玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

金正日より安倍晋三を憎むthessalonike4氏

2006年06月30日 | 「世に倦む日日」鑑賞記
真面目に批判する価値があるとも思えないが、放置しておくのも不愉快だ。


世に倦む日日 : 横田早紀江の壮大な演出と謀略 - 週刊現代の横田めぐみ死亡説
韓国政府の(日本右翼の謀略に対する)カウンターポリティックスを見て、正直なところ安堵している。拉致問題で日本の政権と右翼に揺さぶりをかけられた韓国に不安を感じていたからである。横田早紀江と安倍晋三は韓国分断工作が大失敗して臍を噛んでいることだろう。先月中旬、横田滋が訪韓し、韓国のマスコミを引き集めて日韓拉致被害者家族会の連携を訴え、韓国国内で拉致問題の関心を高めたと報道されたのを見ながら、「侵略というのはこうやって始めるのか」と鬱々と思ったが、韓国政府の機を逸しない絶妙の反撃で、私の気分のバランスも少し回復できた感じがする。拉致問題は多くの日本の国民にとっては食傷なのだ。飽きているはずだ。食傷なのだが、テレビがこれでもかこれでもかと国民の胃袋に拉致問題を突っ込み続ける。だから外見上日本で「拉致問題への関心が高い」現実が出来上がる。出来上がった「現実」に抗しきれず、客観的に否定する材料を持てず、認めざるを得ない。

苦痛なことだ。横田早紀江の言っている「拉致問題の解決」とは、北朝鮮と戦争して金正日政権を倒すことなのだが、どうしてそういう右翼のプロパガンダに国民が乗せられなければならないのか。


世に倦む日日 : 金英男の会見 - 韓国三大紙の日本右翼との結託は亡国の道
金剛山で行われた金英男の会見は印象として実に不誠実で、日本国民の憤激を買うものだった。横田めぐみ自殺に関わる深刻な一件を話すときも、不真面目に唇から舌先を出したり、薄笑いを浮かべるような表情が時折見え、横田めぐみに対する夫としての思いやりが感じられず、この男の人格を大いに訝らせるものだった。会見を聞いていた横田滋の怒りがよく伝わる。侮辱されたと感じるのが当然だ。
(中略)
北朝鮮のやり方は強引で不当だが、私はそれを政治として受け入れた韓国政府の姿勢を支持する。拉致問題の謀略を仕掛けているのは日本の政権と右翼だから。
(中略)
日本の右翼と安倍晋三の陰謀は今回の一件で打撃を受け大きく挫折させられた。が、問題は韓国の世論、特に新聞で、この点は昨日(6/29)の「報道ステーション」の加藤千洋や、本日(6/30)の「朝ズバ」の嶌信彦が指摘していたが、韓国の三大紙である朝鮮日報と東亜日報、中央日報が日本寄りの立場で今回の問題を論評し、韓国政府の拉致問題への対応を批判している点である。盧武鉉政権批判のために日本の拉致問題に便乗し、日本の政権と右翼に阿る言論態度を終始見せている。

拉致問題を政権批判に利用し、日本の右翼の対北朝鮮強硬路線を利用しているのだ。私は韓国の新聞のこの意図がずっと理解できず、一体何を考えているのだろうと不審に思っていた。最近になって分かったのは、盧武鉉政権が新聞法を制定して、三大紙の言論独占体制に楔を打ち込んでいたという事実である。この事実はテレビ朝日の「サンデープロジェクト」で知ったが、ここでは法律の中身についての詳細な解説は抜きにして、私は盧武鉉政権の新聞法を支持する。


thessalonike4氏は金正日と北朝鮮ではなく「日本の右翼と安倍晋三の陰謀」が憎くてたまらないらしい。
完全に韓国民から見放されている(27日の世論調査で支持率14.1%)盧武鉉政権を北朝鮮との融和的姿勢ゆえに応援し、報道と言論を規制する新聞法まで支持する。拉致問題も民主主義も言論の自由も、この人にとってはどうでもいいことのようだ。
とても正気の人間が書いた文章とは思えない。

「世に倦む日日」の読者(カウンタを信じれば数千人)はこの内容に納得しているのだろうか?
まさかそんなことはないだろう、ほとんどは私のように「変な人が変なことを言っている」のを観察しているだけだと信じたい。

関連リンク
  私説 ~最新ニュースの私的感想~ : 拉致問題 幼稚なブログ管理人を批判する。

履歴書としてのソーシャルブックマーク

2006年06月30日 | ネット・ブログ論
サイドバーのリンクに「はてなブックマーク 『玄倉川の岸辺』の注目エントリー」を加えてみた。
本当はボタンを付けたかったけれど、gooブログ無料版には付けられないのだった。そのためにわざわざgooブログアドバンス(有料版)に乗り換える気もしない。

