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セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

内田樹氏の橋下大阪市長批判について

2012-08-09 15:26:50 | 社会経済

大阪市の橋下市長について色々な文化人・知識人が批判している。総じてポピュリズムとの批判が多い。しかし世の中の多くの人が明らかに不当だと思うのだが、利害関係人のしっぺ返しを恐れて政治が手を付けてこなかったことにある政治家が手を付けようとすると利害関係人とその代弁者から「ポピュリズム」のレッテル貼りが行われるのは当然と言えば当然である。

彼等は内容ではなくレッテル貼りでしか防御できないからだ。だから政治学者にしろ精神科医にしろテレビでの橋下氏との討論では一方的に敗退しているらしい。僕はそのテレビ番組を見ていないが巷(ネット上)の評判ではそうだ。反橋下陣営からも逆の評価は聞こえてこないので、一方的な橋下氏の勝利だったのだろう。だから空虚な「ポピュリズム」という批判(?)を見ても何ら知的好奇心は湧かない。

だがフランス思想家の内田樹氏がブログ 「内田樹の研究室」で2012年7月26日「同一労働最低賃金の法則について」http://blog.tatsuru.com/2017/07/26_1559.php 及び7月27日「ビジネスマインデッドな行政官について」http://blog.tatsuru.com/2010/07/27_1617.php で理屈らしきものを書いて橋下批判をしているのでそれを検討するのは、彼らを橋下批判に突き動かす影の車を明らかにするのに役立つので取り上げようと思った次第である。

内田氏の主張の二本柱は「同一労働最低賃金の法則」と「行政官」論である。二つとも他で見られないユニークな主張である。最初に大阪市営バスの運転手の年収問題に触れておかなければならない。これは内田氏では「同一労働最低賃金の法則」と結びつけられているが、大阪市民が問題にしている主要な論点が内田氏では全く無視され、屁理屈ともいえる「同一労働最低賃金の法則」で話しの論点がまったく明後日の方へ飛ばされているからである。

7月27日で内田氏は

《昨日も書いたように、大阪の有権者は、市営バスの運転手の年収が阪神・阪急の運転手よりも高いことを『貰いすぎ』とみなし、その『貰いすぎ』分を剥ぎ取るべきだという判断を下した。

この判断は一見すると合理的である。

だが、いったんこのロジックに同意した人は・・》

と書いている。「一見すると合理的」なら本当は合理的でない根拠を示さなければならないのだが内田氏のもちだした根拠は内田氏が発見した「同一労働最低賃金の法則」である。内田氏の「同一労働最低賃金の法則」は「党の否定面を荒立ててはいけない。なぜなら敵を利するから」のような主張と同じ功利主義的理由で真の問題点ではない。大阪市民の判断の根拠はたまたま市営バスの運転手の年収が高いということではない。赤字の市営バスが一番高いというのともチョットちがう。市営バスはもともと民間では利益がでなくて運行できないが地域住民に必要だから利益を目的としないで市が運営しているからである。だから赤字は運転手の年収に関係ない。

しかしである。市営バスだから経営体の赤字はあたりまえだから経営状態の制約はないので給料を多く上乗せして赤字が増えたとしても税金で補填するから構わないとなったらどうであろう。民間企業との200万円以上という隔絶とも言うべき年収差があるのはこういう構造だからである。市民が一番問題としているこうした構造を故意か無意識に等閑視して「労働者たちが、同じ労働者の労働条件の引き下げに『ざまあみろ』という喝采を送るというのは、日本労働運動史上でおそらくはじめてのことである」(7月26日)と言う内田氏は健全な感覚で現実を見れなくなっているのだと思う。

この問題はバラバラの各社の給与体系でたまたま大阪市営バスが一番高かったから「同一労働最低賃金の法則」で一番下に合わせるという話ではない。むしろ「同一労働でも身分により賃金が違う」と言うべき問題だ。むかし旧満州国の南満洲鉄道などの企業では同じ勤務地で同じ仕事でも日本人と中国人では賃金が違っていた。それと同じことだ。

もしかしたら市営バスの賃金が高いのは労働組合の闘いの結果で誇るべきことで恥じるべきことではないと内田氏は言うかもしれない。でも事実は旧市長たちとの共謀の結果であり正常な労使関係によるものではない。闘いというなら確かに本来の雇用主である市民には謀略という闘いを仕掛けているが、市民の代理の支配人であるはずの旧市長とは共謀して本来の雇用主の財産を横領しているのだ。投票率の低い市長選挙では労働組合のまとまった票数が当落の決め手となる。また組合は市政運営に協力出来ないと恫喝もできる。だから常識からかけ離れた高い給与は市民の目から隠れた裏取引の結果である。橋下市長が職員組合の政治活動を規制しようとするのは正当な根拠があるわけである。こうした特異な位置にある市営バスの運転手と民間バス運転手では身分が違うような扱いをされているといわざるをえない。だいたい「悔しかったら民間も組合闘争しなさい」という市職員は皆無だが、「悔しかったら採用試験に受けて合格してみろ」とうそぶく者はイッパイいる。もちろん、ある種の居づらさを感じている良心的な職員もいるがそうした人はけっして内田氏の論理には賛成しないだろう。

つぎに「行政官」論に移ろう。

ウイットゲンシュタインという哲学者は、哲学問題はすべて言葉の意味の不正確な使用から発生するといったそうだ。だとすれば内田氏は充分に哲学者の資格がある。僕は最初に内田氏の文章を読んで意味がよくわからなかった。それは使用されている言葉の意味が僕や一般とは違うだけでなく内田氏の文章の前後でもすり替わっているからだ。ここでは7月27日の「ビジネスマインデッドな行政官について」を解剖していこう。解剖しなければ読む人を混乱させずに説明することはむつかしい。

この文章は橋下大阪市長が文楽協会への補助金打ち切りの意向を示したことについてだ。そのことについて文楽が「儲からない芸能」であることが議論になっているらしい。橋下市長が「儲からない」ことを直接理由に挙げたかどうかは僕は知らないが、巷ではそれが議論になっているとのことだ。僕の個人的見解では補助金が時代と観客に受け入れられる努力や改良工夫を阻害してその芸能を衰退させることは多いにありうる。戦後関西落語家が二十数人の時に行政が補助金をだしたらいまでも関西落語は絶滅危惧種だった気がする。

さて順次解剖しよう。

《市長が文楽協会の個人的なオーナーであり、彼が経費を支出している立場であるならば、「採算不芳部門は切る」と発言をすることは経営判断として合理的である。

だが、彼は文楽協会の経営者ではない。

地方自治体の首長である。》

ここでは「オーナー」という言葉と「経営者」と言う言葉がでてくる。内田氏は文楽協会は橋下市長の自由にできる橋下市長の個人的私有物ではないことを強調するために「オーナー」を使ったが、その概念では都合が悪くなるので直ぐ下の文で「経営者」とすりかえる。オーナーで経費を支出している立場なら、経営判断にかかわらず切るか切らないかはカラスの勝手だ。下位球団のオーナーや愛人にクラブを経営させているオーナーを見ればいい。オーナーとはそういうもの。しかし初めから「経営者」のみを使うと内田氏の論議を有利に誘導しようとする効果が薄くなるわけだ。「オーナー」のみでは支離滅裂だけど。

しかし最も問題は、橋下大阪市長は文楽協会の経営者ではないことは当たり前だが、文楽協会も市役所の行政組織ではないことだ。だから補助金は市役所としては外部への一方的支出だから初めから「採算不芳部門」という言葉がでてくる余地がない。文楽協会が「儲からない芸能」であることは自治体の予算執行上はまったく関係ない。逆に儲かるものなら補助金はもともと不要だろう。内田氏は意図的に論理の混乱をねらっているのか、もともと内田氏自身が混乱をしているのか。ワカラン!

