あまりにもひどい。ひどすぎる。
仙石官房長官の「暴力装置」発言に関する騒ぎのことだ。
いや、誤解なさらぬように。私が怒り、呆れているのは、「暴力装置」という言葉にショックを受けて(あるいはそのふりをして)自衛隊への侮辱だの左翼思想のあらわれだの幼稚な批判を叫ぶ「保守派」のほうだ。
まずはニュースの概要から。
仙谷官房長官:「自衛隊は暴力装置」 すぐに訂正「実力組織」 - 毎日jp(毎日新聞) 仙谷由人官房長官は18日の参院予算委員会で、自衛隊を「暴力装置」と発言、質問者の自民党の世耕弘成氏から抗議を受け撤回した。そのうえで「不適当だったので、自衛隊の皆さん方には謝罪する」と述べた。
仙谷氏は自衛隊と他の公務員との政治的中立性の違いについて「暴力装置でもある自衛隊はある種の軍事組織でもあるから、シビリアンコントロール(文民統制)も利かないとならない」と発言。委員会室が騒然となったため答弁中に「実力組織と訂正させていただく」と言い換えた。【高山祐】
毎日の記事タイトルもそうだが、どうも今回の騒動を伝える報道のほとんどが勘違いしているようだ。仙谷氏が「実力組織」に言い換えたのは「暴力装置」ではなく、自衛隊を「ある種の軍事組織」と表現した部分だと思われる(参考
Togetter - 「自衛隊は暴力装置に決まってるだろ…」)。「暴力装置」にカッカする「保守派」議員たちも、仙谷氏が何を訂正したのかわからないマスコミも、どちらも基本的な常識・能力に欠けているのではないか。
あまりのバカ騒ぎに呆れたおおや先生(大屋雄裕・名大法学部准教授)が政治学・法哲学の基本を解説している。
暴力装置 - おおやにきいやいや何を言っているんだ自衛隊は国家の暴力装置に決まってるだろう(参照:「仙谷氏「自衛隊は暴力装置」 参院予算委で発言、撤回」(asahi.com))。国家が(ほぼ)独占的に保有する暴力こそがその強制力の保証だというのは政治学にせよ法哲学にせよ基本中の基本であり、その中心をなすのが「外向きの暴力」としての軍隊と「内向きの暴力」としての警察である。
おおや先生の解説はざっくりしていて私のような素人にもわかりやすい。ネット上の「暴力装置」議論を見るとやれ原典はウェーバーだ、いやマルクスだと甲論乙駁しているが、どうも騒ぎの本質とは関係ないトリビアリズムのように見える。自慢じゃないが、というか恥ずかしながら、私などウェーバーもマルクスも本人の著作は一冊も読んだことがない。そんな私ですら高校の倫社の教科書や一般的な解説書(「図解雑学シリーズ」あたり)で国家の成立と治安維持に「暴力装置」が必要なことを理解しているのに、去年まで日本の政治を担い続けてきた自民党議員の多くがぜんぜんわかっていない(あるいは知らないふりをして世論を煽る)のは信じられないほどひどい話だ。以下も「おおやにき」からの引用。
結果的には、むしろこの発言を問題視するほうが、近代国家理論の原則も・自衛隊の持つ実力についても・シビリアンコントロールの理念についても正確に理解していないのだと、そういうことになろう。仙石氏自身が批判を受けてこの発言を撤回したことについては、まあ聞いたふうなことを言ったものの根拠とか理論的背景まできちんと理解していないのでろくでもない結果になるというのは菅直人総理大臣にも共通する性癖なので不思議でも何でもないが(氏の官僚内閣制や三権分立に関する発言を参照すること)、これらの問題に関する正確な認識を欠いた政治を担う資格のない人間(いや私のごく個人的な基準ですが)がこのあいだまで政権与党であった自民党内にすら多数いたこと、さらに自衛隊の中にいた人までそこに含まれていたということであって(参照:「暴力装置についてあれこれ」togetter)、なんかもう平和ボケとかなんだとか言うのも愚かな事態であるなと、そう思ったことであった。自民党が政権を失ったのにも相応の理由があったのだなあと、まあ最近しみじみと感じるところではあるのですがね。
