玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

政治的な「義太夫の旦那」

2009年01月30日 | 日々思うことなど
「村上春樹とエルサレム賞(あるいは人間の三つのタイプについて)」の続き。

前の記事では「政治好きな人の中で政治的センスに優れた人は少ない」と書いた。逆に言えば、多くの「政治好きな人・活動家」は政治的センスが悪い(「政治が苦手な人」たちの平均と比べても)ということだ。
たいていは無邪気な「下手の横好き」であり、素人のカラオケ好きと変わらない。歌が苦手な人でも愛想よく誘われたら一緒にカラオケボックスに行くことだってあるだろう(私はやらないけど)。よき友人、愛すべき隣人である。
すべての「政治好き」がそうであってくれたら問題はないのだが、残念ながら好きが高じて病膏肓に入ってしまうことがある。嫌がる友人や同僚を無理やりカラオケボックスに引きずり込み得意の曲を聞かせたがる。ただ聞いてもらうだけじゃなくて拍手と賞賛を求める。まことに災難である。要するにジャイアン・リサイタルだ。

どうしようもなく下手なのに歌を聞かせたがるジャイアンの原型は落語「寝床」の旦那にある。

寝床 - Wikipedia
下手な義太夫語りの事を、「五色の声」、つまり「まだ青き 素(白)人浄瑠璃 玄(黒)人がって 赤い顔して 黄な声を出す」と言ったのは蜀山人だという。

ある大家の旦那もそんな類の一人で、すぐ他人に語りたがるが、あまりにも下手なので、長屋の店子たちは誰も聞きに来ない。だったら、せめてご馳走をして、ご機嫌をとろうと色々と準備をしてから店員の繁蔵を呼びに行かせたがやはり駄目。

提灯屋は開店祝いの提灯を山のように発注されてんてこ舞い、金物屋は無尽の親もらいの初回だから出席しない訳にはいかず、小間物屋は女房が臨月なため辞退、鳶の頭は成田山へお詣りの約束、豆腐屋は法事に出す生揚げやがんもどきをたくさん発注されて大忙しと全員断られてしまった。ならば、と店の使用人たちに聞かせようとするが、全員仮病を使って聴こうとしない。

頭に来た旦那は、長屋は全員店立て(たたき出す事)、店の者は全員クビだと言って不貞寝してしまう。それでは困る長屋の一同、観念して義太夫を聴こうと決意した。一同におだてられ、ご機嫌を直して再び語ることにした旦那は準備にかかる。その様子を見ながら一同、旦那の義太夫で奇病(その名も「義太熱」、「ギダローゼ」)にかかったご隠居の話などをして、酔っ払えば分からなくなるだろうと酒盛りを始めた。


政治を語ったり政治活動するのが好きで「社会意識の高い」大人を小学生のジャイアンにたとえるのは失礼であろう。この稿では病膏肓に入った「政治センスの悪い政治好き」を「政治的『義太夫の旦那』」と呼ぶことにする(略称・政義太=せいぎだ)。
呼び方は違っても生態はほとんど同じだ。どちらも自分の「歌」にむやみと自信を持っている。下手なんじゃないか、聞かされた人は苦痛じゃないかなどというつまらない心配はしない。むしろ「俺様の歌を聞ける奴は幸せだ」「俺の歌がわからない奴は耳が悪い、バカだ、意識が低い」と思っている。ときに「自分は下手なんじゃないか」という疑いが心にきざすこともあるが、そんなときは「場数が足りないからだ、もっともっと多くの観客の前で歌えばうまくなる」「拍手と賞賛を浴びればぐんぐん上達する」と都合のいい考え方をする。
果ては本職の義太夫語りを捕まえて「お前はてんでなっちゃいない、俺が手ほどきしてやる」などと言い出す。まことにご立派なことである。



村上春樹のエルサレム賞受賞について、村上自身が何も発言しないうちから受賞を拒否しろ、受賞するならスピーチで良心を見せろ、逃げるな、逃げたら卑怯者だ、日和りやがったら石を投げるぞ、などと息巻いている人たちはまさに政治的「義太夫の旦那」そのものだ。いや、義太夫の旦那なら長屋の連中に酒とご馳走を出してもてなすが、政治的旦那はひたすら要求するだけである。

彼らは村上春樹が作家であること、言葉の本職であることを一顧だにしない。
それもただの作家ではない。日本で唯一の「文学者にしてベストセラー作家」である。彼の作品は世界中で翻訳されて高い評価を得ており、ノーベル文学賞候補に擬せられることもある、まさに掛け値なしの世界的大作家さまだ。

…野暮な説明をするのは気がひけるが、上に書いた村上春樹の評価は半分本気、半分は皮肉である。私自身は村上春樹ファンではなく、むしろそこはかとない悪意を持っている。「気取りやがって」「自分をテフロン加工したつもりか」「なんであの程度の小説(読んでないけど)がベストセラーなんだ」と大いにやっかんでいる。もしも村上春樹のスキャンダルが週刊誌に暴露されたら私はニヤニヤする。そんな私でも村上春樹の作品が世界的に評価されていること、単なる大衆の暇つぶし(エンターテインメント)ではなく人生と世界の意味を探求する小説(文学)として認められていることは否定できない。

政治的「義太夫の旦那」は、村上春樹自身の良心や思想を信じない。信じる信じない以前にまったく眼中に無いようでもある。「村上氏が自分に向き合って静かに考えればきっと正しい答えを得るだろう」「少なくとも彼らしい良心の欠片を見せてくれるはずだ」という信頼はどこにもない。「俺が(私たち政治的に目覚めた者たちが)正解を教えてやらないと、ムラカミハルキは何もわからず何も考えず甘っちょろいスピーチをするに違いない」と決め付けている。アメと鞭、ではなくひたすら鞭の脅しで「良心」と「政治的見識」による正しい答えを押し付ける。世界的大作家(半分皮肉です)に対してひどく失礼だし、「旦那」がたの思い上がりがあからさまで滑稽でさえある。

村上春樹本人に内在する良心や思想を信じられないのなら、たとえ彼がエルサレム賞の受賞スピーチで火を噴くようなイスラエル批判を行ったとしても何の意味があるだろう。セリフを与えられた役者、いや、糸の先で踊る操り人形と同じだ。そんな借り物の良心、押し付けられた思想によって生まれたプロテストがイスラエル人の心を動かせるはずもない。きっと彼らは世界中から寄せられる「良心の声」に耳が慣れている。はっきり言えば聞き飽きている。彼らの心を動かせるとしたら、作家・村上春樹が自らの良心、自らの思想で語る「村上春樹の言葉」以外にない。村上春樹は「大作家」の名札をつけた木偶の坊ではない、私やあなたと同じく魂を持った人間なのだ。イスラエルに住む人たちもまた同じである。

エルサレム賞で噴き上がっている政治的「義太夫の旦那」の多くはいわゆる左翼のようだ。もちろん、右翼にもイスラエル(ユダヤ人)を批判するものは少なくないので右側の「旦那」がいてもおかしくないが、今のところ目立たない。
左翼の人たちは安倍総理が推し進めようとした「愛国心教育」に反対していたはずだ。「愛国心は押し付けるものではない」「自然に育った愛国心でなければ意味がない」まことにもっともである。ご今上(天皇陛下)も日の丸君が代について「強制でないことが望ましい」とおっしゃった。
だが、愛国心の押し付けを批判した左翼(の一部)が世界的大作家である村上春樹に良心と政治的見識、正しいプロテストのやりかたを押し付けたがる。まことに両極端は一致するし、人間は簡単に自分の姿を見失うものである。世界から揉め事や戦争がなくならないのも無理はない。


エルサレム賞の意味、村上春樹の色濃い政治性とその透明さ(リンゴは赤くて白い)については「逃・逃避日記」 le-matin さん(とお呼びしていいのだろうか)のすばらしい記事があるので、ぜひ読んでください。特に「春樹イスラエル再話」は私がぼんやり思っていたことを明快な文章にしてくれたようで胸のすく思いがした。

 村上春樹さんがエルサレム賞を受賞 - 逃・逃避日記
 エルサレム賞に関してもう少し - 逃・逃避日記
 春樹イスラエル再話 - 逃・逃避日記

村上春樹とエルサレム賞(あるいは人間の三つのタイプについて)

2009年01月28日 | 日々思うことなど
村上春樹がイスラエルの文学賞を受賞した。
受賞スピーチに出席するのか、どんなスピーチをするかについてさまざまな関心・期待・憶測が集まっている。

asahi.com(朝日新聞社):村上春樹さんにエルサレム賞 - 文化
 イスラエル最高の文学賞、エルサレム賞の09年受賞者に作家の村上春樹さんが決まった。受賞選定委員長が編集長を務めるイスラエルの有力紙ハアレツは21日付で、受賞理由について「日本文化と現代西欧文化とのユニークなつながりを描くなど、西側で最も人気がある日本人作家。読むのはやさしいが、理解するのはむずかしい」と伝えた。

