玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

田母神氏の守りたかったもの

2008年12月30日 | 日々思うことなど
田母神前航空幕僚長が著書を出したり年末の特別番組に出演したりしていまだに気を吐いている。いや、怪気炎をあげているというべきか。
田母神氏の言うことははっきりいって無邪気で空想的で浮世ばなれした右翼的ホラ話でしかなく、とうてい評価に値するものではないのだが、「愛国的」であるという一点のみで喜ぶ人もいる。「田母神」でブログ検索すると支持し応援する記事ばかりヒットするので頭が痛い。
田母神氏と支持者のレベルは左側で言えば「福島瑞穂氏が『九条を守れ!』と叫びファンが『そうだそうだ、いいこと言った!』とレスポンスする」ようなものだ。「護憲論はけっこうだが、なにも福島氏をカリスマ扱いしなくてもいいのに… そんなことだと護憲派全体がアホみたいに見られるぞ」と思うのだが、その構図が田母神氏と支持者の関係では鏡写しになっている。田母神氏も福島氏も子供にもわかるような(というか子供だましの)単純で幼稚なことばかり言うので、何も考えずとにかく「国を愛したい」とか「平和を守りたい」と思う人たちには受けがいいのだろう。

こんな状況に呆れたのか危機感を覚えたのか、JSF氏と雪斎先生がともに田母神批判の記事を書いている。

「99%の支持」・・・とうとう根拠ゼロの田母神前空幕長 : 週刊オブイェクト
核兵器シェアリングという幻想 : 週刊オブイェクト
核兵器シェアリングという覚悟 : 週刊オブイェクト

雪斎の随想録: 武官の領分
雪斎の随想録: 安全保障を語る理由

一々うなずくことばかりで、いまさら私が付け加えることは何もないのだが、テレビではしゃいでいる田母神氏を見ると(出演番組は見ていないので正しくは書き起こしテキストを読むと)もやもやして一言言いたくなる。
関係ないが年末番組では東国原宮崎県知事もあちこちに出まくっている。宮崎県民はどう思っているか知らないが、私は「またか」「もううんざり」でかえって宮崎県の印象が悪くなった。田母神氏と東国原知事の共通点は「自分は面白いんだ」「いい事言っている」という妙な自信と勘違いぶりだ。

世間で田母神批判というと「歴史認識」自体が問題にされることが多い。どうもそういう批判は神学論争になりやすく筋が悪いように思う。私は右翼・左翼両方が「歴史認識」で大騒ぎすること自体よくわからない。「歴史認識なんてどうでもいい」とは言わないが、第一の問題とは思えない。
私が一番気になるのは、田母神氏と支持者が歴史認識と国防を一緒くたに論じたがることだ。あたかも「正しい歴史認識なくして国防なし」とでもいうように。まったく冗談じゃない。歴史認識などという観念論に国の守りが左右されてどうする。逆に言えば、「左翼的な歴史認識では国防ができない(それが当たり前)」ということになってしまう。まったくアホみたいな話である。
純真素朴な自衛隊員(年若い士や曹、下級幹部)が世間の「歴史認識」をめぐるゴタゴタに影響を受けてしまうのはわからなくもない。だが、田母神氏のような高級幹部は「雑音に惑わされて士気を下げるな、歴史認識問題など気にせず任務に励め」と指導する立場である。それを航空幕僚長自ら隊員の心得違いを先導・扇動するようでは、まったくどうしようもない。

田母神氏の個人的な歴史認識それ自体はどうでもいいのだが、それを国防と結び付けようとするといろいろ問題が起きる。
 田母神氏「はい。日本の国をですね、やっぱりわれわれがいい国だと思わなければですね、頑張る気になれませんね。悪い国だ悪い国だと言ったんでは自衛隊の人もどんどん崩れますし、そういうきちっとした国家観、歴史観なりをですね、持たせなければ国は守れない、と思いまして私がこの講座を設けました」

【田母神氏招致・詳報】(9)「国家観なければ国は守れない」 (4/4ページ) - MSN産経ニュース

田母神氏のいう「日本の国」は大日本帝国を意味する。彼が「戦後日本はいい国だ」と言ったのを聞いたことはないが、戦前・戦時中の日本を正当化することばかり熱心なところをみるとそう考えるほかない。だが、大日本帝国陸海軍と自衛隊は根本的な考え方(軍事ドクトリン)から違っており、大日本帝国を正当化するとその分だけ自衛隊を否定することになる。そのことに田母神氏は気付いていないか、まったく無頓着だ。航空自衛隊のトップとは信じられないほど無責任な態度に呆れるほかない。

いうまでもなく、戦後日本の基本的国防方針は「専守防衛」である。それに対して、大日本帝国陸海軍は「相手の土俵で戦う」ことを常としていた。
明治政府は日本を守るために朝鮮を抑えようとし、そのために清国と戦いロシアと戦った。日清・日露戦争で日本国内が戦場となることはなく、朝鮮や中国東北部(満洲)で日本軍は戦った。第一次大戦ではドイツ植民地だった山東半島や南洋諸島に進出し、ロシア帝国が倒れソ連が出現するとシベリアに出兵し、対ソ最前線の満洲に関東軍を置く。中華民国が「日本の生命線」満洲に(当時の日本の視点で)不当にちょっかいを出してくると満州国を独立させ、やがて「暴支膺懲」のため北支出兵を行い、上海で戦い、南京を攻略し、気がつくと日中戦争の果てしない泥沼にはまりこみ、米英との関係が悪化してドイツと同盟を結び、アメリカから石油禁輸を食らって「このままジリ貧になるよりドカ貧覚悟で大勝負」とばかりに真珠湾を奇襲し、東南アジアを席巻して占領し、最初のうちはよかったもののミッドウェイ・ガダルカナル以降はズタボロに負け続け、マリアナ沖海戦とレイテ海戦で連合艦隊は実質的戦力を失い、フィリピンや沖縄、硫黄島では悲惨な地上戦が相次ぎ、サイパンから米軍がB-29を飛ばして日本中が爆撃され、原爆投下の憂き目にあいソ連が参戦するに及んで、ついにポツダム宣言を受け入れ無条件降伏し大日本帝国の軍事的栄光は露と消えはてた。

「相手の土俵で戦う」大日本帝国陸海軍と「専守防衛」の自衛隊とはほとんど水と油である。
航空自衛隊のトップである田母神氏が大日本帝国について「いい国だと思わなければですね、頑張る気になれません」「悪い国だ悪い国だと言ったんでは自衛隊の人もどんどん崩れます」と言うのは、「専守防衛なんて知ったことじゃない、俺たちは勝手にやりたいんだ」というようなものだ。これではシビリアンコントロールも何もあったものではない。民主国家の「軍人」は国民と政治家が決めた基本戦略の範囲で戦術を研究し訓練に励むもので、どうしても国の基本方針に口出ししたければ制服を脱いで行うのがけじめだ。
三十年前の栗栖発言とはまったく違う。栗栖発言は「自衛隊は政府と法律に従う」ことを前提に、有事には政府の命令と法律が矛盾し、防衛出動命令に従うと必然的に超法規的行動をせざるを得なくなると指摘したものだ。兵器や人員が足りなければ戦えないのと同じく、有事法制がなければまともに国防の任務が果たせないないというのは当然のことである。
だが田母神氏の大日本帝国肯定論には栗栖発言のような切実さ、必然性がない。個人的ロマンチシズムと任務をごちゃまぜにした甘ったれた考えだ。おそらく田母神氏自身はそれほど深い意図はないのだろうが(そう願いたい)、「軍人」が大日本帝国を賛美することは戦前の軍事ドクトリン復活を望んでいると思われても仕方ない。大日本帝国肯定の歴史認識を自衛隊の士気と結びつけるのは「専守防衛を撤廃しろ、さもなければ自衛隊はサボタージュする」という脅迫に等しい。軍人が国の基本方針に口出しすること自体とんでもないが、サボタージュをちらつかせるなど言語道断だ。

田母神氏が個人の趣味として歴史を研究し、あくまでも個人的思想として大日本帝国を肯定するのであればそれこそ思想信条の自由である。「論文」は肩書きなしのペンネームで出せばよかったのだ。
だが田母神氏と「論文」主催者は航空幕僚長の肩書きにこだわった。肩書きがなければあの「論文」には何の価値もないし、肩書きを政治的に利用する思惑があったのは間違いない。そのくせ問題となり大臣に辞表提出を求められても従わない。実にわがまま勝手でふざけた態度である。こんな人をもてはやす「保守」「右翼」の人たちはいったい何を考えているのか。

