かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

『劇画宗門史 日持上人』について

2012-10-11 | 宗史概論
池上本門寺 木造日蓮聖人坐像 重要文化財(国指定)
この宗祖ご尊像の造立大願主は、六老・蓮華阿闍梨日持上人です。

仏教海外伝道の始祖ともいわれる 六老・日持上人について、もっと知りたい、と、いろいろ見ていたら『劇画宗門史 日持上人』に行きつきました。
劇画にすると、どのように描かれているのだろうと、興味をおぼえ、借りて読んでみましたが、とても面白く新たに知ったことがたくさんありました。
劇画なので、松千代(日持上人の幼名)の幼馴染としてのマユが、要所ごとに出てきて、花を添えているのはご愛嬌。

日持上人 建長2年(1250)生まれ、没年・不詳。
駿河国庵原郡松野の御家人・松野六郎左衛門蔵人行易(入道)の次男。幼名・松千代。
六郎左衛門尉行成(二代)、上野殿母尼御前(南条兵衛七郎の室。七郎次郎時光、七郎五郎の母親。)は兄妹。
天台宗岩本実相寺で出家・得度(7歳)。
正嘉元年(1258)春、実相寺で日蓮聖人(37歳)と出会う。日持9歳、日興14歳。
日持、比叡山に修学。日興(甲斐公・伯耆房)は日蓮の弟子として鎌倉へ。
文永7年(1270)、比叡山を下り、鎌倉へ向かう。日蓮の下に入門する(21歳)。
(日持の名乗りは、このときから。六老のなかでは、最後の入門者である。甲斐公・蓮華房、のち蓮華阿闍梨と称せられる。)

松野蓮永寺の建立(現在は永精寺)
駿州庵原郡松野村(富士市南松野)
創立 文永11年(1274)、もしくは弘安6年(1283)
開基 松野六郎左衛門尉行成
開山 日持上人
貞松蓮永寺(みまつ れんえいじ) 由緒寺院
静岡市葵区沓谷
元和元年(1615)、養珠院お万の方(蔭山殿、徳川家康側室)が、身延21世・日乾上人の尽力のもと、駿府城鎮護の道場として駿河沓掛に移転し、貞松蓮永寺と改称して再興する。

祖師像の造立
正応元年(1288) 宗祖七回忌 池上本門寺奉安の宗祖ご尊像を大願主として造立する。
願主 蓮華阿闍梨日持
   侍従公日浄
彫刻 中老和泉阿闍梨日法
施主 池上本門寺別当・大国阿闍梨日朗
   池上宗仲公夫妻

旅立ち
永仁2年(1294)9月、一か月早く宗祖十三回忌を終え、10月には身延の祖廟に詣でて我が志を告げる。翌、永仁3年元旦、松野の地を後にして奥州(東北)・蝦夷(北海道)の伝道に赴く。後に中国大陸へ布教に出立したと伝えられる。
(宗門上は、松野を出立した永仁3年正月一日を命日としている。)

『劇画・日持上人』は、ここから後半部になります。
奥州(東北)・蝦夷(北海道)の話は伝承、そして伝説の世界です。が、別世界の話とはいいきれない、何か、を感じます。



読書メモ

〇文永8年(1271)日蓮・佐渡配流(佐渡流罪)時の随行者
日興、日向、日頂、日持(22歳)
入道一人(冨木常忍の下より付く)、妙一尼の下人一人、熊王(下僕)
(冨木氏の付けた入道、妙一尼の下人、熊王は寺泊から引き返す)

〇文永11年(1274)日蓮・身延入山の同行者(鎌倉からのお供)
日興、日向、日頂、日持(25歳)、日元、熊王

〇日持の8歳年下、熊王(熊王丸)は後の彫刻・日法、中老和泉阿闍梨日法である。
(と「日蓮宗事典」の日法の項に載っていますが、なぜ他には出てこないのだろうか)



『劇画・日持上人』 藤井寛清・著(作画) 日蓮宗出版社 平成5年発行
(立正大学図書館から借りました。)
ほのぼのタッチの画風でお気に入り。くりかえし見て、読んでます。

