玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

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失言を許さない社会

2007年01月31日 | 政治・外交
事ここに至ってはもう遅いかもしれない。

厚労相発言、与党内で「辞任やむなし」強まる : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
柳沢厚生労働相が女性を「子供を産む機械」に例えた問題で、与党内で31日、柳沢氏の辞任もやむを得ないとの声が強まった。

 参院自民党幹部は国会内で記者団に「(柳沢氏は)辞めないなら辞めないでいいが、辞めるなら早い方がいい」と述べた。別の参院幹部は「後は本人の判断だ」と指摘した。

 自民党の矢野哲朗・参院国会対策委員長は31日昼、国会内で、塩崎官房長官と会談し、「06年度補正予算案の審議は乗り越えても、07年度予算案の審議はもたない。参院選にもマイナスだ」と述べ、辞任を含めた厳しい対応が必要との考えを伝えた。塩崎氏は「(職務を全うしてもらうとの)既定方針で理解をしてほしい」と述べた。別の同党閣僚経験者も「すぐ辞めるべきだ。かばい続けると、矛先が首相に向けられる」と述べた。

私は以前の記事で「怒る人がいるのは当然」「批判するのは結構」と書いたけれど、さすがに「閣僚辞任」までいくと「それはやりすぎだろう」と思う。野党も国民も少し頭を冷やしてほしい。
マスコミによって微妙に柳沢発言の印象が変えられているのも気の毒だ。

柳沢厚労相vs女性議員…福島氏ら16人直接辞任要求:社会:スポーツ報知
 ◆柳沢厚生労働相発言要旨 なかなか今の女性は一生の間にたくさん子どもを産んでくれない。人口統計学では、女性は15~50歳が出産する年齢で、その数を勘定すると大体分かる。ほかからは生まれようがない。産む機械と言ってはなんだが、装置の数が決まったとなると、機械と言っては申し訳ないが、機械と言ってごめんなさいね、あとは産む役目の人が1人頭で頑張ってもらうしかない。(女性)1人当たりどのぐらい産んでくれるかという合計特殊出生率が今、日本では1.26。2055年まで推計したら、くしくも同じ1.26だった。それを上げなければいけない。

柳沢大臣は報道されているような「女性は産む機械だ」という言葉そのものは言っていない。
発言要旨を分解すると「人口統計学では出産年齢にある女性の数を考慮する」「機械の数は決まっている」「産む役目の人が1人頭で頑張ってもらうしかない」ということになるが、柳沢氏の言いたかったことは「女性=出産機械」というより「女性の所有する『産む機械』(妊娠可能な卵巣・子宮)」という意味だったのだろうと思う。
「どちらでも大して違わないじゃないか」とお思いの方もいるだろうし、私も半ばそれに同意する。
だがそれでも「柳沢大臣は『女性は子どもを産む機械』と発言した」という報道を聞くと微妙な歪曲と悪意を感じてしまう。日経新聞のような「女性を『産む機械』に例えた」であれば問題ないのだけれど。

柳沢発言が多くの人たち、特に女性有権者を怒らせたことは事実だ。
だが「産む機械」は本人も認める失言である。ただ一回の失言で閣僚の首を取るなんてことがあっていいのだろうか。
「柳沢辞めろ」と主張する野党の政治家たちは「失言一回・即アウト」の厳しい基準がブーメランとなって自分たちに返ってくることを想像しないのか。
もし柳沢氏が「失言ではない」と非を認めなかったり同様の発言を何度も繰り返すようであれば「厚生労働相として不適格」と見なされても仕方ないが、一回口を滑らせただけでクビというのはいくらなんでも厳しすぎる。
「一回の失言であっても、そこには彼の真意・本質が透けて見える」といった言い方をする人もいるが、私はそういう発想のほうに恐ろしさを感じる。「一回の失言も許さない」言論における寛容度ゼロ社会は「一言の指導者批判も許さない」全体主義国家に似てはいないか。
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「バチカンに眠る織田信長の夢」の意外な見どころ

2007年01月30日 | テレビ鑑賞記
意外な見せ場に心惹かれてつい最後まで見てしまった。

TBS「Microsoft Presents 歴史ミステリー特別企画 バチカンに眠る織田信長の夢」
信長の“死の謎”に新説を展開!!

未だ謎とされている織田信長の死。
番組では、ドラマ・ドキュメンタリー・スタジオトークとあらゆる角度からその真相を解き明かす。
俳優・加藤雅也は、安土城跡・本能寺・バチカン・フィレンツェと、国内外に点在する信長ゆかりの地を訪問。と共に、番組内に織り込まれるドラマでは信長役を演じるという新感覚のナビゲーターを務める。
スタジオでは、司会の爆笑問題を中心に様々なヒントから信長暗殺の新たなる黒幕の姿に迫ってゆく。
行方が分からなくなった安土城の屏風絵は何処へ?
安土城と信長の死の関係とは?
そして番組がたどり着く信長の死にまつわるキーワード=信長コードとは?
松永英明氏が警告していたのでさぞトンデモな番組なのだろうと期待予想していたら、案外まともというか普通だったので拍子抜けした。
本能寺の変「近衛前久の陰謀」説は定説とはいえないにしても「トンデモ」と斬って捨てられるほど説得力が低くはないように思う。もっともこれは安部龍太郎の「信長燃ゆ」を読んで楽しんだ経験があるための贔屓目かもしれない。
番組の構成としては、近衛前久陰謀説を主張する論者(作家の安部龍太郎)を画面に写して自分の口で語らせたのは良心的である。ナレーションと効果音で畳み掛けていたら視聴者は定説のように思ってしまうが、安部氏の顔が映れば「ああ、これは安部説なんだな」とわかる。番組の冒頭に登場した「信長研究の第一人者」小和田哲男教授の姿が途中で消えてしまうあたりも味わい深い。
「長篠の戦いでの三段撃ち」とか「世界初の鉄甲船」「中央に吹き抜けがある安土城」といった最近の研究では怪しいとされる通説も取り上げられていたけれど、お笑いタレントが司会する歴史バラエティーなのだからご愛嬌の範囲である。これが「その時歴史が動いた」なら一言いいたくなるけれど。

トンデモ歴史という点ではちょっと物足りなかったものの、キャストには大いに満足した。
スタジオパートでは爆笑問題はどうでもいいとして小林麻耶アナウンサーについ目が吸い寄せられてしまった。あの椅子の高さ、カメラアングル、そして彼女のスカートの短さ。あからさまに男性視聴者の助平心を狙っている。私は別に小林アナのファンじゃないけれどTBSの思惑に見事に乗せられた。悔しい。どうせ危ないシーンはカットされるに決まってるのに。男ってバカだ。

