かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

『折々のこと はがき伝道』 水無月-ああ、そうか

2011-05-27 | こころ
最近のネット検索では、だいたいは知りたいことまでたどりつける。
けれども池上本門寺で基本的な事項を確認しようとしたのだが、なんとしてもたどりつかない。何かといえば「歴代貫首」のこと。そんなことを調べてるの、となりそうだが、ともかく関係図書を見てからのことにした。
その間、どういうわけか『折々のこと : はがき伝道』(市川智康著)Googleブック プレビューに行きついていた。開いていた箇所に目が行く。ほー、という内容。これもなにかの縁だ。その文章を引用・紹介させてください。
とりようによって、カチンとくるか、すなおに共感するか、ビミョウな線上にあるような気もするが。

水無月―ああ、そうか

一  バカのおかげでお利口がひかる
二  落ちてくれる人のおかげで合格できる
三  負けてくれる人のおかげで勝たせてもらう
四  脇役のおかげで主役が生きる
五  職場があるから働ける
六  後輩のおかげで先輩になれる
七  子供のおかげで親になれる
八  嫁のおかげで姑になれる
九  相手(縁)がなければケンカもできぬ
十  聞いてくれる人のおかげでぐちもこぼせる
十一 下水のおかげで水も流せる
十二 読んでくれる人のおかげで書かせていただく

それと書家相田みつおさんの『にんげんだもの』の中の一文が紹介されていた。孫引きになるが・・・
花を支える枝
枝を支える幹
幹を支える根
根はみえねんだなあ


いろいろと考えさせられた。相手がある(いる)と、おかげ(さま)がキーワードかな。
はじめて知った本ですが、購入するか、図書館で借りるかして、読んでみます。

『折々のこと はがき伝道』 市川智康著 水書房 2003.02

 

池上・永寿院と万両塚 (池上の寺めぐり・朗師講24)

2011-05-23 | 池上の寺めぐり・朗師講
不変山 永寿院
東京都大田区池上1-19-10

養珠院(お万の方)の孫、芳心院(茶々姫・因幡姫)とご縁の寺院。





本堂 扁額 「不変山」

池上の寺めぐり 永寿院
永寿院
 縁起
寛永十九年(1642)以前の開創。備中庭瀬藩主 戸川逵安が本門寺十六世日遠聖人に帰依して自らの下屋敷五千坪を聖人の隠棲地として寄進し、日遠聖人の弟子 日東聖人(本門寺十七世)により堂宇が完成した。当初は日東聖人の院号にちなみ蓮乗院とよばれた。その後、お万の方の孫芳心院(紀州家初代徳川頼宣の娘、鳥取藩主池田光仲の妻)の帰依を受け永寿院と改称。宝永五年(1708)に没した芳心院の墓所は「万両塚」とよばれている。


備中庭瀬藩 戸川家の墓所

万両塚 芳心院墓所


「万両塚」 芳心院の墓所


芳心院墓所
 万両塚に埋葬されている「芳心院殿妙英日春大姉」は、徳川家康と側室お万の方の孫にあたり、紀州徳川家初代藩主頼宣の娘、鳥取池田家初代藩主池田光仲の正室です。
 宝塔背面の銘文には、芳心院の家系・人となり・信仰の深さと「逆修七分全得」(生前に墓をつくるなどの善行を積めば、七の功徳全てを得ることができる)のために生前に建てた自分のお墓であったことが記されています。
 宝塔内部からは、法華経巻子本八巻と火葬骨の納められた青銅製の骨蔵器が発見されました。自身の法華経信仰を三百年後の私たちに伝えてくれる貴重なお墓です。
万両塚をめぐる系図
永寿院と芳心院
 祖母養珠院の仏縁で、永寿院に帰依していた芳心院は、息子永寿丸が多病であったため、本門寺の祖師に祈念し、もしつつがなく成長した時には出家させると願をかけた。この願はかなえられ永寿丸は立派に成長したが、その出家させるのを惜しみ、観成院日遥を猶子として、永寿丸の身代わりとなして、永寿院の住職とした。それ以前は蓮乗院という寺号であったが、芳心院より永寿院の寺号を賜った。

