かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

写真 池上本門寺・千部会 

2012-04-29 | 池上本門寺

大堂








此経難持坂より、池上の街をのぞむ


千部会 4月27日(金)~29日(日)
千部会法要
 四月二十八日は、建長五年(一二五三)に、日蓮聖人が房州・清澄山(きよすみやま)の旭が森で、昇り来る朝日に向かって初めてお題目をお唱えになられた立教開宗のご聖日です。四月二十七日から三日間、法華経一部(八巻二十八品(ほん))を読誦(どくじゅ)して報恩法要を行います。
      HP 池上本門寺 「千部会(せんぶえ)法要のご案内」より。

4月28日、大堂における「立教開宗慶讃法要」に、はじめて参席させていただきました。
酒井日慈山主をはじめに、百名をこす僧侶の方がたの法華経読誦。その超スピーディで全員揃いの読誦の大迫力には内心びっくり(酔いしれました)。






本門寺境内での植木市 (4月25日~5月5日)


あたりを散策。ぶらぶらと。
多寶塔(宝塔)

大坊坂


大坊本行寺の境内より
 



日経・文化欄 歌と生きる苗族 撮り続け―田中一夫さん

2012-04-24 | こころ
2012.04.24(火)

日経新聞の最終面、文化欄はすてがたい。ときどき、アッと思う、個人的に興味・関心のある文章に出会うからだ。今日がそうだった。
すこし前にブログに載せた「明日へのことば」で、苗(ミャオ)族の歌垣について語っていた写真家・田中一夫さんが登場した。

「歌と生きる苗族 撮り続け」―中国の少数民族の村へ通い詰め、暮らしぶり見つめる
文・田中一夫さん

懐かしくも、じっくりと読ませてもらいました。今現在、時代の流れの中で、伝統や文化が急速に消えつつある。寂しいことと思うけれど、なんともいたしかたない。「変わりゆく姿を追い続けることが私の使命」と、何十年も村の取材を続ける田中さんに、あらためて敬意の念をいだきました。


『写真集 歌とともに生きる 中国・貴州省 苗族の村』 田中一夫 岩波書店 2011.10.6
前に記事にしましたが、高価な写真集なので、図書館で借りました。

あっちこっち飛びますが、いま『忘れられた日本人』 (宮本常一・著 岩波文庫)を読んでます。どこか似ているところがありますね。




日蓮聖人 六老僧

2012-04-23 | 宗史概論
宗史概論 (日蓮宗史)

鎌倉期
弘安5年(1282)10月8日 日蓮聖人、病の床で弟子の日昭(62(47?))、日朗(40(38?))、日興(37)、日向(30)、日頂(31)、日持(33)の六人を本弟子・後継者と定めた。六上足。(のち、六老僧と呼ばれる。)*
10月11日、弟子の経一丸(14)(後の日像)に帝都弘通(京都弘経)を遺命。
弘安5年10月13日辰の刻 日蓮聖人、池上宗仲邸(現・池上 大坊本行寺)で御入滅。

   定
 一弟子六人事 不次第
一、蓮華阿闍梨 日持
一、伊輿公(伊予公) 日頂
一、佐土公(佐渡公) 日向
一、白蓮阿闍梨 日興
一、大国阿闍梨 日朗
一、辨(弁)阿闍梨 日昭
 右六人者本弟子也
  仍為向後所定如件
弘安五年十月八日
 (報筆 日興)


日昭(にっしょう)
1221(1236 ?)年~1323年 (嘉禎2年?)~元亨3年
字・大成弁。弁阿闍梨。弁殿、弁公と尊称される。下総能手の出身。俗姓は印東氏。
日昭門流・浜門流の祖。
初め天台宗の僧(成弁)、比叡山で日蓮聖人と出会う。のち改宗。
鎌倉浜土の法華寺を拠点とする。
風間信昭(信濃守)の庇護により鎌倉・妙法寺を建立(のち越後へ移転)。
日昭門流(濱門)の本山は、三島玉澤・妙法華寺と越後(現・長岡市)村田妙法寺。

日朗(にちろう)
1243(1245 ?)年~1320年 寛元元年(寛元3?)~元応2年1月21日
号は筑後房。大国阿闍梨。下総国能手の出身。父は印東有国。
鎌倉の松葉ケ谷、のち比企谷を拠点とする。
池上宗仲の協力により池上本門寺の基礎を築く。千葉胤貞室の寄進で本土寺を建立。池上長栄山本門寺・比企谷長興山妙本寺・平賀長谷山本土寺を朗門の「三長三本」と称す。
日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖。比企谷・池上の両山二祖。(開山は日蓮聖人)
多くの弟子がおり、その高弟は「朗門の九鳳」(九老僧)と呼ばれた。日像・日輪・日印 等が知られている。
廟所は鎌倉・安国論寺、法性寺、池上本門寺にある。

日興(にっこう)
1246年~1333年 寛元4年~元弘3年/正慶2年
伯耆坊。白蓮阿闍梨。甲斐国大井庄の出身。富士岩本の実相寺(当時は天台宗)入室。
正嘉2年(1258)、日蓮聖人、岩本実相寺で「立正安国論」執筆の際に弟子となる。
日蓮聖人滅後、身延の地頭・波木井(南部)実長らと意見対立し身延山久遠寺を離山。
駿河国上野郷・南条時光の寄進により大石寺を建立。弟子・日目を学頭とする。
重須談所(現・北山本門寺)を開き、弟子の養育につとめた。本六人・新六人。
富士門流。