田母神応援団の考えていることはわからないが、田母神氏が大日本帝国賛美に傾斜した理由はなんとなく想像がつく。私は彼が「高射科」出身、つまり敵飛行機を迎撃する地対空ミサイルや対空砲の運用を任務としていたことが大日本帝国コンプレックスの元になったと思う。
日本の高射部隊には華やかな勝利の記録がない。ない、といってしまうと高射部隊の方々には申し訳ないが、航空部隊の「零戦無敵神話」、艦艇の「日本海海戦」陸上部隊の「奉天会戦」といった自慢になるような大勝利の歴史がないのである。逆に日本中がB-29に爆撃され大都市が焦土と化したこと、特に原爆投下はいまだに日本国民のトラウマとなっている。日本本土では地上戦が行われなかったから、多くの国民にとっては「戦争体験=空襲被害」であり、高射部隊の活躍よりも不甲斐なさのほうが印象付けられている。
同じく大規模な戦略爆撃を受けたドイツと比較すると、日本の高射部隊の戦果は大いに見劣りするといわざるを得ない。ドイツはかの有名な88mm砲を大量に配備し、アメリカ軍のB-17やイギリス軍ランカスターの乗員を大いに恐れさせた。ドイツの高射砲は迎撃戦闘機とともに多くの連合国爆撃機を撃墜している。
だが日本のB-29迎撃は充分な戦果を上げたとはいえない。もちろん高射砲の射手や戦闘機パイロットは敢然と義務を果たしたのだが、残念ながら兵器の質が劣っていた。

八八式7.5cm野戦高射砲 - Wikipedia
耐久性が低いため都市防空など連続射撃を必要とする戦闘では駐退機が破損してしまうことが多かった。また、一万メートル近くの高々度を飛来するB-29などには、有効射高そのものの低さ、及び曳火式時限信管の誤差[1]から効果が薄かった。


日本の兵器はドイツより劣り、B-29はB-17よりずっと性能が優れているのだから、高射部隊の戦果が乏しいのは仕方ない。だが田母神氏のようにおっちょこちょいでプライドの高い人にとっては悔しくてならなかったのだろう。
その悔しさを任務遂行のバネにしてくれたら何も問題はないのだが、田母神氏は「太平洋戦争における高射部隊の不甲斐なさ」を「大日本帝国は立派だった」というロマンチシズムで補償しようとした。「自分は勉強が苦手だったけれど、自分の母校は名門だ」と自慢するようなものだ。
それも個人の心のうちに収めておけばいいのだが、田母神氏は「(大日本帝国が)いい国だと思わなければですね、頑張る気になれません」「悪い国だ悪い国だと言ったんでは自衛隊の人もどんどん崩れます」と公言し、自衛隊の教育に大日本帝国肯定論を持ち込もうとした。まったく迷惑な話である。はっきり言って、国防の実務と歴史認識はまったく関係がない。自衛隊が守るのは現在の(未来の)日本であり、大日本帝国の亡霊ではない。

「やっぱり」を斬る!

2008年12月25日 | 日々思うことなど
やっぱりさー、「やっぱり」を多用するとてきめんに文章や会話が押し付けがましく不快になるんだよね、やっぱり。
「やっぱり」を多用すると文章が押し付けがましくなる。大事なことなので二度言いました。

「やっぱり」っていうのはつまり、「誰が見ても・考えてもこうだ」とか「これが普通の・自然な考え方だ」という無意識の自信というか、確認と共感を求める、みたいな押し付けがましさがあるんだよね、やっぱり。「みんなと同じ」「普通で当たり前」であることを無邪気に喜ぶといういかにも日本人的な(こういう言い方っていやらしいよね、やっぱり)感覚が生ぬるくて気持ち悪い。「俺はお前の友達でも仲間でもないぞ」とそっぽを向きたくなる。
たとえばニュースキャスターのしたり顔の批判にうんうんとうなずいて「やっぱり麻生総理ってダメだよね」などと言われるとげんなりする、やっぱり。何がやっぱりだ、お前は自分の頭で考えるということをしてるのか、ただ馴れ合いたいだけじゃないのか、と怒りたくなるのだ、やっぱり。

「やっぱり」の適切な使い方というのは「以前から思っていたけれどはっきりしなかったことが、事実によってようやく証明された」というような場合。「あの店、しばらく前から味が落ちたと思ったら料理人が変わったんだって」「ああ、やっぱりね」とか。
これまで自分が思ってきたことを否定されて、改めて確認してみたら自分のほうが正しかった、という場合もある。たとえば「あそこの店、味が落ちたみたいだよ」と聞かされて実際に食べてみたら以前と変わらずおいしかった。そんなときに「ああ、やっぱりおいしい」とつぶやくのは人として自然だと思う、やっぱり。

「人として」というのも「やっぱり」と同じくあつかましくて押し付けがましい感じがする、やっぱり。
「やっぱり」は何の気なしに使われるけれど、「人として」は人類の普遍的な感性や思考法、はては道徳まで勝手に代弁しているようで大げさすぎる。もっとも、たいていの場合「人として」は「われこそは人類代表なり、人に物申すらん」(なぜか古語)といった大げさなものではなく「あなたも人間、私も人間、『人として』同じ感覚を持ってるよね」という程度のことなのだろうけれど。

「やっぱり」の多用は共感の押し付けで鬱陶しいが、その逆もやっぱり不快だ。
ブログのタイトルなんかでよく「直言」「毒舌」「~を斬る」みたいなのがありますよね。ああいうのはたいてい陳腐なステロタイプで面白くない。直言という割にはふにゃふにゃで、毒舌のくせに誰かの引き写しで、斬ると称しながら大根も切れないようなナマクラだったりする。「俺様独自のありがたい意見を聞かせてやる」と威張られても「お前さんはお友達と『やっぱり』『やっぱりねー』と馴れ合うほうがお似合いだよ」と言いたくなるのだ、やっぱり。
だいたい普通の人間がいつもいつも個性的な意見など言えるはずがないのである、やっぱり。本当に変わった人なら自然に面白いことを言うだろうが、そういう人はたいてい自分が変わっていると思ってない。自分では当たり前のこと、人として自然な意見だと思うことがびっくりされたり顰蹙を買ってはじめて「ああ、ちょっとズレてたのかな」と思う。あるいはぜんぜん気付かない。
普通の人が世間様に逆らうような「直言」「毒舌」を言いたければ言えばいいし、面白ければもちろん歓迎する。だが自分から毒舌と名乗られるとなんだか言い訳がましく、あるいは誇大広告のようで興ざめなのだ、やっぱり。直言したり毒舌をふるったり悪を斬るのはサラリとやるほうが格好いい。

「やっぱり」の多用は鬱陶しい。「毒舌」を自称するのはみっともない。
「やっぱり」の多用は鬱陶しい。「毒舌」を自称するのはみっともない。
やっぱり大事なことなので二度言いました。




ホンダ後のF1、F1後のホンダ

2008年12月14日 | 日々思うことなど
すっかり時機を逸してしまったけれど、ホンダのF1撤退について。

一週間前ニュースを聞いたとき、「しかたない」「残念だ」というよりも「正しい決断だ」「ズルズル引き伸ばさずスパッと決めてよかった」というすっきりした印象で受け止めた。いまでもその気持は変わらない。

私はこれでも長年のF1ファンでありホンダ好きである。
1976年にフジスピードウェイで行われた第一回「F1世界選手権・イン・ジャパン」をテレビで見たし、タミヤが「タイレル六輪車」をプラモ化したときは大喜びして買った。そして大人になってから所有した車やバイクの多くには「HONDA」のエンブレムが付いている。
そんなF1ファンかつホンダ好きの目から見て、ホンダの第三期F1活動には失望することのほうが多かった。
98年に「フルワークスでのF1参戦」を宣言したときは大いに期待した。やがて姿を現した真っ白いRA099はテストで驚くほどの速さを見せてくれた。だが、社内で参戦方針をめぐってゴタゴタが起き、結局ハーベイ(ポスルスウェイト)さんを切り捨てて「エンジンのみ供給」の方針に後退する。失意のハーベイさんが急死してしまったこともあり、ホンダF1の第三期は最初からイヤな感じで始まった。

