菊地雅章 / Black Orpheus ( ECM UCCE-1160 )
発売日に買って以来、折に触れて聴いているが、感想を記すことをずっとためらってきた。 この人を信奉する人は多く、私のような特別な感情を
持たない者が気安く触れてはいけないような雰囲気を感じるからだ。 貶そうものなら、闇討ちにさえ遭いそうな気配すらある。 でも、色々と感じる
ことがある作品なので、どこまで上手く書き切れるかわからないけれど、できるだけ率直に書いてみようと思う。
ピアニストであれば、いつかはこういう作品を残したいと誰もが切望するだろう。 ジャンルやカテゴリーを超えた、ピアニズムの純度100%の音楽。
ただ、そういう演奏を作品としてリリースすることが許される人は限られている。 自己満足に終わらず聴衆を飽きさせない演奏ができる人がそもそも
そんなに多くはいないし、仮にそれができたとしても、作品として世に問うためにはそれに相応しい風格のようのなものが求められるような気がする。
それまでに積み上げてきたキャリアの重みだけが放ちうるオーラのようなものだ。 そういうものがなければ、なぜか説得力に欠けるところがある。
そういう意味では、菊地雅章がこの作品をリリースするのは当然のことだと思える。 それに、もともと優れたソロ作品を残してきた人だ。
ECMらしい怖ろしく透明感の高い、ひんやりと冷たい空気が漂う最高の録音の中、抜群の抑制と感情の発露がきちんとバランスした素晴らしい演奏だ。
厳選された音数だけで最後まで語り切ってしまう感じで、ここまで静かに事が運ぶ音楽は珍しい。 同じようなタイプの演奏でも、欧米人だと途中で
必要とは思えないような高揚感を盛り込んだりしてこちらをシラケさせるものだが、そういう箇所は一切出て来ない。 日本人がこういう音楽に求める
静的要素を全て完璧に満たしてくれる。 難解な個所もなく、典雅なメロディーがうまく配置され、聴き手を置いてきぼりには決してしない。
ピアノの音の美しさだけでも聴かせるし、旋律の良さだけでも聴かせるし、録音の凄さだけでも聴かせる。 でも、当然それらは部分的な聴き方を
するためにあるのではなく、すべてが1つの大きな音楽の構成要素でしかない。 いろんな美点に都度気付かされながらも、音楽そのものに魅せられて、
その中へと入って行き、様々なものを見て、それは音楽が鳴り止むまで続く。
ただ、でもな、と思う。 程度の違いこそあれ、これはこれまでに色んな人が色んな時に色んなところで繰り返し行ってきた音楽だよな、と思う。
一つの典型であり、一つの類型であり、一つの既成である。 すべてがどこかで見た光景なのだ。 それは限界という名の壁で四方を塞がれている。
そのことが私を哀しくさせる。 創造よりは独白を旨としていることはわかってはいるけれど、それはどこまでも美しく、どこまでもありふれていて、
だから聴けば聴くほど哀しくなるのだ。
大半の行為、音楽を奏でる、音楽を聴く、いや生きるということ、はそうじゃないかなあ。
菊地さんの場合、そのことに対する恥じらい、や潔癖さ、が一般的な成功から遠かったような、印象があります。その哀しみを聴き手も共有している部分があるような。彼のピアノからモンクを、曲からマイルスを感じるようなち地点から、ようやくここまで、のような。恥じらいなく続ける多くの奏者(コリアなんか)と比べた時の魅力じゃないかな。苦闘の記録だと思うのです。たとえ創造性が足りなくても。
(決して、信奉者じゃないのですが。記事を拝読し、頷きながらも、自分の中の心象が何なのか、1日ほど考えていました)
やっぱり言葉が足りませんでしたね。 私もおっしゃる通りだと思ってます。だから、ずっと躊躇していたんですね。
シャイな人柄が十分過ぎるほど伝わってくる人です。どれだけの苦悩があったかは想像に難くないです。
でも、それを言ってしまったら終わり、というか、そこに拠り所を求めるようになってしまうのはちょっと、というか。
芸術家というのは私の永遠の憧れなので、そういうものを超えた存在であって欲しい、という身勝手な理想像を描いてしまうんだろうと思います。
弱さを理解し、共感するだけでは満足できない、傲慢な聴き手なんだなあ、と改めて不徳を自覚しました。