玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

風邪の夢

2009年02月19日 | ネタとか
夜中にネット巡りしてたらなんだか具合が悪くなった。
頭が重い、胃がむかむかする、節々が痛い。「あれ、風邪かな」と思ったとたんに背中に強烈な寒気が走る。あわてて薬を飲んで布団にもぐりこみ、「インフルエンザじゃありませんように」と祈る。熱のせいか薬のせいか、なんだか妙な夢を見る。



一夜明けるとすべての表面に斑点ができていた。
小指の先ほどの大きさで、丸くてクレーター状に縁が盛り上がっている。内部はややへこんでいてじくじくしている。要するに巨大なニキビが潰れたような代物だ。そんなブツブツが家の床から天井、本やテレビ、洋服も家具も自動車もガラス窓もゲーム機も、ありとあらゆるものの表面を覆いつくしている。もちろん人の体も例外ではない。
「ああ、今年もそんな季節なのか」俺はちょっぴり憂鬱になる。別に驚きはしない。
5年ほど前から毎年春の気配が訪れるころに起きる奇妙な現象で、「表面病」と呼ばれている。文字通りすべての表面にブツブツを作るが、内部には何の影響も与えず、一週間ほどできれいに消えてしまう。
原因はまったくわかっていない。化学物質の影響とも、放射線だ、いや病原体だ、はたまた宇宙人の仕業だとまで言われるが、科学者の必死の努力にもかかわらず解明の糸口さえつかめない。
世間は一年目二年目には大騒ぎしたが、三年目には慣れてしまった。今や表面病は黄砂や花粉病のような春先の風物詩である。そうはいってもブツブツだらけの姿を人に見せたくはないから、この時期は「表面病休暇」で家にこもる人が多い。どうしても外出する必要があるときは大きなサングラスとマスクで顔を隠す。日ごろ「人は見かけじゃない」と言っている人ほど表面病に大騒ぎしたり、かと思うと「表面病によってルックスの格差は粉砕された!今こそ立ち上がれ、全国のブサイクたちよ!」と煽る連中もいて、この時期は変に騒々しい。
俺は出かけなければならない用があるのだが、うっかりサングラスとマスクを用意するのを忘れていた。ブツブツだらけの顔で町に出てもいいのだろうか。ミイラ男みたいに顔に包帯を巻くか、それとも紙袋でもかぶろうか。考えているうちになんだか面倒になり、外出はやめにする。
表面ばかり気にする世の中に俺はうんざりしているし、世の中のほうでも俺を必要としていない。バカバカしい、引きこもってゲームでもするさ。
…と思ったけれど、表面病はテレビ画面も本のページも覆いつくしていて、暇つぶしもままならないのだった。俺は呆然と天井を見上げたが、そこもブツブツだらけだ。


悪夢も見れば、夢のようにすばらしい夢(変な表現)も見る。


僕の彼女は長澤まさみだ。
長澤まさみに似た彼女、ではない。長澤まさみ本人である。
どこで知り合って、どういうふうに付き合いを深めて恋人になったのかぜんぜん覚えていない。どうでもいいじゃないかそんなことは。とにかく、僕の汚い部屋の真ん中で、長澤まさみが女の子座りをしてうるんだ瞳で僕を見つめている。これは夢でも幻でもない現実だ。
彼女の発するオーラがこの部屋を満たしている。すべてのものが祝福され価値を二倍に増した。もちろん僕自身も、彼女を愛し、彼女から愛されることで初めて完全な人間となる。プラトンのアンドロギュノスの寓話を思い出す。彼女こそ僕の失われた分身だ。出会った瞬間に二人ともそれに気付いた。だから彼女は今ここにいる。
長澤まさみの輝く瞳、甘い唇、豊かな胸、すらりと伸びた手足。そのすべてが僕のものだ。僕が望むことなら彼女は何でもしてくれる。二人は恋人同士なのだから。こんなとき、健康な男が望むのはただ一つ。そう、誰にも邪魔されない濃密な愛の時間。
「まさみ」と僕は呼びかける。「ちょっと膝枕してよ」
彼女は恥ずかしがるけれど、結局は願いを受け入れる。なにしろ僕にメロメロなのだ。
僕はごろりと床に横たわり(その前に散らかった本や雑誌をたくさんどかさなければならない)、遠慮せず彼女の太股に頭を預ける。見上げると長澤まさみの笑顔がある。優しい手がそっと頭を撫でてくれる。
膝枕の上でたわいもない話に生返事するうちにだんだんうとうとしてくる。彼女の肉体の弾力、温かさ、息遣いと鼓動。目が覚めたとき彼女が消えているんじゃないかと心配したりしない。明日はいつも今日より明るいし、幸せはいつまでも続く。愛は決して失われることがなく、与えれば与えるほど自分も豊かになる。ぼんやりとそんなことを思っているうちに、いつしか眠りの淵へと引き込まれる。