そしてドラマパート。
なんといっても近衛前久役の篠井英介がハマり役だった。今の日本に篠井さん以上に公家装束とおじゃる言葉が似合う俳優はいないでおじゃる。陰謀を企むときの狡猾な表情、通じていたはずの秀吉に裏切られたときのうろたえ方、まさに最高である。

そしてそして、誰がなんと言おうとこの番組最大の見所はドラマパートでの信長役とドキュメント部分の案内役を務めた加藤雅也だ。いや、正確に言えば彼の衣装である。ドラマ部分は普通の信長(どんなだ)だったが、ドキュメント部分はどうみても普通の番組案内役ではなかった。それはあまりといえばあまりにもステキすぎる衣装だった。
なにしろ、濃いエンジ色をしたエナメル光沢のロングコートである。
安土城址でも設楽ヶ原でも本能寺でもバチカンでも、彼の衣装は妖しい輝きを放ち見るものの目を釘付けにする。
思わず知らず「すごく…ゲイ臭いです」と呟いたのは私だけではあるまい(もしかして私だけかも)。
あまりの怪しさ、場違いなセクシーさに私の心は震えた。「NHKスペシャル・インドの衝撃」にチャンネルを変えるのを忘れてしまうほどだった。
織田信長が衆道(男色)を嗜んだことは有名だが、加藤雅也の衣装もそれにあやかったのだろうか。真相はどこにあるのか知らないが、「加藤コート」の素晴らしさは私の脳裏に深く刻み込まれた。これまで加藤雅也といえば「別所哲也と区別がつかない人」だったが、これからは「エナメルコートの人」と呼ぶことにしよう。
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人間はどこまで機械か

2007年01月29日 | 日々思うことなど
政治家の失言を批判するのも結構だが、これを機会に「人間はどこまで機械なのか」について考えてみるのもいい。

asahi.com:「女性は子どもを産む機械」発言が波紋 野党が辞任要求
 野党各党は28日、子どもを産む機械や装置に女性を例えた柳沢厚生労働相の発言を、一斉に批判した。厚労相の辞任を求める声も出ており、29日から本格化する国会論戦で追及を強めるのは確実だ。一方、柳沢氏は28日、「話をわかりやすくしようとした。適切でなかった」と釈明した。

 問題になっているのは松江市で27日あった自民党県議の後援会の集会での発言。柳沢氏は、少子化問題にふれた際、「機械と言ってごめんなさいね」などの言葉を入れつつ、「15~50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭でがんばってもらうしかない」などと発言したという。

 柳沢氏は28日、朝日新聞の取材に対し、「人口推計の話をした時、(聴衆が)よく分からないようだったので例えて言った。(発言した)途端に、これはまずいと思い、失礼した、申し訳ないとお話しした」と釈明した。女性への差別的な意識は「全くない」と否定した。

 だが、社民党の福島党首は28日、「絶対に言ってはいけない最低の発言で、辞任を要求する。女性は年金の財源を産むための機械ではない。発言は『国のために子供を産め』と言ったようなものだ」と辞任を求めた。共産党の市田忠義書記局長も「後で取り消したと言うが、最初の発言が本音だ。辞任に値する」とのコメントを出した。

 福島氏を含む民主、共産、社民の3野党の女性議員は29日、連名の抗議文書を柳沢氏に手渡し、辞任を求める。

 民主党の鳩山由紀夫幹事長は「厚労相として子どもを産み育てやすい環境をつくってこなかった所に原因があるのに、非常にけしからん」と柳沢氏を批判。国民新党の亀井久興幹事長も「女性が安心して子どもを産み、育てる環境をいかにつくるかが厚労相の仕事。そのことを棚に上げて、女性にその責任があるかのような言い方をしたとも言える。国会で責任を追及したい」と語った。
柳沢厚労相の発言は確かに政治家として不適切で、女性への侮辱だと怒る人が多いのも無理はない。
だが正直言って私にはそれほどひどい発言とも思えなかった。
昔からSF好きで、人体を機械同様に改造するサイボーグや遺伝子操作した超人類のイメージに慣れているせいもある。
柳沢発言の意図を好意的に解釈すれば、
  • (当然のこととして)女性には人格がある
  • 人格は精神と肉体を有する
  • 肉体は多くの器官によって構成される
  • 妊娠は主に卵巣と子宮という2つの器官が行う仕事である
ということだろうか。
「妊娠可能な状態にある卵巣と子宮を持つ女性の人数は限られている」と言えば騒ぎにならなかったものを、不精して言葉を惜しんだから批判を受け辞任要求までされる羽目になった。失言とは怖いものである。

ところで、「15~50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭でがんばってもらうしかない」という発言を仮に養老孟司が言ったとしたらどうだろう。現代社会の「脳化」を批判する養老氏ならこういう発言をしてもおかしくない。たぶん何の問題にもならず、それどころか多くの人を感心させたはずだ。
常識人であることを要求される政治家と常識を揺さぶる本を書いてベストセラーになった養老氏を同じ基準で見るのは無理だが、それにしても柳沢大臣への批判は過剰な気がする。

「産む機械」発言を聞いたとき私はすぐ臓器移植について連想した。
移植治療において、人間の臓器はそれこそ機械の部品のごとく個人のあいだで移し替え可能であることが前提とされる。腎臓や肝臓、そして昔は魂の座とされた心臓まで移植の対象となる。

asahi.com: 子宮移植手術を計画 米国の病院、倫理委は承認
 がんによる摘出などで子宮のない女性に、別の女性の子宮を移植する手術を米ニューヨークの病院が計画していることがわかった。AP通信が16日、報じた。過去の子宮移植は、00年にサウジアラビアで試みられた1例しかないという。

 AP通信などによると、腎臓などほかの臓器移植と同様に、亡くなったドナー(提供者)の子宮を、子宮のない女性に移植。出産後は、免疫抑制剤を生涯飲み続けなくてすむように、すぐ摘出する。計画しているのはニューヨーク・ダウンタウン病院のチーム。すでに同病院の倫理委員会は条件付きで計画を承認しているという。

 子宮を失っても子どもを望む女性には、代理出産に替わる方法となりうる。ただ、関係者のなかでも慎重な意見があり、外部の専門家も「さらに研究が必要。今が最善の時とは言えない」と懸念を示している。
アメリカでは子宮移植まで計画されている。まさに子宮を「機械」の部品と見なしているのだ。

