玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

津田大介氏と「素直になれなくて」

2010年04月18日 | ネット・ブログ論
たまたま津田大介氏のtwitterを見たら、話題のドラマ「素直になれなくて」について議論されていた。
なんだか面白かったのでまとめてみた。twitterアカウントを持っていればtogetterで簡単にまとめられるのだが、私はtwitterをやってないので全部手作業でコピペした。たぶんアカウントを取る10倍か100倍くらい手間がかかってる(バカだ)。
青い字が津田氏の発言で、黄色の斜体はそのほかの人たち。
@とかRTとか見づらいので、そのまま読めるように全部開いてある。



素直になれなくての第一回見終わった。なんだ面白いじゃん! 俺的には全然あり。傷付いた俺の心を癒せるのはあのドラマだけだよ……。
 tsuda

北川悦吏子がツイッターにハマり始めたのはツイート見てると確か4話とか5話あたり書き始めたくらいだったと思うので、もまえらあんま叩くばっかりはやめた方がいいと思います。最初から色眼鏡で見てたら最後まで色付いたままでしか見られないよ。
 tsuda

いやーでも今までテレビドラマとかでインターネットがどれだけ酷い扱い受けてきたか振り返れば、 #sunanare なんて相対的にマシな方じゃない? 別にあれで一般の人がツイッターに悪印象持ったとしても、ツイッター全体に対しては大して影響ないと思うけどな。
 tsuda

いちおうこのタイミングで告白しておくと、俺はロングバケーションも愛していると言ってくれもビューティフルライフも見たことないので、実は初北川脚本ドラマを見たという……。
 tsuda


申し訳ないですが90年代の感覚を未だにお持ちなんだなーと。
 mitohitomi6


最低だった00年代に比べれば90年代最高じゃないですか。
 tsuda

この流れはバラエティ番組の1コーナーでミニ四駆が適当に扱われて激怒してる小学生に似てる。みんなナイーヴだなぁ( ;^ω^)
 Atomium2011


あはは。単にドラマとしての稚拙な部分の指摘をネットとメディアの対立構造とかまで結びつける必要はないよね。
 tsuda

津田氏はドラマ化に一枚噛んでるから擁護するんジャマイカ、という色眼鏡はなくもない。けどまあ基本的にどーでもいい。TLでみんなの呟き読んでるだけでおなかいっぱい。私は私の世界を行く。
 coprolite


いやー「監修やってくれ」って頼まれたら喜々としてやったし、ツイッター上でやること報告したんですけどね……。
 tsuda

最終的には同じ船に乗ってるんだから、メディア人同士でケンカしてる場合じゃねえだろ。
 tsuda

今7話の脚本書いてるとかなのに、寧ろその程度で取材もせず脚本を書くプロ意識の低さがどうかと。
 huitaine


取材も何も彼女、めちゃくちゃツイッターやってますけど……。
 tsuda

どうでしょ?仕事のネタにするほど、やってはいない(寧ろ、勘違い)な気がしますが
 Ginzi_IT


ツイッターに「正しい」使い方なんてないんだから「勘違い」って表現はどうかと思いますよ。
 tsuda

ツイッターに対して「たかがシステム」って言うのは言い得て妙だと思うけど、正確には「たかがシステム、されど使ってる人たちを好きになるちょっとステキなシステム」ってことなんだろうね。
 tsuda

TVでやったのが「正しい」になるのです。
 adelie


いやーそんなにツイッター弱くないでしょ。あと、あのドラマはツイッターを紹介する様々なメディアのOne of themでしかないし。
 tsuda

ツイッターの使い方教えてくれって言われても困る。せいぜい教えられるのは、特徴つかみやすくするために100人フォローしろってことくらい。だから俺は「ツイッターの伝道師」でも「ツイッターの第一人者」でも「Mr. Twitter」でもないよ。単なるツイッター厨。
 tsuda

黙っていた方がいいかと。火消しや擁護なら、いまさらだし、予定調和なら注目集めの視聴率稼ぎだし。言ってなにかかわる?好転する?悪いことにしかならないときには、沈黙が吉。
 k1numata


言うことで変わることもあるよ。
 tsuda

必死さが伝わってきて痛々しいですよ。
 arinosusumu


必死という言葉の意味をよく理解していらっしゃらない方みたいですね。
 tsuda

無知ですいません。痛々しいは合ってますか。
 arinosusumu


それはあなたの感情の話ですから。
 tsuda

変わること"も"ある。今のタイミング、あなたの築いたポジション。いまさらの擁護は不自然。火消しと取られれば、状況は悪化だ。
 k1numata


今更も何も昨日の朝、俺録画見て面白いって書いてるんだけど……。
 tsuda

あ、今朝だ。失礼。
 tsuda

そういう間違いは、こういうメディアでは軽率で痛いね。twitter やネットの特性を知るあなたなら、今朝のビデオの感想にことさらこだわる理由もないはずですし
 k1numata


あなたにとって軽卒で痛いツイートしかできないかと思うので、どうぞ思う存分リムーブしていただければ^^
 tsuda

うーん懐かしいなこの感覚。ネットって楽しいね! ということで、MIAUの打ち合わせが終わったので落ちそうな原稿書きます!
 tsuda

なんだかなぁ。結局自分の主張の議論もできないできりすてるわけ?いくつかのリプライのなか、ワタシのツイートを選択したあなたの心境には、それなりの想いがあったと思いますが。
 k1numata

面白くないね。それなりのポジション持つ人が、自分の発言の意図を伝えきらないで、去っていくのは。責任とれないなら発言しない覚悟ってインターネットでは必要なんじゃない?あの脚本家も。
 k1numata


だからこの件については自分の主張は充分過ぎるほど自分のツイートでしてるから。それにあなたが納得できないってだけの話でしょ?
 tsuda

津田さんはきっとなんらかの形で協力してるからでは、と想像してます。
 arinosusumu


いや普通に何も手伝ってないから。自分が納得できないものを肯定する人がいた時になんで、「金もらってるからだ」とかそういう陰謀論的発想しかできないんだろう。
 tsuda

ドラマとしてあるいはtwitterをきっかけの題材としたものとして、どういうところがおもしろかったか欠如したまま、北川さんを擁護するようなつぶやきが多いとしか、理解できませんが?
 k1numata


「俺は面白いと思ったし、おまえらもあんまヒステリックに叩くのやめなよ。完結した作品ならまだしも完結した作品でもないのに」以上の意味はないですよ。っていうかあなたは俺が本当は面白いと思ってないのに、何らかの理由で面白いと言わされてるってことにしたいの?
 tsuda

津田氏は、twitter使ってる人が何故あの脚本家に怒ってるのか見誤ってると思う。結局、あの脚本家の人の、仕事に対する姿勢、視聴者に対する姿勢のあり方が問題な訳。
 shostakovich


いや怒りの理由がそこにあるのはわかりますがそこまで怒らなくてもいいじゃんっていう。
 tsuda

恋愛ドラマのスパイスである偶然男女が出会うきっかけに、ツイッターを使っただけで、別に「ツイッターのドラマ」を作ったわけじゃない。今怒ってる人たちは勝手に期待して勝手に失望して怒ってるように見えるんだよな。テレビ局の広報宣伝の問題はあるかもしれないけどそれも許容範囲じゃね?
 tsuda

