「村上春樹とエルサレム賞(あるいは人間の三つのタイプについて)」の続き。
前の記事では「政治好きな人の中で政治的センスに優れた人は少ない」と書いた。逆に言えば、多くの「政治好きな人・活動家」は政治的センスが悪い(「政治が苦手な人」たちの平均と比べても)ということだ。
たいていは無邪気な「下手の横好き」であり、素人のカラオケ好きと変わらない。歌が苦手な人でも愛想よく誘われたら一緒にカラオケボックスに行くことだってあるだろう(私はやらないけど)。よき友人、愛すべき隣人である。
すべての「政治好き」がそうであってくれたら問題はないのだが、残念ながら好きが高じて病膏肓に入ってしまうことがある。嫌がる友人や同僚を無理やりカラオケボックスに引きずり込み得意の曲を聞かせたがる。ただ聞いてもらうだけじゃなくて拍手と賞賛を求める。まことに災難である。要するにジャイアン・リサイタルだ。
どうしようもなく下手なのに歌を聞かせたがるジャイアンの原型は落語「寝床」の旦那にある。
寝床 - Wikipedia
政治を語ったり政治活動するのが好きで「社会意識の高い」大人を小学生のジャイアンにたとえるのは失礼であろう。この稿では病膏肓に入った「政治センスの悪い政治好き」を「政治的『義太夫の旦那』」と呼ぶことにする(略称・政義太=せいぎだ)。
呼び方は違っても生態はほとんど同じだ。どちらも自分の「歌」にむやみと自信を持っている。下手なんじゃないか、聞かされた人は苦痛じゃないかなどというつまらない心配はしない。むしろ「俺様の歌を聞ける奴は幸せだ」「俺の歌がわからない奴は耳が悪い、バカだ、意識が低い」と思っている。ときに「自分は下手なんじゃないか」という疑いが心にきざすこともあるが、そんなときは「場数が足りないからだ、もっともっと多くの観客の前で歌えばうまくなる」「拍手と賞賛を浴びればぐんぐん上達する」と都合のいい考え方をする。
果ては本職の義太夫語りを捕まえて「お前はてんでなっちゃいない、俺が手ほどきしてやる」などと言い出す。まことにご立派なことである。
村上春樹のエルサレム賞受賞について、村上自身が何も発言しないうちから受賞を拒否しろ、受賞するならスピーチで良心を見せろ、逃げるな、逃げたら卑怯者だ、日和りやがったら石を投げるぞ、などと息巻いている人たちはまさに政治的「義太夫の旦那」そのものだ。いや、義太夫の旦那なら長屋の連中に酒とご馳走を出してもてなすが、政治的旦那はひたすら要求するだけである。
彼らは村上春樹が作家であること、言葉の本職であることを一顧だにしない。
それもただの作家ではない。日本で唯一の「文学者にしてベストセラー作家」である。彼の作品は世界中で翻訳されて高い評価を得ており、ノーベル文学賞候補に擬せられることもある、まさに掛け値なしの世界的大作家さまだ。
…野暮な説明をするのは気がひけるが、上に書いた村上春樹の評価は半分本気、半分は皮肉である。私自身は村上春樹ファンではなく、むしろそこはかとない悪意を持っている。「気取りやがって」「自分をテフロン加工したつもりか」「なんであの程度の小説(読んでないけど)がベストセラーなんだ」と大いにやっかんでいる。もしも村上春樹のスキャンダルが週刊誌に暴露されたら私はニヤニヤする。そんな私でも村上春樹の作品が世界的に評価されていること、単なる大衆の暇つぶし(エンターテインメント)ではなく人生と世界の意味を探求する小説(文学)として認められていることは否定できない。
政治的「義太夫の旦那」は、村上春樹自身の良心や思想を信じない。信じる信じない以前にまったく眼中に無いようでもある。「村上氏が自分に向き合って静かに考えればきっと正しい答えを得るだろう」「少なくとも彼らしい良心の欠片を見せてくれるはずだ」という信頼はどこにもない。「俺が(私たち政治的に目覚めた者たちが)正解を教えてやらないと、ムラカミハルキは何もわからず何も考えず甘っちょろいスピーチをするに違いない」と決め付けている。アメと鞭、ではなくひたすら鞭の脅しで「良心」と「政治的見識」による正しい答えを押し付ける。世界的大作家(半分皮肉です)に対してひどく失礼だし、「旦那」がたの思い上がりがあからさまで滑稽でさえある。
村上春樹本人に内在する良心や思想を信じられないのなら、たとえ彼がエルサレム賞の受賞スピーチで火を噴くようなイスラエル批判を行ったとしても何の意味があるだろう。セリフを与えられた役者、いや、糸の先で踊る操り人形と同じだ。そんな借り物の良心、押し付けられた思想によって生まれたプロテストがイスラエル人の心を動かせるはずもない。きっと彼らは世界中から寄せられる「良心の声」に耳が慣れている。はっきり言えば聞き飽きている。彼らの心を動かせるとしたら、作家・村上春樹が自らの良心、自らの思想で語る「村上春樹の言葉」以外にない。村上春樹は「大作家」の名札をつけた木偶の坊ではない、私やあなたと同じく魂を持った人間なのだ。イスラエルに住む人たちもまた同じである。
