玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

万能薬、あるいは大さじ一杯の砂糖

2008年10月29日 | 「水からの伝言」
アメリカの小説を読んでいると、あちらの人は体の具合が悪いとき「アスピリンさえ飲めば大丈夫」という感じで気軽に飲みまくっている印象を受ける。頭が痛いといってはアスピリン、疲れたといってはアスピリン。あくまでも小説を読んだだけなので実際どうなのかは知らない(無責任)。
アメリカ人は「万能薬」好きなのか。そういうものがあればそりゃ便利だよね。
でも、本当になんでもかんでもアスピリンで大丈夫なの?

kagaku331: あれっと思った話
市の広報誌に,廃油から石けんを作るという記事がありました。
 その中で,「あれっ!」と思ったことがありました。

 廃油石けんは,良くある話で,油をそのまま捨てるとCODを上げるので,使える物にするという発想は悪くないです。
 しかし,油を石けんにするには,アルカリ性の水溶液と反応させなければなりません。
 水と油ですから,それをうまく混じり合わせるのにアルコールや洗剤など,界面活性剤を加えます。
 そして,加熱してかき混ぜます。
 この時注意しなければならないのは,かき混ぜている液がはねたりして皮膚に触れないようにすることです。
 温度の高いアルカリ性の水溶液は,タンパク質をとかすはたらきが大きいからです。

 広報誌には,その石けんづくりの時にEM菌を入れるので,環境浄化にも役立つことが期待されるという話がありました。


アメリカのアスピリンほどではないが、日本には「EM菌」なるものがあって愛好者はどこでもなんにでも混ぜたがるようだ。
もっとすごい(ひどい)例が幻影随想で紹介されている。

幻影随想: ニセ科学の総合商社としてのEM

セラミックの材料にEM菌を混ぜるとありがたい効果あるのだとか。
黒影さんが突っ込んでいる通り完全にナンセンスなのだが、たぶん愛好者の耳には届かないのだろう。
鰯の頭も信心というかなんというか。

「なんにでも混ぜたがる」という点で、ある種のおせっかいな人たちを思い出した。
私が料理をしていると「あ、これを混ぜるとおいしくなるから。絶対だから!!」とか言って横から手を伸ばしてくる人がいる。「化学調味料愛好家」だったり「砂糖好き」だったり「醤油マニア」「バターファン」「蠣油信者」「豆板醤教徒」「オリーブオイル友の会」などなど。
味の好みは自由だから、自分の家で自分が料理するときは甘かろうと辛かろうと何でも好きに入れればいい。
でも人が料理してるときに横から手出しするな!うっとうしいんじゃボケ!!(なぜか関西弁になる)

人間の味覚の基本として「甘み」と「油」が好まれるのは確かだ。料理の本にも「隠し味として砂糖を少し入れる」とか「カレーの仕上げにバターを大さじ一杯」などと書かれている。
とはいえ、「それさえ入れればおいしくなる」とか「たくさん入れれば入れるだけ良くなる」というものでは断じてない。一人前のドレッシングに一つまみの砂糖を入れるのは結構だが、大さじ一杯は悪夢だ。カレーにバターを入れるのはいいけれど、肉じゃがには合わない。

EM菌なるものの場合は、適切に使えばある程度の効果はあるようだが(その辺が微妙なところ)、アメリカ人のアスピリンのごとく気軽に万能薬として使いまくっていいものじゃない(「EM菌投入は河川の汚濁源」kikulog)。
世の中に実際に万能薬があれば便利だけど、多くの場合「万能と信じたいから万能と思い込む」確証バイアスが働いているようである。

EM菌(万能薬)愛好家の「いつでもどこでもEM菌」の安直さは「おいしさの秘訣は隠し味の砂糖」という情報(これ自体は事実)を聞きかじった料理の素人が「とにかく砂糖を入れればおいしくなるんだ」と思い込むようなものではないか。
煮込み料理に砂糖、は別にいいけれど大量に入れてギトギトに甘くする。玉子焼きならともかくオムレツにもスクランブルエッグにも砂糖。ゆで卵にも砂糖を付けて食べる。果ては冷奴や刺身にも砂糖をふりかけて「おいしいおいしい」と喜ぶ。
…さすがにそこまでやる人はいないだろうけど、もしいたら味覚障害はもちろん糖尿病が心配だ。そんな食生活を続けていたら体をダメにしてしまう。

伝え聞くEM菌愛好家の行状は「なんにでも山盛りの砂糖」と大差ないように思われる。
特に問題なのは、EM菌発明者の比嘉教授自身が「いつでもどこでも(大量に)」という普及戦略をとっていることだ。自分の発明品が有用だと信じ、広く使ってほしいと願う気持はわかるが、それにしても度が過ぎる。
小林カツ代やグッチ裕三が「きょうの料理」で「どんな料理にもたくさん砂糖を入れましょう」「入れれば入れるだけおいしくなります」などと言えば大ひんしゅくだが、EM菌の場合それに近いことがまかり通っている。困ったものだ。

ちなみに、北海道(道東)ではアメリカンドッグに砂糖をまぶして食べるそうである。秋田では納豆に砂糖を混ぜるとか。
私の住んでいる地方でも、家によっては赤飯に水煮した小豆ではなく「甘納豆」を入れることがある。初めて食べたときは衝撃的だった。

空飛ぶスパゲッティ・モンスター教と「水からの伝言」

2008年07月20日 | 「水からの伝言」
いまさら言うまでもなく、というか言わなくても済むような世の中になってほしいが、「水からの伝言」は悪質なニセ科学でありエセ道徳である。
私はああいう愚劣な代物を売り広めている連中を軽蔑する。「売り広める」のなかには自分の意思で口コミ宣伝する消費者も含まれる。
私は水伝をそのまま信じているビリーバーよりも、水伝がニセ科学として批判されていることを知りつつあいまいに受け入れ、感染拡大に手を貸す人たち(フォロワー)のほうが嫌いだ。「インチキでもいいじゃないか、いい話だもの」とわかったようなことを間抜け面で言う輩には腹が立つ。意図的に二重思考をし、ごまかしを恥じない人間を信じることはできない。

「水伝の怪しさを認めながらもそれを問題にしないという態度を取り、このいわばニセ道徳から『エッセンスを汲み取っ』たり『良い所を有効に利用』できると考えているらしい」お友達を持ち、悩んでいる方のブログから引用する。

みみずくからの伝言 - わたビリ22
ちょっと友人のことは置いといて普通に水伝批判します。特に目新しい論点ではないので既に言われていることの繰り返しになるかと思いますが

