玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

銃はカミでもケガレでもない

2009年05月31日 | 日々思うことなど
「横須賀警察官発砲事件・損害賠償判決」に対する批判がネット上で広がっている。
もしかしたら「光市母子殺人事件の弁護団批判」のような集団ヒステリーが起きるかもしれない。

威嚇なしの警官発砲は違法、神奈川県に約1千万賠償命じる : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
 パトカーに乗用車を衝突させるなどして神奈川県警の警察官に発砲され、下半身不随になった横浜市の男性(31)が「発砲の必要性はなかった」として国家賠償法に基づき、県に約8080万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が27日、横浜地裁であった。


 小林正裁判官(鶴岡稔彦裁判官代読)は「発砲前に威嚇射撃を行うべきで、適法な職務執行とは言えない」と述べ、県に約1150万円の賠償を命じた。

 判決によると、2004年8月25日夕、横須賀署の巡査部長らのパトカーが、横須賀市内に停車中の男性に職務質問しようと近付いたところ、男性は車を急発進させて逃走した。路地に追い詰められた男性は、車をパトカーに繰り返しぶつけて脱出を図ったため、巡査部長は約1メートルの距離から男性の右肩を狙って発砲。右脇腹に命中して男性は下半身不随となった。男性は公務執行妨害と覚せい剤取締法違反などの罪で起訴され、07年8月に東京高裁で懲役2年、執行猶予4年が確定した。

 訴訟で県側は、「発砲前に何度も警告しており、やむを得ない措置だった」と主張した。小林裁判官は、男性逮捕の必要性は認めたが、「拳銃で狙えた範囲は、男性の頭や胸などで、発砲には特に慎重であるべきだった。先に威嚇射撃を行う必要があった」と指摘した。

 同県警監察官室は「関係機関と協議して今後の対応を決める」とコメントした。


2ちゃんねるのスレッドやあちこちのブログを見て回ると、ほとんど誰もが賠償を命じた判決を批判罵倒している。もちろん、気に入らない判決を批判すること自体は構わないのだが、困るのは彼らの批判に事実の裏づけがなく、思い込みを元にして想像に想像を重ねていることだ。はっきり言って妄想に近い。
私の言う「事実」とは、マスコミの伝える情報の断片のことではない。読売の記事はまだ長いほうだが、それでも600字にも足りない。これで「その時その場所で実際に何が起きたのか」わかるはずがないではないか。私が知りたいのは確かな情報、真実に限りなく近い事実だ。想像ばかりの非難罵倒はノイズでしかない。
「ありえないほどひどい判決だ、トンデモだ」と批判する人たちのおもな主張を箇条書きにして反論する。


1 ・ 「発砲は正当防衛だ」

被告の神奈川県(県警)自身が正当防衛の主張をしていない。少なくともそのようには報道されていない。
実際に正当防衛として発砲したのであれば隠す理由はなく、むしろ積極的にアピールするはずだ。


2 ・ 「切迫した危険があった」

「正当防衛」論の根拠として、「パトカーに何度も車をぶつけたのだから非常に危険だ、撃たれても当然じゃないか」という主張が見られる。だがこれも思い込みの産物でしかない。マスコミ報道は「何度も車をぶつけた」と伝えているけれど、「そのときの速度は何Km/hだったか」書いていない。これでは危険性の判断などできるはずがない。時速40Km/hだったかもしれないし、時速5Km/h(歩く早さ)だったかもしれない。
「車をぶつけた!危険だ!」と決め付ける人たちは「40Km/h」に近い想像をしているのだろうが、それには何の根拠もない。
仮に危険がそれほど大きかったのであれば、なぜ殺人未遂や暴行罪で起訴されなかったのか。やはり公務執行妨害相当の危険しかなかったと考えるほうが自然だ。


3 ・ 「威嚇射撃の必要はなかった」

確かに、警察官等けん銃使用及び取扱い規範および警察官職務執行法 「第七条」によれば「人に向けて撃つ前に必ず威嚇射撃をせよ」とする規定はない。その意味において「威嚇射撃の必要はない」ということはできる。
だが、その前に「警察官職務執行法 第七条」において「警察官は、犯人の逮捕若しくは逃走の防止、自己若しくは他人に対する防護又は公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合においては、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において、武器を使用することができる。」と定められている。
繰り返す、「合理的に必要と判断される限度において、武器を使用することができる。」のである。現場の警官はとっさに「威嚇射撃は不要」と判断したのだろうが、横浜地裁は客観的な状況から「威嚇射撃こそが合理的に必要」だと判断した。現場の判断は尊重されるべきだが、裁判所が下した判決はそれ以上に重い。日本は法治国家なのだから。


3 ・ 「威嚇射撃している余裕はなかった」

  訴訟で県側は、「発砲前に何度も警告しており、やむを得ない措置だった」と主張した。

何度も(他の報道によると5回)声をかけて警告するひまがあったのだから、威嚇射撃ができなかったとは信じられない。銃を上に向けて引金を引くのにどれだけの時間がかかるというのか。ホルスターから出すところからはじめても3秒、すでに抜いていれば1秒でできる。


4 ・ 「威嚇射撃の流れ弾のほうが危険だ」

言い訳にすぎない。
真上に向けて発砲すれば、流れ弾が第三者に当たる確率はほとんどない。
中近東で祝い事のとき空に向けて何十発も実弾を撃ちまくる様子をテレビで見た人は多いはずだ。あれほど撃っても実際に流れ弾でケガをする人はまれだ(ゼロではないけれど)。事件当時の報道によると、原告男性が追い詰められた袋小路は「横須賀市不入斗町3丁目付近の市道」だという。

横須賀市不入斗町3丁目 - Google マップ

航空写真で見るかぎり、周囲は二階建て程度の家が立ち並ぶ住宅地である。これなら真上から10度や20度斜めにそれても民家に飛び込む危険はないだろう。


5 ・ 「威嚇射撃なしの発砲以外に容疑者を制止する方法がなかった」

これも想像にすぎない。
まず間違いなく神奈川県警はそのように主張しているのだろうが、一般人には検証する手段がない。マスコミの断片的な報道を集めていくら想像力をたくましくしても、「事実」には近付けない。
その一方、横浜地裁は裁判における当然の手続きとして現場検証を行い、物証を集め、証人を呼んで一次情報を集めたはずだ。想像に頼っていくら「発砲は正当だ」「自分は警察を信じる」と叫んでも、裁判所の事実認定の積み重ねと法理論には太刀打ちできない。
どうしても判決に納得できなければ、判決文と公判記録を取り寄せて「何が裁判所によって事実と認定されたか」知り、その上でひっくり返す努力をしたほうがいい。どれほど想像を重ねて大声で「不当だ!」と叫んでも説得力がない。


6 ・ 「危険な覚醒剤中毒者が警官に抵抗したら撃たれても当然だ」

事件当時の報道によれば、追跡した時点ではあくまでも「自販機荒らしで手配された車の運転手」にすぎず、覚醒剤が発覚したのは逮捕後のようである。


7 ・「逃走を許せば凶悪犯罪を犯したかもしれない」

これこそまさに想像、空想、妄想である。ほとんど論じるに値しない。
仮に追い詰めたのが殺人犯とか強盗傷害といった粗暴犯であれば「絶対に逃がしてはいけないほど危険だ」と言ってもいいだろう。だが、実際に横須賀で撃たれたのは「自販機荒らしで手配中の車のドライバー」である。容疑自体が単なる盗犯であり、「手配車両に乗っていた=犯人」と決め付けることもできないはずだ。
警察が「万が一凶悪犯罪を犯すかもしれないから」という理由で発砲するようになったらメチャクチャである。怪しいと感じたらすぐに銃を突きつけるような警官はドラマの中だけで十分だ。ダーティーハリー(は好きだけど)やあぶない刑事気取りの警官はいらない。


8 ・ 「警官に抵抗しておいて損害賠償を請求とは盗人猛々しい」

仮に警官が何の罪もない市民を誤射したとする。下半身不随の賠償額として8000万円を要求するのは決して不当ではない。
横須賀の事件の場合は「撃たれた責任」のほとんどは原告側にあるとされた。だが警官の行動にも不適切な部分(威嚇射撃をしなかった)があり、裁判所は応分に責任を分けた。その結果認められた金額が約1150万円だ。たいへん論理的である。これを「けしからん、不当だ」と怒る人は責任と賠償について何もわかっていない。


9 ・ 「むしろ射殺すべきだった、外国ではそうしている!」

呆れてものも言えない。
「日本ヨハネスブルグ化計画」という言葉を思いついてしまった。「撃て、撃て」「殺せ、殺せ!」と煽り立てるバカは自分が法律と人権概念によって守られていることを知らない。中学校から、いや小学校からやり直せ!