 イスラエル各紙は、村上さんが来月の授賞式に出席すると報じている。(エルサレム)
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村上春樹、エルサレム賞受賞おめでとう!!! - モジモジ君の日記。みたいな。
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村上春樹氏 エルサレム賞受賞 - 無造作な雲
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村上春樹さんの「エルサレム賞」受賞に、一ファンとして言っておきたいこと
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P-navi info : 拝啓 村上春樹さま ――エルサレム賞の受賞について
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なんか疲れる。
まだなにもやってないのにいろいろ言われる村上春樹もたいへんだな、とちょっぴり同情した。

私自身はまったく村上春樹ファンではない。
もう20年以上むかしに「羊をめぐる冒険」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読んだきりだ。
そのときの感想は「なかなか面白い、よくできている、でも好きになれない」というものだった。人工的でスマートでお洒落、読みやすくて「考えさせられる」ところもある。でも満足できない。足りないのが旨味なのかスパイスなのかわからないが読後感が物足りない。ダイエットコーラみたいなカロリーオフの小説だ。
その物足りなさが多くの人にとっては「もっと読みたい」となり、私には「もういいや」となったんじゃないかと想像するが、本当のところはよくわからない。

イスラエルの問題については何も言いたくない。
ガザ侵攻のニュースを見ていろいろと思うこともあるが、普通の日本人が日本語で何を言ってもまったく何の役にもたたないだろうという確信的な諦めが先にたつ。「あきらめたら負けだ」と思う人はいくらでもがんばってください。


ここでようやく本題に入る。
私が「村上春樹氏がエルサレム賞を受賞」のニュースを知り、周辺の期待や憶測を読んで思ったのは「人間には三種類のタイプがいる」ということだった。
一つは、「政治感覚の優れた人」。
ふたつめは「政治が好きな人」。
そして最後が「政治の苦手な人」である。

「政治感覚の優れた人」とは、世間でいう「政治家タイプ」と重なるけれど同じではない。
私が考えるところの「政治感覚の優れた人」とは、ことさらに政治的な動きをしなくてもいつのまにかいい位置にいる、無用に敵を作ったり憎まれたりしない、そういう賢い世渡りができる人だ。自分のことだけでなく他人や社会の問題まで解決できればもっと立派だが、それは「政治感覚に優れた人」のなかでも上級者に入る。

「政治が好きな人」は(わざわざ説明するまでもなく)政治に強い関心を持つ人のことだ。
なんでもそうだが、好き嫌いと上手下手は必ずしも一致しない。どう見ても政治感覚がなさそうで、やたらに敵を作りまずい立場に自分を追い込んでそれでも政治的に動くのをやめない人もいる。まことにご苦労様だが、誰にもやめさせることはできない。
いわゆる政治家タイプの人は、「政治感覚が優れていて政治が好きな」第一と第二のハイブリッドである。ウィザードリィに例えれば「戦士と魔法使いのスキルが両方とも高くないとサムライになれない」というところ。

「政治が苦手な人」はたぶん日本人の大部分を占めるだろう。
実際にそんなアンケートが行われたかどうか知らないが、1000人を集めて「あなたは自分に政治的能力があると思いますか」「政治問題を考えたり論じるのが好きですか」とたずねたら過半数が「どちらにもノー」と答えるはずだ。私自身もこの中に入る。
もっとも、「自分では苦手なつもりでも人から見ると上手」とか「苦手だ、嫌いだといいながら実は大好き」という人もいるだろうから、本当のところは心理テストや行動調査をしないとわからない。


村上春樹という人は、第一と第三が合わさったタイプだと思う。政治は苦手と言いながら(実際に言ったかどうかは知らない)政治的感覚には優れている。
政治的バランスを保つのが上手なのは彼のこれまでの成功を見ればわかる。セックスや死という下手に書けば政治的問題にされそうなモチーフを多用しながら問題にされたことはない。同じ村上でも村上龍とは大違いだ。オウム事件のノンフィクション(「アンダーグラウンド」)を書いたときも政治的に物議をかもすようなことはなかった。
村上春樹の政治的無色透明さ(に見える賢さ)は世界的に認められているようだ。彼の小説はどこの国でも若者に自然に受け入れられ、ことさら議論の的になったり政治的リトマス試験紙の役をさせられたという話は聞いたことがない。「右翼も左翼も、グローバリストも反グローバリストも、イスラエル人もアラブの若者もみんな村上春樹を読んでいる」というイメージ映像を作るのは簡単なことだろう。

村上氏がエルサレム賞を受けるのか、受けたとして受賞スピーチをするのか、その内容は、といったことについて私はたいして興味がもてないし、期待も心配もしていない。「村上春樹ならうまくやるだろう」「なにしろ彼は政治的感覚に優れているから」と確信している。なにか派手なことをやってくれたら野次馬としては面白いが、村上氏本人にはそのつもりがなく多くのファンも期待しないだろう。

村上氏の受賞スピーチが行われるとして、それが政治的爆弾となることを望んでいるのは「政治が好きな人」たちだ。彼らの正義感や善意を疑うことはできないけれど、正直言ってどうもズレている気がする。ファンでもない私が言うのもなんだが、「村上春樹を見くびっている」というか「勝手に期待して勝手に失望されたら村上氏も迷惑だろうに」というか。「見くびっている」と「勝手に期待しすぎるな」は矛盾しているようだが実は盾の両面である。
もっとはっきり言えば、第二のタイプ「政治が好きな人」のなかに「政治感覚の優れた人」はあまりいない。第三タイプ(政治が苦手な人)のなかで政治感覚に優れた人の割合よりもむしろ少ないかもしれない。「下手の横好き」のほうが「好きこそ物の上手なれ」よりもずっと多い。それなのに天性として政治感覚の優れた村上春樹にああしろこうしろと注文付けるのは勘違いとしか思えない。草野球選手がイチローのプレーに偉そうに文句言う姿を連想してしまう。

第二のタイプになったつもりで村上春樹に期待したり文句を言う心理を想像してみる。
「あなた(村上氏)はせっかく政治的才能があるんだから無難にすごしてるだけじゃダメだろ」「有名作家には正義のために声を上げる責任がある」「プロテストもせずにイスラエルの賞を受けるのは裏切りだ」といったところか。まことにご立派でごもっともな話だ。
逆に自分が村上春樹の立場だとして(想像するのは難しいが)「政治の好きな人たち」の期待や憶測をぶつけられたらまず「かなわないな」と思う。実際に村上氏がどうするかは私の知ったことではないが、彼が「やれやれ」と溜息をついたとしても私は批判しないし、むしろ同情する。

派遣村とヘラジカの角と「気魄」

2009年01月17日 | 日々思うことなど
「『派遣村』叩きに日本の国民性を思う」では「派遣村叩き」の原因について日本人の国民性という視点で考えてみた。いや、考えたというのは大げさで「こういう見方もできるよね」という思いつきを書いてみただけなのだが、意外なほど多くの人に読んでいただけたのはうれしかった(5桁のPVは初めて)。物事を考えるにはいろいろな角度から立体的に対象を把握したほうがいいし、自分が新しい視点を示せたのであれば幸せなことだ。

さて、いきなり日和るようだけれど、私自身は「他人を信頼しない日本の国民性が派遣村叩きの原因」という見方がただひとつの正解とは思っていない。「そういう見方も成り立つ」のは間違いないけれど、それがすべてであるはずがない。
私の見たところ、「派遣村叩き」を批判する意見の多くは社会的原因(政治が悪い、企業が悪い、新自由主義が悪い)あるいは個人的原因(叩いているのは右翼だ、ニートだ、想像力のない人たちだ)に注目していて、国民性とか「空気」について語る人は少ないようだ。前の記事が注目されたのに味をしめて、斜めの視点でもう一度「派遣村叩き」について考えてみる。


これまで私は「派遣村」に集う失業者を冷笑し罵倒し軽蔑する人たちのことを「冷酷だ」と何度も書いた。だが、それもまた一つの見方であって、そうじゃないんだ、むしろ優しさの表れだと言うことだってできる。
たとえばどこかの高校で50kmの徒歩遠足が毎年の恒例行事だとする。朝8時に出発して昼ごろには行程の半ばというところ。20kmを過ぎる頃から運動嫌いの虚弱な生徒(私のことだ)は泣き言を並べ、歩道に座り込んで「これ以上歩きたくない」と音を上げるだろう。そんなときクラスメートは何と言うだろうか。
「そうか、大変だね。無理せずゆっくり休みなさい。俺たちは仲間じゃないか、決して見捨てたりしないよ」と優しい言葉をかけるものはあまりいない。「なんだよ、もうバテたのか。泣き言いってないでさっさと歩け、置いていくぞ」と叱咤激励するほうが多いはずだ。たとえ自分の足にマメができてつらくても、自分より先にバテた者を叱ることで元気を取り戻し、あわよくば女の子から「タフで格好いい」と思われたい。そういう心の動きを「冷酷だ、思いやりがない」と決め付けることはできない。叱咤激励こそ本当の優しさなのである。
…とは書いてみたものの、私自身は「派遣村」叩きを「仲間への叱咤激励」と見るのは無理だ。
2ちゃんねるやあちこちのブログで見られる派遣村批判の多くは激励というより利己的な弱者切り捨てに見える。だが、彼ら自身が「自分たちの批判は叱咤激励なのだ」と考えている可能性はある。肯定的なセルフイメージと周囲の見方が違うことは珍しくない。私は「派遣村叩きは叱咤激励だ」と本気で思っている人がいたら合理化であり自己欺瞞だと思うけれど、他人の内面に踏み込む議論は苦手なのでこのあたりでやめにしておく。