芳心院の親戚関係
 徳川家康とお万の方の孫
 紀州頼宣の娘、池田光仲の妻、
 徳川光圀のいとこ、徳川吉宗の叔母
〇芳心院 茶々姫=因幡姫
 寛永8年9月22日 - 宝永5年11月28日 (1631 - 1709)
 池田光仲 1630(寛永7)年 - 1693(元禄6)年
 長男・池田綱清(後の鳥取藩主) 1648(正保4)年 - 1711(正徳1)年
 次男・池田仲澄(後の鹿奴藩主) 1650(慶安3)年 - 1722(享保7)年
〇養珠院 お万(萬)の方 (徳川家康側室)
 天正8年 - 承応2年8月22日 (1580 - 1653)
 徳川頼宣(初代紀州藩主)、徳川頼房(初代水戸藩主)の生母。
 大野本遠寺、紀州養珠寺を建立。日遠聖人が開創に当たった。

堤方権現台古墳




〇永寿院(永壽院) 創立・寛永19年(1642)以前 開山・心性院日遠聖人、開基檀越・戸川肥後守達安(逵安)(たつやす・みちやす)
庵室建立は日遠の弟子、日東聖人(池上17世)。日東聖人の院号に因み、当初、蓮乗院と呼ばれた。山号は戸川達安の院号(不変院)によっている。26世金子日如(文妙院日威)聖人は比企谷妙本寺78世・池上本門寺80世。


参考 HP 日蓮宗東京都南部宗務所>永寿院
それと、『大田区の文化財 第8集 大田区の寺院』 大田区教育委員会
    『大田区史跡散歩』 新倉善之著 学生社
これからの「池上の寺めぐり」には、新規・手直しに随時参照させてもらいます。

永寿院の、現在のご住職は吉田尚英さん。「池上市民大学」のクラス担任をされています。私事ながら「池上市民大学」では、たいへんお世話になっています。

いつも追記が多くて恐縮してますが、当記事の公開のあとで、HP 『万両塚』(津田沼ラプソディ(さん)、ブログ・津田沼日記)をはじめて知りました。万両塚と芳心院の三百回忌法要、そして堤方権現台古墳の話が詳しく載ってます。永寿院そして池上本門寺に、ご縁があるのですね。




スナップ写真「えちご長岡・佐渡 広域観光フェア」 於上野公園

2011-05-21 | 新潟 長岡
先日の上野公園であった「えちご長岡・佐渡 広域観光フェア 越後の元気を全国に届けよう! 」のスナップ写真です。


後方の建物は東京国立博物館、左手に上野動物園がある場所で開催。









上野の博物館めぐりの途中、なんだなんだと思って、近づいてみると「えちご長岡・佐渡」の観光フェア。開催しているのを知らなかったので、びっくりしました。パソコンの不調で、公開が遅れてしまいましたが、とりあえず写真だけでも。

来月の6月末から7月初旬に、JR東日本の「大人の休日倶楽部パス」があります。その期間内に2日か3日ぐらいを長岡散策と歴史の現地学習にあてるつもりです。
杉本鉞子(さん)のことを軸に、稲垣平助、稲垣家を深堀りしたいです。それと両親とも長岡・岡南(こうなん)の農家の出だったので、昔の村落のことも。



ノートパソコンのトラブル マウスポインタの制御不能

2011-05-20 | パソコン
ここ一週間ほど前から、愛用のノートパソコン、絶不調。入力が佳境になったころ、おもむろに、そしてやおらマウスポインタが制御不能におちいる。ポインタの感度が上がって異常表示。なんだ、なんだと内心あせりまくり。再起動しても同じこと。しばらくすると暴れだす。対応が遅れると、にっちもさっちもいかなくなる。仕方がないので(やってはいけないと、自らを戒めているはずの)電源ボタンを直接押しての強制終了。
(ほんとうをいうと、もっと前から、それらしき兆候はあった。)

