玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

ヤスコとゴンゾウ

2008年07月23日 | テレビ鑑賞記
夏のドラマで見てるのは二つ。
暑いのでなるべく頭を使わないで(必要なときも使ってないけど)ぼーっと見てられるドラマがいい。


■ ゴンゾウ テレビ朝日系 水曜9時

「風林火山」内野聖陽と「ファイト」本仮屋ユイカ。どっちも好きだ。
内野聖陽はさすがに演技がうまい。うまいけど男臭くて暑苦しい。うまいけど臭くて熱い、とんこつラーメンのような役者だ。
本仮屋ユイカの顔は地味だ。地味だけどかわいい。昔の彼女にちょっとだけ似てる。もし性格まで似てたらかわいいというよりおっかないが、このさい気にしない。ユイカの和風顔が内野の暑苦しさを中和してる。これが山田優だったら暑苦しくて見てられない。
ストーリーは今のところよく分からない。
女子大生殺しの本筋はまだ動かず、登場人物紹介とともに燻製ニシンを食わされる。今のところ特におかしな部分はないので、ちゃんとまとめてくれるだろうと期待。
同じテレ朝系、去年秋の刑事ドラマ「ジョシデカ!」はひどかった。第一話を見たときから嫌な感じがして、予感がそのまま的中してしまった。無能なトリガー・ハッピー(拳銃撃ちたがり)の女刑事に魅力を感じるのは無理だ、いくら仲間由紀恵でも。
今のところゴンゾウは大丈夫そうだ。「伝説の刑事」(内野)の復活と鶴(本仮屋)が退院して捜査に加わるのに期待。
筒井道隆の演技と存在感がアイスキャンデーのように涼しくてよい。エアコンいらずの爽やか男。


■ ヤスコとケンジ 日本テレビ系 土曜9時

「鹿男あをによし」で気になっていた多部未華子と、このあいだで見て気になっていた広末涼子が出てるので見ずにいられない。特に多部の三つ編みと広末のヤンキーコスプレがポイント高い。
多部未華子はいいなあ。
声を聞いてるだけで癒される。そういえば本仮屋ユイカも声がいい。自分はけっこう女性の声にこだわるほうだ。女性を顔か声のどちらかで選べ、と言われたら声で選ぶかも。…と言いつつ、ずっとファンを続けてる南野陽子の声は甲高くて聞きづらい。好きだけど。
多部未華子という女優さんは不思議な人で、特に美人じゃないし演技も感動的にうまいわけじゃないけど、なんか気になるのである。雰囲気がいいというか頭よさそうというか、筋の通らないことはしない真面目さを感じる。本当はどんな人なのか知らないけど。
広末涼子もいいぞ。むしろ良すぎて困る。
アイドルとしての全盛時代からゴシップ量産時代にかけての広末には興味なかったけど、最近はなんだか気になる。このあいだテレビで見た「バブルへGO!」の広末はなかなか良かった。特に競泳水着が(結局そこかよ)。
あれ以来、心のどこかに「広末のコスプレが見たい」という願望が生まれたらしい。そんな自分にこのドラマはぴったりだ。広末の目に炎が写る(ヤンキースイッチON)と大喜び。似合わないヤンキー言葉で凄んだり特攻服姿でキメる広末を見て「そうそう、これが見たかったんだ、俺は!」という感動に包まれる。求めよ、されば与えられん。
世の中に「広末のコスプレが見たい」密かな欲望を抱く視聴者がどれだけいるのか、それともぜんぜんいないのか知らないが、すくなくとも私は大満足である。個人的好みにピンポイントで命中。日テレよくやった。
お話のほうはいかにもマンガ原作という感じでバカっぽくてたいへん結構である。見ている間ずっとニヤニヤしてしまう。出演者もみな楽しそうだ。多部未華子のおバカな女子高生も、松岡昌宏のヤンキー少女漫画家も、広末の元ヤン花屋もかわいい。ジャニーズの坊やはどうでもいいが、とりあえず爽やかだからよし。
「ごくせん」がひどいマンネリで壊滅的につまらなかったので、新しいフォーマットというだけで面白く感じてしまう。毎回ちゃんと趣向を凝らして、続編が作れないくらいきれいな終わり方をしてほしい。月並みな説教と感動はいらないから。

空飛ぶスパゲッティ・モンスター教と「水からの伝言」

2008年07月20日 | 「水からの伝言」
いまさら言うまでもなく、というか言わなくても済むような世の中になってほしいが、「水からの伝言」は悪質なニセ科学でありエセ道徳である。
私はああいう愚劣な代物を売り広めている連中を軽蔑する。「売り広める」のなかには自分の意思で口コミ宣伝する消費者も含まれる。
私は水伝をそのまま信じているビリーバーよりも、水伝がニセ科学として批判されていることを知りつつあいまいに受け入れ、感染拡大に手を貸す人たち(フォロワー)のほうが嫌いだ。「インチキでもいいじゃないか、いい話だもの」とわかったようなことを間抜け面で言う輩には腹が立つ。意図的に二重思考をし、ごまかしを恥じない人間を信じることはできない。

「水伝の怪しさを認めながらもそれを問題にしないという態度を取り、このいわばニセ道徳から『エッセンスを汲み取っ』たり『良い所を有効に利用』できると考えているらしい」お友達を持ち、悩んでいる方のブログから引用する。

みみずくからの伝言 - わたビリ22
ちょっと友人のことは置いといて普通に水伝批判します。特に目新しい論点ではないので既に言われていることの繰り返しになるかと思いますが

「宗教みたいなもんだからいいじゃないか、とやかく言うな」

ということを言う方がいます。しかし、宗教を「でたらめ」と認識した上で信じている人っているんでしょうか。

教祖がでたらめを根拠に金儲けをしている宗教団体は、たぶん幾らもあるでしょうし、そんな教祖にせっせとお金を貢ぐ人も少なからずいると思いますが

「教祖がいんちき?わかってるよ、そんなことは」といいながらまだ信じている末端の信者を私はみたことがありません。信仰が浅い、いい加減な信者というのはよく見るけれど、教祖が率先してでたらめを根拠に金儲けしていることを知っていながら道徳的にも許容している宗教というのは社会的にも許容されないのではないか。宗教と水伝をいっしょにしてはまともな宗教に失礼というものです。

