かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

雪景色・JR上越線 越後湯沢~長岡 2

2011-01-29 | 新潟 長岡

山間部を過ぎ、魚沼をすぎ、川口あたりからは、あいかわらず厚い雲におおわれてはいるもの
の雪はやんでいた。

ここで、ようやく大河・信濃川が見えてくる。






小千谷駅では、いろいろ思い出していたため、シャッターチャンスをのがしてしまった。
小千谷「高の井酒造」の看板。



(画像、拡大します。)
旧17号(国道だったのは昔のこと)。道なりに行って峠をすぎれば、長岡市の妙見。峠の手前
の川に沿って右折すると、小千谷の浦柄。さらに奥に行けば旧山古志村。



信濃川の妙見堰。





白岩峠の岩石群。
中越地震で、峠の岩場が崩落した場所。(心の内で、冥福を祈る)



白岩トンネルをぬけると、長岡市の南端・妙見。






山あいに、滝谷の集落。

(画像、拡大します。)




越後滝谷駅







終点、長岡駅に到着(!!)






JR上越線 越後湯沢から長岡まで。車窓からの眺めでした。
所要時間は、約1時間15分です。



雪景色・JR上越線 越後湯沢~長岡

2011-01-28 | 新潟 長岡
雪中のJR上越線。
都会の人が見れば、雪景色!! だが、越後人からするとどうだろう。
スキー場関係は、雪、大いに歓迎だろうが、一般生活においては、冬ごもり(?)
冬がおわり雪が消え、春を待つ、という心境でしょうか。

越後湯沢駅



この日もJR東日本の新幹線ダイヤが大いに乱れ、そのあおりをくって、在来線もなかなか
動かないという状態だった。




JRほくほく線 特急「はくたか」

JR上越線 普通列車で長岡に向かうことにした。










列車がようやくと発車してホームを出ると、いきなりの雪景色。





上越国際スキー場前駅
学生の頃、そして勤め始めの頃、何度もやってきたところだ。


塩沢駅
ここにも降りたった。シャトー塩沢・・・
その頃は、まったく知らなかった鈴木牧之。いまは、江戸期における越後、最高の文化人
(知識人)の一人だとはっきりいえるのだが。



遠くに輝く雪山、・・・は何ていう名の山?



小出駅

魚野川 やがて信濃川と合流する。











越後川口駅

ぶ厚い雪雲に切れ目が・・・



(つづく)



『韃靼の馬』 振り返り・その2

2011-01-26 | 韃靼の馬
2010年1月24日の感想 -回想-です。
日付けの入力ミスではなくて、1年前の話ですよ。

2. 『韃靼の馬』 ― なぜ、この題名

なぜ『韃靼の馬』なのだろう。
- 朝鮮通信使 - に反応して、おもわずこの連載を楽しみつつ読んでいる。
対馬の人たち、そして今展開している朝鮮での出来事に登場している人たち、みな気になる。
が、題名からして、後から知った連載開始時の作者のことばからして、まもなくか、もうすこし先
にか、朝鮮編はおわる。
舞台は中国・清、モンゴルへと移っていくのか。
もっと広がるのか。
 
 『韃靼の馬』 (44)  事件 27

李順之(イスンジ)は会寧(フェリョン)*の人である。と書かれている。
咸鏡道会寧(ハムギヨンドウ・フェリョン)は豆満江の上流にあり、辺境、国境の町である対岸の
三合(サンホー)は清の領土である。

会寧府が置かれ、国境交易・開市が毎年冬のあいだに開かれている。清からは、多くの人たちがやってくる。会寧窯も知られている。
開市の記述ののち、馬市(ばし)の話になる。
 
 『この市が終わると馬市になる。千数百頭の清馬が取引きされる。対価は朝鮮牛で、その交換
比率は、清馬一頭に朝鮮牛七~八頭だった。
 朝鮮馬は馬体が小さく、人が乗ったままで果樹の下を通れるほどで、「果下馬」と蔑称された。
軍馬として用をなさないことから、北辺境域に配備された軍官・騎兵は、自費をもって、馬市で清
馬を調達した。辺境隊だけでなく、中央からも買い付けにやってくる。朝鮮通信使は、たびたび
徳川将軍に馬を献上しているが、それらは会寧の馬市で調達されたものである。』
                                          ( 2009.12.16 掲載)

と、いうことで「清馬」が出てくるが、いまのところ、- なぜ、この題名 - とは思ってみても・・・
                                          (2010.01.24 感想)
 *会寧 現在の北朝鮮・咸鏡北道にある町。