この項、
「池上本門寺 宗祖第七百三十一遠忌 お会式」にあわせて記事にしました。




仙台 光明山 孝勝寺

2012-09-08 | 宗史概論
中老僧 一乗阿闍梨日門上人によって永仁3年(1295)に開山された、とあるが、身近にある本やweb、Google検索では、ほぼ日門上人のことは載っていない。深追いする理由もないのでやらないが、唯一つ、大陸布教をめざした六老僧・日持上人が奥州、蝦夷、樺太、大陸(中国)行脚への途次、大仙寺(現・孝勝寺)の日門上人のところへ立ち寄っているという記述(伝承)があったのが、後になってから気になった。

日門聖人 墓碑



光明山 孝勝寺は日蓮宗の本山(由緒寺院)である。門前の石塔には「奥陽身延本山 孝勝寺」と刻字されている。日蓮宗最北の本山ということだ。伊達家一門格の寺院でもあった。

徳川期・伊達時代、二代藩主伊達忠宗の正室、徳川家康養女・振子姫の篤信により七堂が完備した。三代綱宗の時、母・振子の法名「孝勝院殿」にちなんで、寺号・孝勝寺とした。綱宗室・三沢初子(政岡の局)も法華信仰篤く、子・亀千代(のち四代綱村)を守護した。綱村は好学の人で、飯高檀林の首座・六牙院日潮上人を招いて住持とした。日潮上人は光明山孝勝寺の中興、後の身延山三十六世である。そしてなにより、『本化別頭仏祖統記(紀)』(ほんげべつずぶっそとうき)の著作者である。日蓮宗史の基本史料とのこと。(見たこともないけれど)


そして時代は現代(今)。
2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災。太平洋沿岸、三陸沿岸地域では多くの人々が亡くなり、多数の被災者を出した。今現在、被災された人たちの生活再建・復興の努力が続いている。これは亡くなられた人たちへの追悼・供養とも一体である。
同年の11月5日、ダライ・ラマ14世が来日。石巻市の西光寺での犠牲者慰霊の法要に出席され、その後、仙台市内の孝勝寺を訪れた。「今、逆境をのりきるために必要なこと」と題して講演を行ったそうです。

東北地方・宮城・仙台において中心となる日蓮宗寺院、光明山 孝勝寺は「こころの復興」に大きな役割りを担っている、と思われる。



中老僧

2012-09-04 | 宗史概論
本弟子六人(六老僧)に準ずる直弟子のこと。
人数は資料によって異なる。『日蓮宗小事典』に載っている十六人を取り上げてみました。身延輪番守塔、輪番帳に載っている六老僧を除く十二人のことを中老僧という、ともある。江戸期の『池上入滅図』には中老として十八人の名がみえる。(〇印)

〇日門 一乗阿闍梨
    仙台 大仙寺(現・孝勝寺)の開創(1295)。
〇日祐 大輔公、浄行院 1298~1374  千葉胤貞・猶子
    中山法華経寺三世。正東山日本寺の創建。
〇日辨(弁) 越後房  1239~1311  元真言宗学僧
    守塔六月 長国山鷲山寺(法華宗本門流)の創建。
〇日忍 下野公・下野阿闍梨
    守塔六月 日弁・弟 ?
〇日法(にっぽう) 和泉房・和泉阿闍梨 1258~1341  俗姓・徳永光長、熊王丸
   守塔八月 片瀬龍口寺、岡宮光長寺、勝沼・休息山立正寺二世。彫刻の名手。
〇天目 浄法房 美濃阿闍梨・日盛・上法房 1256~1337  俗姓・畠山氏
    鎌倉本興寺・品川妙国寺・下野佐野妙顕寺・小勝本門寺などを創建。
〇日源 智海  ? ~1315  元天台宗・実相寺学頭。
    岩本・実相寺。碑文谷法華寺・感応寺・法明寺の開山。厚木・妙傳寺二世。
〇日傳(伝) 肥前房
    小室山妙法寺の開基。旧真言宗・善智。
〇日位 治部公少輔阿闍梨 俗姓・南部氏、祖母・妙位日禅尼
    守塔八月 駿河・池田本覚寺、村松・海上寺(のち海長寺)の開山。
〇日賢 淡路公 1243~1338 駿州安東村の出。
    守塔三月 法兄日源を開基として法明寺の創建。
〇日秀 下野公 丹波公?  俗姓・高橋氏
    守塔十二月 上総妙福寺。
〇日家(にけ) 寂日房  俗姓・興津佐久間氏
    守塔十ニ月 安房小湊・誕生寺の開創(二世)、興津・妙覚寺三世。
〇日保(にほ) 卿公 俗姓・興津佐久間氏
    守塔十月 興津・妙覚寺ニ世、誕生寺三世
〇日合 筑前公 俗姓・工藤氏
    守塔七月 野呂・妙興寺
〇日實(実) 但馬公
    守塔十月 沼津・妙海寺の開山。
  日得(にっとく) 阿仏房 1189~1279  俗姓・遠藤為盛、妻・千日尼
    佐渡・妙宣寺の開基・開山。