『ついったーが出るってフレコミのトレンディドラマ』のはずだったのに、それ以前にドラマとしてアレだったという事実がガックリポイントなんでわ
 P_for_posh

そう?非難のポイントはそこじゃなくない?
 yasuyukima


怒ってるんじゃなくて、叩いてるってことなんでしょうね。そのトリガーは怒りじゃないかもしれないけど、向けられた方からすればネガティブな反応に見えますよね。もちろん仕方ない部分もあるんでしょうけど。
 tsuda

そこまで擁護しなくてもいいじゃんっていう。
 Uara54


擁護じゃなくて疑問。みんな余裕ないなーっていう嘆きでもある。
 tsuda

問題は、狙いと関係なく「ついったーのドラマとして」風評被害が発生していることだと思います。出会い系サイト扱い怖いです。
 elderalliance


ドラマの内容はデジタルガレージやツイッター本社もチェックしているはず。それでOK出てるし、風評被害というほどのことは起きてないと思うけどな。
 tsuda

「情弱」ってここ15年くらいネットで流行ってきた言葉の中で個人的に一番嫌いな単語かもしれない。自由闊達でどんな人ともつながれるのがネットの根源的ないいところなのに、ネットの側から自らそれを否定してる感じが特にイヤ。なるべく使わないようにしていきたい。
 tsuda



正直言って驚いた。
twitterの伝道師、日本を代表するエヴァンジェリストだと思っていた津田氏の言っていることは、twitterブーム(?)に対してかなり懐疑的な私でもよくわかる。津田さんっていい意味で常識のある人らしいな、私のようなボンクラにも優しくしてくれそうだと好感を持った。
それに対して、津田氏に「どうして擁護するのか」と疑問を寄せるのはともかく食ってかかる人はおっかない。なぜそんなにtwitterに感情移入するのか謎だ。ドラマに期待しすぎていたのか、あるいはテレビの影響力を敵視し恐れているのか。津田さんが過激なtwitter信者をなだめる教祖のように見えて少々お気の毒である。

「素直になれなくて」のことは、まあ基本的にどうでもいいのだが、津田さんの言葉で
「俺は『ツイッターの伝道師』でも『ツイッターの第一人者』でも『Mr. Twitter』でもないよ。単なるツイッター厨」
「『情弱』ってここ15年くらいネットで流行ってきた言葉の中で個人的に一番嫌いな単語かもしれない」
というのはとても好感が持てる。驕りも卑屈さもなくて素直に聞ける言葉だ。
特に、「情弱」という言葉はなるべく使いたくない、という感覚はつい先日私が記事にしたことと同じで、なんだかうれしくなった。

実はこれまで津田大介という人を遠目で見て胡散臭く思っていた。ススんでる自分を鼻にかけ、それこそ「情弱」をバカにするような嫌味な野郎なんじゃないか、ついでに金髪は似合ってないし、と大いに怪しんでいた。どうやら私の偏見だったらしい。
理由もなく疑ってごめんなさい。たぶん津田さんはいい人です。

twitterドラマとネットとテレビ

2010年04月17日 | ネット・ブログ論
twitterを取り上げたドラマ「素直になれなくて」がネットの一部で話題になっている。
私はtwitterユーザーじゃないしドラマも見ていないが、「素直になれなくて」と脚本家を話題にして大いに盛り上がるブログやtwitterまとめ、はてなブックマークを読んだら「まだまだテレビはメディアの王様だ」と感じてしまった。

Twitterのドラマの実況TLだけを見ながら考えたこと - G.A.W.
 例のツイッターを題材にしたドラマだが、TLが無類におもしろかった。あのおもしろさはアニメのTLの比じゃない。

 俺がフォローしてる人は、基本的にはオタ趣味を持っている人が多い。ついったーやってる人の平均年齢は三十代くらいっていうけど、もしそうだとしたら、平均と比較して大学生の比率が高いと思う。ブログつながりで、はてなでブログやってる人もかなり多い。

 で、そんなTLがドラマの実況一色で染まった。

TL(タイムライン)とは | Twitterまとめサイト
TL (タイムライン)とは、文字通り、時系列でTwitterのホームページ上に、様々な人たち(自分がフォローしている人たち)の発言が流れてくるスペースのことを言う。

この時点で最初の勝負はテレビの完勝である。相撲で言えば立会い直後に怒涛の勢いで押し出し、くらいの勝ち方だ。

テレビ局、特に民放にとってありがたいのはリアルタイムで見てくれる視聴者である。というのも、録画して後で見るタイムシフト視聴者はCMを飛ばしてしまうからスポンサーにとっては広告効果がない。だから視聴率を調べるときに録画率は計算に入れない。
たとえツッコミ目当てだとしても、ドラマの評判が悪かったとしても、「TLが実況一色に染まる」くらい熱心にリアルタイム視聴してくれるtwitterユーザーはフジテレビにとっておいしい客に違いない。twitterで実況せずタイムシフト視聴(CM飛ばし)して感想を書くブロガーよりもずっとテレビ局の商売に貢献している。

ネット業界人の中には、「テレビは死にかけたオールドメディアだ、これからはネットの時代だ」などと煽る人がいる。そして、ネットの中でも最先端なのがtwitterというツールで、twitterユーザーは情報感度の高いイケてる人たちだ、みたいなプライドを持ちありがたいビジョンを布教したがる人もいる。
そんな痛い人は少数派だろうが(だと願いたい)、「オールドメディア」の仕掛けたtwitterドラマに手もなく乗せられて「TLが実況一色に染」まるありさまはむしろテレビの影響力の巨大さを証明している。これがすでに影響力を失ったメディア、たとえば新聞小説ならどうだろう。朝日で「twitterをネタにした新聞小説」が連載されたとしても、わざわざ読んで感想を書くtwitterユーザーはほとんどいないはずだ。

「テレビからネット(twitter)」の影響力が大きいのは間違いないとして、ネット(twitter)からテレビに影響を及ぼすことはできるだろうか。間接的にはともかく、直接目に見えるような影響はほとんどゼロである。純粋にネット発のなにかをテレビがメインコンテンツとして取り上げるのはYoutubeをネタ元にしたバラエティくらいだ。twitterの「TLが実況一色に染」まるネットのテレビ依存とは好対照である。
テレビはネットのおいしい部分をつまみ食いするだけで、ネット原理主義者が期待するような「ネットの意見がテレビを変える」「ネットの存在がテレビを越える」現象は起きるとしてもまだまだ先だろう。


Twitterのドラマの実況TLだけを見ながら考えたこと - G.A.W.
 今回のツイッターのドラマが特におかしいことになってたのは、テレビとまったく関係ないやりかたで成長してきた「ツイッター」ってものを、テレビが、テレビの価値観で把握してネタにしちゃったからだと思う。あたりまえの結論でアレなんだけど、まあそれはいつものことか。

