玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

「STOP THE KOIZUMI」の気になる動き

2005年11月30日 | 「世に倦む日日」鑑賞記
もともと数少なかった右派のブログが相次いで脱退を表明している。

■ 三輪のレッドアラート!: 反小泉ブロガー同盟との決別はやむを得ないと判断致しました。
 虚無、この人の思考、思索の中軸には、深刻無比な虚無が横たわっている。私はそう感じた。
 だから一緒には行けないし、行こうとしてはいけないのだと思う。


■ 帝國愁報: 第23号 小泉に賛同する反小泉ブロガーとは?
同胞の公開処刑とも言うべき事件を起こし、しかも小泉に賛同する。
「反小泉でも、賛同できるところには賛同する柔軟な自分」とやらに酔っているに違いない。
小泉支持者ですら、女系天皇容認論には異を唱える者が多いにも関わらずだ。

反小泉ブロガー同盟発起人が小泉に賛同とは、最早訣別を宣言するに十分な条件だ。

筆者はここに宣言する、発起人が小泉に賛同する反小泉ブロガー同盟から脱退すると。

考えてもみよ、小泉支持者によって掲げられた反小泉の旗印など、如何に空虚なものであるか。


■ 大和ごころ。ときどきその他:「改革ファシズムを止めるブロガー同盟」を脱退します
日本及び日本人足らしめる「皇室」の存在・「男系天皇」の維持を、「ジェンダーフリー」という薄っぺらな外国かぶれの思想で語るとは、とてもじゃないが支持できません。「男系維持」とは日本の国体の話であって、男女平等などというレベルの話ではないのです。しかも、本文では男女平等を唱えておきながら、「女性」とは書かず「女」「女」と書き続け、その物言いにも女性を軽んじている印象を与えます。

私は女性ですが、今回のテサロニケ氏のエントリーは全てにおいて不愉快なもので、考え方の根本が違うことが分かったので、同盟脱退を決意するには十分でした。



私自身は以前にも書いたように「有識者会議」主導の皇室典範改定(女系天皇容認)には反対なので、彼らの気持ちはわかる。
だが、「有識者会議」は小泉総理の私的諮問機関であり、総理は有識者会議案を基にした法案を次の国会に提出すると明言しているのだから、「女系天皇反対」の右派も「小泉政権打倒」という目標を共有することができるはずである。それなのにこのような強い反感が生じたのは、thessalonike2氏の「女系天皇をめぐる雑感 - 寄る辺なき時代に澄む男女平等原理」のなかに「反小泉」的な言葉がまったくなかったからだろう。
「意見の相違を乗り越え『反小泉』の一点で連携しよう」と呼びかけたthessalonike2氏が小泉に対し好意的な姿勢を見せたら、その一点の繋がりさえ壊れてしまう。

thessalonike2氏が女系天皇を容認されるのは個人の自由だが、「STOP THE KOIZUMI」の指導者をもって自ら任じているのであれば、そのようなことは書かないほうが賢明だったろう。女系容認論は一般世論でも政治的状況でも圧倒的に有利な立場なのだから、わざわざ「小泉支持」と誤解(?)される記事を書く必要はない。
右派が「女系天皇容認」に憤慨したのとは逆に、左派の中にはthessalonike2氏の手放しの皇室礼賛に違和感を感じる人たちもいるようだ。
部外者の私が言うのもなんだが、「STOP THE KOIZUMI」同盟員はただ一つ「反小泉」の点でthessalonike2氏に期待しているのであって、皇室についてのご高説を拝聴したいと思っている人はあまりいないはずである。


それともう一つ、thessalonike2氏が成功を報告した「桃園の誓い」について、他ブログのレポートが皆無なのが気になる。
出席を要請されていた6つのブログのうち、すでに「雑談日記(徒然なるままに、。)」は不参加を表明、「エクソダス2005《脱米救国》国民運動」はコメント欄で「残念ながら私はどうもお呼びでなかったようです.」と参加要請自体を取り消されたことを明らかにしている。残り4つのブログにも未だにオフ会レポートはない。
私の知る限り、オフ会が行われれば主催者のみならず出席者からもさまざまな声が出てくるのが普通なのだが。
どうやら「桃園の誓い」とやらは普通のオフ会とはよほど違ったものであるらしい。

龍虎相撃マックス・ヴェーバー

2005年11月27日 | 「世に倦む日日」鑑賞記
知性派ブログの竜虎対決というか、ハブとマングースの決闘というか。
最近は残酷だというのでハブとマングースの決闘は禁止され、代わりに水泳競争しているそうだ。

世に倦む日日:日本とは何か - エスニシティの均質主義と経済パフォーマンス
その思想の中には、カルヴィン的なプロテスタンティズムの「選びの教義」の着想と依拠があるように思われる。すなわち、世の中は常に「勝ち組」と「負け組」に分解する不断の両極分解運動の中にあるのだから、惨めな「負け組」に転落したくなければ、必死に努力して、英語でもIT技術でも短期に習得して、稼げる仕事に就いて金を貯めて株で儲けろという考え方である。怠けた者は神によって地獄に落とされる。神に選ばれる者、選ばれない者は最初から決まっているが、人は神に自らが選ばれていることを信じてただ偏執的にハードワークして金を稼ぐ以外にない。