〇日高 帥(そつ)公 1257~1314 父・大田乗明
    中山法華経寺二世。
〇日満 佐渡阿闍梨、如寂房、彦日満 1272~1360  阿仏房の曾孫。
    佐渡・妙宣寺の開山(二世)。佐渡・妙満寺。
〇日進 三位公、大進阿闍梨、日心、日真 1271~1334
    身延山久遠寺三世。日善・日上は兄弟。

・大輔公日祐は、一つ後の世代だけれど、その業績でもって入っているのか。
・阿仏房(日得)は別格です。
・『池上入滅図』は興味深い。日蓮聖人の弟子・檀越の主要人物集合図で、在・不在・年齢を超越しています。


参考 『日蓮宗小事典』 法蔵館
    Google 検索 日蓮中老僧、他 多数


授業「宗史概論」にもない、中老僧を取り上げました。
だんだんオタクっぽくなっている、という感覚はあります(が)。
間違い・勘違いもあるかと思います。その都度、訂正・修正していきます。




京都二十一箇本山

2012-08-26 | 宗史概論
授業では、ここまで来ていませんが予習(自習)ということで。

京都二十一箇本山
天文法難(天文5年・1536)以前に、京都に開創された21か寺の日蓮宗の本山。

 1 妙顕寺 日像
 2 上行院 日尊
 3 住本寺 日大
 4 本国寺 日静
 5 妙覚寺 日実
 6 妙満寺 日汁
 7 宝国寺 日善
 8 本禅寺 日陣
 9 本満寺 日秀
10 本能寺 日隆
11 立本寺 日実
12 妙連寺 日慶
13 学養寺 日讃
14 本覚寺 日延
15 本法寺 日親
16 頂妙寺 日祝
17 妙伝寺 日意
18 本隆寺 日真
19 弘経寺  堺移転、のち愛媛に移転。
20 大妙寺
21 妙泉寺
天文法難後の再建にあたり、2 と3 は合併して要法寺となる。


京都二十一箇本山

 1 妙顕寺 日像 霊跡寺院(大本山)。
       山号は具足山(龍華)、顕山、四海唱導とも称す。日蓮宗最初の勅願寺
        元亨元年(1321)開創(京都法華の草分け)。四条門流の本山。
        妙顕寺は本国(圀)寺とともに洛中ニ大勢力であった。

 2 上行院 日尊 暦応2年(1339)の開創。京都における日興門流の基盤となる。
 3 住本寺 日大 貞和元年(1345)頃の開創。日尊の法脈。

 4 本国寺 日静 貞和元年(1345)、鎌倉本勝寺を六条堀川に移遷。光厳帝の勅錠
        四条妙顕寺とともに京都日蓮教団の二大勢力となる。(六条門流)
        徳川前期、水戸光圀の外護を得て、寺号を「本圀寺」と改めた。
        昭和に京都市山科区に移転。霊跡寺院(大本山)。