そう、いつものことだ。テレビの職業ものドラマとか、多少マニアックな趣味を題材にしたドラマは関係者から見たらたいてい噴飯ものである。「あるある」「わかってるな」よりも「ないない」「全然わかってない」という感想のほうがずっと多くなる。良し悪しはともかく、テレビドラマというのは基本的にはとことん通俗的なもので、非専門家・非マニアの一般視聴者のための暇つぶしだ。「ツイッターのドラマが特におかしいことになってた」と感じるのはtwitterに思い入れをもつ人たちだけだ。私に言わせれば自意識過剰もいいところである。ドラマ「素直になれなくて」の作り手たちは、これまで医療ドラマや警察ドラマ、鉄道マニアドラマやモータースポーツドラマを作ってきたのと同じように、視聴率獲得には熱心に、ドラマの(マニアの評価する)質はそこそこに番組を作っただけのことだ。

仮にtwitterドラマが「特におかしいこと」になるとすれば、それは未来から振り返ったときだ。twitterがそれこそエヴァンジェリストの期待するように大いに普及して社会のインフラになれば、10年後とか20年後の一般人が「あのドラマは変だったなあ」「今では考えられないよ」「あんなのを変に思わず見ていた自分たちは何もわかってなかったな」ということになる。
コンピュータが普及し始めたときは「巨大な中央コンピュータが世界を支配する」とか「プログラムが書けないとコンピュータ時代に乗り遅れる」みたいな、今から見ればトンチンカンもいいところのお話が受けた。パソコン通信とかインターネットも最初のうちは誤解されておかしなドラマが作られた。たとえば2000年に放送された「ネット・バイオレンス」もそのひとつだ。

ネット・バイオレンス~名も知らぬ人々からの暴力~ - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇
インターネット上の「匿名の暴力」に立ち向かう女性を描く。「雑誌記者の亮子(夏川結衣)は、バツイチのシングルマザー。心のよりどころは、インターネットを通じて同じ様な境遇の人々と意見交換することだ。ある日、ふとしたことから本名を明かして意見を投稿したところ、全国から個人攻撃を受けてしまう。亮子はその先鋒である「大阪ヨーコ」と名乗る人物に接触を図り、その正体を突きとめるため大阪に乗り込む。

野沢尚『ネット・バイオレンス』覚書にかえて★テレビドラマデータベース

2ちゃんねる過去ログ ネットバイオレンス(再)
超適当-「ネットバイオレンスが怖い人々」

ネット(匿名掲示板)に対してナイーブな野沢尚と、2001年にはすでにすれっからしだった2ちゃんねらーの温度差が対照的だ。ナイーブな野沢尚が2004年に自殺したことを思うと痛ましいが、それはそれとして現在のネットユーザーから見れば、「ネット・バイオレンス」は変だ、わかってない、逆に主人公のほうが怖い、みたいな感想を持つことが多いだろう。良し悪しはともかく、ネットユーザーは2ちゃんねるの存在に慣れ、「匿名の悪意」に対してタフになっている。

Twitterのドラマの実況TLだけを見ながら考えたこと - G.A.W.
 かつてはテレビ様の前で人は平伏するしかなかったんだけど、すでにこの世界には「テレビ様wwwww」っていう視点がある。テレビの人たちは、ツイッターがどんなものであるかは調べたかもしれない。そのうえで現実に即しないドラマを作っちゃっていいと思ったのかもしんない。ドラマはある程度は「典型」を視聴者に与えなきゃいけないんだけど、まだこの「典型」は押してけると思ったのかもしれない。

 だけど、その人たちは、きっと「テレビ様すげえ(笑)」っていう視点がネットにあることだけは知らなかったんじゃないかな。仮に知ってたとしても、そんなもん黙殺できるレベルのものだと思ったのかも。

好き嫌いは個人の勝手だが、それにしてもテレビとその作り手を馬鹿にしすぎだ。
テレビを批判し「あんなのものはくだらない」と切り捨てる見かたはそれこそテレビ放送が始まった50年前から存在する。「ネット以前はテレビ批判は存在しなかった」みたいな物言いはかえって視野の狭さを感じさせる。テレビの作り手たちはテレビ批判の存在に慣れているし、自分たちの提供する情報と娯楽のファーストフードが「グルメ」たちの批判とは関係なく売れつづけてきたことに自信を持っている。
もちろん、ネットによって普通の視聴者が「非テレビ的」な物の見方や「反テレビ的」な意見に接しやすくなったのは確かだろう。そして、テレビの視聴率が長期的に漸減しているのも間違いない。だが、「ネットに存在する反テレビ論の影響で視聴率が落ちた」と決め付けるのは早計だ。DVDにテレビゲーム、ケータイにネットと、テレビの市場を奪い合う暇つぶしが増えたこと、テレビの企画自体がマンネリ化したこと、不況で制作費がケチられたこと、など原因はいくつも考えられる。
「先進的な」ネットユーザーが「遅れている」テレビ業界を哀れむ、という構図はネット(twitter)に感情移入している人たちには好ましいものだろうが、「TLが実況一色に染」まるほど簡単にテレビの思惑に乗せられている姿を見ると茶番としか思えない。


参考
Twitterドラマに不満を持つのは、カーアクションを見て「俺はこんな危ない運転しねーよ」と不満に思うのと同じでしょ? - 倒錯委員長の活動日誌
eno blog: 『素直になれなくて』
ほんとあと 29時間半ぐらい素直になれそうもない - 大事なことなので(以下略)←略すな

「情弱」という言葉

2010年04月08日 | ネット・ブログ論
「子ども手当て」のデマにひっかった・騒いだ・広めた人たちを「情弱(情報弱者)」と笑いものにするブログを読んだ。

これが情弱かw - 北沢かえるの働けば自由になる日記
2~3日前から「これが情弱かw」って言うネタが続いていて、頭を抱えている。

まぁ、子ども手当に関連した、一連のデマ騒ぎなんだが。

「川崎市の高津区役所で590人分の子供手当てしてた アジア系の人いた。さすがに別室に連れてかれてた どうなったんだろう」

 → http://togetter.com/li/12774

「ザイール大使館員の付き添いのもと、ザイール政府発行の正式証明書を持ったザイール人10人位で子供の合計200人以上登録していったそうだ」

 → http://togetter.com/li/12911

……上の火元は2ちゃんで、下も2ちゃんらしいがさぁ。

ちょこっと調べれば、そう簡単に申請が通らないのはわかるし、罰則もあるし。さらっと読んだだけでもおやっと思う点があるんだが、今回はTwitterが拍車をかけて、ものすごい勢いで広がったようだ。

上は、松沢呉一さんがわざわざ電話して確認をしたぐらい広まってしまい。

下は、明らかな間違いがあるんだが広がってしまい。指摘しておくと、ザイールという国名はもう使われていないので。

驚いたのは、「こういう可能性があるから、デマと思ったが伝えた」という言い訳もあって、ツィッターというシステムが、こういうときには悪い方に働きやすいってのは、予想がついていたんだが、ひどいね。というか、甘くない? 顔出ししているも同然なのに。