以上、いささか長々しく書いてきたけれど、私の感じているのは徒労感と情けなさである。
そもそもこの事件でどうしても発砲が必要だったとは思えないし、発砲を熱烈に支持している人々は酔狂にもほどがある。

「お前らそんなにおまわりさんのピストルが好きか?」
権力の振るう暴力にカタルシスを感じる人たちは、いったいどれほどのストレスを溜め込んでいるのだろう。警官の銃口は決して自分たちに向くことがないと信じるおめでたさよ。

「銃はカミでもケガレでもない、物神信仰はやめてくれ!」
佐世保散弾銃乱射事件の後で起きた「日本社会に銃はいらない、全面禁止しろ」という世論と、今回の「警官の発砲は正義だ、批判は許さない」という声はたぶん同じカードの裏表だ。現実の銃を知らず、銃の適切な使われ方に何の興味もない。ただひたすら己の情念を銃にぶつけて怯えたり崇めたりするばかり。
ああ、とてもつきあいきれない。


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警察官の拳銃は「聖なる剣」じゃない

2009年05月30日 | 日々思うことなど
今の世の中で「警官は絶対に間違わない」と信じている人はどれくらいいるだろうか。
たぶんほとんどいないと思う。
たいていの人は捜査ミスや冤罪事件のニュースを見聞きしたことがあるはずだ。
ところがなぜか、「警察官の発砲事件」に限っては「撃たれた奴が全部悪いに決まってる」というナイーブな主張ばかりが大声で語られる。いったいなぜなのだろう。本当にわけが分からない。

威嚇なしの警官発砲は違法、神奈川県に約1千万賠償命じる : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
 パトカーに乗用車を衝突させるなどして神奈川県警の警察官に発砲され、下半身不随になった横浜市の男性(31)が「発砲の必要性はなかった」として国家賠償法に基づき、県に約8080万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が27日、横浜地裁であった。


 小林正裁判官(鶴岡稔彦裁判官代読)は「発砲前に威嚇射撃を行うべきで、適法な職務執行とは言えない」と述べ、県に約1150万円の賠償を命じた。

 判決によると、2004年8月25日夕、横須賀署の巡査部長らのパトカーが、横須賀市内に停車中の男性に職務質問しようと近付いたところ、男性は車を急発進させて逃走した。路地に追い詰められた男性は、車をパトカーに繰り返しぶつけて脱出を図ったため、巡査部長は約1メートルの距離から男性の右肩を狙って発砲。右脇腹に命中して男性は下半身不随となった。男性は公務執行妨害と覚せい剤取締法違反などの罪で起訴され、07年8月に東京高裁で懲役2年、執行猶予4年が確定した。

 訴訟で県側は、「発砲前に何度も警告しており、やむを得ない措置だった」と主張した。小林裁判官は、男性逮捕の必要性は認めたが、「拳銃で狙えた範囲は、男性の頭や胸などで、発砲には特に慎重であるべきだった。先に威嚇射撃を行う必要があった」と指摘した。

 同県警監察官室は「関係機関と協議して今後の対応を決める」とコメントした。

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痛いニュース(ノ∀`):「威嚇なしの発砲は違法」 パトカーに何度も車ぶつけた覚醒剤男に警官発砲、半身不随に→県に1150万賠償命令…横浜地裁
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2ちゃんねらー(「痛いニュース」)はまだしも、普段は人権問題にうるさいはずの(ほめ言葉です)はてな村住民まで一様に「トンデモ判決だ」「発砲は当然」「盗人猛々しい」と怒っている。なんでこうなるのだろうか?


はじめに断っておくと、私はアンチ警察でも銃器嫌いでもない。むしろその反対だ。
警察や警官が特に好きなわけじゃないけれど、世間なみ程度に信頼しているつもりだ。職務質問とか検問に出くわしたらいつも素直に対応している。気持に余裕があれば「ご苦労様です、がんばってください」とねぎらいの言葉もかける。
銃器についてははっきりと「好き」なほうだ。子供のころからGun誌やコンバットマガジンで無駄に知識を蓄え、「丸」や「航空ファン」「世界の傑作機」「戦車マガジン」などで軍事にも親しんでいる。つまり銃オタ初級、軍事オタ見習いである。決してイデオロギー的に警察批判・発砲批判をしたいわけじゃない。
警察批判でも発砲批判でもなければ何を言いたいのか。
「不十分な情報で善悪を決め付けて叩くのはやめましょう」ということだ。メディアリテラシー向上というか中庸の勧めというか。安易な決めつけとか煽ったり煽られたりするのが嫌いなのである。

「情報は十分じゃないか」「記事を読めば発砲の正当性に疑う余地がないとわかる」
と思う人もいるだろう。だが本当にそうだろうか?もう一度記事を引用する。
 判決によると、2004年8月25日夕、横須賀署の巡査部長らのパトカーが、横須賀市内に停車中の男性に職務質問しようと近付いたところ、男性は車を急発進させて逃走した。路地に追い詰められた男性は、車をパトカーに繰り返しぶつけて脱出を図ったため、巡査部長は約1メートルの距離から男性の右肩を狙って発砲。右脇腹に命中して男性は下半身不随となった。男性は公務執行妨害と覚せい剤取締法違反などの罪で起訴され、07年8月に東京高裁で懲役2年、執行猶予4年が確定した。

 訴訟で県側は、「発砲前に何度も警告しており、やむを得ない措置だった」と主張した。小林裁判官は、男性逮捕の必要性は認めたが、「拳銃で狙えた範囲は、男性の頭や胸などで、発砲には特に慎重であるべきだった。先に威嚇射撃を行う必要があった」と指摘した。


「トンデモ判決だ」と怒る人たちはたぶんこの記事からドラマや映画の派手なアクションシーンを想像しているのだと思う。古くは「西部警察」とか「ブリット」「ダーティーハリー」、最近でいえば、えーとなんだろう? …21世紀のドラマや映画はあまり見てないのでいい例を思い出せません。どうか読者のみなさまはご自分の記憶で補完してください(ごめんなさい)。
発砲にいたる状況を主に撃たれた側(原告男性)の視点で想像してみよう。

路地に追い詰められた凶悪な覚醒剤中毒者は手段を選ばず脱出を図る。まずは邪魔なパトカーを片付けなければ。
ギアをバックに叩き込み、20mほど後退して助走距離をとる(註1)。
警官が何か叫んでいるが気にすることはない、どうせマッポはゴミだ。
シフトレバーをドライブに叩き込みフルスロットル!
タイヤが白煙を上げ車は全力で加速する。激突!飛び散る火花と車のパーツ。
だが邪魔なパトカーは十分に動かず、脱出路は開けない。
舌打ちしてもういちどやりなおす。だがパトカーは動かない。もう一回。もう一回。
気がつくと警官が銃をふりかざしている。「車から降りろ、さもないと撃つぞ!」だって?
生意気な奴だ、今度はあいつを轢いてやろうか。撃てるものなら撃ってみろ、このチキン野郎め。
パトカーに向かって猛スピードで突き進む車。
衝突の0.5秒前、警官は狙い澄まして発砲し横っとびに犯人の車を避ける。
弾丸は犯人の脇腹に命中。アクセルから足が外れ、犯人の車はパトカーにぶつかって止まる。
痛みに泣きわめく犯人は車から引きずり出され、手錠をかけられる。

註1 車は路地の出口側を向き、フロントからパトカーに突っ込む形

…なんだか安っぽいけれど、とりあえずこれをシナリオAとする。特徴は「凶悪な犯人」「切迫した危険」「適切な判断による発砲」の三つ。
なるほど、これは凶悪だ。切迫した危険があり、射撃の前に十分に警告が行われ、相手もそれを理解している。これなら発砲するのが当然で、撃たなかったらむしろ問題だろう。
だがこれが唯一のシナリオではない。読売の記事からはまったく別の「シナリオB」を作ることができる。


