かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

幕末 アメリカ領事館の通訳官 ヘンリー・ヒュースケン

2010-09-22 | 幕末の外交
ヒュースケン『日本日記』 を読んで。

1855年10月、青年ヒュースケン(23歳)は蒸気船でニューヨークを発ったあと、各地の港に立ち寄りながら日本へ向かった。その旅の途中、いろいろな国々の人々と交流し、現地の住民とも交流し、生活、政治・経済・文化を見聞した。風光明媚な土地・景色に感動し、それを目に焼き付けた。
若年とはいいながら、その体験、経験の積み重ねは、普通の人々と比べ、あまりに豊富だ。 そんな若者が、世界の潮流とかけ離れた田舎の国、日本にやって来た。しかも着いた先は鄙びた漁村、下田。当初の戸惑いがどれほどのものだったか、想像もできない。けれど、その豊富な体験・経験の引き出しから、取捨選択し、実情に合わせつつ、日本の懐に飛び込んでいったのではないだろうか。


ヘンリー・ヒュースケンの日記から抜粋。
1855 (23)
 10.25 早朝。蒸気船サンジャシント号で、ニューヨークを出発。
  途中マデイラ島のフンシャル、アセンション島、ケープタウン、モーリシャス島、セイロン島のガルに寄港。
1856 (24)
 3.21 ペナンで、ハリス(51)と対面する。
  (ハリス日記 3.21 サンジャシント号の到着。 3.22 入港。
  ハリスは、ヒュースケンとの対面を記録していない。)
 5.1 バンコク。ハリスとともにシャムの国王陛下に拝謁。
  シンガポール、バンコク、香港、広東、マカオを経る。
 8.13 広東から下田に向けて出帆。


 8.21(安政3.7.21) ヒュースケン、ハリスとともにサンジャシント号で下田到着。
 8.25(安政3.7.25) 下田、上陸。下田奉行(ガヴァナー)と会見。
                 [井上信濃守清直、岡田備中守忠養(訳者の注記)]
 9. 1(安政3.8.3) 提督、総領事、随行の士官らが奉行を訪問。
 9. 3 (9.4 ハリス日記)(安政3.8.5) 柿崎・玉泉寺(領事館)にアメリカ国旗、掲揚。
   サンジャシント号、下田港を離れる。
   「私は丘の上に立って、文明世界との最後の仲だちが消え去るのを見送り・・・」
1857 (25)
 5.21(安政4.4.28) 馬を一頭入手。(ヒュースケン、感激の日記記載。)(*1)
    *(安政4.5.24) おきち、ハリスの看護人となる。3日(3ヶ月?)で解雇。
 6.17(安政4.5.26) 総領事と下田奉行、協定(コンベンション)に署名。(下田協約)
 6.25(安政4.閏5.4) 箱館のライスなる人物からの手紙。箱館に米国旗を掲揚した、
     との内容。(かぶとんの箱館編に出てきたね。点と点が、点と線、だ。)
 7. 4(安政4.閏5.13) 柿崎で米国独立記念日を祝う21発の礼砲を受ける。
 9. 3(安政4.7.15) 昨日、燈籠祭り。
            サンジャシント号出帆の一周年記念日。
            郵便物をはじめて受け取った日。
 9.23(安政4.8.6)  江戸からの連絡。大君との謁見が決まる。
 11.23(安政4.10.7) 江戸に向け、陸路、下田を出発。
            先頭、菊名仙之丞(下田奉行支配調役並)
            殿(しんがり)、副奉行・若菜三男三郎(支配組頭)
 11.30(安政4.10.14) 江戸の宿舎、九段坂下の蕃書調所に到着。
 12. 4(安政4.10.18) ハリス、堀田備中守と会見。
 12. 7(安政4.10.21) 大君(将軍家定)との謁見。米大統領親書を奉呈。
1858 (26)
 2.14(日)(安政5.1.1) 日本の新年。
 2.27(安政5.1.14) ハリス、病気。(コセンザ編ハリス全日記、この日で終る。)
 3.6(安政5.1.21)  雪。早朝、出発。蒸気船・観光丸に乗り、翌朝、下田に着く。
            (ハリスの容態がよくない。療養。のち、回復。)
 4.15(安政5.3.2) 蒸気船で下田を出航。
 4.18(安政5.3.5) 品川、着。馬で宿舎まで行く。
 4.23(安政5.3.10) ドンケル・クルチウス、ポルスブルックと江戸に到着。
            (その後、クルチウスとの交流あり。)
 6.1(安政5.4.20) 堀田備中守、京都から江戸へ戻る。(朝廷との交渉不調。)
           *(安政5.4.23) 井伊直弼、大老に就任。
 6.8(安政5.4.27) クルチウスを訪問。
(ヒュースケンの日記、この日で終る。以後、二年半、彼の書いたものはない。)
  ハリス、ヒュースケンとも、通商条約の締結において、オランダがアメリカを出し抜くのではないかという不安に苛まれていた時期である。


1858
 7.29(安政5.6.19) 日米修好通商条約の調印。
          (江戸湾小柴沖、米国軍艦パウハタン号上で。)
    *(安政5.7.6) 将軍家定没(35)。
    *(安政5.7.8) 幕府、外国奉行を設置。
    *(安政5.8.8) 家茂が将軍を継ぐ
 8.18(安政5.7.10) オランダと調印。
 8.19(安政5.7.11) ロシアと調印。
 8.26(安政5.7.18) イギリスと調印。
   ハリス、ヒュースケンにエルギン卿の手伝いをさせた。
 10(安政5.9.3) フランスと調印