たぶん、「産む機械」発言を批判している人たちのほとんどは素朴なヒューマニズムとフェミニズムを信じ、政治家が人権を軽視した(かのごとき)発言したことを怒っているのだろう。
そのことを批判しようとは思わない。
だが、もし彼らが「人間を機械扱いするなんて許せない!」と断罪するだけで満足してしまったら私は残念に思う。
「産む機械」という言葉は「人間はどこまで機械なのか」を考えてみるいい機会である。
「社会はどこまで人間を機械として扱っているか」「機械視が許容される限度は情況によって変化するか」「人間はどこまで機械に置き換え可能か」といったことを考えてみると「人間とは何か」という不可思議な問題の答えにわずかでも近付けるはずだ。

参考ブログ
  Backlash to 1984 - 女性ハ神聖ニシテ侵スベカラズ
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画期的なダイエット効果を持つ食品とは

2007年01月28日 | ネタとか
タイトルは煽りです。
納豆論議の続きというわけでもないけれど、画期的なダイエット効果を持つ食品とはどういうものか考えてみた。
私には食品や健康についてろくな知識がないので以下に書くことはただの与太である。

私は「あるある大辞典」を見ていないので知らなかったが、大ブームを起こした(そして実験が捏造だとバレた)納豆ダイエットなるものの方法を知ったとたんに脱力した。
以下は「あるある」番組ウェブサイトのキャッシュ。

 第140回『食べてヤセる!!!食材Xの新事実』Top page
 第140回『食べてヤセる!!!食材Xの新事実』2page
 第140回『食べてヤセる!!!食材Xの新事実』3page
 第140回『食べてヤセる!!!食材Xの新事実』4page



3ページ目に書かれている「納豆でヤセる黄金法則」とは

2パック食べるべし!
朝晩食べるべし!
よく混ぜて20分放置すべし。

だそうである。
…え、それだけ!?
一日に2パック、朝と晩に納豆を食べている人なんてそんなに珍しくないだろう(納豆好きじゃないのでよくわからんが)。とすると、「よく混ぜて20分放置」が「あるある」式納豆ダイエットのキモということになるが、なんだかやけに安直だ。意外性がない。いや、安直すぎて逆に驚く。日常生活で普通に納豆を食べるときと大して変らないじゃないか。
「朝食の20分前に納豆を混ぜておく」というのは画期的効果を期待する割には安直だが、忙しい人にとってはまるで睡眠時間を削る嫌がらせのようである。「寝る前にかき混ぜておいたのではダメなのか?」と思う無精者もいるだろう。それは私だ。

私自身は「安直すぎてとても信じられない」と感じたが、「あるある」式納豆ダイエットに飛びついた人たちにとってはその安直さがむしろ魅力だったのだろう。もし「一日10パック食え」とか「一時間かき混ぜ続けろ」とかいったハードな条件を要求されていたら最初からあきらめていたはずだ。「あるある」の捏造が最初から納豆ブームを起こす意図のもとに行われたのだとしたら、期待感と安直さとちょっとした困難をうまくブレンドして視聴者に提供したものである。さすがだ。いや褒めることでもないか。

「あるある」納豆ダイエット番組の関係者だった人がこんなことを言っている。

あるある式!納豆ダイエット! - All About
「健康情報バラエティは娯楽番組であり、当然のこととして真実を伝えていない」
「食べるだけで痩せる食品は毒である」
そりゃそうだ。と思う。
健康情報バラエティの信頼性はとりあえず「あんなの信じるほうがどうかしてる」ということにして。
日本で、いや世界の先進国で庶民が太りすぎを気にするようになったのは第二次大戦後、最近50年ほどのことだ。それまで大衆の口にする食品にはなによりも栄養とカロリーが求められていた。ということは、日常的に口にするほとんどの食品について基本的に「太らせる」能力のほうが「痩せさせる」能力を上回っていると見ていい。寒天とかコンニャクのようにカロリーがない食品も存在するがあくまで例外である。

仮に「食べるだけで痩せる食品」が存在するとしたら(私は信じないけれど)、過去・現在・未来の三方面で探すことができそうだ。

過去の食品
昔から太りすぎに悩んでいた上流階級がひそかに用いていた食品を探す。
「アゾフ海でしか取れない幻の黄金キャビアを食べると痩せる!」とか。
…量産できないから無理。

未来の食品
これまで存在が知られなかった、あるいは食品として見なかった何かを食べることで意外な効果が得られるかもしれない。
「深海で発見された新種のナマコ」とか「カメムシ」とか。
…たぶんグロくてまずいので無理。食うよりも作用物質を抽出して薬にしたほうがいい。
既存の食品を遺伝子操作してダイエット成分を含有させるほうがよさそう。

現在の食品
一般人が普通に食べているものを常識的な方法で調理したのでは画期的な効果は得られそうにない。
それなら常識外れの食べ方をしてみたらどうだろう。

小学校の家庭科で「βカロテンを含む緑黄色野菜を油でいためて食べるとビタミンAの吸収率が上がる」と習った。そして日本には昔から食べ合わせという言い伝えがある(科学的根拠は知らない)。
ということは(強引)、普通の食べ物でもこれまでになかった調理法や組み合わせで食べれば画期的なダイエット効果を得られるかもしれない。
たとえば、たとえば、うーん、画期的、画期的…

「イカの塩辛にココアをたっぷり振りかけて食べる」とか。
「くさやの干物とドリアンの和え物」とか。

…想像しただけでも胸が悪くなるので無理。
ただしインパクト抜群なので私のような馬鹿は「おお、たしかに画期的だ!」と感動する。
ここまで画期的ではないが、以前に聞いたことがある「りんごダイエット」とか「ゆで卵ダイエット」とか一つのものばかり食べ続けるダイエット法もこの分類に入る。どう考えても栄養のバランスが取れなくて体に悪そうである。

自分の経験ではダイエットに一番効果的なのは「片思い」だった。
特にやせようというつもりは無かったけれど、ウジウジ悩んだりちょっとしたことで浮かれたり、無駄に精神的エネルギーを使っているうちに5キロくらい体重が落ちた。
ただし、失恋した後でヤケ食いしたらたちまち元の体重に戻り、それどころか数キロ太った。
たいへん情けない思い出である。
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納豆のダイエット効果は期待できないと見なしてよい

2007年01月26日 | 日々思うことなど
松永氏の主張は論理的には間違っていない。
だが、太りすぎに悩む消費者が「納豆を買おうかどうしようか」と迷ったとき役に立つものではない。

絵文録ことのは:あるある大事典の「実験捏造」は「納豆ダイエットに効果がない」を意味しない
 たとえば「納豆のダイエット効力、実は「無い無い」! 関西テレビ放送が「あるある大辞典II」のデータ捏造を発表、謝罪:Garbagenews.com」と書く人がいる。それは本当だろうか? つまり、今回の件は「納豆のダイエット効力」を否定したのだろうか? そうではない。ダイエット効力を裏付ける「実験がなかった」からといって、納豆のダイエット効果そのものが否定されたわけではないのだ。

 (中略)

 あるあるは焦って実験結果を「捏造」したが、きちんと実験すれば、実は「納豆にはダイエット効果がある」という結論が得られた可能性はないのだろうか?