 5 妙覚寺 日実 山号・具足山(北龍華)。永和4年(1378)創建。
        開基・小野妙覚。妙顕寺からの分立。由緒寺院・本山。
        日奥の頃は、不受不施義の寺風で、末寺千余を数えた。
 6 妙満寺 日汁(顕本法華宗) 永徳2年(1382)創建。
        中山門流からの独立。宗旨「経巻相承」・「直受法水」
 7 宝国寺 日善 本国寺特殊院として存続。のち愛媛移転。
 8 本禅寺 日陣(法華宗陣門流) 応永13年(1406)創建。本国寺から離脱・独立。
        越後三条・本成寺(日陣門流)の京別院。
 9 本満寺 日秀 山号・広布山。応永17年(1410)、本国寺から分立。
        関白近衛家の外護。由緒寺院。
 
10 本能寺 日隆(法華宗本門流 日隆門流・八品派) 妙顕寺からの分立。
        応永22年(1415)開創。
11 立本寺 日実 山号・具足山(三具足山の一つ)。応永23年(1416)開創。
        松ヶ崎檀林の開創。由緒寺院。
12 妙連寺 日慶(本門法華宗)
        日像開基。応永30年(1423)頃、柳酒屋の外護により日慶が再興。
        日隆門流の本寺であったが、昭和(戦後)にいたり門流から独立。
13 学養寺 日讃 応永34年(1427)開基。関西身延門流の端緒。
14 本覚寺 日延 文安元年(1444)創建。のち妙覚寺に編入。

15 本法寺 日親 永享9年(1437)、鍋かむり日親、本阿弥清信の帰依により創建。
      山号・叡昌山。中山門流。本阿弥光悦、長谷川等伯の帰依。由緒寺院。
      慶長期より中山法華経寺三山(本法寺・頂妙寺・妙国寺)輪番による運営
16 頂妙寺 日祝 文明5年(1473)創建。中山門流。由緒寺院。

17 妙伝寺 日意 文明9年(1477)創建。西身延・関西身延(身延門流)。由緒寺院。
18 本隆寺 日真(法華宗真門流) 延徳元年(1489)、妙顕寺から分立。日真門流。
        後柏原天皇らの外護をえて隆盛した。
19 弘経寺 像門(妙顕寺)からの分流。永享元年に堺移転、のち愛媛に移転。
20 大妙寺 日行 暦応3年(1340)創建。天文法難後、妙顕寺山内に再興。後、移転
21 妙泉寺 日舜 永享3年(1431)妙満寺より分派。のち寂光寺内に移転。

  要法寺 日尊(日蓮本宗) 天文法難後、2.上行院と3.住本寺は合併。
     天文19年(1550)、要法寺として日辰が再興する。
     慶長年間、木活字による要法寺版を刊行し、出版文化の興隆に繋がった。


