玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

あしたの斉藤さん、鹿男の母

2008年02月28日 | テレビ鑑賞記
最近どうも時間が足りないと思ったら、テレビドラマをたくさん見ているせいだと気付いた。
ネットで見かける意識の高い人たちは「テレビなんて見ないよ」「ドラマを最後に見たのはいつだったか覚えてない」などとのたまうのだが、私はいまだにテレビ中毒なのだ。数えてみたらほとんど毎日一時間以上ドラマを見ている。


火曜10時 「あしたの、喜多善男」 フジテレビ系
期待度は一番高かったけれど最近は脱落気味。話の展開が遅すぎる。松田龍平と栗山千明の「ハゲタカ」カップルは絵になる。ブラック善男が怖い。吉高由里子がコケティッシュで可愛い。脚をマッサージしたい。

水曜10時 「斉藤さん」 日本テレビ系
偶然第一話を見たら案外面白かった。視聴率もいいらしい。空気を読まず正義感の強い変人「斉藤さん」は格好いけれど完璧超人にしてしまうとつまらない。もっと失敗したり「正義が人を傷つける」部分を描いてほしい。斉藤さん(観月ありさ)の友人・真野さん(ミムラ)がかわいい。

木曜10時 「鹿男あをによし」 フジテレビ系
今期ドラマで一番好き。奈良の風景が美しい。幻想的な雰囲気と(今のところは)しょうもないストーリーに波長が合う。玉木宏のやつれかたがリアルだ。多部未華子は目力がある。なんといってもロボ鹿と藤原先生(綾瀬はるか)が可愛くてたまらない。萌えまくり。

金曜10時 「エジソンの母」 TBS系
良心的な作品とは思うがそれほど面白くない。なぜ見ているのかといえば伊東美咲さまのためである。あいかわらずお美しい。演技はまあそのアレだけど、先生役を楽しそうに演じてる。もともと彼女は幼稚園の先生志望だったから小さい子供の面倒を見るのが好きなのだろう。元婚約者の谷原章介に何度も「つまらない女」とバカにされるところが面白い。美咲様は容姿が完璧なので「できる女」の役だと鼻に付く。エルメスみたいに天然だったり「危険なアネキ」やこのドラマのように欠点のある役のほうが魅力的だ。

金曜11時15分 「未来講師めぐる」 テレビ朝日系
フカキョン主演のクドカンドラマ。何も考えずに楽しめる。深田恭子はいくつになっても可愛いな。黒川智花に食われるかと思ってたらきょーこりんの魅力を再発見してしまった。

土曜9時 「フルスイング」 NHK総合
先週で完結。文句のつけようがないほど良いドラマでした。あまりにも「いい話」なのでひねくれ者の自分が拒絶反応を起こさなかったことが不思議。たぶんドラマの終着点がはっきりしていたからだ。生徒に夢の力を語り続けた「高さん」がわずか一年の教師生活で倒れる。まさに夢半ばにして果てる。それでも生徒と同僚教師は「夢」「氣力」を受け継いで未来に歩き続ける。夢が叶うのは幸せだけれど、叶わない夢が受け継がれるのは美しい。

月曜~土曜 「ちりとてちん」 NHK総合
ただ一言、傑作です。


番外
日曜8時 「篤姫」 NHK総合
「義経」「功名が辻」「風林火山」で大河ドラマを見る習慣がついたので3話まで付き合ったが、いい加減アホらしくなってリタイア。朝ドラ系スイーツ(笑)大河は視聴率好調だそうで結構だけれど、いい年した男にはついていけない。宮崎あおいは別に嫌いじゃないが「純情きらり」でも「篤姫」でもぜんぜん魅力的に見えないのはなぜだろう。朝ドラや大河よりも「ちょっと待って、神様」のような小品佳作のほうが向いてるのに、もったいない。

ありがとう問題と「水からの伝言」

2008年02月27日 | 「水からの伝言」
ありがとう問題の続き。

「客が店員に『ありがとう』と言うことが不快だ」と感じる質問者には多くの批判が集まった。
「ひねくれている」「理解不能」「自意識過剰」「ふざけてる」等等。
正直に言って私は質問者よりも批判する人たちのほうに嫌な感じがした。

「ありがとう問題」の背後には「水からの伝言」と同じ心理的メカニズムが働いているように思う。
ここでは仮に「一対一対応期待」と呼ぼう。心理学でこういう概念があるのかどうか知らない。私の造語である。
人間心理における「一対一対応期待」とは、あたかも一次方程式のように「入力A」を与えると確実に・自動的に「出力B」が出てくると期待する心の動きだ。

「ありがとう問題」の場合はこうなる。客が「ありがとう」と言う(入力A)とサービス提供者は必ず喜ぶ(出力B)と期待する。他の反応(「イラっとする」「馴れ馴れしい」「不快だ」)は想定されず、もし出てきたらそれはエラーとして存在を否定される。
「水からの伝言」の場合「一対一対応」は言葉・物質・精神という次元の違いを無視して「よいもの」「きれいなもの」を結びつける。と言うより「拘束する」。「ありがとう」→「美しい水の結晶」→「美しい心」という一直線の過程が期待される。「一対一対応期待」が強い人にとってはそれが自然であり正しい世界のあり方だ。

数学のイメージを借りて説明してみる。
実は私は数学が大の苦手で、微積分の入り口で躓いたクチである。間違いがあったらごめんなさい。
方程式 y=f(x) において特定のyが与えられたときxの値が一つだけ定まるとしよう。一次方程式 y=2x であれば、y=2 のとき x=1 だ。他の答えが出たとしたらそれは間違いでしかない。
だが、数学は解が一つに定まる一次方程式ばかりではない。二次方程式なら y=x^2 でyの値が4のときx=-2,2だ。二つの解がある。方程式が複雑になれば解の数が増えたり、あるいは答えを求められなくなったりする。
現実世界はもっと複雑だ。
善意の行為が誰も望まない結果につながることがある。きれいな言葉で道徳的に問題のある概念が表現されることもある(その典型が「水からの伝言」だ)。「一対一対応期待」は「こうだったらいいのに」という願望と現実を混同している。