極東ブログ: [書評]プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(マックス・ヴェーバー)
カルヴァン的なプロテスタンティズムの「神の選びの教義」とは何か
 これを、「神が現世における人間の努力やその成果によって人間を選別し、勝利者を救済し、弱者を地獄に落とす」と理解している人は、およそ社会学なり現代社会・政治を論じるに足りない。昔なら、岩波文庫で頭をぽんと叩いて「プロ倫を百遍読め」で終わり。
 そこで恥じて必死で十遍くらい読み、さらに恥じるのが正しい。だが、恥もせず、これを現代世界の「勝ち組」「負け組」と読み替え、惨めな「負け組」に転落したくなければ、必死に努力して、カネを儲けろとか理解する至っては…なんと形容していいものか。
 カルヴァン的なプロテスタンティズムの「神の選びの教義」とは、神が人間の現世努力いかんにまったく関わらず救済者を既決事項としている点に特徴がある。信仰心も善行も努力もまったく不要。救われようと努力するなど、神を愚弄するに等しい。


私は「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読んだことがないのでどちらの言うことが正しいのかはわからない。大昔に習った高校の倫理社会の教科書や、その後に読んだ通俗的な解説書とかを思い出すと、「極東ブログ」finalvent氏のほうが正しいような気もするが、もとより素人のあてずっぽうに過ぎない。

「日本を代表するアルファブロガー」finalvent氏から喧嘩を売られた「最新人気ブログランキング200」thessalonike2氏は果たしてどうするのか。反撃か、それとも黙殺か。
今後の展開から目が離せない。


ところで昨日の26日にはSTOP THE KOIZUMI同盟の「桃園の誓い」なるお不快、じゃなくてオフ会が開催されたはずだが、呼びかけ人の「世に倦む日々」をはじめ出席を要請されたブログにも全然レポートが出ていない。

□ 雑談日記(徒然なるままに、)
□ エクソダス2005《脱米救国》国民運動
□ Speak Easy 社会
□ 非国際人養成講座
□ とくらBlog
□ 読売新聞の社説はどうなの・・2

このうち「エクソダス2005《脱米救国》国民運動」には「11・26反小泉ブロガー同盟の初のオフ会で,島流しの憂き目にある同士と合流しよう!」という関連記事がありそのコメント欄でexod-US氏は「残念ながら私はどうもお呼びでなかったようです」と語っている。
もしかしたらSTOP THE KOIZUMI同盟の初の(準?)公式会合「桃園の誓い」は中止になってしまったのだろうか。気がかりなことである。

(追記)
STOP THE KOIZUMIの新しいエントリで「桃園の誓い」のレポートが上がっていた。どうやらオフ会は無事に行われたようである。
「STOP THE KOIZUMI」同盟員の皆様に会合の成功をお祝い申し上げるとともに、ケチをつけるような詮索をしてしまったことを詫びします。

エチゼンクラゲは凄い

2005年11月27日 | 日々思うことなど
まさに「メデューサとの出会い」だ。

NHKスペシャル:巨大クラゲ襲来
傘の直径が1m超、体重200kgに迫る世界最大級の巨大クラゲ・エチゼンクラゲが、今年はこれまでの10倍と見られる空前の規模で襲来している。定置網漁などは各地で操業停止に追い込まれ、漁業被害は過去最悪となる恐れも出ている。
 巨大クラゲの大発生は今回を含めこの百年で7回目、そのうち3回はこの4年に集中して起きている。何故、大発生は頻発するのか?去年、国はその謎に迫る研究プロジェクトを発足させた。実はエチゼンクラゲの生態はこれまで全く不明、その発生地すら特定されていなかった。研究プロジェクトは去年、世界初の人工ふ化に成功、生態の解明を進める一方、韓国や中国の研究者と協力し発生地の特定につとめてきた。その結果、驚異的な増殖・成長能力など謎に包まれていた生態や、大発生に東アジアの海水温の上昇など海洋環境の変化が深く関わっていることを明らかにしつつある。
 NHKでは、謎が解明されていく過程を去年から継続取材、史上最大とされる今年の大発生を、地域各局が連携して記録してきた。番組では研究・対策の最前線をドキュメント、異常な自然現象・巨大クラゲ大発生が何故起きるのか?学術的にも貴重な映像を豊富に盛り込みその謎に迫る。


エチゼンクラゲは、凄い。
「松田聖子は凄い」の続き、ではないけれど、松田聖子もエチゼンクラゲも見るものを畏怖させる凄さがある。

一つのポリプが分裂して何十、何百という個体を生み出す驚異の繁殖システム。
大量のプランクトンを根こそぎ殺し、最大限の効率で摂取する貪欲な食欲。
数ヶ月の間に何億倍も体重を増加させる成長効率。
まるで「エイリアン2」のようだ。

コンラート・ローレンツ言うところの「刷り込み」をされたSFファン(小学生のとき最初に読んだ文庫本は星新一「きまぐれロボット」である)の私としては、海中を不気味に、そして優雅に泳ぐ巨大なエチゼンクラゲの姿を見てアーサー・C・クラーク「メデューサとの出会い」を思い出さずにはいられない。
あの小説に出てきた木星の巨大生物(大気中に浮かぶ気球のような、クラゲのような生物)は知性を秘めていたが、エチゼンクラゲにも知性が…   まあ、無いだろうな。

苦労しておられる漁師さんはたいへんお気の毒だし、水産資源への被害には恐怖を覚える。
だがそれでも「エチゼンクラゲは凄い」「ある意味カッコいい」という萌える思いを抑えられない。
第二次大戦の戦争映画でドイツ軍が出ると「やっぱりカッコいいよな」と呟いてしまうのに少し似ている。

世界で最初にエチゼンクラゲの人工繁殖に成功したのは日本の新江ノ島水族館である。研究者のみなさんにはぜひ漁業被害を抑える対策を見つけていただきたい。がんばれエノスイ