気弱で臆病な男が覚醒剤の落とし穴にはまる。いつ捕まるかとびくびくして毎日を過ごす。
車を停車させていたら、パトカーがまっすぐ近づいてきた。
ヤバい!バレたか!?
頭の中が真っ白になる。すでに冷静な判断力のかけらもない。逃げなきゃ!
車を発進させたもののすぐに行き止まりの路地にはまり込んでしまう。なんてドジなんだ俺は。
路地の入り口はパトカーにふさがれている。どうしようどうしよう。パニック状態だ。
なんとかしてパトカーをどかそうと思い、助走距離をとろうとするが車の前には3mしかない(註2)。
これじゃだめだ。とりあえず何回かバックでパトカーに車をぶつけてみるが、アクセルをベタ踏みする元気もない。
おまわりさん、そこをどいてくれないか。俺はあんたを傷付ける気はない、ただ逃げたいだけなんだ。
気がつくとルームミラーに写る警官が俺を指差して叫んでいる。オーディオの音で何を言ってるのか聞きとれない。
「こいつはシャブ中だ!」と町中に言いふらしてるのか。ああ、頼むからやめてくれよ。
逃走をあきらめて車から降りようと思ったとたん、脇腹にバットで殴られたような痛みが走る。耳をつんざく轟音。
いったい何が起きたのかわからない。
まさか、いきなり撃たれるなんて!俺が何をしたっていうんだ。取り乱して逃げようとしただけじゃないか…

註2 車は路地に頭から突っ込み、パトカーにはバックでぶつかる形


シナリオBの特徴は「気弱な犯人」「切迫した危険が存在しない」「警官の判断ミス」。
このシナリオで犯人はそれほど凶暴性を示さない。火花が飛ぶ派手なアクションもない。いちばん大きな違いは、「犯人は警官の拳銃に気付いていない」「投降するつもりだったのに撃たれた」という点だ。
仮に(あくまでも仮に)横須賀の事件が「シナリオB」に近いものであった場合、これはどう見ても不適切な発砲と呼ぶしかない。発砲警告は通じていないし、切迫した危険はなかった。威嚇射撃をすれば「これ以上抵抗すると撃たれる」と気付いたかもしれないのにやってない。なによりも、投降するつもりの犯人を撃つのはとんでもないことだ。「威嚇射撃を行うべきだった」「不適切な発砲だ、弁償せよ」という判決が出て当然である。


もちろん、二つのシナリオは私が不十分な情報と足りない頭で想像したものにすぎない。A・Bのどちらも「これが事実だ」と言えるものではない。だが、「ひどい判決だ」と怒る人たちは私よりも事実について知っているのだろうか。正直言ってまったく信じられない。十中八九、私と同じように断片的な情報しか得ていないはずだ。違いがあるとしたら、私が「地裁判決にはそれなりの理由があるのだろう」「詳しい情報を知るまで叩くのは控えよう」と思い、暇にあかせて二種類のシナリオを考えたことくらいだ。本来なら誰でも出来ることである。
はっきり言うけれど、「警官が発砲した」=「犯人は撃たれて当然のことをしたに違いない」という決め付けはとてもバカっぽい。警官だって人の子なのだから、撃つか撃たないかという極限状況で判断ミスしても不思議はない。「撃つべきときに撃たなかった」ミスがあれば、当然「不適切な場面で撃ってしまう」ミスだってあるに決まってる。だがなぜか、2ちゃんねるなどで支配的な意見は「撃たなかった」ミスは批判(罵倒)するけれど「撃ってしまった」ミスには寛容、というか「不適切な発砲」の可能性について想像さえしないようだ。
彼らは警官の拳銃を草薙の剣やエクスカリバーみたいな「神秘的な正義の武器」だと思っているのだろうか。だとしたらとんでもないことだ。銃は単なる武器に過ぎない。銃を適切に使うのも、あるいは不適切な使い方をするのも人間しだい。そして人間は誰でも(もちろん警官も)時には判断ミスをするものである。


検索したらやや詳しい情報が見つかったので紹介する。

自販機荒らしに発砲、容疑者重傷 | Response.
事件当時の報道。事実は私の想像したシナリオA・Bとはよほど違うようだ(当たり前といえば当たり前)。

asahi.com(朝日新聞社):威嚇せず発砲は「違法」、県に賠償命令 横浜地裁 - 社会
 判決は、現場にいたのは原告ら4人のみで、「警察官等けん銃使用及び取扱い規範」が定める威嚇射撃を必要としない場合には当たらないと指摘。威嚇射撃は可能だったとして「発砲行為は適法な職務執行行為とはいえない」と結論付けた。

 一方で判決は、原告が信号無視を繰り返して逃走し、巡査部長の警告を無視していることなどから過失の9割は原告側にあると認定。医療費や逸失利益の合計額のうち、1割を県が賠償するのが相当とした。

警官発砲で半身不髄に損害賠償1154万円/横浜地裁 : ローカルニュース : ニュース : カナロコ -- 神奈川新聞
 判決は、武器の使用について定めた「警察官職務執行法七条」や威嚇射撃について定めた「警察官等けん銃使用及び取扱い規範」を踏まえた上で、「原告の抵抗を抑止する必要があったが、(現場では)けん銃で狙える場所が人体の枢要部に限られており、発砲については慎重にすべきだった」として、事前の威嚇射撃が必要だったと指摘。「撃つぞ、などと四、五回警告したのみで発砲しており、適法な職務執行行為とはいえない」とした。

威嚇なし発砲に賠償命令 被害者に後遺症、横浜地裁 - 47NEWS(よんななニュース)
 小林正裁判官は判決理由で「威嚇射撃で抵抗や逃走を断念させることは十分可能だった」と述べ、違法な職務執行だったと指摘。その上で、再三の警告を無視して逃げようとした男性側の過失も認めた。


トラックバック送付先
「警察側の主張は事実」という前提で言えば - ば○こう○ちの納得いかないコーナー

正確な 性格テストに 騒ぎすぎ(字余り)

2009年05月29日 | 日々思うことなど
■ 「世界で最も正確な性格テスト」

前の記事で空気を読まずネタにマジレスしたようでちょっと野暮だったかな、と思ったけれど、いやいや、やっぱり書いておいてよかった。
「世界で最も正確な性格テスト」でブログ検索すると順調に(?)広まっている様子だ。あんなに怪しいのに。
別に「インチキだ!ニセ科学だ!」と目くじら立てるつもりはないけれど、「なんだかなあ…」というのが正直なところ。
それにしても、どのブログも版で押したように(いや本当にそうなんだって!)同じフォーマットの記事ばかりなのが不思議だ。ロボットが自動的にブログ書いてるんじゃないかと疑うくらい。

 (1) ネタ紹介 「こんなの見つけました」
 (2) 元ネタ()からコピペ
 (3) 結果報告 「やってみたら○番でした」
 (4) 若干の感想 「当たってる気がします」「でも信用できるのかな?」
 (5) おしまい

…なんというかその、小学一年生の作文じゃないんだから。
「なつやすみのおもいで」という題で「うみにいきました。すいかわりをしました。たのしかったです。おしまい。」みたいな文章を大人が書いて楽しいのか。本人はそれで満足だとしても、読者はどうなんだ。いろいろと不思議である。せっかくインターネットで日本全国に、いや世界中に自分の言葉を発信するんだから、もうちょっと内容とか表現とか工夫したほうがいいんじゃないですか、と小声で控えめにご忠告申し上げたい。
とはいえ、これも程度の問題で、あまり「オレ思考」「わたくしの価値観」を山盛りにされても鬱陶しい。何事もほどのよさが大事。なんだか「犬が西向きゃ尾は東」みたいな当たり前の話でごめんなさい。

それはともかく、怪しさ99%の「世界で最も正確な性格テスト」がとりあえず素直に受け入れられる様子を見ると「日本人って素直だな」「やっぱりお人よしじゃないか」と思う。まあこれも「タダ」で簡単だからだろう。有料で面倒なインチキ心理テストならこんなに簡単には受け入れないはず …だと信じたい。「やってみました」記事を書いた人たちは「どうぶつ占い」とか「ガンダム占い」と同じようなノリで「世界で最も正確な性格テスト」を楽しんだ(そして翌日には忘れた)のだと思う。21世紀もお気楽ジャパン。

参考記事
下のURLにある「世界で最も正確な性格テスト」を誰が作ったのか教えてください。 「海外の科学者や心理学者らが共同で研究し、何年もかけて作り上げたもの」だそうなんです.. - 人力検索はてな


■ KSK問題(簡単に「騒ぎすぎ」と決め付ける弊害)

以前二回にわたってこだわった「騒ぎすぎ」問題。

 「騒ぎすぎ」の害
 もっと「騒ぎすぎ」の害

残念ながら「騒ぎすぎ」問題も「KSK」という言葉も(便利なのに…)広まらなくてちょっとがっかりしていたのだが、わが意を得たり!と膝を叩きたくなる記事があったのでご紹介。

新型インフルエンザは 「騒ぎすぎ」なのか?について分析的に考えてみる - 米野宏明(Hiroak - ZDNet Japan
各種ソースを総合してみると、「諸外国では冷静なのに日本では大騒ぎしているのはおかしい」 というのが基本論調のようです。まさにその騒ぎの最中にいる私たちにとっては、ニューヨークあたりの街頭インタビューで 「だれもマスクなんてしてないよ~」 とアメリカ人たちにバカにされると、ついうっかり 「騒ぎ過ぎなのかな」 なんて反省したりします。しかしこの基本論調をよく見ると、どこにも客観的判断基準がありません。

そうそう、そうなんだよ!よくぞ言ってくれました。
私の見るところKSK(簡単に「騒ぎすぎ」と決め付ける)的な主張のほとんどは米野氏の言うように「客観的判断基準」がなく、仮想の外国、あるいは実体のない「客観的で適切な基準」と比較して日本を(特定地方の住人を、政治家を、若者を、女性を…etc)バカにするものだ。
いや、別に誰をどんな理由で批判しようとバカにしようと勝手だが、バカにしているご本人の判断基準が綿菓子みたいにフワフワのアマアマなのでカッコ悪い。「あなたチャック開いてますよ」みたいな。まあ余計なお世話だけど。

…なんだかブーメランが飛んできそうな気がするのでこれでおしまい。

「5秒でわかる、世界で最も正確な性格テスト」…?