EKKEN♂:記事を多く書くこと
 他人のブログの過去ログって、どういう基準で読みますか?
 開設してから間もないブログであればそうでもないのですが、始まってから数ヶ月経つ、記事数の多いブログの記事全てを読む人って、そう多くはいないですよね。

EKKEN♂:再考・過去記事は読まれない
 過去ログを全て読む価値のあるブログなんてものは、そうそうあるものじゃないです。過去ログを全部読んで面白いのは、自分のブログだけでしょう。
(中略)
 大部分のブログがそうなんですが、個人の「面白いけれど役に立つわけではない」ブログの場合はわざわざ過去ログを掘り出しに行く価値が低いと思います。

RERO!! - せっかくだから「ブログは記事単位で読まれ、過去ログは読まれない云々」についての関連リンク集を作っとく
どうしたら過去ログは読まれるか
     ・ オススメエントリ集の類を作成(悲しいかなそのスペースすら素通りされることも)
     ・ 積極的に自分で紹介する(唯一の読まれる範囲(新着記事)からの誘導)
    など。

他人の不幸は蜜の味: 「おすすめ記事です!読んで!」って言われても読まないですよ。
 ブロガーって基本的に自己顕示欲のかたまりだから、自分の過去記事を紹介したがる。トップページに「おすすめ記事リンク集」とか置きたがるもんです。僕自身もトップページにではないですが、置いています。

 でもこれって有効なんだろうか?といつも思うのです。いや、確かにそこから過去記事を読んでくれる人はいますよ。でもそんなの、何万人に一人という割合でしょう。少なくともブロガーが望むほどは見てくれないですよ。「過去記事読んで!」という気持ちなんて、どうやったって空回りしてるだけの独り善がりのわがままだと僕は思う。


私自身は「過去記事を読んでほしい」という気持は薄い。どちらかというと恥ずかしいのであまり読んでもらいたくない気がする。
それならなぜ自分のブログの「注目エントリー」へリンクするかといえば、偶然ブログを訪れた人が「こいつはこれまでどんなことを書いてきて、どういう評判だったんだろう」と疑問を感じたとき参考になるのではないかと思ったから。ちょっと格好つけて言えば、ブログの履歴書のようなもの。

はてなブックマーク」でクリップされる記事は必ずしも自信作ばかりではない。最近では「上策・中策・下策」はけっこう面白い文章だと思ったのに誰もブックマークしてくれなかったし(残念)、「『ネットイナゴ』の現状」は自分では手抜き記事のつもりだけれど14人の方がブックマークしてくれた(ありがとうございます)。

ブロガーが自ら「おすすめ記事」を選ぶとどうしても自分に都合のいい「自画像」になりがちだが、ソーシャルブックマークの注目記事であればそれは「他人の見た姿」である。自画像よりは客観的だろう。

というわけで、「はてなブックマーク 『玄倉川の岸辺』の注目エントリー」は「作者のおすすめする記事」ではなく、「読者が選んだ代表的記事」なのである(ある程度重なっているけれど)。
もし馬鹿げた記事を書いてしまい多くの人を怒らせたり呆れさせたとする。その時は「これはひどい」「これはいたい」「炎上」「死ねばいいのに」といったネガティブなタグが大量に付けられるだろうが自分ではどうしようもない。コントロール不能な点においてコメント・トラックバック欄の開放より危険かもしれない。

批判されて自尊心が損なわれるリスクは高まる(?)けれど、どうせ自分の評判は自分の思うようにはならないのだから、結局は同じことである。「死ねばいいのに」タグを100個付けられても何も落ち込むことはない。たとえ百万人が「死なないで!」と祈ったとしても、人間は誰でもいつかは死ぬのだから。…そういう問題じゃないような気もするが。
せっかくブログを続けてきたのだから悪い評判を恐れて萎縮してしまってはつまらない。批判を恐れず、自分の愚かな感情や馬鹿げた考えもありのまま書いていこうと思う。

「ネットイナゴ」の現状

2006年06月25日 | ネット・ブログ論
上のグラフは「ネットイナゴ」をGoogle検索したヒット数の推移。
ヒット数を記録し始めたのは5月25日で、最初の数日の状況は以下のとおり。

 5月23日            越後屋 - ネットイナゴ(仮採用)
 5月24日            玄倉川の岸辺:迂闊な人
                   越後屋 - ネットイナゴのその後
     
 5月25日 約 90 件      越後屋 - ネットイナゴ!   
                   弁償するとき目が光る : ネットイナゴ(って、ネーミングセンスはどうだろう)
 5月26日 約 120 件
 5月27日 約 260 件
 5月28日 約 387 件
 5月29日 約 700 件
 5月30日 約 11,300 件   ekken♂:2ちゃんねるまとめサイト問題雑感
 5月31日 約 13,700 件   木走日記 - 「ネットいなご」集団の生成過程と生成条件~情報発信側の「不用意」性が「ネットいなご」を招く

