。
1878(明治11)41 軽気球から日本初の空中写真を撮る。
         蜷川式胤、松三郎の写真を編集した『観古図絵城郭之部』刊行。
1881(明治14)44 肺病の再発。陸軍士官学校、教官辞任。
         「写真石版社」を銀座に開く。写真油絵法を完成する。
1883(明治15)45 3月、一時函館に帰る。
1884(明治17)47 春、所有する器械・書類など調簿に明記して嗣子啓次郎(妹ミヨ
         の子)に託し、帰郷。母を見舞う。
         9月1日、母ミヤ、亡くなる。
         10月15日、市谷亀岡八幡宮近くの隠居所にて没す。
         遺骨は箱館・高龍寺に、遺髪は高輪泉岳寺に埋められた。
         弟松蔵が家督を継ぎ、文六となる。
         *高田篤太郎(高田屋四代目)は、松蔵の親権者的間柄であった。
         *高田義松(六代目)は早く母親を亡くしたため、祖母ミヨ(松
         三郎の妹)に育てられた。




参考・抜粋 横山松三郎‐Wikipedia
   HP 『市立函館博物館友の会 西洋画・写真術の先覚者横山松三郎伝と函館
   博物館所蔵品 千代肇』 (*1)

(*1) 松三郎、写真技術探求のターニング・ポイントか。
   母曰ク 「汝既ニ其志アリ 而シテ官航海ヲ許サバ無上ノ事ト云フベシ 機失フベ
   カラズ」

   支配掛・蛯子砥平(箱館町年寄)に頼み、商法取扱手附として採用された。

(*2) 国の重要文化財
   ・旧江戸城写真ガラス原板 29枚
   ・壬申検査関係ステレオ写真ガラス原板 257点
          東京都 江戸東京博物館の所蔵品


-記事の追加-
江戸東京博物館 企画展
『140年前の江戸城を撮った男 横山松三郎』
平成23(2011)年 1月18日(火)~3月6日(日)
予定されてます。とても楽しみ。とても待ちどうしい!!

2010.12.20 追加
 12月19日 読売新聞の日曜版に、横山松三郎の記事が載りました。
 『異才列伝 横山松三郎 *絵筆で天然色 明治の写真家』
松三郎を追っかけてるわけでないけれど、なんとなく、うれしいですね。

      

ロシア 初代駐日領事 ゴシケーヴィチ

2010-08-26 | 箱館 幕末のロシア外交
ロシアの初代駐日領事 ゴシケーヴィチの略年表

ヨシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチ
1814-1875.10.5
箱館駐在 1858年10月(安政5.9)から1865年4月(元治2)まで。

1814 ベラルーシ(白ロシア)ミンスクで司祭(ロシア正教会の神父)の子として生まれる。
1839 サンクトペテルブルグ神学校を卒業。
1840~1848 ロシア宣教師団の一員として北京に駐在。中国語・漢字を学ぶ。
     ロシア外務省アジア局に入る。
1852~ エフィム・プチャーチン率いる日本派遣使節団に中国語(漢文)通訳として加わる。
1853(嘉永6) パルラダ号で来日。
1854(嘉永7・安政1) ディアナ号で再来日。
     伊豆戸田村に滞在中、橘耕斎と知り合う。橘から日本語を学ぶ。
1855.2.7(安政1.12.21) 〇日露和親条約の締結。
1855(安政2) 帰国途中、樺太沖でイギリス軍艦に拿捕される。
     (クリミア戦争で、英露は敵対関係にあった。)
     戦争が終わるまでの9ヶ月間、艦内で抑留生活をおくる。
     この間、橘とともに日露辞典「和露通言比考」を作成する。
1857 日露辞典『和露通言比考』 サンクトペテルブルグで出版。
1857(安政4.4) 〇アメリカ人ライス(米領事そして商人)、箱館上陸。浄玄寺に止宿。