「一対一対応」は生活のためにとても役立つ。
行為の結果について考えずにすむ。精神的な労力の節約だ。現代社会では便利な「一対一対応」があふれている。
たとえば自動販売機。お金を入れてボタンを押せば商品が出てくる。客を選んで販売拒否することはない。
たとえば自動車。アクセルを踏むと走り出す、マジで。ちょっと感動。
たとえば水道。蛇口を開ければ水が出て、閉めると止まる。
どれもあたりまえのように使っているが、考えてみればあまりにも便利である。

だが世界とは「一対一対応」がつねに成り立つほど単純で便利なものなのだろうか。そんなはずはない。
自動販売機も自動車も水道も、人間が一生懸命考えて作り上げた結果としてようやく「一対一対応」が実現できた。自然は人間の要求に常に素直にこたえるほど優しくない。農業で同じ労力を費やしても天候により豊作の年と不作の年がある。怒っても恨んでもどうしようもない。
複雑な人間の心理において「一対一対応」が常に成り立つはずもない。ときに「ありがとう」が反感を呼び、「美しい水の結晶」が差別につながる。人間とはそういう生き物であり、だれもが常に「一対一対応」するようになれば欠点だらけの愛すべき人間性は失われる。
「客が『ありがとう』と言えば店員は必ず喜ばなければならない」と期待する強い「一対一対応期待」は人間性を軽く見ている。店員が複雑な心を持つ人間であることを忘れている。「ありがとう」という言葉をかければ喜ぶ機械のように見なしているのだ。

「ありがとう問題」は今のところたいした問題ではない。サービス業従事者のほとんどはお客様に「ありがとう」と言ってもらえば自然とうれしくなるはずだ。そういう心の動きをする人でなければわざわざ気苦労の多い仕事を選ばないだろう。「ありがとう」と言う客も店員を軽んじているのではなく喜ばせたい、そして自分も気持ちよくなりたいだけである。お互いの気持に嘘や押し付けは(ほとんど)存在しない。

恐ろしいのは「水からの伝言」の「一対一対応」だ。
「ありがとう問題」では言葉と人間の心というお互い影響を与え合うものを一対一対応させていたが、水伝の場合「きれいな言葉」→「美しい結晶」→「よき心」という関係が偽造される。科学的事実と論理を無視して「言葉」「物質」「道徳」を拘束する。嘘をきれい事で飾り立ててインチキな道徳を押し付ける。
こんなものが「いい話」として通用するのはニセ札が流通するのと同じくらい困る。
大阪大学の菊池教授は「想像力が足りないからこそ、「水からの伝言」を肯定できるのだろうなあと思うわけです。」と言っている。私も同感だ。「一対一対応期待」にとらわれた思い込みは人を自由にする想像力とは違うものだ。

ありがとう問題

2008年02月22日 | 日々思うことなど
モヒカン族なのか超ムラビトなのか、それが問題だ。

店員に「ありがとう」と言う人が大嫌い。おかしいのでしょうか。。。 - Yahoo!知恵袋

店員に「ありがとう」と言う人が大嫌い。おかしいのでしょうか。。。

さっき別の方が、店員に「ご馳走様」「ありがとう」と言う人を見ると惚れそうになる、と書いていて、
あまりにびっくりしたので質問してしまいました。

私の周りにも何人かそういう人がいて、料理が運ばれてくるたびに「ありがとう」と言ったり、
買い物してお釣りをもらうときに「ありがとう」と言ったりしてました。

見ててイラッとします。会釈ならいいんです。私もするし、感じいいです。でもなんで声に出す?
知り合いでも何でもないのに、馴れ馴れしくない?と思います。
そういう人に限って、何かあったときにねちねちクレームつけたりする。

私自身、コンビニでバイトしてたときに、「ありがとう」と言われたことあります(関西の発音の人が多かったような。。。)
正直、内心で「友達でもないのに何様?」と思ってました。別にお礼言われるようなことしてないし、と。

あ、でも年配の方とかが笑顔で「ありがとう」と言ってくれたら素直に嬉しい。
この気持ちは何でしょう。。。
とりあえず、何かと馴れ馴れしい人が嫌いで、「ありがとう」も、本来喜ぶべき御礼の言葉なのに、
イラッとしてしまいます。
神経質でしょうか?


そう、会釈や「どうも」くらいならいいんです。やって普通だと思います。
でも、「ありがとう」って。。。。
常連さんや顧客じゃないんですよ!?
一見さんですよ?言う必要ありますか?

三点リーダー(…)の代わりに「。。。」を使うのはおかしいです。大嫌いです。
まあそれはともかく。

maettekurumaさん(質問者)の感じ方がおかしい(異常)とは思わないが少数派なのは間違いない。
彼女は潔癖なのだろうか。それとも仲間が好きで他人が嫌いなのか。
はてな界隈でいうところのモヒカンなのか、ムラビトなのか。
薄っぺらな言葉を嫌っているのか、「自分が受け入れられない相手」とのコミュニケーションを拒否しているのか。
これだけの文章で判断するのは難しい。

顧客がサービス従事者に感謝を表明する。「ありがとう」と言う。一般的には「いいこと」である。それを嫌う人は確かに珍しい。
だが、顧客とサービス従事者を反転させるとどうだろう。たとえばブックオフのように、店員全員が「ありがとうございました」と声を合わせる押し付けがましい接客は嫌だと思う人は多い。こんな例もある。

高島屋の新サービス「お声がけをひかえるおもてなし」を体験 | エキサイトニュース
先月から百貨店の高島屋で静かにショッピングを楽しみたい、という人に向けて「声かけをひかえる」という新しいサービスがスタートしたという。
 (中略)
今まで百貨店、デパートのサービスと言えば至れり尽くせりのものが多かったけれど、それとは逆のこうした「放っておいてくれる」というのは個人的には大歓迎だ。気の弱い(?)私は販売員の方に声をかけられると、何か話をしなければ悪いような気がして、気を使って疲れてしまうことがある。

接客とはコミュニケーションである。人により、状況により快適と感じるコミュニケーション濃度が違って当然だ。
「放っておいてほしい」顧客がいる(珍しくない)のであれば、「顧客と心情的交流をしたくない」サービス従事者がいても不思議はない。
まあ、正直言ってそういう人はサービス業に向いてないと思うが。