朝の光が容赦なく瞼を貫く。
夢の中で眠りに入ったら、現実の自分は夢から覚めてしまった。
長澤まさみの姿は消えている。なぜだ!?
呆然としてしまい、自分が誰でどこにいるのか、理解するまで数秒かかった。「なんだ、夢か…」
気がつくと風邪の症状はすっかり消えていた。
そりゃそうだ、と私は思う。
なにしろ、長澤まさみに膝枕してもらったんだから。

個人的痛みとしての「セクハラ被害」と社会的問題としての「セクハラ論」

2009年02月16日 | 日々思うことなど
バレンタインデーに「はてなブックマーク」界隈で盛り上がったのは、甘くて苦いチョコレートの受け渡し問題   …ではなくて、セクシャル・ハラスメントの話題だった。なんとも無粋な話ではある。
発端となった記事はこれ。

id:ekken さん、性的いやがらせはやめてください(再追記アリ - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

はてなブックマーク - id:ekken さん、性的いやがらせはやめてください(追記アリ - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

関連記事はコメントが並んでいる下にある「このエントリーを含むエントリー」「このエントリーを含む日記」をたどってください。


中島義道の影響なのか、それとも以前からそうだったのかわからないが、このごろ私は「個人的な価値観」「自分自身の好き嫌い」「体験・肉体と思考の不可分性」といったことにこだわっている。たとえば何か事件や問題が起きたとき「自分は何を正しいと思うか」「自分があの人の立場だったらどうするだろう」「あの人ならこういう考え方をしても当然だ」といった具合に、特定の人間(主に自分)を出発点にしていろいろと考えてみる。一つの視点だけでは奥行きがつかめないので、誰かの視点を仮に借りて立体視を試みる。
「誰でもない客観的な立場」「神様や鳥が下界を見下ろす視点」が得られれば利用するけれど、自分が常に物事を客観視できるとは思わない。中立で客観的な視点は、それこそ賢者でないと自分のものにはできない。だから、セクシャル・ハラスメント(以下セクハラ)問題についても自分の立場で自分の考えを書く。
「自分の立場で自分の考えを」書くのは当たり前だろう、と思われるかもしれないが、実はそうでもなかったりする。
社会的な問題を語るときに、「中立的な立場で」「正しい考えを」書こうとする人は少なくない。よく言えば思弁的で普遍性のある、悪く言えば頭でっかちで肉体性の感じられないご立派な正論。どうもそういうのが苦手で、なかなか読む気になれないし、読んでも頭に入ってこないのである。


私が思うに、セクハラを受けるのはつらい体験、精神的な痛みであり、それは満員電車の中で足を踏まれるのに似ている。
「ちょっと待て、どこが似てるんだ」と怒られそうだが、このたとえは個人的にけっこう気に入っている。

「足を踏まれた側の痛さと、踏んだ側の自覚のなさ」
「切羽詰った足の痛みと、それが誰にも共有してもらえないつらさ」
「小声で被害を訴えても聞いてもらえず、大声を出すと周囲から冷たい目を向けられる」
「ようやく本気で痛がっていることがわかってもらえても『混んでるからしょうがない』『悪意でやったわけじゃないんだから』『サンダル履いて満員電車に乗るほうが悪い』(これは一理あるな)などと言われることがある」
「場合によってはアザがいつまでも残る」(ハイヒールに踏まれる痛さ!)