《行政官はビジネスマンではない。

「もう少しビジネスマインドが望ましい」

という要求はありうるが、そういう言葉はふつう「ビジネスマンではない人間」にしか使われない。

行政は税金で運営されている。

まず納税者からお金を頂いて、それを分配するのが仕事である。

行政官に対しては、「税金を無駄づかいしている」という批判はありうるが「稼ぎが悪い」という批判はありえない。

誰もそんなことを言わない。企業の場合は、そういう仕事をするセクションを「管理部門」と言う。

それ自体は何の収益も上げないし、もともと「管理部門以外の人々」が働きやすい環境を整備し、その創造的な活動を支援するのが本務である。」

   [省略]

しかたがないので、管理部門を独立させて、集団成員がまじめに働くように管理する。

彼らは価値のあるものを創り出すプロセスを支援するのが仕事だが、自分たちでは何も価値あるものを作り出さない。

行政というのはそのような管理部門である。》

すごく驚愕しかつ違和感を感じる行政論である。行政は税金を分配するのが仕事でそれ以外の者つまり行政以外の者が真面目に働いて価値あるものを創り出すようにする管理部門だそうだ。なんか旧ソ連か北朝鮮の地方自治体の話を聞いているみたいだ。だからお金をつべこべ言わずに文楽協会に渡し気持ちよく使ってもらえということだろう。

言うまでもなく大阪市は基礎自治体でその仕事の大部分は住民に用役を提供することだ。内田氏は文章のこの部分では「価値あるもの」=「お金を稼ぐもの」の意味で使っている。「この部分では」というのは内田氏が都合で言葉の意味を突然変えるから確認のためだ。たしかに基礎自治体の市町村はお金を稼がないけど、今のはやり言葉でいえば「安心安全」とか「幸福度の向上」に役立つ「価値あるもの」を創りだしておりそれが主な仕事だ。だから内田氏の話は日本のことでないみたいだ。内田氏自身がこの日も前日も大阪市営バスについて話している。たしかに市営バスは赤字でお金を稼いでいないが価値あるものを創っていないだろうか。都道府県では管理面が強くなるかもしれないが、それでも福祉事務所・児童相談所・保健所・福祉施設などを運営しているし道路や河川も自ら営繕管理しているからやはり内田氏はおかしい。

でもこの内田氏のこの考え方は、内田氏の周りにいる役人や公務員志望の学生の影響のせいで前後の文脈を離れて突然浮かんでくるのかもしれない。ある本に「公務員志望の学生が総務部門に行きたがる者が多い。これは商社に入ったのに営業部門に行きたがらないようなもので異様なことだ」と書いてあった。同感である。2チャンネルの名古屋市職員専用スレッドには「人事課に異動するにはどうしたらよいか」という書き込みが時たま出てくる。しかし「◯◯の仕事がしたいが仕事内容を教えて」という書き込みにはついぞお目にかかったことがない。これは人事課の仕事が面白いからではなく(面白いと思う人もいるかもしれないけど)出世コースだから。そうした人たちにとっては市役所とは仕事の集合ではなく出世のヒエラルキーにしか見えない。そうした人たちは管理部門を好む。なぜなら問題解決の才覚がなくても務まり失敗することも少ないからだ。だからそうした公務員は管理ということが行政すべてだと思うようになる。スターリンか!内田氏がそうした人たちとしか話していないとそう思うかも。

たぶんそうした管理志向の大阪市役所の幹部職員が一番橋下市長に恐怖を抱いているのではないか。職員の管理懐柔の手っ取り早い手段であるお金が制約されるからだ。それは橋下市長が「ビジネスマインデッドな管理者」だからではない。橋下市長はビジネスマインデッドでも管理志向の人間とは思えない。市役所の「お金を稼ぐ」とはちがう価値あるものの創造力を最大限出すためにはその前提として不当不正な支出や公私混同は必ず正さなければならないことは自明だからだ。

だからコストカットであたかも稼いでいるように仮象する非生産部門の管理者という企業論もどきは橋下市長にあてはまらない。第一に行政(市町村)が「なにも価値あるものを作らない管理部門」と言うのは大間違い。第二に市民が評価するのは結局行政サービスの質と量。しかし市財政へのつまみ食いやダラダラ支出が横行していては行政サービスの向上は期待できない。大阪市にそうしたことが横行していた事は橋下氏の登場以前から全国民が知っている。明白なこの道理は市民も知っているから橋下市長を応援するのであって、けっして内田氏のいうようなやっかみからではない。内田氏の思考方法は「公務員批判はやっかみからだ。悔しかったら試験に受かって公務員になってみろ」という人と同じで不愉快だ。

《地方自治をまるごと民営化したいというのは、リバタリアンの「口にだされない夢」だからである。

公共サービスというものを全部止めてしまう。

全部民営化する。

その代わり、もう税金も払わなくていい。

実際にそうすることの方が資産家たちにとって、はるかに合理的である。

自分の土地を要塞化して、そこに私兵を配備して部外者の侵入を防ぎ、召使や執事を侍らせて、「主人」として君臨できる人たちにとっては、「公共サービスが全部民営化された社会」は一種のバラダイスである。なにしろ、民営化された警察や消防や医療を「私企業」として自己所有すれば、自力で犯罪に立ち向かえない市民や、自力では火を消せない市民や、自力では病気を治せない市民たちから個別サービスごとに恣意的に課金して、ほとんど無尽蔵の利益を上げることができるからである。

それがリバタリアンの「口に出せない夢」である(まれに“重慶王”簿煕来のように実行しようとする人間もいるが)。》

「口にだせない・」なんて思わせぶりな書き方しているね。何の効果を狙っているのかな?僕はリバタリアンだけど口に出していうよ。たしかに地方自治の全部の民営化は夢だね。それに住民自身による運営もだけと。要するに住民に対する抑圧的権力的要素を最小にしたいね。いまの科学技術水準等では夢は夢。でもいつかは可能かも。

しかし内田氏の文書はレトリックのみで中味が貧困だな。「お米の配給が廃止された今は農民のパラダイスだ。自分でお米を作れない市民から恣意的に課金してほとんど無尽蔵の収益を上げることができる」と同じようなことを書いている。この文がおかしいように内田氏の文章もおかしい。

リバタリアンは税金特に所得税に否定的だからこの面で資産家の同盟軍とみなされやすい。しかしリバタリアンの本質は消費者の利益擁護者だもの。ある種の資産家と対決する側面は多い。僕はリバタリアンだけど資産家ではないし資産家になりたいと思ったことは一度もない。だいたい資産家にはリバタリアンはほとんどいない。アメリカでも日本でも新興国でも資産家は政治権力や国家と癒着しているものリバタリアンになりようがない。まれにアントレプレナーが成功して大きな資産をもつが、晩年は自分の信条にあう社会事業に資産の大半を寄付して隠棲するのが標準コースだ。

あれ内田氏は「自分たちでは何も価値あるものを創り出さない。行政とはそのような管理部門である」と大見得えきっているのに、ここでは(リバタリアンは)「公共サービスというものを全部止めてしまう」といっている。そうするとどう考えたらいいのかな。

内田氏の話をまともに受け取って、そして市営バスの存在は忘れて、できるだけ合理的かつ好意的に解釈すると、内田氏は(そんな自治体は存在しないけど)行政とは役場事務を含むすべての事業を民間業者に委託していていると思っていて、お金の配分と委託者としての管理が役所のすべてで、民営化とは行政がそうした事業から完全に手をひいて市場にまかせることかな。空想の話だね。でも、そうなるなら市民は以前の税金プラス手数(利用)料金よりも安い出費でより親切できめ細かいサービスを受けられる。競争は生産性を向上させるからね。携帯電話料金やレンタルビデオ料金をみれば実感するだろ。ああ、内田氏の言葉の統合失調状態にまともにつき合っちゃった。でも統合失調というより後先をみずその場その場で適当なことを言っているだけかもしれないけど。

「民営化された警察や消防や医療を『私企業』として自己所有すれば」の「自己所有」とはどういう意味かな。「私企業」」と「所有」はほぼ同義だから「『私企業』として『私有』すれば」ではただのナンセンス文だ。だから単に「所有」でなくて「自己」がつくのは、一人の人間または家族があらゆる産業を所有するニュアンスが読みとれる。“重慶王“なんて単語もそのニュアンスの文脈上に整合する。競争も新規参入もない世界がリバタリアンの夢でないのは当たり前すぎる公理だから、それならこれは何なのだ?すべての資本がたった一人または一家族に集中するということは、それは特異点というべきもので階級としての資本家階級は消滅していることになる。あとの国民はすべてプロレタリアート。この内田氏の黙示録はリバタリアン世界ではないのは当然だが、では何を示している。ヨハネの黙示録より難解だと思ったら内田氏自身が自分では口に出せない答えをある人物の名を出すことで書いていた。