3. 韃靼、とは

韃靼 = タタール  モンゴル系遊牧民の総称。
中国・明代  モンゴルを元以来の呼称である「蒙古」で呼ぶのをやめ、「韃靼」と呼んだ。
日本      明代の表記に従う。
女真(ジュシェン)(のちの満州人)
         モンゴルのことをMongo(モンゴ)と呼んだ
中国・清代  満州人が立てた清は、韃靼の名称を「蒙古」に戻した
日本      江戸時代頃は、北アジアの諸民族を漠然と「韃靼」と呼んでいた。
         清を立てた満州人のことも韃靼人と呼んでいた。

 (参考  Wikipedia 「タタール」のうち「東アジアのタタール」)
  

4. 雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう) 略歴

1668年(寛文8年) 近江国伊香郡雨森村(現・滋賀県長浜市高月町雨森)の町医者の子として生まれた。
12歳の頃 京都で医学を学ぶ。
18歳の頃 江戸に出る。
       朱子学者・木下順庵の門下に入る。
       1685年(貞享2)頃。
1689年 (22)木下順庵の推薦で、対馬藩に仕官。
1692年 (25)対馬に赴任。
1698年 (31)朝鮮方佐役(朝鮮担当部補佐)を拝命。
1702年 (35)初めて釜山に渡る。
1703年から1705年 (36-38)釜山の倭館に滞在。
1711年(正徳1年) (44)徳川家宣就任を祝う朝鮮通信使に随行して江戸に赴く。
             正使・趙泰億
1719年(享保4年) (52)徳川吉宗就任を祝う朝鮮通信使に随行して江戸に赴く。
             正使・洪致中 製述官・申維翰( 『海遊録』の著者)
1720年 (53)朝鮮王・景王の即位を祝賀する使節団に参加して釜山に渡る。
1721年 (54)朝鮮方佐役を辞任。家督を長男の顕之允に譲る。
1729年 (62)勅使として釜山の倭館に赴く。
1734年 (67)対馬藩主の側用人に就任。
1755年(宝暦5年) 対馬厳原日吉の別邸で永眠。88歳。

 (参考  Wikipedia - 雨森芳洲 )



池上市民大学 5期・第4回講座 自我偈(如来寿量品第十六)

2011-01-24 | 池上本門寺・池上市民大学
2011年 1月
第5期 池上市民大学 第4回講座 受講してきました。

1月22日(土) 13時 「長栄の間」 集合。
女性が多いこともあって、毎回、お茶と茶菓子が配られる。恐縮です。有り難うございます。

司会進行  吉田尚英さん(池上永寿院住職)
講座
〇仏教の話  講師 岡本亮伸先生
「自我偈(法華経 如来寿量品第十六)の序盤には、何が説かれているか?」
不得手ではあるが、もっとも興味・関心のあるところです。まとめられるかどうか。いちおう復習ということで。自我偈、はじめの部分です。
「自我偈」とよばれるお経=法華経の中心的な教えが説かれた「如来寿量品第十六」の偈文

自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇
 じーがーとくぶつらい しょうきょうしょーこっしゅー
 むーりょうひゃくせんまん おくさいあーそうぎー
常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫
 じょうせっぽうきょうけー むーしゅーおくしゅーじょう
 りょうにゅうおーぶつどう にーらいむーりょうこう
為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
 いーどーしゅーじょうこう ほうべんげんねーはん
 にーじつふーめつどー じょうじゅうしーせっぽう
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
 がーじょうじゅうおーしー いーしょーじんづうりき
 りょうてんどうしゅーじょう すいごんにーふーけん
衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
 しゅーけんがーめつどー こうくーようしゃーりー
 げんかいえーれんぼー にーしょうかつごうしん
衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命
 しゅーじょうきーしんぷく しちじきいーにゅうなん
 いっしんよくけんぶつ ふーじーしゃくしんみょう
時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅
 じがーぎゅうしゅーそう くーしゅつりょうじゅーせん
 がーじーごーしゅーじょう じょうざいしーふーめつ

偈文
自我得仏来  私(お釈迦さまのこと)が悟りを得て、仏となって以来、
所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇  人智を超えた年数がたった。
劫数(こっしゅ)
億載阿僧祇(おくさいあそうぎ)
而実不滅度 常住此説法  しかし本当は、八十歳で死んだわけではなく、私は常にこの地で教えを説き続けている。
衆生を度せんが為の  度せんが=仏さまにする
令顛倒衆生 雖近而不見  この世の迷いにさいなまれている人々は、仏がすぐそばにいても、気付くことができない。 (失敗のパターン)
顛倒の衆生をして  正気を失っている(ような)
質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命  正直で柔軟な心で、一心に仏に会いたいと願い、自分の体やいのちまでも惜しむことのない覚悟。
質直にしてこころ柔軟に  正直(自分の都合でない、私利私欲のない)
時我及衆僧 倶出霊鷲山  そうなれば霊鷲山で教えを説いたように、誰もが仏に会い、教えに触れることができる。
霊鷲山  法華経を説かれた場所