叱咤激励説からは「派遣村叩きは自分の強さを示すディスプレイだ」という見方も生まれる。
ヘラジカの雄が身動きの邪魔になる巨大な角を生やすように、現代日本の労働戦士は「自己責任」の角を生やす。際限なく巨大化した自己責任の重さは自分の頭の上にずっしりとのしかかるのだが、それに耐えて頭を上げ続けることで己の強さを証明する。雄雄しくディスプレイを続け、時にはほかのオスと角つき合わせることでメスの気を引き繁殖を成功させる。ナショナルジオグラフィックに載っていそうな生存競争の実例だ。
私のようにのんきな人間から見ると「あんなバカでかい角を生やして何の意味があるんだろう」「さぞ首が疲れるだろうし、身動きの邪魔じゃないか」としか思えないのだが、ヘラジカも自己責任原理主義者もそれぞれの必然があってやっているのである(たぶん)。

かつての日本軍、栄光と悲惨に彩られた大日本帝国陸軍には「気魄」(きはく)という演技があった。

(引用者註 辻正信のメチャクチャな指揮系統無視・現実無視の横槍・独断専行について書かれた後)

 何がこれを起こすのか? いやいったい、こういう人たちが常に保持しつづけ得た“力”の鍵は何であろうか。それは一言でいえば、ある種の虚構の世界に人びとを導き入れ、それを現実だと信じこます不思議な演出力である。そしてその演出力を可能にしているものが二つあった。
 その一つ、演技力の基礎になっているものを探せば、それは“気魄”という奇妙な言葉である。この言葉は今では完全に忘れられているが、かつての陸軍の中では、その人を評価する最も大きな基準であった。そして一下級将校であれ一兵士であれ、「気魄がないッ」と言われれば、それだけで、その行為も意見もすべて否定されるべき対象であり、「あいつは気魄がないヤツだ」と評価されれば、それは無価値・無能な人間の意味であった。
 では一体この「気魄」とは何なのか。広辞苑の定義は、「何者にも屈せず立ち向かっていく強い精神力」である。これは、帝国陸軍が絶対視した「精神力」なるものの定義の重要な一項目でもあったであろう。だが、実際にはこの「気魄」も、一つの類型化された空疎な表現形式になっていた。どんなにやる気がなくても、その兵士が、全身に緊張感をみなぎらせ、静脈を浮き立たせて大声を出して“機械人形”のような節度あるキビキビした動作をし、芝居がかった大仰な軍人的ジェスチュアをしていれば、それが「気魄」のある証拠とされた。従ってこれを巧みに上官の前で演じることが、兵士が言う「軍隊は要領だよ」という言葉の内容の大部分をしめていた。内心で何を考えていようと、陰で舌を出していようと、この「演技・演出」が巧みなら、それですべてが通る社会だった。戦場に送られまいとして、この演技力を百パーセント発揮して、皇居警備の衛兵要員として連隊に残った一兵士を私は知っている。その彼は陰では常に「野戦にやられるくらいなら逃亡する」と言っていた。
 将校にももちろんこれがあった。そして辻政信に関する多くのエピソードは、彼が「気魄演技」とそれをもとにした演出の天才だったことを示している。そしてロハスを処刑せよとか、捕虜を全員ぶった斬れとかいった無理難題の殆どすべてが、いつか習慣化した虚構の「気魄誇示」の自己演出になっていた。そして演出は一つの表現だから、すぐマンネリになる。するとそれを打破すべく誇大表現になり、それがマンネリ化すればさらに誇大になり、その誇大化は中毒患者の麻薬のようにふえていき、まず本人が、それをやらねば精神の安定が得られぬ異常者になっていく。
 確かに人生には、そして特に戦闘には、「何者にも屈せず立ち向かっていく強い精神力」が要請される。だがこういう意味の精神力と“強がり演技”にすぎないヒステリカルな「気魄誇示」とは、本来、無関係なはずであった。真のそれはむしろ、静かなる強靭な勇気と一種の自制力のはずであり、この本物と偽物との差は、最後の最後まで事を投げず、絶対に絶望せず、絶えず執拗に方法論を探求し、目的に到達しうるまで思考と模索を重ねていけるねばり強い精神力と、芝居がかった大言壮語とジェスチュア、無謀かつ無意味な“私物命令”とそれへの反論を封ずる罵詈讒謗の連発との違いに表れていた。精神力とは、これらの気魄誇示屋の圧迫を平然と無視して、罵詈讒謗には目もくれず、何度でもやりなおしを演じて完璧を期し、ついに完全成功を克ち得たキスカ島撤退作戦の指揮官がもっていたような精神の力であろう。そしてこの精神が最も欠如していたのが「気魄誇示屋」なのだが、あらゆる方面で主導権を握っているのが、この「気魄誇示屋」というガンであった。
 それはどこの部隊にも、どこの司令部にも必ず一人か二人いた。みな、始末に負えない小型“辻政信”、すなわち言って言って言いまくるという形の“気魄誇示”の演技屋であった。結局、この演技屋にはだれも抵抗できなくなり、その者が主導権を握る。すると、平然と始末に負えない「私物命令」が流れてくる。そしてこれが、何度くりかえしても言いたりないほど「始末に負えない」ものであった。と言うのは彼らが生きていたのは演技の世界すなわち虚構の世界だったが、前線の部隊が対処しなければならないのは、現実の世界だったからである。その上さらに始末が悪いことには、彼らはその口頭命令に絶対責任をもたなかったのである。まずくなれば「オレがそんなこと言うはずあるか」ですむ。「筆記命令をくれ」という理由はそこにある。しかしその筆記命令ですら、彼らが責任を負わないことは、神保中佐が証明している。

「一下級将校の見た帝国陸軍」 山本七平 (p161-163)


現在の世界的な経済危機の中で、血で血を洗う企業と労働者の戦場(大げさ)を生き抜くためには「何が何でも自己責任」という気魄演技が必要なのかもしれない。弱った他人を「気魄がない」「自己責任を忘れるな」と責めたてることでなんとかして自分だけは一日を生き延びようとする。そんな労働戦士の存在を道徳的高みに立って断罪するのはかえって不道徳でさえある。
ここに不運という外れくじを引いてしまいリストラされた失業者がいる。彼あるいは彼女が必死になって次の仕事を探し、何度も門前払いを食らった後でようやく面接までたどり着く。そのとき面接官が「派遣村についてどう思いますか」とたずねてきたら、いったいどう答えればいいのだろうか。
「失業者は本当に気の毒です、彼らを切り捨てた企業は身勝手だと思います。彼らが生きていけるよう、自分に合う仕事を見つけられるように社会全体でサポートすべきです」というナイーブな答えをすればいいのか。
それとも、「あんなところに集まる連中は怠け者です、社会に甘えています。競争社会で落ちこぼれるのはぜんぶ自己責任です」とマッチョな強がりをしてみせるほうがいいのだろうか。
「社会が(会社が)弱者をサポートすべき」というよりも、「すべては自己責任」と強がるほうが面接官の受けがよさそうだ。「弱者をサポートすべき」などという「甘ったれた」考えの人を入社させると仕事内容や待遇に文句を言いそうである。逆に「すべては自己責任」タイプならキツい仕事も安月給も、あるいはリストラの対象にされても「自分が悪い、努力と才能が足りなかった」と納得してくれて都合がいい。能力が同じなら、いや多少能力が劣っていても「全部自分のせいにしてくれる都合のいい労働力」のほうが気楽に使い捨てできる。
「すべて自己責任」のお経は「自分は会社と社会にとって都合のいい存在だ」とアピールすることで職(食)を得る、生物としてある意味合理的な行動なのである。どっとはらい。

…ああ、イヤだイヤだ。
ここまではできるだけ「派遣村叩き」の理由を同情的に見てきたけれど、だんだん自分が冷たい水の中に沈んでいくような気がしてやりきれない。たとえ派遣村叩きが「叱咤激励のつもり」でも「生き延びるためのディスプレイ」だとしても、あんなに冷たい言葉をぶつけることはないじゃないか。
正月を迎えるのに金がない、家もない、明日の食い物もあてにできない人たちを自己責任の一言で切り捨てるのはあまりにも不人情だ。漱石は「ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」と書いたけれど、「派遣村叩き」を見ているといつのまにかこの国が「人でなしの国」になってしまったような錯覚を覚える。
日本語しか話せない、茶漬けと優しい日本女性がなにより好きな自分は日本が「人でなしの国」になってしまえば生きていけない。それこそ寒空の下で野垂れ死ぬばかりである。そろそろその覚悟が必要なのかもしれない。

「理屈」と「実感」

2009年01月14日 | 日々思うことなど
何度も書いたことだが、私には経済の知識がほとんどない。
金利がどうの、マネーサプライがこうの、税率がああで、公共投資がどうしたといった話はほとんどチンプンカンプンである。だからたいていの場合「自分にはよくわからないので、賢い人たちがしっかり考えて決めてください」とお任せすることになる。
それなのになぜ定額給付金問題に一言いいたくなるのかというと、「世論」に見られる理屈と実感の食い違いが気持ち悪いからだ。