京都法華 略史

鎌倉時代(末期)
1294 永仁2年 日像 上洛し、弘通活動を始める。
1321 元亨元年 日像 妙顕寺を開創する。
1333 元亨3年 〇鎌倉幕府滅亡
1334 建武元年 妙顕寺、勅願寺となる。
南北朝時代
1336 延元1・建武3 〇南北朝時代始まる。
1338 暦応元年 〇足利尊氏、室町幕府を開く。
1358 延文3年 妙顕寺、朝廷より四海唱導の称号を受ける。
1387 嘉慶元年 妙顕寺、比叡山徒に破却される。
室町時代
1393 明徳4年 妙顕寺、京都に還住し、妙本寺と改称する。
1397 応永4年 〇金閣寺建立。(足利義満の時代)
1413 応永20年 妙本寺、再度、比叡山徒に破却される。
1466 寛正7年 洛中の日蓮宗寺院、盟約を結ぶ。(寛正の盟約)
(戦国時代)
1467 応仁元年 〇応仁の乱始まる。
1488 長享2年 〇加賀一向一揆。
1519 永正16年 妙本寺、寺号を妙顕寺に戻す。
1532 天文元年 京都の日蓮宗、一向一揆と争う。以後、日蓮宗の一揆活動が活発化
         (この頃、京都町衆の自治組織が強まる。)
1535 天文4年 法華宗の宗号をめぐる論争が起こる。
1536 天文5年 〇天文法難
         洛中の日蓮宗寺院、焼き払われる。僧徒、洛中から追放される。
1542 天文11年 日蓮宗の帰洛が許される。
         本山十五か寺が徐々に復興する。
1543 天文12年 〇種子島に鉄砲伝来。
1549 天文18年 〇ヤソ会・ザビエル、鹿児島渡来。
         (この頃、堺・平戸等隆盛となる)
1571 元亀2年 〇延暦寺、織田信長軍の攻撃により焼失。
1573 天正元年 〇室町幕府滅亡。
安土桃山時代(織豊政権)
1579 天正7年 安土宗論。(対浄土宗)
         飯高談所、開設される。(以後、各地に檀林の開設がつづく)
1580 天正8年 〇石山本願寺、信長により滅ぼされる。
1582 天正10年 〇本能寺の変(信長自刃)
1588 天正16年 〇豊臣秀吉、方広寺大仏殿を建立。
1595 文禄4年 秀吉の主催する千僧供養会の出仕をめぐり、法華宗各寺院の対立。
1598 慶長3年 〇秀吉没す。
1599 慶長4年 千僧供養会の供養の受・不受について討論。(大坂討論・徳川家康)
江戸時代
1603 慶長8年 〇徳川家康、江戸幕府を開く。

1788 天明8年1月 〇京都・天明の大火
1864 元治元年7月 〇京都・どんどん焼け 禁門の変(蛤御門の変)で発生した大火



注) 人名は、歴史上の人物として記していますので、敬称(尊称)は略しています。

参考 『日蓮宗小事典』 法蔵館
   『日本史年表・地図』 吉川弘文館
    洛中法華21ヶ寺、法華一揆 - Wikipedia



余談
鉄砲伝来の種子島と京都・本能寺は、切っても切れないつながり(ネットワーク)があった。
種子島・慈遠寺 律宗・興福寺末寺から法華経・日蓮宗へ改宗する。本能寺の末寺。
(明治の廃仏毀釈で廃寺となる。跡地は現・八坂神社。)




日朗上人 朗門の九鳳(九老僧)

2012-05-01 | 宗史概論
宗史概論 (日蓮宗史)

日朗上人 1243(1245 ?)~1320 寛元元年(寛元3 ?)~元応2年1月21日
日蓮聖人六老僧の一人。号は筑後房。大国阿闍梨。下総国の出身。父は印東有国。
池上宗仲の協力により池上本門寺の基礎を築く。千葉胤貞(ちば・たねさだ)室の寄進で平賀本土寺を建立する。
池上長栄山本門寺・比企谷長興山妙本寺・平賀長谷山本土寺 (朗門の「三長三本」)
池上・南窪で入滅。廟所は安国論寺、法性寺、池上本門寺にある。
多くの弟子がおり、その高弟は「朗門の九鳳」(九老僧)と呼ばれた。
日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖。比企・池上の両山二祖。


朗門の九鳳(九老僧)

日像 1269~1342 (文永6~康永1/興国3)
肥後房、肥後阿闍梨。下総国の出身。俗姓は平賀氏。経一麿(丸)。
1282(弘安5)、日蓮聖人より帝都供通を遺命さる。
1294(永仁2)、日蓮聖人十三回忌の年、京都での布教を開始する。
他宗からの圧迫をうけ、京都から3度の追放があるも、その度に許された(三黜三赦)。
1321(元亨3)、後醍醐天皇より布教の勅許を得る。妙顕寺を建立する。
四条門流の祖。弟子・大覚(大覚妙実)。

日輪 1272~1359 (文永9~正平14/延文4)
治部公、大経阿闍梨。俗姓は平賀氏。日像の弟。幼名は亀王麿(丸)。
鎌倉・妙本寺、池上本門寺の住持(比企・池上の両山三祖)。
妙正寺(現・宇都宮)の改宗、開山。