その後の成績も一向にパッとしなかった。
新興チームのBARと組んだのはいいとして、同時期に参戦したBMW(ウィリアムズ)との成績の差は歴然としていた。ドライバーを代え、チームマネージャーを代え、車のデザイナーを変えても「たまに入賞するのが精いっぱい」という速さの不足はちっとも改善されない。
ジェンソン・バトンと佐藤琢磨をドライバーに迎えた2004年にようやく成果が現れ、琢磨はアメリカGPで表彰台に上り、チームはコンストラクターズランキングで2位となった。ようやくこれから「強いホンダ」の活躍が見られると期待したがぬか喜びだった。
その後の迷走と没落は書くまでもない。今年はついにトロロッソ(昔のミナルディ)以下の成績に落ち込んだ。F1ファンにもホンダ好きにも愛想をつかされるのは無理もない。一説によるとトヨタと並んでF1でもっとも資金量の豊富なチームだそうで、あまりの無駄遣いに笑うことさえできない。昨今の世界的経済状況を思えば撤退以外の選択はありえなかった。

大昔から見てきたF1ファンとして、最近、特に21世紀になってからF1の状況に異常なものを感じていた。
メーカーチームがあまりにも金を使いすぎた。ザウバー(現BMWザウバー)のスポンサーだったレッドブルが「豪華な」モーターホームを持ち込んで驚かれたころがなつかしい。今ではあの程度のモーターホームは貧乏臭いと言われるだけだ。
90年代のハイテク競争(アクティブサス・フルAT)には夢もあったが、最近の「ハイテク規制のなかで数百万ドルをつぎ込んで0.1秒を削る」マシン開発は空しい。特にここ数年のF1マシンはそこらじゅうに空力付加物が生えまくっていて醜い。なんとかグロテスクなカッコよさを見つけてきたが、ノーズ上面に生えた触角状のウィングですべて台無しだ。ホンダの触角はF1でいちばん醜く、成績の悲惨さとあいまって見ることさえ不愉快だった。あんな車に乗せられたバトンとバリチェロが気の毒だ。

マシンに地球の絵を描く「アースドリーム」コンセプトについても悪口を書こうと思ったが空しいのでやめにする。本当になんだったんだろうあれは。07年の後半、「応援してくれた人たちの名前」を細かく書き込んだデザインは泡沫チームのコローニを思い出させた。成績もコローニに毛が生えた程度なのでお似合いといえば言える。

F1ファンもホンダ好きも続けるつもりだが、湯水のように資金を浪費して最後尾近くを走る「ホンダF1」はもう見たくなかった。撤退のニュースを聞いてがっかりするよりむしろほっとした。これ以上空しい応援をしてストレスをためたら健康に悪い。
F1が「古きよきDFV時代」に戻るならそれでけっこうである。巨大メーカーの無駄遣いを見せられるより、レース屋さんたちが汗水たらし頭を絞るのを見たい。ホンダのほうはもっと大変そうだけれどがんばってほしい。F1休止ではなく「撤退」とすっぱり思い切ったのだから、気持を切り替えてべつの夢を実現してほしい。来年発表される新型インサイトにはとても期待している。

がんばれF1、負けるなホンダ。そして佐藤琢磨がF1に復帰できますように。

第二次世界大戦はいつ始まったか

2008年12月11日 | 日々思うことなど
「1941年12月に第2次世界大戦が真珠湾攻撃で始まった」という見方は別に間違っていない。
麻生総理を無知だと批判している人たちのほうが歴史を知らない。

漢字に続き…麻生、今度は「歴史も知らない」疑惑:ZAKZAK
第2次大戦が真珠湾攻撃で!?

 「未曾有(みぞう)」を『みぞゆう』、「怪我(けが)」を『かいが』といった漢字の読み間違いで国民の失笑を買っている麻生太郎首相に、今度は「歴史も知らない」疑惑が浮上した。これで自民党文教族の幹部というのだから…。

 先に配信された首相の動画マガジン「太郎ちゃんねる」の第10回で、首相は「1941年12月に第2次世界大戦が真珠湾攻撃で始まるんですけど、10年後に日米安全保障条約なんて想像した人は、たぶんあのとき1人もいない」と発言した。

 しかし、教科書出版大手の山川出版社の用語集では世界史、日本史ともに「第2次世界大戦」は、1939年9月1日にナチスドイツがポーランドを侵攻したことに始まったとされている。別の小中学生向けの参考書でも同様で、首相の話は、大戦の一局面である「太平洋戦争」の解説になっている。

 首相の祖父、吉田茂元首相は戦後日本の復興を軌道に乗せた大人物だが、首相は国語に続いて社会科でもボロを出してしまった。自民党内からは「揚げ足取りにも聞こえるが、簡略化しすぎて正確でないことは確かだ。官邸内にチェックするスタッフはいないのか」(中堅議員)とため息も聞こえてくる。

「教科書に書かれているのはこうだ」というレベルで批判するなら「第二次世界大戦の始まりは1939年9月ドイツのポーランド侵攻」「だから麻生総理は間違っている」と言うのは正しい。だが、少し物事を考えるとそれほど単純でないことがわかる。

第二次世界大戦 - Wikipedia

1939年9月にドイツがポーランドを侵略し、ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスが対独宣戦布告した。この時点で考えれば、始まった戦争はあくまでも「欧州大戦」であって「世界大戦」と呼ばれるほどの広がりはない。ポーランド侵攻が「第二次世界大戦の始まり」とされるのは後世からみた後知恵である。
欧州大戦の戦域はほぼヨーロッパ大陸に限定されている。大西洋と地中海、北アフリカでも戦闘が行われたが、あくまでもヨーロッパの周縁部だ。40年6月に独ソ戦が始まり戦域は大幅に拡大したが、ウラル山脈を越えることはなかったのでやはりヨーロッパの内である(「ヨーロッパ (蘭:Europa, 英:Europe) は、ユーラシア大陸のウラル山脈より西側(ヨーロッパ大陸)およびその周辺の島嶼・海域を含む地域の総称で、六大州の一つ。」ヨーロッパ - Wikipedia)。

それなら欧州大戦が本当の意味で「世界大戦」となったのはいつかというと、麻生総理のいうとおり41年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃といってよい。より正確に言うとアメリカの対日宣戦布告(真珠湾攻撃の翌日)と、それを受けてドイツとイタリアが対米宣戦布告をした日(12月11日)なのだが、真珠湾攻撃とひとつながりなので「真珠湾攻撃によって第二次世界大戦が始まった、欧州大戦が本当の意味で世界大戦となった」と言ってもまちがいではない。

もちろん真珠湾攻撃以前に日本は中国で戦争をしていた。
だが、日中戦争は「欧州大戦」とは直接の関係を持たない別々の戦いである。日本の同盟国であるドイツとイタリアも日中戦争を支援することはなかった。というのも、当時の日本と中華民国は不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)違反とされることを嫌って宣戦布告せず、日本では支那事変と呼称し「戦争ではない」というタテマエだったからである。また、そもそも日独伊三国同盟はアメリカの参戦を牽制するのが目的であり、日本が欧州大戦に関わる義務がなかったように、独伊にも日中戦争を支援する義務はなかった。欧州大戦と真珠湾以前の日中戦争はそれぞれ個別の戦いであり、いっしょくたにして世界大戦と呼ぶのは本当は正しくない。
太平洋戦争が始まった後で蒋介石は対日宣戦布告し、中華民国は連合国の一員となった。そのときはじめて日中戦争が第二次大戦の一部となったのである。

ついでに第一次世界大戦のことも言っておこう。
仮にあの戦争がヨーロッパだけで行われていたらそれは欧州大戦であり世界大戦とは呼ばれなかっただろう。実際に欧州大戦という言葉が別称として使われている(「第二次世界大戦が勃発する以前は大戦争(The Great War)、諸国民の戦争(War of the Nations)、欧州大戦(War in Europe)とも呼ばれる。」第一次世界大戦 - Wikipedia)
ドイツの植民地(アフリカ・アジア)や中東で戦闘が行われたからこそ「世界大戦」なのだ。日本も連合国の一員として参戦し、ドイツが租借していた青島(山東省)を攻撃したり南洋諸島を攻略したりしている。日本が山東省のドイツ権益を引き継いだことで中華民国に恨まれ、やがて日中戦争の泥沼につながっていく。