「小さな義勇兵」 ~コンバット!その4~

2005年11月26日 | テレビ鑑賞記
ストーリーをあらかじめ知っていたのに、泣けた。

コンバット!第16話 「小さな義勇兵」(The Volunteer)
戦争で家族を失ったフランス人の少年ジルベールが、アメリカ軍に入隊したいと言ってやってくる。断られてもあきらめずに小隊の後をつけてきたジルベールは、負傷したヘンリー少尉を村まで連れて帰るという任務をまかされる。機転を利かせて活躍するジルベールだったが……。


ジルベールは森の中でドイツ軍に捕まってしまう。
ドイツ兵たちにからかわれるが、人の良い一人の兵士がジルベールを助ける。
クルトと名乗る兵士は「おじさんにも君と同じくらいの子供がいる」と語りかけ写真を見せる。
孤児であるジルベールは「その子はママと一緒にいるんだろう」と反発するが、兵士は「息子は死んだ」と顔を曇らせる。
部隊が出発するとき、クルトは「子供は週に一度はチョコレートを食べなきゃ」と言ってジルベールにチョコレートを与える。

村に戻ったジルベールはヘンリーをベッドの下に隠し、サンダースたちにドイツ軍が戻ってきたことを伝えに行く。
情報を聞いたサンダースたちは、機関銃を据えて待ち伏せしていたドイツ軍の裏をかき、ひそかに忍び寄って手榴弾で仕留める。

生き残ったドイツ兵の一人があわてて飛び出してくる。
旧式の銃で撃ち倒すジルベール。「ドイツ兵を殺した!」と歓喜の声を上げる。
だが、アメリカ兵たちは本気にしない。

「ちゃんと殺したのに」と不満なジルベールはドイツ兵の死体を確認する。
ジルベールが射殺したのは、彼にチョコレートを与えた兵士クルトだった。
すべての表情を失い、チョコレートを兵士のポケットに戻すジルベール。

ヘンリー小隊はジルベールに起きた事件を何も知らずに出発する。
荒れ果てた村の路上で、うつろな目をして座り込むジルベールの姿。


ジルベールとクルトの関係は、「ガンダム」に例えればアムロとランバ・ラルのそれに近い。
「ガンダム」ではホワイトベースに特攻したランバ・ラルは自爆して果てたが、ジルベールは憎い敵としてクルトを射殺してしまった。
その心理的衝撃はどれほど巨大なものだろう。

「小さな義勇兵」はコンバット!ファンの間では特に評価が高い回の一つだが、それも当然と思える質の高さ。
演出のロバート・アルトマンは、戦争映画の名作「M★A★S★H マッシュ」の監督である(このことはacoyoさんに教えていただきました、ありがとうございます)。

16話の限定で放送される「コンバット!」は「小さな義勇兵」でおしまい。
とても残念だ。ぜひNHKには全152話を放送してほしい。

松田聖子は凄い

2005年11月25日 | テレビ鑑賞記
私にとって永遠のアイドルは南野陽子ただ一人であって、松田聖子にはそれほど関心はないのだが、それでもじっくりと見入ってしまった。
松田聖子は、凄い。

NHK「音楽夢くらぶ」 松田聖子スペシャルpart1

デビュー25周年だそうだが、40を過ぎた今になってもアイドルの輝きを失っていない。
歌声にはツヤと甘さがあり、顔のアップ映像でも肌は瑞々しく張りがある。
現役のアイドルでも時として肌荒れが目立つのに、松田聖子の肌はいったい何なのだ。
超特大写真を自身のウェブサイトに飾る猪口男女共同参画相もびっくりである。
フリルがあちこちに付いた肩出しの白いドレスを堂々と着こなしてまったく違和感がない。
まさにエヴァーグリーン。

特に「渚のバルコニー」~「白いパラソル」~「天使のウィンク」のメドレーは素晴らしかった。
われながら馬鹿みたいに口をあけて見とれてしまった。
「ああ、この曲が流行ったころにはあんな恋をしていたなあ…」とさまざまなことを思い出す、ことができれば良かったのだが残念ながら私はその手のスウィートメモリーをあまり持っていない。実に情けない。

それにしても、「デビュー20周年過ぎてもアイドル」という路線の嚆矢は松田聖子なのではないか。
聖子以前の大物アイドルといえば、山口百恵は結婚して完全引退したし、キャンディーズは解散してそれぞれ女優になったし、榊原郁恵や浅田美代子はバラエティータレントになってしまい今さらアイドルの衣装を着ても笑われるだろう。
石川ひとみならアイドルのドレスも似合いそうだが、松田聖子のスター性に及ぶべくもない。
南野陽子が永遠のアイドルでいられるのも、偉大な松田聖子が堂々と自らのアイドル性を肯定し続けてくれたおかげだ。
ありがとう松田聖子。

とはいえ、90年代以降、もっとはっきり言えば南野陽子の後に「永遠のアイドル」路線で行けそうなタレントはいるだろうか。
宮沢りえはそもそもアイドルとしては大成しなかったし、広末涼子はすっかり脱アイドルして結婚出産したし、深田恭子なら40過ぎてもお姫様(のつもり)でいてくれるだろうが松田聖子や南野陽子とは比べようがない。モーニング娘。関係はよくわかりません、パスします。
誰であれ、20年後に松田聖子の如く時空を超越したかのような輝きは期待できそうにない。実に残念である。