それは“重慶王“薄煕来だ。内田氏は「簿」とかいているが「薄」が正しい。薄煕来は内田氏が作為的に文脈上リバタリアンと思わせるように書いているがその反対の共産党の幹部だ。それもいま中国によくいる共産党員を装った資本主義者ではなくて、革命歌を歌うことを奨励(唱紅)する頑固な根っからの共産主義だ。父親も共産党幹部で趙紫陽や胡耀邦を批判して失脚させた保守派の薄一波だ。だから彼は共産主義国になると普遍的に作られる身分制度でいうと紅一類だ。この身分は親や親類の階級や革命貢献度できまり進学や就職の制限になる。北朝鮮では成分といったかな。ソ連で聞かないのは富農が階級的だけでなく肉体的に抹消されたから。

重慶市の最高権力者である薄煕来は、日本共産党も推奨する共産党主義の王道をとった。つまり金がなかったら金持ちと大企業から取ればいいということだ。薄煕来は次々と企業家を犯罪により逮捕してその財産を奪って行った。それじゃあ仕方ないかといわないで。問題はそれらの大部分は無実だったのだ。これは共産主義の標準的手法だよ。

まさに内田氏の黙示録は共産主義社会を現しているのだ。そういえば1ファミリーが経済を支配してそのうえ税金がないなんて北朝鮮みたいだ。これはリバタリアンの夢ではなくて、内田氏の「口に出せない夢」なのだ。


読書ノート:堀川直人『略奪される日本経済』PHP

2012-07-09 16:13:23 | 社会経済

この本を取り上げるのは看過できない誤謬と暴論だからだ。もちろん誤謬と暴論の本は世に溢れているからいちいち取り上げる必要はないのだが、著者の堀川氏が自作の新語まで捏造して木に竹を継ぐような珍理論を誇らしげに掲げている。すこしでも事実を知っている者からみれば堀川氏は真逆のことを言っているのは明らかだ。

堀川氏の本のタイトルは『略奪される日本経済』だ。このタイトルはジェームス・スキナー氏のベストセラー『略奪大国』を意識して小判鮫商法を狙ったと思われる。しかし内容は全く反対だ。スキナー氏は「利子の原資は生産だが政府はなんら生産をしない。従って国債はネズミ講に金を貸すようなもの」という主張。略奪の主語は日本政府で略奪されるのは日本国民だ。しかし堀川氏の略奪の主語は「冷たい『石の心臓』を持つユダヤ人を中心とするウオール街の金融マン」ということになる。しかし来るべき財政破綻にさいして日本国債の空売りでウオール街の金融マンが儲けるその金額が大きいとしても日本国民が失う全体からすればほんの一部だ。また空売りが直接のキッカケになりうるが、財政破綻の真因は別なので空売りがなくても遅かれ早かれやってくる。空売りをしかける金融マンは便乗者にすぎない。だからウオール街とユダヤ資本がすべて陰謀のシナリオを書いている主要原因のような堀川氏の本のタイトルと帯の「ユーロ危機で儲けたのは誰か?日本人の金融資産1500兆円も狙われている!」はミスリードを誘うものだ。堀川氏の本文はややニュアンスが違うので、タイトルも帯も編集者の商業的意向が入っているのだろう。

本論に入る前にちょっと言っておきたいことがある。それは堀川氏がウオール街のユダヤ人を中心とする金融マンを「冷たい『医師の心臓』を持つ紳士たち」との書き出しではじまっている。ここから始まる論理は後で検証するが、ある種の人々を「冷たい」と決めつけて反射的に自分が暖かいとイメージを醸成しようとする手法はよく見られるが、僕からみれば、言っている本人こそが不誠実で本当の目的を隠していると思えてくる。昔(今もかな)共産党が首長選挙に候補者を立てると必ず対立候補(多くは現職)を「社会的弱者に冷たい人間」と非難していた。僕は「共産主義者以外はみんな冷たいということはあるまい。もっと政策や予算を精査した論争が必要ではないか」と思ったものだ。リフレ派の人の本にも同じ特徴かある。リフレ政策に反対するのは貧しい人々に冷たいからだという。どっかで聞いたような高飛車な論調だと思ったら40年ほど前に共産党が「諸悪の根元である日米安保条約に反対しないのは貧しい人々に冷たいからだ」と言っていたのを思い出す。

困っている人を助けるためと看板で自己の利益を最優先に確保するのは役人の常套手段だ。昔区役所で市民税の事務をやった時非常に怪訝に思ったことがある。思えばそれが我がリバタリアン意識の始まりであった。それは所得税及び市県民税の寡婦控除についてだ。今インターネットで寡婦控除を見ても当時と同じ内容だったかは思い出せない。ただ今でも同じだが一番困っているシングルマザーが除外されている。税法で予定されているストライクの対象は公務員や大会社の社員の旦那さんを亡くした人だ。自分の家族もいつそうなるかと思えば役人も可哀想で身につまされるだろう。しかしシングルマザーなど元々困っている人は免疫があるからいいだろうと言うのだろうか。しかも公務員の場合は寡婦自身も公務員と言う場合を除いても、非課税の遺族年金があるうえに、たいていは就業先を紹介してもらえる。公務員の寡婦控除はいけないとは言わないが、最も困っている人をほっておいて寡婦に優しい施作をしているというのは欺瞞だ。官僚組織と言うものは本当に社会に必要なことに目を向けなく自己の利益を増やす名目だけを求めている、と思った次第である。そして彼らは公務員だけの優遇について問われると「決められたものを受け取っているから不正ではない」というのみ。もっと違った角度からの発言はないのだろうか。

ついでだけど、今もどうか知らないけど公立保育園の入所基準もおかしいと憤慨した。周何時間かの就業実績がないと入所できないだって。これじゃあ生活が苦しくて子供をあずけて働きたいと思っても実績がないとダメということになり生活保護しかなくなる。すると公立保育園にすんなり入れるのは母親が公務員の子供となる。本来的には公務員の子供は公立保育園に行くべきではないと思うが、こんなことを言うと出産した公務員は退職せよと言うのかと総スカンを食らうな。でも公立保育園は就業条件の厳しい市民が優先されるべきものだ。公務員と大企業の社員は自分たちで保育組合を作ればよい。そのために国や自治体は法的整備をして保育園設置基準の緩和と施設提供の便宜をはかる。一定の講習で休職中の公務員(会社員)も保育士作業を行えるようにする。トラブル防止対策と起きた時の対応はそれぞれの保育組合が規約で定めておく。そんなのはできっこないと役人は必ずいうな。でもやり切る気がないとできないのは当たり前。役人は出来ない理由をあげるのは得意だからね。肝腎なのは問題を認識して必ず自分の手で解決するという決意だ。ついでに保育園の待機児童のことだけど、ふと思ったのだが、市内の大規模商業施設に施設内に保育所の設置を義務づけて定員の半数にパートを含む従業員の子供、半数を近隣居住者か近隣就業者の子供にするようにしたら良い。スーパーの雇用対策にも顧客対策にもなる。いろいろ書いたけど僕は児童関係の仕事をしたことがないから、まったくピント外れのことを言っている可能性がある。だから不明な点はご容赦願いたい。でも「出来っこないという」批判には「フーンそうなの」と言うしかない。

さてさて本論に入ろう。この『略奪される日本経済』の不思議な所は、各所に事実関係の正しい認識がありながら、主張部分がそれとは無関係以上に反する結論になっていることだ。この統合失調状態には堀川氏のどんな事実も寄せ付けない強力な思い込みがある。

堀川氏によるとウオール街の金融マンは「冷たい心臓」の弱肉強食の信条を持つリバタリアンばかりで世界の「負債の経済学」により定期的にくる経済危機を虎視眈々と狙っている。アメリカ経済は30年前にレーガン大統領が採用した「リバタリアニズム経済」によって経済格差がおおきくなった。日本も「リバタリアン経済」よって格差が拡大した。日本経済の犯した3つの過ちは「国家ぐるみの『負債の経済学』」「ケインズ経済学の失効後のケインズ政策の続行」「リバタリアニズム経済の失敗」とのことだ。日本経済を救う方法はインフレ化政策と政府紙幣の発行である、とのことだ。

