かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

東京タワー 夜景

2010-04-28 | 東京タワー
港区内を歩きまわっている。
「江戸の外国公使館」巡り。はやく一回りしたいのだけれど
あれも、これもで、なかなか先へすすめない。
飯倉公園、中之橋、一の橋あたりをぶらぶらしているうちに夕方になり
目にとまった「元神明宮(天祖神社)」にも足をのばすうちに、日が沈んでしまった。
どこから帰ろう。遠回りになるが大門から浜松町へ出よう。
なんとはなしに夕刻の雑踏とネオンが恋しい。
と、いうことで芝公園、東京タワー、増上寺とあいなる。



赤羽橋








芝公園


増上寺


芝大門





東京タワー下 心光院・お竹如来について

2010-04-26 | 都内散策・江戸検定
しばらく東京タワーの周りからはなれられない。
もっといろいろと都内を散策しているのだけれど、江戸の公使館跡巡り、でなかなか先へ進めなくなってしまった。

小休憩。
タワーのすぐ西南側にある心光院というお寺の内にある「お竹大日堂」とその案内板「お竹如来の縁起」が目についた。ざっと目を通し、なかなかのもんだ、と思ったので、ここに紹介します。






お堂



        お竹如来の縁起
 お堂にはお竹如来像および流し板をまつる
 寛永年間 江戸大伝馬町の名主佐久間勘解由(かげゆ)家のところの 下女お竹は荘内(山形県)出身にして生れつきいつくしみの心が深く 朝夕の自分の食事を貧しい人に施し 自らは水盤の隅に網を置いて、洗い流しの飯が溜ったものを食料としたと いう。信仰厚く常に念仏を怠らず、大往生をとげたという
この話を聞いた五代将軍綱吉の生母桂昌院は、いたく心を動かされ 金襴の布に包まれた立派な箱にお竹さんが当時使った流し板をおさめて 増上寺別院であった心光院に寄進され、その徳光を顕彰された このこと江戸名所図絵、三縁山志等に出つ。桂昌院御詠歌に
     ありがたや光と共に行く末は
             花のうてなにお竹大日
一茶の俳句に
       雀子やお竹如来の流し元
       雪の日やお竹如来の縄だすき
 また当時の浮世絵師春信 国芳 豊国ら多くの絵師によってお竹の姿が描かれた。なおこの御堂は秋田出身の神成志保氏の特志によって建立された。
                                浄土宗 心光院
                            (案内板に書かれた文章のまま)


お竹如来の所縁の地として
1.東京タワー下 東麻布・心光院 「お竹大日堂」
     お竹の奉公先、佐久間家の菩提寺
2.北区赤羽の善徳寺 「お竹の墓」
     佐久間家の親戚、馬込家の菩提寺
3.日本橋本町3 小津ビル側 「史蹟於竹大日如来井戸跡」
     馬込家から小津家・小津商店へ
4.山形県羽黒町 羽黒山・正善院黄金堂 お竹大日堂
     『於竹大日如来縁起 三巻』


自慢にもならないけれど、まったく知らないことだらけ。我ながらいやになってしまう。
けれど、その一方で-そうなんだ-と、新たに知っていくのも、ささやかだが楽しい。

江戸検定  江戸時代前期 初期の日本橋 商業・商人
        キーワード、キーポイントがたくさんある。
        設問にしたい(であろう)材料がゴロゴロしている。

お竹如来/お竹大日如来
お竹如来伝説
『於竹大日如来縁起絵巻』
江戸大伝馬町の名主 佐久間勘解由家
              馬込勘解由家
街道の人馬継ぎ立て 金銀為替 駅伝 水産運輸
宝田恵比寿神社 例大祭「べったら市」 大根
木綿問屋・小津家 紙問屋・小津清左衛門店
五代将軍綱吉の生母桂昌院

出開帳(信仰心+現代の巡回美術展?)
『江戸名所図会』
浮世絵師春信 国芳 豊国
河竹黙阿弥 『双蝶色成曙』『孝女於竹』

ちなみに、心光院・お竹如来のお堂の寄進・建立者 神成志保(さん)は新宿の郷土料理店(の草分け)『秋田』の元経営者。俳優・大坂志郎、人形作家・陶芸家の神成澪(さん)の母君とのこと。(いずれも故人)
このブログを書きながら、はじめて知ったことで恐縮です。が、一言。
秋田・能代の旧家、神成家を出て、東京で居酒屋の女将をしながら二人の子を育てた。親子三人、お互いに助け合いながらの生活だったことに、なんともいえない気持ちになった。
もちろん、すごい! すばらしい! という意味で。
  新・読前読後 俳優大坂志郎とその母
  http://d.hatena.ne.jp/kanetaku/20061019/p1