欧州戦争を第二次「世界大戦」にした立役者はなんといっても日本とアメリカである。
一口に太平洋戦争と呼ばれるが、その戦域はまさに地球規模で広がっている。北はアリューシャンから南はガダルカナル(ニューギニアの先)、東はハワイから(日本の潜水艦が西海岸を攻撃したこともある)西はインド洋まで。太平洋戦争ほど広い範囲で行われた戦いはそれまでなかったし、これからもないだろう(と願う)。
欧州大戦と太平洋戦争が合わさってはじめて世界大戦と呼ぶにふさわしい規模となる。麻生総理が「1941年12月に第2次世界大戦が真珠湾攻撃で始まる」と言ったのは間違っていない。教科書レベルの批判をして勝ち誇るほうが無知なのだ。

田母神「論文」と自衛隊幹部教育

2008年12月10日 | 日々思うことなど
昨夜のNHK「クローズアップ現代」で、田母神「論文」問題と自衛隊の幹部教育が取り上げられた。
なかなかいい番組だったが、正直いって自衛隊のありかたに少し不安を感じた。

クローズアップ現代 空幕長論文はこうして発表された

先の大戦をめぐり政府見解と異なる内容の論文を公表して、前航空幕僚長が更迭された問題。 前空幕長が論文を公表するきっかけとなった民間企業の「懸賞論文」には、航空幕僚監部が全国の隊員に組織的に論文応募を促していた事実が確認されている。また前空幕長によって、自衛隊の高級幹部を育成する「統幕学校」に「歴史観・国家観」というそれまでになかった新たな講座が設けられていたこともわかってきた。 前空幕長によって、組織はどう動いたのか。そして、前空幕長はなぜ論文を発表したのか。証言や入手した資料をもとに検証する。 その一方で、将来の幹部自衛官を育成する防衛大学校を取材。 教育現場では何が教えられているのか、兵器を持った実力部隊の幹部に求められる資質とは何かを考える。

タイトルに「空幕長論文」が入っているのに田母神氏の出演がたった5秒ほどで笑った。30分という短い放送時間の中でトンデモ歴史論・国防論を言わせるのはあれくらいで充分だ。田母神氏の持論を視聴者に聞かせたら自衛隊の印象が悪くなる、というNHKの惻隠の情かもしれない。
相変わらず田母神氏は「日本が悪い国だったということだと士気が下がる、『正しい歴史認識』がなければ国が守れない」などと甘ったれた寝言を並べていた。どうやらこの人は本気でそう思っているらしい。どれだけセンチメンタルなのか、情緒に溺れているのかと呆れる。職業「軍人」なら鉄腸豪胆を養うべきであり、「歴史認識」などに心を乱し義務をおろそかにするのはほとんど反逆に等しい。部下に範を示すべき空自トップが心得違いの見本を見せているのだから、まったく何をかいわんや、である。
もしかしたら田母神氏は、決してナチを肯定できないドイツ空軍のパイロットと「正しい歴史認識」を誇る自衛隊パイロットが同じ戦闘機で戦えば必ず自衛隊パイロットが勝つ、とでも思っているのだろうか。だとしたら「水からの伝言」なみのトンデモであり、ドイツ軍の士気を馬鹿にするにもほどがある。

そんな田母神氏の心得違いがずっと見すごされてきた自衛隊のあり方には、やはり問題があるといわざるを得ない。
たぶん、自衛隊の高級幹部は一般的に「歴史認識問題」にそれほど関心がなく、だから田母神氏の暴走が問題視されなかったのだろうと思われる。引退した元高級幹部が何人か出ていたが、なんだか呑気そうな顔をしていた。自衛隊が歴史認識論争にかかわるべきではない、幹部はノンポリでいい、というのは正しいのだけれど、かといってトンデモ歴史観や心得違いの幹部が野放しでは困る。

番組後半は防衛大学校の教育を取り上げていた。これはなかなかよかった。
校長の五百旗部(いおきべ)氏が田母神氏とは対照的に落ち着いていて、信頼できる人柄をうかがわせた。
五百旗部の風貌と雰囲気は、不敬をおそれずに言うとご今上(天皇陛下)に似ている。いかにも柔和で考え深そうだ。立派な先生に教えられる防衛大学校の生徒がうらやましくなった。
その生徒はというと、素直で真面目そうだがいかにも幼い感じがする。威勢のいいイデオロギーや「正しい歴史認識」に対して免疫がなさそうだ。タイの士官学校に留学した生徒が「政府より国王に忠誠を誓う姿に感動した」と言って五百旗部校長に「戦前の日本もそうでしたね」とたしなめられていた。どうも危なっかしい。五百旗部校長が「広い視野」を教育方針にしたのはまったく正しい。生徒たちはどうか五百旗部校長の意を汲んでしっかり学んでほしい。

初代防衛大学校長の槇智雄は生徒に「服従の誇り」を教えたそうだ。これも民主主義国の「軍人」に必要な覚悟である。とはいえ、プライドの高い若者に「服従を誇りに思え」と言ったら反発されるかもしれない。「ヨーロッパの騎士が貴婦人に仕えるように国を守れ」といえば素直にわかってもらえるだろうか。あくまでもジェントルに優しく貴婦人をエスコートするのが若き騎士の神聖なる義務である。

騎士道 - Wikipedia
騎士が身分として成立し、次第に宮廷文化の影響を受けて洗練された行動規範を持つようになった。騎士として、武勲を立てることや、忠節を尽くすことは当然であるが、弱者を保護すること、信仰を守ること、貴婦人への献身などが徳目とされた。

特に貴婦人への献身は多くの騎士道物語にも取上げられた。宮廷的愛(courtly love)とは騎士が貴婦人を崇拝し、奉仕を行うことであった。相手の貴婦人は主君の妻など既婚者の場合もあり、肉体的な愛ではなく、精神的な結びつきが重要とされた。かくて騎士側の非姦通的崇拝は騎士道的愛だが、一方、貴婦人側からの導きを求めつつ崇拝するのが宮廷的至純愛。

自衛隊員はサムライを気取るより騎士道を学んだほうがいい。

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さもしい金持ち

2008年12月07日 | 政治・外交
ホンダのF1撤退について書くつもりだったけれど、妙にムカつくニュースがあったのでそちらから。
ちなみに、ホンダの撤退には別に怒ってません。

「さもしく1万2千円欲しい人も…」定額給付金で首相発言 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
 麻生首相は6日夜、長崎県諫早市で自民党長崎県連が主催した首相の演説会で演説し、追加景気対策の柱である定額給付金について、「貧しい人には全世帯に渡すが、『私はそんな金をもらいたくない』という人はもらわなきゃいい。(年収が)1億円あっても、さもしく1万2000円が欲しいという人もいるかもしれない。それは哲学、矜恃(きょうじ)の問題で、それを調べて細かく(所得制限を)したら手間が大変だ」と語った。

 政府は所得制限を設けるかどうかで混乱した末、「年間所得1800万円が下限」という目安を示したが、受給辞退を呼びかけるかどうかは市区町村の判断に委ね、実質的に制限がない状態が見込まれている。それだけに、今回の首相の発言は波紋を広げそうだ。

なんだこれは。クリスマスも近いというのに余計に人をむかつかせやがって。
まったく腹が立つ、もういい加減にしてほしい。
…誤解しないでほしい、私が怒っているのは麻生総理ではなく読売新聞のほうである。

記事のタイトルに「(年収が)1億円あっても」を省いたこと、そして「波紋を広げそうだ」という騒ぎを期待する下衆な煽り。まったく低俗な記事だ。バー通い批判とか漢字が読めないとか、麻生総理に対してはくだらない難癖、ケチ付けが多かったけれどこの記事はいちばんひどい。

年収一億円の、どこからどう見てもまぎれもない金持ちが、巨額の財政赤字を抱えた国から支給される「1万2千円」のはした金(相対的に)をそのままポケットに入れる。辞退することもできるのにしない。それどころか「当然の権利だ」という顔をしている。
そういう光景を具体的に想像して、それでも「さもしくない」と言えるのか。はっきり言うけれど、これがさもしくなければ世の中にさもしさなど存在しない。金持ちであることは悪いことじゃない、むしろ立派なことだ。貧乏人(私自身を含めて)がつい金に細かく、さもしくなるのも仕方ない。だが「さもしい金持ち」は最悪である。