最初からやってることがいんちきなものを、いんちきとわかっていて広める行為はいんちきを知らずに広めてしまうよりも罪が深い。いんちきだとわかった時点で手を引くのがいいと思うけれど、「今からでも遅くないから手を引いてください」


とらこさんのご意見に100%賛成する。「最初からやってることがいんちきなものを、いんちきとわかっていて広める行為はいんちきを知らずに広めてしまうよりも罪が深い。」というのはまさにその通りだ。欠陥商品を売るだけでも問題なのに、詐欺商法で欠陥商品を売りつけるのはもっとひどい。

それはいいのだが、というか水伝はまったく良くないのだが、「しかし、宗教を「でたらめ」と認識した上で信じている人っているんでしょうか。」という問いにはちょっと考えてしまった。
普通の宗教というよりは擬似宗教になるけれど、「デタラメと認識した上で信じる」ことを前提とした「宗教」は私の知ってるだけで二つ存在する。

空飛ぶスパゲッティ・モンスター教 - Wikipedia
空飛ぶスパゲッティ・モンスター教(Flying Spaghetti Monsterism, FSMism, フライング・スパゲッティ・モンスター教, パスタファリアニズム, スパモン教)はオレゴン州立大学物理科の卒業生のボビー・ヘンダーソンが、インテリジェント・デザイン説を公教育に持ち込むことを批判するため創始したパロディカルト。


ボコノン教 - Wikipedia
ボコノン教(ボコノンきょう、Bokononism)は、カート・ヴォネガットの小説『猫のゆりかご』に登場する架空の宗教。

ボコノン教への誘い
ボコノン教とは、ボコノンを開祖として、サン・ロレンゾに広く流布している宗教である。その教義の内容は、一言でいえばニヒリズムである。
 (略)

ボコノンの書

冒頭
わたしがこれから語ろうとするさまざまな真実の事柄は、みんなまっ赤な嘘である。
ボコノン教徒としてのわたしの警告は、こうだ。
嘘の上にも有益な宗教は築ける。それがわからない人間には、この本はわからない。
わからなければそれでよい。

馬鹿
(略)
神のみわざがどのようなものか知っていると思う人間は、みんな馬鹿なのだ。


ご覧の通り、空飛ぶスパゲッティ・モンスター教はID理論(キリスト教原理主義)への、ボコノン教は何もかも知っているような顔で説教する既成宗教への皮肉である。宗教の毒消しのために宗教の形を借りたナンセンスをぶつける。油田火災を消火するのにニトログリセリンを使うようなものだ。

水伝が「批判のための擬似宗教」だとすれば、批判の対象は「科学」と「道徳」になる。
素人騙しの「実験」は科学者のパロディー、インチキ実験を根拠にして「きれいな言葉の効用」を説くのは道徳家のパロディー。面白いかどうかは別として、パロディー性に不足はない。

自らの思想を「反科学・反道徳」と規定する人がいるとする。社会の中で反科学・反道徳を貫いて生きるのは難しい。表面は猫を被り、心の中でニヒリストを気取るしかない。そういうニヒリストは「水からの伝言」を科学と道徳を笑いものにする面白いジョークだと思うだろう。偉人の銅像にペンキを塗るのは楽しい悪戯だ。
私自身はニヒリストではないつもりだ。科学や道徳に価値を認め、それらの基準に(なるべく)従って生きている。だが科学の不自由さ(熱力学第二法則が憎い!)、道徳の押し付けがましさ(超自我なんて糞食らえ!)にうんざりさせられることは多い。科学も道徳も忘れて自由に生きられるものなら生きてみたい。そんなアナーキーな願望の持ち主に「ニヒリズムとしての水伝」はちょっとだけ魅力的に見える。

問題は、水伝フォロワーが自らのニヒリズムに無頓着なように見えることだ。
彼らは科学や道徳を笑いものにするのではなくて誤魔化す。水伝の非科学性・不道徳性を突きつけても見てみぬ振りをする。そのくせ「いい話」を好み「いい人」のふりをしたがる。
HM騒動(左のほうの『水からの伝言』騒動)の中心人物であったぶいっちゃん氏などが典型的だ(
どうも水伝フォロワーは「自分たちのしていることがわかっていない」としか思えない。ノコギリで自分の乗った板を切り落とす大工のコントを思い出してしまう。

無自覚な水伝フォロワーはメントスガイザーを人体実験しているようなものだ。勇気があるというよりは無茶である。
彼らは水伝を「新しい良いもの」だと信じているのだろうが大間違いだ。水伝は現代社会の「プログラム」を組むとき最初に取り除かれた「呪術的思考」というバグに過ぎない。水伝フォロワーは現在社会が科学と道徳のバグ取りを続けることでやっと成り立っている危ういものであることを知らない。
多くの人の努力のおかげでようやく動いているプログラムに人為的にバグを組み込み、感染を拡大させるのは破壊行為だ。ニヒリストがテロをやりたがるのはまだわかるが、「善良なつもり」の人が真似をしてはいけない。

風刺と煽り

2008年07月17日 | 日々思うことなど
朝日の「死神」コラムと産経「閻魔」記事の違いを考えた。

朝日の「死神」コラムはひどいというよりむしろ「風刺として当たり前」である。
死刑制度を支持する人たちから不謹慎だ、失礼だ、という批判が出るのもわかるが、風刺とはもともと不謹慎で失礼なものだ。完全に辛味を抜いて誰も怒らせない風刺などただの「くすぐり」に過ぎない。鼻にツンとこないワサビに存在価値はない。

産経の「閻魔」記事は、風刺の域にとどまらず煽りになっているのが嫌だ。
卑怯でみっともない。浅ましくて下品だ。
「閻魔」記事を書いた清湖口氏は「朝日批判は正しいのだから、言論弾圧を煽ろうと虎(権力)の威を借りようと問題ない」と思っているのかもしれないが、私にはぜんぜん同意できない。