    * 1858(安政5)~1859(安政6) 安政の大獄。
                 大老井伊直弼は、幕政批判者を徹底的に弾圧した。
1859 (27)
 6(安政6.5.27) ハリス、総領事から弁理公使になる。
          麻布善福寺を公使館とする。
 7.1(安政6.6.2) 条約の発効。神奈川(のち横浜)・長崎・箱館の開港。
   (安政6.6.4) 幕府、神奈川奉行を設置。
この年 横浜 英貿易商社ジャーディン・マジソン商会、支店を設立。「英一番館」。

    * 1860(安政7.3.3) 大老井伊直弼、江戸城桜田門外で斬殺される。

ヒュースケン、再び日記をつける。
ただし1961年1月1日(万延1.11.21)から1月8日(万延1.1.28)のうち、4日。

1861
 1.15(万延1.12.5) 夜9時頃。芝赤羽の古川端で襲撃される(翌未明の死亡)
            享年 28歳(と11ヶ月25日)。


(*1) 『本日、馬を一頭入手。十二万八千文(キャッシュ)以上。つまり二十七ドル四十一セントもするサラブレッドである。サラブレッド一頭にしては何という大金!このぶんならどうやらやってゆけそうだ。日本にきて、まず下男を雇った。こんどは馬持ちだ!この調子だと、自分の馬車を持って皇帝の一人娘に結婚を申込むことにもなりかねない。そうなると俺は植民地総督だ!ああ、ニューヨークよ!夕飯抜きで過ごした時代、危く野宿しそうになったことも度々だった。着古して光っている黒服。踵も爪先も風に吹かれていた靴。穴だらけのズボン。あれはみなどこへ行ってしまったか?ヒュースケン殿下をきて見てくれ!馬に乗って練り歩いているんだぜ。いや、とんでもない、貸馬なんぞであるものか!そりゃあつまらないあてこすりだ!諸君、彼は自分の馬に百五十フランという大金を払って―払わなくちゃならないのだが、それはどっちでも同じこと―自分で買った馬に乗っているんだぜ。』
(ヒュースケン、乗馬はあまり得意ではなく、初めはなんども落馬した。)

1832.1.20 オランダ アムステルダム生まれ。父親は商人。
        正式の名前はヘンリスク・コンラドゥス・ヨアンネス・ヒュースケン。
1853     21歳のとき、アメリカに移住をする決心をし、ニューヨークへ渡った。
1855     特命全権大使として日本に赴任するT.ハリスが、英語とオランダ語のできる
        通訳を求めていることを知り、これに応募して採用された。


ヒュースケン『日本日記』 青木枝朗・訳 校倉書房 1971.6.1発行
  たまにいく図書館で、目に入ったので借りたものです。
  昭和49.10.31購入、とスタンプがある。なんか年季がはいってるね。
Webで岩波文庫版が出てるのを知ったけれど、ぐるぐる廻る都内の大手書店の岩波コーナー
で見かけたことは一度もない。あれば、何らかの反応はしたはずだが。
だいたいが、興味・関心のある江戸関連の岩波文庫本は、どこの書店にも置いてない。
神田神保町の古書店街をぶらぶらするか。(?)
それより、なにより書籍をネット購入したことがない、っていうのは致命的な時代遅れ者!?



南麻布 光林寺


ヘンリー・ヒュースケンの墓碑


さらに、江戸検を意識すれば、ヒュースケンの葬儀 1861.1.18(万延1.12.8)の主な会葬者は、できるだけ記憶しておきたい。当時の幕府の、そして各国の主要な外交関係者、そのほとんどが参列しているのではないだろうか。
一番  新見豊前守
     村垣淡路守
     小栗豊後守
     高井丹波守
     滝川播磨守
     各人に長い供廻りと護衛がついた。
二番  アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、プロシアの弔旗。プロシアの水兵が捧載し、
     プロシアの水兵六名が護衛についた。
三番  プロシアフリゲート艦アルコナの軍楽隊。
四番  オランダ及びプロシア水兵の護衛。
五番  日本教区長アベ・ジラール師と外科医ルシウス氏。
六番  遺体。アメリカ国旗で包み、オランダ水兵八名で担う。
七番  喪主オランダ総領事ド・ウィト氏、ハリス氏。
八番  オールコック氏、ド・ベルコール氏、オイレンベルク伯爵、イギリス、フランス、プロシア
     各国公使。
九番  各国領事。
十番  各国代表部随員。
十一番 オランダ及びプロシア軍士官。
 「この葬儀に際して、プロシア使節オイレンベルク伯爵及び同代表部一同からひとかたならぬお世話を受けた。またとくにハイネ氏には葬儀万端をとりしきっていただいた。」(ハリス、国務省宛の報告書)


年表参考 『見る・読む・調べる 江戸時代年表』 監修・山本博文 小学館
       『江戸の外国公使館』 港区立郷土資料館


〇新見正興(豊前守・伊勢守)
〇村垣範正(淡路守)
〇小栗忠順(豊後守・上野介)(おぐり ただまさ)
〇高井丹波守
〇滝川具拳・三郎四郎(播磨守)(たきがわ ともあき)