最初に書いたように、この相談者がベタベタしたコミュニケーションを拒否する「モヒカン族」なのかその対極の「超ムラビト」なのか判断するのは難しい。

モヒカン族とは - はてなダイアリー

モヒカン族だとしたら私には理解できる。
「当然のサービスを受けただけなのにわざわざ『ありがとう』なんて言うな」
「好意を期待してへりくだるのは卑屈だ」
「つまらないことで『ありがとう』を使うと感謝の価値が下がる」
というふうに言語化すると30%くらい共感できる。同時に「こういう感性が社会の多数派になったら暮らしにくいだろうな」とも思う。頑固な職人タイプのキャラクターを思い浮かべるとわかりやすい。
感謝の表明をモヒカン族的に拒否するタイプとしては、哲学者の中島義道がいる。

「『人間嫌い』のルール」/中島義道:空中キャンプ

中島の人間嫌いは徹底している。前述の「ひとを愛することができない」には、こんなことまで書いてある。「私は自分がある人に対して感謝に値することをなしたとしても、その人から感謝されることが嫌いである。いや、背筋が寒くなるほどの嫌悪感を覚える」。ひどーい。ありがとう禁止。説明すれば、ここで中島が拒否しているのは「共感ゲーム」である。共感ゲームのルールにおいて、感謝された中島は、「いえそんな、とんでもない。やるべきことをやったまでですよ。感謝いただいて光栄です」と笑顔で答えてから、爽やかに手をふって立ち去らなければならない。それが、このゲームにおいて中島に期待された反応である。もしそのルールに従わなければ、「あの人、こっちが感謝してお礼まで言ってるのに、無愛想でムカツク!」と非難されてしまう。共感ゲームは強制参加なのだ。彼は、そのゲームは無意味だし俺はやりたくない、だから降りる、ということを主張しているわけです。「ひとりでは生きていけない、他人に対する思いやりをもたなくては生きていけない、協調性がなくては生きていけない、そんな自分勝手では生きていけない」と、身勝手な善意をぐんぐん押しつけてくる「いい人」たちは、その言葉の暴力性に気がついていない。そんなルールはたくさんだ。出たくもない会社の飲み会に参加したり、嫌いな集団行動で疲弊したりするのはもう止める。こうして中島は、人間嫌いの自己をつらぬき、齢六十にして半隠遁に成功したという。中島は言う──ひとりで生きることはできる。だから嫌いなことはどんどん切っていってかまわない。

難儀な人である。

中島義道のようなモヒカン族タイプではなく、その逆の「超ムラビト」が「ありがとう」を拒否することも考えられる。
彼らにとって仲間意識を共有する「ムラ」の中で「ありがとう」と言い合うのは問題ない。むしろいいことだ。だが、ムラビト以外の他人と馴れ合ってはいけない。笑顔を見せる他人はムラビトを利用しようとしているだけだ。ムラビトたるものはムラビト以外に笑顔を見せたり感謝を表明してはいけない。
「他人」には距離を置くが「ムラビト仲間」とはベタベタしたコミュニケーションを楽しむ。こういうタイプは私には分かりにくい。

最初の質問を読むと、「知り合いでも何でもないのに」「友達でもないのに何様?」「常連さんや顧客じゃないんですよ!?一見さんですよ?」という言葉が並んでいる。どうやら知り合い・友達・常連に「ありがとう」と言うのは問題ないようだ。
どうも「超ムラビト」の臭いがする。だとしたら私には共感しにくいタイプだ。

「ありがとう問題」はいろいろなことを考えさせてくれて面白い。
Yahoo!知恵袋でもはてなブックマークでも痛いニュースでも叩かれているが、私は質問者のmaettekurumaさんに感謝する。

ちなみに、私は気が向いたとき・必要を感じたときだけ「お世話様」「ごちそうさま」「ありがとう」と言う。義務としては言わない。

ニセ科学と「断章取義」

2008年02月20日 | 「水からの伝言」
「水からの伝言」をニセ科学と知りつつ「いい話だから」と受け入れる人たちがいる。

 「水からの伝言」とカードの城
 受益者は当事者

彼らの姿を見て「断章取義」という言葉を思い出した。

だんしょう-しゅぎ 【断章取義】|〈―スル〉 - goo 辞書
断章取義 意味
書物や詩を引用するときなどに、その一部だけを取り出して自分の都合のいいように解釈すること。▽「章」は文章。また、詩文の一編。「断章」は文章の一部を取り出すこと。「取義」はその意味をとること。「章しょうを断たち義ぎを取とる」と訓読する。


山本七平によれば、日本人の思考法の底には体系的思想の「一部だけを取り出して自分の都合のいいように」解釈して利用する断章取義があるのだという。谷沢永一によるまとめがわかりやすいのでそちらから引用する。


 元亀・天正、少なくとも秀吉の時代までの戦国武士は主を選んだ。島左近のように、あるいは渡辺勘兵衛のように、幾人もの主に仕えたところで、それは武士の名誉であった。「七たび浪人せざるものは武士にあらず」という言葉が言われたように、武士が主を選択したのである。仕えている者はその主が意に叶わなければ、それを捨てて退散することが善であった。したがって、渡辺勘兵衛が藤堂高虎に仕えて、藤堂高虎の武将だか商売人だか分からないような処世態度に見切りをつけ、一万石をほうって逃げている。これに世間はヤンヤと喝采した。
 それと同じことが日本の思想と個人との関係にある。日本においては、人が思想を選択する。第一に選択である。非常に大まかな一つの思想体系、あるいは宗教体系があるとして、それを個人が選ぶのであって、そこに自分が全身を没入するわけではない。
 そうすると、すぐ次に、それなら丸ごと選ばなくてもよいではないかという議論が出てくる。こんどは部分的に、これを「断章取義」というが、儒学の体系、キリスト教の体系のなかから、自分にこれは真実だと思えるものだけをピックアップして、それだけを信じる、あるいはそれを最優先する。だから日本の場合に、おそらく宗教を信じるということがあり得ない。換骨奪胎して採用するのである。

