いのちについて考える時は、身内のことだったり、好きな人が亡くなった時ぐらいだった。
いのちをどう思っているのかと尋ねられるのが一番辛い。
限りあるいのちではあるのですが、あまりに無頓着すぎるのかもしれません。死にたい死にたいと言っている人間にいのちの尊さなんて語る資格はありません。
無責任な人間でしかありませんが、他人のいのちについては慎重な発言にならざるを得ません。
自分のことはどうでもいいのです、生きるべき人がなくなるということは耐えきれないものがあるのです。生き残ってしまっている罪悪感が頭を掠めていくのです。何故生きているのだろうかと。
畏縮したいのちでは遠くへは飛べませんが、飛ぼうと必死には足掻いてはいるのです。
たくさんの言葉を使っても、ただの言い訳にしかならない。
生きてて欲しいと思われているのかもしれませんが、それは言葉にするものではないのかもしれません。死ぬということが一番卑怯なことだと言われたこともありますが、死ぬということしか頭に浮かばないほど、いのちの灯火は揺らいでいるのです。
吹き消せば簡単に吹き消すことができるのです。揺らいでいるところがいのちの本質でもあるのでしょうが、いのちを粗末にしてしまいそうで恐いです。
いのちをどう思っているのかと尋ねられるのが一番辛い。
限りあるいのちではあるのですが、あまりに無頓着すぎるのかもしれません。死にたい死にたいと言っている人間にいのちの尊さなんて語る資格はありません。
無責任な人間でしかありませんが、他人のいのちについては慎重な発言にならざるを得ません。
自分のことはどうでもいいのです、生きるべき人がなくなるということは耐えきれないものがあるのです。生き残ってしまっている罪悪感が頭を掠めていくのです。何故生きているのだろうかと。
畏縮したいのちでは遠くへは飛べませんが、飛ぼうと必死には足掻いてはいるのです。
たくさんの言葉を使っても、ただの言い訳にしかならない。
生きてて欲しいと思われているのかもしれませんが、それは言葉にするものではないのかもしれません。死ぬということが一番卑怯なことだと言われたこともありますが、死ぬということしか頭に浮かばないほど、いのちの灯火は揺らいでいるのです。
吹き消せば簡単に吹き消すことができるのです。揺らいでいるところがいのちの本質でもあるのでしょうが、いのちを粗末にしてしまいそうで恐いです。
お邪魔でしたらごめんなさい・・・・・。
もう10月下旬になり、日毎に秋が深まり、北海道では雪虫が
飛んでいますので、初雪も近い季節になりました。
晩秋から初冬の季節は人生の哀愁とか「孤独」を感じさせる
季節ですね・・。
ところで、
人はどこから来て
何のために生きて
どこへ向かっているのでしょうか・・・?。
この世界の終末はどうなるのでしょうか・・・?
神の存在、愛とは何か、人生の意味は何か、いのちと死の
問題などについて、ブログで分かりやすく聖書の福音を書き
綴っています。ひまなときにご訪問下さい。
お待ちしています。
人は何のために生きているのでしょうか?
●「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを
愛している。」(聖書:イザヤ書43:4)。
●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところ
に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイの福音書11:28)。
●「彼(キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を
消すこともない。」(マタイの福音書12:20)。