かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

日輝和上遺徳碑

2012-11-19 | 池上本門寺の歴史


(読み下し文)
日蓮宗中興の祖 日輝和上示寂之二十有三年、徒弟大教正新居日薩、中教正三村日修等相謀り、石于を三所に建て、功徳を表章す。
一は甲斐身延山久遠寺、一は武蔵池上本門寺、一は加賀金澤立像寺にして、立像寺は其葬地也。而して其文は則ち姪之布(シフ、ゆきのぶ)謹しみて之を譔す。之布聞く、日蓮宗近世の衰替は 謂所檀林の名存し実亡ぶにありと。偶(たまたま)学匠と稱する者有るも、亦臺教を講ずるに止どめ、茫乎(として)宗義之在る所を知らざるなり焉。
和上 北陲に起り、法燈を於数百載之下に継ぎ、隠然として一宗之望を係(つなぐ)。而るに時機未だ至らず、中道にして奄逝(えんせい)す。王政中興に会し、百度並に挙る。是(ここ)に於いて徒弟羣起し、舊染を洗-滌し、以て和上の遺則に遵ひ、然る後和上之学之徳、始めて海内に遍く、稱して中興の祖と為す。猗輿(ああ)偉なる矣(かな)。

和上の幼字は駒三、剃染して學善と稱し、尭山と改め、優陀那と號す。日輝は其の名也野口氏にして、其の先は于美濃に出で、加賀に移り本藩に仕へ、中世越中に還り、考敬正君に至り、復(また)加賀に移る。之布に於いては祖孝為り。妣は圓山氏、四子を生む。伯中並に早世し、叔嗣ぐ。是寛叟君為り。之布に於いては孝為り。和上は其季也。初めて伯兄日蓮宗を信じ、歿するに臨み遺言して之を奉じ。妣感傷し、潜に身延山に詣で一子を度して僧と為すを誓う。尋いで身に有りて男を産むを祈る。懐在り十有三月に而(して)生む。即ち和上也。
和上幼にして顛敏常と異なり、葷羶を嗜(たしなま)ず。甫めて九歳、妣携えて之を同郷の慈雲寺日行に托す。未た期日ならずして、法華経八巻を諳んじ、音調瀏亮、特に選ばれて唱師と為る。年を踰へて日行寂す。妙立寺日雄に請うて弟子と為り、兼て内外二典を修す。時に宗学大いに幣し、世に祖旨を知る者無し。和上慨然として飛錫遠遊を思ふ。

日雄の師日静は立像寺に主たり、宿徳を稱せらる。貲を捐て之を助く。是(ここ)に於いて和上西上し京畿の諸檀林を歴遊し、良師を訪-問し、京南深草に本妙日臨なる者有りて学行並修するを聞き、往いて之に従うこと数年悉く蘊奥を極めしも、猶以て未だしと為す也。
去って関東に赴き武總の諸州を周游し、各宗碩学に諮-詢するも意に當る者莫し。曰く之を書於(よりも)心に於求むる之愈(まさると)為すに如かざる也。乃ち北帰し、立像寺の後園の地一畝を僦かり、盧を結び隠栖焉す。園は郊野に接し、地高く気寒し。時に降冬に属し、和上水に浴し□を着け、食を絶ち禅を修し、数昼夜を徹す。会(たまたま)夜半風起り、紙窓皆鳴く。雪は膝上に堆ること数寸、而も堅座して動ぜず、此如き者幾載、遂に大いに悟る所有りて、直ちに蓮祖の深旨を発-揮す。書を著し学を講じ、更に礼誦諸儀則を制す。
緇素志有る者、稍々来り従ひ、漸く声望有り。同宗の僧徒大いに之を嫉み、誹謗百端、斥(しりぞ)けて異派と為し、諸門徒を禁じ、輿に往来するもの無く、米薪給せず。而(しかれども)和上晏如として顧みざる也。一日藩命和上を召す。僧徒喜んで曰く、果たして罪を獲んと矣。至れば則ち特に金若干を賜ひ、其学術を賞せられ、謗焰頓に熄む。
是に先だち日静日雄、皆請うて其寺職を譲らんとす。和上宗幣之遽に悛む可下るを思ひ、固辭して就かず。日静病革まるに迄(および)、復(また)懇請措かず。和上重ねて其意に違ひ、勉強之に従ふ。是自声名遠く播り、学徒益進み、他宗の僧徒も亦来り学ぶ者有りて、而□(さき)之誹謗せし者、又皆慮を改め過を悔ひ弟子を托するに至り、房舎悉く満ち容るること能はず。乃ち新に一黌を建て、充洽園と号す。藩侯の生母栄操院 歳に糧三十苞を給し、学資に充つ。

時に常陸の水戸檀林久廃し、其徒圖って之を再興せんと幣禮を具して和上を迎フ。和上謂(おもへらく)、檀林は一宗の公黌にして、衆望の属する所、此而(これにして)更新せば、則ち宗門の積幣亦以て悛む可しと。往きて之を試み、功成而帰る。池上檀林も亦特使聘招す。和上復之に應ず。是に於いて聲望益重し。而れども宿幣固く結び、事意の如くならず。歎じて曰く時猶未だし也と。乃ち決帰して復出でず。力を著述に専らにし、以て他日を待つ。