「山本七平の知恵」谷沢永一 PHP文庫(64p)


よく言えば「欠点を捨て利点だけを取る」柔軟で賢いやり方だが、悪く言えば「おいしいところだけつまみ食い」である。お行儀が悪い。
だが日本人はそれを恥としない。「空気」を読んで自分を合わせるのが利口者だと考える。明治時代には華夷秩序と儒教で凝り固まった朝鮮の頑固さを蔑み、今はイスラム原理主義者の狂信に恐れを抱く。もちろん私も確かな思想を持たない日本人の一人である。
とはいえ、柔軟性も度がすぎるとご都合主義に堕ちる。極端な相対主義はアパシーやニヒリズムに繋がる。状況に適応するのは結構だが、時と場合で言うことをコロコロ変える人間は信用できない。
「科学」と「水からの伝言」という矛盾する考えを都合よく使い分けるのはどうだろう。私にとっては「その人を信用できるかどうか」の一線を越えている。「健常者なのに身障者用スペースに駐車する奴」とか「弱い立場の人に威張り散らす輩」「食器を灰皿代わりに使う喫煙者」と同じくらい不快である。

「水からの伝言」のようなニセ科学をニセモノと思わず、現在の科学を越えた真実と信じ込む人たちがいる。いわゆるビリーバーだ。
彼らはほぼ確実に間違っている。説得するのは不可能に近い。場合によっては狂信的で危険なこともある。だが私はビリーバーさんをあまり嫌いになれない。頑固さにうんざりしたり呆れたりしながら、彼らの奇妙な信念に潔さを感じる。もちろんニセ科学を使って金儲けをたくらむ手合いは別である。連中は単に浅ましいだけだ。

むしろ「水伝がニセ科学なのは知ってるよ、でもいい話じゃないか」としたり顔で容認し二重基準をもてあそぶ人たちのほうが嫌いだ。
不潔である。いやらしい。ご都合主義に過ぎる。本人は大人の知恵とか余裕ある態度を気取っているが、私にはステーキとケーキを一度に口に詰め込むような卑しい振舞に見える。マナーを知らないのか恥を感じないのか、それとも味覚がおかしいのか。どちらにしても見苦しい。

ニセ科学のようなニセモノを「いい話」と認めたとき何が起きるか。
一貫して「いい話」でありうるのは本物だけだ。ニセモノを「いい話」にしてしまうと「いい話」がニセモノになる。おとぎ話や小説・映画が「いい話」になりうるのはフィクションとして本物だからだ。ニセ歴史やニセ実話を「いい話」にしてはいけない。もちろんニセ科学もそうだ。
「水からの伝言はサンタクロースのようなもの」と言う人がいるが間違っている。サンタクロースは正直なファンタジーである。決してニセ歴史やニセ宗教ではない。トルコにいた実在人物の聖ニコラオスと、空想されたキャラクターのサンタクロースは区別される。「聖ニコラオスがフィンランドに移住してサンタクロースになった」「やがてそれが明らかになる」と真顔で主張する人を見たことがない。「水からの伝言」のように意図的に虚実をごたまぜにするインチキは存在しない。
野菜で肉や魚の料理を再現する精進料理は本物だが、消費者を騙す偽装食品はニセモノだ。シェルビー・コブラランチア・ストラトスのレプリカをレプリカとして製造販売するのは結構なことだが(できれば私も買いたい)、本物を称してはいけない。

現在の日本で身の回りにあるものが「本物ばかり」と言える幸せな人はそれほど多くないだろう。町にも家のなかにも胡散臭いものがあふれている。こんな世の中でわざわざニセモノを擁護し珍重する必要があるのだろうか。私はせめて「いい話」は本物であってほしいと願う。

匿名は防弾チョッキ

2008年02月08日 | ネット・ブログ論
匿名性は攻撃のためのものではない。
銃というより防弾チョッキだ。

la_causette: 匿名規制と銃規制
 日本におけるネットの匿名規制についての議論は、米国における銃の所持規制についての議論と似ています。

 但し、後者においては、「銃を所持したい人は所持する、所持したくない人は所持しないということで良いではないか。銃所持者は今後も非所持者をがんがん撃ち殺すけど」とか、「銃の非所持者が銃所持者にがんがん撃ち殺されても、一種の「有名税」として甘受すべき」とか、「銃殺されるのは銃殺される側に問題があるのであって、芸能人の悪口を言ったり、政治の話をしたりしなければ、銃殺されないはずだ」とかといった議論はさすがにしない点は、前者と大きく違っています。


小倉先生はネットの匿名規制をアメリカの銃規制に例えているが違和感がある。
アメリカには銃所持者が8000万人以上いるそうだが、銃を持たない人を「がんがん撃ち殺す」ような輩はごく僅かである。合法的に銃を所持するほとんどの人は趣味とか仕事とか自己防衛を目的としているはずだ。また合衆国憲法には民兵の存在が規定されており、市民が武装する権利の根拠となっている。
アメリカの話はこれくらいにしよう。小倉弁護士のたとえ話は(いつもそうだが)無理が多すぎる。匿名性を銃器のように攻撃的な武器とみなすのは筋が悪い。匿名によって直接的に攻撃力が上がることはないからだ。

ネットにおいて誰かを攻撃しようとする場合、悪口・批判・罵倒・中傷・脅迫が行われる。どれをとっても「匿名ならでは」のものではない。反撃を恐れなければ実名でも可能だ。たとえばこちらの騒動では池田信夫氏(実名)がたいへんアグレッシブな言論活動を展開している。匿名によって攻撃力が上がることはないのは「ネットイナゴ」という言葉が示している。

ネットイナゴとは - はてなダイアリー
ブログ(個人サイト)のコメント(投稿)欄へ一時的に、悪意のある(ネガティヴな)匿名論客が不特定多数現れる、または特定サイトからのリンクによって流れ込む様を「畑の農作物を食い散らかす"イナゴ(稲子)の大群"」の自然災害に準えた言葉。