1857.12.21 ゴルチャコフ外相から初代駐日領事に任命される。
1858 早春  サンクトペテルブルグを出発する。
1858.5.17  イルクーツク着。
1858.7.21  ニコラエフスク(アムール川河口)着。
          (旅程 8,000Km !! 探検・冒険家でなく、外交官一行が)
          1858.8.19(安政5.7.4) 〇プチャーチン、日露修好通商条約の締結。
          (プチャーチンとゴシケーヴィチの連絡は。露海軍の船便による文書?)
1858. 9.17  2隻の軍艦に分乗して、ニコラエフスクを出発する。
          ゴシケーヴィチ一行は家族と書記、海軍士官、医師夫妻、宣教師、そのほか
          下男下女合わせて15人。(*1)
          (ここからナジーモフ(海軍中尉・渉外担当)の日記、始まる。)(*2)
 
1858. 10.24(安政5.9.30) 箱館に駐日ロシア領事として着任。(44)
          実行寺を仮領事館とする。同行の館員の一部は高龍寺を宿舎とする。
          箱館奉行竹内保徳・村垣範正らと交流する。
1859. 7.1(安政6.6.2) 〇神奈川(のち横浜)・長崎・箱館、開港。
1859. 8(安政6.7) ①江戸に来訪する。天暁院(大中寺)に止宿。
             東シベリア総督ムラビヨフ(アムールスキー伯爵)江戸に来航。
1859(安政6) イギリス領事ホジソン、箱館着任(仏領事兼任)。称名寺に止宿。
1860. 2(安政7.1) ②江戸に再訪する。赤羽接遇所に滞在。
           *箱館への帰路、陸路東北地方を縦断する。(*3)
1860(万延1.9) 植物学者マキシモヴィチ、箱館着。(1年間、滞在。)
1861(文久1) 〇ポサードニク号(ビリリョフ)による対馬占領事件がおきる。
1861(文久1.2) ③ゴシケーヴィチ、横浜に上陸。東洋艦隊司令官リハチョフ同行。
         赤羽接遇所で外国奉行の村垣や小栗忠順と交渉。
         英国公使オールコックらの介入姿勢もあり、ロシア海軍、対馬を退去する。
1861(文久1.6.2) 箱館 ニコライ(カサートキン)(25)、領事館付司祭として来日。
1862.9.20(文久2閏8.9) ④将軍徳川家茂(17)に謁見する。
         任務の疲れや駐在武官との対立もあり、外務省に離任願・本国帰還を求める。
         外国奉行柴田剛中と横浜鎖港問題で交渉。
1864. 6(元治1) 帰国許可が出る。
1865. 2(元治2) 箱館領事館の火災焼失。
1865. 4(元治2) 後任(ビュッオフ)に領事館運営を託し帰国。

         帰国後は海軍省から糾弾されるが、ゴルチャコフ外相はゴシケーヴィチを擁護。
         日本人ロシア留学生の教育係を務める。
1867      退官。故郷ベラルーシに戻り、中国語・日本語の研究を行う。
         『日本語の語源について』執筆。
1875      リトアニアの首都ビリニウスで死去(61)。

 
参考 『江戸の外国公使館』 港区立郷土資料館
    ヨシフ・ゴシケーヴィチ‐Wikipedia
追加 HP 『ロシア領事館の函館開設とその活動 佐藤守男』(北大法学論集)
    検索でたどり着いた。詳しい。
    『海事集録』(ロシア海軍省の機関誌 1848~)をもとにした論文。
    ここから(*1・2)を追加。

(*1) 領事(六等文官) ゴシケービィチ(家族同伴)
    領事館付書記(十等文官) オバァーンデル
    医師(七等文官) アーリブレヒト(アルブレヒトの表記もあり)(家族同伴)
    修道司祭(ロシア正教) フィラレート
    海軍渉外担当、海軍中尉 ナジーモフ
(*2) 『海事集録』掲載文。
(*3) 陸路帰還は条約の遊歩規定外であったが、領事からの申請に幕府・外国奉行らは
    今回限りの特例として許可を出した。
    1860 安政7.2.15(露暦2.24)~3.11
    領事ゴシケーヴィチ、エリザヴェータ夫人、息子ウラジミール、医師アーリブレヒトの夫人、
    下女の総勢5名。そして同行の役人等が30名程。
      HP 『地域史研究はこだて』第19号掲載清水恵論文、より。


