R.F.ジョンストン氏の著書で、映画「ラストエンペラー」の原作。ジョンストン氏は1874年スコットランドのエディンバラに生まれ、オックスフォード大学を卒業。1898年香港英国領事館に着任、1919年皇帝溥儀の家庭教師に就任、宮廷内で唯一の外国人としてその内側を見聞する。本書はその貴重な記録である。1930年英国に帰国後ロンドン大学教授に、1938年逝去された。
訳者、中山 理氏は上智大学大学院英米文学専攻博士後期課程修了。エディンバラ大学へ留学され、現在麗澤大学学長であられる。
監修者、渡部 昇一氏は上智大学名誉教授であり、専門の英語学、言語学の研究に留まらず文明・歴史批評の分野でも幅広く活躍されてゐる。
「監修者のことば」として渡部氏が本書を第一級資料と評されてゐるが同感である。本書は1910年から1931年までの中国の歴史書とも言ふべきもので、史実とともにジョンストンが見聞き体験する宮廷のやうすも詳細に書かれてゐる。
先に上巻の感想を投稿したときに書いたが、現在岩波文庫より出版されてゐる「紫禁城の黄昏」は原書の一部を削除したものであるが、本書は全訳である。
下巻には「訳者あとがき」(P473-458)として中山氏の見解が記述されてゐるが、こちらも興味深い。最初にこの「訳者あとがき」を読んでから本書を読み始めてもよいかと思はれる。
宮廷と宦官の腐敗に関しては上巻に記述されてゐるが、下巻ではこの腐敗を是正すべく溥儀が行動を起こさうとすること、それに対する妨害、陰謀、策略(含ジョンストンに対するもの)が詳細に書かれてゐる。
まるで、「脱官僚」と掲げると一斉に官僚の抵抗に遭ふやうすを時代と国を置き換へたやうだと思ひながら読んだ。宦官が自分たちの不正の証拠を消滅させやうとしてであらう、起きた「建福宮(けんぷくきゅう)」の火災には驚きと重要な文化財を消滅させたことに対し、驚き呆れた。しかも消火活動がイタリアの消防士であつたとは。(P220-224)
この事件の後、クーデターが起き(第23章 十一月五日、P299-334)溥儀は紫禁城を追い出される。ジョンストン氏は自身の体験だけでなく、当時の新聞数誌の記事も一緒に記述してをり、「虚偽」の報道や虚偽の内容を書いた外国の書物に対しては反論を書いてゐる。これは大変貴重な史料であらう。
クーデターで紫禁城から追い出された溥儀は父親のところ(「北府」)へ滞在するが、別のクーデターが起きさうだといふ不穏な状況によりジョンストン氏と溥儀の側近(鄭氏、陳氏)は溥儀を父親の邸宅よりももつと安全なところに移動させることにする。そして、公使館区域へと「ドライブ」と称して溥儀を連れ出すことに成功する。溥儀を公使館区域のドイツ病院へと運び、ジョンストンは溥儀の保護をまづ日本公使館へと頼みに行く。「さうしたのは、すべての外国公使の中で、日本の公使だけが皇帝を受け入れてくれるだけでなく、皇帝に実質的な保護を与えることもでき、それも喜んでやってくれそうな(私はそう望むのだが)人物だったからだ」(P371-378)
溥儀はドイツ病院から日本公使館守備隊隊長の館に移り、日本公使は今度は皇后を「北府」から連れ出すことに成功する。(P382-384)
溥儀が逃避したために、北京では大騒ぎになり新聞に様々な記事が出たがジョンストン氏はこれらも「不正確な記事ばかりだった」と書いてゐる。
ここで一つ面白い段落がある。「日本に対する執拗な告発への反論」(P398-400)である。ジョンストン氏は一つの誤つた記事を引用したあとに「日本公使は、私本人が知らせるまで、皇帝が公使館区域に到着することを何も知らなかったのである。また私本人が熱心に懇願したからこそ、公使は皇帝を日本公使館内で手厚く保護することに同意したのである。したがって、日本の「帝国主義」は「龍の飛翔」とは何の関係もなかったのである」(P400)としてゐる。