朝日の「死神」コラムを清湖口(産経)式に改変するとこうなる。
「鳩山家の近所の人に提案します。13人の首を吊らせた鳩山氏を見かけたら『死神だ』と後ろ指さしてやりましょう」
うわー、やだやだ。ものすごくいやらしい。実に不潔だ。
もともとの「死に神」コラムへの嫌悪感を1とすれば「後ろ指煽り」は5、いや10になる。
実際に煽られて後ろ指をさす人が出るかどうかは関係ない。こんなふうに煽ること自体が下品なのである。

逆に産経「閻魔」記事から煽りを抜いてみる。
「朝日新聞記者のような嘘つきは、死んだら閻魔様に舌を抜かれるだろう」
これなら普通の風刺になる(おもしろくもないが)。
朝日の記者とて人間だから、長くてもあと100年のうちに死ぬのは確実だ。本物の閻魔が新聞ごときに煽られるはずもなく、そもそも閻魔が実在すると信じる人はほとんどいない。
煽りの悪臭は消え、これだったら私も腹を立てたりしない。

新聞社の政治思想が右寄りでも左寄りでも、死刑制度に賛成でも反対でもいい。
気に入らない奴を正面から批判するのも、裏に回ってチクリと風刺するのも勝手だ。日本には表現の自由がある。
だが、誰かを煽って気に入らない奴を叩かせようとするやりかたは下品だ。私は嫌いである。

閻魔と赤報隊(2)

2008年07月16日 | 日々思うことなど
「鳩山法相よ、閻魔さまよろしく朝日の舌を抜いてしまえ」と書いた産経新聞の記事が出てから四日がすぎた。

【語誌ップ拾遺帳】死に神(産経新聞) - Yahoo!ニュース

私には朝日のコラムとは比べ物にならないほど悪質だとしか思えないのだが、なぜか世間ではほとんど話題にならず、批判も起きていない。不思議だ。

自分の感覚が世間一般から外れているのは知っているが、それだけでは納得できない。
産経「閻魔」記事は
 「新聞社が」
 「権力(法務大臣)に対して」
 「他の新聞社の言論を抑圧しろ(舌を抜け)と」
 「煽った」
とんでもない代物なのである。
もちろん問題の記事が本気でないことはわかる。筆者(東京校閲部長・清湖口敏氏)は朝日の「死神」に張り合って「閻魔」を持ち出しただけだろう。まさか本気で「権力者が他の報道機関(朝日)を抑圧してくれればいいのに」とは思っていないはずだ(そう信じたい)。
だがそれにしても、である。
「軽口のつもりにしてもひどすぎる」というか「冗談にならない」というか、私にはどうしても笑ってすませることはできない。

問題にされた朝日のコラムは「現実に起きたことを当事者にとって不快な表現で風刺した」ものだ。そこには新しい事件を扇動するような働きはない。本質的には無力なつぶやきだ(つぶやきにしては大声だが)。
だが産経の記事は違う。
「そこで鳩山大臣に提案します。『死に神』呼ばわりされたのを逆手にとっていっそ開き直り、閻魔さまよろしく、国民にうそを垂れ流す朝日新聞の舌を抜いてやったらいかがでしょう。」
朝日の「舌を抜く」ことを嬉々として法務大臣に提案している。あからさまな「言論弾圧のススメ」だ。そこには自由を守る矜持もなければ、抑圧への警戒感もない。産経は報道機関として自らの存在価値を否定したに等しい。筑紫哲也が「産経新聞は死にました」と宣言しても何の不思議もない。

ところが、世の中のほとんど誰も「産経はひどい」「舌を抜けとは何事か」と怒ってはいないようだ。ブログ検索しても「産経よく言った」と喜ぶ朝日嫌いの死刑支持者が数件ヒットする程度。
「靖国 YASUKUNI」上映中止問題やプリンスホテル会場使用拒否問題では多くの人が批判の声を上げた。彼らは言論・表現の自由を大事にし、守りたいと願っているはずだ。彼らはなぜ「閻魔」記事に怒らないのだろう。

「新聞の形をとり、新聞を名乗っているけれど、まともな報道機関とみなされていない」新聞がある。具体的に言えば「聖教新聞」「赤旗」だ。聖教新聞は創価学会・公明党の、赤旗は共産党の機関紙であり、最初から客観報道の立場を捨てている。聖教新聞や赤旗の記事は報道ではなくプロパガンダ・アジテーションとして読むのが正しい。
聖教新聞が仏敵(池田大作批判)に対して「仏罰を当てるぞ!」と脅しても誰も驚かない。「聖教新聞は最初からそういうものだ」とわかっている。逆に「言論の自由は大事だから、池田大作批判を寛容の心で受け入れよう」という記事が載ったら驚く。犬が人間を噛んでもニュースにならないが、人間が犬を噛んだらニュースになる。

私はこれまで産経新聞のことを普通の新聞、読売・朝日・毎日に連なる一般紙だと思ってきたが、間違っていたのかもしれない。
とんでもなくひどい(私にはそうとしか思えない)「閻魔」記事が世間でスルーされた事実を説明するために以下のような仮説を立てた。

産経新聞とは聖教新聞や赤旗と同じく「アジテーション・プロパガンダのための新聞もどき」である。彼らが「敵」を叩くため下品で乱暴な記事を書いても驚くことはない。もともと彼らは「言論の自由」それ自体の価値を認めていないのだ。「正義」のためなら法務大臣を閻魔になぞらえて「朝日の舌を切れ」と扇動することなど何でもない。彼らに「恥を知れ」と言っても無駄なことだ。

産経新聞の愛読者の方はどう思われるだろうか。

閻魔と赤報隊

2008年07月13日 | 日々思うことなど
産経新聞が「死に神」問題で朝日を批判する記事を書いた。
同業他社を遠慮せず批判するのは結構だが、内容があまりにも低劣なので驚いた。
以前から「産経新聞は右とか左とか言う以前に質が低い」と思ってきたがここまでひどいとは思わなかった。
…というとちょっと嘘で、「産経ならこんなものか」と半分あきらめている。


【語誌ップ拾遺帳】死に神(産経新聞) - Yahoo!ニュース
 あなたは法相として13人の死刑囚に刑を執行されました。このことについて朝日新聞は「またの名を死に神という」と書き、あなたを「死に神」呼ばわりしました。朝日の無知蒙昧(もうまい)にあきれるとともに、大臣が心を痛められたことに深く同情申し上げます。

