宮田 俊行氏の著書。
宮田氏は昭和32年鹿児島に生まれ、現在まで40年続く早大「マイルストーン」創刊初期メンバー。
南日本新聞に26年あまり勤め、枕崎支局長、奄美大島支社長、文化部デスクなど記者一筋。
社会部記者時代の昭和63年には、年間企画「火山と人間」取材班として日本新聞協会賞を
受賞。
本書を読んでみやうと思つたのは、裏表紙のカバーに書かれてゐた、
「従来、林 芙美子研究者は、芙美子は虐殺に気づかなかったか、あるいは知っていて
書かなかったと解釈し、一連の南京従軍記を重要視してこなかつた。つまり、南京大虐殺
が『あった』という前提での解釈である。
しかし、南京大虐殺はなかったから書かなかった、ないものを書くはずがない、と考えることは
できないのか」を読んだからである。
自身でも疑問に思ひ、この件に関する本をいくつか読んでみた。いずれも「ない」といふ
検証の本であつたが、当時現地に行つて新聞記者と同行し記事を発表してゐた人がゐたと
いふことそしてその人が書いたものがあるといふことを知らなかつたので、大変な興味が
沸いた。
読み始めて「植民地」「内地」「兵隊さん」といふ当時「当り前」であつた言葉が出て
くるので、戦後の日本悪を刷り込まれた身としてはやや抵抗を感じるがそこは作者の
宮田氏が丁寧に解説してくださつてゐるので、納得して次に読み進めることができる。
「林芙美子は、昭和5年(1930)から18年(1943)にかけて、北は樺太から、朝鮮、
満州、支那、台湾、仏印、南は蘭印まで驚くべき範囲を旅している。その範囲は、
いわゆる大東亜共栄圏とぴったり重なる」(P8)
林芙美子氏は新聞社を使ふのがうまく、朝日の記者と南京や支那へ行き戦地での体験を
書いてゐる。時には毎日新聞の記者とも連絡を取る。
南京に「女性で一番乗り」を果たし、そのやうすは朝日も記事にしてゐることを知つた。
なら、朝日は事実を知つてゐるだらうし、朝日の当時の記事を検証すれば現在の朝日や
支那が主張してゐる真偽のほどがわかるのではないか?と思つた。
林芙美子氏は南京を兵士と一緒に回るなか、町中のやうすだけでなく支那兵の処刑も書いてゐる。
日本兵士を誇りに思ひ感激するやうすの記述もある。当時は戦争中で敵を殺すのが当たり前だつた
ので、「残酷さ」の価値は現在と違い「美しい」と表現するも違和感のない時代である。
さういふ時代に、南京で大虐殺がありそれを聞いたらこの人は絶対にその現場に行く
だらうし、事細かに書くだろう。それが、全くない。
書いてゐないのは虐殺がなかつたからといふ宮田氏の主張に賛同する。
なによりも、当時の朝日の記事を見たくなつた。毎日の記事は当時「東京日日新聞」として
南京大虐殺の発端ともなつた、「千人切り」の捏造記事を掲載しているはづなので
検証する必要があるか疑問であるが、実際に虐殺があつたのなら、同時期にその場所にゐた
朝日が何も書いてゐないといふことは、ありへない。
林芙美子氏に関するほか、同時代の作家の話や朝日・毎日新聞が「お抱え作家」を戦地に派遣して
記事を掲載してゐたこと、同時代に発行さされて今にゐたる本等、知らないことが書いてあつて
よかつた。
林芙美子の没後、林氏の実名を用いて行動を捏造した劇を発表した井上ひさし氏の酷い事実が
書いてあつて、怒りに震えた。
戦後の朝日始めとした米国の「WGIP(東京裁判史観)」作戦に踊らされ続けてゐる
反日の主張はいい加減消えてもらひたい。
林芙美子の時代から「支那の捏造による反日工作」と「官僚の事なかれ主義」があつた事が
わかる。欧州他の外国で日本の評判が酷くなつてゐるのに官僚が知らん顔、「ジャーナリストを使つた
宣伝省でも作るべき」とあるが全く同感とともに大変情けない。