 つまり、何が言いたいかというと、「あるあるは実験結果やインタビュー内容を捏造した」というのが事実だとしても、それは「納豆にダイエット効果はなかったんだ」という意味にはならない、ということだ。そのように即断するのは、「納豆でダイエットできますよ」と聞いたら「そうなんだー」とスーパーに走るのとまったく変わらない思考停止であり、単に裏返しの行動にすぎない。

 「放送された内容には間違いがあった」けれども、だからといってそれは「納豆にダイエット効果がない」ことを証明したわけではない。そういうレトリックの混同(意図的・無意識的のいずれであっても)は、事実から遠ざかることになる。

はてなブックマーク - あるある大事典の「実験捏造」は「納豆ダイエットに効果がない」を意味しない [絵文録ことのは]2007/01/23
akogina 言ってることはそのとおりなんだけど|なぁ~んだか、疑似科学擁護する人ってこーゆー言い方をよくするよーな気が・・・

Sinraptor 証拠がないという事は「効果がない」を意味すると考えるべきである。悪魔の証明。 「納豆ダイエットの効果」を「幽霊の存在」に置き換えれば分かるであろう。

kurokuragawa [ネタ][論理]「無いとは言い切れない」レベルなら「無い」と判断したほうが無難だろう/個人で判断するのは自由だけど

countdown 疑似科学 根拠のない仮定をまともに相手してはいけない。一見した論理の正しさよりそれが何を生み出すかが大事だと思う。

絵文録ことのは:あるある大事典の「実験捏造」は「納豆ダイエットに効果がない」を意味しない
 はてなブックマークのコメントで、「悪魔の証明」とか「証拠がない=効果がない」とか書いている人がいて驚いた。

 まず、「効果がない」ことは実験で証明することが可能である。対照実験で、顕著な効果が見られないという証明はできる。少なくとも「毎日納豆2パック食べてどれくらいダイエットに影響があるか、あるいはないか、それとも太るか」は実験できる。したがって、「私は○○ではない」を証明しようと思ってもできないという「悪魔の証明」と混同してはならない。「悪魔の証明 - Wikipedia」も参照。

 次に、「証拠がない」場合は、「効果が実証されていない」とはいえても、「効果がない」と断定することはできない。逆に、疑似科学的に「否定する証拠がない」から「効果がある」と言うのも同じである。論理的には、この両者は同じ過ちを犯している。「証拠がない」は「効果がある」でもなければ「効果がない」でもない。「効果については何の実証もない」としか言いようがない。

 証拠がない場合に、真偽は何も言えないのである。証拠がないのに、一方の答えを持ち出すことは、すでに誤りである。もちろん、たとえば商品開発において「効果がある」ことを前提とすればまずいから、「効果がない」と考えた方がいい、という言い方はあるかもしれない。しかし、その場合でも、本当は「効果があるとは言い切れない」というのが正確なのであって、「ない」と言い切ることもまた疑似科学的であることを自覚した方がいいだろう。なぜなら、それは「副作用があるという証拠がない」=「副作用はない」と考えるのと論理的には同じであり、それが危険であることは論を待たないからである。

REVの日記 @はてな - 納豆ダイエット番組が虚偽だったことは、納豆のダイエット効果を否定するものではない、のか?
 いろいろレトリックを駆使した文章を読んだけど、「納豆によるダイエット効果(の実証(に基づく保証))は無かった」と素直に解釈すれば、何の問題もないような。

novtan別館 - 記述の内容そのものを批判したつもりはないんだけど
でも番組見て買いに走ったのは「あるあるで言っていたような効果がある」と思って納豆ダイエットをしようと思った人で、その人は「あるあるで言う通りにすれば痩せるという効果」を期待していたわけで、そういう人にとっては「実は効果があるかどうかわからない」は「効果がない」のとほぼ一緒じゃないのかなあ。だからそういう反応が思考停止ですよ、というのは確かにそうなんだけど、反応としては仕方がないんじゃないかなあ。元々買いに走っちゃうような人なんだから。


松永氏は「証拠がない場合に、真偽は何も言えないのである。証拠がないのに、一方の答えを持ち出すことは、すでに誤りである。」と主張しているが、私は「証拠がないときはこれまでの常識に沿った判断をするのが適切だ」と考える。
  • 新たな食品(これまで食用にされていなかった植物とか)であれば「ダイエット効果は不明」であり「もしかして特別なダイエット効果があるかも」と期待してもいい
  • だが納豆は日本人が数百年のあいだ好んで食べ続けてきたものだ
  • しかし「納豆には痩せる効果がある」という言い伝え(「ウナギを食べると精力が付く」レベルの)は聞いたことがない
  • つまり、常識的には納豆に特別なダイエット効果は期待されない
  • 「あるある」の伝えた「納豆のダイエット効果」は常識と異なる新奇な情報だ(だからこそ納豆の売り上げが常識外れに伸びた)
  • 新奇な情報の根拠が大いに疑われるのだから、これまでの常識(納豆に特別なダイエット効果を期待しない)に戻るのは自然なことだ

なぜ松永氏が「納豆のダイエット効果が否定されたわけではない」とあれほどまで強く主張し続けるのかわからない。「否定する実験がなされていない」と言っているが、日本人が長いあいだ食べ続けてきた食卓上の経験、いわば民族的な人体実験を無視しているのは解せない。納豆についての常識の存在とその価値を認めた上で「常識がすべてではない」と主張するならわかるが、常識自体を否定せんばかりの勢いなのはなぜだろう。

