かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

江戸の名所 ― 名所江戸百景

2011-09-18 | 都内散策・江戸検定
『大江戸見聞録』内の「大江戸見聞録地図 」(p.4)に出てくる地名(■マークをつけました)と、万延元年(1860)、酒井伴四郎の日記をベースにした『江戸の名所 お上り武士が見た華の都』(●マーク)、そして廣重(広重)の『名所江戸百景』(安政3年(1856)~5年(1858))を合体してみました。
それと、関連して出てくる江戸川柳、主に『柳多留』から、をつけ加えました。
例の、のの字回り(ほぼ)の順にいきます。

江戸城(周辺)
 ●大名小路
   江戸城の大手門前、親藩や譜代の大名の屋敷地。大手門前は「大下馬」。
   広場の前は、雅楽頭酒井家(当時、播磨国姫路藩主)の屋敷。
   江戸初期、家綱の時代の老中首席、酒井忠清は「下馬将軍」と呼ばれた。
 ●霞ヶ関
   古代、奥州道中の関所で、大和国から「雲霞」を隔てた遠い地。が由来か。
  13『外桜田 弁慶堀 糀町』(外桜田 弁慶堀(現在の桜田堀)より麹町方面をのぞむ)
    彦根藩井伊家上屋敷→憲政記念館。参謀本部陸地測量部「全国水準原点」。
  28『霞かせ紀』(霞が関) 霞が関坂上の正月風景。一番高い凧に「魚」の字
    画面右(南側)、福岡藩黒田家上屋敷 左(北側)、広島藩浅野家上屋敷。
  83『山下町 日比谷 外さくら田』(山下町より日比谷 外桜田を望む) 羽子板と凧。
    肥前佐賀藩鍋島家・松平肥前守の上屋敷(日比谷公園) 白壁に赤い門。
 ●京極家 金比羅大権現
   讃岐丸亀藩 京極家の上屋敷内に分祀・勧請。縁日・10日。
  82『虎の門外あふひ坂』(虎の門外の葵(あおい)坂) 溜池南端

■ 愛宕山 標高26m。
  61『芝愛宕山』(愛宕神社) 愛宕権現。「正月三日毘沙門使」
    勝軍地蔵菩薩。江戸の火伏せ(防火)神。縁日は毎月24日(お地蔵さまの日)
     「三人連れにて愛宕山に参詣いたし候ところ、異人五人連れ来たり、」
     「茶屋の女に戯れおるを見る、少々日本語も交じりこれ有り、」
   伴四郎の日記(万延元年(1860)9月17日の項)
   幕末歴史のプロならば、彼らが誰だったか特定できると思うのだが・・・
  88『愛宕下藪小路』(虎ノ門)
■ 日枝神社(山王権現社)
  例祭 6月15日 日吉山王神社(権現)、山王社ともいわれる。
  文明10年(1478)、太田道灌が江戸鎮護の神として城内に創建したとされる。
     「どの祭でも深川の親父でる」書家三井孫兵衛親和(しんな)のこと。
  15『糀町一丁目山王祭ねり込』(桜田堀、皇居)
    山車‐糀町の御幣を担ぐ猿、大伝馬町の諫鼓鶏(かんこどり)が手前に半分。
  94『赤坂桐畑(あかさか きりばたけ)』
  100『赤坂桐畑雨中夕けい』
    その昔、茜草(あかね)の茂る赤根山の坂なので赤坂と呼んだ。
 ●氷川明神社(赤坂氷川神社)
   吉宗の代、備後三次藩浅野家の赤坂中屋敷跡地に造営。
   祭礼は一年おきの6月15日(現在は9月15日)。
 ●豊川稲荷(豊川稲荷東京別院)
   曹洞宗妙厳寺別院の通称。荼枳尼真天。
   大岡越前守忠相家(三河国大平藩主)の下屋敷内に勧請。のち現在地に移転。
 ●紀州藩中屋敷 敷地、十三万五千坪。
   赤坂御門外の諏訪坂にあった上屋敷は文政6年(1823)の火事で焼失。
   上屋敷はその後再建されず。中屋敷が役割を担った。
  74『紀の国坂 赤坂溜池遠景』(紀の国坂より赤坂溜池方面の遠景)
     紀州邸→赤坂離宮→仮皇居、のち東宮御所。

■ 四谷
 ●市谷八幡宮
  98『市ヶ谷八幡』(市谷亀ヶ岡八幡宮) 太田道灌の勧請。
     別当東円寺(真言宗)の時の鐘。江戸八所八幡の一つ。幕末時、隆盛。
     (隣りの)尾張徳川家上屋敷→防衛省

 ●駿河台
   富士見の地。もしくは駿府・旗本衆の居住地としたことから。
   神田川の開削は、陸奥国仙台藩が担当した。
   人工渓谷は「茗渓」、「   」とも呼ばれた。
   自宅で「江戸検」 第8問(1級相当?)。答がでれば、何級ということもないが。
  54『水道橋 駿河臺』(水道橋より駿河台を望む)端午の節句、鯉幟。鍾馗の絵幟。
     上水は目白台下の堰から北を迂回して水道橋(水道の樋)に出た。
  77『筋違内(すじかいうち)八ツ小路』(神田淡路町・須田町 旧交通博物館辺り)
■ 神田大明神(神田神社・神田明神)
  柴崎村(大手町あたり)の鎮守社。駿河台、そして現在地に移転した。
  69『神田明神曙之景』 もともとは安房洲崎明神(漁民部族の崇める海神)
     「大黒様えびす様将門様」
■ 湯島聖堂
  71『昌平橋 聖堂 神田川』(昌平橋より聖堂、神田川を望む)雨の景。
     昌平橋は、孔子の故郷、昌平郷に因む。
■ 湯島天神(湯島天満宮)
  菅原道真合祀。太田道灌による再建。
  江戸の三富の一つ。他は谷中感応寺(天王寺)、目黒不動堂。天保改革で禁止。
   8『湯しま天神坂上眺望』(湯島天神)女坂に正対して不忍池と上野の山を望む。

 ●柳原土手
   神田川沿いの土手。古着(柳原物)の商店街。(現在の岩本町3丁目)
   現在の衣類の問屋街は馬喰町1丁目。
  80『神田紺屋町』干し場の布と遠方の富士。現在の神田駅東、昭和通り辺り。
    版元・下谷魚栄(うおえい)の魚の字、広重のヒロ組み合わせ図案に注目。