…どうだろうか。
うーん、やっぱり似てないかな。なんだか自信がなくなってきたけど、読者にご理解いただけたものとして話を進める(強引)。


なぜか「セクハラ問題」というと、性差別とかジェンダーとかフェミニズムとか面倒な問題が持ち出されて話が大きくなることが多い、ような気がする。以前からそういう語られ方に疑問を持っていて、もっと単純に、肉体感覚で「痛いものは痛いんだ」という話をすればいいんじゃないかと思っていた。
そんな私にとって、Brittyさんのセクハラ被害の訴え方はとても理解しやすいものだった。
ことを荒立てるのはわたくしの好むところではありませんが、性的いやがらせを甘受するのはよりわたくしにとって望ましくありません。
(中略)
改めてお願いします。あなたが私のエントリのブックマークコメントに私の使用するタグに関して書いた性的なメッセージを除去してください。完全に除去してください。白紙化か、でなければタグブックマークエントリそのものの削除か、それはお任せします。

私(Brittyさん)は「足を踏まれた」のだ、痛くてたまらないからあなたの重い靴をどけてくれ、一秒でも早く!
…という叫びを聞いた気がした。本当に痛そうだ、気の毒だ、と思った。
ところが意外にも、Brittyさんの必死の訴えに対して「えらく痛そうだぞ、誰か何とかしてやれよ」とか「骨は折れてないか、血が出てるんじゃないか」といった同情的な反応ばかりではなかった。「ネタじゃないのか」「大げさだよ」「本当に踏まれたのかね」「ヒステリックな叫びを聞きたくない」といった冷たい声が聞こえてくる。さらには痛がっている人を目の前にして「寛容の精神」だの「満員電車のマナー」だの「安全靴のすすめ」だのを説く人までいる。一体これは何なのだろう!?本当に気が知れないのである。

もちろん、Brittyさんは抽象的・一般的な「セクハラ問題」を論じようとしているのではない。
極論すれば、正義とか社会とか法律とか関係なく「自分は痛いのだ、なんとかしてくれ」と叫んでいるのである。あくまでも彼女自身のリアルな痛みとしての「セクハラ」なのだ。どうもそのことがわかっていないのか、わかっていてもやはり「一般論としてのセクハラ」を論じたいのか、なんだかわからないけれど「痛みの存在」を無視してご立派な議論をしたがる人が多すぎる。
いや、一般論を語りたければしかるべき場所でいくらでも語ればいいけれど、実際に痛がっている人を前にして「私と議論しましょう」とか「俺の話を聞けば痛みは薄れて我慢できるはずだ」と言ってもまったく役に立たないし説得力があるはずもない。

私は「痛がっている人」がいたら、周囲はちゃんと声を聞いてまともに対応すべきだと思う。この場合の「まともな対応」というのは、必ずしも要求をそのまますべて受け入れるということではない。被害者だって人間だから、勘違いすることもある。足を踏まれた痛さだと思っていても、実は靴にピンが入っていたのかもしれない(昔の少女マンガか)。足を踏んだのは名指しされた人ではなく別人かもしれない。そういったことをチェックして適切な対処ができるのが立派な大人だ。わいわい騒ぐだけなのは単なる野次馬である。