「証拠がない場合に、真偽は何も言えないのである。証拠がないのに、一方の答えを持ち出すことは、すでに誤りである。」

こういう論法はまるでニセ科学の信奉者かカルト宗教の勧誘のようで、はっきり言って気色悪い。彼らは常識を揺さぶり判断停止に追い込んでから怪しげな何かを売りつけるのが常套手段だ。

証拠がないときは健全な常識に沿ってより可能性の高そうな答えを自覚的に選べばよいのであり、判断を停止する必要はない。それがあくまでも「暫定的判断」「見なし」であることを忘れなければ充分だ。

*追記*
この記事に松岡氏から批判をいただいた。
名指ししてリンクしてくれたのはありがたいが、なぜトラックバックしないのだろうか。

 備忘録ことのはインフォーマル - ほとほとうんざり


参考ブログ記事
 佐藤秀の徒然\{?。?}/ワカリマシェン:納豆ダイエットはなぜ祭りになった
 fujixeの日記 - 科学のはなし
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首都最大の決戦

2007年01月23日 | ネタとか
筑紫哲也が都知事選出馬を検討中とか。
都民の皆様には大変お気の毒だけれど、いっそのこと田中康夫にも立候補してもらって

 「三大最低知事(候補)首都決戦」

を見てみたくなる。配役は

 ゴジラ = 石原慎太郎 (いつでも強面)
 ラドン = 筑紫哲也 (九州出身)
 モスラ = 田中康夫 (鱗粉〔カタカナ語〕を出して相手を混乱させる)

でお願いします。
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創世記「検索」機械

2007年01月22日 | テレビ鑑賞記
ネットでは「期待外れ」という声が目立つが私は面白く見た。NHKのドキュメンタリーは落ち着いていて良い。とはいえ、もし同じ素材でBBCあたりが作ったらもっと深みのある番組になったんじゃないかという気もする。

NHKスペシャル|“グーグル革命”の衝撃  あなたの人生を“検索”が変える
世界のインターネット業界で今、劇的な地殻変動が起きつつある。震源地は検索エンジンの雄、「グーグル」だ。
八年前スタンフォード大学の学生二人が学生寮から立ち上げたベンチャー企業は、今や時価総額18兆円、ITの巨人マイクロソフトの地位を揺るがそうとしている。
躍進の原動力は、ネット検索サービス。世界でグーグルが検索される回数は一日10億回、世界中すべての人間が一日一度はグーグルに向かってキーワードを打ち込むといわれている。世界中が情報をグーグルに頼り、かつ頼らざるをえなくなりつつある。
そのインパクトは「グーグル革命」とも呼ばれ、「文明に対し人間が文字を発明して以来の衝撃をもたらしつつある」という指摘もある。
検索サービスを核に進化するインターネットの新たな波が、我々の暮らしや社会にどのような影響を及ぼしつつあるのかを伝える。

番組全体で見ると
「アフィリエイトで月収90万円」「検索上位で売上が三倍に」「世界の全情報を検索可能にする壮大な夢」
といったポジティブな面よりも
「検索サービスに人生を預けていいのか」「検索上位に入るには優秀な(高額な)コンサルタントが必要」「操作される検索結果・明かされない手法」「グーグル八分で売り上げ急減」
などのネガティブな印象のほうが強かったけれど、これはネットに無知な(おそらくは大部分の)視聴者に「あるある納豆騒動」のようなブームを煽らないための配慮だと思う。見るものに「何だかわからないがグーグルって凄い!」「バスに乗り遅れるな!」という焦りより「ネットの巨大な影響力」「検索独占の恐ろしさ」を考えさせる番組作りはそんなに悪くない。

グーグルで働く若くて超優秀なエンジニアたちの姿を見ていたら、古いSF小説を思い出した。

「創世記機械」ジェイムズ・P・ホーガン
東北大SF研 創世記機械 レジュメ
 1 あらすじ
 東西分裂が進み、両者の緊張関係が高まる中、若き天才理論物理学者ブラッドリー・クリフォードは、政府機関高等通信研究所で統一場理論の研究を独自に進め、画期的な成果をあげた。物質、電磁気力、そして重力の本質を見事に解き明かしたのだ。この理論を応用すれば、宇宙のエネルギーを自由に操り、利用することができる。使い方によれば究極の兵器にもなる、そこに目をつけた西側軍部は、ともすると反抗的なクリフォードを辞職に追いやり、理論の提唱者不在のまま独自に研究を進めようとする。彼は非政府機関の国際科学財団に移り、細々と研究を続けていたのだが、行き詰った軍部に招かれて再び政府に組し、惜しみなく提供される資金と技術力を駆使して最終兵器を作り上げた・・・。

物理学と数学・情報科学、冷戦下の対立とグローバリズム、戦争と宣伝競争、軍部と民間企業…と、道具立てだけを見ると「創世記機械」とグーグルは似ても似つかない。だが、小説中の「少数の天才グループが世界の構造を変革する」ストーリー、「無邪気な技術礼賛」の雰囲気はグーグルにそっくりだ。
説明をつけるために延々と理論説明をいれているところには敬意を表して読み飛ばし、科学者が軍事部門を・・・東側と西側に分かれて両者の緊張関係が極限まで高まり、目下それが最大の関心事となっている時勢においては世界を・・・征服してしまうという、シナリオ全体に感動しました。
 科学万歳!天才万歳!
 ・・・・・・クリフォードが平和主義者でよかった。厭世家で自己中心的な人間だったら終末へのカウントダウンですよ。あるいは、彼以上の天才で軍に忠誠を誓うことを愛国心と信じて疑わないおめでたい科学者が登場していても泥沼の戦端が開きますね。いや、西側の完全勝利か・・

「創世記機械」は危機のあと能天気なほど幸せな世界をもたらしたが、グーグルは21世紀のネットを、いや地球をどのように変えてゆくのだろう。正直なところ私はそれほど安心できないけれど、それでも毎日何度となくグーグルを利用している。ランプを擦れば即座に現れる万能のジン(魔神)に頼るのをやめるのはとても難しいことだ。

ところで、番組中ではーグルと第一音節にアクセントを置いていたのが気になった。コンピュータ用語はアクセントなしで平板に発音するものだとばかり思ってたのだが。
コメント

日本料理は日本文化

2007年01月21日 | 政治・外交
私は農水省が推進する海外日本食レストラン認証を支持する。
カトラー氏の批判は性質の違うものを一緒くたにした乱暴な議論だと思う。