誰に同情するのも勝手だが、朝日を「無知蒙昧」呼ばわりする理由が知りたい。

 そもそも法務大臣が死刑を執行するのは法の定めであり、鳩山大臣ご自身も恐らくは、強い自責と葛藤(かっとう)の中で忠実に職務を遂行されたことと思います。あの宮崎勤死刑囚の刑執行も「死刑確定から2年余、異例の早さ」などと伝えられていますが、これとて遅かったくらいで、刑事訴訟法では確定から6カ月以内に執行するよう定められています。歴代法相の中には宗教上の理由から死刑を執行しなかった者がおりますが、これらの者こそ法律違反者であり、それを責めるのが新聞の正しい姿勢であると信じています。

「適法かどうか」と「死神呼ばわりが妥当かどうか」はまったく関係ない。
北朝鮮で政治犯を処刑するのは適法かもしれないが、だからといって産経新聞は「金正日を死神呼ばわりするな」とは言わないだろう。
人の命を奪うのは本来「死神の仕事」である。もともと「人間を襲う抗えない死の運命」を擬人化したのが死神だ。
法務大臣の死刑執行命令書は死刑囚に絶対確実な死を与える。法相は死神の仕事を自らの意思と責任で代行しているのだから、死神呼ばわりされるのも当然だ。どれほど「自責と葛藤」を重ねていようといまいと「死刑執行命令書への署名」の効果は変わらない。

 法を順守する大臣を中傷した朝日新聞はそれとも、「法務大臣は法を守るな」とでも言いたいのでしょうか。自己の主張の矛盾に気づかないようでは、朝日の記事はもはや、すべてがうそということになってしまいます。

死刑執行命令を出した法務大臣を死神と表現するのは中傷(事実に反する表現)ではないから、産経の批判は言いがかりだ。どうしても気に入らなければ「侮辱」と呼ぶのが正しい。
朝日は「法務大臣は法を守るな」とは言っていない。「自己の主張の矛盾に気づかないようでは、朝日の記事はもはや、すべてがうそということになってしまいます。」という批判のほうが中傷である。少なくとも日付とテレビ番組欄は嘘ではない(たぶん)。

 話は飛躍しますが、人類で最初に生まれ、同時に最初に死んだ人の名を「ヤマ」といいます。インドの神話によれば、ヤマは死者の国(天界)への道を最初に見つけたことによって天界の王となります。が、時代が下るとヤマは、かわいそうなことに「死に神」とみられるようになりますが、一方ではヤマは、死者の生前の行為を審判する思想とも結びついていきます。

たしかに飛躍してる。話を飛躍させてもちゃんと収まればいいのだが、残念ながらそうではない。

 このインドの神、ヤマが中国を経由し日本に伝わってきたのが、誰あろう、閻魔(えんま)大王なのです。閻魔はヤマの音写語です。ご存じの通り閻魔さまは、死者の生前の行為を正しく審判し、善行を積んだ者は天国へ、悪事を重ねた者は地獄へと、行き先を分ける“執行責任者”となったのです。もちろんうそをついた人間の舌を抜くという大事な役目も負っていることと思います。

 この閻魔さまの由来を朝日新聞が知っていたかどうかはともかく、刑執行の責任者である法務大臣を「死に神」と呼ぶのは、ちょうど閻魔さまを「死に神」呼ばわりするのと同じで、善良な日本国民なら実に罰当たりなことと思うはずです。

ああ、「善良な日本国民」!
馬鹿が「善良な日本国民」を勝手に代表して間抜けな意見を得意げに言うのを聞かされると「自分は『善良』じゃなくてよかった」と思う。
インドのことは知らないが、日本では閻魔と死神を同じものだと思う人はほとんどいないだろう。閻魔は「亡者を極楽行きと地獄行きに選り分ける」存在であって「死を与える存在(死神)」とは違う。はっきり違うのだから閻魔を死神呼ばわりする理由がない。
仮に誰かが「閻魔を死神呼ばわり」したとして、「罰当たりなことと思う」というのもわからない。みんなそんなに閻魔の存在を信じているのか。私は小学校を卒業してから閻魔を恐れたことがない。
法相を庇うのに閻魔を持ち出すのも変だ。「亡者に極楽行きか地獄行きかの裁きを下す」閻魔を現実の存在に例えるなら最高裁だろう。最高裁は刑事事件の被告人を極楽に送る(無罪にする)こともできるし地獄に落とす(死刑判決を下す)こともできる。その一方で死神は「死を定められたものの命をいつ奪うのか」決めることしかできない。法相が死刑執行命令に署名するかしないか決めるのと同じだ。

そもそも清湖口氏は、法務大臣は「法の定め」に従い「忠実に職務を遂行」する存在と規定しているのではなかったか。
閻魔は自らの責任と判断で亡者を選り分けている。閻魔は亡者にとっての絶対権力者だ。
清湖口氏は法務大臣の判断能力と責任の有無を都合よく使い分けている。あるときは「法律と判決に従っているだけ」とし、あるときは「亡者を選別する絶対権」を持つ閻魔と重ね合わせる。なんとも都合のいい話だ。
閻魔の例えは無駄に話を混乱させるだけだ。たぶんオチ(最終段落)を先に思いついて無理やり当てはめたのだろう。

そこで鳩山大臣に提案します。「死に神」呼ばわりされたのを逆手にとっていっそ開き直り、閻魔さまよろしく、国民にうそを垂れ流す朝日新聞の舌を抜いてやったらいかがでしょう。ただし、朝日の舌が何枚あるのかは承知していませんが。(東京校閲部長 清湖口敏)

最後の段落がいちばんひどい。
たぶん清湖口氏は「気の効いたことを言ってやった」と満足したのだろうが、それだけにどうしようもないダメさが際立つ。
こんなことを書くのは本当に情けないのだが、産経新聞は「国民のために真実を伝える報道機関」ではないのか。
「閻魔さまよろしく、国民にうそを垂れ流す朝日新聞の舌を抜いてやったらいかがでしょう。」
という軽口は、報道機関としてどうなのか。恥ずかしさを感じないのか。