「Twitterは情弱をあぶり出す」ってどこかで見たんですが、名言だw


デマは腹立たしいし、今回のデマに引っかかった人たちははっきり言ってちょっと(かなり・ひどく)間抜けだと思うので、彼らが笑いものにされるのも当然だと思う。とはいえ、笑われた人たちが「二度と笑われたくないから慎重に情報を見定めてデマに引っかからないようにしよう」と思ってくれるのか、それとも「笑いものにされた」ことを根に持って一層かたくなになるのか、なんとも言えない。
実例としてこんなことがあった。

このっ、バカ共が!: 松浦晋也のL/D
 そりゃね、中国が神舟7号で宇宙遊泳をやると聞いた時からそんな連中が出るんじゃないかとは思っていた。

 しかし、これはいったいどうしたことか。


 「公式MAD」「絶対泡アル!!?」 「 ×神舟7号○コント7号?」 「水中船外作業?」「中国のMADのクオリティは異常?」などなどひどいタグが付いている。

 が、これが水中のシミュレーション画像に見えるなら、君らの目は節穴で、君らの脳は空っぽだ。まったく情けない。この、バカ共が!

中国の発表した宇宙遊泳映像が捏造だ、というデマを喜んで囃し立てた人たちを科学ジャーナリストの松浦氏が「この、バカ共が!」と叱りつけた。私自身「捏造疑惑」騒動はバカらしいにもほどがあると辟易したし、宇宙開発に情熱を注ぐ松浦氏が卑しいデマに怒る気持はよくわかる。だが、「バカ」呼ばわりに反発した人たちが素直に聞く耳を失い、説明を受け入れなくなるという残念な(しかし当然の)事態が起きた。もしも松浦氏が「この、バカ共が!」という言葉を自制していれば、反発や摩擦がだいぶ減ったと思われる。
とはいえ、「このっ、バカ共が!」という強烈なタイトルによって多くの人の関心を集めることができたから(はてなブックマークは500を超えている)、「バカ」たちとの摩擦以上のメリットがあったのかもしれない。ちょっと意味は違うが、「悪名は無名に勝る」という格言もある。


愚かしい行動をした人たちを「笑いものにする」「バカ呼ばわりする」ことの是非は簡単に決められないが、それとは別に北沢かえる氏の「情弱」という言葉の使い方、笑いものにするやり方には違和感を覚える。
私自身は使ったことのない言葉だが、「情弱」は「情報弱者」の略語に違いない。「情報弱者」の辞書的な定義はこうだ。

情報弱者【じょうほうじゃくしゃ】の意味 - 国語辞典 - goo辞書
パソコンやインターネットなど情報通信技術の利用について,困難を抱える人の総称。情報通信環境から離れている人(地方住民・低所得者など)や,操作が困難な人(高齢者・障害者など)をさす。通常利用者との社会的格差が生じると指摘されている。

どこにも侮蔑され笑われるような要素はない。「情報通信技術の利用について,困難を抱える人」は基本的に社会の同情や支援の対象でこそあれ、自称情報強者がバカにしてストレスを発散するオモチャではない。
私の思うところでは、「情報弱者」は「身体障害者」や「知的障害者」と同じく「ハンディキャップ」のカテゴリーに属する存在であり、彼らをみだりに笑いものにしたり蔑むのは人間として卑しいことだ。2ちゃんねるあたりでは「知的障害者」が「池沼」(ちしょう=知障)と略されて罵倒語に使われているが、あくまでも名無しとして恥を捨てているからできることであり、外に持ち出すと大いに顰蹙を買う(2ちゃん内でも顰蹙ものだと思うが)。

池沼とは (チショウとは) - ニコニコ大百科
概要
知的障害者 → 知障 → 池沼

と言っても実際に知的障害を持つ人のことを指して使用されることは少なく、一般的な社会の常識・倫理から著しく外れたことを行う人間に対して投げかけられることが多い。

そのためこの言葉は暗に知的障害者に対する差別的なニュアンスを含んでおり、知的障害というハンデに負けずにがんばっているまともな人たちにとっては一緒にされていい迷惑である。

使用に際しての注意
上記のようにそもそもこの言葉自体あまり好ましくないものだが、もしどうしても使いたい場合には、あくまで匿名性の高いネット上だからこそ普及している言葉であることを忘れてはいけない。

万が一真面目なフォーラムやリアルで「うはwwあいつマジ池沼www」などと口走ったりすれば、常識や倫理を疑われるのはあなた自身ということになるだろう。


私は別に言葉狩りをしたいわけではない。
北沢氏が「情弱」という言葉に強い思い入れがあるとか、あるいは他に代えがたい効果があるからこれからも罵倒語として使い続ける、というのであれば「ご勝手にどうぞ」と申し上げるだけだ。
それならなぜこんなことを書いているのかといえば、たぶん北沢氏は「情報弱者を『情弱』と略し(本来の意味とは別の使い方をして)笑いものにするのは知的障害者を『池沼』と略して罵倒語に用いるのと大差ない」ということに気付いておられないのだろうと思うからだ。デマを批判する立派な記事に「情弱」を笑う表現はそぐわない。
私は「デマに引っかかった・踊った・煽った人たちを笑うな」と言っているのではない。笑うのはちっとも構わないが、彼らは辞書的な意味での「情報弱者」ではないし、「情弱」とレッテルを貼って笑いものにするのはイラクで民間人を撃った攻撃ヘリと同じようにひどい誤爆としか思えないのである。

メダリストを貶める城内議員

2010年03月03日 | ネット・ブログ論
城内議員のブログがまた炎上している。
そう、「また」である。

城内実のとことん信念ブログ
 ◇ コ ラ ム ◇ 浅田真央さんの銀メダル
 ◇ コ ラ ム ◇ 最後の金メダル逃す
 ☆お知らせ☆ 文部科学委員会で質問

なんとも懲りないお人だ。
私の知るだけでも、国政法改正に反対してレイシストまがいの記事を書いたとき、そして眞鍋かをりさんの写真を勝手にポスターに使用した事件(関連記事 12345)にブログを炎上させている。
こうなると、ネットの経験が足りないとか文章力の問題というよりも城内議員その人の性格が原因としか思えない。

私の見るところ、今回の炎上の根本的な原因は眞鍋ポスター事件と同じだ。
城内議員に他者への敬意が決定的に欠けていることが読者を怒らせた。そして、城内氏の「信念」と称する頑固さ、傷つきやすく過ちを認められない自尊心が火に油を注いだ。
眞鍋ポスター事件のときは、「政治に関わるつもりはない、ポスターに私の顔を使うのはやめてください」と明言した眞鍋さんの意向を踏みにじり「事務所と契約したんだからタレントの気持なんてどうでもいい」的な傲慢な対応をして顰蹙を買った。しかもその契約さえもが仲介者の手違いで実際には成立していなかったのだから呆れる。城内氏は最後までまともに自分の非を認めず、コメント欄では城内氏の狂信的支持者が陰謀論を持ち出して煽り、なんともかんとも情けない限りであった。
今回も城内氏にはフィギュアスケートの浅田選手や団体パシュート(スケート)の田畑選手・穂積選手・小平選手への敬意はかけらも見えない。