和上人と為り温良静黙にして、喜怒於色に不形(あらわず)して而行儀方正、儼然として威有り。故に人皆愛而(して)之を憚る。学問淵博、和漢内外を綜-核し、特に於宗理に邃(ふかし)。著す所一念三千論、妙宗本尊弁等数十部有り。皆先哲未だ発せざる所、説理明晰、縷縷として繭を抽くが如し。聴く者服厭せざる莫し。
和上常に謂ふ、道を教ふるには時に適するを貴ぶ、蓮祖は一宗を於無文の世に創し、教祖に據りて而折伏を主とす、時勢の然るを宜とす。今は則ち文運隆盛にして、諸学並び興り、而仍(よって)舊説を墨守するは、徒に士大夫之厭悪を来たすのみ耳。宜しく攝受を主と而(して)實学を興すべし。是時に應ずる之学、即ち蓮祖之意也。但だ人賢愚を殊にし機に利鈍あり、徐なる可く急なる可(べ)からずと。
晩年外舶初めて来つて互市を乞う、曰く、国政将に是自り一變せんとす、我が教法も亦一變せざるを得ずと。幾ばく亡くして病に罹り、終に其變ずる所-以を論ずるに及ばず。和上褥に在りて謂ふ、我が宗之由って以て創立する所あり。而るに未だ宗義を以て解する者有らざるは、是れ闕典也。今に及んで之を成さざれば、恐らく及ぶものは莫(なし)矣と。疾を力めて稿を起し、巻末自(より)始めて涌出品に至り、竟に謂所本門部(にして)而起たず。識興識らざると、歎惜せざる無し焉。

於寛政十二年三月二十六日に生れ、於安政六年二月二十三日に終る、世寿六十、法臘五十二なり。衆弟訃を聞いて咸く集り、荼毘して遺骨を干十一屋村の塋域に葬むり、後に立像寺境内に改-葬す。法嗣靚存日成後を承ぐ。初め和上之寂するや、新居三村二教正早く建碑之事を圖り、之布至親に係るを以て、之に文を属する、先人も亦以て言を為すと。之布唯而(して)未だ果さず、既而(にして)国家多難、筆翰に親しむことを得ず。今に二十余年矣(なり)。二教正志を得、和上の遺業を恢-張し以て法拳に及び、幸に前諾を償ふことを得。顧みるに先人の之在而りて之を見るに及ばざるは、殊に憾む可し。然りと雖、當時而(にして)之を成ら使(しめば)乎、其徳業を顯揚すること未だ今日盛且大の如きを能く(せざる)也(なり)。則ち此文之於今日成るは、蓋し而偶然に非る也(なり)。

銘に曰く
 白山嶷嶷 犀水淙淙 精鐘気欝 發於梵宮 卓此英特
 躡蹤蓮公 究理探淵 積徳摩穹 法纛一揚 草偃於風
 澤之所浸 名之所従 世替時隔 景仰滋隆 誰謂寂滅
 神存斯中 水維厥学 山維厥功 不虧不竭 萬世之宗

白山嶷嶷(ギョクギョク) 犀水淙淙 精鐘リ気欝シ 於梵宮ニ發ス 此レニ卓ル英特ハ
蓮公ニ躡蹤ス 理ヲ究メ淵ヲ探リ 徳ヲ積ミ穹ヲ摩シ 法纛(タウ)一タビ揚ッテ
草ハ於風ニ偃(ナビク)
澤之浸ス所 名之従フ所 世替リ時隔タリ 景仰滋(イヨイヨ)隆シ 誰カ寂滅ト謂フ
神斯中ニ存ス 水ハ維(コレ)厥ノ学 山は維(コレ)厥ノ功 虧ケズ竭クサズ 萬世之宗タリ
           加賀   野口之布謹譔(文)
     正三位勲三等侯爵   前田利嗣篆額
       正四位勲四等   巌谷 修(一六居士)書
  明治三十二年十二月

(碑文は漢文。ふり仮名、送り仮名、改行を適宜いれました。)


日輝和上遺徳碑
右端に半分写っているのは野口之布の顕彰碑です。写っていませんが、さらに右に日蓮聖人説法像。(という、位置関係です)
 

優陀那院日輝(うだないん・にちき)
寛政12年~安政6年 (1800~1859)
江戸時代末期の日蓮宗の宗学者。加賀(石川県)の人。京都山科檀林で学び、深草の日臨に師事。加賀金沢の立像寺に充洽園(じゅうごうえん)を開き、教学の研究と後進の育成につとめた。俗姓は野口。字は尭山。号は優陀那院。著作に「宗義抄」「一念三千論」「祖書綱要正議」など。

野口之布 (のぐち・ゆきのぶ) 日輝和上の甥。
天保元年~明治31年 (1831~1898)
幕末~明治時代の武士、官吏。加賀金沢藩家老横山氏の臣。昌平黌に学ぶ。勤王党。禁門の変後の弾圧により終身禁固となるも、後に明治の大赦によって釈放さる。後、文部省や司法省に出仕した。号は犀陽。著作に「加賀藩勤王始末」がある。長男の遵(したがう)は日窒コンツェルンの創始者。
墓所は駒込長元寺(加賀藩、江戸菩提寺の一つ)、後に池上本門寺に改葬された。

前田利嗣(まえだ・としつぐ) 華族(伯爵)。前田慶寧(加賀藩第14代藩主)の長男。
巌谷 修(一六は号) 政治家、書家。児童文学の巌谷小波は子。


日輝和上の学系と池上との関係
充洽園
新居日薩上人 天保元年~明治21年 (1831~1888)
 明治維新の動乱期における日蓮宗の指導者。立正大学学祖。
 身延山久遠寺73世。日蓮宗初代管長(明治7年、1874)
 池上本門寺65世(明治19~21)。
(後述)


参考  『池上本門寺史管見』 石川存静・編




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