2009年05月27日 | 日々思うことなど
「ネタにマジレス」とか「シャレの分からない奴」みたいな話かもしれないけれど。
「5秒でわかる、世界で最も正確な性格テスト」は怪しい。

やってみよう、世界で最も正確な性格テスト 大紀元時報-日本
 【大紀元日本5月26日】自分の性格を知りたいという欲求は、だれにでもあるもの。てっとり早く自分を知りたい人は、ぜひ次のテストをお試しあれ。スピーディーで、かつ正確率も世界一高いといわれる有名なテストなのだ。

 やり方は、次の9枚の絵から自分が最も気に入った1枚を選ぶだけ。その時、なるべく自分の直感を信じ、5秒以内で選ぶのがコツ。あまり時間をかけ過ぎると、正確な結果が出なくなる。

 この9枚の写真は、海外の科学者や心理学者らが共同で研究し、何年もかけて作り上げたもの。世界中で何度も実験を繰り返し、図案の形や色を調整して、選び抜かれた写真だ。この9枚の写真が、9つの異なる性格を現している。

はてなブックマーク - 大紀元時報−日本: やってみよう、世界で最も正確な性格テスト

5秒でわかる、世界で最も正確な性格テスト:ザイーガ
はてなブックマーク - 5秒でわかる、世界で最も正確な性格テスト:ザイーガ

二つの記事をあわせて700以上のブックマークを集める人気ぶり。
だけど。でも。それにしても。やっぱりこれはどう見てもトンデモだ。
私は心理学を学んだこともなく、特に興味を持っているわけでもないが一般向けの本なら何冊か読んだ。その程度の私でも「9枚の画像から、直感を信じて、時間をあまりかけず、5秒以内で一番気に入ったものを選ぶだけ」と聞けば眉唾だとわかる。「水からの伝言」のトンデモ度を100とすれば「5秒でわかる、世界で最も正確な性格テスト」は60から80くらい。血液型性格診断といい勝負だ。お手軽なところも血液型性格診断とよく似ている。

とりあえず元ソースに当たろうと思って「大紀元」を眺めてみたけれど見つけられなかった。「心理」とか「性格」で検索してもダメ。まあいいや、どうせ中国語は分からないし。Googleで "personality test 9 picture" とか検索してもそれらしきものは発見できず。そりゃそうだろう(もうほとんどネタだと決め付けてる)。
だいたい、「海外の科学者や心理学者らが共同で研究し、何年もかけて作り上げたもの。」と称しておきながら具体的な名前を挙げないのはなぜなんだ。「そんな学者は実在しない」あるいは「トンデモ学者ばかりなので隠した」のどちらかだろうと疑うほかない。
この手のやりかたで人気記事を書こうと思えば簡単だ。「海外の科学者や心理学者らが共同で研究し、何年もかけて作り上げた最高のダイエット法」だとか、ギャンブル必勝法だとか、モテモテになる秘訣だとかいくらでも作れる。こんなヨタ記事を真に受ける人がいたらメディアリテラシーの初歩からやりなおしたほうがいい。

「性格テスト」を試したりブックマークしている人たちが単なるネタとして楽しんでいる(「ありえないけど面白い」)のか、ある程度信じているのかはわからない。ネタだと分かっている人が大部分だと思いたいけれど、今ひとつ信じられないというのが正直なところだ。
「みんなネタのつもりだろうと思っていたらマジだった」例としては、「神舟7号宇宙遊泳捏造説」とか「騒音おばさんの真実」がある。どちらも「事件の真相は実は~」式の話で、要するに陰謀論の類なのだが、真面目に信じている人が少なからずいるのには驚いてしまった。
「世界で最も正確な性格テスト」は陰謀論じゃないけれど、手軽に自分の(誰かの)性格を知りたいという欲望にこたえる安直さは似ている。「宇宙遊泳捏造説」は中国の、「騒音おばさんの真実」は創価学会の悪口を言いたい欲望にぴったりの陰謀論だから受けたのだ。

もしも「世界で最も正確な性格テスト」を信じる人がいたとして、その人は人間の性格が9枚の絵から一枚を選ぶだけでわかるほど単純だと思っているんだろうか。だとしたら、これまで何千年ものあいだ世界中の哲学者や宗教家、文学者と心理学者が「人間とは何なのか」探求してきたことは無駄だということになる。いや、無駄だとしたらそれはそれで面白いんだけど。まるで「人生、宇宙、すべての答え=42」みたいで痛快なナンセンスだ。
それはともかく、9枚の絵から一枚を選ぶテストで分かるのはせいぜい「そのときの気分」とか「好みの色」くらいだろう。「世界で最も正確な性格テスト」を名乗るのはいくらなんでも吹かしすぎだ。人間の性格がそんなに分かりやすいものだったら誰も苦労はしない。心理学はショルダーホンがワンセグケータイに進化するように便利でお手軽にはならない(残念ながら)。人間の心理は複雑だ。何十年生きても「自分の性格はこうだ」とすっきり分かっている人のほうが少ないくらいである。だからこそお手軽な性格診断(「5秒でわかる」「血液型」etc)が受けるのだ。



それならどんな性格テストが有効なのか。私がやってみて「これはある程度信用できそうだ」と思ったのはこちら。

カーシー博士の16タイプのこと - おーゆみこ 天使とサンバ!
タイプ別性格判断

30個ほどの質問に答えると16種類の性格に分類される。
質問の中にはイエス・ノーどちらを選んだらいいか迷うものが多く、これで本当に性格が分かるのかと不安になる。エイヤッと決めてとりあえず答を聞いても、納得できるようなそうでもないようなあいまいな感じ。私の場合はINTP、つまり「考えにふけってうわの空の大学教授を絵に描いたようなタイプ」だった。うわの空はともかく「大学教授」はないだろ、間違ってもインテリじゃないぞ俺は、と思って最初にやったときはあまり納得できなかった。
だが半年後、「そういえばあんなテストがあったっけ」と思いだしてもう一度やってみたら… やはりINTP。以前の選択を覚えていたわけでもなく、もちろんなぞったつもりもない。ほとんど思いつきで選んだのに同じタイプになるのは不思議だ。さらにその半年後にやったときもINTPだった。不思議だけれど、多くの質問に直感的に答えて同じ答になるのは自分の性格が原因なのだろうと納得する。
私の場合は半年ごとに三回やって同じ答だったけれど、他の人がどうなるかは保障できない。それでも「5秒でわかる、世界で最も正確な性格テスト」よりはよほど信頼できると思う。暇な人はどうかお試しあれ。

鳩山民主党人気に「あの人」を思い出す

2009年05月19日 | 政治・外交
新しい民主党代表に鳩山由紀夫氏が選ばれた。ご当選おめでとうございます。
マスコミ各社の世論調査によると、世論は鳩山新代表をおおむね好意的に受け入れているようだ。「次の選挙で民主党に投票する」と答えた人の割合がはね上がっている。民主党議員と支持者、政権交代論者のみなさんはさぞお喜びのことだろう。