日向(にこう)
1253年~1314年 建長5年~正和3年
佐渡公。佐渡阿闍梨・民部阿闍梨。論議第一と称さる。安房国出身。俗姓は小林氏。
日蓮聖人滅後、身延山に入る。身延輪番を巡り、日興と対立する。
身延門流・藻原門流・日向門流。上総・茂原妙光寺(現・藻原寺)。
総本山身延山久遠寺第2世。

日頂(にっちょう)
1252年~1317年 建長4年~文保元年
伊与阿闍梨。伊与房・伊与公。駿河国重須の出身。俗姓は南条氏。
下総国八幡庄若宮(現・市川市)・富木常忍(日常)の養子となる。(母の再稼先)
日蓮聖人の佐渡配流に随伴。下総国真間(現・市川市)・弘法寺を拠点とする。
養父常忍と対立、駿河国の日興のもとに赴き、富士重須談所の設立に協力する。

日持(にちじ)
1250年~没年不詳 建長2年~没年不詳
甲斐公・蓮華阿闍梨。駿河国松野の出身。俗姓は松野氏。
初め天台宗寺院で日興に師事したが、のち日興と共に日蓮聖人に師事する。
駿河国松野に永精寺開山。(のち移転、改称して貞松・蓮永寺)
祖師滅後、日興と義絶。北海道・樺太に渡り、さらに大陸での海外布教を目ざした。
以後の消息は不明。

* (数字)は当時の年齢(数え)。
六老僧の名は経文のようにして覚える。「しょう・ろう・こう・こう・ちょう・じ」
阿闍梨 教えの肝要を知っている立場の人、の意。


〇日昭の血縁
日昭の父は下総国印東庄の領主・印東佑昭、母は工藤佑経の長女。母の縁により京都近衛左大臣兼経の猶子となり、比叡山に登る(尊海に師事。蓮長(後の日蓮)とは比叡山で知り合う)。日朗、日像、日輪は日昭の妹の子(甥)である。池上康光(宗仲の父)は、姉の夫であるので義兄であり、池上宗仲・宗長兄弟は甥である。日祐は兄の子なので甥に当たる。日像の京都布教には、日昭の親戚(近衛家)による手助けがあったのではないかと推測される。
〇日朗の血縁
父は下総の印東有国、母(妙朗尼)は日昭の妹である。建長6年(1254)、10歳の日朗は、日昭(叔父)等の縁により、日蓮の門下となった。母・妙朗尼は平賀忠晴に再嫁した。経一丸(日像)、亀王丸(日輪)は弟(同母異父弟)である。
〇日昭・日朗の項では、裏方としての妙朗尼がポイントか。


歴史上の人物・出来事としての記述なので、敬称(尊称)は日蓮聖人のみにしました。

ということで、日蓮聖人ご入滅の弘安5年(1282)10月13日、その前後の歴史上の出来事、政治状況、社会生活はどうだったのかを入れて、ふり返ってみます。
1250~60年代の鎌倉 大火、大風、洪水、大地震が相次ぎ社会および民衆は疲弊す。
1260年(文永1)7月 「立正安国論」の奏上。(幕府、無視)
       8月 松葉ケ谷の草庵、夜襲される。
1261年(弘長1) 忍性、極楽寺に非田院・療病院を設ける。
1261年(弘長1)5月 伊豆・伊東へ流罪(伊豆法難)。
1263年(弘長1)2月 伊豆流罪、赦免さる。
1264年(文永1)11月 安房国で東条景信に襲撃される(小松原法難)。
1271年(文永8)9月 日蓮聖人、竜口の法難。
1271年(文永8)10月 佐渡流罪
1274年(文永11)3月 佐渡流罪の赦免、鎌倉に帰る。5月、身延山に入る。
1274年(文永11)10月 文永の役(元寇) 蒙古(元)の襲来。
1280年(弘安3) 鎌倉大火。鶴岡八幡宮炎上する。
1281年(弘安4) 弘安の役(元寇) 蒙古(元)の襲来。
1282年(弘安5)10月13日 日蓮聖人、池上にてご入滅。
1284年(弘安7) 執権・北条時宗没(34)
1293年(永仁1) 鎌倉大地震、死者2万余人。
1300年初期の鎌倉 大火、大地震相次ぐ。
1333年(元弘3) 鎌倉(北条)幕府、滅ぶ
1334年(建武1) 建武の中興、天皇親政。


参考 Wikipedia
参考書籍 『大本山 池上本門寺史管見』 石川存静・著
     『日蓮宗小事典』 法蔵館


追記で、<私見>を。
当記事は、いろいろ読んだすえの寄せ集めです。よく読みかえしてみると、どうも整合性がとれないところがある。まずは、伝承上のことも多いです、とのことわりを入れさせてください。
なんとしても、日昭(上人)の生年が2つあって、特定されていないのは悩ましい(どうにもまずい)。1236年ではなく、1221年の生まれとしないと話のつじつまが合わなくなってしまう。生年の根拠は?―裏付けの資料が必要なんだろうな。
(最近になって宗史に関心を持ちはじめた初心者より)