読み下し文で。
我、仏を得てより来(このかた) 経たる所の諸の劫数(こっしゅ)
無量百千万 億載阿僧祇(おくさいあそうぎ)なり。
常に法を説いて、無数億の衆生を教化(きょうけ)して 仏道に入らしむ。
爾(しか)しより来(このかた)、無量劫なり。
衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず。
而(しか)も実には滅度せず 常に此(ここ)に住して法を説く。
我、常に此に住すれども 諸の神通力(方便力)を以って
顛倒の衆生をして 近しと雖(いえど)も、而(しか)も見ざらしむ。
衆、我が滅度を見て 広く舎利を供養し
咸(ことごとく)皆、恋慕を懐(いだ)いて 渇仰の心を生ず。
衆生、既に信伏し 質直(しちじき)にして意(こころ)柔軟に
一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず
時に我及び衆僧 倶(とも)に霊鷲山(りょうじゅせん)に出(い)づ。
我、時に衆生に語る。 常に此に在って滅せず。
(今日の「仏教の話」からと、配布資料、および「おつとめ要点」を参考に、引用・抜粋してます。)

 ・仏教の学び方について
 ・お釈迦さまの一生をたどる

〇読経と唱題
  よって、今日の読経 「妙法蓮華經如来壽量品第十六 (自我偈)」
  それと唱題(お題目) 南無妙法蓮華經

〇講義・ガイド実践  講師 小野紀之先生
  「池上本門寺ボランティアガイド養成講座 1」
  上記について、配布資料に沿いながらのお話がありました。
  コースづくり、ガイドツールづくり、配布資料づくり、については追々と。

今は、池上本門寺の江戸期の歴史について深堀りしていきたいです。それと併行して、お経
については、もっと学習と実践が必要だな、と感じてます。

講義の終わりに、男性のIさんと、女性のYさんの二人が「池上本門寺公式ボランティアガイド」に認定されました、との発表がありました。来月の講座の前に、大堂にて酒井日慈池上本門寺山主(池上市民大学・学長)ご出席のもと、認定式が執り行われます、との事でした。
なぜか知らねど、うらやましく思いながら聞いていたしだいです。
(いかんせん第5期からの出席で、それまでの経緯がどうもよくわかっていない。)
追記 記事訂正。講座案内のはがきによると、認定式の場は「松涛の間」だそうです。
 
〇霊宝殿(霊寶殿)の拝観
  安藤学芸員、所用不在のため、別の方(学芸員?)での展示品の解説でした。

16時 本日、終了。


2011.01.26(水)
早々と、第5回講座のお知らせハガキが届きました。(早い!?)
公式ガイド認定式は、「松涛ノ間」だそうです。(どこ?)
それと次回は写経です!!―「宝塔偈」。予習しようかなぁー・・・

それより、なにより次回の目標!!
あの、おばちゃん(おばあちゃん、失礼しました。)と、お知り合い(知ってもらう)になること。
どうなるかな―(?)
えーと、かぶとんブログに、急に興味出てきた人いる?

先に言ってしまうけれど、誤解があってもなくともよいのだけれど、お年は見たところ、80歳代。「学び」への意欲!!、尊敬してます。



日経新聞・連載 『韃靼の馬』 振り返り

2011-01-22 | 韃靼の馬
去年のちょうど今の時期、江戸検定(江戸検)の学習と、ホームページ作成の手習い(独習)
を兼ねて、現在の当ブログの前身、「かぶとん 江戸検に再挑戦 !?」をやっていた。
(手間ひま労力がかかり、そのうち面倒になって更新しなくなってしまったが。)
その頃から気になって読んでいたのが 『韃靼の馬』。そして感想も何回か書いた。
当時も今も、引用が長いことを気にはしたが、ええいままよ、と、レイアウトは変えたが同じ
内容を載せます。
当時の感想と、連載が終った今とで、どう変ったか、それとも変らなかったのか。

『韃靼の馬』 追っかけ

1. 「博覧強記」 - 朝鮮通信使 - から、『韃靼の馬』へ
それにしても
日経・朝刊 最終面に連載中の 『韃靼の馬』 (辻原 登(さん)・作 宇野亜喜良・画)
最高に、かつ、めちゃくちゃに面白い !!