毎日新聞世論調査:「首相に」鳩山氏34% 麻生氏21% 衆院選「民主勝利」56% - 毎日jp(毎日新聞)
 16日の民主党代表選で鳩山由紀夫氏が選出されたのを受け、毎日新聞は16、17日、緊急の全国世論調査を実施した。麻生太郎首相と鳩山氏のどちらが首相にふさわしいかを聞いたところ、鳩山氏との回答が34%で、麻生首相の21%を上回った。次の衆院選で勝ってほしい政党の質問では民主党が56%で、代表選前の12、13日に行った前回調査比11ポイント増となり、自民党の29%の2倍近くに達した。民主党は小沢一郎前代表の公設秘書逮捕で傷ついた党のイメージを小沢氏の辞任と代表選の実施によって回復させたといえそうだ。

asahi.com(朝日新聞社):「比例は民主」38%に回復 朝日新聞緊急世論調査 - 政治
鳩山氏「期待せず」53%、民主支持31%…読売世論調査 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
鳩山新代表「期待」「期待せず」拮抗 日経世論調査 - NIKKEI NET(日経ネット)
【産経・FNN合同世論調査】投票先で民主急伸 麻生支持率は微減 - MSN産経ニュース
J-CASTニュース : 代表交代で世論調査「民主支持」躍進 でも鳩山代表には「期待できない」

鳩山新代表と民主党にケチをつける気はないが、私にはどうも世論の動きが妙なものに見える。
代表選前の世論は「岡田氏支持」の声が多かった。たぶん3:2とか2:1くらいの割合で優勢だったと思う。それなのに鳩山氏が選出されるとたちまち支持が集まる。「なんだ、小沢氏じゃなければ誰でもよかったのか」と言いたくなる。「鳩山氏と民主党は期待されているな」というより「小沢氏と自民党はずいぶん嫌われたものだ」という感じがする。

半分ネタとして(つまり半分は本気なのだが)「鳩山民主党への支持拡大は小沢氏のがんばりのおかげ」説をとなえてみよう。
賢明なる日本人、心ある有権者のほとんどは自民党の終わりなき悪政にうんざりしている。ここはどうしても民主党に政権をとらせるしかない。ところが、代表の小沢氏は「国策捜査」の標的にされて秘書逮捕の汚名をかぶせられてしまった。小沢氏の潔白に疑いはないけれど、口下手のせいで説明責任を果たしているとはなかなか認めてもらえない。このまま選挙を迎えて民主党を素直に応援できるのか。「小沢総理」が実現していいのか。いやそれは困る。
政権交代したい、でも小沢氏は困る。小沢氏は困るけれど、やっぱり政権交代は必要だ。
約二ヶ月のあいだ小沢氏が辞任せずがんばり続け、休火山のマグマのように有権者がフラストレーションをためていく。
そこにようやく小沢氏が辞任し、天下晴れて鳩山新代表が誕生した。本当は岡田氏のほうが望ましかったけれど、もうそんな細かいことを言っている場合じゃない。とにかく小沢氏がやめてくれてよかった、これで心おきなく民主党を支持できる。
「鳩山氏を総理に!」。浅間山の水蒸気爆発。本当にマグマが噴き出す大爆発になるのかどうかはわからない。

要するに、「政権交代への期待」と「小沢氏では困る」というフラストレーションの反動が鳩山民主党支持率急上昇のエネルギーになったというお話。2001年の自民党総裁選を思い出す。不人気だった森氏の後任をめぐって小泉氏と橋本氏が争い、当初は劣勢だった小泉氏が世間の小泉ブームを追い風にして勝利した。その後の長期政権はみなさんご存知の通り。
だが似ているのは「前任者の不人気」だけで、「劣勢の見込みを逆転」とか「世論の追い風が勝利の原動力」という部分はまったく違う。鳩山氏の場合はむしろ橋本氏が勝った場合に似ている。最初からグループ(派閥)の票読みで優勢だったし、世論の風はむしろ岡田氏に吹いていたのに今は勝ち馬に乗る形で鳩山氏を後押ししている。不吉な言い方をすると、小泉ブームと違って自力で起こしてつかみ取った風じゃないから、いつパッタリやんでも不思議はない。鳩山氏と民主党にとってはこれからが勝負どころだ。

世論調査に表れた「鳩山民主党への期待」はフワフワしていて、2005年から2006年にかけて存在した「安倍次期総理への期待」に似ている。今となってはなんだか信じられないが、郵政選挙の後しばらくのあいだは小泉政権と構造改革路線が広く強い支持を集め、その流れの中で安倍氏が次期総理候補として期待の的になっていた。
私は「小泉ファン」を自称しているけれど小泉内閣と構造改革路線には是々非々のつもりだったから、郵政選挙後の第二次小泉ブームには取り残された感じがした。そのなかでも「安倍人気」は特に理解できなかった。どこがいいのかわからない、と言ってしまうと酷だが(人としては別に嫌いじゃない)、当時の安倍氏が総理大臣として適格かどうか大いに疑問だった。
安倍氏は(鳩山氏も)毛並みのいいお坊ちゃんである。祖父は総理大臣で、性格的には現実主義というより理想主義者だ。なにしろキャッチフレーズが「美しい国」(「友愛」)である。キラキラして結構な言葉だけれど、なんともつかみどころがない。はたしてこういう人が有力閣僚の経験もないまま総理になっていいのか、細川の殿様の二の舞にならなきゃいいが、と心配した。
国民の期待を一身に集めた安倍氏は「選挙に勝てる総裁」として小泉氏の後継者に選ばれ、意欲的に政権を運営した。
だが残念ながら、健康問題もあって一年という短期間で政権を投げ出すハメになる。在職中から安倍氏の評価は低落し、どうやら今では安倍内閣と70%ほどもあった高支持率の存在自体が忘れられたというか「なかったこと」にされている感がある。

安倍内閣の盛衰を見ていると、まことに世論とは、支持率とはうたかたのものだと思わずにいられない。
その点「支持率に一喜一憂しない」と言い続けた小泉元総理は正しかった。鳩山民主党が高支持率に浮かれていると安倍内閣の二の舞になりかねない(いや、別に安倍氏が浮かれていたとは思わないけれど。むしろ「浮世離れしていた」というほうが近い。そういえば、鳩山氏のあだ名は「宇宙人」で浮世離れ度では安倍氏に勝るとも劣らない)。
麻生総理も「支持率にこだわらない」と言っているが、なにしろ支持率自体が低いので「負け犬の何とやら」に聞こえてしまうのが玉にキズである。

解散になるのか、任期満了を待つのかはともかく9月までには必ず衆院選挙がある。政権交代を賭けて麻生自民と鳩山民主が全力で激突するだろう。どちらが勝つにしろ負けるにしろ、日本のため国民のために正々堂々と戦ってほしい。

ピースボートとか飲酒運転とか

2009年05月17日 | 日々思うことなど
どうも自分の怒りのツボが人とずれているような気がする。
世間では「どうでもいい」「なぜ怒るのかわからない」と言われるようなことにこだわったり、かと思えば普通の人たちが一生懸命怒っている問題の意味がちっともわからなかったり。こんなことだから「空気読めよ」とか「お前は変だ」と言われる。

まずはこのニュース。

ピースボート護衛受ける ソマリア沖 - MSN産経ニュース
 海賊対策のためアフリカ・ソマリア沖に展開中の海上自衛隊の護衛艦が、民間国際交流団体「ピースボート」の船旅の旅客船を護衛したことが13日、分かった。ピースボートは海賊対策での海自派遣に反対しており、主張とのギャップは議論を呼びそうだ。

はてなブックマーク - ピースボート護衛受ける ソマリア沖 - MSN産経ニュース

痛いニュース(ノ∀`):「海自派遣による海賊対策反対!…でも海賊から守って」 ピースボート、海自護衛艦に護衛依頼
はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`):「海自派遣による海賊対策反対!…でも海賊から守って」 ピースボート、海自護衛艦に護衛依頼

はてなブックマークでも2ちゃんねる(痛いニュース)でも「これはひどい」とか「ふざけんな」「恥知らず」とかピースボートに腹を立てている人が多いけれど、私にはどうしてもまじめに怒るような話とは思えないのだ。むしろほのぼの系の「いい話」ではないか、むしろ大いにほめるべきではないかとさえ思う。

実も蓋もない話だけれど、ピースボートみたいな日本の左翼・サヨク系平和運動ってもともと「そういう人たち」でしょう。たいへんご立派なことを言うけれど、ご本人は必ずしもご立派ではない。ピースボート(系の平和運動)を熱烈に支持し信頼する人が「裏切られた!」と怒るならまだわかるが、反対したりバカにしていた人たちが腹を立てるようなことだろうか。
そもそもピースボートが自衛隊の護衛を断ったとして、それが言行一致のご立派な行動なのか。私には無用な危険を冒すだけにしか思えない。そういうイキがったバカなまねこそ批判すべきだ。
仮にピースボートがご立派な主義主張を実践したらどうだろう。海賊と「平和的に話し合う」ため近づいて無事に済めば幸運で、おそらくは金品食料燃料を奪われたり、ひどいときには人質に取られてしまうこともありうる。どちらもたいへん迷惑だ。
勝手に近づいて勝手に襲われたんだから「自己責任」でしょ、と切り捨てられたら簡単だけれど、もちろんそうはいかない。人質事件を放置するのは人道的に許されないし、金品を奪われただけでも左のほうから日本政府に対して「自衛隊は何をしていた」「自衛隊派遣に効果がないことが証明された」などと言いがかりのような批判をあびせられるに決まっている。大騒ぎになれば喜ぶのはマスコミと野党だけで、無事な生活を望む一般人は「騒ぎすぎ」だと舌打ちすることになる。