私はなにも「金持ちは公共サービスを利用するな」とは言わない。急病になれば救急車を呼べばいい、支払いに健康保険を使うのも当然だ。どちらも社会の基盤として広く利用されるためにある。金持ちが使っても後ろ指さされるいわれはない。
だが今議論されている定額給付金は違う。特別な状況で行われる特別な方法である。世界金融危機が世界的大不況につながるんじゃないか、絶対にそれは防がなければいけない、という状況で苦し紛れに行われるばら撒き政策だ。金持ちも貧乏人も「もらって当然」ではなく、「そこまでやらなきゃいけないのか、これは大変なことだ」と気を引き締めて受け取り(あるいは辞退し)、有効に使う義務のあるお金なのである。

私のように「1万2千円はちょっとした金額だ、けっこう使いでがある」と実感する人間(要するに貧乏人)は悪びれずに給付金をもらえばいい。景気をよくしたい、消費したいと思っても財布に金がなければできない。ない袖は振れないのだから、国から消費刺激のための金をもらって使うのはバトンの受け渡しのようなものだ。
だが「年収一億円」の金持ちは違う。彼(女)にとっての1万2千円は、年収300万円の人にとっての400円と同じ重さでしかない。貰っても貰わなくても大差ない、それどころか「貰うのに手間がかかるならいらないや」という程度のはした金だ。
政治の決定はどうなるか知らないが、私は断然「金持ちは定額給付金を辞退せよ」と主張する。そして、「金持ちなら社会に責任感を持て、景気を良くするために貢献しろ、ちゃんと自腹で金を使え」と要求する。
貧乏人や中産階級ならタクシー料金のお釣り400円をしっかり貰うのは恥ずかしくないが、金持ちなら「お釣りは要りません」と言ってすばやく降りるのが粋というものだ。金持ちが「さもしい奴」と軽蔑されたくなければ、金持ちらしく鷹揚に金を使ってほしい。


ついでだから定額給付金について言っておこう。
私は今のところ「大きな効果は見込めない、もっといい金の使い道があるんじゃないか」と思っている。だが、定額給付金というアイデアそれ自体が馬鹿げているとは思わない。アメリカでは以前から行われているそうだし、ドイツでも検討されている。
景気後退に歯止めがかからない状況の中、ドイツ政府が日本が進める定額給付金と同じようにばらまき型の「消費券」の配布計画を検討していることが明らかになった。総額は150億ユーロ(約1兆8千億円)に上るとみられる。25日付の経済紙ハンデルスブラットなどが報じた。

 同紙などによると、国内経済、個人消費を活性化させるために配布が検討されている消費券は、500ユーロ分。配布対象はサラリーマンなど約3千万人に上る。早ければ年明けにも詳細を決定する可能性があるという。

 独国内では政府が今月決めた一定期間にわたる自動車税免除などを含む総額500億ユーロに上る景気対策では不十分との声が一部で上がっていた。消費券は台湾がすでに配布を表明している。

asahi.com(朝日新聞社):バラマキ1.8兆円、ドイツでも「消費券」検討

大不況が心配されている現在の状況で、定額給付金というばら撒き政策(消費刺激策)は充分検討に値するし、実行されてもおかしくない。問題は期待された効果が上がるかどうかだ。10兆円ばら撒いても期待以上の効果が上がれば安いものだし、効果がなければ1兆円でも無駄になる。「バラマキだから無駄」ではなく、「効果がなければ無駄」なのである。
そこらへんのところがマスコミや世間では理解されてないように思う。「ばら撒きはよくない」という声ばかり大きくて「効果があるかどうか」検討されることは少ない。「ばら撒きそれ自体がよくない」と考える人は勝手に辞退してくれればいいのに、清貧を人に押し付けたがるのは困りものだ。

私は経済についての知識ゼロなので、実際のところ定額給付金にどれほどの景気刺激効果があるのかわからない。素人考えで言うと、実際の金額よりも心理的効果のほうが大きいだろうと思う。マスコミが好意的に報道し、国民が「消費意欲を高めないと不況になる、ちゃんとお金を使おう」と前向きに考えてくれたら給付金の効果は大きくなる。だが、現在のようにマスコミが細かいアラを見つけて(所得制限の有無など基本的にはどうでもいいことだ)足を引っ張り、世論も消費拡大より「冬篭り」を望んでいるような状況では大きな効果を望めないだろう。
定額給付金が失敗するとしたら(その可能性は高いと認めざるをえない)、「定額給付金自体が愚策だった」というより「愚策だ、ダメな政策だと悪口を言い続けたせいでダメになった」のだ。残念なことである。

参考記事
 「さもしい」と言う感性 - 生粋の気が向いたら書く日記

「偽装認知」の怪

2008年12月06日 | 日々思うことなど
いまさらこんなことを言うのもなんだが、国籍法改正反対派が問題にする「偽装認知」ってなんなのだろう。
黒い影と周辺の騒ぎばかりで、実体を見たものは誰もいない。

前の記事で、「国籍法改正反対運動(の空騒ぎ)が起きるまで『偽装認知』なんて言葉を聞いたことがない」と書いた。それはまぎれもない実感なのだが、あるいは単に私が無知だったせいかもしれない。世の中では実際に「偽装認知」の問題が起きていて多くの人が困っているのかもしれない。だとしたら大変だ。
というわけでちょっと調べてみた。

私は地方に住む一般人なので、関係機関や事情通から直接情報を得ることはできない。こんなとき頼みの綱はgoogleだ。
「国籍法改正運動」が起きる前の情報を知りたいと思ったが、「日付指定」条件で一ヶ月とか三ヶ月「以内」の検索はできても「以前」ではできない。検索結果を日付順にソートすることもできない。たいへん不便なので超絶的技術力を誇るgoogle様には何とかしてほしいところだ。

仕方がないので「"偽装認知" -blog」で検索した。国籍法問題に限らず、ネットで騒ぎ(政治運動・サイバーカスケード・ネットイナゴ・煽り・炎上)がおきると雑音やデマを増幅するブログ記事ばかり増えて一次情報にたどり着くのが難しくなる。ブログ記事にも有益なものがあるだろうが、9割はクズだと思って間違いない(スタージョンの法則)。もしも実際に偽装認知なる行為が横行しているのであれば、ニュースサイトでそれなりに取り上げられているはずだ。
だがほとんど何も見つからない。国籍法改正について「偽装認知のおそれ」を問題にする最近の記事ばかりで、実際に行われた偽装認知について知ることができたのは二件だけ。

偽装認知で中国人ら逮捕 在留資格の取得図る - 47news

偽装認知 ~不法滞在 新たな手口~ - クローズアップ現代 放送記録
NHK「クローズアップ現代」:中国人の偽装認知問題……NHKはここまでウヨクになったか! - Letter from Yochomachi

共同通信は2004年の記事、クローズアップ現代は2005年の番組だ。
…ネットで、国会で、あれだけ大騒ぎしている「偽装認知」の実例がたったこれだけ。なるほど、私が国籍法騒ぎ以前に「偽装認知」なる言葉を知らなかったのも無理はない。
読売・朝日・毎日・産経、新聞社のウェブサイトでも検索してみたが、改正法案がらみで偽装認知のおそれについて書いた記事はあっても実例をあげたものはひとつもなかった。有料サービスで過去記事を掘り出せば見つかるかもしれないが、どうも望み薄に思える。実例があれば国籍法記事の中で引用するだろう。

もちろん、情報収集のやりかたとしてgoogle頼りというのはお手軽すぎる。本気で調べるなら関係機関に電話したり新聞の縮刷版を調べたりすべきだ。私はそこまで根性がないのでやらないが(おい)、熱心に反対運動をしている人たちならちゃんと調べていることだろう。さいわい、国籍法改正反対派が作ったまとめサイトがある。そこなら偽装認知の実例が網羅されているはずだ。
もし自分が「代理出産」について情報を集めたまとめサイトを作るとしたら、日本国内で行われた実例(根津医師によるもの)は最重要の情報である。読者に「代理出産」の問題点を実感させるために実例ほど効果的なものはない。
さっそく国籍法改正反対派のまとめサイトに行ってみよう。