私には「言論の自由」も「報道機関の責任」も「権力の監視」もすべて投げ捨てた「法相への阿諛追従」としか思えない。
タイコモチのイッパチが「朝日め、旦那を死神呼ばわりとは太ぇ野郎だ、あんな奴の舌は引っこ抜いちまいましょう」とおべっかを使う光景が眼に浮かぶ。イッパチは自分もまた「口舌の徒」であることを忘れている。舌を引っこ抜く楽しみに目覚めた旦那がイッパチの舌を抜かないという保証はどこにもない。

もう少し具体的に書こう。たとえば10年後、産経の忌み嫌う左翼政権が日本にできたとする。
当然のように「産経抄」あたりで批判し風刺するはずだ。皇室を軽く見る政治家を「非国民呼ばわり」したり、中国や韓国との友好を深め(媚び)ようとする外相を「売国奴呼ばわり」したり。
それが受け入れられればいいけれど、なにしろ左翼政権ができてしまう「空気」が日本を覆っている。
「国民の支持する政治家を非国民呼ばわりするなんて許せない!」「日中友好は正しい、ケチを付けるのはけしからん!」という「正論」(産経の月刊誌ではなく)が湧き上がる。いくら「中傷の意図はない」と弁解しても焼け石に水だ。
やがておべっかを恥じない左翼マスコミが「閻魔さまよろしく、国民にうそを垂れ流す産経新聞の舌を抜いてやったらいかがでしょう。」と進言する。威勢が良くて頭の悪い「ネット左翼」が煽られて騒ぎだし、やがて産経新聞社に鋏型の釘抜き(閻魔が亡者の舌を抜くのに使う道具)が送られてくる…
こういう「すばらしい未来」を想像する能力が清湖口氏と産経新聞には無いらしい。

「閻魔さまよろしく、国民にうそを垂れ流す朝日新聞の舌を抜いてやったらいかがでしょう。」という産経新聞と「赤報隊事件をもう一度起こしてやろうか」と凄む右翼の間にそれほどの距離はない。暴力をほのめかして気に入らない奴の口を塞ごうとする点でそっくりだ。
日本には思想信条の自由、表現の自由がある。死刑制度を支持するのも、「法相への死神呼ばわり」を批判するのも自由だ。
だが、「閻魔さまよろしく、国民にうそを垂れ流す朝日新聞の舌を抜いてやったらいかがでしょう。」という軽口・放言・権力への阿諛追従は断じてまともな報道機関のすることではない。スターリン時代の「プラウダ」や文化大革命の頃の「人民日報」と何も変わりはしない。

絶対無理な犯人(最終回)

2008年07月12日 | テレビ鑑賞記
最終回を迎えた春クールドラマの感想(前回はこちら)。

■ 絶対彼氏 火曜9時 フジテレビ系
70点
最終回だけで20点評価アップ。
「ロボットの純粋な愛とそれに応える素直な少女」が見たかったのに、中盤までは「馬鹿なロボットの空回りと堅物女のすれ違い」ばかりでつまらなかった。せっかくもこロボという素材を得たんだから楽しいファンタジーを作れ。「派遣社員の御曹司への片思い」なんてぜんぜん興味ない。
「生真面目で重い」ヒロインの設定が間違っていた。自分だったら「つまらない堅物」じゃなくて「素直な天然」にする。もこロボとのラブラブバカップルぶり、ロボ彼氏の完璧さと限界、事情を知った周囲のやっかみと心配… いくらでも面白い話ができそうなのに。ミカ(ヒロインの女友達)は意地悪な敵じゃなくて「天然のヒロインに突っ込みを入れる」冷静な友達にする。
…と、不満は多いけれどロボが健気で最終回が切なかったから後味は悪くない。今期の主演男優賞はもこロボに決まり。

■ 無理な恋愛 火曜10時 フジテレビ系
60点
最終回で20点ダウン、夏川さん補正で10点アップ。
最終回前までは「いい人たちの心温まるドラマ」で満足して見てたのに、強引に主人公(堺正章)とヒロイン(夏川結衣)を結びつける終わり方でがっかり。よほど堺正章に感情移入した視聴者以外は納得できないだろう。
「三人(堺・夏川・チュートリアル徳井)がそれぞれの道を歩き出す」ほうがずっと爽やかで良かった。立木(堺)は祥子(青木さやか)といい雰囲気になれば応援したのに。あれだけ尊敬され慕われてるんだから応えてやれよ。

■ キミ犯人じゃないよね? 金曜11時15分 テレビ朝日系
50点くらい
途中で脱落、最終回は見た。
ヒロインの「謎の記憶」がたいしたことなかったのは予想通り。
いちばん魅力的な登場人物が特別出演の「ささやき刑事」(升毅)というのはどうかと思うが、金曜ナイトドラマならこれでいいのかもしれない。要潤はボケを熱演してご苦労様。貫地谷しほりは期待したほど魅力がなかった。演技力のある人なので次回作に期待(「あんどーなつ」見てないけど)。

■ トップセールス 土曜9時NHK総合
70点
夏川さん補正で10点アップ。
「トップセールス」というタイトル、「成功した女性の一代記」というイメージでカタルシスを期待したけれど、もともとそういうドラマじゃなかったようだ。スカッとすることもなく、しんみりするにも物足りず(蟹江敬三さんはよかった)、薄味の料理で腹八分目という感じ。

■ ごくせん 土曜9時 日本テレビ系
60点
仲間ちゃんだけど補正はなし。
11回連続で「A定食」を食べたような気分。

罪と恥

2008年07月11日 | 日々思うことなど
なんだか「日本人の恥」を見せられた気がしてモヤモヤする。

asahi.com(朝日新聞社):「落書き跡に銘板で校名残したい」伊の大聖堂が申し出
 世界遺産に登録されているイタリア・フィレンツェ歴史地区のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に、岐阜市の市立女子短大の学生6人が落書きをした問題で、松田之利学長と学生らが現地を訪れ、大聖堂側に謝罪した。10日発表した岐阜市によると、学生は謝意と大聖堂の保全のため計600ユーロ(約10万円)を寄付。通常なら受け取らない大聖堂側も今回は修復費に充てるという。