書いていてイライラするな。他の文献で全く見られない「リバタリアニズム経済」という言葉を堀川氏は捏造したけど、通常使われる「新自由主義経済政策」とか「市場万能主義」というなら一応文章として読めるけど、「リバタリアニズム経済」では支離滅裂。だってリバタリアニズムと「国家ぐるみの『負債の経済学』」とか「ケインズ経済政策」は同時に存在し得ないもの。リバタリアンは「国家ぐるみの『負債の経済学』」の意味する金融政策にも「ケインズ経済政策」の意味する財政政策にも絶対反対だもの。堀川氏はリバタリアニズムを本来は真逆の「強欲資本主義」と同一視していることからくる錯誤だ。またウオール街の金融マンにはリバタリアンがいないわけではないが、彼らは金融緩和政策に反対しているので極めて少数派だ。

堀川氏はアメリカの経済格差は「リバタリアニズム経済」のせいであるかのようにいっているが、「リバタリアニズム経済」なるものがアメリカに存在してこなかったことは脇において、本当の経済格差の原因を確認できそして堀川氏も本の中で認めている事実から探ろう。

1  アメリカの上位1%が全米資産の44%を持つに至った内容と原因は株式を始めとする金融資産の膨張である。

2  アメリカの金融の量的緩和は、失業率の改善の為と言う名目ではじめられるが、結果としてほとんど失業率の改善に影響がなかった。つまり実態経済に影響はなかった。

3  金融の量的緩和が噂されると高級百貨店の株価は急騰するが、庶民を対象とする小売業の株価は変化しない。

4 選挙が近づいても経済成長率や失業率が芳しくないと、金融資本から量的緩和の圧力がでる。リバタリアンならそんな要求はしない。たがらリバタリアンの金融マンは少数派の異端児。でも正しく破局を予言するのはリバタリアンだけ。

つまりこれらの事実から言えるのは、ウオール街の強欲資本者達は量的緩和という公的資金で大儲けして資産を増やしたのだ。つまり最近の急激な経済格差の元凶は量的緩和なのだ。量的緩和により金融機関が莫大な利益をあげると、経営者や金融マンは自己の手腕でないのに株式オブションを始め膨大な報酬を要求する。その反面膨大な損失を出して公的資金の救済を求めても相変わらず高額の報酬を貰っている。金融業でMBA所有者たちが高額の報酬をもらうと、他業種にいるMBA所有の経営者たちも自分たちも高額の報酬をもらう権利があると思い報酬を釣り上げる。かくて全産業で一般従業員と経営者との収入格差が大きくなる。

ここで堀川氏の思い込みと違うが、よく観察すると確認できる二つの事実を挙げて見るのも有益だとおもう。

1 他と比べて不当に高いと思われる収入の業種は必ず公的機関の関与がある。

2  永続する独占企業は自由競争の結果ではなく、政府関与の結果である。

給料のいい職場と言って思い出すのは、公務員はともかくとして銀行とかマスコミ放送関係を思い出すよね。銀行は今はどうか知らないけど護送船団方式で旧大蔵省の統制下に置かれていた。放送局は免許制の独占企業。新聞社も役所の排他的記者クラブの他に社屋のある場所はいずれも国有地の払い下げをうけている。電力会社も公的関与による独占企業だね。

堀川氏によればリバタリアンは弱肉強食の優生学思想の持ち主で、経済競争で優れたものが勝ち負けた者を食物にしてよいと考えているらしい。でも上の事実をみれば量的緩和で儲けている金融資本を脇においても、多くの不当とも思える高額収入業種は政府関与の結果なのだが、不思議にそれらの職種に務めるものは自分達は試験に勝ち抜いて優秀な者であるから一般より高い収入で当然だと考えている者が多い。リバタリアニズムは優生学思想から発生したという真逆のことを言う堀川氏の本から堀川氏自身の優生学思想がプンブン臭うのだな。それは後で例証するけど。

堀川氏はマルクス経済学のシェーマに無意識に影響を受けているらしく経済競争が必然的に独占になり、富む者はますますとみ貧しいものはますます貧しくなると考えているらしい。しかし不当な経済格差は公的関与に原因があるのと同じように恒久的な独占も政府がフレームワークを作っている。でもマイクロソフトやニンテンドウは公的関与なしに独占企業になったではないかと言われるかもしれない。でもそれは恒久的ではない。新しい新機軸のものを持った企業が新規参入すれば一変に没落して倒産する可能性さえあることは今の世の中誰でも分かるだろう。

これはマルクス経済学で説明がつかなくても、オーストリア学派では説明がつく。オーストリア学派では、すべての人間は考え意識的に行動するという共通の特性をもっている。しかしながら完全な情報を持ってすべてを見通す個人も集団も存在しない。従って完全な情報を前提とする計画経済はうまく機能しない。誰もが不完全な情報しか持ち得ないため新しく事業を起こすことはリスクを伴うが、そのリスクを引き受けて起業する者が社会を進歩させるアントレプレナーとなる。しかし一度成功した者でも成功し続けることはむつかしい。なぜなら完全な情報を持つものは誰もいないからである。

だからオーストリア学派では経済競争で常に勝ち続ける優秀な人間も集団も存在しないし、一番優秀なものが最終勝利者となるという考えもない。オーストリア学派つまりリバタリアニズムは根本的に優生学に反する思想なのだ。そうそうリバタリアンというのはウインドーズよりリナックスやウィキペディアが好きなのだよ。権威的存在や経済的利益よりみんなのボランティアでより良い物を作り上げるということが好きなのだから。

でもビル・ゲイツやジョブスを嫌いではない。アントレプレナーとして尊敬している。アントレプレナーはすべてリバタリアンとは言えないが共通する価値観をもつ。アントレプレナーは金銭よりも自己実現に価値をおく。その証拠に彼らは財産の多くを公益事業に寄付している。それとは対照に政府機関や中央銀行により利益をえている金融資本家や天下り役人の強欲なこと、しかも彼らは「自分達は優秀だから当然」とうそぶいている。もちろん彼らはリバタリアンではない。税金で儲けるリバタリアンはいないもの。

さて弱肉強食の優生学思想の持ち主の勘ちがいの「優秀な人間」はどこでよく見られかというと公務員だ。河村たかし氏が初めて名古屋市長になったころに名古屋市職員の給与水準が話題になったことがある。その時に2チャンネルの名古屋市職員スレッドには「おれは旧帝大卒で民間に行った友人はもっともらっている。優秀なおれはもっともらってもいいくらいだ」というような内容の書込みが多かった。その時僕の感想は、日本社会には努力(試験勉強)とか金銭の出費(塾とか家庭教師)をした者には相応に報いてやらなければならないという心情があり、そのため民間で使えないハバを地方公共団体が引くことになったのだな、というものだ。しかもそうした「優秀な人たち」には役所というのは住みやすい環境なのだ。大体公務員というのは「仕事内容ではなくて勤務条件のみで志望される不思議な職場」(大原瞠『公務員試験のカラクリ』光文社新書)で、「困難を乗り越え子供を救う人材が集まるところではない。この元職員は断言する。『そんな人間はそもそも公務員にならない』」(「選択」編集部編『偽装の国』新潮社、第一部・児童相談所)からだ。だから彼らは異動先に出世の早いと云われる総務局を希望する。何が面白のかな。僕の主張は前にも書いたけど支払われた税金以上の効用を市民に返しているかということだ。これ以外に判断の基準はない。

おっと話がそれてしまったが、現代の優生学思想には優秀な人間とは学歴や資格を持つ人間だという暗黙の前提がある。堀川氏は「所得格差が学歴格差を生む」と息巻いているが、結局のところ高学歴の人間が優秀なのだと広宣流布しているのだ。極めつけは日本救済策に「国立の『経世済民』塾」をつくれという。おやオヤ松下政経塾の二番煎じかと思ったら、「松下政経塾もいいが、今回の卒業生の姿を見てみると、実務経験が欠けているのがわかる」そして厳しい選抜試験がないから駄目とのことだ。しかし卒業生の姿からの堀川氏の推測と違って松下政経塾は実務経験重視のカリキュラムのはずだし、選抜も松下幸之助の選んだ有識者によって行われたはずで厳しくなかったはずはない。これはリフレ派は結果により反証されても考えを改めず、常に前のはtoo late でtoo small だったからいけないと言い逃れをする同じパターンだ。真の問題はそこを出れば看板になるという学校をつくるから、その看板目当ての人しか集まらないことだ。さらに多くの勘ちがいの「優秀な人間」の資格を作るのは害毒でしかない。堀川氏は「前は松下幸之助といえども私人、今度は国立だぜ、ワイルドだろ」と言いたいのかもしれないが大間違いだよ。歴史上に役だった塾なり教育機関は、当時はそこで学んでも世間的には不利だが、ただ自己の生き方として学びたいと入門したところだ。上級武士の高杉晋作はエリート校の藩校をやめ幕府の咎人で蟄居中の吉田松陰が農民や下級武士を対象としている松下村塾へ入った。河井継之助は中国地方の小藩備中松山藩の参政で陽明学者の山田方谷に無理やり弟子入りした。だから僕のいう「堀川氏自身の優生学思想がブンブン臭う」という意味がわかるだろ。