「宗教みたいなもんだからいいじゃないか、とやかく言うな」

ということを言う方がいます。しかし、宗教を「でたらめ」と認識した上で信じている人っているんでしょうか。

教祖がでたらめを根拠に金儲けをしている宗教団体は、たぶん幾らもあるでしょうし、そんな教祖にせっせとお金を貢ぐ人も少なからずいると思いますが

「教祖がいんちき?わかってるよ、そんなことは」といいながらまだ信じている末端の信者を私はみたことがありません。信仰が浅い、いい加減な信者というのはよく見るけれど、教祖が率先してでたらめを根拠に金儲けしていることを知っていながら道徳的にも許容している宗教というのは社会的にも許容されないのではないか。宗教と水伝をいっしょにしてはまともな宗教に失礼というものです。

最初からやってることがいんちきなものを、いんちきとわかっていて広める行為はいんちきを知らずに広めてしまうよりも罪が深い。いんちきだとわかった時点で手を引くのがいいと思うけれど、「今からでも遅くないから手を引いてください」


とらこさんのご意見に100%賛成する。「最初からやってることがいんちきなものを、いんちきとわかっていて広める行為はいんちきを知らずに広めてしまうよりも罪が深い。」というのはまさにその通りだ。欠陥商品を売るだけでも問題なのに、詐欺商法で欠陥商品を売りつけるのはもっとひどい。

それはいいのだが、というか水伝はまったく良くないのだが、「しかし、宗教を「でたらめ」と認識した上で信じている人っているんでしょうか。」という問いにはちょっと考えてしまった。
普通の宗教というよりは擬似宗教になるけれど、「デタラメと認識した上で信じる」ことを前提とした「宗教」は私の知ってるだけで二つ存在する。

空飛ぶスパゲッティ・モンスター教 - Wikipedia
空飛ぶスパゲッティ・モンスター教(Flying Spaghetti Monsterism, FSMism, フライング・スパゲッティ・モンスター教, パスタファリアニズム, スパモン教)はオレゴン州立大学物理科の卒業生のボビー・ヘンダーソンが、インテリジェント・デザイン説を公教育に持ち込むことを批判するため創始したパロディカルト。


ボコノン教 - Wikipedia
ボコノン教(ボコノンきょう、Bokononism)は、カート・ヴォネガットの小説『猫のゆりかご』に登場する架空の宗教。

ボコノン教への誘い
ボコノン教とは、ボコノンを開祖として、サン・ロレンゾに広く流布している宗教である。その教義の内容は、一言でいえばニヒリズムである。
 (略)

ボコノンの書

冒頭
わたしがこれから語ろうとするさまざまな真実の事柄は、みんなまっ赤な嘘である。
ボコノン教徒としてのわたしの警告は、こうだ。
嘘の上にも有益な宗教は築ける。それがわからない人間には、この本はわからない。
わからなければそれでよい。

馬鹿
(略)
神のみわざがどのようなものか知っていると思う人間は、みんな馬鹿なのだ。


ご覧の通り、空飛ぶスパゲッティ・モンスター教はID理論(キリスト教原理主義)への、ボコノン教は何もかも知っているような顔で説教する既成宗教への皮肉である。宗教の毒消しのために宗教の形を借りたナンセンスをぶつける。油田火災を消火するのにニトログリセリンを使うようなものだ。

水伝が「批判のための擬似宗教」だとすれば、批判の対象は「科学」と「道徳」になる。
素人騙しの「実験」は科学者のパロディー、インチキ実験を根拠にして「きれいな言葉の効用」を説くのは道徳家のパロディー。面白いかどうかは別として、パロディー性に不足はない。

自らの思想を「反科学・反道徳」と規定する人がいるとする。社会の中で反科学・反道徳を貫いて生きるのは難しい。表面は猫を被り、心の中でニヒリストを気取るしかない。そういうニヒリストは「水からの伝言」を科学と道徳を笑いものにする面白いジョークだと思うだろう。偉人の銅像にペンキを塗るのは楽しい悪戯だ。
私自身はニヒリストではないつもりだ。科学や道徳に価値を認め、それらの基準に(なるべく)従って生きている。だが科学の不自由さ(熱力学第二法則が憎い!)、道徳の押し付けがましさ(超自我なんて糞食らえ!)にうんざりさせられることは多い。科学も道徳も忘れて自由に生きられるものなら生きてみたい。そんなアナーキーな願望の持ち主に「ニヒリズムとしての水伝」はちょっとだけ魅力的に見える。

問題は、水伝フォロワーが自らのニヒリズムに無頓着なように見えることだ。
彼らは科学や道徳を笑いものにするのではなくて誤魔化す。水伝の非科学性・不道徳性を突きつけても見てみぬ振りをする。そのくせ「いい話」を好み「いい人」のふりをしたがる。
HM騒動(左のほうの『水からの伝言』騒動)の中心人物であったぶいっちゃん氏などが典型的だ(
どうも水伝フォロワーは「自分たちのしていることがわかっていない」としか思えない。ノコギリで自分の乗った板を切り落とす大工のコントを思い出してしまう。

無自覚な水伝フォロワーはメントスガイザーを人体実験しているようなものだ。勇気があるというよりは無茶である。
彼らは水伝を「新しい良いもの」だと信じているのだろうが大間違いだ。水伝は現代社会の「プログラム」を組むとき最初に取り除かれた「呪術的思考」というバグに過ぎない。水伝フォロワーは現在社会が科学と道徳のバグ取りを続けることでやっと成り立っている危ういものであることを知らない。
多くの人の努力のおかげでようやく動いているプログラムに人為的にバグを組み込み、感染を拡大させるのは破壊行為だ。ニヒリストがテロをやりたがるのはまだわかるが、「善良なつもり」の人が真似をしてはいけない。

幻の謝罪要求(3)  あるいはネアンデルタール人の子孫

2008年05月25日 | 「水からの伝言」
「幻」はすべてが幻というわけではなかった。

「水伝騒動」において
「たんぽぽさんが執拗に謝罪を要求したという認識には事実の裏づけがなく、まさに『幻の謝罪要求』である」
というのがこれまでの認識だった。

幻の謝罪要求
幻の謝罪要求(2)

ぶいっちゃん氏と水葉氏の以下のコメントこそ「幻の謝罪要求」の火元であり、責任のほとんどはこの二人にあると思っていた。

らんきーブログ 色々な人に支えられて・・・ 【感謝と反省】

01.11 01:15 ぶいっちゃん 「例え、私が100正しくとも、子供に頭ごなしに言っても素直に
                  聞かないこともある。無理強いして「わかったか!謝れ!」と
                  言っても反発心だけが残るかもしれません。」
01.11 08:06 水葉      「何年も前に書いたものに対しても全てに責任を持ち、釈明や
                  謝罪の義務を課せられるのなら、もうブログに戻らなくても
                  いいや、という気持ちにさえなったり・・・。」

その認識を修正する必要があることがわかった。
akikoさんという方が情報を教えてくれた。私が見逃していた1月7日のたんぽぽさんのコメントだ。

わんばらんす 敵は本能寺にあり!・・・「大同小異」でいきませんか? 