 大聖堂の事務局長は「謝罪訪問という勇気ある行動に感銘を受けた。寄付金で落書きを消した個所に、学校名入りのタグ(銘板)を作りたい」との意向を示したという。

 6人の学生は3月、すでに文書で謝罪し、許しを得ていた。直接謝りたいという全員の意向を踏まえ、学生の代表1人と学長らが私費で現地に赴いたのは9日。大聖堂の事務局長とともに面会に応じたフィレンツェ市の副市長は「文化を大切にする日本人の意思と厳しい態度に考えさせられた」と話したという。


このニュースに対する日本人の反応がこちら。

はてなブックマーク - asahi.com(朝日新聞社):「落書き跡に銘板で校名残したい」伊の大聖堂が申し出 - 社会

痛いニュース(ノ∀`):「落書き女子大生の謝罪に感銘。落書き跡に銘板で学校名を残したい」 フィレンツェの大聖堂が申し出

27 名前: やおいちゃん(神奈川県)[] 投稿日:2008/07/10(木) 20:42:55.19 ID:RpXS8xD80
皮肉でやろうとしてるんですよねサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂さん?

28 名前: ヴァルディ(富山県)[] 投稿日:2008/07/10(木) 20:43:00.01 ID:7xh4JFCl0
実は許す気全然ないだろこれw
末代まで晒し者にされるわけだ

34 名前: ジュダック(愛知県)[] 投稿日:2008/07/10(木) 20:43:15.60 ID:nIP96h6V0
生き恥じゃんw
やめてやれって、学生かわいそうだよ。

40 名前: チチ(神奈川県)[] 投稿日:2008/07/10(木) 20:43:21.48 ID:J0SVLIaJ0
糞ワロタ
ジョークのセンスがありすぎ

はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`):「落書き女子大生の謝罪に感銘。落書き跡に銘板で学校名を残したい」 フィレンツェの大聖堂が申し出

はてなブックマークにも「晒し上げ」「黒いジョーク」「ほめ殺し」といった言葉が見られる。
こういう発言が「ひねくれたことを言っといたほうが面白い」というネタのつもりなのか、それとも本気なのかわからない。どちらであっても私には不快だ。冒頭で「日本人の恥」と呼んだのは落書きをした女子大生ではなく、ネタあるいは本気で「晒し者」呼ばわりする人たちのことである。

私は今回のイタリア側の対応が寛容と善意によるものだと信じて疑わない。
イタリア側には「晒し上げ」る理由が何もないからだ。

イタリアやフィレンツェ市にとって観光は重要な産業である。もちろん日本人は上得意だ(「Business Media 誠:世界最良の旅行者は日本人、では最悪の旅行者は……?」)。
日本人の善意による謝罪を「晒し上げ」れば、イタリアが嫌われて観光客を減らすだけだ。実利的に考えて銘版というアイデアが「晒し上げ」のためであるはずがない。

仮に「晒し上げ」によって落書きを減らす一罰百戒の効果を狙っているのだとしても、それが効くのは社会的制裁が大好きな日本人だけである。大聖堂の落書きのほとんどは欧米人によるものなのだから(参考)、一罰百戒など期待すべくもない。


晒し上げでも嫌がらせでもないのだから、そのまま素直にイタリア側の「寛容と善意」の表れだと認めるのが正しい。
日本人の感覚では理解しがたくても、善意を善意として認めるのが異文化を尊重することだ。勝手に日本文化の色眼鏡で見て悪意を読み取るのは失礼である。
日本の文化は東アジアの中でも独特なようで、中国や韓国のマスコミがトンチンカンな報道をしたりネットで誤解曲解されたりする。「謙譲の美徳」が卑屈さととられたり、「簡素を好む美意識」が貧乏臭さと馬鹿にされたり。日本人にとっては心外であり、自分たちの文化に囚われて日本文化を理解できない彼らを哀れにも思う。
フィレンツェの落書き騒動でイタリア側の対応を「晒し上げ」と笑ってみせる人たちもそれと変わらない。本気で「晒し上げ」だと思っているのなら「自分自身の文化の枠に気付くのは難しい」と反省もするが、ネタとして面白いつもりで「ほめ殺し」だと囃す手合いはちょっとどうしようもない。


偉そうなことを書いてしまったが、私はイタリアの文化、イタリア人の気質についてほとんど何も知らない。
イタリア小説はイタロ・カルヴィーノを何冊か読んだだけだし、イタリア映画は「」という貧乏臭いのを見たくらい。ビスコンティと「おいしくてつよくなる」ビスコの区別も付かない。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の責任者は誰なのかちょっと調べてみた。公式サイト機械翻訳したのがこちら。
Operaディサンタマリア・デル・フィオーレは1296年に新しいCathedralとその鐘楼の建設を監督するためにフィレンツェ共和国によって設立された俗人団体です。
(略)
今日、「作品コミッション」と同じくらい多くでは、Operaは1929Concordatを受けることがあって、3年毎にInteriorの大臣による法令で任命されて、社長として1人のメンバーを選出する7人のメンバーで構成されたCouncilによってそういうものとして向けられます。

どうやら、イタリア内務省の任命した委員会が委員会が大聖堂を管理しているようだ。アヤ・ソフィア(イスタンブール)などとは違う現役の大司教聖堂だから聖職者が管理しているのかと思ったらそうじゃなかった。

管理者が俗人(聖職者ではない)であっても、サンタ・マリア・デル・フィオーレがローマカトリックの大聖堂であることは間違いない。大司教の意向を無視した判断はしないはずだ、と思う。イタリアでどれくらい政教分離が行われているのかいないのか知らないが、イタリア人は「圧倒的にキリスト教のカトリック教会(約9割)が多く、日曜礼拝を欠かさないような敬虔なカトリック教徒も多い。」そうだから、アンナ・ミトラーノ館長もカトリックの信者でありキリスト教の価値観に沿って行動したと見ていいだろう。