くり返すけどアメリカの有名なアントレプレナーは多くは大学を中退してリスクを自身で引き受けて起業し、得た資産の多くを寄付している。大学をでて金融機関や役所に勤めた連中は公共の為の口実で激しく自分の利益を追求してリスクは税金でカバーしようとする。これ日米共通。

堀川氏はインフレ化対策をせよという。でも堀川氏は同じ本の中でアメリカの量的緩和は効果がなかったと認めているのにね。何のこっちや。でも量的緩和推進の影の車は政府のリスクで金融資産を増やそうとする富裕層の強欲だもの。理屈じゃないか。


一つの歴史が終わる投票日

2012-06-11 22:23:01 | 社会経済

あと数日で一つの投票が行われ、それで一つの歴史が終わる。感慨深いものがある。え?!17日のギリシャの再選挙ではないよ。14日の東京大学教養学部学生自治会の全学連都学連脱退議案の投票(議決)のことだよ。東京大学に縁もゆかりもない僕が東京大学とはいえ1学生自治会の全学連(全日本学生自治会総連合)脱退に注目するのは、これが象徴的にも物理的にも全学連(新左翼の人には異論があるだろうが)の終焉を意味するし、また戦前戦後を通じて一定あった日本共産党の影響力の学生運動からの完全な退場を意味するからだ。

基本的な内容はインターネットのJBpressの代々木小夜「ついにとどめを刺される『全学連』」http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35255  と東京大学教養学部学生自治会のホームページ http://www.geocities.jp/todaijichikai/ を見てもらうとよいが、ここでは僕なりに咀嚼して考えて見よう。なおJBpressの佐々木小夜氏の記事は東京大学教養学部学生自治会の議案に参考資料として挙げられているので教養学部学生自治会からも正確とみられていると思う。

最初に佐々木小夜氏の文章のタイトルを見た時は「とどめを刺される」という表現は、左翼党派の機関紙によく見られるものと同じ過剰な表現に思えた。しかし代々木氏の文章を読みそして他の関連ウェブを検索すると、決して過剰ではなくまさにその通りだと実感した。全学連はすでにその名称の全日本学生自治会総連合が表す全国的団体としての実態からは程遠くその意味ではすでに死んでいるが、東京大学教養学部学生自治会というマンモス団体が抜けれは、有名大学の加盟自治会は立命館大学のみとなること以上に、財政的に四分の一から三分の一の分担金収入を失い事務所の維持も困難になる。

全学連で継続的に参加しているのは、東京大学教養学部・東京農工大・東京学芸大・信州大学・日本福祉大学・名城大学・立命館大学・京都橘大学の8大学にすぎない。これは全学連中央執行委員を出していた東京大学教養学部学生自治会の言であるから間違いないであろう。長い間全学連は100以上の自治会(公称170)が結集する思想信条の違いを超えて要求で団結する学生の全国的な組織で、暴力学生(新左翼のこと)の「ニセ全学連」とは全く違うと言ってきた。でも公称の170といっても脱退届けを正式に出してないだけですでに存在さえしないものもあるだろう。だから現実の組織実態としては「ニセ全学連」と大差なくなっている。いや革マル派全学連のほうが凌駕しているという見方もある。しかし新左翼の場合は自治会連合ならあり得ない個人参加の全学連メンバーや大学非公認の自称自治会もあるから、いまさら絶滅危惧種同士で比較しても仕方が無い気がする。

新左翼の全学連が生き残っているなら、全学連もこれからも生き残って行くのではと思うかもしれない。でもそれは違う。代々木氏の言うように、なりふり構わない方針はとれないからだ。財政的に事務所が維持できなくても共産党や民青同盟の建物に間借りできない。共産党員や民青同盟員の学生でも加盟自治会員でないと全学連の行事に参加はできても全学連の代議員や役員になれないからだ。新左翼にできるこれらのことが全学連にはできない。背に腹はかえられない潰れるよりましだからとそれやったら共産党や民青同盟の評判が大きく傷つく。共産党も民青同盟も名のみで実体のなくなったものの為に自分の評判を傷つけたく ないないだろう、たとえそれが長い伝統の棄てるに惜しい看板だとしても。

財政的に致命的なのは全学連予算の加盟分担金収入357万円のうち100万円以上が東京大学教養学部学生自治会のものだからだ。でも以前立命館大学の自治会が全学連の財政の半分以上支えていると読んだことがあるから、残りのほとんどは立命館大学かというとそうではないらしい。Wikipediaの「全日本学生自治会総連合」をみると「現在は立命館大学の加盟自治会も加盟分担金を払っていない」そうだ。忠実な立命館大学の自治会が代議員権停止や除名になりかねないことをするとはいかなることだろうか。全学連の財政の半分以上を負担していたことが学内の批判を浴びたからだろうが、正当な分担金額なら批判をかわすことができるし全く払わなくなる理由にならない。だから僕の推測だか、財政危機の全学連に立命館大学の自治会が分担金以外に闇か貸付金という形で資金援助していたものと思われる。貸付金としても返済される可能性の極めて低いものであるから当然批判される。だから多分貸付金を加盟分担金の前払いとして当分の間加盟分担金を支払わないということになったのだろう。

ところで愛知県で全学連に残っているのは日本福祉大学と名城大学だけだが、全学連の地方組織の愛知県学連はどうなっているのかと全学連のホームページのリンクから愛知県学連のホームページに行こうとしたら繋がらない。それでGoogleで検索したら愛知県学連のホームページがみつかったが最終更新は2010年3月だ。これは数日前のこと。今日はそのホームページも見つからなくて替わりにブログ形式の「愛知県学連ニュース」が見つかった。たしかに写真付きのホームページを見たからここ数日中になにかあったのかな。ブログ形式の「ニュース」のほうも内容はやはり2010月3月が最終だ。とすると愛知県学連は2010年3月末で消滅したかブログ又はホームページを更新する人材が卒業でいなくなったかである。多分消滅の方であろう。2010年3月以前には他の大学の学生自治会もあったが4月以降に2大学になったので「県・・連合」とは面映いということで解散したか、それ以前から2大学だが学外組織の県学連に出る人材がいなくて消滅したかだろう。大阪府学連も消滅しているようだからここ数年の内に地方組織が次々と消えている。全学連がそれに対して有効な対策をうてていないのなら全学連自体の消滅の予兆とみるしかない。これが終戦直後の全学連創成期なら全学連中央から学生オルグが次々と派遣されて強力なテコ入れがあっただろう。でも今は望むべくもない。全学連自体に活力がない上に、地域を超えた学生間のオルグなどは党指導部による統制を最優先事項とする共産党の最も嫌うところであるから共産党の影響下にある全学連活動家には何もできないしする気もないだろう。

全学連の消長は学生に対する日本共産党の影響とリンクしているといえるだろう。いくら「思想信条の違いを超えて」といったところでそうではないことがすぐに明らかになるので結局は日本共産党と民青同盟しか全学連を支える勢力たりえない。新左翼勢力の衰退の直接の原因は連合赤軍事件と内ゲバであろう。ライバルが後退したから日本共産党と民青同盟が前進したかというとそうではない。民青同盟も新日和見主義事件を契機に組織の大幅な後退もあった。ライバルが衰えると他方も衰えるという一般的な法則もあるが、結局は日本社会全体でのマルクス主義的イデオロギーの失墜ということに帰結するだろう。