参考
あまりに多く見すぎた。そのなかで3つ。
・HP 中央区郷土史同好会 第101回
・HP 国際日本文化研究センター「於竹大日如来縁起絵巻」
・HP 「如来(にょらい)さまになったお竹(たけ)さん」―お竹(たけ)大日如来(だいにちにょらい)ものがたり―


追加(おことわり)
当記事の一時閉鎖、そして再掲載について。
神成さんのお名前のところを削除しました。不快サイトに自動リンクされ、Google検索 「江戸検」の項、上位に出てきたためです。時間も経ったので神成さんのお名前、再入力しました。

 

江戸検 受験予定者らしく 公使館跡巡り その2の2 オランダ・略年表

2010-04-21 | 都内散策・江戸検定
現在のオランダ大使館




裏手 桜田通からのオランダ大使館


表門へ オランダ大使公邸






オランダ大使館(駐日オランダ王国大使館)
東京都港区芝公園3-6-3


略年表 幕末の日蘭交流と主なできごと

嘉永5年(1852)       最後の商館長ドンケル・クルティウス着任(注1)
嘉永6年6月(1853)     ペリー来航(浦賀・久里浜)・開国要求
嘉永7年1月(1854)     ペリー再来航(浦賀)
嘉永7年3月3日(1854)  日米和親条約の締結 (11月 安政に改元)
                  長崎に海軍伝習所を設ける
安政2年12月(1856.1)  日蘭和親条約の締結(長崎にて)
安政3年(1856)        蕃書調所 設立
安政5年6月19日(1858) 日米修好通商条約の締結
安政5年7月10日(1858) 日蘭修好通商条約の締結(注2)
                   福沢諭吉による蘭学塾、江戸に設立
安政6年(1859)       長崎海軍伝習所閉鎖
                 出島オランダ商館閉鎖、領事館となる
                 風説書の廃止
安政7年1月(1860.2)   オランダの初代駐日総領事デ・ウィット着任
                  (総領事館は、なお出島にあった)
                  咸臨丸の太平洋横断
文久2年(1862)       蕃書調所を洋学調所と改称
                 幕府、留学生をオランダに派遣
文久3年5月(1863.7)   オランダ総領事館、長崎から江戸に移る(注3)
文久3年(1863)       洋書調所を開成所と改称
慶応元年(1865)      西周、津田真道らオランダから帰国(12月)
慶応3年(1867)       徳川慶喜、大政奉還

(注1) アメリカ使節の明年来航・開国要求を報告(ペリー来航予告情報)。
安政2年(1855) オランダ駐日特命全権領事官になる。

(注2) 安政5年(1858.4) クルティウス、修好通商条約の交渉のため江戸に入る。
宿所として指定された愛宕下・真福寺(真言宗)に滞在。
(その後、ロシア使節プチャーチン、フランス公使グローも滞在)
・幕府は市中の旅宿である「長崎屋」は適当でないと判断した。
・クルティウスが長崎にもどってから日蘭通商条約の締結。
・オランダは当初、外交使節を江戸に置かず、長崎出島を本拠地とした。
・総領事が江戸に出府したさいは、高輪・伊皿子の長応寺(日蓮宗)を利用していた。

(注3) ポルスブルック、在日オランダ総領事・外交事務官になる。(本拠地・横浜)
・江戸での公館として、長応寺が引き続き利用された。
・ポルスブルックは、スイス・ベルギー・デンマークなどのヨーロッパ諸国と幕府の条約締結に
 積極的に関与した。
・長応寺は、これらヨーロッパ使節と幕府の外交交渉の舞台ともなった。
 

参考・抜粋
『江戸の外国公使館』(港区立郷土資料館)の年表
HP『年表|江戸時代の日蘭交流』(国立国会図書館)
HP『駐日オランダ王国大使館』内、日蘭交流の歴史
『見る・読む・調べる 江戸時代年表』(小学館)
     

江戸検 受験予定者らしく 公使館跡巡り・その2 高輪・長応寺跡

2010-04-20 | 都内散策・江戸検定

あるはずの「オランダ公使館跡・長応寺跡」の案内看板が、ない!?
どうしても見つからない。

江戸幕府、開国後のオランダ公使館は長応寺にあったと、どの本にも書かれている。
江戸歴史散歩の芝・三田・高輪地区について書かれた、どのブログにも紹介されている。
長応寺は、よんどころない事情で、明治期に北海道に移転した。
だから、お寺の跡形もない。そういうこともあるだろう。
長応寺のあった場所は、所有者が変わりながらだろうが、今はマンション群になっている。それも時代の流れだ。

けれども・・・
港区内、どこの地図板をみても高輪・泉岳寺の右手、やや上(東と北のあいだ)に
「長応寺跡 (オランダ公使館跡)」と、★印つきで載っている。
なのに、それでおしまい、ってあり?
由来を記した案内看板はあるの? ないの?