定額給付金に対する「民意」、8割以上が反対という状況は、私の目には理屈に流されていて危なっかしく見える。
「理屈に流される」という表現は書き間違いではない。
「感情に流されるのは危険だ」という言葉は多くの人が口にする。私もよく使う。男性脳とかモヒカン族と判定される私にとって「世の中って不合理だ」「もっと合理的に考えればいいのに」と感じられることが多いのは事実だ。その私にして、「定額給付金反対世論は理屈が勝ちすぎている、ご立派な理屈に流されている」と思ってしまうのが今の定額給付金をめぐる「世論」だ。

感情という言葉はいささかデリケートなので、以下の文中では「理屈」には「実感」を対応させることにする。
理屈と実感は往々にして一致しない。たとえば世の中でブームになる健康法の多くは「体にいいことしている」という実感は満足させても実証性(理屈)に欠けていることが多い。逆に、医者の勧める合理的な(理屈に合った)健康法でも、実感が持てなければなかなか続けられない。

一口に実感といっても、「生物的実感」と「社会的実感」に分けられる。人間とは社会的動物なのである。
生物的実感とは、「腹が減ったら飯を食いたい」とか「セックスしたい」とか「暖かな家に住みたい」といったことだ。これらの実感は常に「自然」で正しい。正しい、とはいっても無制限に欲求を満たそうとするとかえって健康を損なったりする。適切に理屈を用いて制御する必要がある。
生物的実感よりも理屈を優先させるとたいてい妙なことになる。昔の未来予測では「完全な栄養カプセルができれば食事はいらなくなる」などと言われていたが、今の世の中で納得する人はいないだろう。生物的実感を無視しているからだ。

もう一方の社会的実感とは、人間が社会の中で生きていくうちに生まれる実感である。「差別するのもされるのもイヤだ」とか「戦争をすると人が死ぬのでよくない」とか「名誉ある地位を得て尊敬されたい」といったことだ。「なんだかんだいってもみんなお金が欲しいよね」というのも社会的実感の一つだ。
社会的実感は社会のありかたによって変化する。差別があたりまえだったり、戦争が立派なことだったりした時代はそれほど昔のことではない。かといって、社会的実感の存在を否定することはできない。現代社会では生物的実感を露骨に表現するとはしたないと軽蔑されることが多いので、社会的実感の形で表現しなければならない。職場で「とにかくセックスしたい」と公言すると変態扱いされるが、「恋人がほしい、結婚したい」と愚痴れば同情してもらえる。

「なんだかんだいってもみんなお金がほしいよね」という社会的実感は、貨幣経済が始まってからずっと変わらずに存在している。短歌や俳句を川柳狂歌に変えてしまういちばん手軽な方法は、下の句に「それにつけても金の欲しさよ」と付けることだ、という説がある。
 「花の色は 移りにけりな いたづらに それにつけても 金の欲しさよ」
 「古池や 蛙飛びこむ 水の音 それにつけても 金の欲しさよ」
どちらもまったく違和感がない(本当に?)。
かくもさように「なんだかんだいってもお金は欲しい」というのはほとんどの人の実感なのである(ちょっと強引)。

ところが、このごろの「定額給付金反対・嫌悪」の世論は「なんだかんだいってもみんなお金が欲しいよね」という社会的実感をないがしろにしている。「給付金なんて欲しくない、政府はもっと立派な使い方をしろ」というご立派な意見が幅を利かせている。私のように理屈の勝った「モヒカン族」でさえなんだか気持ち悪く感じてしまうほどだ。
立派なのはけっこうだが、ご立派すぎるのは不自然だ。「理屈に流されて実感をないがしろにしている」「これじゃバランスが悪い」と言いたくなる。人間は理屈と感情(実感)の二頭立てであって、どちらか一方がむやみに先走るとひっくり返る危険が高まる。

理屈が先走って実感とかけ離れているのは、定額給付金についての世論調査に表れている。
「定額給付金に反対」が8割、それなのに「実施されたら受け取る」が7割。反対が「理屈」、そうはいってもお金は欲しいが「実感」だと言っても間違いないだろう。二つの答えは明らかに矛盾しているのだが、多くの人はそれに気付かないか、あるいは見て見ぬふりで合理化している。

理屈と実感がかけ離れる極端な例として「戦争」をあげてみる。
どこかの国との間で緊張が高まり、「武力行使やむなし」「ガツンとやっちまえ」という強硬論が大勢を占めたとしよう。ところが、強硬論を叫ぶ人に「あなた自身は兵役を志願しますか」「あなたの子供が志願するのを許しますか」と聞いてみたら、「いや、戦争で命を落とすなんてバカらしいよ」という答えがほとんどだ。はたしてこういう世論は健全といえるのか。

もっと穏健な例を考えてみよう。
去年の「毒ギョーザ事件」で中国製冷凍食品への根強い不信感が広まった。実際に死者入院患者が出ているのだから、「中国製冷凍食品は危険だ」というのは社会的実感といえる。
食品会社が品質管理と安全性向上に目いっぱい努力し、「これなら理解してもらえるだろう」と期待して消費者にアンケートをとる。「食品会社の品質管理は信用できる」「中国製だからといって毛嫌いする必要はない」という答えが8割を占めても簡単に喜んではいけない。
「あなたは中国製冷凍食品を購入しますか」「子供に安心して食べさせられますか」という質問に7割が「いいえ」と答えたら、実感としての不安は何も変わっていないことになる。「食品会社は信用できる」という最初の答えのほうが「ご立派すぎる」実感とかけ離れた意見だったのだ。

前の記事でも書いたように、私は定額給付金への賛否において「理屈」と「実感」の二頭の馬をバランスよく御すべきだと思っている。馬車を東に走らせようと(賛成しようと)西に走らせようと(反対しようと)勝手だが、片方の馬ばかり先走るのは危険だ。
定額給付金に本気で反対するのなら、「実施されても受け取るものか」とボイコット宣言して実感を理屈に追いつかせるべきだ。
逆に賛成派が「もらった金は自分の好きにする」「貯金して何が悪い」と言えば理屈をないがしろにしている。「給付金は景気刺激を狙った政策である」という理屈を実感に追いつかせることが求められる。


国民が定額給付金に賛成するのも反対するのも自由だ。
だが、「反対だけど実施されたらお金はもらう」という今の世論は、「理屈」と「実感」という二頭の馬のバランスが取れていないことを示していて危なっかしい。給付金ボイコット宣言の勧めは、二頭の馬の首をそろえることの勧めである。

定額給付金を支持します(あるいは給付金ボイコット宣言の勧め)

2009年01月13日 | 政治・外交
これまで何度か定額給付金問題について書いてきた。
いや、正確には「閣僚の定額給付金受け取りを問題にする愚かさ」と「定額給付金の世間での評判」について書いたけれど、考えてみれば私自身が定額給付金という政策について賛成か反対か立場をはっきりさせてなかった。
これまでの記事を読んでくださった方はだいたいお分かりだとは思うが、私は定額給付金について「どちらかといえば賛成」である。本当は「経済知識、判断力がないのでわかりません」なのだが、マスコミや世論の頑なな反対・嫌悪ぶりを見ていて「ちょっと違うんじゃないか」と思うことが多く、いつのまにか賛成寄りになった。
ネットを見渡すと反対派よりも容認・賛成派のほうに「経済がわかっていそうな人」が多いように見える。私自身が「まったくわかってない人」なのでこの判断はすこぶるあやしいものだが。
とはいえ、田中秀臣さんが「僕は給付金を止めることには反対してもいい。」と言うのだから「天下の愚策」などではなくそれなりの合理性があるのだろう。麻生内閣に微塵も好意などなさそうな上杉隆氏森永卓郎氏も定額給付金のアイデアを評価している。
もちろん、懐の淋しい自分にとって1万2千円が魅力的なことは否定しない。金持ちが(その人にとっての)ハシタ金を欲しがるのはさもしいが、貧乏人が諭吉さんや英世さんの顔を拝みたいと願っても天下に恥じることはない。


私が気になる定額給付金反対派のおかしなところ。

● 麻生総理と閣僚が給付金を受け取るかどうかにこだわる

この点についてはすでに3回書いたので(われながらしつこい)、こちらをお読みください()。

● 給付金の受け取りばかり気にして使われ方に無頓着

低所得者への援助としてはほぼ100%受け取ってもらえるだろうから心配する必要はない。
問題は支給の対象から外れてしまう低所得者(住民登録がない等)のあつかいで、必要なのにもらえない人が出ないようしっかり対応する必要がある。
もう一つの目的、景気刺激については「とにかくお金を使ってもらうこと」が肝心なのに、マスコミは消費拡大のための呼び水(便宜)でしかない「給付金を受け取るかどうか」ばかり気にしている。目的と手段の区別を理解してない。音楽を例にすれば、「どれくらい演奏するか」を知りたいのに「楽器を所有しているかどうか」の調査しかしないようなものだ。まさに隔靴掻痒、歯がゆくて仕方がない。「あなたは給付金を受け取りますか」よりも「もらったお金をどのように使いますか(あるいは貯めこみますか)」について訊くべきだ。