僕の大学を卒業した1974年当時は退潮の兆しはあったにしてもまだまだマルクス主義も日本共産党も力を持っていた。それではいつ頃からどうなったかを素顔をでブログ書いている日本共産党員で会社員の伊賀篤氏の「伊賀篤の日記」http://d.hatena.ne.jp/atsushi_iga の記事から探ってみよう。そのブログの2012月4日28日付けの書き込み「過去の記憶」によると「・・・2年留年して、4回生の終わり(1989年)に・・・日本共産党に、Mさんに薦められるままに入党した」「入党してまず驚いたのは、私が1回生の時には外部から見て少なくとも千人は居たと思われていた学生党員が、私が入党した時には3〜4人にまで減っていた事だった」

伊賀氏のいた大学は静岡大学である。4回生という関西の大学的な表現があるが、これは関西系のテレビ番組「パンチでデート」の影響と思われる。さて伊賀氏が1回生と推定できる1984年は学内に千人居た共産党員が1989年には3〜4人になっていたという。する1984年から1989年の間にカタストロフィーが起こったことになる。ただ1984年の千人というのは外部からなので共産党員も民青同盟員も区別がつかなくて一緒くたにした印象を党員になった後も引きずって共産党員か千人と言っているのかもしれない。でも三桁はいただろうから3〜4に人なっていたのならやはりカタストロフィーだ。ベルリンの壁の崩壊は1989年11月でソビエト連邦解体が1991年だからどちらも伊賀氏の入党後なので国際情勢はあまり関係ないと思うに。カタストロフィーと言っても集団の脱党があった訳ではないだろう。党員が沢山いた学年が卒業しても新入生からは民青同盟員や共産党に入る者がバッタリいなくなったのだろう。僕には急激な減少がなぜかというより、1984年ごろに千人ほど居たという方が驚きだ。左翼の退潮はもっと前からの印象がある。時期的にバブル景気が1987年から1990年なのでバブル景気の中で消えっていったがバブルが弾けても回復しなかったということか。また伊賀氏の先の書き込みのなかに「壊滅した自治会」という表現があったので、共産党員の急激な減少が原因で自治会が壊滅したのだろう。静岡大学は民青同盟の拠点校なので共産党・民青同盟員が千人居た時もあっただろう。ちなみに東北大学も拠点校でノーベル賞の田中耕一氏も東北大学在学中は民青同盟員であってそのころ東北大学にはやはり千人の共産党・民青同盟員が居たらしい。田中氏は1983年卒業なので、静岡大学も東北大学も1980年代前半には千人もの共産党・民青同盟員がいたことになる。言うまでもないが静岡大学も東北大学も現在の全学連参加の8大学には入っていない。

ところで学生運動華やかなりし頃東北大学と並んで民青同盟の拠点校と言われたのは名古屋大学である。しかし名古屋大学も8大学にはない。おかしいのはWikipediaの「全日本学生自治会総連合」の記事だ。JBpressの代々木氏の記事から「2012年現在で実際に全学連の活動に参加している学生自治会のある大学は8にとどまる」と書きながら、そのすぐ後に「愛知県学連には日本福祉大学や名古屋大学などの自治会が加盟している」と書いている。名古屋大学は全学連に参加していないのだから当然に愛知県学連にも参加していない。もし今も愛知県学連が存在するなら「日本福祉大学や名城大学」でなければおかしい。名古屋大学は全学連に参加している自治会はないが、理学部自治会は革マル派全学連の影響下にあるという。革マル派全学連は愛知大学豊橋校舎と名大理学部、全学連は日本福祉大学と名城大学、コップの中の背比べとはいえ拮抗している。

革マル派がでたついでに、愛知大学豊橋校舎学生自治会の革マル派支配が何十年も続いているのは驚異的だがその理由が分かった。同じWikipediaの記事に「同全学連の活動家は『全学連フラクション(ZF)』に組織され、さらに5年以上ZFで活動したものはマル学同革マル派への加入が認められる」と書いてある。マル学同とはマルクス主義学生同盟のこと。これみて何かおかしく思うだろう。大学は普通4年で卒業だもの。だからまともに卒業するものばかりならマル学同に加盟する者はいないことになる。つまり革マル派の活動家は始めから4年で卒業するつもりはなくて、5年生6年生になっても大学のサークルに居座るわけである。そうすると各サークルの最年長の先輩はみんな革マル派となる。文化系サークルとはいえやはり先輩のいうことには逆らいにくいのでサークルの指導権を握り続けることになる。そしてサークルをテコにしてサークル連合をさらに学生自治会を支配することになる。これは革命政党とはいえ世俗社会で生活している人かほとんどの共産党には真似できないだろう。

いろいろ書いたけど僕の感慨の中心は、一つの歴史が終わりを目撃することだ。学生のときも公務員のときも自分がある時代の中に生きているという感覚はあるが一つの時代通り抜ける感覚は無かった。そのくせ大学の先生の中に戦前の弾圧事件の被害者がいることに驚きを感じていた。そうした人は弾圧事件のあと第二次世界大戦の勃発と日本の敗戦そして占領下の民主化と日本共産党の再建と分裂と再統一と国政選挙での躍進を見てきたという歴史の目撃者の見本なのにね。また10年程度前なのに60年安保闘争を古い昔の話のように感じていた。でも60歳間近でリタイアして見ると高校の時GDP(当時はGNP)で世界第二位になった日本は中国に抜かれて第三位となっている。ずっと続くと思えたJapan as No.1はもう昔の話。こうして僕は歴史の始めと終わりの目撃者たりうることを知った。もちろん学生時代も公務員時代も世界ではソ連の解体など大きな歴史の終わりもあったけどそれは外国のことでピントこなかった。今回予想される全学連の消滅は日本の戦後学生運動の歴史の終焉として感慨ぶかいものがある。もちろん全学連の結成は生まれる前のことだからrise and fallを見たとは言えないがそれでも末期を看取った感じ。しかし「見るべきほどのことは見つ」からといって「もって冥すべし」とはならない。さしせまる国債破綻後の日本の再生(オーストリア学派的だけど)の歴史を見とどけたいと思う。


河村名古屋市長の南京事件についての発言

2012-03-02 19:44:03 | 社会経済

28日税務署から国税還付振込通知書がとどいた。手続開始年月日(振込日)は前日27日だ。そこでたまたま前日お金を引き出した通帳をあらためて見るとたしかに27日に「ナゴヤキタゼイムショ」で18,495円入金されている。13日に確定申告して27日に還付だからちょうど2週間だ。所得税の確定申告期間より前だから早く処理してもらえたかなと思いながらも日々のお金に困っている人は2週間は長いだろうなと思う。

 

さてこうしてブログを書き始めると書かないでパスしようとするとトゲが残ったようになる名古屋市の問題がある。河村市長の南京事件についての発言問題である。これは河村市長が来名した南京市(名古屋市の友好都市)の代表団(市共産党幹部)に、「自分の父は南京事件の8年後に南京市に行ったが現地の人に大変親切にされた。もし市民を大量虐殺するような事があったらそんなに親切にされなかったと思う。だからいわゆる南京事件はなかったと思う」「南京事件は日中友好を進めるうえでトゲになっている。真相を明らかにするために南京市で討論会を開いてはどうか」と言ったのだ。

 

このあと名古屋市のホームページには外国(多分中国)からの書き込みで炎上したという。名古屋市役所には多くの意見が寄せられたが、多くは河村発言を支持する内容だったとのこと。名古屋市民はどれだけいたかは知らないけど。石原都知事をはじめ河村発言を支持する声もある反面、市長としての発言としては不適当という声もある。

 

僕としてはたしかに南京事件が日中友好のトゲになっているのなら、多くの役人や政治家のように常に先送りするのではなくて、きちっと受け止めて自分の手で何とかしようとする姿勢は共感できる。でも市長の役割かというと、どうかという感じ。普通なら担当する役割から少々逸脱しても問題ないといいたい。少なくとも本来引き受けるべき事を担当所管から外れているかのようにいって回避するよりましである。この場合の問題点は相手は単に南京市の代表者ではなく中国共産党の下部組織の幹部ということだ。これは即ち相手の自主的な判断や歩みよりはまったく期待できない主人持ちが相手ということだ。だから名古屋市にとって軋轢のみが出現することが予想できる。でも河村市長の悪意のないバカ正直さは目に見えないかたちで後日実をむすぶかもしれない。