国籍法改正案まとめWIKI - トップページ
国籍法改正案まとめWIKI 2 - top.page

…おかしい。
「知識・資料」の項目をひととおり眺めてみたが、偽装認知の実例はひとつもない。あるのは「反対運動」の理論と情報ばかり。反対派は「運動」には熱心でも実例には興味がないのだろうか。私には理解できないことだ。
しかたがないので反対派に対抗する側のまとめサイトも見てみた。

e-politics - 国籍法改正

こちらにも実例はない。もっとも、反対派の誤解を解くことが主な目的なので、無視されている(あるいは存在しない)実例が取り上げられないのは無理もない。


たぶん国籍法改正反対派は
「これまでの国籍法は厳しくて偽装認知をやりたくてもやれなかったのだ」
「改悪されてザル法になれば何千件という偽装認知が起きるのは間違いない」
というだろう。だが本当にそうだろうか。
これまでの国籍法でも、胎児認知という形であれば偽装によって国籍を取得することができた。生後であっても、母親が日本人(遺伝的父親とみなされる男性)と結婚すれば準正手続きによって日本国籍が得られる。

HASEGAWA LAW OFFICE 婚外子の認知と国籍
一般的に、以下の場合に日本国籍を取得することができます。

胎児認知の場合、子は出生により、日本国籍を取得できる。
生後認知の場合は、母親の国籍を取得できる。
しかし、生後認知の前又は後に、両親が正式に婚姻し、その後、法務局で「準正」の手続きをとった場合、日本国籍を取得できる。

偽装認知が本当にそれほどうまみのあるものなら、これまでの国籍法でもやろうとおもえばできたはずだ。実際に2004年の共同通信記事、2005年のNHK「クローズアップ現代」で実例が見られる。ところが、そのあと偽装認知が継続して行われたり増加しているという話は聞かない。新聞でもテレビニュースでも取り上げられない。それはつまり、悪質外国人にとって偽装認知は割に合わない、やる価値のない方法だということを意味しているのではないか。
偽装認知なるものは、たぶんいろいろと手間のかかることなのだろう。日本人協力者を見つけ、認知が不自然にならないような移動・居住の事実を作りあげ(偽装し)、破綻のないシナリオを作って関係者に覚えこませなければならない。そこまでやっても窓口で怪しまれたら切り抜けるのは難しい。電話一本でできる振り込め詐欺とは違うのである。実務経験豊かな弁護士がこう言っている。

「観光ビザで女を入れるケースは山ほどみていますが、認知を利用した人身売買って、正直、みたことも、きいたこともないです。」
「いままでだって認知された子は日本人の子として在留資格「日本人の配偶者等」でちゃんと日本に上陸できるわけですよ。で、性的搾取をする目的でわざわざ認知をして、日本に幼児を連れてきたなんてニュース(実話ナントかはダメよ)、1件でもきいたことあります?
 
 あるわけないです。子どものホームレスもおらず、義務教育就学率ほぼ100%の日本で、性的搾取の目的で外国人の子どもを上陸させるなんていうのは、あまりにも危険すぎるからです。」

ほんとうは人身売買のことなんてどうでもいいくせに~“No pude quitarte las espinas” - いしけりあそび -

そんなところだろうと思う。中国人もフィリピン人もコロンビア人も、もちろん日本人も、「偽装認知」が楽に儲かる手段であればもっとしっかり(というのも変だが)がんばっているはずだ。最近はぜんぜん実例がない、数年前に何件かあっただけ、という実例の少なさは「偽装認知のおそれ」なるものの実体のなさを明らかにしている。

「2000年問題」とか「BSE問題」とか結果的に空騒ぎに終わった事件を思い出す。大きな違いは、2000年問題もBSE問題も専門家がリスクを警告し一般人が過剰反応したのに対して、偽装認知騒ぎは専門家(実務者)がリスクはないと言っているのに素人が大騒ぎしたことだ。ネットが普及すれば「普通の人たち」のリテラシーが上がると言われてきたが、今のところはデマを増幅する力のほうがずっと強いようである。

国籍法とDNA支配

2008年12月05日 | 政治・外交
改正国籍法が国会で可決成立した。
これでネットの空騒ぎも沈静化するだろうとほっとしている。
だが、煽ったり煽られたりした人たちがどれだけ正気を取り戻すのか、反省してくれるのかあてにできない。憂鬱だ。

騒ぎが始まったときから、国籍法改正反対運動の意味がわからなかった。今でもわからない。
私は法律の素人だけれど、「素人が常識的に考えて」(反対派の人たちが好む言い方)特別に問題のない、いや、憲法を守り人権を擁護するために必要な法律だと感じる。憲法とか人権という言葉にアレルギーを起こす人たちもいるが、与党政治家を国賊よばわりして何のお咎めも受けずにすむのはそれこそ憲法と人権のおかげである。

 今度の改正は、最高裁判決が出ているので改正案以外に変えようがない(DNA義務付けが無理なんて法律のプロならわかることです。)という事情、専門家からは長年にわたって問題点として指摘された点を、諸外国でとっくの昔に実施し、国際的な人権規範で認められた最低水準にあわせるだけという内容の穏当さ、生後認知された非嫡出子に国籍を与えるに過ぎないという影響力の小ささ(法務省は年間700人程度といっているらしい。過去分がどのくらい届出るかわからないが、まあそんなもんでしょ)、改正案の審議の段階から報道されているという内容のわかりやすさ(報道されていないなんてウソですよ。)、いわれのない差別の解消の必要性という大義名分、・・・もっともモめる要素のない法案だった。
 それが、衆議院の可決直前になって、デタラメな情報がネット上に飛び交って、議員も巻き込んでの大騒動。法案の趣旨は完全に没却され、あたかも偽装認知防止法を議論しているかのようだった。

改正国籍法成立雑感 - いしけりあそび

「いしけりあそび」さんは入国管理事案の経験豊かな弁護士だ。実務の現場から「国籍法改正反対運動」のバカらしさを伝えてくれてとても勉強になった。
そもそも反対派が問題にする「偽装認知」なる概念自体が私にとって「?」である。これまで認知拒否トラブルについて聞いたことはあるが「偽装認知」なる言葉は初耳だ。「認知」というのは身に覚えのある男にとってさえ大事である。まして偽装のために認知を利用させるなどというのはよほど自暴自棄でないとできない。戸籍を売り渡すのと同じレベルのヤケクソである。言っちゃ悪いが、偽装認知を軽く見ている人たちは「身に覚えのある」経験をしたことがないんじゃないか、だからリアリティが持てず妄想にとらわれるんじゃないかと疑ってしまう。
「偽装認知が人身売買に利用され日本人男性が戸籍を売り渡して何十万という不良外国人(の子供)が日本国籍を取得し治安を悪化させ生活保護を食いつぶして日本滅亡!!!!!」 …という反対派の想定するシナリオははっきり言って妄想である。多少誇張してはいるが、「国籍法 改悪」で検索すると大差ない主張をしているブログがたくさん見つかる。それどころか国会でおかしな質問をする「愛国者」「リベラル派」議員までいる。まったくあきれてしまう。
念のため言っておくと、私は経団連や一部の政治家が主張する「移民の大量受け入れ」には反対である。だが、今回の国籍法改正と移民受け入れの是非は別の問題だ。国籍法改正阻止を移民受け入れ反対の砦のように思っている人もいるが、迷惑な話である。移民大量受け入れを懸念するのは国籍法改正反対運動のような妄想やレイシズムとはまったく違う。

厄介なのは「DNA鑑定を義務付けるべき」という主張だ。
それはギャグで言ってるんですか、正気ですか、という感じなのだが、反対派は真剣らしい。まったく勘弁してほしい。
私の理解するところでは、日本の戸籍制度で実の親と認められる条件は「婚姻」「出産」「認知」である。DNAという概念は組み込まれず、場合によっては排他的に扱われる。
いい例が「代理出産」だ。向井・高田夫妻に対する最高裁判決で明らかにされたように、「出産した女性(代理母)が母親とされる」のであって、卵子の提供者である向井亜紀氏は実母と認められなかった。この場合も、夫である高田延彦氏が非嫡出子(婚外子)として認知すれば高田氏の実子と認められる。仮に高田氏が無精子症で第三者の精子を利用していたとしても、である。
私は「代理出産」とはDNA信仰によって生まれた「寄生出産」でしかないと考えている。DNAにこだわらず婚姻・出産・認知を基本とする日本の戸籍制度は正しい。仮に遺伝関係を基盤に実子認定するとしたら、制度の土台から組み替えることになりかえって社会的混乱がおきる。「代理出産」賛成派にとっては「DNA支配の勝利」ということで歓迎されるだろうけれど。