5月30日にヒット数が約16倍に急増しているのは「2ちゃんねるまとめサイト問題」が影響しているのだろうか。

それにしても、Google検索だとヒット数は多いのにその多くがソーシャルブックマークによるものでブログ記事は少ない。約 81,100 件の検索結果のうち表示されるのは58件で、そのほかは「最も的確な結果を表示するために、上の58件と似たページは除かれています。」これではネットイナゴという言葉がヒット数ほどに認知され使われているとは思えない。
ネットイナゴという言葉を使ったブログを見つけるにはgooブログ検索のほうが役に立つ。…といっても、今日の時点で46件しかヒットしないけれど。

ちなみに、「ブログ炎上」のヒット数は約 144,000 件、「ネット右翼」は約 352,000 件。
ヒット数が10万件を超えないと一般的に認知された言葉にはならないのだろうか。グラフをそのまま延長すれば近いうちに届きそうだが、どうもこれ以上増えないんじゃないかという気もする。

「道義的責任」がわからない

2006年06月22日 | 日々思うことなど
たぶん古くからある言葉なのだろうけど、最近どうも耳障りだ。その言葉とは「道義的責任」。

ホリエモンが逮捕されたとき「小泉総理と武部幹事長には道義的責任がある」と野党は追及した。
日銀の福井総裁が村上ファンドに出資して利益を得ていたことに「道義的責任を問われる」とマスコミは伝える。
そして、私の愛読する人気ブログ「世に倦む日日」ではこのように道義的責任の大切さを説いてくださる。

「世に倦む日日:本村洋の道義的責任論の説得力 - 最高裁差し戻し判決を寿ぐ」
昨夜の道義的責任論にも覚醒させられた。本村洋の説明として出ると、道義的責任という言葉も本来の意味を蘇生して重々しく胸の奥に入る。罪を犯した人間は法的責任とは別に道義的責任がある。法的責任を全うするのは当然で、しかしそれとは別に、道義的責任から逃れることはできない。そして道義的責任を果たした上で法的責任を果たさなければならない。二つは違う。両方の責任を正しく果たす必要がある。

だが、私にはどうも「道義的責任」という言葉の意味がわからない。
たぶん私が道義的人間ではないからだろう。恥を忍んで告白すると、自分のことを「道徳心が弱く、悪いことをしてもあまり罪悪感を感じないタイプ」だと思うことはあっても「人並み優れた道徳心を持っている」と感じたことは一度もない。
幸いにも法律に触れる悪事は犯していない(スピード違反などはある)けれど、それは単に小心者だからだ。法律には触れない不道徳を(たぶん)それほど犯していないのも、単に「そうしたいと思わなかった」「そうする機会がなかった」からのような気がする。自分の道義心をそれほど信じていない私は、韓非子の「人の道徳心を当てにせず、法の峻厳さを頼りにせよ」という論に納得してしまう。

私自身のことはともかく、「道義」あるいは「道徳」という概念と「責任」という言葉は反りが合わないと思う。前者は心の問題、後者は社会や法律の問題ではないのか。「道義(道徳)の問題」「社会的(法律的)責任」という言葉であればわかりやすいのだけれど。
Googleで検索してみても納得できる説明が見つからない。goo辞書で検索してみると、

  どうぎ だう― 1 【道義】 人としてふみ行うべき道。道徳。道理。
  どうぎ-しん だう― 3 【道義心】 道義を守る心。道徳心。
  どうぎ-てき だう― 0 【道義的】 (形動)道義にかかわるさま。「―な責任」

となっている。
どうやら「道義的責任」という言葉は「不道徳だ」「破廉恥だ」「職業倫理に反する」などの批判と同じ意味で使われるらしい。
それならわかりやすい言葉を使えばいいのに、と思ってしまうが、たぶん「道義的責任」といかめしい言葉を使ったほうが立派に見えるし、相手に「責任」を負わせることができて好都合なのだろう。

約2000年の昔、パレスチナに住んでいたナザレのイエスという人がこんなことを言ったそうだ。
  「あなた方の間で罪のない者が,この女に向かって最初に石を投げなさい」
  「わたしもあなたを罪に定めない。帰りなさい。今からは,もう罪を犯してはならない」
 (ヨハネによる福音書
私はイエスという人のことも、彼の死後にできたキリスト教という宗教のこともそれほど知りはしないが、「道義的責任」という言葉を聞くたびにこのエピソードを思い出してしまう。

本当に「道義的責任」を問い、罪びとを責めることができるのはその人の内にある良心だけだろう。他人が居丈高に「道義的責任」を糾弾しても、罪びとの心に響かなければ道義的解決は得られない。だが、今の世の中で「道義的責任を追及する」人たちの多くは罪びとの良心を共鳴させるよりも「道義的責任」という言葉で社会的・政治的に批判し攻撃することを目的としているようだ。