カトラー:katolerのマーケティング言論: 美しい国の日本文化礼賛とカワイイ革命
日本のアニメ文化、カワイイ価値観の浸透は、日本政府が自国のソフト・パワー戦略の一環として仕掛けたものではなく、それ自体が、国境を超えて、共時的に同調者をネットワークしている、トランスナショナルな現象だからだ。
こうして国境を超えてカワイイ文化が共有されていく状況を、このさい、あえて「カワイイ革命」が世界中で進行しているといいたい。

(中略)

カワイイ革命の震源地は、この日本である。アニメ漫画やゲームソフトが、海外で受け入れられていると見るや、これを日本のソフト・パワー、文化力を示すものであると言い出すお調子者たちがゾロゾロでてきた。日本発のアニメやゲームが世界のサブカルチャーの市場で存在感を増していることは喜ばしいことだが、そこに「日本文化」というレッテルが付けられたら、ゴスロリファッションの女の子たちもとたんに興ざめしてしまうだろう。アニメのキャラクターの知財権を守れというぐらいは、まだしも、こうした「日本文化礼賛」路線に乗って、海外における「日本料理」のブランド(?)を守れという主張を展開するアホな連中まで登場してきた。

たぶん、こうしたことを言い出している人々は、「美しい国」ということや、この国の「ソフト・パワー」ということを意識しているのだろう。しかし、「文化」を国民国家の枠組みの中で捉え、コントロールしようという発想は、どうしようもなく陳腐になってしまった。こんなことを考える輩は、カワイクないし、クールじゃないといわれるのが関の山だ。
「カワイイ」論については同意する。
  • 江戸時代から現代まで続く高度な大衆文化の産物として、日本で最初に「カワイイ」という概念が生まれた
  • 高度な大衆文化は世界中で発達しつつあり、「カワイイ」という概念が最初に日本で発生したのはあくまで偶然である
  • だから「『カワイイ』は日本の文化だ」と主張すべきではない
これは私にも納得できる。
最初に超高層ビルを建てたのはアメリカだが、世界中で立てられている超高層ビルが「アメリカの模倣」「アメリカ文化の輸入」というわけではない。各国・各都市はそれぞれの必要によって超高層ビルを建てている。すでに超高層ビルはアメリカ固有の文化ではなく世界共通の概念である。そこまではいい。

だが、「日本料理」を「超高層ビル」のように無国籍の一般的概念だと言えるだろうか。
私には無理だ。なにしろ言葉そのものに「日本」が含まれているのだから。
「日本」は国の名前である(「漆器」の意味もある)。アジアの東端に浮かぶ島国で独自の文化と歴史を有し、人口の98.9%が日本人だ。いくつかの偶然と必然によって日本製品と日本文化は多くの国に伝えられおおむね好評を博している。結果として「日本」にはブランド価値が生じ、それは日本人すべてにとって財産といえる。

良くも悪くも「日本料理」のイメージは日本文化・日本人・日本という国に結びつかずにはいられない。
「アメリカ料理はまずい」という印象は「アメリカ人は大雑把で味音痴」という偏見となり、「フランス料理は繊細だ」という情報は「さすがフランス、文化的だ」という予断に繋がる。
その昔「トルコ風呂」がトルコ人青年の抗議を受けてソープランドに改名したのも「トルコの名を冠した売春施設」がトルコ共和国・トルコ人への偏見に結びつくことが明白だったからだ。賢明なトルコ風呂業者たちは「トルコ風呂はハマム(トルコ式蒸し風呂)を日本人好みにアレンジしたものだ、余計な口出ししやがってクールじゃないぞ!」などと開き直りはしなかった。

だから、ろくに修行もせず、それどころかまともな日本料理を食べたことがないような料理人が外国で「日本料理」の看板を掲げ客にいい加減なものを食わせているような情況は困るのである。

 「セレブが好むヘルシーな料理という評判だから来てみたけど、日本料理っておいしくないね」
 「生魚を使っているけど調理場も料理人も清潔感がない」
 「でも値段だけは高級店なみ」


こんな印象を与える「日本料理店」の存在は日本への悪印象を生む。
外国で「日本料理」を名乗るなら日本人を納得させるか、せめて「それなりにがんばってるね」と思わせるレベルのものを出してほしい。

「カワイイ」を世界共通の一般的な概念として、それに対置させるなら「スシ」や「テリヤキ」だろう。
どちらも日本で生まれた調理法だがすでに多くの国で広く受け入れられアレンジされており、必ずしも日本文化とは直結しなくなっている。
このあいだ「回転スシ世界一周」という本を読んだが、今や世界のあちこちでことさら「日本」を主張せずヘルシーなファーストフードとしてスシを提供するスシ・ショップが流行しているらしい。そういう店にまで「日本文化」を押し付ける必要はないし、日本料理店認証制度を支持する人々(私もそのひとりだ)だってそんなおせっかいは望まないだろう。

まとめると、
  • 「カワイイ」「スシ」「テリヤキ」といった日本語発祥の言葉なら「日本」を離れて世界中で自由に使ってもらってかまわないが「日本料理」「日本車」「日本製アニメ」といった日本を冠する言葉を外国で好き勝手に使われては困る
  • 日本の名前に便乗したデタラメな商品・文化が外国で横行するのに日本人が怒るのは当然のことだ
  • 海外のインチキ和食屋は日本料理とは呼べず、ヒュンダイとホンダは違い、テコンVとマジンガーZを一緒くたにされるのは情けない限りだ
  • 「日本~」と名乗るものは日本人が納得できるものであってほしい
イタリアやタイが海外で自国料理を提供するレストランの認証制度を実施しているのは自国の文化とイメージを守るため当然の措置である。リストランテ・イタリアーノやタイ・セレクトを「『文化』を国民国家の枠組みの中で捉え、コントロールしようという発想」だと怒る人がいたとして、グローバリズムをラジカルに奉じる少数派に留まるだろう。

カトラー氏の主張されるように「国民国家の枠組み」を超えた文化を作りたい人は自由にやればいいのである。多分そのほうがススんでいてお金だって儲かるのだろう。結構なことだ。だが、それなら看板に「日本料理」を謳う必要はない。堂々と日本「風」料理とかアジアン創作料理とか名乗ればよい。私のように国家の枠に縛られた頭の固い人間だってインチキのない創作料理にまで文句は言わない。
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THE 失望ホテル

