かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

2/15 赤坂芸者さん

2014-02-15 | 都内散策
2014.02.15

ちゃんとご挨拶してお知り合いになりたかったなー
(カメラ撮影フリーです、とのことだったので当ブログにも載せますが、できるだけPRしますので目くじらたてないでくださいね。)
付き添いはいつもの姪っ子Yちゃんです。









『赤坂芸者に学ぶ、おもてなしの心と粋』
六本木の東京ミッドタウン内イベント会場で開催されます、との新聞の記事を見て、再び積もった雪のなか勇んでいってきました。すこし遅れて姪Yちゃんも合流。
特設ステージでの「赤坂をどり」の披露、芸者さんのおもてなしを語るトークショー、お座敷遊びの紹介と実演等々と内容盛り沢山。おわりに芸者さんとの記念撮影会。楽しませてもらいました。外国の方もたくさん見ていました。

なかなか縁のない料亭&芸者さんですが、今は江戸情緒とか伝統芸能、和食等の関心が高まっています。旅行社がリーズナブルな企画「お座敷遊び体験ツアー」をたてれば、今まで縁のなかった一般の人も集まるなーと思いました。(こちらが知らないだけで実施されてるのかしらん)



中山法華経寺の寺史

2014-02-13 | 日蓮宗の寺院

   日蓮宗大本山 法華経寺
 正中山法華経寺は、祖師日蓮の足跡がみとめられる日蓮宗の霊蹟寺院・大本山です
 中世、この地は八幡荘谷中郷と呼ばれ、下総国守護千葉氏の被官である富木常忍と太田乗明が館を構えていました。彼らは曽谷郷の曽谷氏とともに、日蓮に帰依してその有力な檀越となりました。時に鎌倉時代の中期、建長年間(1249~55)頃のことです。
 彼らの館には持仏堂が建立され、のちにそれが寺院となったのが法華経寺の濫腸です。若宮の富木氏の館は法華寺、中山の太田氏の館は本妙寺となり、当初は両寺が並びたって一寺を構成していました。この両寺が合体して法華経寺を名乗るのは、戦国時代の天文十四年(1545)以後のことです。
 富木常忍は出家して日常と名乗り、法華経寺の初代貫首となり、二代目は大田乗明の子日高(にっこう)が継ぎました。そして千葉胤貞の猶子である日祐が第三代貫首となった鎌倉末期から南北朝期ごろ、法華経寺は隆盛の時代を迎えます。千葉胤貞は当時、守護ではありませんでしたが、千葉氏の有力な一派として威をはり、下総・肥前などの土地を寄進して、日祐の後押しをしています。日祐は胤貞の亡父宗胤の遺骨を安置し、名実ともに法華経寺を胤貞流千葉氏の氏寺とし、その後の法華経寺の基礎をつくりました。その後、室町時代をへて江戸時代に至ると、ひろく庶民にまで信仰される寺院となります。
 法華経寺には、祖師日蓮の書いた「立正安国論」「観心本尊抄」の国宝や重要文化財をはじめとして多数の聖教(しょうぎょう)(仏典)類が保管されています。これは千葉氏のもとで文筆官僚の任にあたっていた日常が熱心に整理保存に意をそそいで以来、寺内の宝蔵や坊で厳重に保管されてきた結果です。現在は境内の奥の堅牢な聖教殿で保管されており、その伝統はいまも確かに受け継がれています。
 また、日蓮自筆の聖教の裏からは、鎌倉時代の古文書が発見されました。これを紙背文書(しはいもんじょ)と言います。これは富木常忍が提供した千葉氏関係の事務書類を、裏返して著作の料紙として日蓮が使用した結果、偶然のこされたもので、歴史に残りにくい人身売買や借金の実態など、当時の東国社会の生々しい現実を知る貴重な資料となっています。
 寺内にはその他、重要文化財の法華堂・祖師堂をはじめとする堂舎、絵画や古記録・古文書などの数々の文化財があります。また周辺には日蓮が鎌倉にむけて船出したという二子浦(現船橋市二子周辺)の伝説など、日蓮にまつわる伝説も豊富に残されています。
 これらにより大本山としてはもちろん、さながら文化財の宝庫として、法華経寺の名は全国に知られています。

(上記は、境内入口に掲げられた案内板、市川市教育委員会による文です。)



写真 中山法華経寺・大荒行成満会の日 2

2014-02-11 | 日蓮宗の寺院

聖教殿(しょうぎょうでん)















行僧の練行列のあと境内散策し成満会法要が始まるまで、ここで休憩。













昨年に引き続き、今年も行きました中山法華経寺の大荒行成満会。
姪っ子Yちゃんに促されて。
朝3時起きの4時出発。JR下総中山からも京成中山からも、たくさんの人たち、檀信徒の皆さんがまだ暗い雪道を中山法華経寺へと向かう。寒いのは寒いけれど、それとは別に何か身が引き締まる思いがしました。境内奥の大荒行堂には6時前に着きました。