私は日本をこよなく愛する者であるが、韓国のキム・ヨナ選手がどうみてもだんとつであった。悔しいがとなりの韓国にわが日本は完敗した。僅差やどんぐりのせいくらべの金と銀ではない。大差の金と銀であった。
 浅田真央さんも安藤美姫さんも鈴木昭子(間違えました明子さんでしたね)さんも良くがんばった。
 しかし、キム・ヨナ選手は四年前から金メダルをとるためにカナダに移住し練習に練習を重ねたとのこと。その執念たるやコーチの方はじめ韓国の国をあげての努力はさすがである。それがすべての演技にあらわれていた。しろうとの私が見ても顔の表情も含めて文句のつけようのない完璧な演技であった。
 だんとつの圧勝というのもあれこれ文句のつけようんがないから気持ちがいいものだ。私の選挙もこれからもそうでありたい。
 在日外国人の地方参政権問題、竹島の領土問題などに関しては、お隣の韓国に譲歩することはできないが、今回は心から韓国のみなさんにおめでとうございます、さすがです日本は完敗しましたと言いたい。

◇ コ ラ ム ◇ 浅田真央さんの銀メダル « 城内実のとことん信念ブログ


城内氏がキム選手の演技を「だんとつ」と感じたのは個人の価値観だからとやかく言うまい。それでも私は「この人は高い値札が付いていれば安物でも気付かずに絶賛するタイプだろうな」と思ってしまった。ちなみに、三島由紀夫も「A店のほうがB店より美味い、なぜならA店のほうがB店より値段が高いから」とのたまって聞くものを呆れさせたとか。
言うまでもなく、鈴木明子選手の名前を間違えたのは失礼なことだ。しかも訂正の仕方がふざけている。コメント欄でも「木内さん(間違えました城内さんでしたね)」とやられているが自業自得だ。
「しろうとの私が見ても顔の表情も含めて文句のつけようのない完璧な演技であった。」というのは妙な文章である。素人ならそこそこの物を見せられてもどこが足りないのか気付かないものだ。「残念ながら浅田選手には素人でもわかる大きなミスがあった」と惜しむならまだわかるが、「キム選手の演技は素人が見ても文句の付けようがない」とほめるのは馬鹿げている。
いちばんひどいのは、「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない。」という本来のオリンピック精神を踏みにじって「韓国勝った、日本は負けた」とはしゃいで(妙な表現だが他に言いようがない)いることだ。浅田選手の血のにじむような努力、誰もが頭の下がるような精神力の強さなどはまったく目に入らないようである。

 バンクーバーオリンピックのスピードスケート女子パシュートは、日独の決勝戦となり、0.02秒差で日本が銀となってしまった(ドイツではmit kaum sichtbaren Vorsprung von zwei Hundertstel Sekunden(目視では全く分からない100分の2秒差のぎりぎりの僅差での勝利)と表現されていたらしい)。
 私の外務省のドイツ語の先輩が、「ドイツ人と日本人の金メダルへの執念の差を見たような気がする。」と指摘されておられたが、全く同感である。つめの甘さやちょっとしたミスは命とりである。
 私の前回選挙のように浅田真央選手が4年後のオリンピックで金メダルをとること、そしてわずか0.02秒差で金メダルをのがした日本勢が次回に0.02秒差であろうと金メダルをとることを期待している。
 オリンピックのルールがどうのこうのと言う前に、勝たなければしょうがないのである。水面下で国際オリンピック協会に日本人に不利なルール変更については適時適切に申し入れすると同時に、日本選手が精神面でも強くなって欲しいと思った次第である。

◇ コ ラ ム ◇ 最後の金メダル逃す « 城内実のとことん信念ブログ


こういう手合いは遠慮なく「金メダルの亡者」と蔑んでやりたい。
いったい何様のつもりで「つめの甘さやちょっとしたミスは命とりである。」などと偉そうに説教するのか。賭けてもいいが、城内氏は準決勝進出のニュースまで「団体パシュート」の存在さえ知らないような素人のはずだ。フィギュアスケートの記事もそうだが、城内氏の「素人の訳知り顔」はワイドショーの最低ランクのコメンテーター並だ。名前を挙げれば勝谷誠彦とかやくみつるの同類である。
「オリンピックのルールがどうのこうのと言う前に、勝たなければしょうがないのである。」というのもひどい。中小企業の社長が言えば苦笑するだけだが、城内氏はルール(法律)を作って国民に守ってもらう立場ではないか。勝利至上主義といえばまだしも聞こえがいいが、「敗者はクズだ、負け犬だ、存在価値なし」というのと表裏一体である。
たぶん城内氏は自分の選挙経験から「なにがなんでも金メダル」「一位以外は負けと同じで無意味」と思い込んでいるのだろうが、オリンピック競技は「定数1の小選挙区」ではない。表彰台は定数3、入賞なら定数8だ。もちろん入賞者は称えられるし、ましてメダルを取れば大威張りできる(実際に威張るとみっともないけれど)。世界で二位を勝ち取った偉大なアスリートたちが、衆議院の定数480人のうちの一人でしかない国会議員ごときにケチをつけられる筋合いはない。


 今回大勢のみなさまからコメントをいただきました。ありがとうございます。参考にさせていただきました。
 しかしまあなんという言葉尻をとらえての罵詈雑言のオンパレード。人のブログのコメント欄に書きたいほうだい。いやあ驚いた。
 いつから日本人はこれほど礼儀知らずになったのだろうか。人を批判するならコメント欄には実名で書いて欲しいものです。昔の日本であったら、近所のおじさんから、「こら、ふざけるな。卑怯者名をなのれ。」と一喝されるでしょうね。
 本当にインターネットの世界の誹謗中傷や某勢力の工作はこわいですね(真実がどうか分かりませんがある方から連絡があり某極左レイシストなどが2ちゃんねるなどに城内実へのいやがらせで一般のネット右翼をはじめとするインターネットユーザーに対して工作をしたとのこと。)。
 私が命がけで反対した左派勢力推進の人権擁護法案(インターネット規制法案)の是非について真剣に再考してみたいと思った次第です。私は今回のことで多少不快に感じたくらいですが、インターネットであることないこと誹謗中傷されて真剣に悩まれている方の人権は守るべきだと思いました。
 反日日本人の分断工作にのっかる人も結構いるのですね。まあしかたありませんが・・・・。

☆お知らせ☆ 文部科学委員会で質問 « 城内実のとことん信念ブログ


もはや何をかいわんや。逆切れ、上から目線、嫌味たらたら、そして陰謀論のフルコースだ。
まともな人間がブログ炎上を鎮めようと思ったら間違ってもこんな文章は書かないだろう。
とすれば、「城内氏がまともでない」あるいは「城内氏は炎上を楽しみ、煽っている」のどちらかになる。どちらなのかは読者の判断にお任せしたい。

