玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

濃縮果汁の苦さ

2008年01月08日 | 日々思うことなど
美空ひばりがデビューする前、NHKの素人のど自慢に出場したという。昭和21年のことだ。当時9歳か10歳の彼女はそのころから超絶的に歌が上手かった。

 美空ひばり - Wikipedia

合格の鐘が華やかに鳴り響くはず。ひばりと母親はそう信じたけれど、なぜか鐘はひとつも鳴らなかった。
私には鐘を鳴らさなかった審査員の気持がなんとなくわかる。年末番組でデビュー当時のひばりの姿を見てそう思った。

 ビートたけしが斬る!実録!大河スペシャル 昭和の真相 1989年!『つづく。で終る物語』

特に熱心に見ていたわけではないけれど、「昭和の歌姫・美空ひばりと天才作詞家・阿久悠の隠された真実」のコーナーはよかった。
思えば自分が物心付いてから色気付くまで阿久悠の作った歌を浴び続けて育ったようなものだ。「津軽海峡・冬景色」 とか「勝手にしやがれ」とか「ペッパー警部」とか「宇宙戦艦ヤマト」といった曲は血肉の一部になっている。
その阿久悠の憧れと反発の対象が昭和の大歌手・美空ひばりである。

 あんでぱんだん 同年齢としての美空ひばり
 私が美空ひばりと同じ年の生まれであるということは、私にとって、かなり重大なことのように思えます。尊敬、羨望、畏怖、劣等意識、見栄、意地、野心、誇り、美空ひばりを前にして、少なくともこれくらいのことは渦巻きます。そして、私は私なりに「美空ひばりが歌いそうにない歌」を書くことから始め、結果的には私の評価にも繋がりました。書くものの方向を決したとは、そういうことなのです。


ひばりに対する様々なコンプレックスが阿久悠の創作の原点だった。昔のラガービールのように苦味の利いた話だ。
番組ではデビュー当時の美空ひばりの映像が流れた。阿久悠の書いている「シルクハット、フロックコート、小脇にステッキを抱えこんで歌う歌手の姿」だ。「悲しき口笛」撮影当時の美空ひばりは12歳。いわゆるロリータである。
だが、12歳の彼女の姿を見て「ロリ」「萌え」と思う現代人はいないだろう。
なんというか非常に、いや異常に、大人っぽいというかマセているというか老けているのである。顔立ちはたしかに少女なのだけれど、歌唱力や雰囲気に子供らしさがない。本当は30歳だと誰かに言われたら信じる。
デビュー前、素人のど自慢に出場したとき審査員から「上手いが子供らしくない」と言われたのもよく分かる。
正直言って私は「いやなものを見てしまった」と思った。大人になってからの美空ひばりは別に嫌いじゃないが、12歳の美空ひばりはあまりにも濃い。果汁100%(濃縮果汁還元)のジュースはおいしく飲めるけれど、濃縮原液はそのままでは飲めない。

ところが、実際はその「濃縮果汁」が大ヒットしたのである。昭和二十四年の大衆は濃い味が好みだったのか、鉄のごとき舌と喉を持っていたのか。当時も先輩歌手や文化人から「グロテスク」「悪趣味」と叩かれたという。だが大衆の支持は一向に衰えず、美空ひばりは名実ともに昭和を代表する歌手に上り詰めた。さすがである。



はてなブックマークでひとりの「天才少女」が絶賛されている。
私は「シルクハット、フロックコート、小脇にステッキを抱えこんで歌う」美空ひばりを見たような衝撃を覚えた。

  小学校2年生の作文に泣かせられたよ。 - Something Orange
 すばらしい文章に出あった。

 第47回全国小・中学校作文コンクールの優秀賞受賞作品、作者は小学校2年生の女の子、中村咲紀ちゃん。

 といっても、子供の無邪気な心に感動したとか、そういうことではない。無邪気どころか! 大人でもこうは書けるものではない、深みのある内容と、明晰な文章で綴られたみごとな読書感想文である。

 題材は『セロひきのゴーシュ』。ゴーシュと動物たちの物語が、彼女自身の体験と供に語られていく。

 正直にいう。読んでいる最中、何度となく目がうるんだ。二、三滴、涙がこぼれ落ちたかもしれない。

 はてなブックマーク - 小学校2年生の作文に泣かせられたよ。 - Something Orange

中村咲紀ちゃんの感想文について正直な感想を言うのは難しい。
自分の感情をそのまま書けば「ケッ、しゃらくさい」「こまっしゃくれたガキは嫌らしい」である。
だが小学二年生の文章に大人が腹を立てるのも恥ずかしい。感情を抑えて技術的な面を評価すればほめるしかない。
「大人でもこうは書けるものではない、深みのある内容と、明晰な文章で綴られたみごとな読書感想文」というのはまさにその通りだ。

もしも自分が小学校の先生で、二年生の生徒がこんな感想文を書いてきたらどうだろう。
まず当惑する。小学二年生の頭脳のどこからこんな文章が出てくるのか理解できない(代筆の疑いとは別に)。「よく書けたね」とほめはするけれど感激に目を潤ませはしない。点数をつけるなら最高で80点だ。「子供らしからぬ上手さ」にあまり高い評価を与えるとかえって教育的に良くないように思う。
100点は付けなくてもたしかに並外れた出来なので、同僚教師に「うちのクラスの生徒がこんなのを書いたんですが…」と見せるだろう。すると教師たちは仰天して「すばらしい」「感激した」「どうして100点を付けないんですか」と大騒ぎし、あれよあれよという間に(私を除く)満場一致で全国読書感想文コンクールに応募することが決まる。天才小学生の傑作を正当に評価できなかった自分は「生徒の才能をつぶしかけた無能教師」というレッテルを貼られる。当然の報いである。

多くの読者を感激させ目に涙を浮かべさせるのが「いい文章」であるのなら、件の感想文は文句なしの傑作だ。
だがまったく私の好みではない。以前にも書いたことだが「小奇麗で万人受けする文章」は好きになれない。もしこれが高校二年が書いたのであれば「お前ふざけてるのか、世間を舐めてるのか。若いくせに大人に媚びて生温いこと書いてるんじゃない!いい子ぶるな!!」と背中をどやしつける。


私の好きな子供の文章は、たとえば以前に2ちゃんねるVIP板で話題になった「サマー」の詩。

 姉ちゃんの詩集Wiki!

どれも他愛なく、技巧的には稚拙で、子供っぽいとしか言いようがないけれど、読みながらついニヤニヤする。心が温かくなる。読んだ後に少しだけ「人間っていいな、可愛いな」と思える。ヤラヤラヤーイ。

どうも私は「いい話」「感動」「涙」といったものが苦手だ。特に「いかにも」な「いい話」と子供が結びついたとき疑いの目を向ける。「舐められてる」「安直すぎるじゃないか」と思う。いつからこんな風にひねくれたのかわからない。もしかしたら作詞家としての原点が「美空ひばりへのコンプレックス」だった阿久悠の影響かもしれない。勝手にしやがれ。

…と、無理やりなこじ付けをして終わる。


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