ココロさん、こんばんは~。
私も「内ゲバは嫌だな~」という気持ちがあります。
これは自戒の念を込めて言うのですが、気にくわない人がいたとしても、いちいち構わないで放置しておけばいいですよ。
それに、ぶいっちゃんをイヂメても世の中はちっとも良くならないですからね(笑)。
そんなことをしているヒマがあったら、政治家や官僚を正面から批判して、自分の記事から、きっちりリンクを張ったり、トラックバックを送ったりするといいんじゃないですかね~。
これ、結構効果があると思います。
(ココロさんにはお勧めしませんが 笑)
そういうこともやらないで、ぶいっちゃんをやいのやいのと責め立てるのは本末転倒だと思います。

2008.01.07 21:03 URL | 喜八 #WE/hy34. [ 編集 ]


喜八さま、こんにちは。
たんぽぽです。

自分たちのまちがいを、無視黙殺しようとする、
ぶいっちゃんとその賛同者たちに非があるのに、
わたしが悪いかのように、責め立てるほうこそ本末転倒ですよ。
こんなところで、わたしの批判をしている時間があったら、
ぶいっちゃんとその賛同者に、自分たちの非を認めて、
おわびするよう、説得してはいかがかな...?

2008.01.07 22:00 URL | たんぽぽ #ZiqE0vWU [ 編集 ]


1月7日の時点で「ぶいっちゃんとその賛同者に、自分たちの非を認めて、/おわびするよう、説得してはいかがかな...?」と発言している。これを謝罪要求である、と見る人は少なくないだろう。
歯切れの悪い言い方をしたが、私自身はこれを謝罪「要求」だとは思わないのである。それでは何かといえば、喜八氏のお気楽な認識への「切り返し」だ。
言い換えると「そんなに呑気にしてていいんですか?自分たちの非をはっきり認めないと『ぶいっちゃんと愉快な仲間たち』はますます信用をなくしますよ」ということだ。皮肉五割、怒りが三割、忠告が二割。たんぽぽさん自身には自分が謝罪を要求しているという意識はほとんどなかったと思う。「自分たちの非を認めて、/おわびするよう、説得してはいかがかな...?」という言葉はレトリック(修辞)として使われている。

もちろん私はテレパスではないので、たんぽぽさんの真意はわからない。もしかしたら「本気で謝罪を要求していた」のかもしれない。だがここでは推定無罪の原則に従って、「謝罪要求の意図はなかった」としよう。
それでも「自分たちの非を認めて、/おわびするよう、説得してはいかがかな...?」という言葉が「謝罪要求に見える」のは確かだ。アンケートをとったわけではないが、10人いれば5人から8人くらいは「謝罪要求だ」と思うだろう。
たんぽぽ不利、である。

だが、言葉は文脈・会話の流れの中で理解すべきものだ。「たんぽぽ発言」のあとのコメントを見てみよう。

2008.01.07 23:03 ココロ
2008.01.07 23:32 三介
2008.01.08 08:43 喜八
2008.01.08 17:53 ニケ
2008.01.08 21:42 たんぽぽ
2008.01.09 00:02 ココロ
2008.01.09 00:27 ココロ
2008.01.09 23:23 (管理人のみ閲覧)
2008.01.10 00:56 ココロ
2008.01.12 15:16 三介
2008.01.14 17:51 ココロ
2008.01.15 16:12 ニケ
2008.01.16 20:38 suyap
2008.01.17 16:12 ココロ
2008.01.18 15:11 (管理人のみ閲覧)

15個のコメントが続いているが、一つとして「謝罪」を話題にした発言はない(「管理人のみ閲覧」については不明)。
このことから、「わんばらんす」では「たんぽぽさんが謝罪要求した」という認識は生じなかったのだと推定できる。おそらくたんぽぽさんには謝罪を要求する意思がなかったし、たぶんそれがその場にいた全員の共通認識だった。


急に話は変わるが、生物の進化の過程は決して一本道ではない。
たとえば人類にしても、太古に生きていた多様な化石人類(アウストラロピテクス・北京原人・ネアンデルタール人等)の系統がすべて現代人につながっているわけではない。

ネアンデルタール人 - Wikipedia
ネアンデルタール人類は55万年から69万年前にホモ・サピエンスの祖先から分岐した別種で、現生人類とのつながりは無い

ネアンデルタール人は進化の袋小路に入り込み子孫を残せなかった。
現在生きている人間の誰も「ネアンデルタール人の曽曽曽曽曽曽曽曽(略)祖父母を持たない。
私は「わんばらんす」における「1月7日のたんぽぽ発言」もそのような存在だと思う。
だれも「謝罪要求があった」とは認識せず覚えていなかった。それは、私が「幻の謝罪要求」を書いた4月19日から今まで約一ヶ月の間、誰も「1月7日のたんぽぽ発言」に気付かなかったことからも明らかだ。
1月7日のたんぽぽ発言は「子孫」を残さなかったのである。

だが、それを証明することは不可能だ。
「わんばらんす」でコメントを残さなかった読者が「たんぽぽ発言」をどのように受け止めたか知ることは難しい。もしかしたら誰かが「謝罪要求があった」と信じて、そのような「真実」を広めたかもしれない。その可能性は否定できない。

「1月7日のたんぽぽ発言」に対する心証は明るいグレーだ。
ほとんど白だが、絶対に白だとは言い切れない。
たんぽぽ発言を前提として「幻の謝罪要求」が生まれた原因を考えると、私の判断はこうなる(敬称略)。

 ぶいっちゃん = 40%
 水葉 = 40%


 たんぽぽ = 20%

実際以上にたんぽぽさんの責任を重く見たつもりだが、そう思わない人もいることだろう。

最近の「水伝騒動」

2008年05月24日 | 「水からの伝言」
このブログで何度か取り上げた「水伝騒動」についての現状報告です。


このごろあちこちのブログとそのコメント欄で「水伝騒動」についての議論が再燃している。
私もときには自ら、ときには行きがかり上やむを得ず議論に加わった。
自分の意見が何らかの実を加えているのか、それとも足を引っ張っているだけなのかわからない。
冷静な第三者からは「なんというエネルギーの浪費」「いい年して大人気ない」と思われるだろう。それでも一度議論に加わるとそれをやめるのは難しい。人間の本性、いや、私自身の性格がそういうものであるらしい。自分でも難儀している。
ご迷惑をかけてしまった方にはお詫びします。本当にごめんなさい。