日本橋
   9『日本橋雪晴』 快晴の雪の朝、日本橋・魚河岸上空より南西方向を望む。
     伊豆房総の漁村から魚河岸への特急便・押送船。
    橋の長さ凡二十八間、葱宝珠の銘に万治元年戊戌九月造立(絵本江戸土産)
  20八ツ見乃橋(一石橋) 俗説に両後藤家(五斗)で一石。
     北の金座に後藤庄之助、南は幕府御用達・呉服商の後藤縫之助。
    銭瓶橋・道三橋・呉服橋・鍛冶橋・常盤橋・日本橋・江戸橋と一石橋。
      自宅でやろう!「江戸検」実力診断の第12問。(2級~1級?)
 ●日本橋魚市
   日に千両の魚河岸。大正の震災後、築地に移る。
  84『日本橋 江戸ばし』(日本橋より江戸橋方面を望む)鰹の担ぎ売りと擬宝珠
      「初松魚(かつお)飛ふや江戸橋日本橋」(武玉川十六)
      「はつ鰹値を兼好に聞かせたし」
      「伊勢町をだまって駈ける初松魚」
        ⇒「伊勢屋さんもう食へるよと鰹売」

  「鎌倉の海よりいでし初がつを みな武蔵野のはらにこそ入れ」狂歌
 ●日本橋界隈
  25『する賀てふ』(駿河町)現、室町 通りの正面に駿河国の富士山が見える。
      越後屋(三越本店本館・三井本館) 丸に井桁に三の字の紺のれん
  59『市中繁栄七夕祭』(京橋) 中橋狩野新道の裏手に広重居。
      画面右の火の見-八代洲河岸火消屋敷(広重の生地)。
  76『鎧の渡し 小網町』(日本橋川 鎧橋) 茅場河岸より鎧河岸の船荷蔵を見る。
     日傘をさした浴衣の町娘「此辺傘屋多し」 山王社の旅所、境内の薬師堂。
  85『京橋 竹がし』 左岸炭町の河岸、俗称竹河岸。
      赤い提灯に「彫竹」の二字は、初版を彫った彫師の隠しサイン。
  89『大てんま町 木綿店』(大伝馬町一丁目、現日本橋本町) 馬込勘解由だ。
  90『大傳馬町 こふく店』(通旅籠町、日本橋大伝馬町) 大丸屋・下村彦右衛門
      棟梁送り(大工送り)の行列。
  93『日本橋通一丁目略図』(現、日本橋の南側、中央通りの周辺) 白木屋呉服店
      蕎麦屋・東橋庵の出前持ち、住吉踊りの一団(願人坊主)、女大夫。
  99『びくにはし 雪中』(比丘尼橋)江戸城東側の外堀、京橋川にかかる。紺屋町。
      〇やき十三里 丸焼き1本、栗より(九里四里)うまい十三里。
      山くじらの招牌(看板) 猪の肉の異称。食べ方は葱を加えた鍋煮。
 ●長崎屋(薬種問屋)
   日本橋石町三丁目。オランダ商館長一行の江戸参府での定宿。
      「長崎屋 今に出るよと 取りかこみ」
■ 人形町(二丁町)
  堺町の中村座、葺屋町の市村座。(森田座は木挽町)
  天保13年(1842) 天保の改革で 三座は浅草猿若町に移転させられる。
■ 八丁堀
  江戸町奉行所の与力・同心の居住区。


■ 芝大神宮(芝神明) 飯倉神明宮
  江戸下町の大産土神で、境内や門前は江戸でも有数な盛り場だった。
   例祭は9月16日を中心に前後11日間。「だらだら祭り」ともいう。生姜市。
   「め組の喧嘩」は、文化2年(1805)のこと。
■ 増上寺
  関東浄土宗の総本寺、三縁山広度院増上寺 境内二十五万坪
  92『芝神明 増上寺』 お上りさんと増上寺の托鉢僧(七つ坊主)。
      「上総まで 聞こえる江戸の うなり声」自宅で江戸検・問11
 ●赤羽水天宮
   筑後久留米藩有馬候の邸内宮。明治に人形町(蛎殻町)に移転。
   例祭は5月5日。縁日は毎月1日・5日・15日。
      「そうでありまの水天宮」「情ありまの水天宮」(地口)
 ●古川
   赤羽川・新堀ともいう。上流は渋谷川、下流は金杉川。
  29『増上寺塔 赤羽根』(増上寺五重塔側より赤羽方面を望む)
      赤羽川に架かる赤羽橋、左半分に有馬家の上屋敷。
      火の見櫓と水天宮の赤い幟。
   2『芝うらの風景』(芝浦の風景)
      将軍家別邸の浜御殿。水路標識の澪標(みおつくし)
  60金杉橋 芝浦(金杉橋より芝浦を望む) 池上本門寺への祖師参りの行列
      *「池上市民大学」で、話のネタにしてみようかな。
     『廣尾ふる川』(広尾 古川)四之橋(相模殿橋)辺り。料理屋「狐鰻」。
■ 三田
■ 高輪
  49『高輪うしまち』(高輪牛町)牛車の基地、大八車発祥の地(芝車町、俗に牛町)
  65『月の岬』(高輪 伊皿子) この絵は、より南の品川宿寄りとある
■ 泉岳寺(万松山) 播磨国赤穂藩浅野家の菩提寺。
  橋場の総泉寺、愛宕下の青松寺とともに、曹洞宗の江戸触頭三か寺。
      「去年までただの寺なり泉岳寺」(武玉川)
      「知れて居るものをかぞへるせんがく寺」