これは現地に一番近い、石柱だかコンクリだかの地図標識



道歩く人、八百屋のおじさん、交番のお巡りさん、区支所の職員さん。
皆、きまって、さー、?
該当するHPを探した。
『史跡東京港区』の「オランダ公館跡」。遠景だが、確かに案内板だ!
プリントを持って、三回目の伊皿子訪問。
交番にはお礼方々、2度目の訪問。前回はわからなかった。
前とは別のお巡りさんだったが、気にかけてくれていた。
プリントした小さな画像をみてもらう。隣の建物の白い柱をみて…あそこだな…
場所は特定した。秀和まわりではない。
お礼をいって、現地へ向かう。何度も歩いている場所。
プリントの画像と見比べ…ここだ…。だが案内板はない。
もうこんなこと、やめよう。
と思ったが、最後に隣のマンション管理室を訪ねる。さー、と首をかしげる。
すこし間があって…、思い出したようだ。
そういえば、確かに案内板あったよ。数年前までは。
お礼をいって、外に出た。
そのころ相前後して建設工事が始まり、そこには大きな高級マンションができた。

案内板があったはずの場所。カメラには撮った。けれど、載せるのはやめた。


芝の西応寺へ移動




石碑 最初のオランダ公使宿館跡


幼稚園の園内にある。
園児たちが遊んでいる時間帯だったので、先生に挨拶をしてから撮影。

西応寺(浄土宗)
東京都港区芝2-25-6

安政5年(1858)7月10日 日蘭修好通商条約の締結。
安政6年(1859)9月1日   オランダ公使宿館を西応寺に設置。
             初代公使クルティウスらが駐在。
慶応3年(1867)12月25日 西応寺、薩摩邸襲撃事件のとき兵火で全焼。
             再建した建物も先の戦災で全焼。

上記、略歴に追加
安政5年(1858)7月8日 イギリス使節エルギン卿一行、江戸に上陸。西応寺に滞在
安政5年(1858)7月18日 日英修好通商条約、西応寺で締結。



東京タワーでスタート、でもスカイツリーが・・・

2010-04-17 | 都内散策
2010年4月
1ヶ月と数日前に、この、かぶとんブログ、スタートしました。
わけもわからず投稿してきたが、見てくれる人たちがいるんだ!! と、励まされ
とてもうれしくなった。ただただ感謝!! です。

東京タワーからスタートしました。
都内散策、といってはみても、いまとなれば、二番煎じ、三番煎じ、百番煎じもいいところ。
でも自分にとっては、この目で見たい!! というところをまわってます。
江戸検をしばし忘れても、足の向くまま、気のむくまま。(できるだけ関連付けたいですが)
団体行動とは違って、気になるところにぶつかると、しばし立ち止まる。ん、と思ってひき返す。
このひき返しての再確認が、なんともいえず、心地よい。

東京タワーの話でした。
ここ、港区芝。そして麻布、赤坂、六本木、三田、高輪、白金。江戸を、お勉強するに、
最、最重要地区ですね。
そして現在も、東京の、日本の超一等地です。何なんでしょう?
もう、いい。と思うまで歩きまわりたいです。
東京タワーを中心に、ぐるぐる廻る予定なのですが、
ほんとうのところ、展望台から見た『東京スカイツリー』がどうも気になります。
気がすんだら、港区へもどります。



墨田区押上2丁目から1丁目へむかう

都営地下鉄・押上駅下車。こっちだろうと、出るとすぐ右手に『スカイツリー』!!
そのためか、出口№.忘れ。方向感覚もうしなう。
東武伊勢崎線の線路に沿って歩き、すぐに業平橋駅(ここが最寄駅かな)
スカイツリーを見ながら、左まわりでおおきく一周。
平日ではあったが、カメラを手にした見物の人が大勢いた。














現在の高さ 349m















  東京スカイツリー
所在地      墨田区押上1丁目
高さ        634m(完成時)
竣工予定    2011年12月
開業予定    2012年 春
建築主      東武鉄道(株)
          東武タワースカイツリー(株)
設計・監理    (株)日建設計
施工       (株)大林組

参考
東武鉄道 本社  墨田区押上2-18-2
京成電鉄 本社  墨田区押上1-10-3

と、いうことで『東京スカイツリー』とは、しばしのお別れ。