「暴力装置」批判の筆頭は例によって産経新聞だ。どちらの記事も党派的・情緒的でくだらないから引用はしない。
仙谷氏「暴力装置」発言 謝罪・撤回したものの…社会主義夢見た過去、本質あらわに (1/2ページ) - MSN産経ニュース
「非常に残念」「いい気持ちしない」「むなしい」 仙谷氏「暴力装置」発言で自衛官から失望の声 (1/2ページ) - MSN産経ニュース
いやはや、なんともかんとも。こんな駄文を載せるスペースがあるなら、ちゃんとした(「産経御用達」ではない)政治学者に「暴力装置」の意味を解説してもらえばいいのに。社会の公器を自称する新聞は情緒を扇るのではなく読者を啓蒙する義務があるはずだ。右も左も関係ない。
2ちゃんねるを見ると「『暴力装置』なんて一般人は知らない」「ことさらに『暴力装置』という言葉を使うのは左翼的だ」「国会で使う言葉じゃない」「自衛隊員に失礼だ」みたいな批判が多い。バカも休み休み言え、と思う。国会で自衛隊のシビリアンコントロールを論じるとき「暴力装置」という言葉が使われるのはむしろ当たり前で、何の不思議もない。どこに不都合があるのか、何が不適切なのかまったく理解できない。実にくだらないイチャモンだ。
あまりいい例えではないけれど、とりあえず書いてみる。国会で自動車事故問題について論じているとしよう。
国土交通大臣が「自動車はたいへん便利な乗り物ですが、運転を誤ると『走る凶器』にもなります」と答弁する。それに対して野党議員が「自動車はわが国の基幹産業だ、『凶器』呼ばわりなどとんでもない!」だの「善良なドライバーを殺人者呼ばわりするのか!」だのいきり立ったら、一般国民はどう思うだろうか。「アホらしい、怒ってる議員は免許持ってないんじゃないか」と呆れるだろう。
自動車を自動車らしく使うには、一般道路を時速数十キロで走らせる必要がある。他の車や歩行者の近くを通過するのは避けられないし、ドライバーは人間だから時にはミスもする。責任感あるドライバーは誰でも「いい加減な運転をしたら『走る凶器』になってしまう(そうなってはいけない)」と肝に銘じているはずだ。逆に言えば、「自分が事故を起こすはずない」と高をくくって適当に車を走らせるドライバーは免許を持つ資格がない。
物理的な、そして社会的な存在としての自動車と「走る凶器」としての一面は決して切り離せない。クラシックカーのようにガレージにしまいこんで動かさなければ事故を起こす心配はないが、それでは自動車として役に立たない。
自衛隊が「暴力装置」というのも同じである。
普天間基地移設問題で在日米軍(海兵隊)の抑止力が話題になったが、自衛隊も他国の侵略の意図を挫く抑止力として機能している。抑止力とは何か。はっきり言えば、強力な兵器と行き届いた訓練が作り出す武力による脅しだ。武力とは何かといえば、必要に応じて(侵略者の兵器を)破壊し(敵兵を)殺害する暴力に他ならない。大前提としての暴力の存在を抜きにした自衛力も抑止力も存在しない。
そういう「リアリズム」こそ保守勢力(自民党)が自衛隊を強化し、憲法改正して軍隊の存在を認めよと主張する基盤だったはずだ。非暴力・非武装中立を主張する社会党は空想的平和主義と呼ばれて保守勢力の嘲笑の的だった。
それなのに今や「左翼的」な民主党を批判する自民党議員が「自衛隊を暴力装置呼ばわりするなんてとんでもない」と激怒している。世の中変われば変わるものだ。私には「きれいごと(自衛隊は軍隊ではない)で上辺をとりつくろっているうちに本質を忘れた愚かな姿」にしか見えないけれど。