ウィルス感染?、ウィルスバスターには異常の知らせなし。平常時の起動・終了は問題なし。しかし、しばらくすると異常事態が発生する。別のパソコンでトラブル・シューティング。グーグル検索で「ノートパソコン トラブル ポインタ(それとタッチパッド)」。どれもこれだ、というところへは行きつかない。が、なんとなくそれっぽい例はあった。
それで、つたない知識(ほとんどない)を動員してのヤマカン処理へ。

ひとつは、メモリが購入時のまま(256MB)。いっぱい、いっぱいか、むしろ容量不足になっているという認識がありながら、そのまま使用しているということ。この機会に、思いきってメモリの増設をした(512MB)。説明書をネットで探し、わからないながらも、なんとか裏底のネジをはずし、慎重に取りつけた(知らないと面倒)(それと内部の埃がすごかった。清掃)。結果、起動とインターネット表示、えらい早くなった。それはよかったのだが、ポインタの制御不能は相かわらず。
ふたつめは、タッチパッド周りの接触か、感度異常と自己判断。清掃をしたかったが、分解まではしたくない。それで外部マウスを使うことにした(ポインティングデバイスの無効にチェック)。結果、ポインタに関しての異常表示はなくなり、平常に使えるようになった。(対処療法だなあ。タッチパッドの異常ということなら、そちらは未解決のまま。使えない。)
その後も、いろいろ見ているうちに、問題の要因をひとつ思い出した。手を洗ったあと、しっかり拭わないで水気の残った指でタッチパッドを操作することもあった。これって、よくない。

使用機 FMV LOOX T70E
XPが出た頃からの機種。長く使っているが、それならもっと大事にしないといけない。反省。



5月15日 上野・彰義隊のこと

2011-05-17 | 都内散策・江戸検定

明治2年(1868)5月15日(旧暦) 西暦では1868年7月4日
戊辰戦争(戊辰の役)のうち、上野戦争。この日、彰義隊は壊滅した。

我が、かぶとんブログ、2年目に入ってから少したった。
思うに、内容の巧拙はいちおう脇においといて、興味・関心事をできるだけ取り上げてきた。再度、ブログにのせたい題材が(とくに季節ものは)2度目として時々でてくると思う。そのときは、もう少しアカデミック(風)(?)にいきたいのだけれど、そうもいかないかな。
で、彰義隊のこと。
前回は杉浦日名子(さん)の『合葬』にからめて、すこし載せた。今回は区教育委員会の説明文をしっかりと読んだうえで、いちおうの基礎はおさえた(つもりの)ところから先へすすめたい。










  彰義隊の墓
 十五代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷(おがわ おきさと)らは、慶応4年(一八六八年)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦五月十五日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。
 生き残った小川ら隊士は、明治七年(一八七四年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後、百二十年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。


  彰義隊奮戦之図(上の案内板の左側部分)
 小川興郷が画家に指示して描かせたもので、他に存在する錦絵と違って、史実に忠実な絵と伝えられている。

  彰義隊の墓(台東区有形文化財)
                                 台東区上野公園一番
 江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸隠居後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
 慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏麿らによって当地で荼毘に付された。
 正面の小墓石は、明治2年(一八六九)寛永寺支院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死の墓」の字を大きく刻む。
 平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
                                  台東区教育委員会

〇小川興郷(おがわ おきさと)
〇南千住円通寺 (箕輪(三ノ輪)円通寺)
〇寒松院・護国院

参考 HP 『上野の杜から―しのばず自然観察会&彰義隊』のうち、「上野彰義隊」
じっくり読ませていただきました。彰義隊・小川(椙太)興郷のご子孫の方々が、今日にいたるまで、ずっと彰義隊の顕彰につとめ、墓所の管理をされてきたのですね。今は都の管理ということですが、頭がさがる思いです。