実際に電車で足を踏まれたときは、誰が踏んだのかわからないこともあるだろう。
だがネットでの文字によるセクハラは記録が残り誰でも見ることができる。誤解(冤罪)が生まれる可能性は小さいし、もし誤解が起きても事実を元に話し合うことができる。もちろん被疑者にも自己防衛権がある。被害者の思い込みで難癖を付けられているだけだと信じるなら「いいえ、私はあなたの足を踏んでません」と断言してもかまわない。それが正しければいくらでも味方してくれる人がいるだろう。
ネット上のセクハラ告発には痴漢冤罪のような恐ろしいことは起きにくい。「変な女性(男性)にいいがかりをつけられて名誉を奪われるんじゃないか」とむやみと恐れる必要はないと私は思う。


ところが痴漢冤罪を恐れるのと同じように(ネット上の)セクハラ被害の訴えに「相当の恐怖を覚える」人もいる。

「性的嫌がらせ」は用法用量を守って正しく使用すべき件 - kentultra1の日記
セクハラ、パワハラ、アカハラ、etc。名前が付くような行為には、それなりの理由がある。行為が広く行われていて、かつ、「被害者」が一方的に立場が弱い事だ。強い者が弱い者を虐げる事がよいはずはない。その点で、名前を付けてその行為を非難するのも必要な事なのも間違いない。

しかし、いやがってるのに派遣事務員に管理職が肉体関係を強要するのと、単に素でデリカシーがなくて品に欠ける冗談を言うのとでは、その弱者の受ける被害の大きさは全く違う。なのに、名前が付くと十把一絡げに同類にされてしまう。そして、単なる嗜好主観のズレに過ぎない後者に対しても、錦の御旗の元でまるで前者に匹敵するが如くに、一方の嗜好・主観のみが正義とされ一方には絶対的な悪のレッテルが貼られペナルティが課せられる。さらに「被害者」自身も言葉に引っ張られて、被害の実際の軽重に対して過度な被害感を持ってしまい、軽微な事も過大な問題に認識して過剰な心的負担を負いかねない。

なんだかやけに話が大きくなっている。
私にとってはセクハラ被害を訴えるのは電車で足を踏まれたとき「痛い!足をどけてくれ」と文句を言うのと同じなのだが、kentultra1さんにとっては「絶対的な悪のレッテル」を貼る恐ろしい行為だそうだ。
…いや、それはどうだろう? 具体的な問題、この場合はBrittyさんの記事を見ても、私には「足をどけてください」以上のことは何も読み取れなかった。「セクハラをやめてください」「足をどけてください」「行列に割り込まないで」「ここは禁煙席ですよ」といったお願いやら注意がそんなに大層なものだとしたら、おちおち注意もできないし迷惑行為のやり放題になってしまう。もちろん告発や批判が行き過ぎればそれこそ問題だが、実際にそんなことが起きていない(起きそうにない)のにやたらと心配するのは無駄である。

セクハラの被害を訴える、言い換えると加害者を告発する(大げさな言葉だが)というのが「絶対的な悪のレッテル」だというのがそもそもわからない。実生活でも、ドラマやらコントでも「会社の飲み会で上司がエッチな冗談を言い、OLが『課長、それセクハラですよ!』と怒る」「課長は頭をかいて謝る」なんてシーンは珍しくないはずだ。この場合も課長は絶対的な悪のレッテルを貼られたことになるのだろうか。会社で厳しく追及され、減給とか降格とかクビといった事態につながるのだろうか。とてもそうは思えない。たいていの場合、翌日には何事もなかったかのように会社で顔をあわせて普通に仕事をするだろう。
Brittyさんの件にしても、ekkenさんが恐ろしい悪のレッテルを貼られて爪弾きにされたようには見えない。そうすべきだと主張する人も見かけない。ekkenさんが評判を下げたとしたら、セクハラコメント自体よりも妙な言い訳をして対処が遅れたことが原因である。