道義心のうすい私がこんなことを言うのも変だが、なんだか悲しいことである。

観測されるまで「猫は死んだ」とは決定しない

2006年06月18日 | 日々思うことなど
物理学のことは自分にはぜんぜんわからないが(運動量と運動エネルギーの区別もよくわかってないくらい)、何だか不思議で面白い。

分裂勘違い君劇場 - 「シュレディンガーの猫の核心」が核心をついていない理由
 シュレディンガーの猫というのは、箱の中に生きた猫を入れ、量子サイズのレベルでの現象によって、スイッチが入るかどうか決まるような装置に、毒ガス噴出装置を接続し、それを猫と一緒にはこの中に入れておくと言うことです。量子レベルでは、ある量子がそのスイッチをオンにする場所に存在する蓋然性の濃さは、黒でも白でもない中間的な濃さをとれますから、ふたを閉めたあと、スイッチが入ったかどうかの蓋然性の濃さも灰色であり、したがって、毒ガスが噴出して猫が死んだかどうかの蓋然性も灰色なわけです。

箱を開けた瞬間に、一時間前に起こったことが過去にさかのぼって決定される
 ただし、人間がその箱のふたを開けた瞬間、蓋然性の濃さは、白か黒かのどちらかに収縮します。だから、たとえば、ふたを開けた結果、死後一時間の猫が発見されたとしても、それは、猫が死んでから一時間後にふたを開けたことにはなりません。そうではなく、ふたを開けた瞬間に、一時間前に猫が死んだという過去の事実が決定されたのです。これが、観測による蓋然性の収縮です。


飛行機が行方不明になり「墜落したらしい」と報道されたとき、テレビでよく「無事を祈る家族」の姿が写される。これまでは「もう事故は起きてしまったのだし、事故に遭遇した人たちの運命も決まってしまったのだから、今さら祈っても意味ないんじゃないの?」と思ってきたが実はそうではないのかもしれない。
祈りの力が量子力学的重ね合わせに作用するとしたら(ここらへんはたいへん疑問だが、まあそういうことにして)、必死に祈ることで「数時間前に起きた墜落事故」という事象の蓋然性を低下させ「実はどこかに無事に着陸していた」事象を現実として観測できるかもしれない。
まあ、現実的に(ニュートン物理学的に?)考えるとそういうことはありそうにないけれど、「観測されるまでは過去の『事実』も決定されてはいない」という量子力学的世界観を知ると「家族の祈り」を無意味なものとして切り捨てることは難しくなる。

というわけで、ぜんぜん関係ないけれど、とりあえず私もサッカー日本代表のクロアチア戦・ブラジル戦連勝を祈ってみることにする。
緒戦の惨敗でグループリーグ突破はほぼ不可能と言われているが、まだその事象は観測されてはいないのだから。

上策・中策・下策

2006年06月11日 | ネット・ブログ論
太宰治の小説に「地球図」という短編がある。
江戸時代、禁制を破って密入国をしたジョバンニ・シドッチ(シロオテ)という宣教師を新井白石が取り調べる話だ。
幸いなことに青空文庫で全文が公開されている。その一部を引用する。小説の結末部分なので、未読の方はご注意ください。

「地球図」 太宰 治
 白石のシロオテ訊問は、その日を以ておしまいにした。白石はシロオテの裁断について将軍へ意見を言上した。このたびの異人は万里のそとから来た外国人であるし、また、この者と同時に唐へ赴(おもむ)いたものもある由なれば、唐でも裁断をすることであろうし、わが国の裁断をも慎重にしなければならぬ、と言って三つの策を建言した。
 第一にかれを本国へ返さるる事は上策也(此事難きに似て易き歟(か))
 第二にかれを囚となしてたすけ置るる事は中策也(此事易きに似て尤(もっとも)難し)
 第三にかれを誅(ちゅう)せらるる事は下策也(此事易くして易かるべし)

 将軍は中策を採って、シロオテをそののち永く切支丹屋敷の獄舎につないで置いた。しかし、やがてシロオテは屋敷の(ぬひ)、長助はる夫婦に法を授けたというわけで、たいへんいじめられた。シロオテは折檻(せっかん)されながらも、日夜、長助はるの名を呼び、その信を固くして死ぬるとも志を変えるでない、と大きな声で叫んでいた。
 それから間もなく牢死した。下策をもちいたもおなじことであった。


太宰とも白石ともシドッチとも全く関係ないが、当ブログでは最近数回の記事で花岡信昭氏のブログ炎上問題をとりあげてきた。

  小娘数人に破壊される日本文化とは
  「素人」と「玄人」
  謝罪を要求する人たち
  コンテキスト漂流記

関連記事 素朴で正義感の強い人たち

これらをお読みになったのかどうか、当ブログのコメント欄に花岡氏からとおぼしき書き込みをいただいた。「しばし冷却期間をおこうと思います。少なくもブログの世界では。」とのことである。hanasanの名で書かれたこのコメントが本当に花岡氏ご本人のものかどうかは定かでない。仮にそうだとすると、花岡氏は冷却期間を置いてほとぼりを冷ますおつもりのようだ。
現実的な選択としては悪くないやり方だと思う。数週間放置すれば面白半分で炎上に参加した者たちは飽きて去っていくだろう。その可能性は高い。
…だが、果たしてそれで本当にうまくいくのか、一抹の不安が残る。