さすがにちょっと:Chromeplated Rat

話が進まない - PledgeCrewの日記
「私闘」についてのメモ - PledgeCrewの日記

十数年前を見ているようだ :: 事象の地平線::---Event Horizon---

「私闘」でけっこう、「私闘」でなにがわるい? - 遠方からの手紙

ときどき振り返る(追記あり) - nagonaguの日記

たんぽぽのなみだ~運営日誌: 議論が再燃した(16)

無意味な質問

2008年05月13日 | 「水からの伝言」
とあるブログで、というか別に隠すこともないのではっきりさせるが、NewsOLさんという方のブログでこんな質問をされた。

世の中を騒がすニュースとOLの妄想 : 【想像力を働かせるということ】について考える

言葉の使い方の難しさ、コミュニケーションの難しさについて、
私のブログのコメントのやり取りを通じて、
共に考え・その考察を互いに深めてきたと私は思っていたのですが、
玄倉川さん、あなたにとってはそうではなかったのでしょうか…?

私はこう答えた。

無意味な質問ですね。
「そうだ」と答えても「そうではない」と答えても私にとっては同じです。
NewsOLさんの好きなようにお考えください。

「不親切な奴だな、ちゃんとまじめに答えてあげればいいのに」とお思いになる方もいるだろう。
なぜ私が無意味だと切り捨てたのか書いてみる。
書いてはみるが、これを無意味な質問と思わない人が世の中にたくさんいるのだろうとも思う。


「共に考え・その考察を互いに深めてきたと私は思っていたのですが、
 玄倉川さん、あなたにとってはそうではなかったのでしょうか…?」

という問いを私は「あなたはコミュニケーションの相手として信じられる人なのか」という意味に捉えた。
そんなことを相手に聞いてどうするのだろう。
私が「はい」と答えれば信用して「考察を互いに深め」るのか。
「いいえ」と言えば信用できない奴だと思ってあきらめるのか。
安直と呼ぶのにも値しない無意味な質問だ。

ここに「友人面したインチキ野郎」と「口の悪い友人」がいるとする。
二人に「私が困ったときに助けてくれますか、信用していいですか」と聞いてみよう。
友人面したインチキ野郎は「もちろんです、あなたは大事なお友達です」と言う。
口の悪い友人は「お前みたいなバカのために指一本動かす気はないよ」と答える。
さて、私はどちらを信用したらいいだろうか。
どちらを信用するか決めるのに「質問」は何の役にも立たない(インチキ野郎がカモを引っ掛けるのには役立つ)。
口の悪い友人は憎まれ口を叩いたが、まじめな友人ならインチキ野郎と同じ答えを返す。賢いインチキ野郎なら口の悪い友人の真似をするだろう。どちらの答えを得ても相手の正体は明らかにならない。
無意味な質問をして得られる答えはゴミであり、混乱を深めるだけだ。

しばらく前に数学・科学関係の本を何冊か読んだ。
「フェルマーの最終定理」か「ガリレオの指」「ポアンカレ予想を解いた数学者」のどれかだと思うけれど、「優れた質問をすることは答えを得るのと同じくらい価値がある」という言葉があった。私は「無意味な質問をされるのは答えを見失うのと同じくらい情けない」と思う。

らんきー百貨店の没落

2008年05月11日 | 「水からの伝言」
ブログ更新を停止したはずのぶいっちゃん氏が「水伝騒動」について新たな記事を書いた。

らんきーブログ 言葉の決着
ごめんなさい。 まず、謝ります。

私の対応の拙さは今読み返してみると、確かにあります。(コメント欄も含めて)
私が自身でどのように感じて、ああいう拙さになったのかは私にしかわからない。
そう考えると、私の内部を知る事の出来ない他の方々には言い訳はできない。
私の対応の拙さ(それに尽きる)で不快な気持ちになられた全ての方に謝ります。
2年前の「言葉の結晶」という記事が発端の、今年の元旦からの、このブログの話です。

いや、水伝騒動でぶいっちゃん氏を批判した人たちは(たぶん)誰も謝罪なんて求めてないから。
いったいどこから「決着」をめざす記事の冒頭で謝罪するという発想が出てきたのか。
たぶん彼は「幻の謝罪要求」を読んでいないのだろう。読んだうえでなお「謝罪」なのだとしたらよほどおめでたい頭の持ち主だ。
一行目の「謝罪」は勘違い男のプロポーズと同じくらい滑っているのだが、ご本人と「らんきー」ファンは誠実さと率直さを余すところなく表した名文と思っていそうだ。そんな「謝罪」は自慰でしかない。

たとえ話をする。
とある地方都市に「らんきー百貨店」というデパートがあった。いつも人があふれる人気店だ。
この町に斉藤さんたんぽぽさんという消費者活動に熱心な主婦がやってくる。偶然に「らんきー百貨店」で「水伝」というインチキ商品がお勧めの逸品として売られていることを知る。
たんぽぽさんは友人に「あれはインチキだから買ってはいけない、あんなものを置いている『らんきー百貨店』には問題がある」と話す。それを知った「らんきー」社長のぶいっちゃん氏が「お話を聞かせてほしい」とたんぽぽさんを会社に呼び出す。
ところが、ぶいっちゃん社長はたんぽぽさんの話をまじめに聞こうとしない。ヤクザめいた連中が「インネン付ける気か」「金目当てだろう」と中傷して小突き回す。それをぶいっちゃん社長は「よくやってくれた」とほめ、たんぽぽさんに「もう来ないでくれ」と告げて追い出す。

「らんきー百貨店」のひどい対応が世に知られるようになり、批判の声が高まる。
「らんきー」関係者は「ぶいっちゃんを応援します」「共闘します」と宣言するが、彼らには仲間のためという「利」はあっても「理」がないので外部からの支持は得られない。形勢不利と悟った彼らは沈黙するか批判派に擦り寄ろうとする。

いちばん熱心に「らんきー百貨店」を擁護するのは常連客(「らんきー」ファン)だ。
彼らはこれまでデタラメな店のインチキ商品を賞賛していたことを認めたくない。
事実はどうであれ、自分が恥をかかないためにはぶいっちゃん氏の「誠実さ」を賞賛し「らんきー百貨店」の名誉を守ることが必要だ。だが彼らの主張は為にするものでしかなく、説得力に欠けている。無理な「らんきー」擁護とたんぽぽ批判を繰り返すたびに彼らの信用は失われる。