「博覧強記」の - 朝鮮通信使 - 2つ・3つの言葉を覚えると、ここはもうおしまい、だったが
一変した。(物語のほうが、百倍、理解が深まるかも)

- 小説家 見てきたような ウソを言い -
主人公 倭館(わかん)の対馬藩士 阿比留克人(あびるかつんど)と、李氏朝鮮・監察御使
柳成一(リュソンイル)の馬上での戦い!!
このあと、どう展開するんだ。
傷ついた克人を助けた、命の恩人、踊り子・リョンハンとの再会は?
対馬にのこる婚約者 小百合は。
そして可愛い可愛い妹の利根は。

世は6代将軍徳川家宣の時代。幕府側用人・新井白石の - 将軍の称号を「日本国王」復号
とする - が、物語の軸だ。
舞台は対馬、朝鮮・・・そして・・・

白石の師、恭靖木(きょうせいぼく)先生こと木下順庵。
白石とは「木門(ぼくもん)」の後輩にして、対馬藩お抱え儒官となった雨森芳洲。

腕利きの倭館の陶工、李順之(イスンジ) 実は朝鮮国王直属の隠密、暗行御使。

虚実ないまぜで、頭の中は、ぱーぷりん。
神代文字のひとつ、日文(ひふみ)。阿比留文字とは。


『韃靼の馬』 連載の第1回で、悲しい話になりそうなことを暗示している。

 プロローグ 利根 1
 回想
 『わたしの名は利根、阿比留利根です。対馬に生まれ、育ちました。まだ一度も対馬を出た
 ことがありません。
 対馬と書いてツシマと読む。あるいはツシマと発音して対馬と書く。ふしぎでなりません
 が・・・』
 『わたしと兄は阿比留文字で手紙のやりとりをしていました。母は阿比留文字を知りません。
 いま、この島で阿比留文字が判読できるのはわたしひとりになりました。』
                                      ( 2009.11.1掲載の引用 )

 対馬時代の、兄・克人と妹・利根は、阿比留文字で詩の競作をしていた。
 阿比留叙事詩、あるいは抒情詩。第6回では、利根が兄の詩を紹介している。

 プロローグ 利根 6
  『閏四月
   しだれ柳は老いぼれていて
   井戸のそこには くっきりと
   碧空のかけらが落ちていて

   いもうとよ
   ことしも郭公が鳴いていますね

   つつましいあなたは 答えないで
   夕顔のようにほほえみながら
   つるべにあふれる 碧空をくみあげる

   径は麦畑のなかを折れて
   庭さきに杏の花も咲いている
   あれはわれらの家
   まどろみながら 牛が雲を反芻している

   ほら 水甕にも いもうとよ
   碧空があふれている』
           ( 2009.11.6掲載 引用)

 プロローグ 利根 11
  『あの事件が起きたのは、いまからちょうど十五年前のことです。元号も正徳とあらたまっ
 たその年、立春の頃のうららかなある日、わたしがつるべで水を汲んでいると、ふらりと芳洲
 先生がお庭に入ってこられ、「利根、通信使が来るよ」 』
                                      (2009.11.12掲載 引用)
  西暦 1711年、宝永から正徳へ改元。
  利根の回想は、1726年 享保11年。

 プロローグ 利根 17
 『大変なんだなあ、と小百合さまとわたしは顔を見合すことしきり。
 翌日午前、阿須に使者が立って、兄と小百合さまは結納を交わしました。
 通信使一行が江戸で任務を果たされて帰国の途次、兄と小百合さまは対馬で祝言を
 挙げる。一行を無事本国まで送り届けたあと、兄はいったん対馬に帰任し、江戸藩邸か
 京都藩邸で貿易方佐役を約束されていましたから、そのどちらかで幸せな新婚生活を
 はじめる予定でした。でも、それはとうとうかなわぬ夢となったのでございます。』
                           (プロローグの最終 2009.11.18掲載 引用)

おい、おい、おい、続きはどうなるの・・・

でも、この小説の狂言まわし 利根は兄 克人の幼馴染み、馬廻り組の椎名と一緒になる
かな(なっているかな)、という予感・・・
                                         (2010.01.20 感想)

倭館 釜山の草梁(チョリャン)倭館 1678~  いまでいえば、対馬藩の在韓国領事館か。
こちらは実在の人物
徳川家宣 1662~1712(寛文2~正徳2) 在職 1709~1712(宝永6~正徳2)
新井白石 1657~1725(明暦3~享保10) 
木下順庵 1621~1698(元和7~元禄11)
雨森芳洲 1668~1755(寛文8~宝暦5)


ま、江戸検定(江戸検)の学習も兼ねて読んでいた、ということです。
上に載せた1年前の感想を、いま読みかえしてみると、そうとうに違った展開でしたね。