12月1日には「松田聖子スペシャルpart2」が放送されるので、今回見逃した方はぜひご覧ください。
きっと私と同じように「松田聖子は凄い」とお思いになることでしょう。

(追記)
大物アイドルをあげた中に、当然入るべきピンクレディーと中森明菜を入れ忘れていたことに気付いた。
これは決して故意ではなく、本当に思い出さなかったのです。

まずピンクレディーだが、彼女たちは山口百恵や松田聖子と並べる「アイドル」というよりもむしろ「社会現象」という気がしてしまう。
古くはダッコちゃん、フラフープ(本当に古いな)、近年だとたまごっちとか波田陽区(どこにいったの?)とか風太くんとかの系譜。
ピンクレディーも再結成して「UFO」とかを昔のままの衣装と振り付けで歌っているけれど、松田聖子のような「人間離れした凄さ」を感じない。なぜだろう?
彼女たちはアイドル時代のことはあまりの忙しさにほとんど記憶がないそうで、「アイドル松田聖子の生き方」を自分でプロデュースしてきた聖子とは違う。そういうあたりが迫力の差を生んでいるのかもしれない。

中森明菜。
うーん、困った。去年の「ザ・ベストテン2004」でもそうだが、さいきん彼女の姿を見るとなんだかとてもいたたまれなくなってしまう。
「お気の毒」と呼ぶのは失礼だけれど、「彼女が松田聖子の半分ほどの肝っ玉を持っていればなあ」と惜しむばかり。

「英雄の条件」 ~コンバット!その3~

2005年11月24日 | テレビ鑑賞記
コンバット!第14話 「英雄の条件」 (The Medal)
ヘンリーたちは、ドイツ軍の攻撃を受けて身動きが取れなくなる。兵士の一人ヴィンスが自らの命を投げ打って応戦する。後でやってきたヘンリー少尉は、そこにいたウォルトンの手柄だと思い込み、ウォルトンに勲章の推薦をしたいと言い出す。

今回の主人公ウォルトンにすっかり感情移入してしまった。
ウォルトンはもともとあまり優秀な兵士ではなく、戦友のヴィンスに「母親のように」世話を焼かれていたが、運命のいたずらによってそのヴィンスの手柄を横取りする立場になってしまう。
もちろん良いことではない、いや卑怯な恥ずべきことであるのは彼も承知しているけれど、故郷から届いた悔しい手紙(ドラマ中では説明されなかったが、恋人からの別れの手紙か?)を読み「故郷の連中を見返してやりたい」一心でヘンリー少尉に嘘の報告をしてしまう。
このダメ人間ぶりに激しく感情移入してしまった私がやはりダメ人間であることは改めて言うまでもない。

ヘンリー少尉は「上層部は戦意高揚のために『英雄』ウォルトンに勲章を与えたがっている」と話すが、サンダース軍曹は「部隊の全員がベストを尽くしている、ウォルトンだけに勲章を与えるのは納得いかない」と反発する。
このあたり、「鬼軍曹」であり「部下を大事にする人情家」サンダースの魅力があふれている。

さて、ダメ人間ウォルトンはサンダース軍曹とともに、手柄詐称の真実を知るドイツ軍将校捕虜を連隊司令部に護送することになる。途中でドイツ軍に見つかりそうになり、サンダースは一人で偵察に行く。
残されたウォルトンにドイツ将校は「手柄の横取りを表ざたにされたくなければ俺を逃がせ」と迫る。
「捕虜と護送する兵士」という立場なのだから、ウォルトンにしてみれば「逃げ出そうとした」と理由を付けて殺してしまえばそれで済むことなのだが、ウォルトンのダメ人間ぶりを見透かしたドイツ将校は「俺を殺すとずっと罪悪感を抱いて生きていくことになるぞ」と脅す。
このあたり、人間心理の綾をうまく突いてるなと感心する。

戻ってきたサンダースはウォルトンとドイツ将校の会話を聞いてしまう。
だがサンダースはウォルトンの手柄横取りをはっきりと批判しない。
「そんなに勲章がほしいのか」と蔑んだり、ウォルトンの言い訳を「黙れ!」と叱り飛ばす程度。
そのことがかえってウォルトンの心の内にある罪悪感を大きくする。
ドイツ軍将校は二人の隙をついて逃げ出そうとする。射殺するウォルトン。
サンダースは「あいつを始末したら、次は俺か?」と皮肉る。「そんな、俺は…」いたたまれないウォルトン。

射殺の銃声を聞きつけたドイツ軍が二人を攻撃する。
サンダースは足を滑らせて倒れ、鉄条網に絡まって動けなくなってしまう。
一人になったウォルトンは逃げ出そうとするが、途中で意を決して引き返す。
トンプソンを撃ちまくり、敵の手榴弾を投げ返し、獅子奮迅の働きをするウォルトン。
サンダースを鉄条網から助け出し脱出するが、ウォルトンは腕を撃たれてしまう。

ヘンリー小隊に帰り着いたサンダースとウォルトン。
サンダースは命がけで自分を救ってくれたウォルトンのため大声で衛生兵を呼ぶ。
タンカに寝かされたウォルトンは自分の卑劣な行いを小隊の全員の前で告白する。
そのときの兵士たちの表情が実にいい。
誰も大声で非難はせず、さりとて庇いもせず、苦い顔で静かに顔を伏せるだけ。
たぶん、自分も立場が違えばウォルトンのような、あるいはヴィンスのような立場になるかもしれないと自問自答していたのだろう。