上野
■ 寛永寺
  寛永2年(1625)の建立。天海僧上(南光坊天海)。江戸の鬼門(北東)。
      「花の雲 鐘は上野か 浅草か」(芭蕉)
■ 不忍池
  古くは江戸湾の奥の入り江だった。干上がったあと、一部が池として残った。
   4『上野清水堂 不忍の池』(寛永寺清水観音堂) 秋色桜
      上野の花見は高尚(堅苦しい)、向島は粋、飛鳥山は野暮といわれた。
  66『上野山内月のまつ』(清水観音堂下 不忍池弁財天) 第4図の大写し。
  26『下谷廣小路』(上野広小路)
      (尾張・呉服の老舗いとう)伊藤松坂屋→上野松坂屋
      日傘を差した女性たちと「だんぶくろ」スタイルの講武所習兵。
  97『上野山した』(上野山下-上野の山の下)料理屋・伊勢屋のしそめし。のち雁鍋
      「山下で円頓院は知りませぬ」
  (表題の本に出てこないので、特別にいれます谷中「感応寺」)
      「町内で権妙(ごんみょう)に知る感応寺」不思議に。奇妙に。
      「首くくり富の札など持って居る」
 ●道灌山
   上野の山から飛鳥山の間の山手台地。虫聴きの名所。
   地名は太田道灌の物見の砦、または地元の豪族・関道閑の屋敷からとも。
   道灌山の麓の地名。新堀(にいぼり)から日暮里となる。別名「ひぐらしの里」
  (日暮里)
   『日暮里寺院の林泉』妙隆寺、修正院、青雲寺の三寺院は里俗「花見寺」。
   『日暮里諏訪の台』諏訪神社・淨光寺前の諏訪台から筑波・日光を望む。
 ●根津権現社(根津神社)
   もと駒込千駄木にあり、6代将軍家宣の父綱重が崇敬した。
   宝永3年(1706)、現在地に遷座。正徳4年(1714)、天下祭(一回だけ)。
  10『千駄木 団子坂 花屋敷』植木屋経営の見晴らし楼と、花園の景。
      団子坂-潮見坂、汐見坂、千駄木坂、七面坂とも。

浅草
■ 浅草寺
  浅草神社の三社祭 もと5月17・18日、現在は5月第3週の金・土・日。
  18『浅草金竜山』(雷門) 総門「風雷神門」、大提灯の文字「(志)ん橋」。
      雷門 慶応元年(1865)焼失、昭和35年(1960)に復興再建。
      現在は、雷門に「雷門」、宝蔵門に「小舟町」、本堂に「志ん橋」。
      四万六千日(ほうずき市) 7月9日・10日(功徳日・縁日)
  27『猿わか町よるの景』(猿若町 夜の景)濃紺の夜空に満月、くっきり人の影。
    天保13年(1842)、中村座・市村座・河原崎座(のち森田座)、市中より移転。
  62『吾妻橋 金竜山 遠望』(花川戸) 竹屋の渡しのなかほどから下流方向。
 ●浅草奥山
   浅草寺裏手にあった盛り場。見世物小屋と大道芸。
 ●太郎稲荷
   立花家(筑後国柳川藩)、浅草田圃にあった下屋敷の屋敷神。
   江戸のはやり(流行)神。繁盛祠。
 ●大鳥大明神社(鷲神社)
  55『蓑輪 金杉 三河しま』(三ノ輪・金杉・三河島)
      浅草北方の氾濫原、三河島田圃。
      ここの鶴を目当てに将軍が鷹狩りにやってきた(鶴御成り)。
    『浅草田圃酉の町詣』吉原妓楼の室内より、鷲神社へ参る人を遠くに望む。
 ●新吉原遊女町
   明暦2年(1656)、葺屋町東(日本橋人形町)より日本堤に移転。
  47『廓中東雲(かくちゅうしののめ)』 新吉原、春の夜明け。
  51『よし原日本堤』(吉原日本堤)夜の景。
      遊女町を呼ぶのに京大坂では「いろまち」、江戸では「あくしょ」
                            (『守貞漫(謾)稿』)
      「役人の骨っぽいのは猪牙 に乗せ」
      「太鼓持 ありんす国の 通辞なり」
      「傾城の義理はちょっちょと風をひき」
      「吉原は拍子木までが嘘をつき」
                  日常の四つは十時、吉原の四つは十二時。
      「嘘も少しはつきますと女衒(ぜげん) いい」
 ●真土山聖天宮(待乳山聖天宮)
    『真乳山山谷堀夜景』
         隅田川東岸・三囲神社前より対岸の真土山・山谷堀を望む。
 ●今戸
   旧石浜今津の転訛か。今戸焼。江戸初期、町づくりのための瓦を焼いた。
   玩具の今戸人形。招き猫、稲荷の狐。
      「今戸橋 上より下を 人通る」
 ●朝日神明宮(石浜神社)
   石浜神明、橋場明神とも。鎌倉初期には大社として繁栄した。
   祭礼は9月16日(生姜祭り)
■ 橋場
  46『墨田河 橋場の渡 かわら竈(がま)』「橋場今戸の朝煙り」(大津絵節)
    古代、中世の常陸国府に至る官道の渡し場であった。在原業平『伊勢物語』
  「名にし負はば いざ事問わん 都鳥 我が思ふ人は ありやなしやと」
      「問ふ人が ただの人なら ただの鳥」
      「連れて逃げなよと二条の后(きさき)いひ」(柳多留)
■ 大川(隅田川)
  宮戸川、浅草川、千住川、墨田川とも。
     『浅草川大川端宮戸川』柳橋手前、船上より上流を望む。
                大山講の講中と梵天。
■ 吾妻橋
  安永3年(1774)、隅田川五橋の最後に架橋。幕府直営ではなく町営。
  30『駒形堂 吾嬬橋』(駒形堂 吾妻橋) 画題の堂と橋は左隅のみ。
      五月雨空、ほととぎす、竿頭の紅布。
      「君はいま駒形あたりほととぎす」二代高尾太夫
■ 本所
  22『浅草川 首尾の松 御厩河岸』(蔵前) 夏、満天の星。
      首尾よく猪牙舟、屋根船での忍び逢い、渡船のすれ違い。
  87『御厩河岸(おんまやがし)』冬の暮方。
      広重は悲惨な存在を避けてはいない、と説明にある。

■ 柳橋
■ 浅草橋
  68『馬喰町 初音の馬場』(日本橋馬喰町)
     紺屋の布、柳の芽吹き、馬場南端の火の見。
     関東郡代の御用屋敷、公事訴訟で出てきた人の旅籠「公事宿」があった。
      「諸国からふくれたかほハ馬喰町」
      「馬喰町諸国の理非のよる所」
      「馬喰町とゝでまんまを喰て居る」
      「馬喰町きうじの手でもにぎらせず」
      「馬喰町五百のあとが四十七」
      「新田を 手に入れて立つ 馬喰町」
      「家督公事目鼻がつくと座頭来る」
 「夢むすふ浅草まくら柳こり 花のお江戸に旅寝せしかな」(四万赤良)
■ 両国橋
  明暦の大火(振袖火事)(明暦3・1657)後の架橋。長さ九十六間(約170m)。
  両国の花火。5月28日の川開きから8月28日の川仕舞いまで。
 ●両国橋西詰広小路
  日除地のため仮設小屋であったが、江戸指折りの盛り場になった。
 ●両国橋東詰
  東両国、向両国とも。(こちらが現在の両国)
■ 回向院
  諸宗山無縁寺(のち国富山) 浄土宗寺院。明暦の大火の直後の建立。
  勧進相撲の興行。出開帳の開催。
  21『両国橋 大川ばた』大川の中央に両国橋。手前によしず張りの掛け茶屋。
     大川端は、両国橋の下手、主に右岸。狭くとれば、浜町河岸。
  53『両ごく 回向院 元柳橋』(両国 回向院より元柳橋方面を望む)
     前景、本所回向院境内の相撲の太鼓櫓。
  96『両国 花火』(両国の花火)