この後溥儀は1925年2月から1931年11月まで7年近く、日本租界内で生活する。その間、「日本人は皇帝を口説いて日本に行かせようとしている」とか「日本はシナに対する帝国主義的な計画の政治的道具として皇帝を利用するかもしれない」とか「皇帝には住居用の宮殿を与える約束までしている」等「反清同盟」即ち「反満州同盟」を自称する協会が嘘偽りを中国の新聞を通じて述べてゐたことが書いてある。(P403) ジョンストン氏はこれに対し「日本政府は皇帝が日本や日本の租借地である満洲の関東洲に皇帝がいては日本政府が『ひどく困惑する』ことになるという旨を、私を通して、間接的に皇帝に伝えたほどである」(P404)と述べてゐる。
日本の教科書は「嘘偽りを並べた中国の当時の新聞記事」を検証もせづにそのまま載せてゐるやうだ。
最初の教科書の記述を行なつた人(たち)は、何も調べずにこんなことをしたのだらうか? 公職追放令により、多くの人が政界、経済界、出版界から追放され「左翼」思想の持ち主らが取つて変はつた。その後、それに気付いたGHQはレツドパアジを行なふ、出版界やジャーナリズムの世界は左翼思想の持ち主がそのまま残つたと言はれてゐる。教科書作成をその左翼思想の持ち主らが行なつたなら、「当時の中国の新聞記事」をそのまま引用したのは十分頷ける。
しかし、これが「嘘」だつたのである。
本書は溥儀が満州へ帰るところまでで終はつてゐる。(P430-436)
1931年11月13日、ジョンストン氏は私的な電報で溥儀が天津を去り、満洲へ向かつたことを知る。「シナ人(訳のシナに関してはあとがきに説明があるので、最初に読んでおくとよい)は日本人が皇帝を誘拐し、その意思に反して連れ去ったようにみせかけようと躍起になっていた。その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じる者も大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である」(P432)
今の教科書の記述が訂正されてゐないのなら、直ちに訂正し今まで嘘を教へられてきた日本国民たちに謝罪することを要求ゐたします。
東京裁判と溥儀に関しては、「訳者あとがき」(P439-441)に記述がある。溥儀はすべては日本の軍閥の仕業であり、自分は全くの傀儡に過ぎなかつたという答弁に終始し、自分が陸相南大将に宛てた親書の中で満洲国皇帝として復位し、龍座に座することを希望すると書いていたという事実を突きつけられてもそれを偽造だと言って撥ね付けた。この答弁には弟の溥傑ですら憤慨し日本軍閥はわれわれを利用したかもしれないが、われわれも彼等を利用しようとしたことを、どうして証言しないのかと言ったという。
東京裁判で本書が証拠採用されてゐれば、判決は大きく変はつたといふ主張には成程、と思ふ。
くだらない教科書協定などをやつてる暇があつたら、かういふ史実をきちんと研究し真実を教科書に記載するやう、断固として要求ゐたします。そして、「誇らしげ」に「嘘を教へてゐるんだ」などと飲み会でホザく教員が居なくなるよう要求ゐたします。
ジョンストン氏は最後にかう記してゐる。「皇帝の性格を知る者は確信してゐるのだが、皇帝を待ち受ける繁栄や幸福をいま皇帝が統治するように召されている国民とともに、豊かに、そしてますます末広に分かち合うまで、皇帝は決して満足されないであらう」(P436)。 ジョンストン氏は1938年に逝去されてをり、東京裁判を知らづに逝つた。もし、ジョンストン氏が溥儀の偽りの証言を知つたなら、大層落胆されたことと思ふ。