というわけで、私はkentultra1さんの感じた「恐怖」にほとんど共感できないのだが、かといってkentultra1さんの感情をどうでもいいことと無視することもできない。それこそ「セクハラされた痛み」と同じくらいリアルに恐怖を感じておられるのだろうと思う。
たぶんkentultra1さんはセクシャリティについて重く考えておられるのだろう。その点は私も同じだ。性の問題は重要であり、いい加減に扱ってよいものではない。違いがあるとしたら、私は性の問題は重要だからこそ日常的に「手元に置いて」考えるべきであり、セクハラによって不本意な汚れが付けられたらシミがつかないうちにふき取ることが大事だと思う。kentultra1さんはもしかしたら「性の問題は大事すぎるので心の奥底にしまっておくべきだ」とお考えなのかもしれない。なんだか骨董品や高級ブランド品の使い方みたいな話でもある。

日常でもネットでも、バカだのアホだの言う軽口は珍しくない。些細なツッコミどころのある行為に対して、冗談で同僚に「アホかよww」と言われる事もあるだろう。それを言われた人間が、それをくそまじめに捉えて被害を訴えて問題にする事は通常はない。しかし、これが性的な言葉だと話がなぜか一変してしまう。

いや、別に「一変」はしていないと思う。
日常でもネットでも馬鹿だのアホだの言われて怒る人はいる。怒りがあふれる限度は人それぞれで、「えっ、そこで切れるの?」とびっくりすることも少なくない。某アルファブロガーの経済学者などはしょっちゅう「馬鹿げた批判」に怒っている。
セクハラ問題も特に変わりはない。下ネタを直接ぶつけられてもなんとも思わない人もいるし、遠まわしにネタにされることさえ耐えられない人もいる。悪口もセクハラも耐えられないと感じたら文句を言えばいいし、文句を言われたほうは自分の価値観で適切に対処すればいい。適切な対処とは必ずしも謝罪ではなく、「あなたの勘違いです」とか「そんなことで怒るあなたのほうが間違っています」でもいい。やたらに話を大げさにしたり、セクハラ被害の訴えをタブーにしてしまう必要はどこにもない。

絵になる男

2009年02月13日 | 政治・外交
昨夜のニュースを見ていたらどの局も「小泉元総理が麻生総理を痛烈批判」「小泉吼える」とばかりに大々的に取り上げていた。

asahi.com(朝日新聞社):小泉元首相、麻生首相に「怒るというより笑っちゃう」 - 政治

ニュース自体についての感想は特にない。
というかよくわからない。たぶん反麻生の人たちが大喜びするような単純な話ではなく、森元総理直伝の仕掛け(八百長)が仕組まれていそうな気もする。小泉氏と麻生氏はもともと肝胆相照らすという感じじゃなくて「実力を認め合いつつ微妙に反りが合わない」関係のようだから、もしかしたら小泉氏は裏も表もなく本気で怒ってるのかもしれない。
どちらなのかよくわからないが、お二人とも個人的な感情のもつれは二の次にして、日本をよくするための道を見つけてほしいと願うだけである。日本の政治に政局騒ぎで時間を空費する余裕はないはずだ。

それにしても今回の騒動で「マスコミはなんだかんだ言っても小泉さんが大好きなんだな」と再認識した。
「絵になる男」が勇ましい言葉で麻生批判をぶちまけたことがうれしくてたまらないようすが画面から伝わってくる。ほとんどお祭り騒ぎのノリである。このあいだまであれほど「否定される小泉改革路線」と伝えていたのに、小泉氏が久しぶりに顔を出すとたちまちこのありさま。なんとも他愛がなく、これじゃ政治報道なのか芸能ゴシップなのかわからない。いや、もともと日本のマスコミは「政治報道とはゴシップの集積」と思っているのかもしれない。だとすれば麻生総理批判が「バー通い」だの「漢字が読めない」だの「定額給付金を受け取るかどうか」といったほとんどどうでもいい話で埋め尽くされるのも無理はない。