エルサレム賞で噴き上がっている政治的「義太夫の旦那」の多くはいわゆる左翼のようだ。もちろん、右翼にもイスラエル(ユダヤ人)を批判するものは少なくないので右側の「旦那」がいてもおかしくないが、今のところ目立たない。
左翼の人たちは安倍総理が推し進めようとした「愛国心教育」に反対していたはずだ。「愛国心は押し付けるものではない」「自然に育った愛国心でなければ意味がない」まことにもっともである。ご今上(天皇陛下)も日の丸君が代について「強制でないことが望ましい」とおっしゃった。
だが、愛国心の押し付けを批判した左翼(の一部)が世界的大作家である村上春樹に良心と政治的見識、正しいプロテストのやりかたを押し付けたがる。まことに両極端は一致するし、人間は簡単に自分の姿を見失うものである。世界から揉め事や戦争がなくならないのも無理はない。
エルサレム賞の意味、村上春樹の色濃い政治性とその透明さ(リンゴは赤くて白い)については「逃・逃避日記」 le-matin さん(とお呼びしていいのだろうか)のすばらしい記事があるので、ぜひ読んでください。特に「春樹イスラエル再話」は私がぼんやり思っていたことを明快な文章にしてくれたようで胸のすく思いがした。
村上春樹さんがエルサレム賞を受賞 - 逃・逃避日記
エルサレム賞に関してもう少し - 逃・逃避日記
春樹イスラエル再話 - 逃・逃避日記
前の記事では「政治好きな人の中で政治的センスに優れた人は少ない」と書いた。逆に言えば、多くの「政治好きな人・活動家」は政治的センスが悪い(「政治が苦手な人」たちの平均と比べても)ということだ。
たいていは無邪気な「下手の横好き」であり、素人のカラオケ好きと変わらない。歌が苦手な人でも愛想よく誘われたら一緒にカラオケボックスに行くことだってあるだろう(私はやらないけど)。よき友人、愛すべき隣人である。
すべての「政治好き」がそうであってくれたら問題はないのだが、残念ながら好きが高じて病膏肓に入ってしまうことがある。嫌がる友人や同僚を無理やりカラオケボックスに引きずり込み得意の曲を聞かせたがる。ただ聞いてもらうだけじゃなくて拍手と賞賛を求める。まことに災難である。要するにジャイアン・リサイタルだ。
どうしようもなく下手なのに歌を聞かせたがるジャイアンの原型は落語「寝床」の旦那にある。
寝床 - Wikipedia
下手な義太夫語りの事を、「五色の声」、つまり「まだ青き 素(白)人浄瑠璃 玄(黒)人がって 赤い顔して 黄な声を出す」と言ったのは蜀山人だという。
ある大家の旦那もそんな類の一人で、すぐ他人に語りたがるが、あまりにも下手なので、長屋の店子たちは誰も聞きに来ない。だったら、せめてご馳走をして、ご機嫌をとろうと色々と準備をしてから店員の繁蔵を呼びに行かせたがやはり駄目。
提灯屋は開店祝いの提灯を山のように発注されてんてこ舞い、金物屋は無尽の親もらいの初回だから出席しない訳にはいかず、小間物屋は女房が臨月なため辞退、鳶の頭は成田山へお詣りの約束、豆腐屋は法事に出す生揚げやがんもどきをたくさん発注されて大忙しと全員断られてしまった。ならば、と店の使用人たちに聞かせようとするが、全員仮病を使って聴こうとしない。
頭に来た旦那は、長屋は全員店立て(たたき出す事)、店の者は全員クビだと言って不貞寝してしまう。それでは困る長屋の一同、観念して義太夫を聴こうと決意した。一同におだてられ、ご機嫌を直して再び語ることにした旦那は準備にかかる。その様子を見ながら一同、旦那の義太夫で奇病(その名も「義太熱」、「ギダローゼ」)にかかったご隠居の話などをして、酔っ払えば分からなくなるだろうと酒盛りを始めた。
政治を語ったり政治活動するのが好きで「社会意識の高い」大人を小学生のジャイアンにたとえるのは失礼であろう。この稿では病膏肓に入った「政治センスの悪い政治好き」を「政治的『義太夫の旦那』」と呼ぶことにする(略称・政義太=せいぎだ)。
呼び方は違っても生態はほとんど同じだ。どちらも自分の「歌」にむやみと自信を持っている。下手なんじゃないか、聞かされた人は苦痛じゃないかなどというつまらない心配はしない。むしろ「俺様の歌を聞ける奴は幸せだ」「俺の歌がわからない奴は耳が悪い、バカだ、意識が低い」と思っている。ときに「自分は下手なんじゃないか」という疑いが心にきざすこともあるが、そんなときは「場数が足りないからだ、もっともっと多くの観客の前で歌えばうまくなる」「拍手と賞賛を浴びればぐんぐん上達する」と都合のいい考え方をする。