「悪意のある匿名論客」は鬱陶しいけれど、スズメバチのように一匹でも恐ろしい存在ではない。数を頼りにしたイナゴの群れでしかないのだ。

その一方、匿名性は自己防衛のためにはとても役に立つ。まさに防弾チョッキのように。
いまはだいぶ治安が回復したようだが、数年前のバクダッドのようにどこから弾が飛んでくるかわからない場所では防弾チョッキが必要だ。何かあったとき100%の安全は得られないにしても生き延びる確率は上がる。
ネットにおける匿名性も同じである。匿名チョッキを着込んでいれば心臓を撃ち抜かれる可能性は下がる。ネットで攻撃されるとネット人格は傷つき名誉を失うが、ネット外の実生活とは切り離しておける。

匿名性という「防弾チョッキ」を着込み「自分は安全だ」と勘違いして攻撃性を高める輩がいることは否定できない。
ただしそれは本人の性格が悪いのであって防弾チョッキのせいではない。このあたりの議論はアメリカの銃規制論議でNRA(全米ライフル協会)が「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」と主張しているのに似てくる。
なんだ、小倉弁護士の意見はそれほど的外れじゃなかったのか、という気もするが、銃と防弾チョッキを比べて「同じくらい攻撃的で危険だ」と思う人はいないだろう。世界一厳しく銃所持を規制している日本でも、防弾チョッキの所持・着用は自由である。
ちなみに、世界で最初の防弾チョッキは中世の日本で作られたそうだ。

ボディアーマー - Wikipedia
歴史
世界で最初の防弾チョッキは中世の日本において絹で作られていたものだと言われている[1]。1914年の絹の防弾ベストは800米ドル程度で高価なベストだったが、黒色火薬が用いられ発射間隔の長い銃弾を防ぐのには十分な性能であった。


防弾チョッキの能力を過信して無茶をすると馬鹿な目にあう。

なんでも評点: 防弾チョッキを試してみたくなった二人を悲劇が待っていた

防弾チョッキを手に入れたら、試してみたくなる? まあ、銃の所持が禁止されている日本の場合は試しようがないのだが、米国アイダホ州に住む二人の男性は、やっぱりその効果を試してみたかったらしい。アレクサンダー・ジョセフ・スワンディック(20)とデビッド・ジョン・ヒュース(30)の二人である。

まず最初に、ゴミ袋の手前に防弾チョッキを置き、2回撃ってみた。弾は貫通しなかった。ならば、次は「人体実験」だと考えたらしい。



アレクサンダーさんは防弾チョッキをおもむろに着用し、10歳上のデビッドさんに言った。「さあ、撃ってみて」。

ところが弾はなぜか防弾チョッキを貫通し、アレクサンダーさんの体を撃ち抜いてしまった。病院に運ばれたが間もなく死亡が確認された。

アレクサンダー・ジョセフ・スワンディック氏にはダーウィン賞を差し上げたい。

「あってはならない」ことを考える

2008年02月05日 | 代理出産問題
世の中にはさまざまな問題がある。
残念ながら日本は天国ではなく、住んでいる人々が完璧な善意と賢さに恵まれているはずもない。テレビのニュースを見れば、毎日悲しむべき事件や事故がたくさん起きていることがわかる。それらは「あってはならない」ことだけれど、「あってはならない」のだから「ない」のだ、と言い張っても無意味だ。嫌なことから目を背けても問題は消え去ったりしない。そのような態度が許されるのは幼児だけである。理想と現実を取り違えた言説を「逆立ち論法」と呼ぶことにしよう。

高い知性に恵まれた良心的な人が「そこに存在する」現実から目を背け、「『あってはならない』のだから『問題はない』のだ」という詭弁に固執している。逆立ち論法に取り付かれている。本当に不思議でならない。

Because It's There 日本学術会議、公開講演会を開催~“子がほしいという希望は、周囲の圧力によって生まれた”という主張は妥当なのか?
3.このように、法律的にも医学的にも禁止する根拠が乏しいとなれば、禁止する理由は日本固有の特殊事情が禁止の主要な根拠になっているのではないかと、自然と推測できます。その日本固有の特殊事情について、水野紀子教授は公開講演会で端的に述べていました。

「委員の水野紀子・東北大教授は「子がほしいという希望は、周囲の圧力などによって生まれたものともいえる」と、報告書案を支持する理由を述べた。」(毎日新聞)



(1) この「子供が欲しいという希望は自分の意思ではない」という禁止根拠は古くから言われているものです。いまだに、多様な夫婦の意思を無視した決め付けを平然と言い放つのかと呆れてしまいます。このような禁止根拠に対しては以前から反論がなされていますので、その一例を挙げておきます。

 「それでは子供を持つというのはどういうことかということを、当たり前のことですが、ちょっと考えてみたいと思います。

 不妊治療をしている女性は本当に自分が子供が欲しいというよりは、周囲のプレッシャーに苦しめられているからだという意見があります。例えば舅や姑に「孫の顔が見たい」とか、「跡取りはまだか」と言われるとか、友人に「赤ちゃんはまだ?」というふうに言われると。

 確かにそういう周囲の圧力が患者を苦しめているということは大変問題だと思いますが、そういう圧力がなくなれば不妊治療は必要なくなるのかというと、そんなことは決してありません。アメリカなんかを見ればわかりますけれども、アメリカでは跡取りはまだかというようなことを言われることはあまりないわけです。家に縛られない自由な国なわけですから。そういう国でも非常にたくさんの不妊治療が行われている。

 言ってみれば子供を持ちたいというのは人間として非常に本源的な欲求だということになります。もちろん本源的な欲求だから、どんな方法で子供を持つのも認めるべきだというふうにはならないわけですけれども、しかし子供を持ちたいという本源的な欲求を制限するには十分に合理的な理由を示す必要があるだろう。これはやっぱり最初の出発点として確認しておくべきことだと思います。」(平成14年2月3日第2回FROM Current opinions 読売新聞医療情報部次長・田中秀一「だれのための生殖医療か-----メディアの立場から」)




(2) 子供がいない夫婦に対して、親族や友人が子供を期待することは今でもよくあることです。しかし、本当に子供が欲しくて不妊治療をしている夫婦にとっては、ただでさえ悩んでいるのですから、そのような悩みを理解することのない心ない人々が過度に精神的なプレッシャーをかけることは、一種のいじめに近いものがあります。だから、代理出産を禁止する――。それも一手段であることは確かです。

しかし、いじめ問題と似ていますが、心ない人々が過度に精神的なプレッシャーをかけること自体が悪い、いじめる側が悪いのだ、いじめる側こそが最も問題であると明言しておくことが大事なことだと思うです。

不妊症は夫婦10組に1組の割合で発生する疾患であって少しも珍しくないのですから、不妊治療は日常的な医療行為なのですから、不妊であることに対してプレッシャーをかけるべきではないのです。そして、子供を持つか持たないかなど、「多様な家族のあり方」が現実として存在し、多様な価値観があることを認めるべきであることを、日本社会に対して啓蒙し、理解を求めるべきなのです。

このように、水野紀子・東北大教授が述べるような「子がほしいという希望は、周囲の圧力などによって生まれたものともいえる」という主張は、根本的に間違っているのです。


典型的な逆立ち論法である。
「あってはならない」から「存在しないとみなすべき」という論法が使われていることは明らかだ。

不妊であることに対してプレッシャーをかけるべきではないのです。そして、子供を持つか持たないかなど、「多様な家族のあり方」が現実として存在し、多様な価値観があることを認めるべきであることを、日本社会に対して啓蒙し、理解を求めるべきなのです。


ここは春霞さんのおっしゃるとおり。
親族や社会からの「子供を作れ」圧力は「あってはならない」。


このように、水野紀子・東北大教授が述べるような「子がほしいという希望は、周囲の圧力などによって生まれたものともいえる」という主張は、根本的に間違っているのです。

????????
どこが「このように ~ 根本的に間違っている」のか、理解できる人がいたら教えてほしい。私にはどこにも論理性を見出せない。飛躍が激しすぎてついていけない。頭がクラクラする。
私が語りなおすとすれば次のような論理になる。黄色文字が春霞さんの文章に欠けているステップだ。

不妊であることに対して圧力をかけるべきではない
             ↓
多様な価値観があることを認めるべきであることを、日本社会に対して啓蒙し、理解を求めるべき
             ↓                               
啓蒙によって日本社会から「子供を作れ」圧力はなくなる(無視できるほど低くなる)
             or
「子供を作れ」圧力をかける・圧力に負ける人たちの存在自体が間違っている
(彼らのことを考慮する必要はない)

             ↓
「圧力」論による代理出産反対は間違いである

春霞さんが実際のところどのように考えているのか知らないが、上の論理はどちらにしてもダメである。
啓蒙によって一朝一夕に「子供を作れ」圧力が消えるはずもなく、圧力をかけたりかけられたりする人々の存在を無視していいはずもない。空理空論である。実際のところ、「代理出産」が公認されたら社会の「子供を作れ」圧力が強まることが目に見えている。これまでは「できないのなら仕方ない」とあきらめていた親族が「代理出産」に希望を見出し、さらに戦意を高めるのは明らかだ。

話の順番が逆になるが、いまだに日本に存在する「夫婦は子供を作って一人前」「子供がいなくては幸せになれない」「無理しても子供を作るべき」といった偏見や圧力はとても無視できるものではない。家族や親類縁者、友人知人に話を聞けば誰でもひとつや二つ実例を知ることができるはずだ。GoogleやYahoo!で「子供を作れ 圧力」といったキーワードで検索してもいい。特に最近は結婚年齢が上昇し不妊に悩む女性が増えている。不妊が増えれば圧力をかけられる場合も増える。
残念なことだが「多様な価値観を認めるべき」といくら啓蒙しても追いつかないほど「子供を作れ圧力」は強まっているのだろうと思う。

皮肉なことに「誰かに無理をさせ負担を強いても子供がほしい」と考える人の存在は「代理出産」依頼希望者の姿そのものだ。彼らは今は「どうしても自分たちの子供がほしい」人たちだが、子供を得ることができたら20年後30年後には「どうしても孫がほしい」人たちになっている可能性が高い。「血の繋がった子供」に執着する価値観は「代理出産」によってさらに強まるだろう。


「あってはならない」現実を「存在しない」「考えてはいけない」とする逆立ち論法は65年ほど昔にも存在した。
大日本帝国がアメリカと戦争するにあたり、南方資源(インドネシアの石油等)や兵員兵器の輸送が問題となった。南シナ海や太平洋を船で運ばなければならないが、敵潜水艦に攻撃されたら大きな損害が出る。すでに大西洋ではドイツ潜水艦が米英の輸送船を多数撃沈して深刻な被害を与えていた。
それでは帝国海軍はどのような対策をしたか。結論から言うと「何もしなかった」。
まさに「あってはならない」現実から目を背け、護送作戦が必要だとする参謀の意見を「考えてはいけない」と封じ込めたのである。これは海軍の能力が不十分で「やりたくてもやれなかった」面もある。だがその結果は悲惨だった。
昭和17年の前半までは輸送船の損害は想定以下だが、以後は耐えられないほど急増した。輸送船を失えばせっかく南方で獲得した資源を日本に運ぶことができない。国力は弱まり、海軍の兵力はボロボロになって制海権を失い、さらに輸送船が沈められる。まさに泥沼である。当然の結果として大日本帝国は悲惨な敗戦を迎えた。

私は「代理出産」の問題においても「問題を無視する」ことがさらに問題を拡大させ不幸を増やすだろうと考える。
春霞さんのような逆立ち論法は最悪だ。「子供を作れ」という圧力はまさに現実のものとして日本社会に存在する。

ちなみに、春霞さんのブログのタイトルは「Because It's There」である。

司法判断を無視したプリンスホテル

2008年02月04日 | 日々思うことなど
先日の記事で「現代日本人の生活を維持しているのは経済と科学技術だ」と書いたが、大事なことを忘れていた。文化的で安寧な生活を送るためにはお金や科学技術と同じく「法秩序」が必要である。

私は「中立的」で物分りのいい態度をとろうとは思わない。
法秩序に守ってもらわなければ生きていけない弱い人間だからだ。「北斗の拳」のごとき自然状態の社会にはとても住めない。
プリンスホテルの行為は誠実さに欠け自己中心的である。そして何より、法秩序をないがしろにする反社会的姿勢は「コンプライアンスを誓った」はずの企業(参考)として異常だ。各新聞が問題視し社説で取り上げたのは当然である。