「通りすがり」論・序説

2009年10月12日 | ネット・ブログ論
誰かのブログに「通りすがり」と名乗ってコメントを書き込むのは失礼なことなのか。
「通りすがり」のコメント自体が悪いとは言えないが、使い方によっては相手を不快にする。
不適切な使い方をする人が多いために「通りすがり」の評判が傷付けられている。



まず「通りすがり」という言葉の意味から始めよう。

とおりすがり【通りすがり】の意味 国語辞典 - goo辞書
とおり-すがり とほり― 0 【通りすがり】
偶然、そばを通ること。通りかかること。通りがけ。
「―の人に道をきく」


「通りすがり」とは偶然そばを通ること。当たり前のようだが辞書で確かめると安心する。
面白いのはネット用語としての「通りすがり」だ。

通りすがりとは - はてなキーワード
最も代表的と思われる捨てハンドル。

匿名掲示板ですら嫌われる。


あはは。確かに2ちゃんねるでわざわざ「通りすがり」と名乗ったら「何だこいつ」と袋叩きにされそうだ。



偶然そばを通ること、たまたま立ち寄ること。どこかに「通りすがる」こと自体はもちろん何の問題もない。
「寄り道禁止」は中学校の生徒手帳に書いてある決まりだ。たぶん高校にも寄り道禁止の校則があるのだろうが、たいていの生徒は気にも留めない。大人になれば(時間に余裕があれば)出勤途中で喫茶店に寄ろうと、仕事の後で居酒屋に寄ろうと自由だ。
そして、「通りすがった」先で誰かにものを言う、コミュニケーションをとることも何も悪くない。ここまではどなたにも同意していただけるだろう。

それならなぜネットで「通りすがり」のコメントは嫌われるのか。
たぶん多くの人に嫌われているのは「通りすがってコメントすること」ではなく、「捨てハンドルとして『通りすがり』を使うこと」のほうである。この二つは似ているようでずいぶん違う。

「通りすがりがコメントすること自体不快だ」という感覚は「身内と他人」意識が強い人のものだ。常連との馴れ合いを好み、必要以上に他人を警戒する。「コメントする前にちゃんとあいさつしろ」とか「コメントする人は常連になれ、自分とお友達になってくれ」というふうに高いハードルを作りたがる。
私の見るところ、強い身内意識から「通りすがり」を嫌う人はそれほど多くない。「読み逃げ禁止」とか「無断リンク禁止」といった奇妙なネットマナーを強要する人もたぶん同類だが、彼らは閉じたコミュニティを作りたがるからそれほど目立たない。

「捨てハンドルとしての『通りすがり』」を嫌う人は多い。
私もつい最近「通りすがり」氏と不毛な対話を強いられてすっかりうんざりした。「通りすがり」に対する今の印象は最悪だ。
だが、私も含めてたいていの人は「常連以外はコメントしないでくれ」と思っているわけではない。「どなたでもコメントしてください。ただし、ことさら『通りすがり』と名乗るような人は歓迎できません」というのが一般的な感覚じゃないかと思う。

そもそも、「通りすがり」は捨てハンドルとさえ認めにくい。
ハンドルネームは個人をアイデンティファイするためのものなのに、「通りすがり」はアイデンティファイを否定する意図で使われる。捨てハンドルというよりも「アンチハンドルネーム」だ。本来は「名乗るほどのものではありません」という謙遜の意味で使われはじめたのだろうが、実際は「お前なんかに名乗る名前はない」という侮蔑に感じられることが多い。これではますます「通りすがり」が嫌われる。
わざわざ「通りすがり」と名乗る意識の裏には「匿名でもいいでしょう」と責任を回避する甘えと「自分は『通りすがり』と名乗っている、個人として尊重しろ」という傲慢の二つ潜んでいる。一挙両得を狙い二兎を追う。虫が良くて身勝手だ。


ここまでは「通りすがり」に否定的なことを書いてきたけれど、正しく使われれば「通りすがり」の捨てハンドル(アンチハンドル)はそれほど不快ではないし、むしろ「粋な人だ」と好感を持つことだってある。

たとえば批判や罵倒コメント。もちろんどちらも嫌なものだが、「通りすがり」の野次であれば無視しやすい。
知り合いに「あなたの意見は間違っている」と批判されたらちゃんと聞いて反省したり反論することが期待される。無視するのはとても失礼だ。知り合いじゃなくても、ちゃんと名前を名乗って批判してくる人をないがしろにはしにくい。
だが、「通りすがり」の捨てハン(アンチハンドル)であれば「なんだこいつ、名前も名乗れない卑怯者じゃないか」と無視できる。同じ「あなたは間違ってます」「お前はバカだ」と言われるのでも、名前のある誰かに批判されるのと「通りすがりの卑怯者」に言われるのとではダメージがずいぶん違う。罵倒されるなら「通りすがり」のほうがいい。もちろん罵倒なんかされないほうがいいけれど。

批判や罵倒ではなく普通のコメントの場合はどうだろう。文字通りの「通りすがり」で一回限りのコメントを書くなら不快ではない。一回限りのコメントは「書き捨て」などと呼ばれて嫌われがちだが、「通りすがり」と「書き捨て」は相性がいい。
たとえば私が「A」という意見を書いたとき、「B」や「C」の意見をもつ人が名前を名乗ってコメントすると「この人は議論を求めているのか、『果たし状』をつきつけられたのか」と思って身構えてしまう。相手が書き捨てのつもりだったら身構えるのは無駄で、「なんだよ、書き捨てるなら『通りすがり』でいいじゃないか」ということになる。
対話や議論がしたいときは名前(ハンドルネーム)を名乗り、コミュニケーションを求めないなら「通りすがり」で済ませる。そういう使い分けは悪くない。

誰かにちょっとした親切をしたいときに使われる「通りすがり」は粋だ。
ズボンのチャックが開いているときいきなり「私は山田奈緒子と申しますが、あなた、チャックが開いてますよ」と注意されたらびっくりする。「ご親切ありがとうございます。 …ところでどちらの山田さんでしょうか?」と不審にさえ思う。こういうときは匿名に徹して「チャック開いてますよ」と耳打ちしたらさっと姿を消すほうがいい。
ネットでは誤字や誤用の指摘など「通りすがり」が本領を発揮する場面だ。「『汚名挽回』は誤用です。『名誉挽回』か『汚名をそそぐ』じゃないでしょうか」と注意してもらうなら、まともに名乗る人よりも「通りすがり」や「名無し」さんのほうがありがたい。名乗って行う親切よりも匿名の親切のほうが粋だ。


思いつくまま書いてきたが、最後に箇条書きにしてみよう。

 ・ 「通りすがり」は捨てハンというよりも「アンチハンドルネーム」
 ・ 「通りすがり」が嫌われるのは使われ方が悪いから
 ・ 書き捨てや「小さな親切」のとき「通りすがり」は役に立つ
 ・ 「通りすがり」を毛嫌いするよりも正しい使い方を考えたほうがいい