気になる女性

2009年02月12日 | テレビ鑑賞記
なんだか思わせぶりなタイトルですが、恋愛とかそういったお話じゃないので、どうもすみません。

「いいとも少女隊」のリンさんが気になる。
私が「笑っていいとも!」を見るのは南野陽子が出ている木曜日だけなのだが、番組中のゲーム「定番ショー」(世間で定番とされるものを一人ずつ書いてチームで合わせる)で南野チーム側のアシスタントをしてるのがリンさんなのだ。南野陽子が写るとその奥にリンさんがいて笑ったりうなずいたり拍手したりフリップの用意なんかしている。その姿がなんだか気になる。もっと見ていたいけれど彼女のことを詳しく知りたくもない、という微妙な感じ。

ここで「リンさん」という呼び方について説明。
基本的に芸能人には敬称をつけないのだが(「南野陽子」「タモリ」)、リンさんについては「たぶんタレントさんなのだろうけど、他で見たことないしなんか素人っぽいし、普通の女の子がいいとものアシスタントをしていると思うほうが楽しいのであえて一般人として見る」という意味の敬称である。相棒のナオミについては、「ビヨンセの物まねをする芸人さん」という認識なので呼び捨てにする。特にリンさんをえこひいきしているわけじゃないのでご理解ください(…やっぱりえこひいきかな?)。

リンさんのアシスタントぶりを見ているとなんとなくいい気持になる。
控えめで甲斐甲斐しい。フレームいっぱいに写るのはオープニングだけで、タモリや他のタレントに番組中で言葉をかけてもらえることはほとんどないけれど、楽しそうに仕事をしている。それは相棒のナオミも同じなのだが、ナオミの場合は「タレントがテレビで仕事するのは当たり前」という感じであまり印象がない(ナオミさんごめんなさい)。
どうやら自分は「普通の、感じのいい女性が楽しげに働いている」姿を見るのが好きらしい。アイドルの水着グラビアやヌードより好きかもしれない。コンビニとかファミレスとか銀行とか本屋さんで感じのいい女性を見かけると「この人を30分くらい見ていたいな」と思うことがある。もちろんそんなことしたら怪しまれるので実際にはやらないけど。
ある種のスケベ根性なのは間違いないが、かといって話をしたいとかお近づきになりたいという感じでもない。なんというか、失礼な言い方だけど彼女たちを生身の人間と「感じのいい女性」という記号の中間くらいに意識している。「生身」が三次元で「記号」が一次元だとすると中間は二次元か。いや、すでに「二次元萌え」という言葉はあるから「2.5次元萌え」としておこう。

話をもとに戻すと、リンさんが気になるのはやはり2.5次元萌えの一種らしい。
「リンさんってどんな顔だっけ」とイメージ検索してみたら、探していた「いいとも」のスチール写真が見つかった。他にもいろいろな情報があった。名前が「鈴木凛」ということもわかったし、さらにはタレントさんらしいことも知り(そりゃそうだ)、中華系サイトでは色っぽい表情の水着グラビアまで見つけてしまった。
自分で検索しておいて「見つけてしまった」もなにもないものだが、「見なきゃよかったかな」と微妙に後悔するのが2.5次元萌えの症状である。リンさんはタレントさんだけあってやっぱりかわいいし、水着グラビアもそれ自体はたいへんけっこうなのだが「これを見てしまうともう『普通の女の子がいいとものアシスタントをしている』という夢が持てないな」と感じてしまう。そうはいってもやっぱり「タレントの鈴木凛」じゃなくて「リンさん」として見ようとするのに変わりはないけれど。
ここまで書いてきてようやく気付いたが、これってキャバクラに行ったとき女の子が「本業は女子大生です。お店に入ったのは三日前で、業界のシステムとかわかりません」と言うのを「本当かなあ(そんなわけないだろ)」と思いつつ一応は真に受けるのに似ている。現実の女性とちょっとだけ距離を置いてちょっとだけ理想化するほうが気楽で楽しい。
もちろんいいことだけじゃなく代償もあって、まともに女性と(人と)関わりたくないとか恋愛ができないとかいった副作用がある。私の場合はどうかというと、特にデリケートな問題なので回答は控えさせていただきます。