このような状況が4ヶ月ほど続き、「らんきー百貨店」のデタラメさはほぼ誰の目にも明らかとなった。
彼らが名誉を回復したければ、自分たちのやったことを直視するほかない。
「なぜインチキ商品を仕入れてしまったのか」
「なぜそれをお勧めしてしまったのか」
「なぜ問題を指摘してくれた人に不当な対応をしたのか」
二度と同じことが起きないよう真剣に考えて対策しなければならない。

ところがぶいっちゃん社長は今頃になって「言葉の決着」なる声明を出して「謝罪」した。
その内容はといえば、具体的な問題については語らず、ひたすら低姿勢を演じて同情を引こうとするものだ。こんなやり方で信用を得られると思っているのならそれこそ消費者(読者)を甘く見ている。「船場吉兆」の女将だってもう少しうまくやるだろう。

ぶいっちゃん社長は自分にひたすら甘い人である。「言葉の決着」の言葉選びに表れている。
「それは、奇しくも「言葉の結晶」になったかも?」とか「私の過ちもムダには終らなかったのかも?」とか「自分の身を守る為とはいえ」とか「間違ってもやり直せる。 失敗しても次がある。」とか、とても真剣に謝罪している人の言葉とは思えない。こういう助け舟は第三者がとりなすために使うものである。彼は謝罪文の形を借りて「自分で自分を許している」だけだ。本当に呆れてしまう。

「らんきー百貨店」は無期限の営業停止をするそうだから、ぶいっちゃん社長がどれほど恥の上塗りをしようとどうでもいいことではある。問題なのは「らんきー」商法を賞賛し擁護する人たちだ。
好き嫌いは個人の勝手だから私がとやかく言うことではないが、「らんきー百貨店」デパ地下で糖分と脂肪分たっぷりの食品を買い込み食べ続けて「精神的メタボ」になっているとしか思えない。
彼ら自身の健康が損なわれるのはもちろん、他者にも感情的で不毛な議論というコストを強いている。ダイエットして運動したほうがいい。

幻の謝罪要求(2)

2008年05月01日 | 「水からの伝言」
Lightさん、ブログデビューおめでとうございます。

乗りかかった小舟

当ブログの記事「幻の謝罪要求」たんぽぽのなみだ~運営日誌: 騒動が再燃した(4)のコメント欄で対話していただいたLightさんがブログを開設された。
自分のブログを持ち、自分の考えをまとめ、自分の責任で世の中に発信するのは自分自身を知るのに役立つ。いろいろ問題が起きて嫌になることもあるだろうが、どうかくじけず、無理せずにブログを続けてくださるようにと願う。

お祝いはしたけれど、だからといってLightさんのブログを簡単に褒めるつもりはない。
いや、正直に言って納得できないことばかりなので遠慮なく批判させてもらう。

乗りかかった小舟 謝罪

Lightさんが感想を聞かせてくれとおっしゃったので心して読みましたが、私にはわからないことばかりでした。
「謝罪」は、基本的には
・何かの実害があったときや、
・その可能性がある程度大きいとき、
・人に不快感を与えたとき
に、行われるべきものであって、
「間違ったことを言った」という、それだけの事象に対しては必要ないと思う。
(そんなことを言っていたら、間違った論文を発表した科学者たちによる謝罪の山が築かれることになってしまう。)

これはわかります。ですが、「間違ったことを言った」のが故意であれば騙したことになり、指摘された間違いを認めなければ傲慢です。そのような行いをした人の評価は下がるのが当然です。

私の最初の違和感は、今思うに
たんぽぽさんの用いられている「謝罪」という言葉への違和感だった。

どこがどうおかしいのか具体的に書いてくれないとわかりません。
私はたんぽぽさんの「謝罪」という言葉の使い方に違和感を覚えたことはありません。

このケースは、私の知る限り、何かの実害を引き起こしたわけではない。
また
>「化学的には証明はされていない
ということらしいですが・・
・・・の記述が「最初から」あったところを見ると、世間に実害を及ぼす可能性も低いと思われる。

水伝批判をらんきーブログだけの問題だとお考えなのでしょうか。
甘いです。甘すぎます。
私の考えでは、「水からの伝言」のようなニセ科学を肯定的に紹介することは、ニセ札を「これはいいものですよ、何でも買えますw」と紹介するのと同じくらい反社会的で不道徳な行為です。放置しておけば実害が生じるのは目に見えています。
ニセ科学には健康や医療に関わる怪しい商売が多いのです。「水からの伝言」で水という物質の神秘的な能力を肯定するようになった人が、自分や家族・友人が病気になったとき科学的な医療を二の次にして(あるいは拒否して)ニセ科学医療(ホメオパシー等)にのめりこむのは「実害」そのものです。

追記:
もしも「世間に実害を及ぼすことを懸念している」のであれば、矛盾が生じる。
その指摘方法では、肝心の(実害を被るかもしれない?)当該ブログを読みに来た人たちには、全然伝わらないではないか。」

たんぽぽさんは水伝の問題を「自分のブログ読者に対して」伝えたのです。ぶいっちゃん氏とらんきーブログ読者に対しては想定していませんでした(この点は批判の余地があります)。
批判されていることを知ったぶいっちゃん氏が「たんぽぽのなみだ」に出向いて対話を求めました(たんぽぽのなみだ~運営日誌: 水からの伝言 コメント欄2008年01月01日 01:53)。
それに応えたたんぽぽさんが「らんきーブログ」に出向いて批判の理由を説明しました(らんきーブログ 明けましておめでとうございます コメント欄2008.01.02 22:57)。
ところがぶいっちゃん氏は「はいはい、よくわかりました」(2008.01.02 23:48)と誠意のない対応をします。
さらに「らんきーブログ」常連のニケ氏がたんぽぽさんに対して中傷します(01.03 04:34)。
私のしたことは正しいのじゃ~!ギャー!!!」と言っておられることは良く分かりました。
(略)
これは言い訳にしか受け取れませんね。言い訳を言わねばならない批判をあえてするのは、この言い訳に隠した「悪意」があるとしか思えませんね。謝罪することをお勧めします。

ぶいっちゃん氏はニケ氏をたしなめるどころか歓迎します(01.03 12:03)。
読んでくださる皆さんにとって、新年早々なんだかよくわからないコメント欄をわかりやすくしてくださり有難うございます。(笑)