● 「迷走」報道とそれを真に受ける人たち

定額給付金関連のニュースはたまに(週に一度くらい)しかチェックしないけれど、最初に聞いたときと今までの間に麻生総理が迷走していると感じたことはない。高額所得者に支給制限するかどうかでちょっとばかりゴタゴタしたのは知っているが、給付金本来の目的からすればまったくどうでもいいことである。
マスコミが「迷走、迷走」と言いたがるのは、後部座席の乗客がドライバーの手の動きだけを見て「迷走している」と言うようなものだ。峠を上る道筋は変わっていないのに、景色を見ずハンドルばかり見ているから大局的判断ができない。

● 二言目にはバラマキ批判

これは本当に馬鹿みたいだと思う。
そもそもバラマキの何がいけないのか。景気が回復し失業者が減り国民の幸福が増すのであれば、給付金バラマキでもマイナス金利でも何でもやればいいのである。その逆に増税でも財政引締めでも必要であれば断然やらなければならない。すべての政策の評価基準は「有効か・コストに見合っているか」であり、「100年に一度の危機」に手段を選り好みするのは贅沢というものだ。
感情的・道徳的なバラマキ批判には辟易しているが、「支給コストがかかりすぎる」とか「貯蓄に回される可能性」といった有効性に対する批判はどんどんやってほしい。「バラマキはやめろ」ではなく「役に立たないからやめろ」という批判を聞きたい。

● 二言目には「選挙対策」

これも聞きあきた。ステレオタイプで陳腐な批判だ。
選挙対策として効果的な、つまり有権者を喜ばせる政策がいけないのであれば、政治家はいったい何を主張すればいいのか。増税と福祉削減を叫んでひたすら国民に痛みを強いるのが立派な政治家なのか。マゾヒズムにもほどがある。

● 定額給付金には反対、でも実施されたら貰うつもり

前の記事では「反対の人は受け取りを断ったらいかが」と書いた。
だが、よくよく考えてみると私が違和感を抱いたのは反対派が「給付金を受け取ること」ではなく「矛盾したことを言いながらシレッとしていること」のほうだった。よって「反対者は給付金を受け取るべきではない」という意見は撤回する。つまらないことを言ってすみませんでした。

定額給付金が実施された場合、なるべくたくさんの国民(反対派を含めて)に受け取ってもらうほうが麻生総理にとっては都合がいい。「口では反対と言っていたけど、本心は喜んでますよ」「言葉よりも財布のほうが正直ですね」と言えるからだ。「定額給付金には反対、でももらいたい」という人たちは「自分は本気で反対しているわけじゃない」と言っているのと同じで見くびられるだけだ。
麻生総理がいちばん嫌がるのは、「バカげた定額給付金なんて受け取るものか」というボイコット宣言が広がることだ。過半数の国民に受け取り拒否されたら面目丸つぶれである(実際はそうならないと思うが、可能性は否定できない)。「ボイコットするぞ」という脅しは「天下の愚策」定額給付金をやめさせるのにいちばん効果がある。
だが実際は世論調査に「反対だけどお金はもらいたい」と答える人が大多数だ。はっきり言ってあまりにもヘナチョコで情けない。本気で反対するなら、お金がほしい気持ちを押し殺して「ボイコットするぞ」となぜ言わないのか。
ボイコット戦術が失敗して定額給付金が実施されてしまったら、それぞれの判断で受け取るかどうか決めればいい。負けた後でなお抵抗するのは意味がないし、お金が必要な人に痩せ我慢しろ、受け取るなと要求するのも酷な話である。



国民とマスコミの「定額給付金嫌い」についてはこちらの分析が参考になった。

 給付金にキレる人々 - 事務屋稼業

要約すると「小泉の呪(バラまきは悪)」「金額がショボくてがっかり」「埋蔵金って何?」の三点が嫌われる原因らしい。
私はそれに「公明党嫌い」を付け加えたい。ネットで定額給付金反対論を見て回ると、少なからぬ人たちが「もとはといえば公明党(創価学会)の政策だからダメだ」と批判している。私は「ネズミさえ取れば黒猫でも白猫でもいいじゃないか」と思う性質なので「公明党だからダメ」という感覚はよくわからないのだが、公明党(創価学会)嫌いが定額給付金嫌いにつながっているのは間違いない。


「定額給付金」関連記事
 「閣僚の定額給付金受け取り問題」の愚
 「閣僚の定額給付金受け取り問題」の愚 (2)
 「閣僚の定額給付金受け取り問題」の愚 (3)
 「定額給付金反対世論」に13年前を思い出す

「定額給付金反対世論」に13年前を思い出す

2009年01月12日 | 政治・外交
マスコミ各社の世論調査が発表された。

asahi.com(朝日新聞社):給付金に反対63% 内閣支持19% 朝日新聞世論調査 - 政治
内閣不支持7割超、給付金に反対78%…読売世論調査 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
【本社・FNN合同世論調査】麻生内閣「支持率は危険水域」初の10%台に (1/2ページ) - MSN産経ニュース

麻生内閣の支持率についてはともかく(それにしても下がりすぎとは思うが。私は麻生内閣支持である)、定額給付金がこれほどまでに不評なのは合点がいかない。産経・FNNの調査によると、
 通常国会で焦点となっている定額給付金については、「ばらまき」で好ましくないと答えた人が75・1%。給付金の財源2兆円についても「ほかの政策に回すべきだ」と答えた人は79・8%にのぼった。

 だが実際に給付が決定すれば、84・8%が「受け取ろうと思う」と答え、受け取ろうと思わないと考えている人は11・4%にとどまった。

というのがただいまの「民意」だそうで、だとしたらずいぶんとご都合主義だなというか、あるいは「反対」世論の正体は「違和感をぬぐえない」程度のことなのかと思ったりする。仮に定額給付金が実施されるとして、本気で反対している人は敢然と受け取りを拒否なさればいい。そのお金は無駄にならず各自治体が使ってくれるのだから惜しむ必要はない。「定額給付金は天下の愚策、でもくれるなら何でも貰うよ(損したくないからね)」という人がいたら私はちょっぴり軽蔑する。

特に根拠はないけれど、私には「定額給付金」反対の世論は合理的・政治的というよりも感情的・道徳的なものに思えてならない。「民意」というよりは「定額給付金の悪口ブーム」という感じだ。
私自身は定額給付金という政策に入れ込んでいるわけじゃないので、どこがそんなに素晴らしいのか、効果があるのかないのかうまく説明することはできないけれど、景気刺激策・低所得者への補助として各国で似たようなことが行われているのは知っている。

イタリアが9兆6800億円の景気対策 年金生活者らに給付金 NIKKEI NET(日経ネット)
豪政府、クリスマスの消費てこ入れに給付金を支給 | ワールド | Reuters
米国、所得税の「戻し減税」始まる 景気刺激なるか 国際ニュース : AFPBB News
asahi.com(朝日新聞社):バラマキ1.8兆円、ドイツでも「消費券」検討 - 金融危機



してみると、大規模な景気後退局面で政府が国民に「バラマキ」をするのは「天下の愚策」というほどのナンセンスではなさそうだ。堅実な国民性で定評のあるドイツでも真剣に検討されているのだから、ただの人気取りとか浮かれた無駄遣いと決め付けるのは気が早い。どうも7割とか8割の反対世論は一過性のブームの臭いがする。
世間の空気は一定の方向にワッと走り出しすと勢いがつくので、今さら「定額給付金はそんなに悪くない」「無碍に反対するのはどうかな」と言っても遅いかもしれない。だが国民の本音は案外「実際に給付が決定すれば、84・8%が『受け取ろうと思う』と答え」のほうにあるような気もする。頭はマスコミの煽りに吹き上げられ、口では周りの人に合わせて「定額給付金なんて最低」と言っていても心の奥では「何に使おうか」と胸算用している。

「言っていること」よりも「やっている(やろうとする)こと」のほうが本音をあらわす、という場合は少なくない。
たとえば2005年にライブドアがニッポン放送を買収しようとしたとき、多くの「ライブドア支持者」「ホリエモン信者」が熱気を吹き上げていたものだ。当ブログもそのとばっちりを受けた。だが、彼らのうちで本当に身銭を切ってライブドアの株を買ったり入社試験を受けた人はほとんどいなかったようである。「彼らは本心ではライブドアを、ホリエモンを信じていなかった」と言っても抗議されることはあるまい。今となっては「ホリエモン人気って何だったんだろう」といぶかしむばかりだ。

民意が合理的な判断より感情や道徳論に引っ張られて「反対ブーム」を起こした例がある。
96年の住専問題がそれだ。

 まず住専問題をおさらいしてみましょう。1995年にクローズアップされた問題で、住宅金融専門会社がバブルの崩壊によって経営を悪化させ、親会社の金融機関の経営をも揺さぶるほどの問題になったことに対し、政府が公的資金を投入することで金融システムを安定化させようとしたものです。

 金融不安は1995年当時、既に深刻化しており、1994年の東京協和、安全の2信組に始まって、1995年に入ってもコスモ信組、兵庫銀行、木津信組が次々と経営破たんしました。大蔵省、日銀はあまりの事態に従来のような護送船団方式の救済をあきらめ、金融システムを安定化すべく、預金保険機構による援助に加え、30年ぶりに日銀特融も行いましたが破綻の度合いがあまりに大きいために損失を穴埋めできなくなったため、税金を使うという案が浮上した、という背景がありました。

 当時の野党は、「住専の乱脈経営の穴埋めに国民の血税を使うな!」といういわゆるモラルハザードの問題を指摘して猛反発しました。当時私は大学3年だったのですが、クラスメイトに創価学会員がいて、彼が反対のビラを配っていたのが印象深かったです。

 結局、自社さの村山連立政権は野党や世論の反発を押し切って、1996年度予算では6850億円が支出されました。


つれづれコラム: 住専問題は今?