 

でも南京市代表の河村発言への対応は知性的なものだ。「そうした個人的な感想で無かったというのはまちがっている」と言った。これは河村発言の弱点をついた適切な反論だ。でも中国では南京市代表が断固とした態度をとらなかったと非難された。批判的な相手と討論を噛み合わせようとすることはカルト宗教ではタブーだ。今の中国共産党もカルト宗教と同じ。成長期の自信に溢れた組織なら別だが、被害者意識をもつ護りに入った組織では、批判的意見に出会った場合はただただ自分たちの主張をまくし立て相手の言っている内容を理解してはならないことになっている。

 

さて南京事件あるいは南京大虐殺をどう捉えたらよいか。「薮の中」のような話だが、実は出発点には共通のファクトがあると思う。つまり早々に逃げて行った中国軍の他に、抵抗する民間人もいただろうし、逃げ遅れた中国軍人の中には軍服を脱いで民間人に紛れながらなおも抵抗した者もいただろう。そうした者は便衣隊(ゲリラ)として捕えられても捕虜の扱いを受けずにすぐ処刑された。だから処刑した側の認識では民間人を無差別に殺したのではなく平服で戦闘行為を行った者を処刑する国際条約的にも正当な行為となる。しかし殺された者の多くは単に疑われただけで殺されたのだろう。これは多いにありうることだ。現在でも中東で結婚式の人の集まりが、テロリスト(ゲリラ)の集会と間違われてアメリア軍に爆撃されることが数回あった。ましてや日本軍はこのあとだが太平洋戦争初期にシンガポールで華僑を敵性国民として疑い大量に処刑している。

 

だから南京事件の認識の最初には「便衣隊」の処刑という事実がある。一方は便衣隊の処刑であり純然たる民間人を殺したわけではないといい、他方は殺された者はほとんど無辜の民だという評価が違うが共通する事実がある。

 

次に捕虜 の大量処刑がある。これは国際条約違反だがどこの国にもよくあるためかあまり問題にされていない。死体の処理に困るため河辺で処刑したため川が死体で一杯になったという。司令官は武装解除して逃がせという意味で処理しろと言ったつもり(本当かな)かもしれないが部下は処刑ととらえるわけである。

 

次に日本兵による現地婦女子への強姦(そして殺害)という事象も多々あった。従軍した石川達三が南京攻略部隊に取材して書いた『生きている兵隊』には兵隊が中国夫人を強姦して殺したことを暗示させる描写がある。『生きている兵隊』の載った雑誌は皇軍の威信を傷つけるとして即発売禁止になった。このころ日本軍の規律が乱れが目立ってきた。「生きて虜囚の辱しめを受けず」が捕虜虐待の原因と悪評の『戦陣訓』も本来は強姦等の軍紀の乱れを正す為に策定された。

 

結論からいえば、「便衣隊」という民間人(orゲリラ)の処刑ということを中核にして、(処刑した捕虜の)大量の死体とここでもおこった婦女子への強姦が組み合わさって南京事件という全体像ができたのだ。三つの別の事象が一つの物に結びついた接着剤は中国人の軍隊についての固定観念だ。つまり中国では兵隊の士気を高めるため占領した敵の都市を数日間自軍の兵隊に掠奪をゆるしたことが歴史上に多い。だから中国側は軍首脳の支持または容認した行動とみるのだ。そしてさして特異でもないことを頑なに無かったと言い張る日本人に不信をいだくわけである。

 

たからこの問題のカギは、一つには当時の日本軍あるいは日本政府はこうした現象を苦々しく思ったり抑えたい意向はあったが、決して推奨したりましてや方針として命じたことはないと明らかにすること。二つには20万人の殺害という数は物理的にも都市人口からも無理があるから、南京市内入城後の死亡者数を合理的根拠で確定すること。三つめは非軍人で殺害された市民の状況を抵抗したためか無差別かをサンプル調査をすると。つまり抵抗した抗日英雄と無辜の犠牲者の二つの称号は同時には受けれない。

 

中国が死者数を非合理なまでに拡大すると、それに乗じて南京事件はまったくのでっち上げという者がでてくる。お互いに助けあっているのだよ。

 

南京での事象はドイツ人の証言もあるのが、それは伝聞にすぎないと斥けられる。しかし外国人の目の前ではやらないのは当たり前で、伝聞でも知らない中国人の話なら謀略かもしれないが、日ごろ知っている人間が直接見たと言うなら信頼性は高いだろう。それに中国の謀略ということで全面否定では欧米人には受けらいれられないだろう。というのは日本軍の捕虜の取り扱いは非常に悪く、アメリカの第二次世界大戦物を読むと日本の捕虜収容所はナチスドイツのそれより何倍も死亡率が高かったと必ずと言っていいほど書いてある。オランダでもその世代の反日感情は高い。だからアメリカ人は南京事件の事を聞くとさもありなんと思う。それをむりやり全面否定すると誠実さが疑われる。だから正しい道は全面否定ではなく実態を明らかにしつつ、礼節ある日本人をも戦争は狂わす、という理解を広めることだ。

 

ところで河村市長とおなじ感想を書いている旧日本軍人がいる。旧陸軍大尉で戦後防衛大学校教授になった佐々木隆春氏だ。戦争終了後、佐々木氏の大隊(大隊長は佐々木氏)が日本への帰還までの間に南京市の清掃を命じられた。ちなみにそれ以前には南京へ行ったことはなかった。そこで南京市民に親切にされた。「このようなことで、南京市民とトラブルが起こった話はついになく、筆者が接した範囲でも不愉快に感じた覚えはなかった。従って東京軍事裁判で南京大虐殺事件が問題になると、嘘だ、報復のためのデッチ上げだ。本当であれば南京市民があのように友好的に接するはずがなく、必ず酷い仕返しをしたはずだ。」(『大陸打通作戦』光人社NF文庫、p.232)佐々木氏の鯨兵団は四国の部隊だから河村市長の父とは部隊は違うかもしれないが、同じような状況だったわけだ。

 

でも同じ本で違ったニュアンスの表現もある。「この時の行軍(南京への移駐のこと)ほど嫌な行軍はなく、屠所に引かれる心地であった。沿道の住民のいやがらせは想像のほかであったからだ。南京に近づくにつれて、青少年の悪罵が漸増した。・・・・矛をおさめて約半歳、かってなかったことだけに、やはり南京は空気が違うなあ、こんどこそ苛められるぞ、いよいよ堪え難きに堪え、忍び難きを忍ばねばならぬ時がきた、と覚悟せざるを得なかった。」(同書p.218) そしてなぜ関係のない鯨兵団が南京の清掃にいかされたのかを当時の派遣軍参謀にのちに聞いたところ「手元には鯨しかなかった。かわいそうではあることは百も承知していたが、南京とゆかりがなかった部隊の方が市民とのトラブルも少なかろうと、考えたのも一因である。ご苦労をかけた」(同書p.219-220)「かわいそう」というのは清掃作業についてであり必ずしも南京行きについてではないかもしれないが、「南京とゆかりがなかった部隊のほうが」というのが気になる。また前の引用は南京で何かがあったことはうすうす知っていた事をにおわせる。

 

河村市長の父と佐々木氏が南京市民から親切な扱いを受けたのは、いわゆる南京事件のような虐殺はなかった。というのも一つの解釈だが、中国人は軍隊というものをそういう物だと達観していてことさら日本軍だけを特別視していないことと、佐々木氏の本で何度もでてくる「中国人のスケールの大きさ」によるものかもしれない。

 

あそうそう「あってはならないこと」は、発生したら防止の対策を考えるべきなのだが、内部通報者を裏切り者と敵視して「なかったこと」のように隠蔽し、また防止対策をすると「あったこと」になるからやらないというのは日本の役人文化だね。これじゃあ原発も爆発するはずだ。

 

繰り返すけど、こうなりゃ河村市長の悪気のない馬鹿正直さが中国人の心に何か良い影響がやがて出ること期待するしかない。


昨年からの宿題、投資信託の確定申告

2012-02-18 18:44:20 | 社会経済

今年も確定申告の時期がきた。いつも言うことだけど216日から315日までに所得税の確定申告しなければならないのは不足分の所得税を納めなければならない人。還付のための確定申告は対象年が終わったら5年以内ならいつでも申告できる。だから僕は今週の月曜つまり213日に確定申告を税務署に提出した。