■ 新大橋
  73『大はし阿たけの夕立』(新大橋)幕府御船蔵。安宅丸に因み、安宅(あたけ)
      「御亭主が猪牙で女房が安宅丸」 あたけ-あたける(あばれる)
      「江戸孝行のしたい時分に江戸ハなし」
  37『みつまたわかれの淵』(三又 別れの淵)(日本橋中洲) 箱崎川
■ 森下
 ●霊巌寺
   僧・霊巌の建立。浄土宗・関東十八檀林の一寺。
   明暦の大火後、深川(現・江東区白河)に移転。白河藩主・松平定信墓所。
  63『五百羅漢 さざゐ堂』大島 本所五ツ目羅漢寺の栄螺堂(さざえどう)-三匝堂
     羅漢像は、明治に目黒不動の東隣に移転した。
  17『小奈木川五本松』(小名木川橋北詰)
     下総国行徳の塩を江戸に運ぶために開削した沿海運河。
  79『深川萬年橋』(小名木川)
  「はなし亀一日ちうをおよいでる」(柳多留21)放生、放し亀 橋は万年橋
■ 永代橋
  架橋、元禄11年(1698)、長さ 110間(約200m)。江戸市中で一番長い橋。
  文化4年(1807)8月19日、富岡八幡宮の祭礼日(本来は15日)に崩落大惨事。
  33『永代橋 佃しま』(永代橋の下から佃島方面を望む)
      「漁り火が夜は佃の江戸の華」(柳多留121)
■ 深川  開発者・深川八郎右衛門の名からきている。
  24『深川木場』雪中の深川木場。
■ (佐賀町)
■ 富岡八幡宮
  祭礼日は8月15日。
  勧進相撲の興行開催。(寛政3年(1791)に本所の回向院に移る。)
     『深川八まん山ひらき』永代寺の庭園と池。
 ●三十三間堂
   元禄期、浅草松葉町より移転再建。通し矢の距離は66間(約119m)。
  64『深川三十三間堂』富岡八幡宮の東隣。元禄に浅草より移転。通し矢の射場
 ●洲崎弁財天(洲崎神社)
   元禄13年(1700)、綱吉が母桂昌院の供養のために建立。
  56『深川洲崎十万坪』洲崎沖合上空から大鷲の目になって雪景色を望む。
    開発者・近江屋庄兵衛の姓から千田新田とも、一橋領十万坪とも呼ばれた。
      自宅でやろう!「江戸検」実力診断の第46問。(3級位)
    『中川口』中川から小名木川への出入り口。中川番所。「奥川廻し」
    『堀江ねこざね』浦安の境川。旧江戸川の河口付近の分流。猫実村。
  23『利根川ばらばらまつ』(浦安) 利根川は江戸川、ここでは中川か。
     画面の右、空中に投網。網舟、釣舟が浮かぶ。
■ 佃島
  57『佃しま住吉の祭』(佃島 住吉神社) 中央に住吉大明神の大幟、奥に神輿。
     住吉神社の佃祭 8月6・7日。本祭りは3年に一度、子・卯・午・酉の年。
     摂津国西成郡佃村の漁民が集団移住。江戸町内とは違う小社会であった。
  39『銕炮洲 稲荷橋 湊神社』(鉄砲洲稲荷神社)亀島川・高橋より八丁堀を望む。
     江戸湊の外港(回船の船だまり)。海運と河運の接合点。
     百万以上の人口を維持できたのはなぜか?道路率(含水路)、流通路。
  91『銕炮洲 築地門跡』(築地本願寺(築地御坊)) 外題「江戸百景余興」
     『江戸名所図会』の「寒橋(さむさばし)」の図を踏まえている。


東海道
■ 品川宿
  北品川の一帯は、北国・吉原に対し「南国」とも呼ばれた。
     「品川の 客人偏の あるとなし」 侍と寺。
     「江の島の十里こなたに三日居る」 江ノ島の存在感(?)
 ●御殿山
   江戸初期、三代将軍家光の御殿が建てられたことが地名の由来。
   御殿山の花見、品川浦の潮干狩り、海晏寺の紅葉見物。
   幕末、御殿山の一部を崩してお台場(品川砲台)建設にあてた。
    5『品川御殿やま』 品川台地の先端、御殿山。
     海上砲台建設に削られた山肌をもろに見せ、花見客と対比させている。
     文久2年12月(1863.1)尊皇攘夷派による建設中の英国公使館焼討ち事件
     御殿山→原六郎邸→御殿山ヒルズ
 ●東海禅寺(東海寺)
    (万松山) 寛永15年(1638)、家光の創建。開山・沢庵宗彭。
    臨済宗大徳寺派。当時の敷地は約四万七千坪。
      「海が近いのに東(とお・遠)海寺とはこれいかに」
       「大軍を率いても将(しょう・小)軍というがごとし」
    蓄え漬→沢庵漬け
 ●海晏寺
   山号は補陀落山。もと臨済宗。開墓は執権・北条時頼。開山・大覚禅師。
   慶長元年(1596)、家康の命により曹洞宗寺院として再興。
   「江府第一の楓の名所」 小唄に、
   「あれ見やしゃんせ海晏寺 真間や龍田や高雄でも およびないぞよ紅葉狩り」
   参考に、「品川区立 品川歴史館 -いま語り継ぐ品川の民謡-」もどうぞ。
  41『南品川 鮫洲海岸』 海上に海苔ヒビ、遠方に筑波山、左手の森に海晏寺。
    『品川すさき』(品川 洲崎) 目黒川の河口と弁才天社(現利田神社)。