当時の世論は今の「定額給付金反対」と同じくらい、いやずっと強く「住専反対」で固まっていた。それこそ天下の愚策、大金の無駄遣い、国民への裏切りよばわりされて国会は大混乱した。
当時の私は(今もそうだが)経済のことはぜんぜんわからないので「ほほー、大騒ぎだな」とぼんやり眺めていただけだが、「政府がこれほどこだわるのは何か理由があるんじゃないか」「反対する人たちはちょっと感情的すぎやしないか」と思ったことを覚えている。
あれから10年以上経ち、いつのまにか当時の住専処理・公的資金導入は「適切な政策だった」ということになっているらしい。
ちゃんと調べたわけではないけれど、サブプライム破綻関連のニュースで日本の例が引き合いに出されるときは決まって「迅速な公的資金導入」が教訓とされ、「住専に金をつぎ込んだのは無駄だった」という話は聞かれない。時間によって答えが出た、といっていいだろう。それは結構なのだが、あのころ目を吊り上げて反対を叫んでいた人たちが反省したという話は聞いたことがない。

住専処理が嚆矢となって、その後日本では金融機関に対する公的資金注入や国営化が相次いだ。それらの手立てが効果をあげて日本経済は何とか(去年までは)安定した。もしも96年当時の政府が「民意」に従って住専処理をあきらめていたら、たぶんもっと混乱が長続きしていただろう。
私はいまだに経済のことがよくわからないので、定額給付金問題についても「ほほー、大騒ぎだな」と眺めるだけだ。だが、反対する人たちの語調や表情を見ていると、どうしても「住専処理に反対した人たち」の姿を思い出さずにはいられない。

「閣僚の定額給付金受け取り問題」の愚 (3)

2009年01月11日 | 政治・外交
マスコミや野党が「閣僚の定額給付金受け取り問題」で大騒ぎするのは理解できないと二回にわたって書いてきたけれど、実はちょっと見方を変えると簡単に理解できる。
単に麻生総理が嫌いで叩きたいという願望の表れ、「ためにする批判」だと思えばなにも不思議なことはない。とはいえ、こういう説明はあまりにも便利すぎて何も説明していないのに等しい。「ためにする批判」であっても、視聴者・読者・有権者が「なるほどそうか」と思ってくれないと効果が出ない。「こじつけの批判だろ」と見透かされては逆効果だ。
だがネットで検索するかぎり、「閣僚の定額給付金受け取り問題」に対して「つまらないことで騒ぐな」と怒っている人のほうが少なく、「麻生総理はぶれている、これじゃダメだ」と乗せられている人のほうが多いようだ。となると、やはり日本人の多くが政治家個人の立ち居振る舞いを「政策の是非」と区別できない(しない)傾向を持っていると見たほうがいいだろう。

あらためて言うまでもないが、「麻生総理や閣僚が定額給付金を受け取るかどうか」は「定額給付金という政策の是非」とはまったく関係ない。前にも書いたとおり、定額給付金の目的は「低所得者の援助」と「景気刺激」である。閣僚には世間で一般的に低所得者と認められる人はいないし、景気刺激に効果があるのは「給付金を受け取ること」ではなく「とにかくお金を使うこと」だ。
そんな当たり前のことを理解できず(あるいは理解しようとせず)「受け取る、受け取らない」で迷走だの閣内不一致だのと騒ぐ野党とマスコミ(そしてそれを真に受ける人たち)はどうかしている。
「平均以上の収入のある人(閣僚は全員そうだ)が定額給付金を受け取るのも受け取らないのも勝手」
「ただし定額給付金の趣旨に賛成なら積極的に消費拡大に貢献すること」
こういう理にかなった考え方がなぜできないのだろう。
閣僚に質問するなら、「あなたは定額補助金を受け取りますか」ではなく、「あなたは消費拡大のために何をしますか」だ。「車を買い換えた」とか「家をリフォームする予定だ」とか「家族を旅行に行かせた」という答えが返ってくれば定額給付金の趣旨にかなっている。だが「なにもしていない」「生活防衛のため支出を切り詰めた」という答えだったら、「あなたは景気回復のため国庫に負担をかけても、自分の財布を開く気はないのか」「無責任で身勝手じゃないか」と責めればいい。

マスコミと野党が定額給付金を消費ではなく「受け取る・受け取らない」の問題にしてしまったのは、麻生総理のバー通い批判がそもそもの原因だ。あれもまったく馬鹿げた騒ぎだったが、あの一件のせいで「この不景気のさなか、個人消費を楽しむのは後ろ暗いこと」というネガティブな印象を世に広めてしまった。合成の誤謬をマスコミと野党が扇動したのだから罪は重い。
定額給付金という政策を批判するのはけっこうだが、この不況のさなかデフレムードを煽るのは本当にやめてほしい。ワイドショーが「楽な自殺のやり方」を特集するのと同じくらい社会的に有害だ。


定額給付金を「受け取る、受け取らない」の問題として見るのは予防接種の(誤った)アナロジーで捉えているからかもしれない。
新しい伝染病が広い範囲で発生しそうだとする。政府はすべての国民に予防接種を呼びかける。だが、ワクチンの有効性に疑問があり、副作用のリスクも否定できない。「有害無益だ」と批判する研究者もいる。
こういう場合は、政治家が率先して予防接種を受けて副作用のリスクを自分自身で負担することが求められる。「国民はリスクを背負って予防接種してくれ、自分はそのメリット(伝染病の拡大防止)だけ享受したい」という無責任な態度は認められない。
だが、定額給付金とワクチンの予防接種はぜんぜん違う。
有効性について議論が分かれる点は似ているが、「接種」を受けた人に副作用が表れる心配はない。お金は誰にとっても有益であり、よほどの大金(宝くじの高額当選者のように)ならともかく、たかが1万2千円で身を持ち崩す人などいない。定額補助金は受け取るものにとって純粋な便宜であって、貰うのも貰わないのも個人の自由だ。ただし、定額補助金の趣旨に賛成する政治家であれば、受け取らなくても身銭を切って景気拡大に貢献することが求められる。

もうちょっと気楽な話として、「デパ地下の試食」でたとえてみる。
麻生食品が一流デパートの地下に出店し、販売拡大のために試食品を提供する。
そのとき「麻生食品の社員は率先して試食を利用しろ」などと要求する客はいない。試食品は見込み客のためのものであり、社員に食べさせるものではない。よほど出来の悪い商品でない限り、わざわざ社員がサクラになる必要などない。麻生食品はデパ地下に出店できるレベルなのだから、その商品が充分なおいしさを備えていることは間違いない。「お金は誰にとっても役に立つ」というのと同じくらい自明だ。
「定額給付金を閣僚は全員受け取れ」とか「受け取るか受け取らないかはっきりさせろ」というのは、「麻生食品」社員に試食品を受け取れと要求するのと同じくらい馬鹿げている。
ここで「船場吉兆」の事件を思い出す人がいるかもしれないが、定額給付金が偽装(贋札)である可能性を心配する必要はない。商品はまっとうなものであり、客は「価格に見合っているのか」判断して自分自身で買うかどうか決めればいい。

「閣僚の定額給付金受け取り問題」の愚 (2)

2009年01月10日 | 政治・外交
「麻生総理と閣僚の定額給付金受け取り問題」に大騒ぎする愚劣さについて、バーチャル思想アイドルのやえちゃんが書いてくれた。ありがとうやえちゃん。
 おとといから昨日にかけての衆議院予算委員会での議論を伝える報道は、もうそのほとんどが、麻生総理に対する「給付金をもらうのかもらわないのか」という民主党の質問ばかりでした。
 つまり、麻生内閣が準備している定額給付金が支給されるというコトになったときに、麻生さんはそれを受け取るかどうかを明言しろといま民主党は執拗に聞いているワケですが、やえにはそもそもそれを聞いて一体国政に何の意味があるのか、景気対策・経済問題に何の効果があるのかサッパリ分からないのですけど、でもマスコミ的にはそれがトップニュースなんですね。
 相変わらずのマスコミの低能さですが、もし国民がそれを望んでいるとしたら、もはやもうどうしようのないところまで来てしまったと言わざるを得ないでしょう。