私は基本的な信条として「日常生活ではDNAを気にしない」ことにしている。
DNAにこだわりだすときりがないが、こだわってもろくなことがない。両親に学歴がないからといって「自分も頭が悪いに違いない」と思い込んで勉強しない子供がいたら叱らなければいけない。逆に両親が賢いから自分も利口なのだとうぬぼれて宿題をサボる子供もやはり叱る必要がある。DNAに違いがあろうとなかろうと同じことである。人種・民族差別や障害者(色弱など)差別についてはいうまでもない。
医療とか限界的なスポーツなどでは、わずかな遺伝的違いが大きな意味を持つこともあるだろう。DNA診断で自分の体質に合う薬を見つけるのは結構なことだ。とはいえ、DNAを重視するあまり「優生学」まで突っ走ると人権侵害になる。
まして、戸籍とか国籍といった社会制度(法律)の問題でお手軽にDNA鑑定を持ち出すのはよろしくない。実際にトラブルが起き、通常のやりかたでは解決できないとき関係者すべての同意によってDNA鑑定を行うのに反対はしない。だが「トラブルを未然に防ぐためDNA鑑定を義務化する」のはDNA信仰の行き過ぎであり乱用である。
私にとってはあくまでも「人間 > DNA」である。実際に生きている人間をDNA概念の下に置くような考え方は危険だ。気軽に「DNA鑑定の義務付け」を言う人たちは自分自身を、いやすべての人間をDNAの奴隷におとしめる危険への警戒心が足りない。

参考記事
 e-politics - 国籍法改正
   反対派の疑問・批判に対してひとつひとつ答えている

 ○○○!知恵袋 国籍法は改悪なんでしょうか? - いしけりあそび
 どうしてもDNA鑑定が気になるけど、冷静に、法的な思考をする準備はあるよ、という方へ。 - いしけりあそび
 自由帳で数学とか物理とか | 【国籍法】DNA鑑定の義務を改正案に書けない3つの理由
 想定される偽装認知? - モトケンブログ
 田中康夫氏が示した視点? - モトケンブログ
 国籍法改正案でデマを流布する人々 - 白砂青松のブログ
 la_causette: 想像力の方向と読解力

ゲーリングの尻尾

2008年12月04日 | 政治・外交
どうしても田母神元幕僚長が気になる。

航空幕僚長を退任し制服を脱いだのだから、彼はすでに一民間人にすぎない。
失礼ながら、右派の論客としてレベルが高いとも思えない。たかじんの番組で勝谷誠彦あたりと馴れ合ったり「Will」で手記を書く程度がお似合いだ。NHKの討論番組に出演したり「文芸春秋」に寄稿する田母神氏の姿は想像できない。
自衛隊の中にある「田母神的なもの」は大問題だが、田母神氏自身はすでにただの人である。外から自衛隊員に影響を与えられるほどのカリスマはないだろう(と願う)。
それなのに気になって仕方がないのは、私自身の中に田母神氏と似通った部分があるからだ。昔の失敗を思い出してしまい、やりきれない思いと恥ずかしさが津波のように押し寄せる。田母神氏自身が「私の何が悪いのか」という顔をしているところがまたシャクにさわる。もう本当に勘弁してほしいのである。

もちろん私は田母神氏に会ったことも話したこともない。
以下に書くことはすべて単なる想像でしかない。読者の方はそのつもりでお読みください。

田母神氏の基本的な性質は「お調子者」だ。
アパ「論文」問題の経緯を見ればわかる。身内で(隊内誌で)気持ちよく吹いていた持論を航空幕僚長の肩書き付きで外部に発表した。何が起きるのか予測したり覚悟を決めた形跡はない。びっくりするほどの無邪気さだ。
ミラーを見ずに車線変更して隣の車にぶつけたドライバーが「まさかぶつかるとは思わなかった」「いつもこういう運転をして問題なかったのに」と言い訳したら怒るよりも情けなくなる。サンデードライバーならまだしも、勤続何十年のプロドライバーなのだから恐ろしい。

「お調子者」を聞きかじりの心理学用語で言い換えると、陽性の循環気質(躁)ということになるのだろうか。
私も循環気質の比率がかなり高い(と自分では思っている)。田母神氏と違って基本的には陰性(鬱)なのだが、状況によって躁に転じることがある。物事がうまく行ったり、人にほめられたりすると「これが俺の実力だ」と調子に乗る、ホラを吹く、無計画無責任になる。周囲に迷惑をかけ、自分も恥をかき、しかもそれに気付かない。気付いたときには後の祭りだ。
これまで何度も調子に乗って失敗してきた。具体的なことは言わない、というか恥ずかしくて言えない。もう本当に勘弁してください反省してますからごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

おそらく田母神氏も、自分自身がお調子者であることを知っているのだろう。それくらいの自己認識ができなければ航空自衛隊のトップまで上り詰めることはできない。自らの性質をコントロールし、武器として生かして「あいつは面白い男だ」「なにか大きなことをやってくれそうだ」「田母神に期待しよう」という雰囲気を盛り上げたのだろう。陽気な男は好かれやすい。
「空軍」のトップということで、ドイツ第三帝国空軍「ルフトバッフェ」の総帥、ヘルマン・ゲーリングをつい連想してしまう。ゲーリングは知能指数が高く陽気でエネルギッシュな男で、「ふとっちょ」「ヘルマンおじさん」などと呼ばれてドイツ国民になかなか人気があった。だが航空行政と軍事指導では無能で、ルフトバッフェを強化するより混乱させ足を引っ張ることのほうが多かった。
念のために言っておくと、ゲーリングを連想したのは田母神氏をナチ呼ばわりするためではなく、「お調子者の空軍トップ」という点が似ていると感じただけである。私は彼らのイデオロギーではなく能力(無能さ)をなによりも重視する。

自分がお調子者であることを知り、それをコントロールしてきた田母神氏は立派である。私には真似できない自制心の持ち主だ。だが、彼が「将」となり航空幕僚長まで上り詰めたとき、つい気が緩んだのではないか。大きな肩書が付くとどうしても人は自分を立派だと思い正当化したくなる。「調子に乗って失敗してはいけない」という自制心よりも「調子よくやっている人(国)を騙すのは悪いことだ」という自己正当化と「敵」への批判に傾く。
そういう心理状態で日本の近現代史について考える。「日本は立派だった、正しかった。悲惨な戦争になったのはコミンテルンの陰謀のせいだ」という「正しい歴史認識」は田母神氏にとって心地よく思えただろう。あとはアパ「論文」まで一直線だ。

もしも私が田母神氏と日本の近現代史について話をするとしたら、「大日本帝国の発展は順調だった(調子に乗っていた)」という点では一致するだろう。世界史にまれなスピードで近代化し国力を高め、一等国を自称し国際連盟の常任理事国にまでなった。ノリノリのイケイケである。
だが日中戦争・太平洋戦争・敗戦という破局への評価が違う。田母神氏は「せっかく調子よかったのに騙されて(コミンテルンの陰謀)ひどい目にあった、日本は悪くない(自分も悪くない)」と主張し、私は「調子に乗りすぎて大失敗した、同じことは繰り返すまい(迷惑をかけてすみません)」と言う。

世間では田母神「論文」事件について語るとき彼の歴史観を問題にすることが多い。右派は「これこそ正しい歴史認識だ、田母神氏は立派だ」とほめたたえ、現実的な保守派と左派は「偏っている、事実認識から間違っている」と批判する。
だが私は田母神氏の歴史観そのものは「論文」問題の中でいちばん論じる価値がないと思っている。かの「論文」は田母神氏自身が認めている通りの安直なものだ。右寄りの本から都合のいい二次資料をツギハギしただけの代物で、まともに擁護したり批判するに値しない。