 (大田区)
 (池上本門寺) 大国院は日蓮の直弟・日朗(池上二世)の阿闍梨号に因んでいる。
    『江戸近郊八景之内 池上晩鐘』
  12『八景坂鎧掛松』(大森山王) 伝説の主は八幡太郎義家。
     坂の旧名・やげん坂→ヤケイ坂→ハッケイ坂。ハッケ、ハケ(岡の端)
   3『千束の池 袈裟懸松』(洗足池) 日蓮上人伝説。勝海舟の別荘と墓所。
  35『蒲田の梅園』(鎌田・梅屋敷) 東海道草津の道中常備薬「和中散」の販売。
  95『はねたのわたし 辨天(弁天)の社』櫓漕きの小舟から六郷川河口を望む。

■ 目黒川
■ 目黒
  43『目黒 元不二』上目黒村目切坂上の高台。文化年間、講を結んで築いた富士。
     享保年間、行者身禄の教えをきっかけに「冨士講」が生まれた。
  44『目黒 新冨士』目黒三田村別所坂上鎗が崎にあった築山富士。近藤重蔵別宅。
     管理人兼そば店主人と近藤家との利権争いの場所。
  50『目黒 爺々が茶屋』(目黒 茶屋坂)将軍、鷹狩のさいのお立ち台(御立場)。
  52『目黒 太鼓橋 夕日の岡』目黒・行人坂下の石の眼鏡橋。絵は雪景色。
     夕日の岡は、現・目黒雅叙園。
    『目黒千代か池』千代が崎。玉川上水の分水、三田用水があった。
     島原藩主松平主殿頭(とのものかみ)抱屋敷。現・都立教育研究所辺り。
■ 目黒不動堂(目黒不動)
  泰叡山 瀧泉寺(天台宗)。慈覚大師・円仁が創建。三代将軍家光が堂舎を造営。
  不動明王が本尊で、縁日は28日。

■ 甲州道中
■ 新宿(内藤新宿)
  81『四ツ谷 内藤新宿』馬の尻。草鞋をつけた馬
    『角筈熊野十二社俗称十二そう』熊野十二所権現社(通称十二社) 滝と池。
    『玉川堤の花』内藤新宿(現新宿3丁目)天竜寺と時の鐘(現新宿4丁目)辺り。
 ●太宗寺(山号・霞関山)
   浄土宗 信濃国高遠藩内藤家の菩提寺。
 ●中野桃園
   中野犬小屋跡地に、吉宗が設置した桃園。
 ●妙法寺(山号・日円山)
   「堀の内のお祖師さま」(厄除け祖師)。
 ●大宮八幡宮
   和田八幡宮とも。昔、武蔵国三大宮のひとつ(大宮氷川神社、秩父神社)。
 ●井頭の池(別名・七井の池)
   6『井の頭乃池 弁天の社』(井の頭池 井之頭弁財天)
    神田上水の水源。弁財天は上水水源の神として江戸町人の信仰を集めた。
    幕府直轄の鷹狩り場。将軍の休憩所を御殿山といった。
    湧水が涸れた時期は、・・・

■ 神田川
  48『せき口 上水端 はせを庵 椿やま』(関口 上水端 芭蕉庵 椿山)
    大洗堰-上水取入口の堰。34歳の松尾芭蕉は、ここの水役だった。竜隠庵。
  32『高田姿見のはし 俤の橋 砂利場』(姿見橋・面影橋) 氷川神社・南蔵院。
  42『高田の馬場』弓馬術の練習をしている図。
    越後高田藩主・松平忠輝の母高田殿の庭園として開かれた土地。
■ 雑司ヶ谷鬼子母神(鬼子母神堂)
   法妙寺 加賀藩主前田利常三女・満姫の祈願・建立。
   すすきみみずく 疱瘡(天然痘)除けのお守り。
      「護国寺を素通にする風車」
■ 護国寺
 ●万昌院
   (旧・牛込、のち上高田へ移転して萬昌院功運寺) 吉良上野介義央の墓所。
 ●伝通院
   (浄土宗) 家康生母、於大の方(伝通院)の菩提寺。千姫(天樹院)墓所。
 ●白山権現社(白山神社)
   小石川の鎮守。綱吉生母、桂昌院の保護を受ける。
 ●染井
   花卉栽培の盛んな地。伊藤伊兵衛がきっかけ。現在の駒込辺り。ソメイヨシノ
   菊の品評会。菊人形発祥の地。変化朝顔の栽培も流行した。(江戸後期)

■ 中山道
 ●板橋宿
■ 石神井川
 ●王子稲荷社 縁日は月ごとの午の日。
  70『王子 稲荷乃社』(王子稲荷神社) 早春、初午詣での賑わい。
     王子権現とその摂社で関八州の稲荷の総元締王子稲荷。花見、雪見の名所
     王子稲荷の名物、凧市。奴凧の火伏のお守り。
      「明日から手習いだァと叩いてる」 柳多留 45
       初午の稲荷祭、寺子屋入門の日。
  75『王子 装束ゑの木 大晦日の狐火』(装束稲荷)
     初詣にやってきた関八州の狐たち。
     鹿島萬兵衛『江戸の夕栄』に、なぜ、この伝承があるのかの説明がある。
 ●王子権現社(現王子神社)
   豊島氏が熊野権現を勧請し、若一王子宮として創建した。
   7『王子 瀧の川』金剛寺(紅葉寺) 石神井川(滝の川・音無川) 弁財天と弁天滝。
  72『王子 不動乃滝』(滝野川渓谷) 正受院の裏の崖にあった滝。
    『王子音無川堰埭世俗大瀧ト唱』 石神井川(音無川)の堰(せき)。
 伴四郎日記(9月26日) 扇屋という茶屋で異人、四ケ国の人物呑み喰いいたし・・
 酒井伴四郎の印象 額面、なまくら武士。三昔前の超一流企業・サラリーマン。
 百歩千歩、変えて時代小説風に密命をおびた隠密。(ヒマなもんで、考えすぎか)
■ 飛鳥山
  豪族・豊島氏が紀伊国新宮の飛鳥明神をこの高台に祀ったのが地名の由来。
     「飛鳥山なんとよんだか拝むなり」
     「この花を折るなだろうと石碑見る」侍講・成島鳳卿、撰文の石碑
  11『飛鳥山 北の眺望』花見。遠方には筑波山。
  34『川口のわたし 善光寺』(新荒川大橋 川口・善光寺) 日光御成街道(岩槻道)

■ 日光道中・奥州道中
■ 千住
 ●千住宿
■ 千住大橋
   1『千住乃大はし』(千住大橋) 家康入府直後の架橋。
    以後六十余年、両国橋ができるまで、隅田川の橋はここだけであった。