新井白石のひそみに倣って、ブログ炎上への対処法を三つ考えてみた。
ここで「彼ら」というのはコメント欄に大量の批判を書き込む人々(ネットイナゴ)のことだ。

 第一に彼らと真剣に対話することは上策也(此事難きに似て易き歟(か))
 第二に彼らを無視して冷却期間を置く事は中策也(此事易きに似て尤(もっとも)難し)
 第三に彼らを罵倒し挑発する事は下策也(此事易くして易かるべし)


花岡氏は今回「中策」を選ぶようだが、幕府のように「下策をもちいたもおなじことであった。」という結果にならないかちょっと心配である。

朝日がネットに広めた「アインシュタインの予言」

2006年06月09日 | アインシュタインの予言
7日の記事で「『アインシュタインの予言』をGoogleで検索すると約 525 件のヒットがある。「広まっている」というには物足りない数」と書いたけれど、今日もう一度Google検索してみたら、なんと約 39,500 件ものヒットがあった。
間違いなく7日の朝日新聞記事の影響である。最近は「偏向」「お花畑」ぶりを批判されたりからかわれたりすることが多い朝日だけれど、全国紙の影響力はさすがに大したものだ。
中澤教授は「アインシュタインの予言」否定論をすでに半年前にネットで発表しているのにほとんど知られてはいなかった。

当ブログの「アインシュタインの予言」関連記事は事実の検証にはまったく役に立たないのに検索順位で3位になってしまっている。これでは申し訳ないので、せめてリンク集を作っておく。

「アインシュタインの予言」否定派

 朝日新聞記事
  asahi.com:ネットで流行「アインシュタインの予言」、人違い?

 中澤英雄教授
  アルベルト・アインシュタインと日本
  アインシュタインと日本 Part 2
  アインシュタインと日本 Part 3

 「アインシュタインの予言」について検証するブログ
  アインシュタインの予言について

 ★ A Letter from ゆっぴー _φ( ̄▽ ̄ ) -
  アインシュタインを利用する右翼な人がいるの? (´ヘ`;) ハァ
  アインシュタインの予言は事実として信じられているのか?( ̄へ ̄;
  こんなレターを書いたよ_φ(・_・”)その2
  高田さん、たくさんコメントどうもです。(@´_`@)大目に見てネ
  わかってもらえるカナ~ (^u^;) ちぃとツカレタよ
  じゃ、そろそろシメに行きますか~ (´ ▽`) ネ♪♪


「アインシュタインの予言」肯定派

  また「アインシュタインの予言」に文句つけてるよ^^|きちが石根

 Let's Blow! 毒吐き@てっく
  アインシュタインの予言
  アインシュタインの予言だけじゃないよ、わが国を称えてるのは
  アインシュタインの予言について

コンテキスト漂流記

2006年06月09日 | ネット・ブログ論
花岡信昭氏のブログ炎上に関する当ブログの記事に興味深いトラックバックを頂いた。

Dancin’ in the Dark - 「論理的」と見なされること
今の世の中、特にある程度よりも若い層を中心に「論理的」であるかどうかについてのリタラシーが上がっているのかなと。裏返せば、「論理的でない」状態に対する許容度が低くなっているというわけ。
「論理的か否か」という話とはすこしずれるが、「高コンテキスト文化」「低コンテキスト文化」という言葉を思い出した。私は文化人類学や社会心理学について何も知らないので、これから書くことは単なる素人のあてずっぽうである。

■高コンテキスト文化と低コンテクスト文化(Hall, E.T., 1976 Ferraro, G.P., 1990)
人が伝えるメッセージの内容は、言語化された情報とそれがどのような場面で誰に対して発せられたかというコンテキストによって決まる。あまりコンテキストに頼らず、メッセージの大部分が実際の言語表現によって伝達される文化を「低コンテキスト文化」、逆に明確な表現を避け、話されることばよりもコンテキストに重点を置いてお互いに相手の意図を読み取る文化を「高コンテクスト文化」という(Hall, E.T., 1976)。
日本社会は一般に高コンテキスト文化であるといわれている。誰かが何かを言ったときには、その人の立場や隠された意図を読んで対応しなければならない。言葉をそのまま鵜呑みにすると恥をかくことになる。
花岡氏は「人生経験の豊富な大人」として読者にも高コンテキストの理解(言葉足らずでも言いたいことを察してもらえる)を期待したのに、多くの(おそらくは花岡氏よりはるかに若い)読者は「書かれていないことは認めない」という低コンテキストな反応をした。