実際の経緯はこの通りです。
これを踏まえたうえで、なお「らんきー一派」の不誠実よりもたんぽぽさんの「指摘方法」に問題があるとお考えでしょうか。Lightさんがこれほどまでに誠実さを欠いた人たちに対する正しい「指摘方法」をご存知であれば具体的に教えてください。できればそのやりかたでうまくいった実例を見せてください。

個々人が被った「不快感情」に対しては、謝罪の必要はあるかもしれない。
不快感があったなら、あったと表明すればいいだけの話。しかし、不快感に関してのたんぽぽさんの記述は
>べつにわたし、気に障ってもいないですよ。
のみである。
そういわれたなら、普通「不快感を理由にした謝罪の必要性」には結びつかないだろう。

ニケ氏らがしきりに「謝罪」と言っているのは、おそらく不快感からではないかと思う。
しかし、たんぽぽさんが言及した「謝罪」という言葉は、一体どこからきたのだろうか。

なんだか頭が痛くなってきました。
「たんぽぽさんは誰にも謝罪を要求していない」というのが事実であり、それは私の記事で具体的に(これが重要です)説明しています(幻の謝罪要求 - 玄倉川の岸辺)。Lightさんもお読みになったはずです。
しかし、たんぽぽさんが言及した「謝罪」という言葉は、一体どこからきたのだろうか。

私のほうこそLightさんがなぜ今ごろこんなことを言い出したのか知りたいです。
ちなみに余談だが・・・
「(謝罪は)期待していないけれど」という言葉を受けて、本当に文字通り「自分は謝罪しなくていいのだな」と受け取る人間って、いるのだろうか?
「お礼は期待していません」と言われたら、「お礼をしたほうがいいのだろうか・・・?」と動揺するのが人間だと思っていたのだが。

いますよ。私がそうです。
私は(ネットでは)自分が謝罪する必要があると思うときしか謝罪しません。相手が謝罪を期待していようといまいとそれはどうでもいいことです。自分勝手だと思われることはわかっていますが、私は自分自身の誇りのために謝罪するのであり、相手のご機嫌をとるためではありません。

ここで食い違ったら、何も共有できるものはなくなってしまいそうだ。

共有できるものはたくさんあります。まずLightさんと私は日本語を共有しています。
それはともかく、Lightさんのお考えはいろいろな点で「甘い」です。
善良さと真面目さは認めますが(でなければわざわざ長文で批判しません)、自他の区別、事実と心情の区別に厳しさが足りません。それを「優しさ」と思う人もいるでしょうが(もしかしたら日本では多数派かも)、私はそういう「優しさ」はごまかしでしかないと考えます。

幻の謝罪要求

2008年04月19日 | 「水からの伝言」
一度は収束したかに見えた左のほうの「水からの伝言」騒動が最近またくすぶり始めた。その火種は二つある。
一つは布引洋氏ニケ氏による「水伝批判は某組織の陰謀」という妄想。
そしてもう一つが水葉氏(消失したブログ「keep changing !」)による「批判派の(連合赤軍の「総括」のように)しつこい謝罪要求が問題だ」とする意見。
最初の陰謀論についてはあまりに馬鹿らしいので批判する気も起きない。kojitakenさんの突っ込みにおまかせする。
水葉氏による批判のほうは気になった。
「水伝」批判派がぶいっちゃん氏にしつこく謝罪を求めたり「らんきー」一派を「総括」しようとしたことなどないからだ。

どうしてそんな誤解が生まれたのか調べてみようと思い、以前に作ったリンク集を利用して「騒動」に関わったブログを読み返した。面白かったけど徹夜になった。
結論から言えば、すべては幻だった。

以下、各記事とコメントから「謝罪要求」「悪意認定」に注目し時系列を整理して引用する(敬称略)。




らんきーブログ 明けましておめでとうございます
01.02 16:41  ニケ      「私から見ると悪意を感じますね、わざわざURLを紹介して
                  エントリー上げてるなんて・・・」
01.02 22:57  たんぽぽ   「バカにしたのではないです。批判(まちがいの指摘)をしたんです」
                 「べつにわたし、気に障ってもいないですよ。」
01.02 23:48 ぶいっちゃん 「はいはい、よくわかりました。」
01.03 04:34 ニケ      「言い訳に隠した「悪意」があるとしか思えませんね。
                  謝罪することをお勧めします。」
01.04 23:11 ぶいっちゃん (たんぽぽに対して)「貴方のコメントは削除しました、
                  今後掲載しませんので、あしからず。
                  来ないで下さいというのはそういう事です。」

たんぽぽのなみだ~運営日誌: 水からの伝言(3)
01月06日 かつ・Anti-Ranky・kojitaken ニケの煽り行為を批判

らんきーブログ 水の話だけに水掛け論か?(笑) 【言葉の力】
01.06 15:08  ニケ 「「総括」という言葉も思い出してしまう危険な雰囲気でした。
             そのうちに「内ゲバ」が始まらなければいいがと・・・(笑)」

たんぽぽのなみだ~運営日誌: 水からの伝言(4)
01月08日 05:06 なみだちゃん 「たんぽぽさんはアク禁までされたのに、全く謝罪なしに
                     話の方向を180度変えちゃうってどういうことお?」
01月08日 23:31 たんぽぽ   「こうした場合、わたしのことはだまって無視するだけで、
                    釈明も謝罪もなんにもないと思います。」

らんきーブログ 色々な人に支えられて・・・ 【感謝と反省】
01.11 01:15 ぶいっちゃん 「例え、私が100正しくとも、子供に頭ごなしに言っても素直に
                  聞かないこともある。無理強いして「わかったか!謝れ!」と
                  言っても反発心だけが残るかもしれません。」
01.11 08:06 水葉      「何年も前に書いたものに対しても全てに責任を持ち、釈明や
                  謝罪の義務を課せられるのなら、もうブログに戻らなくてもいいや、
                  という気持ちにさえなったり・・・。」

たんぽぽのなみだ~運営日誌: 水からの伝言(8)
01月16日 00:23 たんぽぽ 「らんきーブログ」の1月11日エントリを見ても、
                  不特定多数の「多くの方々」に、謝罪してはいますが、
                  わたしのことは、とくに何も言っていないです。
                  (略)
                  これは実質的な、わたしに対する謝罪拒否と見てよいでしょう。
                  (略)
                  わたしにあやまるのは、だれかによる強制ということのようですが、
                  いまさらわたしに、頭なんか下げられない、ということなのでしょう。
                  (期待はしていないけれど。)