■ 墨堤
■ 木母寺(もくぼじ)
   天台宗。古くは梅若寺。本尊は元三大師(慈恵大師)。
   謡曲『隅田川』(室町時代、観世元雅) 梅若丸哀話の舞台。
     「尋ねきて とわばこたえよ都鳥 すみだ河原の 露と消えぬと」
      「われもまた、いざ言問はん都鳥・・・」
   梅若忌 3月15日(旧暦) (現在は4月15日) 梅若参。
      「三めぐりのあたりから最ゥぶちのめし」 (柳多留・初)
  86『木母寺 内川 御前栽畑』右手に料亭・植半。木母寺は描いてない。
  19『隅田川 水神の森 真崎』八重桜満開の墨堤から、隅田川神社(水神社)。
    『真崎辺より水神の森内川関谷里を見る』料亭の円月窓より隅田川を望む。
  58『綾瀬川 鐘か淵』隅田川・荒川・綾瀬川の三俣。上部に合歓の木、川に筏。
    『堀切の花菖蒲』「百姓伊右エ門花菖蒲之名所ナリ」。
    『小梅堤』四ツ木通用水(もと亀有上水)と八段橋。
 ●白鬚明神社(白鬚神社)
   祭神・猿田彦命。慈恵大師(良源)の勧請といわれる。
   客商売の人たちの信仰を集めた。八百善・栗山善四郎、吉原引手茶屋・駿河屋
   市兵衛、妓楼・松葉屋半左衛門。隅田川七福神(向島七福神)「白髭の寿老人」
■ 長命寺(宝寿山)
  天台宗。弁才天を祀る。 名物・桜餅は、元禄年間、山本新六の考案。
  桜餅の売上げは一年間に40万個近く。(曲亭馬琴『兎園小説』)
      「いざさらば 雪見にころぶ 所まで」(芭蕉)
 ●秋葉大権現社(秋葉神社)
   請地村。もと千代世稲荷(屋敷稲荷)。
   元禄期、遠江国・秋葉権現を勧請する。
   近くに葛西太郎、武蔵屋、大七といった料理茶屋があった。
  67『請地(うけち)秋葉の境内』(向島 秋葉大権現・秋葉神社)
      三囲神社の東北東。坊主頭の後姿は、広重自身といわれている。
 ●三囲稲荷社(三囲神社)
   三囲稲荷、田中の稲荷、三井(みつい)稲荷とも。
   三井寺(園城寺)の源慶が再興。土中から白狐に跨った翁像の発見伝説。
   越後屋呉服店・三井家の守護神。
      「夕だちや 田をみめぐりの 神ならば」(箕角) 榎本(宝井)
      「見めぐつて居る内狐のり移り」
 ●牛御前王子権現社(牛島神社)
   牛島の総鎮守。俗に牛御前。(素戔鳴尊のこと)
   慈覚大師(円仁)と牛頭天王、牛島の出崎(御崎)の混合か。
■ 向島百花園
 ●新梅屋敷(向島百花園)
   本草家・佐藤鞠塢が向島寺島村に開いた梅園が前身。
   庭門の扁額は「花屋敷 蜀山人(大田南畝)」。
  45『柳しま』(柳島妙見山法性寺) 横十間川と北十間川のT字交差の地。
     北辰妙見大菩薩の法性寺(ほつしょうじ・妙見さん)、料亭・橋本。
   『吾嬬の森連理の梓』吾嬬権現社。北十間川と木下川の交わる辺。梓でなく樟
■ 亀戸天神
 ●太宰府天満宮(亀戸天神社)
   菅原道真を祀る。本所の鎮守として分祀・創建。
   1月25日の初天神祭は参拝客で特に賑わう。
 「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」(道真)
  16『亀戸天神境内』(亀戸天満宮) 名物・藤棚と心字の池にかかる太鼓橋。
 ●梅屋敷
  78『亀戸梅屋舗』(臥龍梅) 正式名は清香庵。園の代名詞・臥龍梅の大写し。
  38『逆井(さかさい)のわたし』(旧中川・逆井橋) 竪川沿いに旧佐倉道。
  40『にい宿のわたし』(新宿の渡し)(葛飾 中川橋)
    『砂むら元八まん』砂村新田(現・江東区南砂7丁目) 富岡八幡宮の旧地。

  36『四ツ木通 用水 引きふね』(葛西用水)曳舟・曳舟川 たしかに綱で引いている
  31『真間の紅葉 手古那の杜 継はし』(市川市真間・弘法寺)
   「葛飾の真間の入り江にうちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ」(山部赤人)
 「あきはてる迄ハ毎日通ります」柳多留10 秋と飽き 小名木川・中川番所
  14『鴻の臺(台) とね川風景』(市川市国府台) とね川(江戸川)


 ●横浜


■ 墨引内 町奉行所の支配(管轄) 朱引の内側(例外 目黒不動)
      現在の山手線の内側プラス墨田・江東の隅田川側。
■ 朱引内 御府内(江戸の範囲) 墨引の内側
      品川・内藤新宿・板橋宿・千住大橋から荒川の内側。


参考図書 『今とむかし 廣重名所江戸百景帖』河津一哉編・解説 暮らしの手帖社
       当ブログ「江戸百景」の番号(1~100)は、こちらを並べ替えてます。
       十九景が除かれていましたが、別途、追加記入しました。
     『江戸の名所 お上り武士が見た華の都』小学館新書
     『大江戸見聞録』小学館
     『広重の大江戸名所百景散歩 -江戸切絵図で歩く』人文社

2011.09
〇江戸検(江戸検定)の学習用コーナーです。随時、変更・追加しています。



船の科学館 「江戸時代は水運の時代」

2011-08-17 | 都内散策・江戸検定

ちっとは、江戸検の学習らしきこともしないと(まずいなあ)。
他のことを、なんだかんだしているうちに、受検日まであと2ヶ月半になってしまった。

船の科学館では、和船コーナーを重点に「江戸」を意識して見学しました。




船の科学館 3F 和船コーナー

水運の時代の商船


水運の時代の商船
 江戸時代の物資輸送をになったのは水運です。重量のわりに安価な物資の大量輸送の手段として、陸運よりも経済性と能率の点ではるかに優れていたからです。海船と川船による交通網が全国をおおい、海と川の結節点である河口には必ずといっていいほど港が栄えました。江戸時代はまさに水運の時代です。
 近世初期には多種多様であった海船は、18世紀前期に弁才船(べざいせん)とその系統の船にほぼ統一されます。しかし、河川の条件は一様でないため、海と違って一つの船が全国の河川に普及することはなく、川船で共通するのは喫水の浅い平底の細長い船体と波除けなどのない簡素な上廻りくらいでした。