たぶん花岡氏は「『…。』や『モーニング娘。批判』のような言葉尻にこだわらず、『ジャーナリストとして正しい日本語を守りたい』という思いを理解してほしい(それが理解力のある大人の態度だろう)」とお思いなのだろう。だが読者の多くは「『正しい日本語』を守りたいのなら自分の文章にも厳しい基準を守れ。書いた文章が『間違っている』のだからまずそれを認めて訂正しろ(それができなければジャーナリストとは認めない)」と反発した。

両者のどちらが「正しい」のかを考えても意味がなさそうだが、ネット社会への適応度を比較すると読者のほうが勝っている。
現在のネット社会(ブロゴスフィア)におけるコミュニケーションはテキスト主体であり、書き手は匿名であることがほとんどだ。読者はテキストの内容と質に注意を集中し、それ以外のコミュニケーションはごく希薄である。ネット人口に比べるとはるかに少数の人々が複雑な人間関係を構成している「マスコミ界」の文化と比べると、ネット世界の文化はかなり低コンテキストであるといえる。
格好つけて言えば、異文化間のコミュニケーションギャップがブログ炎上の悲喜劇を生んだ。
格好をつけずに言えば、ネット文化の低コンテキスト性をよく理解していない花岡氏がヘマをやって痛い目にあったのである。

Dancin’ in the Dark の kazu-ct 氏も指摘されているように、「論理的でない文章を書くこと自体がそんなに「悪」なわけでもない」
だが、低コンテキストのコミュニケーションが基本のネット文化(あるいは「空気」)を読めなかったものはブログ炎上の懲罰を受けることになる。炎上参加者の批判コメントの一つ一つは論理的(低コンテキスト)であっても、それが大量に集まって「ネットイナゴ現象」が起きるとリンチとそれほど変わりがない。ブログ炎上で痛い目にあわされるのは言語的というよりむしろ物理的で高コンテキストなコミュニケーションといえる。

「恵みの雨」が度を越して大量に降り注ぐと「集中豪雨」と呼ばる。
「理性的で論理的な批判」が数百個集まると、批判されたブロガーにとっては「数の暴力」としか思えない。
数の増加がいつしか質的変化につながるのは不思議なことである。

* 蛇足として説明すると、このエントリのタイトルは「コンチキ号漂流記」(ハイエンダール)のパロディーである。

ネットで流行していない「アインシュタインの予言」

2006年06月07日 | アインシュタインの予言
半年ほど前に当ブログで取り上げた「アインシュタインの予言」について朝日新聞が記事にしていた。

asahi.com:ネットで流行「アインシュタインの予言」、人違い?
 アインシュタイン博士が日本をべた褒めしたとされる「アインシュタインの予言」という文章が、ネットや一部の書籍で広まっている。だが実は、博士とはなんの関係もない言葉が孫引きで広まっただけだと、東京大学の中澤英雄教授(ドイツ文学)が主張している。調査でたどり着いたのは、シュタインという法学者の言葉とされていた文章だった。

 「神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」といったくだりがあるこの文章は、多少の相違はあるものの、1950年代から軍人や宗教家の書籍で紹介され始め、最近は日本文化を誇る「ちょっといい言葉」としてネットで引用されることも多くなった。

 だが出典が常にあいまいで、内容も博士の思想とは相いれないのではと疑問を持った中澤教授が、この言葉のルーツを追ってみた。その結果、アインシュタインの言葉として引用されている例として一番古いのは、56年の書籍であることがわかった。

 さらに戦前にさかのぼると、文意がよく似た文章が28(昭和3)年の『日本とは如何なる国ぞ』という本のなかに記されているのが確認できた。著者は、戦時中の日本の国体思想に大きな影響を与え、「八紘一宇」という言葉の提案者である宗教家の田中智学だった。

 ただし、この本では予言を語った人物はローレンツ・フォン・シュタインという明治憲法成立にも大きな影響を与えたドイツ人の法学教授だとされていた。

 中澤教授は、田中智学がこの言葉を知るもととなったシュタインの講義録などにも当たってみたが、該当する文章を見つけることはできなかったという。

 結局、起源はシュタインの言葉でもなく、田中智学が自らの思想をシュタインに寄せて語った文章の可能性が高いと中澤教授は見る。それが孫引きを繰り返されているうちに、どこかで「アイン」がついて、アインシュタインの予言だということにされてしまったらしい。

 中澤教授は「海外からみたらアインシュタインをかたってまで自国の自慢をしたいのかと、逆に日本への冷笑にもつながりかねない事態」と心配し、安易な孫引きにくぎを刺している。


朝日の記事内容は中澤英雄教授が萬晩報に寄稿した文章を要約したものだ。

アルベルト・アインシュタインと日本
アインシュタインと日本 Part 2
アインシュタインと日本 Part 3

「アインシュタインの予言」をGoogleで検索すると約 525 件のヒットがある。「広まっている」というには物足りない数だが、当ブログの記事が検索リストの三番目に並んでいるのはちょっとうれしい。