        

ところで昨年(2011年)23日に「もう所得税の還付通知がきた」で書いたように昨年は株の配当の源泉所得税の還付を目的に1月中に確定申告したが、そのあとで証券会社より特定口座取引報告書が届いた。それによると投資信託の分配金から源泉税(国税と地方税)が引かれていた。だから投資信託の分配金も株の配当と併せて確定申告したらもっと還付金が多かったかもしれないと思った。昨年の23日時点でも一度確定申告を出した後の税額減額の手続き(減額更生の請求)は1年以内なら可能だし、確定申告期間内だから前のものを取り下げて再申告できるかもしれないと書いた。しかし今考えると還付通知がきたのは税務署の決定が済んでるからやはり更生の請求かな。でも去年は何もしないで、翌年つまり今年から考えることとした。

 

さて今年つまり213日に提出した平成23年分確定申告書はいかなる内容にしたのかは後にして、投資信託の分配金と確定申告の関係についてまず探ってみよう。

 

国税庁のホームページによると、「投資信託の利益の分配に係る所得」も株の配当と同じく配当所得である。それで配当所得と確定申告との関係は原則は確定申告の対象しかし確定申告不要制度を選択することもできる選択により総合課税ではなく申告分離課税にできるがその場合は配当所得全額についておこなう、である。つまり配当所得は確定申告しない(or確定申告に載せない)、確定申告で総合課税を受ける、確定申告で申告分離課税を受ける、の三パターンがあることになる。

 

僕の疑問は、配当所得のうち株の配当だけ申告して投資信託の分配金を申告しなかった昨年出した平成22年分確定申告は法的に正しいものであったか、ということ。でもまあ平成22年分の場合は控除額が所得に比して大きかったから仮に法的に誤っていたとしても還付を少なくした(税を多く納めた)わけだから納め過ぎを指摘しないという税務事務の原則からいって税務署が文句を言ってくることはないけど。

 

お!「申告分離課税が配当所得全額を申告しなければならないと書いてあるということは、一般の確定申告では全額でなくてもよいということではないか」だって?そのとおりだ。君は鋭いなあ。杉下右京か現役の時の僕みたいだ。え?「お前が杉下右京と共通なのは役所組織で浮いていたことだけだ」って?フンだ、地上の星を誰も覚えていないだ。

 

さて、このことは同じく国税庁のホームページの確定申告不要制度の説明で、確定申告不要制度を「適用するかどうかは、1回に支払を受けるべき配当等の額ごとに選択することができます」と書いてある。ということは株の銘柄ごとや株と投資信託もそれぞれごとに申告してもしなくてもよいことになる。なお上記引用文直後にカッコ書きで「(源泉徴収選択口座内の配当等については口座ごとに選択することができます)」と書いてあるが源泉徴収選択口座が何物かわからない。でももしこれが証券会社内にある特定口座と同じ物だとしても僕の場合は問題にならない。投資信託は証券会社の特定口座にあるが、僕の株は証券会社の特定口座に移してないから当然に別口座となる。

 

さて投資信託の分配金を確定申告してもしなくてもよいことが明らかとなった。そうするとどうすべきは税額計算による有利性の判断によるね。ところで去年した申告つまり平成22年分の確定申告は税額計算しないでも投資信託を含めた方か有利だった。なぜなら投資信託を含めたとしても総所得は控除額に及ばないからだ。つまり源泉税所得税(7%)はすべて、地方税(3%)は課税になる住民税均等割分を差し引いた残りが還付される。全額戻ってこないのは総所得が住民税の均等割非課税の額(35万円)を超えるから。

 

チョつと意外だったのはギリシャ危機の影響で大きく収益が落ち込んだはずの平成23年の投資信託の分配金が平成22年より多かったのだ。平成22年は分配金285,528円に対して特別分配金1,607,402円。平成23年は分配金982,200円に対して特別分配金1,151,400円。特別分配金は元本の取り崩しだから所得ではないので非課税。2年とも特別分配金のほうが分配金より多いのはさみしいかぎりだ。分配金と特別分配金の合計額が増えているのは財政破綻後の悪性インフレに備えて定期預金を解約して通過選択型の投資信託を増やしたため。正解かどうかは不明だけど。

 

かくて平成23年は、分配金が増えたのに社会保険控除額が大幅に減った(任意継続健保から国保へ移行、国民年金の納付終了)ため、申告したら投資信託の大部分は課税所得となる。ここが平成22年と違うところだ。

 

所得税と地方税は税率・源泉税額・配当控除額が違うが、さらに複雑なのは株と投資信託では配当控除額もちがうことだ(配当控除というのは配当所得の何%かの金額を算出税額から引くもの)。しかも数年前の税制改正で住民税は税率が一律10%(市6%[減税前]、県4%)になった。これは多くの人にとっては増税。逆に所得税は最低税率が10%から5%に下がった。政府の発表では合わせれば納税者の負担はあまり変わらないとのことだった。

 

多くの人とっては住民税所得税より税率が高い(10%5%)のに住民税のほう源泉徴収額(住民税3%,所得税7%)が少なく、配当控除(株・住民税2.8%,所得税10%、投資信託・住民税1.4%,所得税5%)も少ないから、確定申告により所得税は還付を受けたが、住民税は還付がなく6月に納税通知がくる場合も考えられる。

 

チョつと脱線して昔の話。僕が市民税の事務をしていたときはもっと単純だった。配当からは今と同じ10%が源泉徴収されていたがすべて所得税。配当控除も10%だから、多くの所得税率10%の人は、配当にかかる10%の税と配当控除の10%は相殺される。すると源泉徴収された10%の所得税は余分となり全額還付される。株の配当には住民税は源泉徴収されていなかったから確定申告しようがしまいが市町村が勝手に配当を課税対象とする。しかし市町村は半期5万円以下あるいは110万円以下の株式銘柄(少額配当)は確定申告してもしなくても課税しないから、通常の庶民投資家の持っている株の10002000株ではほとんど少額配当なので住民税は無関係だった。昔は株の配当は今より少なかったなあ。投資家は値上がり益を期待して配当は気しなかった。今は外国人投資家も多くなり企業も株主優遇で配当も多くなっている。それに昔は投資信託なんてものの記憶がない。

 

話はもどって今年の確定申告に投資信託を載せるかどうか考える資料に「ダイヤモンドザイ」3月号を買ってきた。それを見ると「所得の少ない人は配当控除を申告!」という記事があった。こういう雑誌の読者水準からみると株や投資信託を持っていても「所得の少ない人なだ」と思った。そうだけど・・・。あ、そうそう、中見出しは「株と投信では分岐点が異なる」とあって本文に「・・株の配当なら課税所得330万円超、投信の分配金なら課税所得195万円超の場合は配当控除を使わずに源泉徴収で終わらせたほうがトクになる」と、これが結論らしい。所得税住民税両方を合わせて検討した結果で、株と投信の金額の違いは配当控除の違いが原因だろう。説明に省略があるのか分かりづらい。当然課税所得195万円以下の僕は投信を確定申告するべきということだが実際に試算しなくてはピンとこない。

 

かくて試算してみた。去年の途中から共済年金を受給してるからそれも載せる。ただ3カ月分で特別控除の70万円以下だから所得としては0円になりその源泉徴収税はまるまるもどる。試算結果は投資信託を載せないで配当所得は株のみの場合は所得税は18,495円還付で住民税は5,985円還付となる。他方、投資信託も含めて確定申告したら、所得税は87,248円還付で住民税では源泉税を引いた差額15,275納付しなければならない18,495+5,985=24,480円で87,248-15,275=71,973円だから、税金上は投資信託も含めたほうが、71,973-24,480=47,793円で47,793円トクということになる。

 

さてここで2月13日にぼくがどのような確定申告をだしたか発表しよう。それは投資信託を除いたものだ。え、上の検討結果と違うって?実は名古屋市の場合は国民健康保険の保険料の算定に市県民税額が使われる。投資信託を含めると市県民税額は50,774(源泉税を差し引き前の賦課額)になり、たぶんその2倍前後つまり10万円ぐらいが国民保険料に上乗せされる。国民健康保険の事務にも関わってたのでこういうことはすぐ浮かぶ。まあいろんなことが浮かびすぎるので損をするのだが今回は役立った。