「コンバット!」ではいつも最後のセリフがいいが、今回もその例にもれない。
サンダース軍曹 「英雄って、いったいなんでしょうね」
ヘンリー少尉   「俺にもわからんよ。わからん」

ドラマの後の解説コーナーでなぎら健壱が「戦争では人殺しをすれば英雄になる、その異常さを表したセリフ」と語っていたが、その解釈は私には優等生的過ぎて納得いかない。
最後のセリフは「多くの戦果を挙げたこと」ではなく「自分の内なる良心をごまかさず誠実であること」が「英雄の条件」なのだと語っているように思う。

私もカタカナはわかりません

2005年11月23日 | ネット・ブログ論
芸なのか何なのかわかりません。

perish the thought!:カタカナはわかりません
そうそう、前からそうだったんだけど、あたしが頭悪いのは今さら言及することでもないが、それでもだ、最近そのfinalventさんとか、R30さん(特にR30さん)のブログの文章を読むと、「あー、あたしって頭悪いんだなー」と思うことが頻繁になってきた。なんていうの、漢字カタカナ交じり文21世紀風、とでもいうの?
では、クリエイターはどうだろう。テレビ局所属のクリエイター(プロデューサー、ディレクター、アナウンサーなど)は確かに高給だが、下請け制作会社やアニメ業界のクリエイターは途上国並みの薄給で働かされている。その生産するコンテンツのクオリティに大した差があるわけでもない。とすれば、下のレイヤーでのプラットフォームさえ作ってしまえば、コンテンツは過去資産のホルダーを囲い込むのではなく、制作力のあるクリエイターを一本釣りで囲い込み、作品を作らせるほうがずっとビジネス上のインパクトが高いことになる。

楽天は本当にAppleに対抗しようと考えたのか?/ R30マーケティング社会時評

たとえば、こういうのって読んで理解するまでに、あたしはえらい時間がかかる。コンテンツ、クリエイター、レイヤー、フォーム、ホルダー…うーん、なんか指しているもののイメージはつかめるんだけど、具体的に何を言っているのかがわかんない。こういう文章に加えて、あとは仕事自慢とか料理自慢なので、だんだん読まなくなったので、最近ブクマから削除しました。


[R30]: 消費者は偉大だ
久しぶりに見た「オレが消費者だ文句あるか」って感じの日記。禿しく心を揺り動かされた。ネットの外側の世の中のほとんどの人はアルファなんとか言って本まで出しちゃう連中をイタイ奴扱いするんだろーなーという悟りと目覚め。しかもコメント、TB一切拒否。これぞはてダの鑑。そして自分はこういう人から「分かんねえ」と言われてしまうような文章を書いてしまったことに、反省しきり。ネットって、こういう「何の関係もない人からの容赦ない言葉」が素で聞けるっていうのが、本当にすごいと思う。


perish the thought!の記事にR30氏がなぜこういう反応を示したのか、私にはよくわからない。
切込隊長のように「厨房の真似をしてみせる」芸なのか。
それとも、「真性引き篭もり」hankakueisuu氏のような自虐ネタなのか。
芸やネタにしては文章がつまらないし、もし真面目に怒って取り乱したのだとしたらいい大人(それも「マーケティング」を売りにしたアルファブロガー)がナイーブすぎて寒い。

もしR30氏が「俺をネタにして記事を書いたらちゃんとトラックバックして教えろよ」と怒ったのなら、「なぜトラックバックしないのか」「どんと来い、批判トラックバック」を書いた私にも大いに共感できるのだが、「[R30]: 消費者は偉大だ」を読む限り「(間違った)批判をされたこと」「『わからない』と拒否されたこと」への怒りしか読み取れない。
「そして自分はこういう人から『分かんねえ』と言われてしまうような文章を書いてしまったことに、反省しきり。」
このR30氏の文章を私は「わからない馬鹿のくせに文句言うんじゃないよ」と脳内で勝手に読み替えてしまった。

怒りたければ怒ればいいし、それはその人の勝手なのだが、「誰にでも分からせる」という自負を持って文章を書いている人が「わからない、わかりにくい」と言われたとき相手を罵倒するのは見苦しいと思う。

ちなみに私も「世に倦む日々」thessalonike2氏の使うカタカナ語がわからず自分の頭の悪さを痛感させられているので、「perish the thought!:カタカナはわかりません」には大いに共感した。
カタカナ語を多用するとコモン・コンシューマーのリーダビリティーがクリティカルにダウンするので、ユーザーフレンドリーなドキュメントをクリエイトしたければなるべく使わないことをリコメンドします。

(追記) 参考ブログ
■ 愛に史観を - ああ、R30さんは忘れているかも知れないけど
■ Leoneeds’ Blog - 「メディア」としてのインターネット ―オープンネスとパブリックネス―

「一人だけ帰った」 ~コンバット!その2~

2005年11月18日 | テレビ鑑賞記
今日の(正確には昨夜の)「コンバット!」はこれまででいちばん面白かった。
やはりサンダース軍曹が主役で戦闘シーンの多いのが好みだ。
ヘンリー少尉が主役の回はサスペンス仕立てだったり女性(なぜかいつも美人)と絡んだりして軟派でダメである。
それにしても脚本がよくできている。
前半はほとんど野外のシーンで、ヴィジュアル的にはエアガンを使ったサバイバルゲームと大して変わらない。
それでも戦場のリアリティを感じさせるのはさすがだ。役者の演技も緊迫感があってよい。

冒頭(オープニングマーチの前)、サンダース軍曹が大隊司令部から命じられた無理な偵察からボロボロになって帰ってくるところからして悲壮だ。(セリフはうろ覚えなのであまり信用しないでください)

丘の斜面にある墓地でドイツ軍の砲撃に耐えながらサンダースたち斥候隊の帰りを待つヘンリーの小隊。
稜線を越えて姿を現したサンダースは疲労困憊して負傷兵を抱えている。
砲撃のショックで斜面を転げ落ちようやくヘンリーのもとにたどり着く。
サンダース「六人で行って帰ってきたのは一人半(サンダースと負傷兵)」
ヘンリー「それで敵の様子はつかめたのか」
サンダース「狙撃兵と地雷にやられて、敵を見ることさえできませんでした」
ヘンリー「そうか…。すまないが、大隊司令部はこの偵察は最重要なので地理を知っているお前にもう一度行けと言っている。ひどい話だがこれは命令なんだ、俺にはどうにもならない」
サンダース「(墓石に寄りかかりながら)…俺はもう死んだのも同じだ」


大隊本部に行ったサンダースは戦局の説明を受ける。
・ 他方面で攻勢に出るためこの戦線では兵力が手薄になっている。
・ それを察知したドイツ軍が攻勢に出る可能性が高い。
・ どこから攻めてくるか分からないと、手薄な戦線は簡単に突破されてしまう。
・ どうしてもドイツ軍の攻勢点を知ることが必要だ、多くの犠牲を払ってもやり遂げなければならない任務である。
サンダースは道案内のためジェンキンス軍曹の部隊に同行するよう命じられる。

ジェンキンスはサンダースに対して挨拶もせず、「若造」「足手まとい」扱いにする。
森の中を進む斥候隊。突然木の上から狙撃され一名が死亡。
サンダースは「狙撃兵を避け遠回りしよう」と主張するがジェンキンスは強引に前進を命じる。
突撃する兵に合わせて動く狙撃兵、揺れる木の枝で存在を暴露してしまい射殺される。
「これがプロの戦争のやり方だ」と勝ち誇るジェンキンス、まるで酢を飲まされたような顔のサンダース。

意気揚々と早足で進むジェンキンスたち。
サンダースは足元に眼を配りながらゆっくり進む。苛立つジェンキンス。
だが、サンダースは危ういところで細いトラップワイヤーが仕掛けられた地雷を発見していた。
ジェンキンスの部下が地雷に引っかかり一名死亡、ジェンキンスも「足元に注意して進め」と注意せざるを得ない。

やがて水車のある工場にたどり着き、ジェンキンスとサンダースは中を調べようと建物に入るが、そのとき急に現れたドイツ軍部隊に外にいた部下たちは射殺されてしまう。隠れるジェンキンスとサンダース。
ドイツ軍は作戦司令部を工場に置いた。隠れ場所から大佐の制服を見たジェンキンスは重要情報を得るチャンスだと意気込むが、残念ながらドイツ語が分からない。
無線で本部と連絡を取ろうとするサンダース、傍受を恐れてやめさせようとするジェンキンス。危機に陥っても二人の関係は悪いままだ。
軍に入る前のことを聞かれたジェンキンスは「自分は18のときから軍人だ、民間人上がりの素人とは違う」と誇るが、サンダースは「俺は番頭さ」と取り合わない。

やがて夜になり、夜陰にまぎれて脱出しようとする二人。
だが、何を考えているのかジェンキンスはわざと無線機を二階からドイツ兵たちのいる一階に落として発見され捕虜になってしまう。サンダースは隠れ場所からジェンキンスと(英語を話す)ドイツ軍大佐が会話するのを覗き見る。
大佐「お前の他にもここにアメリカ兵がいるのか」
ジェンキンス「いや、全員死んだ」
大佐「アメリカ軍の位置を教えろ」
ジェンキンス「そんなことはできない」
大佐「それならお前はスパイとして処刑する」
ジェンキンス「待ってくれ、何でも教えるから助けてくれ」
大佐「さあ、アメリカ軍がどこにいるか話せ」
ジェンキンス「地図がないと分からない、地図を見せてくれ」

ドイツ軍の位置が記された軍用地図がテーブルに広げられる。
ジェンキンスが捕まったのは、敵の中に入って情報を取りそれをサンダースに伝えるためだったのだ。
わざと床にペンを落としたジェンキンス、地下の隠れ場所のサンダースにだけ見えるように「二階に上れ」という手まねをする。
サンダースは静かに二階に上り、床に開いた穴から望遠鏡でドイツ軍の配置を読み取る。

と、そのときサンダースの隠していた装備品がドイツ兵に見つかってしまう。
ドイツ兵「他にもアメリカ兵がいるぞ!気をつけろ!(ドイツ語なので正確には不明)」
ジェンキンスはサンダースを逃がそうとしてドイツ兵に飛びかかり射殺される。
サンダースは二階からトンプソンを撃ちまくり、ドイツ軍作戦司令部は壊滅(サンダース強すぎ)。

またもボロボロになって大隊司令部に帰り着くサンダース。
だが、報告しようとするサンダースに返ってきたのは「ゆっくり休め、報告は後で聞く」という言葉だった。
斥候に出ている間にドイツ軍の暗号が解読され、サンダースの持ってきた情報の価値はなくなっていたのだ。
「ジェンキンスが命を投げ出してまで得た情報なのに」と憤慨するサンダース。
だが少佐は「最重要の情報だからあらゆる犠牲を払って入手しようとした。大事なのは情報の内容であって、誰がその情報を取ってきたかではない。この情報を得るためにフランス人の協力者が三人死んだ」とサンダースを諭す。

