廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

アル・ヘイグの一番長い日

2016年01月17日 | Jazz LP

Al Haig Trio  ( 米 Esoteric Records ESJ - 7 )


1954年3月13日はアル・ヘイグにとって長い一日になりました。 その日はフランスからやって来たアンリ・ルノーのために、ニューヨークのエソテリック社で
レコーディングすることになっていました。 

アンリ・ルノーは当時ピアニストと仏ヴォーグ社の音楽監督の2足のわらじを履いており、この日はオスカー・ペティフォードやアル・コーンらのレコーディング
にピアノニトとして参加することと、当時は珍しかった白人ビ・バップ・ピアニストのアル・ヘイグの演奏をフランスに輸入するという2つの重要な仕事を
こなさなければいけなかった。 そのためアル・ヘイグのレコーディングがまず先に行われ、この録音はたった1時間で終了した。
そして、このレコードがその後フランスで発売されます。



Al Haig Trio  ( 仏 Swing M 33.325 )


エソテリック社のオーナー兼レコーディングエンジニアだったジェリー・ニューマンはアル・ヘイグら3人にスタジオに残ってもう少し録音していかないかと
持ち掛け、彼らはその場で更に13曲を演奏・レコーディングした。 そしてその中からまず8曲が上記の10インチ盤として発売され、その後レーベル名が
"CounterPoint" に改名された後に残りの曲を追加して12インチとして発売されました。

こうしてこの2枚の10インチ盤は同じ日に行われたマラソン・セッションから双子の兄弟として生まれて、まるでルーク・スカイウォーカーとレイア姫の
ごとくそれぞれが別の国に引き取られて世に出ました。 ここで聴かれる演奏はテディー・ウィルソンをお手本にしたスタイルをベースにしながらも、
バド・パウエルやジョン・ルイスら40年代後半のビ・バップのピアニストのエッセンスを上手く吸収した独特の質感があり、独自のオリジナリティーを
感じます。 稀少盤であるせいで必要以上に神格化されがちですが、実際はとてもソフトで上品な演奏です。 ただ注意深く聴くとビ・バップの語法が
いろんな所に散りばめられていて、聴き終えた後には苦い後味が残るところがあり、そこにテディー・ウィルソンのようなレイドバックした音楽とは
根本的に違う特異さがあります。

エソテリック社のジェリー・ニューマンは大学のマーチング・バンドでトロンボーンを吹いていた音楽好きで、それが高じてテープレコーダーを持ち歩く
録音マニアになり、40年代にミントンズ・プレイハウスなどに入り浸るようになります。 おそらくそこでパーカーのバンドにいたアル・ヘイグのことを
知ったんだろうと思います。 エソテリック・レーベルにはチャーリー・クリスチャンのレコードなど貴重な音源が残っていますが、ジャズだけではなく
クラシックのレコードも多く、アンテナの感度が高いレーベルでした。 この人はその後、ピリオド・レーベルでサド・ジョーンズの "Mad Thad"を録り、
更にESPでオーネットのタウンホールやファラオ・サンダースのデビュー作の録音エンジニアを務めるなど立派な仕事を残すことになりますが、
そういう彼のアンテナにアル・ヘイグは見事に引っかかったわけです。

アル・ヘイグは1944年に第2次大戦の兵役を終えてプロとして本格的に活動を始めますが、40年代はおろか50年代もレコードがあまり残っていないのは
残念です。 白人だったからということもあるでしょうが、性格的にもいろいろ問題があったようで、4度の結婚生活の中でたびたび家庭内暴力沙汰を
起こしており、ついに1968年には3番目の妻を絞殺した容疑で逮捕・投獄されます。 結局無罪判決が出て翌年に出所しますが、晩年に3番目の妻が
死んだのは自分のせいだと発言しており、それが具体的にどういう意味なのかはわからないにせよ、元々その内面には地獄を抱えていたようです。 
そういうところが自身の音楽活動に反映されないわけがなく、一番いい時期にレコードが残されなかった原因の1つだったんだろうし、出所後はまるで
何かに憑りつかれたように録音を始めるものの、音楽の雰囲気が一変してしまうところはアート・ペッパーやチェット・ベイカーと重なるところがあります。

この2枚の10インチ盤も一見典雅な演奏ですが、後になって思い返してみると、なぜかその演奏は仮面を被っていたような違和感が残ってしまう所があり、
それはそういう内面の何かが裏に控えていたせいだったからかもしれません。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする