玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

何を守るのか

2006年01月28日 | 皇位継承問題
「わかってないのはあなたのほうじゃないですか?」と突っ込みたくなるけれど。

asahi.com: 皇室典範改正案、自民内に慎重論 首相は反対派を牽制
政府が今国会への提出を予定している女性・女系天皇を認める皇室典範改正案について、自民党内で慎重論が強まっている。武部勤幹事長、久間章生総務会長、青木幹雄参院議員会長ら執行部が27日、国会内で意見交換し、「一度国会へ提出すれば修正は難しいので、慎重な対応が必要だ」との考えで一致した。
(略)
 一方、小泉首相は27日、「女系天皇を認めないという議論は、仮に(敬宮)愛子さまが天皇になられた時に、そのお子さんが男でも認めないということ。それをわかっていて反対しているんですかね」と述べ、慎重論を牽制(けんせい)した。首相官邸で記者団に語った。

「女系天皇」(*)を認めない人々(私を含む)はまさに「愛子さまが天皇になられた時に、そのお子さんが男でも認め」られないからこそ今回の皇室典範改正に反対しているのであって、小泉総理の発言はトートロジー(同語反復)でしかない。
まさか小泉総理が「反対派は『女系天皇に反対すること』の意味を分かっていない」と勘違いしているとは思えないので(多少の危惧はある)、この発言はもう少し別の意味に読み解くべきだろう。

私が勝手に解読した(妄想した)小泉発言の真意はこういうことになる。
 「愛子様が次の天皇になるのはほぼ間違いない」
 「国民感情がそれを望んでいるからだ」「男系・女系を理解して反対している国民は少ない」
 「数十年後、愛子皇太子(天皇)が出産されるころにはさらにその傾向は強まっているだろう」
 「民主主義国では国民の意思が絶対だ」
 「女系容認は時代の趨勢なのだから、反対派は無駄な抵抗をしないほうがいい(郵政反対派のようになりたくなければ)」

簡単に言えば「時代の趨勢」「国民感情」をバックにした脅しである。

小泉総理や「女系天皇」容認論者の意見にも一理はある。
皇室に男子が40年間生まれていないのは事実だし、国民の多くが「愛子様を皇太子に」と望み、「男系・女系」の違いを理解している人は少ない。そして日本国憲法第一条にはこう書いてある。
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
皇室の地位は国民感情に支えられている。国民感情が「女系容認」なのだからそれに乗っかるのが楽だし、無理がない。
「有識者会議」のように「皇位の安定した継承」を至上価値として判断すれば、「女系天皇」に反対する理由は何もないように見えてくる。


私に言わせてもらえば、彼らは真に守るべきものを見失い、完全に本末転倒している。
「現在」と「未来」のみを考えれば「万世一系の皇統」にこだわるのは無意味なことだろうが、皇室の存在は「過去」(歴史)なしにはありえない。はるか歴史以前の昔、建国神話の霧の中から生まれ現在まで途絶えることない皇統こそが皇室の尊さを維持し伝える芯である。現在の皇室・皇位を守るため過去千数百年続いてきた万世一系を断ち切るのは「果実を守るために果樹を切り倒す」ような愚かしい行いとしか思えない。
歴代すべての天皇の父親を遡ると必ず神武天皇(の伝説)に直結するというこれ以上ない血筋の明快さと正当性こそを守るべきであって、「日本国憲法に定められた皇位」を「安定的に継承」するため「女系天皇」を認めようというのは無茶苦茶な話だ。

 万世一系が絶たれれば神話との結びつきを失い天皇とは別のものになる。そのため「女系天皇」と括弧に入れる。

■ 関連記事
  皇位継承問題と「不滅の法灯」
  千数百年の伝統を守れ

誰かに似ている

2006年01月25日 | 日々思うことなど
ここ数日、テレビで大量に流れるライブドア前社長・堀江氏の映像を見ていて不思議な感じがした。
…なんて幼いんだろう。

彼の話し方や表情はまるで高校生のようである。
「~じゃないですか」「~ですよね」「~でしょ、違いますか」といった押し付けがましい語尾を多用するが、それは彼が他者からの承認を求めずにはいられない心の弱さを隠していたからかもしれない。
それとも単に無神経で図太いだけなのか。
私には分からない。

人並みはずれた才能と未熟な人格、そのコントラストの極端さが誰かを思い出させる。
そういえば、以前にもああいうタイプの人間を見たことがある。
成功と急激な転落ぶりも似ている。でも誰だっけ?
…としばらくの間気になっていたけれど、なかなか思い出せなかった。
モヤモヤしつつスポーツニュースを見ていたらやっと思い出した。
1987年に力士を廃業した第六十代横綱・双羽黒だ。

Wikipediaで双羽黒の項目を読んでも「パソコンマニア」以外に堀江氏との共通点は見つからない。
けれど、私の中では「ホリエモンは双羽黒なのだ」という見立てはとても納得できる。
才能の無駄遣いぶりというか、プラスチックの皿にご馳走を盛ったような台無し感というか。

実を言えば、双羽黒の現役時代けっこう彼を応援していたような気がする。
特に入れ込んでいたわけではないが、当時無敵を誇った千代の富士に対して勝率が高かったからだ。
今ホリエモンを応援する人たちの気持は昔の私が双羽黒を応援した気持に近いのかもしれない、と想像してみた。
だが、何しろ20年近く昔のことで当時の自分の感情をよく思い出せない。

角界を追われた双羽黒が格闘家・北尾光司としてよみがえったように、いつの日か塀の中から帰るホリエモンも事業家として復活するのだろうか。
そしてホリエモンファンはまたしても彼を一生懸命応援するのだろうか。
想像するだけでちょっとうんざりしてしまう。

それは「中傷」なのか?

2006年01月22日 | 日々思うことなど
ずいぶん前のことなので今さら取り上げるのもどうかと思うが、ちょっと気になったことを書く。

「朝日新聞が新成人中傷」 浦安市長が社長に抗議文
 千葉県浦安市は13日、同市が東京ディズニーランド(TDL)で行った成人式についての朝日新聞のコラムが「本市の新成人に対する中傷だ」として、謝罪や掲載に至った経緯などの説明を求める市長、教育長名の抗議文を同社長あてに郵送した、と発表した。
 同紙の10日付夕刊の1面コラム「素粒子」は、成人式について「浦安の新成人。遊園地のネズミ踊りに甘ったれた顔して喜んでるようじゃ、この先思いやられる」とシニカルに書いている。
 浦安市は「新成人が自ら実行委員会を立ち上げ、皆で考えて作りあげた式だったのに『ネズミ踊り』という表現は配慮が足りない」としている。
 式はTDLで約40分間行われ、そのうち5分間程度、ミッキーマウスなどのキャラクターがショーに出演したという。


この事件(?)そのものについては特に意見はない。と言いつつちょっとだけ書くが、もともと私は「成人式」なるものが嫌い(無駄だからやめちまえと思っている)で、ディズニーが嫌い(子供のころから性に合わない)であり、その二つが合わさった「ディズニーランドでの成人式」はもちろん大嫌いである。しかしながら朝日新聞も嫌いなので積極的に肩を持つ気にもなれない。どちらも好きなだけやってくれ、という感じである。

私が書きたかったのは「ディズニーランドで成人式」や「朝日のコラム」の是非ではなく、浦安市の抗議文で「中傷」という言葉が使われているのは変じゃないか?ということである。
抗議文の全文はこちら
浦安市長、教育長どちらの抗議文にも「中傷」という言葉が使われているけれど、どうも不適切に思える。
「中傷」の意味は辞書によるとこうなっている。
ちゅうしょう ―しやう 0 【中傷】
(名)スル
根拠のない悪口を言い、他人の名誉を傷つけること。
「―によって失脚する」

三省堂提供「大辞林 第二版」より
「根拠のない」悪口が中傷なのであって、「素粒子」の書いていることとは違う気がする。
「ディズニーランドで成人式が行われ、新成人の多くは『式典前後に行われたショータイム』を見て喜んだ」のは(おそらく)事実であって、浦安市もディズニーランドも新成人もそれを否定しないはずである。「ネズミ踊り」「甘ったれた顔」という言葉に文句を言いたくなる気持は分かるが、それを中傷と呼ぶのは違うと思う。
市長の抗議文では「記事の内容を推察すると、式典前後に行われたショータイムの部分(オープニング時2分、フィナーレ時3分、計5分)のみを捉えた記事であり、新聞の責務である正確で公正な記事であるとは言い難く、かつ、新聞は天下の公器といわれているが、夕刊の一面まして「素粒子」欄の中での実に品のない文章であり、内容である。」と書かれている。私がこれを一言にまとめるなら「歪曲報道」(コラムは報道なのか?という疑問もあるが)あるいは「誹謗」「侮辱」であって、中傷という言葉にはならない。

もし仮に「素粒子」が「浦安市の成人式は『ネズミ踊り見物』だけで式典らしいことは何も行われなかった」と書けば、それは明らかに事実と異なるので中傷となる。
反対に「新成人の誰も『ネズミ踊り』を見て喜ばなかった、こんな成人式を企画した浦安市は馬鹿だ」と書いてもやはり中傷だ。
だが、「浦安の新成人。遊園地のネズミ踊りに甘ったれた顔して喜んでるようじゃ、この先思いやられる」という文章は、私にはどうしても中傷(根拠のない悪口)とは考えられない。「ネズミ踊り」を見たこと、新成人が喜んだことは(おそらく)事実なのだから。
中傷ではなく誹謗・侮辱されたことを「中傷された」と称するのはそれこそ「根拠のない悪口」なので、素粒子の筆者が「浦安市に中傷された」と言ってもおかしくない。もちろんこれは冗談だが。

「『中傷』でも『誹謗』でも悪口であることに変わりはない、その違いにこだわることにどれほどの意味があるのか」と疑問に思う読者もおられるだろう。
だが、私は似たような概念、取り違えやすい言葉だからこそはっきりと区別して使う必要があると考える。
Googleで「中傷」を検索すると上位に浦安市成人式関連のリンクが多く並んでいる。
私にはどうしても中傷とは思えない(誹謗であり侮辱であるけれど)「素粒子」の文章が中傷の代表のようになるのはどうも気色が悪い。
Googleの検索結果を見てみると、「誹謗中傷」と一体化して使われたり、誹謗(根拠のある悪口)された場合でも中傷されたと称している例がかなり見受けられる。おそらくは悪口を言われたことに腹を立て、「その悪口に全く根拠はないのだ」と言いたくなる気持ちが「中傷」という言葉を使わせるのだろうが、不適切な言葉を使っていると頭が悪そうに見えるのでやめたほうがいいと思う。

水からの伝言

2006年01月21日 | 日々思うことなど
あなたは「地球上に住むどんな人にも適用でき、だれもが納得する、そしてこの世界をシンプルに説明することができる、たった一つの答え」に興味がありますか?

最近「水からの伝言」という本が評判になっているという。
同じ著者の同シリーズ本「水は答えを知っている―その結晶にこめられたメッセージ」から一部を引用する。
だれもが、このアリ地獄のような世界の中で、救いを求めています。だれもが答えを求めているのです。その一言で世界が救われるような、シンプルで決定的な答えを、さがしつづけているのです。(p.11)
私は、ここで、それを提示したいと思っています。それは、人間の体は平均すると七〇%が水である、ということです。(p.12)

わはははははははははは。
思わず大笑いしてしまった。「その一言で世界が救われるような、シンプルで決定的な答え」が「人間の体は平均すると七〇%が水である」なのかよっ!
こりゃ「生命、宇宙、そして万物についての究極の答=42」に匹敵する素晴らしいナンセンスだ。
…とネタ的に大いに感心したが、なんとこのトンデモを教育現場で情操教育の教材として利用する教師がいるという。
なんてこった。

*上記の引用はHal Tasaki’s -<log p>:水は答えを知っているから転載させていただいた。
プロの理論物理学者が書いた「水からの伝言」批判である。長文だがとても読みやすい文章である。ぜひリンク先をお読みください。


実際に小学校の朝礼で使われた一例を挙げる。

 「水からの伝言」(出版 波動教育所)の写真を使った,全校朝会での話(10分間)である。
(略)
説明2  どちらも同じ水道からとった水です。同じ冷蔵庫で凍らせました。
発問3  でも,形が全然違いますね。なぜでしょう。
    これだけでは少し難しいようだったのでヒントを与えた。
説明3  ヒントを言います。じつはひとつだけ違うことをしました。水に何かをしました。何をしたのでしょう。
   ・「Bに塩をかけた。」
説明4  答えは言葉かけをしました。二つの水を入れたコップにある言葉を書いたシールをはって一晩おきました。
      一晩経つと,同じ水から作ったのに違う結晶になりました。
発問4  どんな言葉を書いたのでしょう。その二つの言葉は、みんなもよく使ったり聞いたりする言葉です。
   ・「え?」 ・「ありがとうかな?」 ・指名して聞いていった。
説明5  そうです。答えは「ありがとう」と「バカやろう」です。
(略)
発問6  さて,私たち人間の体には,どのくらい水が入っているでしょう。
   ・「三分の一」 ・「半分です」 ・「三分の二です」 (黒板に人型を書き意見を色チョークで塗って記入していく)
説明8  じつは私たちの体は70%以上が水でできています。受精卵では95%,お母さんのお腹の中では90%,
      生まれたときに80%,生きている今は70%,死ぬときに50%になると言われています。だから,自分で
      わかっていなくても言葉によって,体の水分はそれなりの反応をしていることになりますね。
発問7  最後にこれ(E)とこれ(F)にかけた言葉を当てて下さい。
説明9  Eは「むかつく,殺す」という言葉をかけられた水の結晶です。すごい形ですね。
      Fは「愛・感謝」という言葉です。さらにきめ細かい美しい結晶となってますね。
説明10 こちら,プラスの言葉と言います。こちらは,マイナスの言葉と言います。水にかけた言葉で,形が
      こんなに変わるのですから,水で出来ている私たち人間にも,どちらがいいか,わかりますね。言葉
      というもの,文字というものの人体への影響は,すごいものといえるでしょう。「ありがとう」の言葉,
      優しい言葉,相手をはげます言葉,そういう言葉だけが私の口から出ますように。
      そして,すべての人の体の中の水がいつもきれいな結晶を作っていられますように。
      お互いが相手のダイヤモンドの輝きをいつも見ることのできますように。。。終わります。

※45分間の授業として行う場合は,発問の後に,発表でなく,書かせたり,討論させたりすると良いだろう。

~水からの伝言~(水が伝えるもの)より引用(読みやすくなるよう改行を変えた)。
読んでいるうちに脱力し、「信じられない」という思いがだんだん怒りに変わっていく。

怪しげな実験で作られた水の結晶を例にして「善意を投げかければ必ずよい結果が返ってくる」という信仰を広めようとする人たち、そして簡単にそれを信じてしまう人たち(教師たち)とはいったい何なのだろう。
実に安直であり、自分の頭で考えることを放棄しているとしか思えない。
人間とは「Aを与えれば必ずA´という結果が返ってくる」ような単純な存在ではない。
Aに対してBやC、ときにはΣや罩(←読めない)といった意外な答えが返ってくるのが人間の不思議さであり、素晴らしくかつ難儀なところである。
我々の生きている世界は美しくも複雑で時には残酷である。「美しい言葉・良き意思が必ずよい結果を生む」ほど単純ではないのだ。それくらいのことは20歳、いや12歳以上であればほとんどの人間は身に沁みて思い知らされるものだと思っていたが、そうではない人が多くいることに驚く。

人間性の複雑さを否定し、単純な型に嵌めこもうとするのはそれこそ「非人間的」である。
その発想法は(100%の善意に基づいているとしても)ファシストや共産主義者と変わるところがない。
現実の複雑さを否認して単純で美しい夢想を称揚するのは教育ではない。
そのような「教育の名のもとに行われる愚かさの押し付け」は愚育と呼ぶべきだろう。

参考リンク
ニセ科学入門
kikulog:水伝:mixiに書いたこと
7635log | 江本勝「水は答えを知っている」(サンマーク出版)レビュー
あなたは「水」に答えを求めますか
どらろぐ・「水」別館
「水からの伝言」を教育現場に持ち込んではならないと考えるわけ
「水からの伝言」関連リンク集-選定版
水商売ウォッチング
    「TOSSランド」(教育技術法則化運動)へのコメント
    「水からの伝言」江本氏の主張

神は「だっちゅーの」を真似しない

2006年01月19日 | テレビ鑑賞記
小林聡美とともさかりえは、女優だなあ。

毎日ブログを読ませてもらっている大石英司先生の作品「神はサイコロを振らない」ドラマ化されたので期待して見た。
原作は読んでないので(大石先生ごめんなさい)、ドラマがどれくらい原作に忠実なのかは分からないがなかなか面白かった。
何といっても小林聡美とともさかりえという二人の主演女優が芸達者で魅力的だ。
10年の時を越えて再会した二人が表情(と内心の言葉)だけで会話するシーンは、彼女たちの持ち味が生かされた名シーンだった。何でもかんでも安易にセリフで説明するドラマ(たとえば「戦は嫌いだ!」と何度も子役に言わせていた「功名が辻」とか)にくらべてずっと好感がもてる。

見ていてちょっと違和感を感じたのは、10年前からタイムスリップしてきた飛行機の乗客の一人が「だっちゅーの」の真似を何度もやっていたこと。
「あれ、パイレーツってそんなに昔だったっけ?ついこの間の流行のような気がしていたが… 俺も年取ってジャネーの法則に捕まったか」と寂しく思っていたが、検索してみると「だっちゅーの」が流行したのは1998年のことではないか!
時間をテーマにしたドラマなのだから、わずか二年の違いではあるけれどおろそかにしてほしくなかった。

正直言ってあまり視聴率は期待できそうにない(最高で15%くらいか?)地味なドラマだけれど、最終回まで見て損はなさそうだ。
大石先生の原作本もたくさん売れるといいですね(…って、自分は買わないのかよ)。

「反小泉ブロガー同盟」に新たな動き

2006年01月17日 | 「世に倦む日日」鑑賞記
なかなかいいアイデアだと思ったのだが。

とりあえず:反小泉ブロガー同盟主催、「輝け、小泉名言大賞」(企画案)
今までの自民党の首相たちも「不沈空母」「天皇を中心とする神の国」など、数々の名言を残して来たが、名言といえばやはり小泉首相の右に出るものはいないと思われる。
そこで今年9月に総裁の座を降りる小泉さんの名言を歴史に残すべく、今までの言行録からエントリーを募集し、どれが最高かをみんなで決めよう、という企画を提唱したい。

エントリーは一般に求めてもいいのだが、散漫になる恐れがある。そこで、小泉さんをつねづねウォッチしている、私の愛する反小泉ブロガー同盟のみなさんにあげていただければきっといいものができあがるだろうと考えた。どの時点での同盟員とするかについては、難しいところだが、今日でもいいと思っている。
ついでに、反小泉ブロガー同盟の宣伝にもなれば一石二鳥である。そこで、反小泉ブロガー同盟主催の企画となるよう、希望している。最終的には、反小泉ブロガー同盟のページに掲示していただいてよいと思う。

このluxemburg氏の提案がさまざまな反響を呼ぶ。
早速thessalonike氏が切り捨て宣言。

STOP THE KOIZUMI:発起人よりのおしらせ  (1/16)
以前より、繰り返してお願いしておりますが、ブロガー同盟の新規プロジェクトおよびその他のご提案につきましては、ブロガー同盟事務局まで直接にメールフォームにてご相談をお願いいたします。 

なお、一部に「反小泉ブロガー同盟主催」と僭称して、ブロガー同盟の企画を捏造して宣伝している向きがありますが、それはわれわれの運動とは無関係の取り組みですので、賛同メンバーの皆様には誤解のないようによろしくお願いします。

それに対する反発。

T.N.君の日記:やれやれ(2)
とりあえずさんが反小泉ブロガー同盟主催、「輝け、小泉名言大賞」(企画案)なる、楽しげで、かつ小泉政治の本質を鋭くえぐるナイスな企画を提案されました。記事を読みながら、私にもエントリーの資格があるのだろうかと読み返しながら、うーん「小泉語録かー」なんかいいのなかったかなーと、思案を巡らしておりました。
 
 そんな矢先の出来事に、またしても、やれやれpart2 です。

 例の件で、同盟を去った私ですが、その後繰り返される愚行の度に、腑が煮えくり返る思いでおります。当時、多くの野次馬が例の経緯に興味津々で、普段30にも満たなかったブログのアクセスが300にも跳ね上がる状況下で、批判めいた記事をエントリーするのは、反小泉ブロガー同盟にとっても私自身を守る為にも得策ではないと思われたので、沈黙を守ることにしました。今でもその件に関しては一切を明かすつもりはありませんが、その後も同様の事が繰り返されるに及び、当時沈黙したことが、ここまで根を深くしてしまったのではないかと思わずにはいられません。

 911選挙以降、危機感を募らせてブログを始めた人々の、柔軟で前向きな行動をつぶすような行為は、断じてしてはいけないことなのです。

雑談日記(徒然なるままに、。): 本日確認、「改革ファシズムを止めるブロガー同盟」のリストからはずされました。
エントリー、「反小泉ブロガー同盟主催「輝け、小泉迷言大賞」(企画案)に賛同の挨拶代わりの「小泉語録」アップです。」で同盟ブログ「とりあえず」さんの「『反小泉ブロガー同盟主催「輝け、小泉名言大賞」』(企画案)」を紹介したのが同盟リスト追放の表向きの理由らしい。
(略)
※それにしても、こんなことでブロガー同盟が当初言っていた"左翼"と"右翼"の反小泉を一致点にした大連立・共闘なんてできるのか?(笑)

※いっぺんのメールでの警告もなく、いきなり切って捨てると言うのは小泉のやり方よりも陰湿です。反小泉をうたっている運動体が小泉以上のファシズム原理なんて冗談がきつすぎる。

とりあえず:コメント・トラックバックの方へ
 私の出した企画に対して、「僭称」である、逆に「握りつぶした」と両方から問題にしている方がいらっしゃいますが、違います。

 最初から「(企画案)」と書いていますので提案段階であり、僭称しているわけでも何でもありません。私は同盟員である以上、企画案を出すことは(おそらく)できるはずで、それ自体をどうこういわれることはありません。

BLOG版「ヘンリー・オーツの独り言」 ブロガー同盟の可能性
とりあえずさんの「輝け、小泉名言大賞」(企画案)はブログで可能なひとつのおもしろいアイディアだと思います。その前向きな提案を何のテーブルに乗せることもなく、いきなり削除してしまう姿勢は小泉以上に独裁的だと感じるのは私だけではないと思います。

「気にいらないのであれば出て別の組織を作れ!」そう言いたいのももっともかもしれません。ただ、我々はあくまで「反小泉」という一点で賛同しただけであり、その運営に関する取り決めを一任したわけでもありません。ましてやTBに対する対応や同盟員の除名などについても当然一任するものではありません。「自分が作ったものだから自分のやりたいようにやる」というのであれば、それは独裁そのもの「小物のジャイアン」以外の何者でもありません。

熱い想いを持って集まった人たちであればこそ、そこにはいろんな想いが存在するわけで、同じ方向で行動を起こすためには話し合いも必要です。場合によってはケンカになることもあり得ることです。もうそろそろ国会が召集され、様々な改悪法案が提出されんとする今こそ、ブロガー同盟としてその可能性を大きく現実化させたいのです。「1.何も提案できない。2.提案されたものは潰す。3.ふたり増えればひとり切る。(これはあくまで推測です。)」こんな現状を許せますか?

さて、これからどうなるのだろうか。

ライブドアの転倒

2006年01月17日 | 日々思うことなど
「びっくりした」と書くべきなのかもしれないけれど「ああやっぱり」「いつかこうなると思ってた」と書いたほうが自分の気持に正直な気がする。

ライブドア家宅捜索、六本木ヒルズなど騒然
ライブドア本社や堀江貴文社長の自宅がある六本木ヒルズ(東京・港)には16日夜、東京地検特捜部の係官らが険しい表情で次々と家宅捜索に入った。

 ヒルズ内の森タワー38階にあるライブドア本社で捜索が始まったのは午後6時半過ぎ。ヒルズ観光に訪れた買い物客、同タワーで働く企業の社員らが見守る中、手提げかばんを持った特捜部の係官ら10人以上がホールに集まり、高層階行きのエレベーターに乗り込んだ。

 係官らが同社に入る瞬間、報道陣のカメラのフラッシュがたかれると、広報担当の女性社員が「撮影はやめて。お帰りください」と絶叫。捜索開始前には「こちらも事情が全くわからないんですよ」と携帯電話で説明していた社員らは、遠巻きに様子を見守っていた。

 突然の捜索に周辺は騒然とした雰囲気に。食事に来た大学3年の男性(21)は「堀江社長はあこがれの人だった。ライブドアの入社試験を受けたいと思っていたけど考え直す」とため息をついた。


私は株のことも企業買収についても無知なので、今回の事件そのものについては何もわからない。
ただ以前からライブドアという会社の本質は「成長イメージだけが売り物の自転車操業」だと思っており、調子に乗って社長が選挙に出るような片手運転をしていたら小石に乗り上げるだけで転倒するだろうと感じていた。
自民党は堀江氏を公認しなくてよかったし、広島6区の有権者の皆さんは彼を当選させなくて賢明だった。
今だから言うが、もし自分が広島6区に住んでいたとしたら堀江氏には投票しなかっただろう。小泉総理のファンであることを何度も書いている私だが、「小泉総理への好感」と「自民党(系)候補への投票」は必ずしも同じではない。堀江氏の個性が性に合わないし、彼に代表されるようないわゆる「新自由主義」についても好感を持てない。だから棄権したか、民主党候補に投票していただろう。

今回の事件がライブドアの今後にどれほど影響するかはわからないが、これまでのような一直線の拡大路線を続けることは無理だろう。一度立ち止まり企業体質の見直しをしなければ損なわれた信頼や期待を回復することはできない。
ちなみに私が愛読する人気ブログ「世に倦む日々」ではライブドアの未来について次のように書いていた。
小泉自民党が勝利した場合は、その最大の功労者は堀江貴文である。だから堀江貴文は論功行賞として二つの利権を手に入れる。一つは郵貯民営化利権、もう一つはNHK払下利権。
どうやらthessalonike氏はライブドアの大いなる発展を予測していたらしい。
常に逆の形で予言を的中させるthessalonike氏は、さすがである。

目的と手段

2006年01月13日 | 政治・外交
どう考えても逆効果としか思えないのだけれど。

■ 朝日新聞社説 「自民総裁選 靖国を避けて通れるか」
世論調査などで一番の人気は安倍官房長官である。その安倍氏が首相の靖国神社参拝の是非について、総裁選での争点とすべきではないと言い出した。

 「総裁選で議論することで、より外交問題化、政治問題化する。本来、外交問題化、政治問題化させないことが大切ではないか。この問題について議論を深めていくことが果たして本当にいいのか」

 これに対して、総裁選への意欲を見せ始めた山崎拓・元副総裁が「次の首相が参拝するかしないかはアジア外交に影響する」と反対する声をあげた。

 連立政権のパートナーである公明党の神崎代表も、次期首相は参拝を自粛すべきだという考えを示した。


 一方、小泉首相は安倍氏を応援するかのように「靖国は心の問題だ」と持論をぶった。だから、政治の争点にしない方がいいというわけだ。

 私たちも、戦没者をどう追悼するかの問題が争点になるのは悲しむべきことだと考える。だが、現実に大きな争点になってしまっているのは明らかだ。

 中国や韓国との政治的な対話のパイプは詰まり、苦労して作った日中韓の3カ国首脳会談まで流れてしまった。東アジア共同体構想をはじめ日本のアジア外交が行き詰まり、欧米からも懸念の目を向けられている。

 中国など相手側に問題がないわけではない。それでも、こじれにこじれた外交をどう立て直すか、次期総裁つまり次の日本首相の座を争う政治家たちに、打開策が問われないはずがないではないか。


■ 中日新聞社説 「その居直りがいけない」
 外遊先のイスタンブールでも首相は靖国にご執心だったようだ。年頭会見と同じ発言を繰り返した。おれの勝手だ、余計な口を挟むな、と言わんばかりに。まるで批判されるのを楽しむように。

 物事を単純化して異論を退けるような、発展性のない議論につきあうつもりはさらさらないが、理解に苦しむ点はただしておきたい。

 首相は自民党総裁選の争点に関して「靖国の問題を自分から提起したことはない。参拝しろとか、してはいかんとか、誰にも言うつもりはない」と述べている。

 二〇〇一年総裁選で八月十五日参拝を公約して、党の有力支持団体、日本遺族会の票獲得に動いたのは誰だったか。小泉氏である。

 それでいて、ポスト小泉の総裁選は靖国を争点にするな、と言うのなら、そんな身勝手はない。

 盟友であった山崎拓氏が「外交問題でないと強弁しても、内政問題であり、争点になる」と言っている。その通りだ。次の総裁は小泉スタイルを継ぐのかどうか、党員も、国民だって、知っておきたいだろう。

 そもそも、靖国参拝をわざわざ目立たせて、外交問題に発展させたのは首相自身だ。いまさら「精神の自由、心の問題だ」と自分の殻に閉じこもるのでは、無責任だろう。


靖国参拝の是非、それ自体についてはひとまず擱く。
理解しがたいのは、朝日新聞と中日新聞の社説がどちらも「総理の靖国参拝に反対」しつつ「自民党総裁選で『靖国問題』を争点に」と主張していることだ。

最近の世論調査によれば、小泉総理の靖国参拝について国民の賛否はほぼ拮抗している。
反対派には野党および公明党の支持者が多い。
逆に言うと、世論調査から野党と公明党の支持者を除けば参拝支持の割合はさらに高くなるはずである。
総裁選で投票するのは自民党員である。保守政党である自民党の党員は、国民の平均よりは参拝への支持率が高いことは容易に想像できる。朝日や中日のように「靖国参拝の是非を総裁選の争点にせよ」と主張することは、自民党内の参拝支持派のエネルギーを高め、安倍氏や麻生氏への追い風になるだろう。

もし私が参拝反対派で「自民党には参拝支持派が多い」ことを知っており、「次の自民党総裁=総理大臣は靖国参拝しない人が望ましい」と考えるなら、「靖国問題を争点にすべきだ」とは決して主張しないだろう。敵が優勢なところで戦いを挑んでも勝利を得る見込みは薄い。むしろ意中の参拝反対派候補が「靖国問題」以外(たとえば景気回復、財政再建等)を前面に押し立てて総裁選を戦うことを望み、それを支援するだろう。

結論として、マスコミや評論家が「自民党総裁選で靖国参拝を争点にすべき」と主張すればするほど参拝支持の候補者を利することになる。小泉総理と安倍氏が何を考えて「首相の靖国神社参拝の是非について総裁選での争点とすべきではない」と言ったのか定かでないが、もしも「マスコミが反発して靖国の争点化を主張する」のを目論んでいたのだとしたら見事というほかない。
仮に小泉総理自身が「総裁選では靖国参拝が争点になる」と語っていたら、朝日や中日は「他にもっと大事なことがある」と主張していただろう。「何でも反対」という硬直した姿勢が小泉総理のフェイントに惑わされ逆に利用されたのではないか。

けものみち

2006年01月13日 | テレビ鑑賞記
松本清張ドラマの米倉涼子は好きだ。

木曜ドラマ 「松本清張 けものみち」

「黒革の手帳」でも魅力的だった。
ほかのドラマでの米倉涼子は好きではない。特に大河ドラマ「武蔵」でのおつう役はなんとなく下品で、武蔵よりも体が大きく強そうなのでうんざりさせられた。本人はがんばって演じていたようで(ほとんど見ていないので実際のところどうだったのかは知らない)責めるのは気の毒だけれど。

ところが、松本清張ドラマでは米倉の下品なまでの強さ、たくましさが逆に魅力となる。
「黒革の手帳」「けものみち」どちらの主人公も悪女だけれど、ほかの登場人物がそれに輪をかけた悪人や曲者ばかりなので、むしろ女らしくかわいらしく感じる。
「けものみち」では特に若村真由美が怖すぎて、米倉がまるで可憐な少女のように(言いすぎ)見えてくる。

テレビ朝日は「米倉涼子主演・松本清張ドラマ」をすっかり手の内にしたようで、キャスティングや演出に迷いがない。平幹二朗・佐藤浩市といった実力派をそろえ、光と影を生かしたおどろおどろしい画面作りは昭和の香りを漂わせて重厚だ。

原作の小説は以前に読んだ気もするが、ずいぶん前のことですっかり忘れてしまった。
これから3ヶ月のあいだドラマを楽しめそうだ。

ちょっと気になるのは裏番組「白夜行」の視聴率。
綾瀬はるかを応援したいけれど、「けものみち」がこれだけ面白いと苦戦しそうだ。
かくいう私も「白夜行」を録画して「けものみち」を見てしまったし。
「白夜行」はどうも重すぎ暗すぎて、「けものみち」のような悪の爽快さがなくて見るのが辛そうである。

トラックバック無党派

2006年01月10日 | ネット・ブログ論
* 追記しました(1月12日)

トラックバックをめぐる「文化衝突」について見事にまとめられた記事。

トラックバックをめぐる4つの文化圏の文化衝突――「言及なしトラックバック」はなぜ問題になるのか [絵文録ことのは]2006/01/06
リンクなしトラックバックが「アクセスを奪う」という表現についての補記 [絵文録ことのは]2006/01/08

「ことのは」の松永さんはトラックバックについての意識によってブロガーを4つのグループに分類している。
「言及リンク文化圏」
「関連仲間文化圏」
「ごあいさつ文化圏」
「SPAM文化圏」
さて自分はどうだろう、と考えてみたが特にどのグループにも帰属している感じはしない。
それぞれのグループに対する共感と違和感を数字にしてみる。

「言及リンク文化圏」 共感 70% 違和感 30%
正統派のトラックバックマナーだが、ときどき原理主義的で鼻につく。
これ「だけ」がトラックバックの使い方だとは思わない。

「関連仲間文化圏」 共感 40% 違和感 60%
それなりに楽しそうだが、あくまで仲間うちの慣習だろう。
これが常識になってほしいとは思わない。

「ごあいさつ文化圏」 共感 10% 違和感 90%
あまりにもムラ社会的。
モヒカン族のはしくれである自分は好きになれない。

「SPAM文化圏」 共感 20% 違和感 80%
スパムTBは迷惑で良くないが、やる人の気持もわからなくはない。
実を言えば自分もブログを始めたころにはあちこち大量にリンクなしTBを送っていた。
あれはスパムだ、と言われても返す言葉がない。どうもすみませんでした。

自分がトラックバックをもらったとき「いいTBだな」と思う基準を順に並べてみる。
1・面白い記事
2・関連性のある記事
3・記事内にリンクがある
「面白い記事なら、関連が薄くてもリンクがなくてもうれしい」(関連がありリンクされていればもっとうれしい)
「普通レベルなら、関連してなければ嫌だしリンクしてほしい」
「つまらない記事は、関連性がありリンクされていてもうれしくない」
ということになる。

自分の記事はせいぜい普通レベルの面白さなので、基本的には「関連した記事・リンクあり」の場合だけトラックバックしている。
たまに「これは面白い」「価値のある記事だ」とうぬぼれて「(関連なし)リンクなし」トラックバックを送ることもある。
どちらにしてもたいした事は書いていないので、「つまらない」と判断され消されても文句はない。

(追 記)
■ Before C/Anno D: FYIトラックバック、か
■ トラックバックの想定する受益者 @ 2006年01月 @ ratio - rational - irrational @ IDM

松永さんの記事がどちらかというと「製造者(ブロガー)主体」なのに対し、「消費者(読者)主体」のトラックバック論。
私にはとても納得いく考え方である。