弁才船


弁才船
 今日、千石船と俗称される弁才船は、中世末期から瀬戸内海を中心に発達した商船で、18世紀前期以降、国内海運の主役として活躍しました。船体は棚板造りで、水押造りの船首が特徴です。帆装は中世以来の伝統的な形式を踏襲し、船首に小さな補助帆をはり、船体中央に大きな四角帆をあげています。近世初期には漕帆兼用船でしたが、遅くも18世紀中期には帆走専用船に転換を終えています。幕末に洋式船が導入されると弁才船は洋式技術を摂取し、明治政府の帆船の欧化政策にもかかわらず、経済性の高い商船として使われ続けました。地方的な特徴を有する弁才船も多く、なかでも日本海で生まれた北前船(北前型弁才船)は有名です。


菱垣廻船


北前船


北前船
 弁才船が全国に普及すると、地方的な特徴を有する弁才船が出現します。日本海で生まれた北前船(北前型弁才船)もその一つで、船首尾の反りが大きく、一目で他の弁才船と区別がつきました。胴の間を大きくふくらませていたので、実績石数は大工間尺を上回りました。この地方型は北海道交易に従事した日本海沿岸の買積船として活躍したことで有名ですが、運賃積船にも使われましたし、また日本海に限らず各地でも造られました。











『船鑑(ふなかがみ)』


 『船鑑』は幕府の川船役所の支配下にあった関東の33種の川船と海船を描いた図鑑で、享和2年(1802)の作。川船役所はこれらの船に、極印を打ち、年貢・役銀を徴収しました。
五大力船や押送船などの海船が川船役所の支配を受けたのは、沖掛して瀬取船で荷役する一般の商船と違って、海から江戸市中の河岸に乗り入れたからです。年貢・役銀徴収の対象となった船の数は享和3年には14,000艘でしたが、次第に増加し、慶応3年(1867)には21,000艘を数えています。


拡大して、じっくり見てください。
利根川と江戸川が分流する「関宿(せきやど)」あたりが気になります。

五大力船

押送船

猪牙船


近代造船の夜明け


近代造船の夜明け
 嘉永6年(1853)6月のペリー艦隊の来航を契機に幕府は大船建造禁止令をといて、対外的な軍事力の増強のため西欧の有用な技術を積極的に導入する政策に転じました。19世紀の西欧では帆船から蒸気船への転換期にあたっていたため、日本には帆船と蒸気船が並行して導入されました。在来技術で建造可能な洋式帆船と違って、蒸気船の建造は無理でした。必要な資材や工作機械類を欠き、関連産業も未発達であったからです。幕府は西欧からプラントを輸入し、技術者を招いて造機工場・造船所の建設に着手しますが、途半ばで倒れ、明治政府があとを引き継ぐことになります。

咸臨丸

観光丸


〇関宿(せきやど)
  関宿(せきじゅく)


〇館内は写真撮影O.K(一部不可あり)、ということなので、当記事にも載せてます。



5月15日 上野・彰義隊のこと

2011-05-17 | 都内散策・江戸検定

明治2年(1868)5月15日(旧暦) 西暦では1868年7月4日
戊辰戦争(戊辰の役)のうち、上野戦争。この日、彰義隊は壊滅した。

我が、かぶとんブログ、2年目に入ってから少したった。
思うに、内容の巧拙はいちおう脇においといて、興味・関心事をできるだけ取り上げてきた。再度、ブログにのせたい題材が(とくに季節ものは)2度目として時々でてくると思う。そのときは、もう少しアカデミック(風)(?)にいきたいのだけれど、そうもいかないかな。
で、彰義隊のこと。
前回は杉浦日名子(さん)の『合葬』にからめて、すこし載せた。今回は区教育委員会の説明文をしっかりと読んだうえで、いちおうの基礎はおさえた(つもりの)ところから先へすすめたい。










  彰義隊の墓
 十五代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷(おがわ おきさと)らは、慶応4年(一八六八年)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦五月十五日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。
 生き残った小川ら隊士は、明治七年(一八七四年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後、百二十年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。


  彰義隊奮戦之図(上の案内板の左側部分)
 小川興郷が画家に指示して描かせたもので、他に存在する錦絵と違って、史実に忠実な絵と伝えられている。

  彰義隊の墓(台東区有形文化財)
                                 台東区上野公園一番
 江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸隠居後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
 慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏麿らによって当地で荼毘に付された。
 正面の小墓石は、明治2年(一八六九)寛永寺支院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死の墓」の字を大きく刻む。
 平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
                                  台東区教育委員会

〇小川興郷(おがわ おきさと)
〇南千住円通寺 (箕輪(三ノ輪)円通寺)
〇寒松院・護国院

参考 HP 『上野の杜から―しのばず自然観察会&彰義隊』のうち、「上野彰義隊」
じっくり読ませていただきました。彰義隊・小川(椙太)興郷のご子孫の方々が、今日にいたるまで、ずっと彰義隊の顕彰につとめ、墓所の管理をされてきたのですね。今は都の管理ということですが、頭がさがる思いです。



赤羽・善徳寺のお竹如来と町名主・馬込家

2011-04-27 | 都内散策・江戸検定

赤羽・善徳寺境内の、お竹如来へも足を延ばしました。
レトロな団地群(桐ヶ丘)の端っこにあります。


善徳寺 浄土宗

お竹如来の幟旗




お竹如来像

毎月十九日は、お竹様のご縁日




馬込家墓地




馬込家累代之墓


側面


案内板 馬込家 墓

   馬込家 墓
     北区赤羽西六-一五-二一 善徳寺境内
 善徳寺の墓域内には、江戸時代、大伝馬町の御伝馬役名主として活躍した馬込家の墓があります。
 御伝馬役とは、江戸伝馬役と呼ばれるもので、大小の伝馬町と南伝馬町・四谷伝馬町が五街道と江戸府内近郊へ人馬を継ぎ立てる夫役をいいます。町名主の馬込家は代々、この運営にあたりました。また、他の町で同様の役職にある名主家とともに、苗字・帯刀を許可され、町名主の筆頭として年頭に将軍の御目見えが許されていました。
 馬込家は、遠江国敷智郡馬込村(浜松市)の出身といわれ、本名を平八、当主になると勘解由と称していました。馬込という家名は元和元年(一六一五)五月、大坂落城の後、浜松宿の馬込橋まで徳川家康を迎えた時、五百人の人足引き連れて迎えたことを喜んだ家康から与えられたと伝えています。
 最初、菩提寺は増上寺でしたが、その後、増上寺開山聖聡の弟子の楽誉聡林が開基した善徳寺の檀家となりました。墓地は、善徳寺が数度の火災を受けて、日本橋馬喰町・浅草松葉町へと移転したのに伴って移されましたが、関東大震災によって罹災したため、昭和二年(一九二七)四月に赤羽へ移転した善徳寺とともに現在地へと移りました。
 昭和八年三月
                              東京都北区教育委員会