③日善 大法阿闍梨 上洛して日像を扶ける。
碑文谷法華寺二祖。

④日傳(伝) 1247~1341 (宝治1~興国2/暦応3)
大円阿闍梨。初め日典と称す。もと天台宗の学僧、柏崎で日朗上人に出会い門下となる。鎌倉においては、日朗上人の助手となり、日輪を指南した。
日朗上人に代わり、平賀本土寺の初代住持となる。二祖。

⑤日範 大前阿闍梨 上洛して日像を扶ける。
福知山常照寺の開山。

日印 1264~1329 (文永1~嘉暦3)
摩訶一房(坊)。越後国寺泊(現・新潟県長岡市)の生まれ。
鎌倉名越・本勝寺の建立。越後国三条・長久山本成寺の開山。
日朗上人の滅後、日輪らの比企・池上門流から離れる。
弟子・日静(足利尊氏の叔父。京都・本国寺の開山)、日順(富山八尾・本法寺の開山)
日蓮宗六条門流(本国寺)、法華宗陣門流(本成寺)

⑦日澄 1239~1326 (延応1~嘉暦1)
本乗坊。*大乗阿闍梨。相州・小田原の生まれ。俗姓は浜名氏(平姓)。
九鳳のうちの最年長者。天津・日澄寺の開山(初祖を工藤吉隆(日玉)、日澄は二祖)。
池上・大坊に住し、祖廟を守る。熱田本遠寺開山。

⑧日行 妙音坊、妙音阿闍梨 上洛して日像を扶ける。
京都・妙音山大妙寺、佐渡本光寺開山。

⑨朗慶 越中阿闍梨
俗姓は荏原氏。父は、荏原郷の地頭・荏原義宗。
旗岡八幡神社・(別当)八幡山法蓮寺(中延法連寺)の建立・開山。



〇大覚(大覚妙実) 1297~1364 (永仁5~貞治3)
名は妙実。近衛経忠の子(兄弟?)、あるいは後醍醐天皇の皇子といわれる。(伝承上)
大覚寺の真言僧であったが、改宗して日像の弟子となった。
京都・具足山妙顕寺第二世。大僧正。備前法華の祖。
1358年、後光厳天皇より日蓮聖人に大菩薩号、日朗上人・日像上人に菩薩号を賜る。
弟子・朗源(俗姓は千葉氏)は、のちに妙顕寺第三世となる。

〇日静 1298~1369 (永仁6~正平24/応安2)
駿河国の生まれ、上杉氏(藤原北家)。姉・清子は足利尊氏の生母。
1338年、上洛。鎌倉・本勝寺を京都六条堀川に移し本国寺(現・本圀寺)と改称した。
日静の弟子、日伝は京都本国寺を、日陣は越後国三条・本成寺を引き継いだ。
六条門流の祖。
著作 『鎌倉殿中問答』


歴史上の出来事
1274年(文永11) 文永の役(元寇)
1281年(弘安4) 弘安の役(元寇)
1331~33年(元弘1~3) 元弘の変
1333年(元弘3) 鎌倉(北条)幕府、滅ぶ
1334年(建武1) 建武の中興、天皇親政。
1334年(建武1) 日像上人、後醍醐天皇に拝謁し妙顕寺を勅願寺とする論旨を賜る。
1336年(延元1/建武3) 後醍醐天皇、吉野に遷幸
1338年(暦応1/ - ) 足利尊氏、征夷大将軍となる
1349年(貞和5/ - ) 足利基氏、鎌倉御所(鎌倉公方)となる
1358年(延文3/ - ) 足利尊氏死去


*大乗阿闍梨(日澄) 名前だけ載せて次へ、というところでした。よくよく見ると、クリ弁(繰り弁・高座説教)の『大乗坊発心の弁』という話の主人公です。やや大袈裟な構成・話ですが、日朗と大乗坊のやりとりは、最後の場面で思わず泣けてきますよ。


参考 Wikipedia
参考書籍 『大本山 池上本門寺史管見』 石川存静・著
     『日本史年表・地図』 吉川弘文館
     『日蓮宗小事典』 小松邦彦・冠賢一編 法蔵館

注 「宗史概論」の自習用に作成しました。変更・追加、随時します。