〇 橘 耕斎(ヤマトノフ) 1820(文政3)-1885(明治18.5.31)
〇 東シベリア総督 ムラビヨフ(アムールスキー伯爵) プチャーチンとの関係は?
    1809.8.23(8.11)-1881.11.30(11.18)
〇 カール・ヨハン・マキシモヴィチ 1827-1891  ロシアの植物学者
〇 ポサードニク号 艦長 ビリリョフ(中尉のち大佐)
〇 東洋艦隊司令官 リハチョフ(大佐)
〇 領事館付司祭 ニコライ(カサートキン) 1836.8.1(露暦)-1912.2.16
〇 駐日領事(2代) ビュッオフ 1837-1904(在任1865-68、71 在東京)


ロシア領事の役割



新宇都宮CC 食事処・瓢風亭(ひょうふうてい)

2010-08-25 | ゴルフ
新宇都宮CC 食事処「瓢風亭」

暑さ厳しい、この8月に、従兄弟とその知人の3人で宿泊ゴルフをしてきた。
初日、ふうふう言ってラウンドを終えた。
風呂にはいり、クラブ・ハウスの奥手にあるロッジへぶらぶらと歩いて向かった。
夕方前、人の少なくなったゴルフ場はなんともいえない雰囲気がある。
何人かのキャディさんたちが後片付けをしている。
ロッジでの受付を終え、なかで小休憩。
さあ、楽しみな食事とお酒が待っているぞ。

ここ新宇都宮CCでの夕食は、離れにある食事処「瓢風亭」だ。
かつて連日大宴会があったのでは、と思われる凝った京風料亭の造り。
ま、今の静かで隠れ家的な雰囲気も、また極上。

竹垣で囲まれている。


門の左手。お迎えの石像はなに。


門の右手。奥に個室。茶室?


さらに進めば、練習グリーン。


敷石は絶品。


食事処「瓢風亭」の玄関。


まずはビールで乾杯。そして鮎の塩焼きにかぶりつく。うまい!!


ロシア 遣日全権使節 エフィム・プチャーチン

2010-08-20 | 箱館 幕末のロシア外交
ロシア エフィム・プチャーチンの略年表

1803.11.8(11.20)-1883.10.16(10.28)  ()はグレゴリオ暦

1803 ロシア、サンクトペテルブルグで生まれる。
1822 海軍士官学校卒業。
1842 海軍少将となる。ペルシャとの国境画定・通商条約交渉での功績。
1842 〇イギリス アヘン戦争の結果、清と南京条約を結ぶ。
1843 皇帝ニコライ1世より、清および日本との交渉担当を命じられる。
     トルコ方面への進出が優先され、極東派遣は実現せず。
1852 海軍中将・侍従武官長に栄進する。
1852 日本との条約締結のために遣日全権使節に任ぜられる。
     ・ゴシケーヴィチ、中国語(漢文)通訳として加わる。