「アインシュタインの予言」が誰が書いたものなのか、それはわからない。
贋物である可能性は高そうだが、たとえアインシュタイン本人が書いた(言った)ことであっても、私は「アインシュタインの予言」と呼ばれる国粋主義そのものの文章が嫌いなことには変わりない。「尊い国」とか「世界の盟主」なんて大げさで空虚な褒め言葉は悪い冗談としか思えない。

朝日の記事、そして中澤教授の文章を読んだ人が「アインシュタインの予言」に疑問を持ち「そもそもこの文章の内容はどうなんだろう」「これって隣の国の人たちがやっている『ウリナラマンセー』と同じじゃないか」と考えてくれることを望む。

謝罪を要求する人たち

2006年06月07日 | ネット・ブログ論
いまだに大炎上を続けている花岡信昭氏のブログ。
「謝罪」で一度は鎮火するとも思われたが、花岡氏が日経BPに「ブログ再炎上、きっかけはアイドル名と句点」なるコラムを発表してさらに火力が上がったようだ。

私にとって

 ・ 「…。」問題
 ・ 「『モーニング娘。』が日本語を壊した」というトンデモ説
 ・ モーニング娘。の歌や踊りが下手だという花岡氏の主観

のどれもが心の底からどうでもいいことなのでこのエントリでは取り上げない。すでに前のエントリ“「素人」と「玄人」”で書いたことでもある。
花岡氏の論理性の欠如や文章力不足、マスコミ業界人の傲慢についても多くの批判が寄せられているが、私自身は「まあ、団塊世代のジャーナリストならああいうものだろう」という感想しか持てない。誰かに「あれでいいのか?」ときかれたら「良くはありません」と答えるけれど、「炎上」に参加している人たちのように一所懸命(あるいは面白半分)批判する気になれない。批判されるべきことはすでに言い尽くされており、今さら付け加えるものは何もない。

私にとって興味深いのは、「炎上」参加者の多くが花岡氏に謝罪を求めていることだ。
彼らがいったい何について、誰に対して謝罪せよと要求しているのかわからない。
これはレトリックとしてわからない振りをしているのではなく、本当に「どういうつもりなんだろう?」と不思議でしかたないのだ。
もしかして彼らの真意を親切に説明してくださる方がいるかもしれないが、たぶんその説明を読んでも私には「本当にわかった」と納得することはできないだろう。

電気通信大学に中島義道という変わり者の哲学者がいて、世間の常識を逆なでする言動と行動で良識ある人たちから顰蹙を買っている。
電車やバスの社内で流れる「親切な」案内放送に「自分が不愉快だから」という理由で猛抗議したり、「濡れ衣を着せられたが仲間のため言い訳せず耐えた」という「美談」に噛み付いたり、なんともわがまま勝手な人である。中島義道のような人が家族や職場仲間だったらずいぶん困ることだろう。
「思いやりと察し」を至上の価値とする日本社会に反発する社会的不適合の人だが、私はなんだか自分に通じるものを感じている。
中島氏とは無縁の一読者として、彼の本を何冊か買い愛読している。以下はその中の一冊からの引用である。

私の嫌いな10の言葉
 「大人になること」とは、この国ではこういうことです。それは、どこまでも自分の信念を貫くように行動することではなく、信念をうわべでは曲げても全体の「和」を乱さないように行動すること、そういうときの辛さもみんなわかっているのだから、ジタバタしないで、言い訳せずに、頭を下げてただ「私がまちがっていました」と謝れば、それですべてがマルク収まるのだよ。
 こうして、言葉の真の意味を無限に希薄化することを教育する。その人にとって最も大切な信条をも、言葉の上ではかなぐり捨てることを要求する。これは、存外それなりに合理的であって、一旦その修行に耐えて「大人」になってみれば、他人が自分の眼前で「悪うございました」と深々と頭を下げても、ああそうか、随分この人はたいへんなのだなあ、ほんとうは自分が謝る必要がないことを知っているのに、こうして「和」を保つ儀式に参加しようという意思表示なのだなと解釈して、その理不尽な行動を理解してあげる。
 だから、この国ではみんなすぐに謝る。みずからの非を認めているから謝るのではなく、謝ることそのことが社会的に要求されているから、つまり「得」だから謝る。逆に言うと、謝らずにいると、いかに自分が正しいとしても社会的に「損」だから謝るのです。 
 (5 一度頭を下げれば済むことじゃないか! p125-126)