果ては本職の義太夫語りを捕まえて「お前はてんでなっちゃいない、俺が手ほどきしてやる」などと言い出す。まことにご立派なことである。
村上春樹のエルサレム賞受賞について、村上自身が何も発言しないうちから受賞を拒否しろ、受賞するならスピーチで良心を見せろ、逃げるな、逃げたら卑怯者だ、日和りやがったら石を投げるぞ、などと息巻いている人たちはまさに政治的「義太夫の旦那」そのものだ。いや、義太夫の旦那なら長屋の連中に酒とご馳走を出してもてなすが、政治的旦那はひたすら要求するだけである。
彼らは村上春樹が作家であること、言葉の本職であることを一顧だにしない。
それもただの作家ではない。日本で唯一の「文学者にしてベストセラー作家」である。彼の作品は世界中で翻訳されて高い評価を得ており、ノーベル文学賞候補に擬せられることもある、まさに掛け値なしの世界的大作家さまだ。
…野暮な説明をするのは気がひけるが、上に書いた村上春樹の評価は半分本気、半分は皮肉である。私自身は村上春樹ファンではなく、むしろそこはかとない悪意を持っている。「気取りやがって」「自分をテフロン加工したつもりか」「なんであの程度の小説(読んでないけど)がベストセラーなんだ」と大いにやっかんでいる。もしも村上春樹のスキャンダルが週刊誌に暴露されたら私はニヤニヤする。そんな私でも村上春樹の作品が世界的に評価されていること、単なる大衆の暇つぶし(エンターテインメント)ではなく人生と世界の意味を探求する小説(文学)として認められていることは否定できない。
政治的「義太夫の旦那」は、村上春樹自身の良心や思想を信じない。信じる信じない以前にまったく眼中に無いようでもある。「村上氏が自分に向き合って静かに考えればきっと正しい答えを得るだろう」「少なくとも彼らしい良心の欠片を見せてくれるはずだ」という信頼はどこにもない。「俺が(私たち政治的に目覚めた者たちが)正解を教えてやらないと、ムラカミハルキは何もわからず何も考えず甘っちょろいスピーチをするに違いない」と決め付けている。アメと鞭、ではなくひたすら鞭の脅しで「良心」と「政治的見識」による正しい答えを押し付ける。世界的大作家(半分皮肉です)に対してひどく失礼だし、「旦那」がたの思い上がりがあからさまで滑稽でさえある。
村上春樹本人に内在する良心や思想を信じられないのなら、たとえ彼がエルサレム賞の受賞スピーチで火を噴くようなイスラエル批判を行ったとしても何の意味があるだろう。セリフを与えられた役者、いや、糸の先で踊る操り人形と同じだ。そんな借り物の良心、押し付けられた思想によって生まれたプロテストがイスラエル人の心を動かせるはずもない。きっと彼らは世界中から寄せられる「良心の声」に耳が慣れている。はっきり言えば聞き飽きている。彼らの心を動かせるとしたら、作家・村上春樹が自らの良心、自らの思想で語る「村上春樹の言葉」以外にない。村上春樹は「大作家」の名札をつけた木偶の坊ではない、私やあなたと同じく魂を持った人間なのだ。イスラエルに住む人たちもまた同じである。
エルサレム賞で噴き上がっている政治的「義太夫の旦那」の多くはいわゆる左翼のようだ。もちろん、右翼にもイスラエル(ユダヤ人)を批判するものは少なくないので右側の「旦那」がいてもおかしくないが、今のところ目立たない。
左翼の人たちは安倍総理が推し進めようとした「愛国心教育」に反対していたはずだ。「愛国心は押し付けるものではない」「自然に育った愛国心でなければ意味がない」まことにもっともである。ご今上(天皇陛下)も日の丸君が代について「強制でないことが望ましい」とおっしゃった。
だが、愛国心の押し付けを批判した左翼(の一部)が世界的大作家である村上春樹に良心と政治的見識、正しいプロテストのやりかたを押し付けたがる。まことに両極端は一致するし、人間は簡単に自分の姿を見失うものである。世界から揉め事や戦争がなくならないのも無理はない。
エルサレム賞の意味、村上春樹の色濃い政治性とその透明さ(リンゴは赤くて白い)については「逃・逃避日記」 le-matin さん(とお呼びしていいのだろうか)のすばらしい記事があるので、ぜひ読んでください。特に「春樹イスラエル再話」は私がぼんやり思っていたことを明快な文章にしてくれたようで胸のすく思いがした。
村上春樹さんがエルサレム賞を受賞 - 逃・逃避日記
エルサレム賞に関してもう少し - 逃・逃避日記
春樹イスラエル再話 - 逃・逃避日記