「悪意を感じる」と言い出してたんぽぽ氏への反感を煽ったのはニケ氏(01.02 16:41)
「謝罪することをお勧めします。」この騒動で初めて謝罪を要求したのもニケ氏(01.03 04:34)
「総括」「危険な雰囲気」「内ゲバ」と言い出したのもニケ氏(01.06 15:08)

ニケ氏の悪質な煽りが「らんきーブログ」の「空気」を決めた。

「無理強いして「わかったか!謝れ!」と言っても~」と言い出したのはぶいっちゃん氏(01.11 01:15)
「謝罪の義務を課せられるのなら」これは水葉氏の言葉(01.11 08:06)

批判派はそれまで一度もぶいっちゃん氏に謝罪を要求していない。ほのめかしてもいない。
「釈明も謝罪もなんにもないと思います。」(01月08日 23:31)
「わたしにあやまるのは(略)期待はしていないけれど。」(01月16日 00:23)
たんぽぽ氏はぶいっちゃん氏の謝罪をほとんど当てにしていない。

「謝罪の義務」はぶいっちゃん氏と水葉氏の合作による幻影である。
「しつこく謝罪要求するたんぽぽ氏」というイメージは水葉氏の作り出したモンスターであって、現実のたんぽぽ氏とは無関係だ。頭の中のモンスターに怒り、おびえ、連合赤軍まで持ち出して批判しようとした水葉氏は愚かとも哀れともいいようがない。

野狐禅リベラルの後悔

2008年04月18日 | 「水からの伝言」
少し後悔している。格好つけすぎた。何様のつもりだ俺は。

身の程知らずにも「リベラル」(以下目障りなのでLと表記)について自分なりの考えを二回書いた(こちらこちら)。
書いたことが間違っているとか自分に嘘をついたとか思わないけれど、ずいぶん恥ずかしいことをしてしまった。後悔が入道雲のように湧きあがる。
自分はLについてろくに勉強したことがない。それなのになぜLを自称しているかといえば、中立を名乗るのはおこがましくて落ち着かず、左翼や右翼、保守主義や進歩主義を名乗るのは気が進まず、かといって個人主義を標榜するには稼ぎが足りず、あいまいで使い勝手がいい「リベラル」という言葉に引かれたというのが本当のところだ。
子供のころにケネディの伝記を読んで「Lってカッコいい!」と思い込んだのも原因の一つである。大人になって「ベスト・アンド・ブライテスト」を読みケネディ政権の内情に「…」という思い(どんな思いだ)を抱いたけれど、それでも「なんとなくL志向」は変わらなかった。
つまり私は自称L、なんちゃってL、付け焼刃L、気分だけL、知識も覚悟も鼻糞ほどの野狐禅Lであり、そんな奴の書いたL論もどきなど本来は人様のお目にかけるようなものではないのだ。

いまさら後悔しても遅いので、せめて誤解を防ぐためいくつか言い訳を並べる。

■ 宣伝ではない
リベラリストは「良心と理性に従って自由に考え、同時に他者の自由を尊重する。」なんてきれいごとを書いた。それは嘘じゃないけれどやっぱり嘘なのだ。禅宗のお坊さんがすべて仏陀と同じ悟りの境地に達するわけではないし、Lを名乗る人がみなそんなに立派であるはずもない。「そうだったらいいのにな」という話であり、それはたぶん夕食がカレーである確率と同じくらいだ。

■ 常に立派だったり正しかったりするわけではない
Lはときに独善的であり、現実から目をそむけ、浮世離れした理想を振りかざし、自己満足のため常識的な人たちに迷惑をかけ、知ったかぶりで恥を知らず、言いたいことを言って責任をとらず、興奮しやすくて考えが浅く、社会への要求は多いが納税額が少なく、無駄に疑い深いくせに騙されやすい。…と、思うことがよくある。
L派言論人・市民運動の具体的な行状についてはHALTANさんが何度も批判している。

躁うつ病高齢ニートの映画・TV・床屋政談日誌

リベラル・左派・市民運動系のダメさ加減についてはまじめに働いたり考えたりしている人ほど実感しているようだ。私はどうしようもない怠け者なのでよく知らないけれど。無能な働き者はなるべくおとなしくしてくれたほうが社会のために役立つ。

■ 集団でも運動でもない
身のほど知らずなL論を二回も書いたのはLを「集団」「運動」の問題として批判した文章に対する違和感からだった。私にとってLとはまず思想であり生き方の問題である。Lを仲立ちにした集団や社会運動はあって当然だが、それが全てではないはずだ。
「共闘」や「批判スキル」といった問題(それ自体は大事なことだ)をL論の本質のように語られると、政治論と称して選挙対策ばかりを聞かされたような嫌な感じがする。

■ そもそも自分はLなのか
自称Lを変えるつもりはないけれど、時と場合によって立場を変えている自分に気付く。
皇位継承については男系維持(伝統主義)、政治は小泉・麻生ファン(体制派)であり、憲法改正には前向きで、単純労働者の移民は受け入れるべきでないと思っている。どれも日本の(左寄り)正統派Lの人たちから顰蹙を買うのはまちがいない。
それでも「自分を曲げて大勢に合わせるのがLじゃないだろう」と開き直っている。ただのオポチュニストかもしれない。

「所属する」リベラル、「なる」リベラル

2008年04月17日 | 「水からの伝言」
われながらしつこいと思うけれど、どうしても気になるので続きを書く。
「keep changing !」水葉氏の「リベラル」認識は彼女個人のものなのか、それともある程度一般的なものなのか。

実録 連合赤軍(追々記あり)|keep changing !
リベラルという狭い世界で、「知性」や「論理」にこだわり、仲間割れを起こすのは愚かである。
リベラルブログが、今なおそういう世界であるというのなら、私はここを立ち去ることに未練はない。

前の記事で書いたように私は「リベラルという狭い世界」とか「「知性」や「論理」にこだわり、仲間割れを起こすのは愚か」とか「リベラルブログ」から「立ち去る」といった考え方は完全な誤りだと思うけれど、どうやら私以外に水葉氏の言葉に異を唱えた人はいないようだ。
ということは、水葉式の「リベラル」論は意外なほど広く受け入れられているし、もしかしたらいわゆるリベラルな人たちの共通認識なのかもしれない。
なんてこった。
もしそうだとしたら「水からの伝言」の教育現場への広がりと同じくらい恐ろしいことである。
勘違いがこれ以上広がらないように声を上げなければいけないんじゃないか、という気がしてきた。