FNNニュース: フィレンツェ大聖堂落書き問題 岐阜市立短大学長と学生らがイタリアで関係者に謝罪
イタリア・フィレンツェの大聖堂に岐阜県の女子短大生が落書きをした問題で、大学の学長と学生らが9日、イタリアを訪れ、関係者に謝罪した。
大聖堂の館長は、泣きじゃくる学生を抱擁し、「そんなに心配しなくていいのよ。かわいそうに」、「お願いだから笑顔を見せて。この部屋を出る前に」と優しい言葉をかけた。
岐阜市立女子短期大学の学生は9日、イタリア・フィレンツェの大聖堂に、学長らとともに、自費で謝罪に訪れた。
6人を代表し、修復費として、1人100ユーロ、あわせて600ユーロ(およそ10万円)を大聖堂側に手渡した。
館長は「この礼儀正しさは称賛すべきです。この機会に世界遺産であることがいま一度、確認されました」と語った。
大聖堂の展望台は、女子学生が書いた落書きのほかにも、多くの落書きで埋めつくされている。
日本人旅行者は「落書きいっぱいですよね」、「こんなに多いと思わなかったです」などと話した。
日本語のほかにも英語、ハングル、イタリア語の落書きもある。
イタリア国内では、「日本の落書き騒動にことを荒立てすぎだ」との指摘もあったが、イタリア人記者からは「彼女の方がイタリア人よりも、芸術への愛が大きいということがわかったわ」という声が聞かれた。
学校側の謝罪を寛大に受け止めた大聖堂。
さらに、岐阜市と姉妹都市関係にあるフィレンツェ市は、女子学生らを平和大使に任命した。
岐阜市立女子短期大学の学長は「ありがたい。感謝でいっぱいです」と語った。


私はキリスト教・ローマカトリックについても無知だ。無知だけれどカトリック信者の考えかたを想像して書く。間違っていたらごめんなさい。

キリスト教では「悔い改め」「贖罪」がたいへん重要視される。
カトリックでは告解(教会での懺悔)が「赦しの秘跡」とされている。
贖罪、それも自らの罪だけでなく多くの人々の罪を償おうとする行為はとても尊い。キリスト自身が人間の原罪を贖うために十字架に登ったのだから。
落書きした女子大生はわざわざフィレンツェを訪れて自分たちの罪を泣いて謝罪した。大聖堂としては告解と認めて「赦しの秘跡」を与えざるを得ない。いや、義務というよりはとても喜ばしいことである。信心深い人ならそれこそ「神の愛が表れた」「彼女たちには天使の声が聞こえたのだ」と感激するかもしれない。
落書きの罪を犯したのは彼女たちだけではない。イタリア人も含めて世界中の人々が勝手気ままに、大聖堂への敬意もへったくれもなく落書きを続けている。いくら注意しても蛙の面に小便だ。それなのに、異教徒である日本人が罪の意識に動かされて(本当は「社会的制裁を恐れて」なのだが)謝罪に訪れた。これはイタリアの常識では考えられない奇跡的な行為である。このすばらしい贖罪行為を褒め称え、後世に伝えるのが大聖堂を管理するものの義務だ。

…というようなことじゃないかと思う。私の中ではそうに違いないという確信がある。


日本人は世界でも有数の「宗教的でない国民」なのだそうだ(図録▽世界各国の宗教)。
日本社会の世俗性は私のように宗教心の薄い人間にとって基本的に住みやすく快適だ。初詣もお寺参りもクリスマスもこだわりなく行うのは美風だと思う。真面目にひとつの宗教を信じる人たちを理解しがたいと思うことが多い。
それでも、何でもかんでも世俗性のフィルターを通して見るのは日本国内で止めておくほうがいい。イランではイスラム教が、タイでは仏教が、そしてイタリアではキリスト教が生きている。
「落書き騒動」でイタリアの人たちのいかにもカトリック的な(私はそう感じた)善意と寛容を受け入れられず、「晒し者」「ほめ殺し」と悪意を見て哂う日本人は偏狭で醜悪だ。私はそれこそ日本人の恥を見せつけられたようでげんなりした。

いつまでも坊さんと思うなよ

2008年07月09日 | ネタとか
平凡な大学を平凡な成績で卒業した「ぼく」は地味な大企業に入社する。
運試しのつもりで入社試験を受けたら受かってしまったのだ。
入社式ではなぜかお偉方が頭の形や声量をほめてくれる。皮肉めいたことを言う人も。

不思議に思いながら初出社。
「企画開発五部」の辞令を渡される。野心があれば「企画開発」に喜ぶのだろうが、平凡に生きていきたい「ぼく」は総務を望んでいた。不安がる「ぼく」を人事部の人が励ます。「君の頭の形のよさと声量があれば大丈夫」。
連れて行かれた「企画開発五部」は地下倉庫の奥。なぜか抹香臭い。
防音扉を開けると読経の声がとどろく。

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

中には10人ほどの坊さんと尼さんがいてお経を読み木魚を叩いている。
「な、何ですかここは」
「わが社の中枢、企画開発五部・通称B部(坊主部)へようこそ」

世間では普通の電気部品メーカーと思われているK電機の秘密、それが「読経による鎮護会社」を業務とするB部だった。
といっても社風が特に仏教的というわけではない。一般社員のほとんどはB部の存在自体知らないか、知っていても興味を持たない。なぜB部のような非生産的な部門が存在しているのかというと、創業者であるカリスマ会長(谷啓)の趣味らしい。現社長(会長の息子)はB部を廃止したがっている。その動きに対抗して会長が特に指名した「頭の形がよく声量のある新入社員」こそが「ぼく」だった。

「仏教大学を出た本職を入れればいいじゃないですか」
「会長は色事でも宗教でもプロがお嫌いなのだ」「銀座のバーに行ったことがないといつも自慢しておられる」
「そんな無茶な」
「君は会長に見込まれた期待のエースだ、逃げるのは許されない。さあ、さっそく剃髪だ」
「うわあああああ」

B部の社員のほとんどは宗教心を持たない「コスプレ坊さん・尼さん」である。
他部署でトラブルを起こしたり仕事に行き詰った社員が息抜きとしてB部に配属される。彼らは数年間「坊さんごっこ」をしているという意識だ。個性的な人間ばかりで、真面目で素直な「ぼく」は翻弄される。
まともに仏教と向き合っているのは部長(柄本明)と広末(広末涼子)の二人だけ。「ぼく」は袈裟の着こなし、経の読み方、木魚のたたき方を厳しく仕込まれる。