サンダースは「ジェンキンスのことを教えてください」と頼む。ジェンキンスはもとは将校だったが、厳しい訓練をやりすぎて部下を死なせてしまい、「将校には不適格」と格下げされた男だった。
「不思議なもんです…。初めて会ったときから虫が好かない男だったが、一生忘れられない男になった」
サンダースは泥水に深々と足を沈ませて大隊司令部を去る。


野暮を承知で突っ込めば、「二階からトンプソンを乱射してドイツ兵が全滅するなら、最初からそうすればいいのに」ということになるが、見ている間はまったくそんなことが気にならなかった。
「ルパン三世・カリオストロの城」で「水道に使えるほど水が澄んでるならローマの遺跡が発見されないはずないだろ」と設定をあげつらうようなものか。
水車のある廃工場の使い方が見事で、立体構造をうまく生かしきった。このあたりも「カリ城」を思わせるものがある。
最後のサンダースのセリフ、そして泥水に浸かった足元のアップに苦味が利いている。
「反戦」「平和」といった言葉は一度も出てこないけれど、「戦争って嫌だなあ」とつくづく思わせる「コンバット!」。
やはり戦争ドラマの名作だ。

どんと来い、批判トラックバック

2005年11月12日 | ネット・ブログ論
ここ数日のあいだ私の愛読する人気ブログ「世に倦む日々」ではthessalonike2氏が日本共産党の「党名変更」「路線変更」を求めて力強くアピールを続けていた。
残念ながら、というかなんというか、私はほとんど共産党に興味がないので(立花隆「日本共産党の研究」を読んだ程度)、氏のアピールの意味が半分も理解できなかった。持ち味である「独創性」や「大いなるロマン」がどのあたりにあるのか、それともないのか、それさえも分からない。例えて言えば、野球ファンではない私が「オリックス・バファローズの打線はどう組むべきか」という話題に全く参加できないようなものだ。

というわけで次第に「世に倦む日々」熱は冷めつつあったのだが、「STOP THE KOIZUMI」関係で見過ごせない動きが出てきた。

T.N.君の日記:トラックバックセンター構想

どうやら「STOP THE KOIZUMI」ブログの他に反小泉の有志が集う場所を作ろうとしているようだ。
thessalonike2氏はこの動きに対し
「この話に安易に乗っかると、「改革ファシズムを止めるブロガー同盟」の運動が本来の性格と路線を外れて、外部の政治団体の手に管理掌握される危険が大きい」

と判断して中止を求めている。

私は部外者なので「トラックバックセンター構想」の是非についてとやかく言うつもりはないが、興味深いのはthessalonike2氏が「トラックバックセンターに関するお知らせ (11/11)」において「ネット右翼のスパムTB」を排除することを当然のこととし、速やかな発見と削除の必要性を強く主張していることだ。
さらに厄介なのは、外からのブロガー同盟攻撃や内部撹乱目的のTBにどう対処するかという問題があります。「ブロガー同盟は内紛状態だ!」というTBが寄せられたときどうするのでしょう。管理者が削除したら、後からある正規の同盟メンバーから「内紛は事実だから削除するな」という声が上がったらどうするのでしょう。「世に倦む日日は無知蒙昧」などというTBは削除してもらえるのでしょうか。

私にはこのような態度は「批判を受け入れられない偏狭さ、弱さ」の表れに見える。
清く正しく美しい意見だけを認め、反論や嘲笑を抹消して「なかったこと」にする、そんなやり方がこのネット時代に通用するだろうか。多少の雑音にも耐えられない潔癖さと精神的ひ弱さで本当に力のある運動が可能だとは思えないし、中立的な人々からの好感を得ることも難しいだろうと考える。
共産党や創価学会のように鉄のごとき統制を誇る一枚岩の組織を目指すのならともかく、多くのブロガーが立場や思想の違いを乗り越えて連合するのであれば、その呼びかけ人であるthessalonike2氏は「世に倦む日日は無知蒙昧」という批判をも甘んじて受ける度量を示さないと、かえってメンバーからの信頼を失うことになるだろう。

もし私が「河村たかしを民主党代表にするブロガー同盟」を呼びかけて(実際に呼びかけるつもりは今のところありません、念のため)、拠点ブログあるいはトラックバックセンターを作るとしたら、基本的に批判コメント・トラックバックの削除はしない。
あまりにも批判の数が多く読者から「なんとかしろ」と言われた場合には、「削除」ではなくて「別にエントリを立て、そちらに移動させる」という形を選ぶ。読者が「異論」「反論」に簡単にアクセスできるようにしておきたい。
読者が「A」という説と「B」という説を見比べて、自らの判断で「A」を選ぶとき、その人の「A」に対する意志はよりはっきりしたものになっているはずだ。

それにしても、感受性や考え方は本当に人それぞれだ。
私自身は誰かにブログで批判されたら「トラックバックして欲しい」と思うし、トラックバックせずに批判するやりかたに対しては「陰口じゃないかそれは」と嫌な気持ちを抱く(*)
その逆にthessalonike2氏は自分たちを批判するトラックバックを送られると「ネット右翼の攻撃」「正義と真実から外れたスパムだ」として容赦なく削除する。
私は自分の部屋が散らかっていても平気だが(もちろん良いことではない)、たぶんthessalonike2氏の部屋はきれいに整頓されて床には塵一つ落ちていないのだろう。
「水清ければ魚住まず」ということわざもあるが、「STOP THE KOIZUMI」運動は果たしてこれからどうなっていくのだろうか。