それよりも「田母神タイプの人物に国防の責任をゆだねていいのか」「お調子者がトップになると防衛力は強まるのか弱まるのか」を論じてほしい。歴史認識問題は形而上学だが、国防は鉄と炎を制御する現実の問題だ。
私にとって田母神問題とは歴史認識問題ではなく、なによりも「ゲーリングの尻尾」問題なのである。

ちなみに、ゲーリングが愛用していたルガーP08のカスタムモデルが日本でモデルガン化されている。



("I Love Western Arms"さんより)


実は私も約20年前から持っていたりする。
ときどき手にとって眺めては「金ピカで悪趣味だなあ」「ルフトバッフェがどれほど優秀な飛行機とパイロットをそろえても、こういう銃を喜ぶようなお調子者がトップにいたら負けるわけだ」と思う。


「田母神問題」関連記事
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田母神元幕僚長とキャプテンハーロック

2008年12月02日 | 政治・外交
「田母神元幕僚長の核武装論」の続き。

「田母神 核武装」でブログ検索すると、右側の人たちは「よく言った、核武装は当然」と歓迎し、左側の人たちは「核武装なんてとんでもない」と怒っているようだ。私のように「是非を論じる以前に田母神氏は愚かすぎて話にならない」と呆れているのは少数派らしい。

私は「プロの仕事」とは素人の夢を具体的な形にすることだと思っている。流行りのビジネス用語でいえば「ソリューションの提供」だ。
逆に、素人さんが「プロならこれくらい簡単だろう」と期待することであっても、それが困難あるいは不可能なときはちゃんと説明するのがプロの仕事である。安請け合いして素人を騙すのは詐欺師のやりかただ。

WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)のテレビ中継に黒柳徹子がゲストとして呼ばれたらどうなるか。彼女は野球のことを何も知らないので頓珍漢なことばかり言うだろう。プロのアナウンサーと解説者なら、内心では「とんでもないゲストだ」と呆れながらも怒ったり迎合したりせず、うまくあやして徹子さんに野球知識を教え野球ファンになってもらえるよう努力するはずだ。
日本チームが8対0で負けていて9回裏の攻撃になったとする。黒柳徹子は「9人全員がホームランを打てば逆転できますね、原監督はホームランのサインを出すんでしょう?」と訊くかもしれない。そんなとき真面目な解説者なら「9連続ホームランは確率が低すぎて作戦として成り立ちません。打線をつなげる、ランナーを貯める、相手ピッチャーを揺さぶって勝機をつかむのが指揮官の仕事です」と説明するだろう。ユーモアのある解説者なら「9連続ホームランですか、すごい発想ですね。私たちにはとても思いつきませんよ」とジョークとして対応する。
「もちろん9連続ホームランを狙いますよ、勝ちたいですからね」と素で同意する解説者がいたら視聴者はびっくりする。「この人は正気なのか」「酒でも飲んでるんじゃないか」「そんな作戦で勝てるはずがない」と呆れるはずだ。

「敗戦まぎわの日本に原爆があり、広島・長崎の報復としてアメリカに落とすかどうか選択できる」という仮定は「9連続ホームラン」と同じくらい、いやそれ以上に現実味がない。単なるフィクション、気楽なジョークとして面白がるのがせいぜいで、軍事のプロが真面目に答えるような話ではありえない。
ところが元航空幕僚長の田母神氏は「9連続ホームラン」レベルの与太話にうなずいてみせたのである。これが呆れずにいられるだろうか。

「大日本帝国が昭和20年までに原爆を完成させる」という前提から逆算したら、歴史はどうなるだろう。
現実のアメリカと同程度の苦労、仮に「国力の10%」で日本が原爆を作れたとしたら、それは日本の国力がアメリカ並みということだ。そうであれば真珠湾以前の日米交渉はまったく違うものになる。アメリカは日本の意思を尊重せざるを得ず、ハルノートなど出せるはずもなく、太平洋戦争自体が起きなかった。
日本はやっぱり貧乏国で、国力の50%をつぎ込んでようやく日本版マンハッタン計画を遂行したとする。その場合は中国や南太平洋の戦場に回せるリソース(兵器・物資)が大幅に減ってしまい、昭和20年より前に日本は負けていただろう。
どちらの仮定にしても、あるいはその中間にしても、「昭和20年、日本の原爆」という仮定には無理があり、歴史への影響が大きすぎる。まじめな研究よりもファンタジーとして読まれる仮想戦記(あまりに荒唐無稽なものは火葬戦記と呼ばれる)のほうがふさわしい。

田母神氏は制服を脱いだとはいえ航空幕僚長まで務めた軍事のプロのはずだ。プロが真面目に核武装の必要性を訴えるとき、「9連続ホームラン」レベルの与太が入り込む隙があってはならない。「1945年当時の司令官だったとして、米国に対して原子爆弾を使う能力があった場合、どうするか」という質問をされたとき田母神氏は「私は真面目な話をしている。核武装は現実に可能であり日本に必要なんです。ふざけた質問をされるのは心外だ」と怒ってもよかった。
ところが彼は、「それは、その状況になってみなければ分かりませんが、まぁ、『やられれば、やる』のではないかと思います」と素で肯定した。トンデモを鵜呑みにしたのである。その瞬間「田母神氏終了のお知らせ」のチャイムが鳴り響いた。歴史認識が偏っていても、政治的配慮ができなくても、軍事のプロとしての識見があれば最低限の敬意を持つことができる。だが、核武装を訴えつつ与太話にうなずいてみせるようなタワケモノは軽蔑するほかない。迂闊にもほどがあり、愚かさにも限度があるというものだ。

ここまでは田母神氏の核武装論が真剣なものだとして批判したけれど、彼が悪ふざけとして、ジョークとして核武装論を言ったのだとしたらどうだろう。彼の真意を知る由もないが、マスコミの報道も右翼系ブロガーの反応も「マジ」である。仮に田母神氏が「軍事的合理性から考えてプロが核武装論を言うはずないだろ、ジョークだよジョーク」というつもりだったとしても、素人さんを煽って騒ぎを起こすのは悪質だ。やはり田母神氏は軍事のプロとして完全に終了である。これからは右側の「愛国者」たちを喜ばせることばかりを言い、プロとしての誇りを捨てて(もともとなかったのかもしれない)憂国芸人として生きていくほかないだろう。


前の記事で「『誇れる国を守る』ではなく『国を守ることを誇りとす』」という名言を紹介した。
その言葉を体現するヒーローがいる。宇宙海賊キャプテンハーロックだ。




宇宙の海は おれの海
おれのはてしない 憧れさ
地球の歌は おれの歌
おれの捨てきれぬ ふるさとさ
友よ
明日のない 星と知っても
やはり 守って戦うのだ
命を捨てて おれは生きる

宇宙の闇は おれの闇
おれのはてしない 戦場さ
ドクロの旗は おれの旗
おれの死に場所の 目印さ
友よ
明日のない 星となっても
君は 地球を愛していた
この星捨てて 行きはしない

宇宙の風は おれの風
おれのはてしない さすらいさ
空行く船は おれの船
おれのとらわれぬ 魂さ
友よ
明日のない 星と知るから
たったひとりで 戦うのだ
命を捨てて おれは生きる
命を捨てて おれは生きる
(JASRAC無断引用)


ハーロックは地球政府の腐敗も地球人の堕落もすべて承知の上で、なお誇り高く戦い続ける。先に逝った友のため、生まれた星のため。無法者、海賊とそしられても、戦いの意味が理解されなくても嘆いたりしない。「明日のない 星と知っても やはり 守って戦う」のである。「この星捨てて 行きはしない」。
「命を捨てて おれは生きる」というのも深い。簡単に命を投げ出すのではない。誇りは自分の内にあり、誰かに与えられるものではない。ハーロックは金も名誉も求めず、地球を守るためしぶとく戦う。命を捨てて「おれは生きる」のだ。
もしも台場正が「地球人はアルカディア号に感謝せずキャプテンの悪口ばかり言っている。こんなことでは嫌になる、戦う気が起きない」などと「アルカディア号認識問題」で愚痴をこぼしたら、ハーロックは「そんなことを言う奴はアルカディア号に乗る資格はない、船を降りろ」と叱るはずだ。
自衛隊員のかたがたには、田母神氏と応援団の与太話を聞くよりもキャプテンハーロックを見てほしい。歌詞の「ドクロの旗」は「日の丸」に置き換えて。


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