1852.9 ペテルブルクを出発する。
      イギリスでボストーク号を購入。ポーツマス港で旗艦パルラダ号と合流。
      喜望峰、セイロン、フィリピンを経由して父島に着く。
      1853.7.8(嘉永6.6.3) 〇ペリー、浦賀へ来航。
1853.8.22(嘉永6.7.18) 長崎に来航。
      長崎奉行・大沢安宅に国書を渡し、江戸からの幕府全権の到着を待つ。
1853.11.23 長崎を離れ、上海に向かう。
      クリミア戦争に参戦したイギリス軍の艦隊が極東に向かっているとの情報で。
      1853.7(1853.10)- 〇バルカンでの戦闘 ロシアとオスマン帝国。
      1854.3.28- 〇クリミアでの戦争 イギリス・フランス・オスマン帝国とロシア。
1854.1.3(嘉永6.12.5) 再び長崎に戻る。
      幕府全権・川路聖謨(かわじ・としあきら)、筒井政憲と会談。
1854.2.5 マニラへ向かう。船の修理および補給。
      1854.2.13(嘉永7.1.16) 〇ペリー、浦賀へ再来航。
      1854.3.31(嘉永7.3.3) 〇幕府 日米和親条約を締結。
1854.9  ロシア沿海州インペラトール湾で、パルラダ号からディアナ号に乗り換える。
       旗艦以外の3隻の船は、イギリス艦隊北上に備え、沿海州に残る。
       プチャーチン、ディアナ号単艦で日本に向かう。
1854.10.21(嘉永7.8.30) 箱館に入港。
1854. 11 大坂・天保山沖に到着。
1854.12.3(嘉永7.10.14) 下田に入港。
       幕府 川路聖謨、筒井政憲と交渉。
1854.12.23(安政1.11.4) 安政の大地震(安政東海地震)が発生。
       ディアナ号、津波によって大破。乗組員にも死傷者が出る。交渉中断する。
1854.12 ディアナ号、伊豆の戸田村(へだむら)に修理に向かう途中で浸水、沈没する。
       日本の船大工による代船の建造を開始する。
1855.1.1(安政1.11.13) プチャーチン、外交交渉の再開。
1855.2.7(安政1.12.21) 日露和親条約の締結
1855.3  アメリカ船を雇い、部下159名、ペトロパブロフスク・カムチャツキーに先発。
1855.4.26(安政2.3.10) 代船の完成。プチャーチン、「ヘダ号」(60人乗り)と命名する。
1855.5.8(安政2.3.22) プチャーチン一行、ペトロパブロフスクに向けて出航する。
1855.5.21 ペトロパブロフスク入港。(ロシア軍防衛隊は退却していた)
1855.6.20 ニコラエフスク着。同地から陸路を進む。
1855.7   残りの乗組員(300名程)、ドイツ船でロシア領をめざす。
        途中、樺太沖でイギリス軍艦に拿捕され捕虜となる。
        ・ゴシケーヴィチも。クリミア戦争が終わるまでの9ヶ月間、捕虜生活。
1855.11  プチャーチン一行、ペテルブルグに帰還。
      1856.3.30 〇パリ条約の成立により、クリミア戦争終結
      1856.10   〇清 アロー号事件起きる。

1857.9.21(安政4.8.4) プチャーチン、軍艦アメリカ号で再度長崎に来航。
         水野忠徳らと交渉する。
1857.10.27(安政4.9.10) 日露追加条約を締結。
         当時の清 アロー戦争の勃発で、英仏連合軍が広州、天津を占領していた。
         ロシアは調停の名目で介入する。
1858.6.13 天津で、清と天津条約を締結。
1858.7.29(安政5.6.19) 〇幕府 日米修好通商条約を締結。
1858.7.30(安政5.6.20) 神奈川に入港。
1858.8.12(安政5.7.4) 外国使節の宿館、芝愛宕下の真福寺に入る。
                 同所にて幕府側と交渉を行う。
1858.8.19(安政5.7.11) 日露修好通商条約を締結する。
1858.8.20(安政5.7.12) 江戸城で将軍家世子・徳川慶福(家茂)に謁見する。
1858      ロシアに帰国。
1858.10.24(安政5.9) ・初代ロシア領事ゴシケーヴィチ一行、箱館着任。
1859.7.1(安政6.6.2) 〇神奈川(のち横浜)・長崎・箱館、開港。
 
1859 伯爵に叙する。海軍大将・元帥に栄進する。
1861 文部大臣(国民啓蒙大臣)に任命される。
1881(明治14) 日本政府から勲一等旭日章が贈られる。
1883 80歳で死去。

1887(明治20) 孫娘のオルガ・プチャーチナ伯爵が戸田村を訪問する。
           プチャーチンの遺言により、当時の村人の好意に感謝して100ルーブルの
           寄付をする。
2008(平成20) 日露修好150年を祝う。


参考 エフィム・プチャーチン‐Wikipedia
    ヨシフ・ゴシケーヴィチ‐Wikipedia
    クリミア戦争‐Wikipedia
    『見る・読む・調べる 江戸時代年表』 小学館
    『江戸の外国公使館』 港区立郷土資料館


かぶとんの注目ポイント
普通は、和親条約、修好通商条約の中味なのだが・・・
〇海軍軍人としてのプチャーチン、生涯航行距離を知りたい。
〇プチャーチンの寄港先は何カ国、もしくは何十カ国 ?