* もちろんこのエントリは「STOP THE KOIZUMI」「T.N.君の日記」にトラックバックする。「STOP THE KOIZUMI」からはどうやら拒否設定されているので無駄撃ちになりそうだが。

兵士の実感

2005年11月09日 | 日々思うことなど
当ブログ11月8日のエントリ「コンバット!」に、きつね氏から以下のようなコメントを頂いた。
某氏のブログにこんな記述がありました。(要約)
 塾の生徒の「戦争でいかに人を殺すか」についての質問に私は常に、以下のように答える。
 戦争は殺しに行くんじゃなくて、殺されに行く。
 兵士は、『こいつらは殺されても文句言いません』と国が互いに決めた人間。
 戦場では殺す人数より、殺される人数のほうが多い。
 みな、『殺す』ことばかり考えるが、考えが浅すぎる。
 戦争とは、『殺されに行く』こと。
 『殺す』側になる可能性より、『殺される』可能性のほうが、ずっと大きい。

私はコメントを制限されているようなので氏のブログでは、反論できませんでしたが。
一言でいえば、なんと底の浅い考えであるかと言うこと。
戦争は「殺す」ものでも「殺される」ものでもなく、
国や社会対する奉仕の一つの形だと私は考えます。

私にはきつね氏を批判するつもりはない。
「戦争は『殺す』ものでも『殺される』ものでもなく、国や社会対する奉仕の一つの形だと私は考えます。」
とてもご立派な(断じて皮肉ではない)お考えだと思う。
ありえない仮定だが、もし私が防衛庁長官であれば、マスコミから「戦争とは殺し合いでしょう」と聞かれたら「いえ、戦争とは国を守る方法の一つであり、兵士は国家と社会のために奉仕しています」と答えるだろう。
だが、現実の私は権力と責任を(閣僚に比べれば)わずかしか持たない一般国民であり、おなじく一般国民(だと思われる、間違っていたらごめんなさい)きつね氏から「まるで防衛庁長官のような」立派な言葉を聞かされると正直言って違和感を感じてしまう。
たぶん、私があまり立派な人間ではないからだろう。
あるブロガー(きつね氏とは別の人)から「まともな社会人ではない」と批判されたこともあるが、「ああ、そうかもね」と半分納得してしまった。そのとき私が怒ったのは、「まともな社会人ではない」と呼ばれたことよりも「想像で決め付けて人格攻撃する」やり方が不愉快だったからだ。
話がそれた。

以下は山本七平「私の中の日本軍」(文春文庫版・上巻p183-184)からの引用である。




 私は、否、私だけでなく前線の兵士は、戦場の人間を二類型にわける。その一つは戦場を殺す場所だと考えている人である。三光作戦の藤田中将のように「戦争とは殲滅だ」といい、浅海特派員のように「戦場は百人斬り競争の場」だと書き、また本多氏のように、それが、すなわち「殺人ゲーム」が戦場の事実だと主張する―この人びとは、いわば絶対安全の地帯から戦場を見ている人たちである。だが、もう一つの人びとにとっては、戦場は殺す場所ではなく、殺される場所であり、殲滅する場所ではなく殲滅される場所なのである。
 その人びとはわれわれであり、前線の兵士たちである。彼らにとって戦場とは「殺される場所」以外の何ものでもない。そして何とかして殺されまいと、必死になってあがく場所なのである。ここに、前線の兵士に、敵味方を越えた不思議な共感がある。私たちがジャングルを出て、アメリカ軍に収容されたとき一番親切だったのは、昨日まで殺し合っていた最前線の兵士だった、これは非常に不思議ともいえる経験で、後々まで収容所で語り合ったものである。
 この時の状況も、また機会があれば詳しく語ろうと思うが、今ほんの一例をあげれば、私たちはまずアパリの海浜の天幕づくりの仮設収容所に運ばれたのだが、天幕に入ると同時に、物凄いスコールが来た。天幕の垂れ幕があがっているので、海からの風で横なぐりに降る豪雨は、遠慮なく天幕に吹き込んでくる。われわれが垂れ幕を下ろそうとすると、彼らはそれを押しとどめ、手まねで寝て休んでいろといって、豪雨の中で文字通りズブ濡れになりながら、垂れ幕を下ろし、杭を打ち、綱で結んで雨が入らぬようにしてくれた。
 しかし、すべてにわたって、そういう扱いは最前線だけであった。後方に移されるほどひどくなり。その年の暮のクリスマス前に歴戦の米兵はアメリカへ帰り、全く戦場を知らない新兵が来ると、もう徹底的にいけなかった。
 彼らにとっても、戦場は「殺す場所」であって「殺される場所」ではない―そしてそれは、いかに説明してもわからない。そして、「そんなことわかっている」という人間が実は一番何もわかっていない。彼らがわかっているというとき、それは結局「殺される者がいるということでしょ、そんなことはわかっていますよ、気の毒ですね、戦争はいやですね」ということであっても、自分が殺される、殺されまいとしてあがく、それがどんな状態か、そのとき人間はどんな顔をするかは、それはわからない。
 従って無神経に「殺される者の苦しみはワカッている、ワカッっている」などと言う者がいると、兵士は逆にカッと激怒し、時に暴行さえ加える。ところが暴行をうけた者はその理由が全くわからない。それほどこのギャップは埋めがたい。





山本七平は太平洋戦争中に召集され、陸軍砲兵見習士官(のち少尉)として激戦地フィリピンのルソン島で戦った。
フィリピン戦での日本軍の戦死者は約50万人。その多くは餓死だったといわれている。

戦争とは、嫌なものだ。