そんな面倒なことにならなくて本当によかった。
あえて主義主張を曲げて(もともと筋金入りの主張などなかったのかもしれないけれど)自衛隊の護衛を受け入れ、無事にソマリア沖を通過したピースボートはまことに賢明である。「笑いものになる」よりも「身の安全」を選んだのは完全に正しい選択だ。逆に「笑いものになるくらいなら危ない橋でも渡ってやるぜ」とカッコつけるほうがよほど怖い。今回の件でピースボートを批判する人たちの中に「笑いものになるくらいなら~」的な発想が見られるのがどうも気になる。ソマリア沖の海賊ならそんなに影響はないが(平和ボケかな)、日本の近くで安全保障問題が起きたとき「身の安全よりも誇りを守る」のを賛美するような風潮が起きたらと思うとおっかない。
無事これ名馬、ご立派な理想論より現実的な身の安全である。ピースボートのみなさん、無事に危険地帯を通過できてよかった。そして、淡々と(あるいは熱心に)任務を果たし続けるソマリア沖派遣自衛隊部隊のみなさん、本当にご苦労さまです。

参考記事 ピースボートと自衛隊の平和な関係 ~カンボジアPKOの場合~ - リアリズムと麦ごはん



もうひとつのニュースはこちら。

「懲役20年」…目を真っ赤に、涙流す3児の父母(読売新聞) - Yahoo!ニュース
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J-CASTニュース : 「殺人でもこんなに重くない」 識者も驚く福岡ひき逃げ高裁判決
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「当然の判決」だとか「もっと厳しくてもいい」という意見が多く、被告人に強い怒りがぶつけられている。
罪のない子供が三人も死んだ非常に悲惨な事件なのだから、強い悲しみと怒りがわきあがるのは当然だ。それはわかるのだけれど、だからといって被告人を無差別殺人者のように憎んだり、他の事件とのバランスが取れないような重い判決を下すのはどうなんだろう、と思ってしまう。

特に根拠はないけれど、「飲酒運転」を絶対悪として憎むのは都会に住んでいる人が多いように思う。「ことさらに」運転するとき酒を飲むのは悪意の行動だと見られても仕方がない、という感じ。私は地方に住んでいるので、車の運転は日常、酒を飲むのも日常、という感覚だ。飲酒運転はもちろんたいへん危険でけしからんことだけれど、「ことさらに」という印象はない。単にだらしないだけに思える。そのあたりのギャップが厳罰論にいまひとつ納得できない理由のひとつだ。

私は日常的に運転するけれどもタバコは吸わない。だからタバコによる健康被害や火事などには腹が立つ。「運転しない都市住民」が飲酒運転者に厳しい目を向けるのと同じようなものだ。たぶん喫煙者は「そんなに目くじら立てなくても…」と思うのだろうけれど。
タバコによる健康被害は主に当人の問題として(受動喫煙とか保険料支出とか社会への負担も大きいけれど)、私が本当にひどい問題だと思うのは「タバコの火の不始末」だ。火事は怖い。交通事故ならまだ自衛もできるが、寝ているときに火事になったらどうしようもない。

横須賀市消防局「なくならないたばこ火災」(横須賀市消防局)
“たばこ”による火災は、全国的に出火原因の上位を占めています。当市においても、毎年、火災件数の10%以上を占め、常に火災原因の上位にランクされています。平成15年に健康増進法が施行され、喫煙者は減少しているようですが、残念ながら「たばこ火災」は減らない状況です。


なんてこった。これはひどい。
火災原因の10%がタバコの火の不始末というのは、タバコを吸わない私にはとても受け入れられないほどひどい話だ。世間で大いに批判され憎まれている(それも当然だが)飲酒運転よりも社会に害を及ぼしている。平成21年3月末の交通事故統計を見ると、実は飲酒運転が交通事故全体の中で占める割合は意外に低い。「平成20年中の交通事故の発生状況」(pdf)によれば、「原付以上運転者(第1当事者)の飲酒運転による交通事故は6,219件(構成率0.9%)」だという(p34 「飲酒有無別の状況と特徴」)。

タバコの火の不始末による火災は「毎年、火災件数の10%以上」(横浜市消防局)。
飲酒運転による交通事故は「構成率0.9%」で「顕著に減少し、10年前の3割」に低下している(警視庁)。
どちらのほうが本当に恐るべき問題かは明らかだと思う。

こんな悲惨な事件もあった。

「原因はタバコの火」 老人施設火災で理事長 - MSN産経ニュース
 群馬県渋川市の老人施設「たまゆら」の火災で、施設を運営する特定非営利活動法人「彩経会」の高桑五郎理事長は記者会見で、出火原因について、「タバコの火だと思う。職員が(入所者に)たばこを買い与えていた事実はある。不徹底だった」と説明した。

10人が死亡した大事件なのに、福岡の飲酒運転事故の後で起きたような「タバコ火災撲滅キャンペーン」が起きていないのはなぜなのだろう。被害者の一方が子供、一方が老人だからなのか。それにしてもバランスがとれてないんじゃないか。世間のみなさんは本当にこれでいいのか。
タバコを吸わない(そして日常的に車を運転する、酒も飲む)私には納得できないのである。

「寄生出産」という言葉について

2009年05月13日 | 代理出産問題
代理出産の本質とは「寄生出産」だと書いたことがある。

代理出産=「寄生出産」 - 玄倉川の岸辺
代理出産問題 - 玄倉川の岸辺

そのことについて、emiladamasさんのご意見をはてなブックマークで見た。

はてなブックマーク - kurokuragawa氏は切断処理なんかしないよ! - 解決不能
emiladamas 例えば代理出産の問題点を批判するために「寄生出産」という呼称を広めようとするのが、“人間として語りかけ彼らの良心と理性に訴えるのが正しいやり方”なのかしら。 2009/05/05

ちょうどいい機会なので、いま私が「代理出産」について思うことを書いてみる。

まず、私が「『寄生出産』という呼称を広めようと」しているというemiladamasさんの認識は誤解です。
いわゆる代理出産を「寄生出産」と呼んだのは、ネット上ではたぶん私が初めてだろう。寄生出産というショッキングな新語をタイトルにしてブログを書き、読者に読んでいただいた。「代理出産」をGoogleで検索すると1ページ目に表示される。ブログで記事にすることが宣伝行為だとすれば、なるほど「広めようと」したのかもしれない。
だが私自身はそうは思わない。このブログのアクセス数だかIPは4桁に届いたり届かなかったりで(最近確認していないけれど多分そんなところ)、影響力はミニコミ程度だ。私のブログごときで簡単に新語を広められるのであれば、広告屋さんが苦労することはない。私が「代理出産」記事を書くとき、冒頭で一度だけ「いわゆる代理出産を個人的には『寄生出産』と呼ぶ」と述べて、その後はカッコ付きの「代理出産」を使う。要するに自分自身でもほとんど使っていない。これで新語が広まるとは考えられない。
自分のブログを書くだけでなく、よそのブログや掲示板に出張して議論したり宣伝すれば「広めようとしている」と言われてもしかたないが、そういうことはしていない。覚えてないだけで実際は何度かやったかもしれないが、せいぜい5回かそこらだと思う。「代理出産反対論」のブロガーを集めたりあちこちにトラックバックを送ったりもしない。おおむねひっそりやっている。

事実として私は「『寄生出産』という呼称を広めようと」していないし、広まることを望んでもいない。
「望んでもいない」という点については少し説明が必要だろう。何かが広まる、というときにはたいてい