ときどき会長が現れては謎の訓辞をする。深い意味があるようでないような内容。他の社員は聞き流しているが「ぼく」はますます頭が混乱する。気が付くと広末だけがいつも会長訓示を欠席している。
実は広末は会長の愛人の娘だった。現社長からは家族として認められていない。小さい頃から仏教好きで「将来の夢は尼さん」だったのが、会長の命令で無理やりB部に入れられた。彼女は会長のいい加減さとわがままさに反発している。

部長はただ一人の本職である。実家の寺を潰してしまい、路頭に迷っていたところを居酒屋で会長に拾われた。ちょうど前部長(これも元坊さん)が定年を迎えB部は存続の危機を迎えており、「まともに経が読めれば誰でもよかった」というのが本当らしい。それでも部長は会長に忠誠を誓い、B部の存在に疑問を持たず熱心に経を読み続けている。

B部の存在について緘口令が敷かれているわけではないが、なぜか社外への秘密が保たれている。
それは会長のカリスマ性のためだとも、あるいは会社の恥部としてタブーにされてるのだとも言われているが本当のところはわからない。

「ぼく」と坊さん社員たちとの交流。バカバカしいトラブルが続出。
個性的な連中が起こすドタバタの尻拭いはいつも「ぼく」と広末先輩の役目だ。二人の間になんとなくいい雰囲気が。
袈裟も読経も板に付き、立派な「坊さん社員」となった「ぼく」は「これこそ天職ではないか」と思い始める。
そこに勃発する大事件。
K電機を揺るがす騒動はやがて日本の存亡、世界の運命にも関わる未曾有の法難であることが明らかとなる。これを止められるのは素人坊主の集まり「企画開発五部」しかない!
ついに語られる会長の秘密、「B部」の謎、そして坊さん社員たちの意外な過去と能力。
果たして「ぼく」は世界を救えるのか、そして恋の行方は!?



…という夢を見た。
「なんだ夢の話か」とがっかりした読者は正しい。人の夢の話ほどつまらないものはない。
夢を見ていたときは「なんておもしろいんだろう!」と興奮したのに書き起こしてみたらそれほどでもなかった。なんだか「ショムニ」「ケイゾク」「鹿男あをによし」と、タモリ倶楽部「東京ボーズスタイル2008」を混ぜ合わせたみたいだ。
ヒロスエの尼僧姿が見たい!というマニアが2000万人くらいいたらドラマ化されるかもしれない。
ちなみに私自身は、夢でたくさん見たからもういいや。特に広末涼子のファンじゃないし。
それにしてもなぜ広末なのだろう。謎。

河村たかしが来た!

2008年07月01日 | 政治・外交
やっぱりたかしだがや! あいつはでらイカしてるよ!! 最高だで!!!
などとえりゃあ興奮してもうたがや。とろくせえ、俺は名古屋人じゃにゃあでよ。
(参考 簡略名古屋弁自典500語六文銭[名古屋弁翻訳機]

党首にならせて-河村氏 民主党代表選出馬に意欲 - 47NEWS
 民主党の河村たかし衆院議員は30日夜のBS番組で「党首にならせてもらい、総理になり、中小企業の息子でも努力すれば、夢はかなうかもしれないと語りかけたい」と述べ、秋の民主党代表選への出馬に意欲を示した。

 また河村氏は「民主党は庶民の味方にならないといけない」と強調した。

たかしのニュースを聞くのはやっとかめだなも。でらなつかしいわ。
…もうやめよう。よそ者がインチキな名古屋弁を使うと聞き苦しい。聞き苦しいのはあくまでも「よそ者が使うインチキな」言葉であって「名古屋弁」ではないので名古屋の人は理解してちょ。

「党首にならせて」と哀願調なのがいい。苦労人のたかしはいつも謙虚である。
そのくせ変にあつかましく騒々しい。そのミスマッチを楽しむのが小倉トーストやあんかけスパに代表される名古屋の味である(ような気がする)。ひつまぶしとシロノワール食べたい。実はどちらも食べたことない。

「中小企業の息子でも努力すれば、夢はかなうかもしれないと語りかけたい」
泣かせてくれるじゃないかたかし。
泥臭く味噌臭いけれど心はいつも夢であふれてる。見上げるのは名古屋城の金の鯱だ。
キムタク総理の次はたかし総理にチェンジだがや。みんなたかしを応援してちょうでゃあせ。


などとちょーすいとったら(調子付いていたら)こんなニュースもあったわ。

河村たかし氏:民主代表選、出馬には言及避ける - 毎日jp(毎日新聞)
 民主党の河村たかし衆院議員は30日、衛星放送「BS11」の報道番組「インサイドアウト」で、9月に予定される党代表選について「僕じゃなくてもいいけど、中小企業をやってきた人間に党首になってほしい」と述べ、自らの出馬については言及を避けた。

 河村氏は小沢一郎代表が無投票再選された06年9月の代表選など、過去数回にわたって出馬の意欲を表明したが、いずれも推薦人が集まらず断念している。河村氏は、代表選出馬に推薦人20人が必要とされることについて「どえらい難しい。自民党だって同じ人しか出られない。民主党だって同じ人じゃないですか」と批判した。

おみゃーは少しは勘考してから出馬宣言すりゃあせ。今度こそ推薦人を集めるめどが立ったかと喜んだのにがっかりだわ。
「根回しせずに出馬宣言 → 推薦人集まらず」という同じ出し物を何度も見せられては、私のようなたかしファンでもいいかげん飽きるし、怒る。「僕じゃなくてもいいけど」などと弱気を見せてはだめだ。まあそういう情けないところもたかしの魅力のひとつではあるのだが、今度という今度は弱気を捨て退路を断って男になってくれ。今こそその時だ。
「時は今 天が下しる 五月かな」  …じゃなくて、桶狭間に出陣する信長の気持で「敦盛」を舞うべし。「人生五十年。下天のうちに比ぶれば夢幻のごとくなり。ひとたびこの世に生を受け滅せぬもののあるべきか」ちなみに河村たかしは今年で60歳である。

戦えたかし、信長・秀吉・家康に続く(東海地方出身)天下人の座をつかめ!