2007年01月19日 | テレビ鑑賞記
年末に放送された映画「THE 有頂天ホテル」を録画で見た。大いに笑って爽快な気分になることを期待していたのに、むしろ欲求不満ばかり溜まってしまった。いくらでも面白くなる素材なのにそれが生かされていないのだ。
松永英明氏が2ちゃんねるを批判した文章を退屈で平凡と感じたときもそうだが、並みはずれた才能を持っている人が凡作を作りそれがもてはやされる情況を見るとイライラする。「三谷幸喜の(松永英明氏の)才能はこんなものじゃない、こんなつまらない作品を褒めるのはむしろ侮辱するようなものだ!」と言いたくなる。

…と、上に書いたこととは矛盾するようだが私は三谷幸喜作品の熱心なファンというわけではない。初めて「王様のレストラン」を見たときは「何て面白いんだろう、すごい才能だ」と感心したものだが、「古畑任三郎」はどうも肌に合わず、「総理と呼ばないで」「合い言葉は勇気」は駄作としか思えなかった。「新選組!」も序盤しか見ていない。ただ、ずいぶん前に見た「ラヂオの時間」はストーリーは忘れたけれど大変面白かったような記憶がある。特にファンではないけれど三谷幸喜の才能にはいつも期待している。

なぜ「THE 有頂天ホテル」を楽しめなかったのか。登場人物の造形に厚みがなく感情移入できないからだ。なにしろオールスターキャストなので一人一人の描写を濃密にすることができないのは分かるが、それにしてももうちょっと何とかならないものか。「登場人物たちがホテル・アヴァンティに実在していてそこにおかしな出来事が起きる」というよりも「先にシチュエーションやギャグを考え、それにあてはめて適当にキャラクターを作った」ように見える。マルクス兄弟(古すぎるかな)のようなスラップスティックならギャグ最優先の作りは大いに結構だが、三谷幸喜の持ち味は「ウィットやユーモアに富んだ演出による、ハートウォーミング、人間賛歌」(Wikipediaより)なのだから困る。

冒頭、大晦日の客で賑わうロビーで副支配人・新堂(役所広司)たちが「謹賀“信念”」の垂れ幕を広げ困惑しているところからして白けてしまう。場末の三流ホテルならともかく、政治家や大スターが利用する一流ホテルなのに客の前で鳩首会議することなどあるのか。リアリティ不足はともかく、笑いの発電機を動かすためのダムを低くしたのが解せない。そういう内輪のごたごたは裏でやり、客の前では万事問題ないような顔をしていないと「一流ホテル」と「ドタバタ」の落差が生まれず強烈な笑いが生まれない。
これに限らず、アヴァンティの従業員たちは「表」での存在感がありすぎる。いくつものトラブルが起きて秩序が崩壊する後半ならともかく、最初から「表の華やかな客たち」「舞台裏の従業員たち」の描き分けがあいまいだからクライマックスで新堂が客に説教する(ネタバレなので反転)シーンで逆転のカタルシスが得られない。

*以後ネタバレがあります*



客室係のハナ(松たか子)がルームメイクに行った部屋で客のアクセサリーとコートを身につけるシーンからして駄目だ。なぜ彼女がそういうことをしたのかという描写がなく、単に「きれいだなあ、持ち主がいない間にちょっと身に付けちゃえ」という思い付きの行動にしか見えない。これでは衝動的なだけの馬鹿である。
だいたいホテルの客室係が客の持ち物を見て「ちょっと身に付けてみたい」などと思うものだろうか。新入社員やアルバイトならともかく、ハナはそれなりに経験を積んだプロのはずだ(明確な描写はないが他の従業員への大きな態度から推測)。銀行員が札束に「大金だ!」という興奮を感じなくなるように、 ホテルの客室係は客の持ち物について「自分が着てみたい」などと思わないだろう。私がいかにもありそうだと思うのは「この服センス悪い」「このアクセサリーいくらだろう」という陰口くらいだ。
どうしても彼女にタブーを犯させるなら、観客が感情移入できる理由をつけるべきだ。たとえば「以前から高級店のショーウィンドーで見て憧れていた」とか「期待していたクリスマスプレゼントがもらえず不満が溜まっていた」とか。ハナは後半で渦中の国会議員・武藤田(佐藤浩市)にご立派なアドバイスをするのだから、ただのオッチョコチョイでは困る。

それに対して、新堂がマン・オブ・ザ・イヤー受賞者に成りすますギャグは心理的に無理がない。
現実的な可能性としては「客室係が客の持ち物を興味本位で身につけてしまう」ほうが「副支配人が客に成りすます」よりも高いだろうが、ハナの動機が描写されないのに対して新堂の気持は観客に説明されているから感情移入しやすい。「別れた妻(今もいい女である)に偶然出くわしてしまい思わず見栄を張る」新堂の行動はわかりやすい。小さな嘘を守るためにどんどん無茶をやるのも自然に受け入れられる。観客は「ああやっちゃった」「それは無理だろう」とは思うものの「何でこんなことするのかわからない」という違和感を持たずにすむ。

だがその新堂もクライマックスで理解不能の行動を取る。
一度は記者会見で贈収賄の真相をぶちまける決意をした武藤田がハナのアドバイスを受け入れて逃げることにする。そのまま逃がしてやればいいものを、なぜか新堂が「急に中止されるとホテルの信用問題になる、だからぜひ会見をやってくれ、途中で逃げてもいいから」と説得するのだ。
…何なんだこれは?
そもそも「疑惑の渦中にある政治家が急に記者会見を中止する」のがホテルの信用に関わるという理屈がわからない。記者会見・プロデュース・バイ・ホテルアヴァンティだったのか。そんなことはない。ホテルは武藤田とマスコミに場所を貸すだけであって会見の場で何を話そうと中止しようとホテルの信用には無関係だ。
映画の中で二番目の常識人のはずの新堂(一番は戸田恵子の演じるアシスタントマネージャー)がこんな超理論を言い出したから、てっきり「灰皿と取り皿を間違えた客に恥をかかせないようすべての皿を取り替える」シーンのような機転かと思うと何もない。武藤田の会見は大混乱に終わり、あれでは最初から中止したほうがホテルにとっても武藤田にとってもずっとマシである。私には三谷幸喜がどういうつもりであのセリフを言わせたのか見当もつかない。「うろたえた新堂が思いつきで馬鹿なことを言った」のなら理解できるが映画の雰囲気では「さすが新堂、いいこと言った!ホテルマンの鑑!!」という感じだ。わけがわからない。あまりにも妙なことをされると映画全体が非常識に思えてしまう。コメディーなのだから常識をぶっ壊すのはけっこうだが「単に非常識なだけ」では痛い。私には新堂の演説は紅白でDJ・OZMAがやらかしたパフォーマンスと同じような勘違いにしか見えなかった。
どうしても「記者会見場の大混乱」という絵が欲しいのなら、コールガールのヨーコ(篠原涼子)に無茶苦茶な超理論を主張させるべきだった。ヨーコは映画中で一番の非常識キャラなのだから無茶を言ってもおかしくない。超理論に常識人がたじたじとなり「何か変だな…」と思いつつ従わされる、というほうが意味不明の感動シーン(?)よりずっと面白かったのに。