それで、お竹さん(お竹如来・於竹如来)もこちらに引っ越したということですね。


あとは山形県の羽黒山・荒沢寺正善院にある「お竹大日堂」。気軽には行けない。羽黒三山巡りなんていう機会ができれば、ぜひ立ち寄ってみたいです。

参考  HP 『小さな日本の風景「T.Inuiのホームページ」』(さん)
圧倒的なボリューム、すごいですね。この中の「2009年山登り(山の記録)」、「月山・出羽三山」に正善院黄金堂とお竹大日堂の記事と写真が載っています。現地の雰囲気が伝わってきます。



お竹如来(於竹大日如来)と町名主・馬込家、宝田恵比寿神社

2011-04-26 | 都内散策・江戸検定
お竹さん、「お竹如来」のことは東京タワーの周辺巡り以来、もう少し知りたいものだと思ってはいたが、興味・関心が他にも向いていて、いまいち動きがわるかった。
先だっての、江戸東京博物館 「江戸の町名主」で馬込勘解由、小津清左衛門が紹介されていた。そうだ「お竹さん」!! ということで、歩いてみることにした。
 『東京タワー下 心光院・お竹如来について』 の続編です。

まずは日本橋本町3丁目 小津本館ビル横の奥にある「於竹井戸」跡へ行ってきました。


史蹟 於竹大日如来井戸跡



  於竹大日如来縁起
 於竹大日如来は 寛永十七年(十八才の時)山形県庄内よりでて 当時の江戸大伝馬町馬込家の召使いとなる その行いは何事にも誠実親切で 一粒の米 一きれの野菜も決して粗末にせず貧困者に施した。そのため於竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたという。
出羽の国の行者 乗蓮と玄良坊が馬込家をおとづれ「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である」とつげた。主人は驚き勝手仕事をやめさせ 持仏堂を造り その後念仏三昧の道に入る これが江戸市中に拡がり 於竹さんを拝まうと来る人数知れずと言う
   於竹さんの詠んだ歌に
  手と足はいそがしけれど南無阿弥陀仏
      口と心のひまにまかせて
 延宝八年五月この世を去る 行年五十八
 五代将軍綱吉公の母堂桂昌院の歌に
  ありがたや光と共に行く末は
      花のうてなに於竹大日
於竹さんが愛用し貧困者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にあった
   昭和四十六年五月吉祥
      史蹟 於竹大日如来保存会

ここでの於竹さんの奉公先は馬込家である。以前、紹介した東京タワー下の心光院での縁起には佐久間家とある。




小津本館ビル・小津和紙
ここの2階にある「小津資料館」は必見。紙問屋・小津清左衛門店のことは別途項目を立てないとだめなくらいです。それにしても、創業350年、現在に至るというのはすごいです。


すぐそばの宝田恵比寿神社にも寄ってみました。

正一位寳田稲荷大明神の幟旗


宝田恵比寿神社
「史蹟 於竹大日如来井戸跡」の碑と同じ小路。ほぼ、はす向かいです。




  宝田神社・恵比寿神 御縁起と大伝馬町の由来
宝田神社は慶長十一年の昔三百六十余年前 江戸城外宝田村の鎮守様でありました。徳川家康公が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村の転居を命ぜられ(現在宮城内楓山附近)ましたので 馬込勘解由と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申上げ 住民を引率してこの地に集団移轉したのであります。
馬込勘解由と云う人は家康公が入府の時三河の国から随行して、此の大業を成し遂げられた功に拠り、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので 平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申上げたのが今日に至ったのであります。作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。
其の後村民の生活は金銀為替、駅伝、水陸運輸、それぞれ重要な役を賜り 馬込勘解由は名主となって三伝馬取締役に出世し御役名に因んで大伝馬町の町名を賜って、伊勢 駿河 遠江 美濃、尾張、家康公ゆかりの国々より商人を集めて、あらゆる物資の集散地として 大江戸開発と商買発祥の地として大変賑ったのであります。現在も周辺の老舗大小商社が軒を並べて 今尚盛んな取引が続いて居ります。
宝田恵比寿神は商売繁盛、家族繁栄の守護神として 崇教者は広く関東一円に及び毎年十月十九日「べったら市」 二十日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行なわれます。べったら市は「年またあらたまる」今年も年末が近づきお正月を迎える心構えをする商家にとって大切な年中行事として 旧家は今日でも恵比寿講をお祝いするのであります。
  昭和四十五年十月吉日
     (適宜、改行しました。)

お竹さんのこと(伝説・伝承上です)
元和9年(1623年) 山形県庄内の生まれ。(下記の年月から逆算して)
寛永17年(1640年) お竹さん18歳の時、江戸に出て、町名主・馬込家に奉公。
延宝8年(1680年) 5月(19日)没 享年58歳
 ・江戸の初期に遠路、庄内から出て江戸で奉公(?)
 ・上と同じく、18歳の女性が奉公(?)
 ・話が佐久間家から馬込家へと変っている。(諸事情により)

お竹さんの佐久間家ヴァージョンを紹介します。
こちらの物語では、江戸入りまでの話もあります。没年が寛永15年(1638年)3月21日。年次がやや遡ります。
 ■ HP 『山形ふるさと塾アーカイブス』
 ■ 「如来(にょらい)になったお竹(たけ)さん」-お竹大日如来ものがたり- 紙芝居映像

参考  HP 日文研 国際日本文化研究センター>データベース>於竹大日如来縁起絵巻
        ■ 国際日本文化研究センター「於竹大日如来縁起絵巻」


つづいて北区赤羽の善徳寺(浄土宗)へ。