 たしかに、すべての人が心にもなく頭を下げており、そのことをみんなが承知している場合、つまりこうした「謝る文法」がうまく機能していて透けて見えている場合はそれでいいのです。私がこうした定型化された「頭を下げる文化」にヒドク反発を感じるのは、この文化には濃霧の中を歩いているような見通しにくいところがあって、足元をいちいち点検して歩かないと、アッという間に罠に陥ってしまうため。
(中略)
 もう少し踏み込んでみましょう。あるときは「かたちだけ謝る」ことを相手は要求している。しかし、あるときは、それでも許さないともう決心しており、「すみません」と頭を下げる相手に向かって「かたちだけ謝れば済むと思うのか!」とかえってその「うわべ主義」をけがらわしいと言わんばかりにグイグイと批判しさえする。
 (5 一度頭を下げれば済むことじゃないか! p129)

 この国では、「一度頭を下げれば済むことじゃないか」と要求しても従わない者に対する制裁はたいへん厳しい。やんわりと猫なで声でこの「儀式」を迫っていた輩が突如青筋立てて、今度は本気で「謝れ!」と言い出すのです。
(中略)
 こういうことを口角泡を飛ばして要求する当人が、しばしば自分が従っている「かたち」をじつは憎んでいることがある。この誇り高い自分でさえ、幾度涙をこらえて頭を下げたかしれない。威張りくさった相手のアホ面に向かって小便でもひっかけてやりたいほどなのに、「すみません」と震える声で頭を下げたことがこれまで何度もあった。だから、おまえもこの儀式をしなければならないのだ。でなければ、おれが浮かばれない。おれがこの恥辱を濯ぐことができない。おれが、バカを見たことになる。
 こうして、若いころに徹底的に憎しみをもって「かたち」を学んできた者が、妄執的に同じ「かたち」を若いものに押しつけることはよくあることです。ですから、これに従わない者に対して、彼(女)は神経症的に要求する。自分でも恐ろしくなるほど、相手を滅ぼしてしまいかねないほど、目をひんむいて「謝れ!」と命令するのです。
 (6 謝れよ! p145-146)

 こうした事態を逆の側面から冷静に見てみれば、一般に若いころこういう屈辱を味わうことがあまりなかった者は、高飛車に「謝れ!」と命令することは少ない。つまり、どんなにがんばっても、自分が他人を自由にできないことを体感的に学んだ者は、他人に向かって「かたち」だけでも支配しようとすることはない。「謝れ!」と命令して謝ってもらってもなんにも嬉しくはないのです。
 まして、本心から謝ってもらいたい、などという大それた要求をしようなどとは夢にも思わない。人間がいかに互いに違った感受性をもち、互いに異なった信念のもとに生きているか、しかも各自プライドだけは容易に捨てない者であるかを、体感的に知っている者は、「謝れ!」と百回言っても相手の気持ちが変わることなどありえないことを知っている。どんなに悲痛の叫び声をもって相手に訴えても、何時間もじゅんじゅんと説いても、相手の心をツユ変えられないことがほとんどであることを知っている。だから、今度こそ性根を入れ替えてくれるだろう、今度こそ目を醒ましてくれるだろう、などというおめでたい願望を抱くことはないのです。
 こうして、謝ることを要求する人とそれを要求しない人とは完全に別世界に生きている。両者がわかり合うことはまずありません。私は自分がいかに悪いことをしたとしても、その人に命令されて謝ることはしたくない。「謝れ!」と言われた瞬間に、謝りたくなくなる。そして、同じことを他人にも期待している。私はたとえいかにある人から被害を受けようとも、悪さをされようとも、「謝れ!」とだけは言いたくない。
 それは、私が潔癖だからではなく、そういう「かたち」だけの謝罪に虚しいものを感じているから、そんな「かたち」だけの謝罪では納得しないからなのです。私の要求はもっと強くて、たとえそこに本心が見えていたとしても、私に命じられて謝るのでは納得できない。それでは駄目だという直感がある。つまり、私のほうがずっと相手に対して要求が高いがゆえに、口が裂けても「謝れ!」とは言わないのです。
 私は自分が他人にどんなに卑劣なことをされても、当人に強制的に謝らせたくはありませんし、それを要求したくはない。今までも、記憶に残るかぎり、要求したことはありません。もちろん「謝ってもらいたい」と言われたことは少なからずあります。そのうち、ほとんどすべて謝りませんでしたが……それでいいのです。
 (6 謝れよ! p148-149)
* 黄色文字は原文では傍点付き文字

私は中島義道ほどの変人ではないので、誰かにいやな目にあわされて「謝ってくれ」と要求したことがある。ずいぶん昔のことだが、その時は「そういうやりかたが世間並みなのだ」と思っていたようだ。今ではよく思い出せない。
だが、要求して謝罪を勝ち取っても何の満足感も得られず、むしろ苦い後味ばかりが残った。どうやら「謝罪を要求する」のは私の体質に合わないらしい。

花岡氏のブログで謝罪を要求している人たちの気持や考え方は依然としてよくわからない。
だが、中島義道の感覚、いや精神的アレルギー反応は自分のこととして理解できる気がする。