くだらない議論 - バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳

100%完全に同意である。ひざを叩きすぎて痛い。
定額給付金という「政策」に効果があるのかどうか、厳しく問いただして賛成するのも反対するのも結構である。それは政治家とジャーナリストの仕事だ。だが、総理や閣僚が受け取るかどうかにこだわるのはゴシップ記者のやることで、国会議員や政治記者の仕事ではない。そんなことはリアルな政治の問題、国民の生活とはまったく無関係だ。空騒ぎにうつつを抜かし仕事をおろそかにする連中を私は憎む。

前の記事で私は「日本人はやたらと政治家(特に政府与党)のことを批判しバカにするけれど、その反面妙に『徳の高さ』『人格の完璧さ』を求めるきらいがある」と書いたけれど、考えてみるとこれらはコインの裏表でしかない。
真面目で善良な日本国民の多くが政治家に夢を見すぎているのである。
田舎の女子中学生がハリウッドスターに憧れるように「完璧な政治家」の幻影を追い求めている。妄想に近いような高い基準を満たすことを要求し、合格できないと軽蔑し罵倒する。クラスのニキビ面の男子中学生などは論外だ。同級生の高橋君(仮名)が真面目に思いを寄せてくれて告白されても、「えーウソー、ありえなーい」などとまともに取り合わず友達の間でバカにする。
女性差別になると悪いので男の例も挙げておこう。
理想の(幻想の)政治家を追い求め現実の政治家をむやみとバカにするのは、病膏肓に入った二次元オタが現実の女性に対してまともにコミュニケーションできないようなものだ。変に卑屈になったり、あるいは生身の女性の「不純さ」に絶望して蔑視したり攻撃的になったりする。どちらも夢を見すぎて現実を見ていない。

やえちゃんは
 もしかして日本国民というのは、総理がそれを受け取るかどうか、そしてどう使うかを示してもらわないと、自分はどうしたらいいのかというコトを判断できなくなってしまったというコトなのでしょうか。
 麻生さんが受け取ると言わないと、受け取るという行為が国民は出来ないのでしょうか。
 そうでないとは思いますが、いまマスコミや民主党が言っているコトは、このようにあまりにも情けない姿としか言いようがないと思います。

と書いているが、こういう心理も政治家(権力者)に夢を見すぎていることの表れだ。
「麻生総理が給付金をもらうかどうか気になって仕方ない人」は、意識してはいないだろうが権力者に「国民の理想のロールモデル」を求めている。定額給付金の受け取り方、使い方の手本を示してほしいと願っているのである。小学生じゃあるまいし、たかが1万2千円ぽっち(というのもちょっと抵抗あるけど)のもらい方使い方に手本が要るなんて情けない限りだ。麻生総理もさぞ頭が痛いことだろう。


そもそも日本には天皇陛下というお方がいらっしゃるのである。
幸せなことにご今上は世界のどの国の元首にも引けをとらない立派なお人柄だ。「天皇制」を批判する左翼も天皇陛下の人柄はけっして批判しない(むしろ右翼のほうが複雑な視線を向けている)。
こういう立派な方が「日本国民統合の象徴」として存在しているのだから、「たかが」政治家に夢を見る必要などないはずだ。「政治という汚れ仕事を行う職人」程度に思って理想的人格など期待しないほうがいい。仕事の出来が悪ければガンガン文句を言えばいいけれど、「職人は聖人君子であれ」「万人の手本にならなければいけない」などと見当違いの要求をするのはまったく愚かなことだ。

「閣僚の定額給付金受け取り問題」の愚

2009年01月09日 | 政治・外交
ああ、くだらない!!!!!!!

定額給付金「受け取る」は11閣僚 足並みの乱れ露呈 - NIKKEI NET(日経ネット)
時事ドットコム:受領は11人、甘利行革相は辞退=閣僚の対応分かれる-定額給付金
給付金、閣僚11人が受給明言 甘利行革相は辞退 - 47NEWS(よんななニュース)
【定額給付金】閣僚11人が受給明言、甘利行革相は辞退 - MSN産経ニュース
asahi.com(朝日新聞社):飛騨牛とか電球型蛍光灯とか…10閣僚「給付金もらう」 - 政治
定額給付金、11閣僚「受け取る」…甘利氏は辞退明言 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

定額給付金:対応、閣内不一致 受け取り11人、留保5人、辞退1人 - 毎日jp(毎日新聞)
 9日の閣議後の記者会見で、定額給付金の受け取りに関する発言が相次いだ。閣僚17人のうち「受け取る」と明言したのは11人。5人は態度を留保し、甘利明行政改革担当相が辞退する考えを表明するなど、対応は分かれた。

 河村建夫官房長官は「寄付する代わりに、地元で障害者施設が作った物を買いたい」と表明。斉藤鉄夫環境相も「地元で省エネ製品や電球型の蛍光灯を買ったりして消費したい」と述べるなど、給付金を受け取って地元で消費したいとの意見が多く出された。

 一方で甘利行政改革担当相は「私は申請しない方がいいのではないかと思う」と受け取らない考えを示し、「ポケットマネーから家族に『定額給付』して、地元の商店街で使えと要請したい」と語った。

 中川昭一財務・金融担当相は、給付金を受け取るかどうかは「個人としては答えられない」。与謝野馨経済財政担当相も「予断を持ってどちらにするか言う段階ではない」と語り、態度を留保した。

 同日午前の閣僚懇談会で、河村氏は「性格上、政府が縛るというものではないが、定額給付金の趣旨にのっとり政治家として適切な判断をお願いしたい」と呼びかけた。給付金をめぐっては6日の政府・与党連絡会議で、自民党の細田博之幹事長が消費拡大のため「国会議員も、もらって使うべきだ」と主張して政府にこの趣旨の統一見解を出すよう求めた。だが麻生太郎首相が難色を示し、閣僚の自由意思を尊重する方針にとどめた。


世間やマスコミでは定額給付金の問題というと「麻生総理と閣僚が受け取るかどうか」が最大の関心事のようだ。もうまったく、本当に、うんざりして情けなくなるほどどうでもいいことにこだわる人が多すぎて嫌になる。まったくバカじゃなかろうか。
「閣僚の定額給付金受け取り問題」なんて「オバマ次期大統領がホワイトハウスでどんな犬を飼うか」よりもどうでもいいことだ。そんなことがゴシップではなく「政治問題」として論じられることにほとんど絶望する。

麻生総理が以前から言っているように、定額給付金の目的は「低額所得者に対する給付」と「景気の刺激」の二点である。
景気刺激の目的からすれば給付金とは「お金を使ってもらうための補助」であって、個人が受け取るかどうか、どんな目的で消費するかは「個人で決められるべきが正しいんであって、政府が何に使えとか、どうしろとかいうのを言うのはいかがなものか」というのはまったく正しい。
給付金は政府が国民に供与する「便宜」であって、どうしても受け取ってくれという「お願い」や「義務」ではない。政治家が受け取るのも受け取らないのもそれこそ勝手である。政府がお願いしたいのは消費拡大のほうなのだ。仮に私が政府の立場でいちばん虫のいい希望をするしたら、国民が「お気持ちだけいただきます、麻生さんの意気に感じて消費拡大は自分の財布でやりましょう」と言ってくれることだ。ところが実際は「給付金なんか要らないよ、景気回復は政府の責任だろ」とか「お金はありがたくいただいて貯金します、景気?誰かが何とかしてくれるでしょ」とか「金持ちだけどくれるものはもらっていいよね、『さもしい』なんて呼ばれたくない」といったわがまま勝手な意見ばかりクローズアップされる。
それが国民の本音かどうかはわからない。麻生総理を引きずりおろしたいマスコミが特に選んで増幅している気配もある。とはいえ、定額給付金がまったくの不評だとしても、「麻生総理が・閣僚が受け取るか受け取らないか」ばかりに注目が集まるのは私には理解できない。


日本人はやたらと政治家(特に政府与党)のことを批判しバカにするけれど、その反面妙に「徳の高さ」「人格の完璧さ」を求めるきらいがある。2004年におきた政治家の年金未納騒ぎなんかは典型的だ。
あのときも国会・マスコミ・世論のバカ騒ぎに辟易してニュースを見るのが苦痛だった。ずっと昔、年金未納が特に問題視されなかった時代のことをほじくりかえして「政治家失格」と言わんばかりに責めたてる。その年に始まった「報道ステーション」などはスタジオに「未納政治家」の大きな顔写真をズラリと並べて古舘伊知郎が得意げな顔をしていた。
国民年金には社会全体の支えあい助け合いの意味があるから「未納はよくない、無責任だ」と言いたくなるのもわかる。だが実際は未納を追及された政治家の多くは団塊世代かそれより上であって、「年金を払えば得をする」人たちなのである。政治家が「当たり馬券を買わなかった」のを外れ馬券をつかまされそうな国民が批判する、という奇妙な構図ができあがり、誰もそれを疑問視しない。そして、「未納騒ぎ」を追求する分だけ本来の年金制度見直し論議は後回しにされおろそかになった。
そのありさまを見て私は「未納騒ぎは金銭や政治の問題というより道徳の問題、正確には『国民が政治家に過剰な高潔さを求める』問題である」と思わずにいられなかった。