1 存在が知られるようになる、認知度が上がる
2 多くの人が実際に用いる

という二つの段階がある。
普通は第二段階までいかないと「広まった」と呼ばれない。たとえば「ハイブリッド車が広まる」といえば販売シェアが上がったり街でよく見かけることを意味する。「そういう車があると知っている」「CMを見た」というレベルでは広まったといえない。
多くの人が日常的に用いるという意味で「寄生出産」という言葉が広まることを決して望んでいない。むしろ「広まってくれるな」とさえ思う。私が懸念するのは、これまでいわゆる代理出産についてよく知らず、マスコミの情緒的な報道を鵜呑みにして「代理出産はいいことだ、認めるのが当然だ」と思っていた人たちが「寄生出産」という言葉を聞いただけで「なんだか気持悪い」と感じ、これまでの意見をひっくり返して「寄生出産叩き」にいそしむような現象だ。実際にそんなことが起きるとは思わないけれど、ありえないとは言いきれない。
私が望むのは、なるべく多くの人が代理出産についてマスコミ好みの「いい話」だけではなくネガティブな情報を知り、その上でじっくり考えてもらうことである。カードを裏返すように反対論に鞍替えしてほしくない。「寄生出産」というショッキングな言葉は「代理出産」をリアルな問題として考えるきっかけになれば十分だ。そういう言葉があると知るだけで十分で、使ってもらう必要はない。インパクトのある新語が広まると必ずレッテル貼りに使われ(「ニート」等)、考えを深めるのではなく便利なステロタイプにされてしまうからだ。

「寄生出産」という言葉が「人間として語りかけ彼らの良心と理性に訴える」ために使われているのかどうか、emiladamasは疑問に感じておられるようだ。私自身は、「代理出産」を望んだり実際に行った人たちを「人間性を失った」とか「同じ人類とは思えない」などと異物視するつもりはまったくない。
いまさら言うまでもなく、「代理出産」を望む思いそのものはたいへん人間的である。「自分の血のつながった子」にこだわる気持、最新の医療技術を利用する進取の気質、そしてなによりも、第三者の善意や社会システムに期待して「代理出産」を実現させようとする欲望と能力。いかにも現代人らしい。もちろん私は「代理出産」を望んだり容認する人たちは人間そのものだと信じている。いや、この言い方は「私がいるのは地球の上だと信じている」というのと同じくらい奇妙だ。「代理出産」を望むのは人間以外の何か(動物やロボット、神や悪魔)ではありえないのだから。
私が寄生出産という言葉を使って反対論を書くとき、「代理出産を望む意思がたとえ良いものだとしても(仮定)、実行されると社会的・道徳的問題が大きすぎてかえって不幸な女性を増やすだろう」と主張するとき、もちろん「代理出産」容認派の人間性を信じ、彼ら彼女らの理性と良心に訴えている。「代理出産」容認派が人間以下に成り下がっていると感じていれば罵倒で済ませるのかもしれないが、私はそんなことをするつもりはない。
だが、私の意図に反して「寄生出産」という言葉が人間性否定の道具、単なるレッテル貼りに使われる可能性は否定できない。だから私はこのいささかショッキングな言葉が「広まる」ことを望まないのである。



「代理出産」問題そのものについては、最近あまり何か言おうという気分にならなかった。気がつくともう半年ほど記事にしていない。
理由はいくつかある。

・ 言いたいことはだいたい言い尽くした

ネタ切れです。

・ そもそも自分に論じる資格があるのか

子供のいない独身男が「妊娠」「出産」についてどうこう言うのは不遜かもしれない。

・ 学術会議の答申が出た

これが一番大きい。
去年、日本学術会議が政府の求めに応じて専門家による議論を行い、「代理出産」をほとんど全面的に禁止すべきだという答申を出した。私はこれで「代理出産」論争に決着がついたと思う。というか、そう信じたい。
「代理出産」について法律で定める動きは現在のところ動いていないが、いつまでも棚ざらしにしておくわけにもいかないだろう。政府提出の法案は官僚が作るし、官僚はエスタブリッシュメント仲間である学会の顔をつぶすようなことはしないはずだ。基本的に学術会議の答申(原則禁止)に沿った法案になると期待している。
そうはいっても、何か「代理出産」のトピックをマスコミが肯定的に取り上げ、肯定論が盛り上がる可能性もある。そのときは議員立法で学術会議の答申を反故にした「容認」法案が作られるだろう。反対派としてはそうそう安心もできないが、「代理出産」に厳しい答申が出てからマスコミの論調もだんだん変わってきたように感じる。以前はそれこそ「代理出産を認めれば不幸な女性を救えるのになぜ認めないのか」「日本は遅れている」式に勇敢で乱暴な賛成論が目立ったが、学術会議の答申に倫理的・社会的・医学的な諸問題が明記されて「そんなにバラ色の技術じゃない」ことが(ようやく!)知られるようになったのだろう。インドでの独身男性による「代理出産」依頼事例や諏訪マタニティクリニックによる産婦人科学会の方針を無視する強行も考え直すきっかけになったはずだ。

最初に「寄生出産」という言葉が広まることを望まないと書いたが、これは「数年のうちに法律で禁止されるだろう」と楽観視しているから言えることなのかもしれない。仮に推進・容認論が法律化されそうな状況であれば、自分はどうしていただろう。レッテル貼りに使われることを覚悟の上で「寄生出産」という言葉を広めようとしていただろうか。それとも「自分にできることはやった」とあきらめたか。たぶんあきらめたと思うけど(根性なしなので)、実際どうだったかはわからない。

もっと「騒ぎすぎ」の害

2009年05月08日 | 日々思うことなど
「『騒ぎすぎ』の害」の続き。

前の記事では「『騒ぎすぎ』という言葉が簡単に、安直に使われすぎていないだろうか。」と書いたけれど、どうやってそれを防ぐのかについてアイデアはなかった。「『問題から目をそらしてないか、思考停止してないか』ちょっと疑ったほうがいい。」という一般的な注意でお茶を濁してしまった。なんだかくやしいのでがんばって「騒ぎすぎ」論への対抗策を考えてみる。

「騒ぎすぎ」と決め付ける便利さと心地よさは、「騒ぎすぎ」という言葉がほとんど万能で、語感もよく、誰にでもすぐわかることにある。
「ほとんど万能」については前にも書いた。

 小沢氏の秘書逮捕       「騒ぎすぎだ」
 北朝鮮ミサイル問題      「騒ぎすぎるのはよくない」
 定額給付金           「騒ぎすぎだろ」
 高速土日千円          「騒ぎすぎですね」
 草なぎ公然わいせつで逮捕 「どう考えても騒ぎすぎ」
 新型インフルエンザ      「ちょっと騒ぎすぎじゃないか」

ポン酢しょうゆのCMを見るとどんな料理にもポン酢をかけているが(たしかにおいしいけど)、万能調味料として世間の話題を「騒ぎすぎ」と断じるとそれなりに「おいしく」なる。この場合のおいしさとは、自分が辛口批評をして賢くなったような気分を意味する。

「語感のよさ」も大事だ。
清音と濁音がほどよくバランスをとっている。「さ」とさわやかに始まり「ぎ」と力強く終わる。言い終わった後にちょっぴり充実感が残る。「沢義杉」と書くとなんだか清酒のブランドみたいでもある。大吟醸生一本辛口の大量生産。

「誰にでもすぐわかる」のがとても重要である。
漢字の熟語ではなくやまとことばだから、耳で聞いたとき字を頭に浮かべなくても理解できる。仮に「騒動過多」だと「ソードーカタってなんだっけ?ああ、騒動過多のことか」と一瞬考えてしまう。これでは滑らかなコミュニケーションの妨げになる。

「騒ぎすぎ」という言葉には以上のような特長があり、なるほど、これは多くの人が愛用するのも当然だと納得してしまった。こんな便利な言葉をみだりに使わないようにと注文しても無理だ。あきらめよう。
…いや、これではいかん!あきらめたらそこで負けだ!がんばれ自分!

「騒ぎすぎ」の濫用を抑えるには、誰かが「騒ぎすぎ」と言ったとき、それに対抗できる強さを持った言葉を即座にぶつけるのが効果的だ。陽子に対する反陽子のような「反・騒ぎすぎ」粒子(単語)が求められる。残念ながら、スイスのCERN(欧州原子核研究機構)では今のところ「反・騒ぎすぎ」粒子は発見されていない。どうやら自然界には存在しないようだ。
「反・騒ぎすぎ」粒子は「騒ぎすぎじゃない」という打消しだと思う方がいるかもしれないが、そうではない。打消しでは10の力を5にするのがせいぜいだ。10にマイナス10をぶつけて初めてゼロになる。

味のわからない人が出来の悪い料理を食べて「これおいしいね」と言ったとする。それを否定するのに「いや、おいしくないよ」では弱い。そんなときなんと言うか。「これ、まずいよ」である。まずいものはおいしくないからまずいのだ。ああまずいまずい。
「あなた金持ちなんだから寄付してよ」をきっぱり否定するには「金持ちじゃない」ではなくて「いや、貧乏ですよ」と言わないとダメだ。強力な反対語は単なる打消しではなく、それ自体独立した言葉でなければならない。