ご成長ありがとうございました。



参考記事
 Browser.js m9っ`・ω・´)ネタです21:「通りすがり」の者ですが…

もったいぶってるんじゃねーよこのハゲ

2008年06月08日 | ネット・ブログ論
ブログのコメント欄を承認制にするとかしないとかそういったお話。

極東ブログ: もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。

もうコメント欄を承認制にしますよ? - 大須は萌えているか?
id:finalventが遂にプチ切れ( ´∀`) - 幸せの鐘が鳴(r
あなたの結論を万人に押し付けるな。あなたは全ブロガーの体現者ではない。 - 風のはて
ブログのコメント欄や反応に対してどう考えるか - 北の大地から送る物欲日記
コメント欄を閉鎖するのはチキン - novtan別館
俺らの気持ちや状況で、亡くなってしまった女子高生は測れない - 捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ!
コメント欄の承認制について - NC-15
コメント承認制の書き手にとっての負荷- けろやん。メモ
404 Blog Not Found:あなたのコメント欄を承認制にしなさい。でも私のは開けとく

まだまだたくさんある。
はてなブックマークの下のほう「このエントリーを含むほかのエントリー」「このエントリーを含む日記」には何十個もの言及記事が並んでいる。すごい影響力だ、さすがあるふぁぶろがー。

ブーム(?)に便乗してひとこと言ってやろうかと思ったが、「ネガティブコメント問題」にはぜんぜん興味がないので5秒で断念した。ネガティブコメント、というか悪意だけの質の低いコメントは嫌いだが、それを「~問題」として論じることの意味がわからない。わからない、というのは「意味がない」と断定しているのではなく文字通り「自分には意味がわからない」という馬鹿宣言なのでカチンと来た人がいたらごめんなさい。

ネガコメ問題はともかくコメント承認制については興味がある。
というのも、コメント欄への対応・管理について困っているからだ。困っているというより「ラクしたい」「どうすればお気楽にできるか」と夢想している。
そもそも自分はむら気である。
書きたいことがいくつもたまって「俺はなんて面白いことを書くんだろう」「毎日更新したい!」という躁期もあれば、「自分の文章が大嫌い」「ブログのことを思い出すのもイヤ」という鬱期もある。ここ数日はまさに鬱期で、自分のブログをぜんぜん見ていなかった。もちろんコメント欄もチェックしていない。
コメント欄を「書き込み可」のまま管理を放置していると、誰かが悪意のデマや中傷を書き込んだらそのままになってしまう。自分に対する批判罵倒悪口ならかまわないが、ひとさまに迷惑をかけてはいけない。
ブログを放置するのなら、コメント欄を閉じるか事前承認に変えておくべきだ。
ただ、何しろ自分はむら気なので(言い訳)「ブログを放置しよう」と思って放置するわけではない。気がついたらいつの間にか一週間くらいブログのことを忘れていた、というのが常なので、臨機応変に切り替えるのは難しい。

かといってずっと「事前承認」にしておくのも何か嫌なのである。
自分がよそのブログでコメントしたときすぐに反映されないと「チェッ」と思うからだ。「もったいぶってるんじゃねーよこのハゲ」とか「俺様のありがたいコメントを何だと思ってやがる」とか思いはしても口に出さないのが紳士のたしなみというものだが、私は鏡の中に紳士を見たことがないのであまり気にしないことにしている。何のことやら。

いつものように結論はないけれど、ブログ鬱期のあいだコメント欄を事前承認制にします。はっきりしたポリシーがあるわけじゃないのでまた変えるかもしれませんが、あまり気になさらないようにお願いします。
「もったいぶってるんじゃねーよこのハゲ」とか「俺様のありがたいコメントを何だと思ってやがる」とか書いてくださるのはぜんぜん問題ありません。アディダス、じゃなくてアディオス。

ちなみに自分はぜんぜんハゲではなく、そうなりそうな気配も(今のところ)まったくないということは声を大にして言明しておくものであります。

匿名は防弾チョッキ

2008年02月08日 | ネット・ブログ論
匿名性は攻撃のためのものではない。
銃というより防弾チョッキだ。

la_causette: 匿名規制と銃規制
 日本におけるネットの匿名規制についての議論は、米国における銃の所持規制についての議論と似ています。

 但し、後者においては、「銃を所持したい人は所持する、所持したくない人は所持しないということで良いではないか。銃所持者は今後も非所持者をがんがん撃ち殺すけど」とか、「銃の非所持者が銃所持者にがんがん撃ち殺されても、一種の「有名税」として甘受すべき」とか、「銃殺されるのは銃殺される側に問題があるのであって、芸能人の悪口を言ったり、政治の話をしたりしなければ、銃殺されないはずだ」とかといった議論はさすがにしない点は、前者と大きく違っています。


小倉先生はネットの匿名規制をアメリカの銃規制に例えているが違和感がある。
アメリカには銃所持者が8000万人以上いるそうだが、銃を持たない人を「がんがん撃ち殺す」ような輩はごく僅かである。合法的に銃を所持するほとんどの人は趣味とか仕事とか自己防衛を目的としているはずだ。また合衆国憲法には民兵の存在が規定されており、市民が武装する権利の根拠となっている。
アメリカの話はこれくらいにしよう。小倉弁護士のたとえ話は(いつもそうだが)無理が多すぎる。匿名性を銃器のように攻撃的な武器とみなすのは筋が悪い。匿名によって直接的に攻撃力が上がることはないからだ。

ネットにおいて誰かを攻撃しようとする場合、悪口・批判・罵倒・中傷・脅迫が行われる。どれをとっても「匿名ならでは」のものではない。反撃を恐れなければ実名でも可能だ。たとえばこちらの騒動では池田信夫氏(実名)がたいへんアグレッシブな言論活動を展開している。匿名によって攻撃力が上がることはないのは「ネットイナゴ」という言葉が示している。

ネットイナゴとは - はてなダイアリー
ブログ(個人サイト)のコメント(投稿)欄へ一時的に、悪意のある(ネガティヴな)匿名論客が不特定多数現れる、または特定サイトからのリンクによって流れ込む様を「畑の農作物を食い散らかす"イナゴ(稲子)の大群"」の自然災害に準えた言葉。

「悪意のある匿名論客」は鬱陶しいけれど、スズメバチのように一匹でも恐ろしい存在ではない。数を頼りにしたイナゴの群れでしかないのだ。

その一方、匿名性は自己防衛のためにはとても役に立つ。まさに防弾チョッキのように。
いまはだいぶ治安が回復したようだが、数年前のバクダッドのようにどこから弾が飛んでくるかわからない場所では防弾チョッキが必要だ。何かあったとき100%の安全は得られないにしても生き延びる確率は上がる。
ネットにおける匿名性も同じである。匿名チョッキを着込んでいれば心臓を撃ち抜かれる可能性は下がる。ネットで攻撃されるとネット人格は傷つき名誉を失うが、ネット外の実生活とは切り離しておける。

匿名性という「防弾チョッキ」を着込み「自分は安全だ」と勘違いして攻撃性を高める輩がいることは否定できない。
ただしそれは本人の性格が悪いのであって防弾チョッキのせいではない。このあたりの議論はアメリカの銃規制論議でNRA(全米ライフル協会)が「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」と主張しているのに似てくる。
なんだ、小倉弁護士の意見はそれほど的外れじゃなかったのか、という気もするが、銃と防弾チョッキを比べて「同じくらい攻撃的で危険だ」と思う人はいないだろう。世界一厳しく銃所持を規制している日本でも、防弾チョッキの所持・着用は自由である。
ちなみに、世界で最初の防弾チョッキは中世の日本で作られたそうだ。