話を定額給付金に戻す。
私には「麻生総理や閣僚が受け取るか受け取らないか」にこだわる人たちの気持ちが理解できないのだが、彼らは閣僚に受け取ってほしいのだろうか、それとも断ってほしいのだろうか。どうも「どちらを選んでも文句を言う」気がしてならない。
言っちゃ悪いが、まるで駄々っ子だ。そんな「民意」のご機嫌取りをさせられる麻生総理には同情せずにいられない。

「派遣村」叩きに日本の国民性を思う(2)

2009年01月08日 | 日々思うことなど
まず、前の記事について言い訳めいた補足を二つほど。

「サイエンスZERO」を見て初めて山岸教授の研究を知ったように思われたかもしれないが、実は以前から「日本人は他国民と比べて他者を信頼する傾向が低い」という調査結果は知っていた。阿部謹也の「世間」論なども読んだことがあり、「日本社会って生ぬるいようで世知辛い」とわかっているつもりだった。番組を見て意外に感じたのは、たとえて言えば「ちゃんと勉強せずに試験を受けたけどなんだかいい点が取れそうな気がした。戻ってきたテスト用紙を見てびっくり・がっかり・やっぱり」という感じである(なんだかよくわからないたとえですみません)。

前の記事で世間の「派遣村」叩きと山岸教授の調査結果を結び付けて論じたのはなにも「日本はダメだ」「日本人は最低だ」と貶めるためではない。むしろ私はなるべく日本のいいところ(「とてつもない日本」)を見ていきたいほうである。必要もないのにやたらと日本(日本人)ダメ論を吹聴して「自分は違う、俺様は偉いんだ」とそっくり返る連中は右左問わず大嫌いだ(そういう手合いが多すぎる)。
それならなぜ「派遣村」叩きと民族性を結びつけたのかといえば、まるで南北アメリカとヨーロッパ・アフリカの海岸線がぴったり合うように「この二つはもともと一つのものだ」と考えるのが私にとって自然だからだ。目の前にガンダムMK-IIとGディフェンサーの玩具があったら、どうしても合体させてスーパーガンダムにしてみたくなるのと同じである(ますますわかりにくいたとえでごめんなさい)。ガンダムに興味がないとか、Mk-IIとGディフェンサーは別々に飾っておきたいと思う方はどうぞお好きなように。


危機に遭遇したときその人の本性が表れるという。
昼行灯と呼ばれ軽く見られていた大石内蔵介は主君切腹の知らせにうろたえず見事赤穂城の受け渡しを成功させた。逆にそれまで立派だと認められていた人が醜態をさらして大恥をかくこともある。
去年の秋に始まった世界的経済危機は、期せずして困難や破局に直面した各国の国民性を明らかにするはずだ。日本人が「なるほど立派な人たちだ」と感心されるのか、見苦しいエゴイズムにとらわれて「浅ましい連中」とさげすまれるのかの分かれどころである。
自分が外国人だったら、という視点で「派遣村」騒動を見てみる。
経済的に困窮した人たちが寄り集まりボランティアの援助を受けるのはどこの国でも珍しいことではない。「派遣村」の存在自体には違和感を持たないだろう。だが、「豊かな」「良識ある」日本人が貧困者に向ける視線の冷たさにはおそれを抱く。「ハラキリの美学」と思うかもしれないし、「だから日本は経済成長したのか」と納得するかもしれない。しかし私には「なんて身勝手で冷酷なんだろう」「封建思想が染み付いている、市民として助け合う責任感がない」と軽蔑される可能性がいちばん高いように思えてならない。

今回の世界的経済危機がどれほど深刻なものになるのか、あるいは予想外に影響が少なくてすむのか(ぜひそうであってほしい)、経済知識ゼロの私には見当もつかない。未来のことはわからないが過去のことなら本を読めばある程度わかる。64年前、フィリピンで破局を迎えた日本軍のありさまを伝える本がここにある。

Amazon.co.jp: 日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21) (角川oneテーマ21): 山本 七平: 本

この本は評論家・山本七平が陸軍専任嘱託のアルコール技術者だった小松真一の手記「虜人日記」をもとに語った日本人論だ。小松の「敗因二十一ヵ条」には現代にも通じる日本人と日本的組織・社会の問題が示されている。
敗因二十一ヵ条

一、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求される事は、総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練でもできる作戦をやってきた

二、物量、物質、資源、総て米国に比べ問題にならなかった

三、日本の不合理性、米国の合理性

四、将兵の素質低下(精兵は満州、支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)

五、精神的に弱かった(一枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱり威力なし)

六、日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する

七、基礎科学の研究をしなかった事

八、電波兵器の劣等(物理学貧弱)

九、克己心の欠如

十、反省力なき事

十一、個人としての修養をしていない事

十二、陸海軍の不協力

十三、一人よがりで同情心が無い事。

十四、兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついた事

十五、バアーシー海峡の損害と、戦意喪失

十六、思想的に徹底したものがなかった事

十七、国民が戦いに厭きていた

十八、日本文化の確立なき為

十九、日本人は人命を粗末にし、米国は大切にした

二十、日本文化に普遍性なき為

二十一、指導者に生物学的常識がなかった事

第二項「物量」第七・八項「技術力」の問題は現代日本に無関係といってよさそうだ(細かく見ていけばいろいろあるだろうが)。第四項の「戦死者」もいない。逆に言えば、ほかの問題点は60年以上経ってもたいして変わっていない。
第一項「精兵主義の軍隊に精兵がいなかった」というのは、過去の精神論(大和魂)に堕して実力を育まなかった日本軍の姿であり、今日の自己実現ガンバリズムと硬直したシバキ主義(過剰な自己責任の押し付け)だ。第九項「克己心の欠如」第十項「反省力なき事」第十一項「反省力なき事」あたりの実例は新聞や週刊誌にいくらでも載っている。第十二項「陸海軍の不協力」は今でいえば自民党と民主党のくだらない政争(漢字の誤読をあげつらったり)か。

「派遣村」周辺で見られたのは第十三項「一人よがりで同情心が無い事」第十九項「日本人は人命を粗末にし、米国は大切にした」の二点、そして第二十一項「指導者に生物学的常識がなかった事」も厚生労働省の対応が2ちゃんねる的「世論」に流されていたらそうなるところだった。
どうも日本人は「思想的に徹底したものがなく」「戦いに厭きて」いるときにかえって「同情心を無くし」「人命を粗末にする」傾向があるらしい。

敗因21 指導者に生物学的常識がなかった事
敗因19 日本は人命を粗末にし、米国は大切にした

生物学
生物学を知らぬ人間程みじめなものはない。軍閥は生物学を知らない為、国民に無理を強い東洋の諸民族から締め出しを食ってしまったのだ。人間は生物である以上、どうしてもその制約を受け、人間だけが独立して特別な事をすることは出来ないのだ。

日本人は生命を粗末にする(一部)
日本は余り人命を粗末にするので、終いには上の命令を聞いたら命はないと兵隊が気付いてしまった。生物本能を無視したやり方は永続するものではない。
特攻隊員の中には早く乗機が空襲で破壊されればよいと、密かに願う者も多かった。


 以上の二つの小松氏の言葉は、氏の『虜人日記』の「見方・考え方」の基調であり、ある意味では原点であろう。
(中略)
 最初に記したように、私が、本書を読んで「三十年ぶりに本ものの記録とめぐりあった」と感じた一番大きな点は、氏が人間を「生物」と捉えている点である。
(中略)
 いわゆる「残虐人間・日本軍」の記述は、「いまの状態」すなわちこの高度成長の余慶で暖衣飽食の状態にある自分というものを固定化し、その自分がジャングルや戦場でもまったく同じ自分であるという虚構の妄想をもち、それが一種の妄想にすぎないと自覚する能力を喪失するほど、どっぷりとそれにつかって、見下すような傲慢な態度で、最も悲惨な状況に陥った人間のことを記しているからである。
 それはそういう人間が、自分がその状態に陥ったらどうなるか、そのときの自分の心理状態は一体どういうものか、といった内省をする能力すらもっていないことを、自ら証明しているにすぎない。これは「反省力なき事」の証拠の一つであり、これがまた日本軍のもっていた致命的な欠陥であった。従って氏が生きておられたら、そういう記者に対しても「生物学的常識の欠如」を指摘されるであろう。
 氏は、ある状態に陥った人間は、その考え方も生き方も行動の仕方もまったく違ってしまうこと、そしてそれは人間が生物である限り当然なことであり、従って「人道的」といえることがあるなら、それは、人間をそういう状態に陥れないことであっても、そういう状態に陥った人間を非難罵倒することではない、ということを自明とされていたからである。

第9章 生物としての人間 p225-227


説明は不要と思うがあえて付け足しておく。
山本七平は「残虐人間・日本軍」を「暖衣飽食」した人々が非難罵倒するのは「生物的常識」と「自省力」を欠いていることの証だ、と語っている。これは「怠け者の元派遣失業者」を食事と住まいに不安のない人々が蔑視する「派遣村」の構図と何も変わらない。
「日本は余り人命を粗末にするので、終いには上の命令を聞いたら命はないと兵隊が気付いてしまった。」
かつて絶対的命令を下したのは「上官の命令は天皇の命令」の日本軍だ。今は主権者たる国民が「世論」を使って末端の「兵隊」を死地に追いやる。人間を大事にしない国に未来はあるのだろうか。