ホテル使用拒否 司法をないがしろにする行為だ : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
 司法の判断に従わなくとも構わないという理屈がまかり通れば、社会が成り立たない。

 日本教職員組合の教育研究全国集会(教研集会)が都内で始まったが、全体集会が中止になった。会場になるはずだったホテルが「日教組の予約は解約した」と主張し、使用を拒んだからだ。

 東京地裁、東京高裁は、「解約は無効で、使用させなければならない」と命じたが、ホテルはこれに従わなかった。

 日教組が毎年1回開く教研集会には、2000~3000人が参加する。1951年から57回に及ぶ教研集会で、全体集会の中止は初めてだ。

 裁判所が認定した事実によると、日教組は昨年3月、グランドプリンスホテル新高輪に会場の使用を申し込んだ。その際、例年、教研集会の会場周辺では右翼団体の街宣活動があり、警察に警備を要請していることも伝えた。契約後、日教組は会場費の半額を支払った。

 ところが、11月になってホテル側が突然、解約を伝えた。

 ホテルが契約後、過去の例を独自に調べた結果、100台を超す街宣車の拡声機による騒音や大規模警備で、他の利用者や住民に多大な迷惑をかけることが分かったため、というのが理由だ。

 だが、ホテルが右翼団体による妨害を恐れ、筋の通らない理屈で解約を正当化してまで集会を中止させれば、右翼団体の思うつぼである。

 裁判所が指摘したように、ホテルは日教組や警察と十分打ち合わせ、混乱を防ぐ努力をすべきだったのではないか。

 ホテルが今回、恐れたのは右翼だったが、左翼側の“威圧”で講演会の主催者が講演を中止した例も少なくない。

 1992年に、評論家の上坂冬子さんが月刊誌で憲法改正に言及したとする社会党(当時)などの抗議で、新潟市主催の憲法記念集会での講演が中止となった。97年には、ジャーナリストの櫻井よしこさんも、「従軍慰安婦」問題での発言を巡り、「人権」を掲げる団体の抗議で主催団体が講演を取りやめた。

 異なる立場の意見でも、発言する自由を最大限認めるのが、民主主義社会である。憲法で保障された「集会の自由」「表現の自由」が脅かされてはならない。

 ホテル側は、「極めて短時間で十分な審理、理解を得られないままなされたもので、大変残念」としている。

 だが、ホテル側は裁判の係争中なのに、会場には既に別の客の予約を入れていた。司法をないがしろにする行為は許されまい。一流ホテルには、それにふさわしい社会的責任が求められる。


教研集会拒否―ホテルが法を無視とは asahi.com:朝日新聞社説
社説:会場使用拒否 言論の自由にかかわる問題だ - 毎日jp(毎日新聞)
東京新聞:日教組 全体集会を中止 プリンスホテル 高裁の使用命令拒否:社会(TOKYO Web)

会場提供拒否 無視された集会の自由(2月3日)社説 北海道新聞
信濃毎日新聞[信毎web]|社説=集会拒否 憲法の精神に反する
日教組集会拒否 大ホテルがこんな無法を 新潟日報 NIIGATA NIPPO On Line
教研会場拒否  脅かされた集会の自由 京都新聞 社説
教研全体集会中止 法無視のホテルに疑問 中国新聞 社説
(社説)ホテル使用拒否 「集会の自由」は守らねば - 山陽新聞ニュース
日教組集会拒否 ホテルの姿勢は問題だ 徳島新聞社
[理解できないホテル判断 教研集会拒否] / 社説 / 西日本新聞
ホテル側の判断は疑問 沖縄タイムス社説 2008.2.3
会場使用拒否 ホテルは社会的責任自覚を 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

私の知る限りプリンス側の主張を支持する社説はひとつもない。
弁護士の意見は次のようなものだ。

弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」:日教組、教研集会全体集会を中止
ホテル側にもそれなりに言い分はあると思いますが、主張を尽くした結果としての裁判所の決定に従わない、という姿勢は、コンプライアンスの観点からいかがなものか、という印象を強く受けますね。自分の主張を優先し、司法権に服しない、というホテルが、法治主義を旨とする日本国の、それも首都の中枢において営業を継続していることに対する強い疑問も、当然、生じてくるでしょう。

こういった人や組織が次々と出現すれば、法治主義は根底から崩壊し、日本国は国としての体を為さず、アフリカにあるような「失敗国家」化し、暴力、無秩序、不正義が横行する、暗黒の状態に陥ってしまうでしょう。長きにわたり綿々と続いてきた日本国の歴史も終わりかねません。上記のような姿勢、対応は、正に「暴挙」と言っても過言ではないと思います。

今後、このホテルを利用しようと人は、「日本国の司法権に従わないホテルである」ということを十分念頭に置いて、利用すべきかどうかを、よく考えてみるべきでしょう。

二流ホテルの証明 - 元検弁護士のつぶやき
そのホテルの名前はプリンスホテル~司法判断を無視した企業だと覚えておきます - 情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)
プリンスホテル、高裁の命令を拒否|福岡若手弁護士のblog
la_causette: 外部の圧力に屈して直前に契約の一方的廃棄を主張してくるホテルではカンファレンスは開けない

落合弁護士は「日本国の歴史も終わりかねない」「暴挙」とまで言っている。私も同感だ。

受益者は当事者

2008年02月02日 | 「水からの伝言」
このごろ不思議に思うことがある。
「お金についての常識を持ちましょう」「詐欺は悪いことです」と言っても拝金主義者とは呼ばれないのに、「科学的常識を持ちましょう」「ニセ科学は見過ごせない問題だ」と言うとなぜか「科学原理主義」だの「そんなに目くじら立てなくてもいいのに」といった批判を受ける。
一体なぜなのか、私にはよくわからない。