ちょっと先走ってしまったので具体的な問題に戻る。
「keep changing !」を読むと私には水葉氏の基本的な発想に違和感を感じることが多い。

週刊金曜日3/14号あとがきに「水騒動」が!(追々記あり)
水騒動であぶり出された様々な問題・・・共闘のあり方や連携の仕方、感情論や非科学的な主張への批判スキルの向上、あるいは内ゲバの回避などは、「サヨク」全体が抱えている「課題」だと私は思っている。

「様々な問題」の並べ方が興味深い。
まず「共闘」「連携」、次に「批判スキル」「内ゲバの回避」。運動論ばかりで「ニセ科学に引っかかる無用心・愚かさ」「根拠のある批判を受け入れない頑なさ」を批判していない。

実録 連合赤軍(追々記あり)
たんぽぽさんを擁護した側の人たちは、逆に、

「共闘幹部の間違いを指摘したたんぽぽさんが『総括』させられている!」

・・・と受け取っているんだよね。

たんぽぽさんが、幹部に楯突いた反乱分子として「粛正」されようとしている、これはおかしい、連合赤軍と同じ轍を踏んではいけない、とまで思ったかどうかはしらないけれど、強権政治に対しての「勇気ある行動」としてたんぽぽさんを擁護したんだよね。つまりは、らんきーさんは森恒夫だった、と。

批判に感情的になったらんきーさんを「単なるガキ」だと捉えるか、森恒夫だと捉えるか、それで180度見解が変わったのだね。

どちらの見解をもったにせよ、サヨクと総括は切り離せないのか、というのは、私にはアタマをガーンと殴られたような気がした。

「批判派」のなかで「たんぽぽさんが『総括』させられている!」などと言った人はいただろうか。私には記憶がない。
正当な批判を受け入れない「らんきー」一派は愚かだ、不誠実である、という批判がほとんどで、「総括はけしからん」といった話は出なかったように思う。むしろ「『らんきー』一派が集団でいじめようとしたけれどたんぽぽさんが強い人なので返り討ちにあっている、馬鹿だねー」と呆れる人が多かった。
「サヨクと総括は切り離せないのか、というのは、私にはアタマをガーンと殴られたような気がした。」という水葉氏の感慨はただの勘違い、思い込みなんじゃないの、というのが私の正直な気持である。

「総括」を恐れ、「反知性的だと思われないこと」が最重要課題になれば、何もできない。

どうして総括という言葉にこだわるのだろう。間違ったら批判を受けるのは当たり前じゃないのか。私には正当な批判を「総括」という言葉で悪魔化して封じ込めようとしているようにさえ見える。
「「反知性的だと思われないこと」が最重要課題になれば、何もできない。」というのもよくわからない。水葉氏は反知性的な傾向自体は問題視しないのだろうか。水葉氏が反知性の人であればそれはそれでいいけれど(本当はよくない)、彼女の運動論的な考え方とは矛盾するように思う。知性によって他者の理と自分の利を適応させてはじめて運動が成功するのであり、「反知性でもいいじゃないか、にんげんだもの」というやり方ではあちこちから矛盾が噴出して空中分解するだろう。

切磋琢磨して、リベラルとしての言論の質を上げていくこと。それも大切なことであろう。しかし、私はそれが「仲間の切り捨て」に繋がる限り、無意味だと断じる。

だから、私は「指摘の仕方」にこだわった。
正論は、人の心に響かない。だから、それをいかに、血肉の通ったことばにするのか。
私はそれが、リベラルの最重要課題だと考えている。

まずは、身内で練習しなくてどうする。
身内にさえ感情的に拒絶される「知性的な論理」など、他の人たちに伝わるはずがないではないか。

リベラリズムと「仲間」「身内」という言葉を直結させるのに強い違和感がある。
そういう区別を超えるのがリベラルじゃなかったのか。たとえば「日本人は仲間で身内だけど外人は違う」といった発想はリベラルなのか。
「仲間」だ「身内」だとこだわる水葉氏に「リベラルはかくあるべし」と説かれても私には滑稽さしか感じられない。

どうやら水葉氏は「リベラル」という言葉にこだわっていても基本的には個人の思想より先に「共闘」「連携」「仲間」「身内」から考える人のようだ。それはそれでいいのだが、勘違いと思い込みでお説教されると妙な気持ちになる。「総括」という言葉にこだわる必要がないように、「リベラル」にもこだわらなくていいのに、と思う。
一度「リベラル」を脇において、自分の気持を運動論の問題として語ったらよほどすっきりするはずだ。体に合わない服を無理に着続ける必要はない。


「リベラルという狭い世界」という言葉から私は古代の宇宙観を連想した。亀が円盤を背負ってるあれだ。
中心があり明確な境界がある。世界の辺境には恐ろしい怪物が住んでいる。
現代の科学宇宙観ではそのようなわかりやすい図は否定されている。宇宙は永遠に膨張を続け、中心も境界もない。宇宙の中心を探すのは無意味だし、宇宙からはみ出すことを恐れる必要もない。私の思うリベラル宇宙もそのような形をしている。

「リベラルブログ界から立ち去る」という言葉は特に面白くてちょっと怖い。
リベラルという概念を「所属」あるいは「場所」の問題としてとらえているのだろう。そこに所属する人は「立ち去」ることができるし、場合によっては閉じ込められたり追放されたりするのかもしれない。水葉氏とそのフォロアーが「総括」という言葉にこだわり恐れるのは閉じた狭い世界のイメージにとらわれているからだ。
私の思うリベラルとは所属でも場所でもなく属性の問題だ。
人はリベラルに「所属する」のではなく「なる」ものだ。良心と理性に従って自由に考え、同時に他者の自由を尊重する。そういう生き方を身につけるのは難しいけれど、一度身に付けば消えることがない。
群れあってお互い同士で「あなたはリベラルだし私もリベラルだよね」と承認しあう必要はない。リベラルな考え方が身に付いた人はサークルに閉じこもる必要はない。むしろ自由に考え行動することを望むだろう。
もちろん必要があれば(あるいは単にそうしたければ)誰かと(リベラルであってもなくてもいい)力を合わせて仕事をすることはある。だが、群れることがリベラルの資格だったり目的だったりすることはない。

「リベラル」とは水葉氏の言うような「狭い世界」に所属することなのか。
それとも個人の生き方として「なる」ものなのか。
私は後者が正しくて前者は間違いだと思うが、水葉氏のリベラル論に私以外の批判が出ていないのを見ると不安になる。もしリベラルが「所属する」ことだとすれば私はそんなものになりたくない。グルーチョ・マルクスの「私は自分が入れるようなクラブには入りたくない」という皮肉を思い出す。