〇世界初の、世界一周達成者は ?
〇日本人初の、世界一周達成者は ?
〇ついでに、世界一周をしようと思って、実際に世界一周をした初の日本人は ?


ふり返り。
〇もっと、当時の極東アジア(情勢)の基礎知識は必須でないの。

        

箱館の歴史 開港から箱館戦争、函館へ

2010-08-16 | 箱館の歴史
箱館の歴史 略年表
箱館開港の前後から箱館戦争まで、そして函館へ

1853 嘉永6.6.3    ペリー、浦賀へ来航。
1853 嘉永6.6.9    ペリー、久里浜に上陸。
1853 嘉永6.7.18   ロシア使節プチャーチン(1)、長崎へ来航。
1854 嘉永7.1.16   ペリー、浦賀へ再来航。
1854 嘉永7.3.3    幕府、日米和親条約を調印。下田・箱館の開港。
1854 嘉永7.4.26   〇ペリー、箱館へ来航。
1854 嘉永7.8.30   〇プチャーチン、箱館へ来航。
1854 嘉永7.10.14   プチャーチン、下田に入港。(~1855 安政2.3.18 滞在)
1854 嘉永7.11.4   安政東海地震発生。(駿河・遠江ほか)M8.4 死者1万人余。
            ロシアのディアナ号、津波で破損。のち沈没。
1854 安政1.12.21  日露和親条約を調印。(下田)
1855 安政2.2.22   〇幕府、箱館を松前藩から上知。箱館奉行を置く。
1855 安政2.10.2   安政の大地震発生。M7.0~7.1
1855 安政2.10.14  幕府、蝦夷地移住を許可し、開拓を命じる。
1856 安政3.7.21   アメリカ駐日総領事ハリス、下田に来航。
1857 安政4.4     〇アメリカ人ライス、箱館上陸。(蝦夷地初の外交官)
1857 安政4.6     〇五稜郭の工事着工。
1858 安政5.6.19   日米修好通商条約を調印。
1858 安政5.7  日蘭・日露・日英・日仏と修好通商条約を調印(安政の5か国条約)
1858 安政5.9     初代ロシア領事ゴシケーヴィチ(2)一行、箱館着任。
            領事館は実行寺。
1859 安政6.6.2    神奈川(のち横浜)・長崎・箱館、開港。
            (開港記念日、西暦7月1日)
            慶応3年 兵庫開港。明治元年 新潟開港。
1859 安政6      〇イギリス領事ホジソン箱館着任。フランス領事兼任。
            (称名寺止宿)
           〇箱館 木津幸吉、仕立屋開業(のち蝦夷地初の営業写真師)
1859 安政7.1.13   勝海舟ら咸臨丸でアメリカに向かう。
1860 安政7.3.3    大老井伊直弼、暗殺さる。(桜田門外の変)
1860 万延1     〇ロシア領事館 元町の現ハリストス正教会敷地内に建てる。
1861 文久1.6.2    〇ニコライ、ロシア箱館領事館付司祭として来日。
1862 文久2      横浜 下岡蓮杖、写真館を開設。
1863 文久3      〇イギリス領事館完成。
1864 元治1.6     〇五稜郭で箱館奉行が業務開始。(工事は1866年まで)
1865 慶応1.10    〇蝦夷地 英人によるアイヌ墳墓発掘事件の発生。
1866 慶応2.12.5   京都 徳川慶喜、第15代将軍宣下。
1866 慶応2.12.25   京都 孝明天皇崩御(36)
1866 慶応2.     〇箱館 木津幸吉、写真館を開業。
1867 慶応3.9.23   京都 明治天皇即位
1867 慶応3.10.14   徳川慶喜、大政奉還。
1867 慶応3.12.9   王政復古の大号令。
1868 慶応4.1.3    鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争始まる)。
1868 慶応4.3.14   「五箇条の御誓文」公布。
1868 慶応4.4.11   江戸城の無血開城
1868 慶応4.閏4    〇新政府、箱館府設置。清水谷公考府知事就任。
1868 慶応4.5.15   上野彰義隊の壊滅(上野戦争)
1868 慶応4. 8    会津若松城の篭城戦(会津戦争)
1868 明治1.9.8    明治に改元。
1868 明治1.9.22   会津藩降伏。(9.15 仙台藩降伏、9.27 庄内藩降伏)
1868 明治1.10.12   旧幕府軍の艦隊、仙台を出航。
1868 明治1.10.22   〇旧幕府軍と新政府軍、箱館で戦闘。
      10.25   〇新政府・箱館府(清水谷公考)五稜郭の放棄。
      10.26   〇旧幕府軍、五稜郭に無血入城。占領。
      11.   〇旧幕府軍、新政府軍(旧・松前藩)の松前城・館城を陥とす。
      11.22   〇旧幕府軍、蝦夷平定。
      12.15   〇旧幕府軍、箱館政権の樹立。(総裁・榎本武揚)
1869 明治2.1.3    旧幕府軍に対する追討令が下る。
      3.28    東京遷都。
      4.9    〇新政府軍(海陸軍参謀・山田顕義) 乙部に上陸。江刺奪還。
      5.11    〇新政府軍、箱館総攻撃。
      5.12    〇新政府軍、五稜郭を砲撃。
      5.18  〇五稜郭の開城。旧幕府軍、榎本武揚ら降伏。戊辰戦争終る。
1869 明治2.     開拓使庁の設置(芝・増上寺)。(北海道と樺太、千島を管轄)
            蝦夷地を北海道と改称する。松浦武四郎の提案。
            〇箱館は函館となる。開拓使出張所を設置する。
 