現代社会で快適な生活を送るのに必要不可欠なのは「経済」と「科学技術」である。
経済(お金)が大事なのはわかりやすい。
お金がなければ何も買えない。社会の中でお金がうまく回らなければ自分の懐にも影響が出る。世の中には詐欺師やインチキ商売が存在し、自己防衛のためにはリテラシーを高め警戒心を持つ必要がある。誰もが経済活動の受益者(当事者)として理解すべきことだ。
ところが、科学(科学技術)については「当事者意識を持たない」と言って恥じない人がいる。

tak shonai's "Today's Crack" (今日の一撃): 「波動測定器」 を巡る冒険
ああ、私は 「水伝」 を巡る 「科学 vs 疑似科学」 のマターなんて、元々それほど興味がなくて、深入りするつもりもなかったのだが、ちょっと覗いてみたらその周辺事情が存外面白いので、今月、これで 4本もそれ関係の記事を書くことになってしまった。

だが、私がブログで関わっているのは、疑似科学の 「周辺」 というつもりなので、そりゃ、疑似科学批判の方々みたいに、先鋭的に切って捨てるみたいな書き方はしない。それで、こんな 批判も受けてしまうのである。

まあ、確かにこの件に関する私のエントリーのトーンが無責任に見えても、そりゃしょうがないのだけれど、別に私は 「科学」 にも 「疑似科学」 にも、全然 「当事者」 としてなんかタッチしてないのだから、どちらにも義理立てする必要がないのである。

引用部の強調は玄倉川による。

私はこれを読んでちょっと呆然としてしまった。
庄内さんがどういうつもりで書いたのか理解できない。ジョークとか悪ふざけのつもりならまだわかるけれど(ちっとも面白くはないが)、本気でこんな風に思っているのなら何をかいわんやである。庄内さんがニセ科学(疑似科学)にどれほど関わりがあるのか、それともないのか私は知らない。関わりがゼロでも生きていくのに支障はないだろう。だが科学に「全然 「当事者」 としてなんかタッチしてない」というのはありえないことだ。そのことを知らないのであればあまりにも無知であり、知っていて無視するのはつまらない虚勢である。

まず「当事者」の意味をはっきりさせておこう。

とうじ-しゃ たう― 3 【当事者】 - goo 辞書
その事に直接関係のある人。

この上なく簡潔明快だ。直接関係があればすなわち当事者なのである。
たとえば、どこかの会社に問題が起きたとしよう。とある食品会社で偽装が発覚し生産停止したとする。
会社の経営者・社員・株主が当事者であることは明らかだ。庄内さんが「 私は「科学」 にも 「疑似科学」 にも、全然 「当事者」 としてなんかタッチしてない」と主張するのはこのレベルの当事者を想定しているのだろう。つまり「自分は科学者でも疑似科学の信奉者でもない」ということだ。
だが、当事者は「会社に所属する人」だけではない。食品会社が生産停止すれば広く影響が出る。原料を卸す会社・製品を輸送する会社・製品を販売するスーパー・製品を購入する消費者がそれぞれに損害や影響を被る。彼らもまた当事者である。

それでは科学(科学技術)が現代社会の人間にどれほどの影響を与えているかといえば、例に挙げた食品会社などとは比べ物にならない。まさに空気や水のようにあらゆる面に浸透し生活を支えている。科学(科学技術)がなければ生きていけないのが現代人だ。庄内さんが科学について「「全然 「当事者」 としてなんかタッチしてない」とお気楽な放言をネットに発信することができるのも科学のおかげだ。物理学がなければ発電所は動かないし、計算機科学や通信科学がなければPCもインターネットもありえない。庄内さんは、いや、現代社会に生きる人間すべてが科学(科学技術)の受益者であり当事者である。
現代人が「自分は科学に当事者としてタッチしていない」と思うのは「空気中の酸素なんて知らないよ」と言うようなものだ。小島よしおのように半裸で「でもそんなの関係ねえ、オッパッピー!」と叫ぶのであればムチャクチャで面白いが、常識ある(はずの)社会人が真顔で(あるいは半笑いで)非常識なことを言うと引いてしまう。

しばらく前に馬鹿げた、しかしありふれた詐欺事件があった。

疑似通貨「円天」による詐欺疑惑
同社のホームページにおいて公開されている映像によると同社に10万円以上を預け、あかり会員になると、1年ごとに預けた金額と同額の円天を受け取ることができるとされており、また受け取った円天は、円天市場で利用することが可能とされている。「年利100%の金利が払われる」と言う事だったが、詐欺の可能性が濃厚であり、2007年10月に出資法違反の疑いで同社は強制捜査を受けた。

詐欺師たちが「円天」なるニセ通貨を使い、インチキ経済学・経営学で「年利100%」の夢を煽った。
私はエル・アンド・ジーの社員でもあかり会員でもないので庄内さんの(おそらくは)定義するところの当事者ではない。だが、ニセ通貨やインチキ経営学、詐欺商売といったものが横行するのを他人事として見過ごしてはいられない。強制捜査を受けたのは当然のことであり、首謀者が厳正な裁きを受けることを願う。社会の一員、まさに当事者として経済の営みが健全に行われることを願うからだ。
私が理解したところの庄内さん式「当事者」の定義からすれば、私は円天詐欺の当事者ではないので「どちらにも義理立てする必要がない」。無関係な野次馬として事件を面白がり囃し立て、「夢を与えたのだから有害無益と断定はできない」と公平中立を気取り、自分は賢いから詐欺に引っかかることはないと嘯き、強制捜査は「経済君」が立腹しただけだと茶化せばいい。

tak shonai's "Today's Crack" (今日の一撃): 水伝論争と自虐史観論争は似てる
「科学でない」 と言いながら、「いずれは証明される」 などと、まだ科学の文脈で往生際の悪いことをおっしゃる。水伝信奉者に共通するこのあたりのいい加減な曖昧さが、純粋な血を引く科学君にとっては我慢のできないところであるようなのだ。

つまり、科学でもないのに科学のような体裁を取ろうとした、あるいは、現状の科学では理解不可能だろうが、科学ももう少し進化すればわかるだろうという (エラソーな) 言い方をしたために、科学君の方がむっときてしまったというわけだ。


なんともお気楽なことだ。
ある意味うらやましくもあるけれど、ちっとも見習いたくはない。

参考記事
 So-net blog:Chromeplated Rat:当事者意識
 So-net blog:Chromeplated Rat:科学への「信頼」