その他にも、客室係の睦子が背に担いでいたギターがやたら目立つ割にまったくギャグに生かされてないとか、狂言回しのアヒルが最後に見せ場を作るかと思いきや何もなかったとか、川平慈英のウェイターがひたすら暑苦しかったとか、トレンチコートの「ホテル探偵」なんているわけないだろ!とか(これは意図的なギャグなのでいいのだけど)、細かな不満を数えるとキリがない。
それでも最後まで見てしまったのはひとえに役所広司をはじめとする俳優たちの力ゆえである。採点するとしたら脚本・演出は40点、演技は90点。そして何よりも戸田恵子さんの美しいおみ脚に120点。さすが元アイドル。ガンダム(所謂ファースト)に魂を引かれる私はマチルダさんを思い出してつい感涙に咽んだのである(ちょっと大げさ)。
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松永英明氏が語らなかったこと

2007年01月16日 | ネット・ブログ論
いつも読んでいるブログで自分の記事が思いがけず引き合いに出されていたからちょっと驚いた。

シム宇宙の内側にて:【追記あり】 『2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ』 のいやらしさのコメント欄でfw0さん(「シム宇宙の内側にて」ブログ主)がこのように言っておられる。
・あらま さん
ほんと、松永 さんのエントリは、次のエントリ辺りをストレートでない方向に焼きなおしただけでオリジナリティもなく、困ったものですね。

玄倉川の岸辺:素朴で正義感の強い人たち
http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/e/fd11ac777d2ab60b2bbe2122fa26514d
2007-01-15 Mon 22:56
驚いたのは、松永氏の記事を読んで(正確には「眺めて」)自分の書いたことに似ているとはまったく感じなかったから。

2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ [絵文録ことのは]2007/01/13
 ドメイン差し押さえが報じられている2ちゃんねるであるが、2ちゃんねらーが様々な騒動を起こすとき、そこには「正義に基づく暴走」がみられるように思う。

 彼らは、正義の旗の下に「悪人」を糾弾し、正義の旗の下に「善意」を喧伝する。今なお続くmixi乗っ取り犯による自己正当化の発言を見ている限り、彼らはあくまでも自分たちの行動が正しく、それに反するものをすべて敵と見なす。

 自分たちは正義である――だから何をやっても正しい、逆らう奴が悪い。そんな意識が2ちゃんねらーには見え隠れしている、と私は感じている。
この記事自体は「はてなブックマーク」の人気エントリーに並んだとき見に行ったけれど世評のわりに退屈としか思えず、ざっと眺めただけだった。焼き直し疑惑を聞いてもう一度読もうとしたが、どこかで見たようなピントの外れた2ちゃんねる論にうんざりして途中から飛ばし読み。オリジナル(?)を書いた人間が共感できない文章なのだから、松永氏の記事は焼き直しではないだろう。
松永氏ほど高い知性を持ち、世人に希な経験をした人物であれば非凡な2ちゃんねる批判・「正義」批判が書けるはずだ。それなのにあの程度のつまらない代物になったのは彼がある重要な体験を語るのを避けたからだと思う。

松永氏の記事はおよそ私には感心できないものだが、以下に引用する感覚は自分に通じるものがあると思った。
ここで私自身の考え方の傾向について述べておく。それは「社会正義」を標榜する人たちが大嫌いだということだ。社会正義ではなく「自分個人の正義」を標榜し、あくまでも個人的な考えとして意見を述べるのであれば、「そういう人もいるんですね」で済む。しかし、「自分の考え」を「社会はみんなこう考える」とすり替えて押しつけたり、あるいは「世間ではこう考えている」ということを振りかざして、あたかも自分の「正義」が普遍的なものであるかのごとく振る舞う人は、大嫌いである。
私の場合は正義感が人並みはずれていので、悪い事をしてもあまり罪悪感を感じないし社会の不正に憤ることも少ない。自分自身それを良いこととは思っていないが、精神的体質なのでどうしようもないと諦めている。「世に倦む日日」「STOP THE KOIZUMI」運動をウォッチしていたのも「世の中にはずいぶん正義感の強い人がいるなあ」と呆れた感心したからだ。

そんな私から見て、なぜか松永氏の記事からご自身が嫌っているはずの「『自分の考え』を『社会はみんなこう考える』とすり替えて押しつけたり、あるいは『世間ではこう考えている』ということを振りかざして、あたかも自分の『正義』が普遍的なものであるかのごとく振る舞う」ような臭みが感じられるのが残念だ。「好き嫌いをそんなに熱く弁じられても…」と引いてしまうし、「2ちゃんねらーの『正義』を批判する道具として『好き嫌い』を持ち出したのか」「実は松永氏自身が誰よりも正義を振りかざしたい人なのでは」と疑いを抱いてしまう。

松永氏はかつてあるカルト教団に帰依していた経歴がある。そのこと自体をあげつらう気はないが、松永氏が「正義に基づく暴走」の危うさを糾弾するならかつて自らが邪悪な善魔に魅入られたことを率直に語るべきだと考える。暴走する「正義」の恐ろしさを希少な体験を生かし実感として言うのであれば大いに説得力が増したはずだ。
だが、なぜか松永氏はそのようには語らなかった。
いや、彼には語れなかったのか。
結局のところ松永氏は過去の自分と向き合うのを避け、まるで他人事のように(!)正義に昂ぶる2ちゃんねらーを批判することを選んだ。
私はそこに彼の弱さと(おそらくは無意識の)欺瞞を見てしまう。

松永氏は「2ちゃんねる型『正義感』のいやらしさ」の続きを書いている。
前の記事よりははるかに論理的な2ちゃんねる批判だが、私はむしろタイトルに興味を引かれた。

2ちゃんねるの致命的欠陥――ひろゆきは2ちゃんねらーに責任転嫁すべきだ [絵文録ことのは]

もしかすると彼が本当に「責任転嫁せよ」と勧めたいのは東京拘置所にいるあの男なのかもしれない。
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