参考 HP 『五稜郭・箱館戦争・箱館 年表』
   HP 『函館日ロ交流史研究会』 函館・ロシア略年表
   箱館戦争-Wikipedia
   『見る・読む・調べる 江戸時代年表』 小学館
    


高田屋嘉兵衛・外国領事館・箱館戦争、所縁の寺院

浄土宗 称名寺  函館市船見町



箱館開港・幕末時は富岡町(現・弥生町 弥生小学校)に在った。
開港当初はイギリスとフランスの領事館として利用された。
境内に河野政通の供養碑、高田屋嘉兵衛の顕彰碑、土方歳三と新撰組隊士の供養碑がある。
墓地には高田屋一族の墓、日魯漁業創立者の堤清六の碑がある。

日蓮宗 実行寺

箱館開港・幕末時は富岡町(現・弥生町)に在った。
安政元年(1854) ペリー来航時、実行寺に写真スタジオが設けられた。
安政2年(1855) フランス軍艦の入港時に、疾病水兵の養生所となる。
同年、ロシア領事着任当初の領事館。

曹洞宗 高龍寺

箱館開港・幕末時は弁天町(現 入舟町)に在った。
開港当初、実行寺とともにロシア領事館一行の止宿所となる。
明治2年(1869)の箱館戦争時には箱館病院の分院となる。。
蠣崎波響(松前藩家老・画家)の『釈迦涅槃図』を所蔵。


横山松三郎
1838(天保9)年-1884(明治17)年 幕末・明治初期の写真師。洋画家。
択捉生まれ。函館移住。北洋漁場を開いた高田屋とは親類。

上記の寺院は、いづれも明治(1879)12年の函館大火の後、現在地に移転した。
(各寺院の説明文は、どれも案内板からの参考・抜粋です。)



(1) 〇 プチャーチン (エフィム・ワシリエビッチ・プチャーチン)
1803.11.8(11.20)-1883.10.16(10.28)
ロシア(ロマノフ朝)海軍軍人、政治家、文部大臣(1861)。
1853年、遣日全権使節として日露和親条約を締結。
1858年、日露修好通商条約を締結。
のち伯爵(1859)。海軍大将・元帥。勲一等旭日章(日本)(1881・明治14)

(2) 〇 ゴシケーヴィチ (ヨシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチ)
   (ゴシケーヴィッチ、ゴシケービッチ、ゴスケビッチとも)
1814-1875.10.5
ロシアの初代駐日領事(在箱館)。外交官、東洋研究家。
1858年10月から1865年4月まで在任。
日露辞典『和露通言比考』(1857)
『日本語の起源について』

 参考 エフィム・プチャーチン‐Wikipedia
    ヨシフ・ゴシケーヴィチ‐Wikipedia