頭を絞って「騒ぎすぎ」の反対語を考えてみたが、やっぱり見つからない。
「適切な対応」と言えば意味としては合っているようだが(そうかな?)一語じゃないので使いにくい。インパクトもない。「騒ぎすぎ!」に「いや、これは適切な対応でして…」と反論してもなんだか言い訳じみている。
「問題の過小評価」というのも思いついたがほとんど論外だ。「モンダイノカショーヒョーカ」って何だよ。こんなノンベンダラリとした言葉は「騒ぎすぎ」の敵ではない。朝青龍と幕下力士が対戦するようなもので、結果は目に見えている。怪我しないうちにさがれさがれ。

うまい言葉が見つからないので、自分ででっち上げることにした(なんと無茶な)。
最近はKYとかKYとかKYとか、あとKYとか、アルファベットの略語がはやっている。「騒ぎすぎ」のわかりやすさに対してアルファベットの意味不明をぶつけるのもアリかもしれない。なによりも安直に作れるのが便利だ。
5分間苦吟して(短かっ!)思いついたのが「KSK」という略語だ。まったく意味不明なところがすばらしい。暗号みたいで素敵だ。どんな意味なのか、もったいぶって説明しよう。KSKとは、

 K 簡単に
 S 「騒ぎすぎ」だと
 K 決め付ける

という意味なのである。どうです、びっくりしたでしょう!?
…あれ、おかしいな。拍手が聞こえてこない。まあいいや、気にせず話を進めよう。

KSKは「騒ぎすぎ」へのカウンターとして万能かつ手軽に使える。
 「騒ぎすぎじゃないか」「それこそKSKだよ」
まったくもって間然とするところがない。相手はぐうの音も出なくなる(はず)。

KSKは語感もいい。Kで始まりSを経由してKに戻る。首尾結構が整い、カ行とサ行の音がさわやかだ。KSK、けーえすけー、ケーエスケー。口の中で何度もつぶやいてみたくなる(のはたぶん私だけ)。

KSKは誰にでもすぐわかる。 …わけがない。ぜんぜんわからない。
だが、そこが「騒ぎすぎ」のわかりやすさに対抗する秘訣なのである。あまりにもわかりやすい言葉に対して暗号のような略語をぶつける。「何言ってるんだろうこの人は」という興味をかきたて、説明されて納得し、一粒で二度おいしい。謎めいた略語の意味を知ると自分でも使ってみたくなる。若者や芸能人がこぞって使い、マスコミが追従し、やがては「騒ぎすぎ」と安易に決め付けるより「それKSKだから」と再考を促すほうがクールになる。日本人は頭をよく使うようになり、知的生産性があがり、老人のボケ防止にも役立って万々歳だ。すばらしきかなKSK!

…という夢を見たんですがどうでしょうかダメですか。

鉄管ビール

2009年05月06日 | 日々思うことなど
玄倉川の中の人は言行不一致なのではなくて - 地を這う難破船

sk-44さんこんにちは。

原則として、私に言及(批判)してくださる記事であってもトラックバックを送ってこないものは「読ませたくないんだな」と判断して読まない・読んでも反応しないことにしています。ですが、難解で長々とした悪文(いつも誹謗中傷してすみません)のsk-44さんがどのように私を見ておられるのか気になってつい読んでしまいました。

…誰のことだろうこれは、と思いました。
正直言って半分ほどしか意味がわかりません。たぶん私の頭が悪いせいです。sk-44さんの文章自体は、以前読ませていただいたときよりずいぶん読みやすくなっていると感じました。
私は吉本隆明を読んだことはありません。直接的な影響を受けていないのは確かですが、私にとって吉本隆明が論外なのかどうかは見当もつきません。十代のころに読んで強い影響を受けたのは岸田秀です。「すべては幻想である」式のいきがりをずいぶんやりました。そのうちにむなしくなってやめました。

idiotape氏については、単に虫が好かなかっただけです。
彼の文章を読んだとき「カッコ付け野郎め」と罵倒したい気持ちと「普通にしていてもカッコ付けと見られてしまう人は気の毒だ」という思いがないまぜになって頭に血が上りました。いまでも嫌いなのでどこかで暮らしているはずの彼にエールを送るつもりはありません。呪詛として「せいぜい幸せになりやがれ」(奥さんと子供のために)と言います。
hashigotanが今どうしているのか私は知りません。できれば幸せでいてほしいと思います。呪詛は無しです。

私が「特定の左翼的な言説に対して批判的」と見られるのはよくわかりません。自分が嫌だ、おかしい、何か言わなければいけない(そして自分には「何か」言うことができる)と感じたときには左右も上下も関係なく批判しているつもりです。この「つもり」が嘘臭くて気に入らない人もいるようですが気にしません。ええ、気にしませんとも。

「過度に倫理的な人」という見立ては半分当たっています。正しくは「倫理的であるべきだという強迫観念にとらわれている」でしょうか。ある種の反動ですが、説明しません。なにしろわずらわしいので(楽しい話でもないし)。
あくまでも強迫観念なので、シンボルにこだわります。倫理的な大原則を確認できれば、実際の行いはある程度ルーズでかまわない。シンボルにこだわって失敗したのがhagakurekakugoさんとの間に起きたトラブルだと思っています。

sk-44さんの文章を読んで、なんだか救われたような   …と言うと大げさですが「風呂上りに一杯の水を飲んだような」気持ちがしました。あくまでも水であってビールやジュースではありません。苦味も甘みもアルコールもないところがとてもありがたい。sk-44さんのまねをしてカッコいい言い方をすれば「抑制された自意識、投影の排除」です。自分でも何言ってるかわかりません。
恩義を感じたのでこれからはsk-44さんの文章に対する「誹謗中傷」は自粛します。文章の内容については理解できた範囲で賛成したり批判したりさせてもらいます。ありがとうございました。

追伸 ・ 最後に私の文章がどうとか書いてあるのは蛇足です。嫌味でツヤ消しなので削除することをお勧めします。

MAXコーヒーの悲しみ

2009年05月06日 | 日々思うことなど
前の記事は変に思いつめすぎて読み返すとわれながら気持ち悪いので、今度はできるだけ気軽に書く(私にとっては決して気軽な問題じゃないけれど)。
私がhagakurekakugoさんに向けて書いた最初の記事は、「批判」や「見下し」ではなくいくつかの倫理的な問題を指摘して「それでいいんですか」と確認することを意図していた。本来の真意を箇条書きにすると、

・ 「死者への敬意」は結構だが、生きている人間のほうが大事ではないのか
・ 酷使様もネトウヨもサヨクも極左も、日本人も外国人も、男も女もトランスジェンダーも「人間」である
・ 「同じ人類と認めたくない」という言葉はカジュアルな人間性否定そのものであり、まさに酷使・ネトウヨ・反人権論者の鏡写し
・ hagakurekakugoさんは(そして彼の記事を支持した人たちは)本当にそれでいいのか?

私としては、hagakurekakugoさんは自分の言うことを理解してくれるだろう、簡単に同意は得られなくても「あなたの意見について考えてみる」といった返事をしてくれるだろう、と期待していた。今にして思えば、MAXコーヒーよりも甘かった。
「あなたの意見は間違っている、受け入れられない」と拒絶するのであればそれはそれでいい。「これでいいんだ、これが自分の信じる正義だ」と明らかにしてくれるならなおいい。だが、「玄倉川という人間はそもそも~」と私の過去の言動を持ち出して反論されると困る。いや、批判されるのはかまわないが、私がhagakurekakugoさんにたずねた事について答えをもらえないまま「そんなことを言うあなただって~」と言われると春なのになんだか悲しくなる。
私がどれほどいけすかない奴だとしても、私の人間性とhagakurekakugoさんの「同じ人類と認めたくない」という言葉の正当性は無関係のはずだ。私自身、hagakurekakugoさんの過去の言動や人間性を問題にしていない。あくまでも「同じ人類と認めたくない」という発想、表現が認められるべきなのかhagakurekakugoさんの考えを確認したかったのだが、残念ながら揉め事になってしまった。まことに人間同士のコミュニケーションは容易ではない。

返答 - 解決不能

hagakurekakugoさんから「返答」を頂いたけれど、それは私が期待したものとは違っていた。
もちろんそのことでhagakurekakugoさんを責めたりはしない。これまで交流のない人にいきなり失礼な指摘をして、思い通りの返答が得られると期待した私こそ虫が良すぎる。むしろ自分の甘さ、思い上がり、コミュニケーション能力欠如に気付かせてくれたhagakurekakugoさんに感謝すべきなのだろう。ここでまた私はジレンマに突き当たる。「対話してくれたことに感謝する」のが正しい行いだと知っているが、実際にそうするつもりはない。凡人の私にとって知ること・言うこと・実行することを統合するのはかくも難しい。