ボディアーマー - Wikipedia
歴史
世界で最初の防弾チョッキは中世の日本において絹で作られていたものだと言われている[1]。1914年の絹の防弾ベストは800米ドル程度で高価なベストだったが、黒色火薬が用いられ発射間隔の長い銃弾を防ぐのには十分な性能であった。


防弾チョッキの能力を過信して無茶をすると馬鹿な目にあう。

なんでも評点: 防弾チョッキを試してみたくなった二人を悲劇が待っていた

防弾チョッキを手に入れたら、試してみたくなる? まあ、銃の所持が禁止されている日本の場合は試しようがないのだが、米国アイダホ州に住む二人の男性は、やっぱりその効果を試してみたかったらしい。アレクサンダー・ジョセフ・スワンディック(20)とデビッド・ジョン・ヒュース(30)の二人である。

まず最初に、ゴミ袋の手前に防弾チョッキを置き、2回撃ってみた。弾は貫通しなかった。ならば、次は「人体実験」だと考えたらしい。



アレクサンダーさんは防弾チョッキをおもむろに着用し、10歳上のデビッドさんに言った。「さあ、撃ってみて」。

ところが弾はなぜか防弾チョッキを貫通し、アレクサンダーさんの体を撃ち抜いてしまった。病院に運ばれたが間もなく死亡が確認された。

アレクサンダー・ジョセフ・スワンディック氏にはダーウィン賞を差し上げたい。

恋の終わり、ブログの終わり

2008年01月26日 | ネット・ブログ論
突然だが、ブログを書くことは恋愛に似ている。

どちらも少し(あるいはたくさん)物狂いでなければ続けられない愚行あるいは偉業だ。
どこで愚行と偉業の違いが生まれるのかといえば、真剣と書いてマジと読むところの誠実さである。
傍から見ていてどんなにバカップルでも、お互いを本気で信じ自らの偽りに潔癖であれば、誰に恥じることもない立派な恋愛だ。
逆に、第三者が「素敵なカップル」と思っていても、打算を隠し自分と相手を騙し惰性に流されるようではどうしようもない。
恋の炎が消えブログへの情熱が失われても形式的に続けることは出来るが、それはただの生活だ。

私が恋について知っていることは人類が冥王星について知っているのと同じくらいである。
つまりほとんど何も知らない。2006年に探査機が打ち上げられ、2015年には冥王星に到達して観測を行う予定になっているが、自分が恋のすべてを知る機会はあるのだろうか。そんなことはどうでもいい。

恋よりはブログのほうをよく知っている。気が付けば三年のあいだブログを書いてきた。自慢じゃないがこれまでの人生で恋愛が続いた期間より長くデートした回数よりずっと多い。本当に自慢にならない。
なぜ時間と手間を費やし頭をしぼって文章を書くのかといえば、
 「伝えたいことがあり」
 「読者が受け止めてくれると信じている」
からだ。
好きな女性にラブレターを書くのと違わない。どちらも本気でなければつまらない。伝えたいことがなくても、相手を信じていなくても技巧だけで文章を書くことはできる。だが、そんなものはインクの付いた紙屑である。鼻紙か焚き付けにするほかない。残念ながらブログのhtmlを焚き付けにするのは無理だけれど。もちろんコメント欄に突撃して炎上させてはいけない。

本気でなければ屑というのは、このあいだ書いたカードの城のごときブログ集団を見ればわかる。彼らは二言目には「連帯」「共闘」を口にするが、その心根には偽善が潜み、嘘から目を背ける卑劣がある。彼らの間の「人気ブロガー」は「水伝がインチキなのは知っているが、そんなことはどうでもいい」「いい話だからいいじゃないか」と嘯き、取り巻きは異を唱えなかった。本気と嘘のけじめを見失った人たちがお互いを信じることはできない。


恋に終わりがあるようにブログにも終わりがある。
甘酸っぱく清々しい終わりもあれば、後味の悪い最後もある。

 あるブログの終焉
 蛇足と僅かな後悔

私が二つの記事で批判し罵倒したブログは「ハンサム」だった。
単にカッコいい(文章が上手)というだけでなく、人柄が誠実で魅力的だと多くの人たちから賞賛されていた。私には彼のどこがそんなに素晴らしいのかわからなかったけれど、木村拓哉が女性誌の人気投票で一位を続けている不思議よりはまだしも納得できた。
だが、ハンサムな彼のブログの終わらせ方は見苦しかった。
エキセントリックな一読者から悲鳴と紙つぶてをぶつけられると動揺した。ブログを消したかと思えば復活させ、ひどい目にあったと愚痴り、誠実さをアピールするかのごとく思い悩んでみせ、さんざん読者の同情をかき集めたあげく姿を消した。まるで二流の恋愛ドラマだ。

誰もが認めるハンサム男(谷原章介)が主人公である。彼が恋人の一部(あまたいる読者の一人)に幻滅して別れを告げたかと思うと「やっぱり君のことが忘れられない」と戻ってくる。彼女(大部分の読者)に「あなたはちっとも悪くない」「あなたは立派よ、正しいわ」と言わせ、ナルシズムを癒し自己評価を充電したあげく、書き置き一つ残さず消える。

心優しい観客は「あんなに誠実な人がこんなやり方を選ぶのはよほど傷ついたからに違いない」と同情するのだろうが、私は「ナルシストのバカ野郎め、恥を知れ!!」と罵る。
谷原さん勝手に名前を使ってごめんなさい。



…と、ここまで勢い込んでキーボードを叩いてきたけれど、だんだん疑いが湧いてきた。
ブログと恋愛って似てるのか?似ている点より似てないことのほうがずっと多いんじゃないか?
なんで自分はこんなつまらないことを一生懸命書いたんだろう、不思議だ。何か勘違いをしていたとしか思えない。
ブログと恋愛が似ているとしたら、「勘違いで始まり、酔いが醒めて終わる」ことだけかもしれない。

英文スパムコメントが来ない(…と思ったらまた来た)

2008年01月19日 | ネット・ブログ論
今年になってから毎日20~30ほど押し寄せていた英文スパムコメントが昨日からぴたっとやんだ。
gooからの告知はないけれど、どうやらスパムフィルタが改良されたようだ。
よかったよかった。

ちょっとおっかなびっくりですが、コメント設定を「事前承認」から「公開」にしました。


ぬか喜びだった。
またスパムコメントが大量に襲来するようになったので事前承認制に戻します。
残念です。

英文スパムコメントが鬱陶しい

2008年01月05日 | ネット・ブログ論
もうしばらくのあいだコメント受付の事前承認を続けます。

年が明けてから英文スパムコメントが急増している。
急増といっても毎日10個くらいだからたいしたことはないが、目障りで鬱陶しい。
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