なんだか暗くなったので話を元に戻す(逃げてるなあ)。
「2.5次元萌え」にとってテレビほどすばらしいものはない。ぼーっと眺めているだけで感じのいい女性が見つかるし、意識して探せばもっとたくさんいる。テレビのいいところは女性を長時間見つめても怒られないことだ。とはいえ、何人かでテレビを見ているとき食い入るようにお気に入りの女性ばかり見つめると変なのでやめたほうがいい。
アイドルDVDとか「ネットアイドル」では「テレビで見かける感じのいい普通の女性」の代わりにはならない。アイドルは男たちに見てもらうのが仕事だし、ネットアイドルは仕事ではないにしても「私を見て!」という意識が強い。「見る ― 見られる」関係を意識してなさそうな(実際はどうか知らないが)女性を見てなんだかいい気持ちになるのが2.5次元萌えの楽しみなのだ。週刊誌などでは女子アナが人気だけれど、民放の女子アナはタレントと見分けのつかないことが多くて2.5次元萌えの対象になりにくい。私のお気に入りはNHKの女子アナとか地方局のレポーターさんなどである。

たとえば「解体新ショー」の久保田佑佳アナはなかなか微妙な存在で、見るものの力量が問われる。彼女はNHKのアナウンサーなのに毎回毎回アイドルみたいなキャピキャピ(死語か)の衣装を着ている。ミニスカートだったりフリルがバリバリだったり髪にリボンをしてたり(してたっけ?)。これを「タレント気取りかよ、いくらなんでも媚びすぎじゃないか」と思ってしまうとつまらない。「久保田アナ自身はアイドルみたいな衣装を恥ずかしがってるのに、上司の命令で無理やり着せられている」と妄想したほうが趣が深い。本当のところはどうか知りませんが。久保田アナはいつでもニコニコしてるし。

妄想しなくてもぼーっと眺めて素直に「ああいいなあ」と思えるのがBSニュース「きょうの世界」の丁野奈都子キャスターだ。例によって丁野さんがどういう人なのか知らないし特に知りたくもないけれど、彼女の姿を見ているとちょっとだけ幸せな気持ちになる。女性っていいな、感じのいい女性はまことに日本の宝であるな、と思える。
容姿も雰囲気も仕事ぶりも、ほどよく感じがよくて決して過剰じゃないところがすばらしい。容姿でいえば、たとえばフジ「ニュースJAPAN」の滝川クリステルさん(好きですが)なんかはちょっと美しさが過剰だ。「ニュースキャスターよりモデルのほうが向いてるんじゃないか」とか余計なことを考えてしまう。その点、丁野さんは世界のニュースを伝える女性として過不足のない美しさ(どんなだ)である。
雰囲気と仕事ぶりもいい。引き合いに出して申し訳ないが、「ニュースウォッチ9」の青山祐子アナは画面から「張り切っている、元気がある」アピールが伝わってきてなんだか疲れる。スポーツコーナー担当だったときは元気さが合っていたけれど、メインのキャスターとしては過剰だ。「ニュースウォッチ9」のあとで「きょうの世界」を見ると丁野さんのあくまでも普通でていねいなニュースの伝え方に癒される。


なんだか話があっちこっちにいってしまったが、そうだ、「いいとも」のリンさんのことを書いていたのだった。
私が彼女のことを「たぶんタレントさんなのだろうけれど素人っぽいな」と感じたのは地味さからである。相棒のナオミにたいへん存在感があるのに対して、リンさんはなんだかとても普通だ。その昔(というかすでに大昔)おニャン子クラブで、平凡な顔立ちの新田恵利がいちばん人気があったことを思い出す。
「いいとも」で見ている限りではリンさんの顔立ちも地味で、松たか子とかNHKお天気キャスターの半井小絵さんにちょっと似ている。松たか子も半井さんもけっこう好きだ。私の好みはともかく、リンさんも地味系(微妙系)美女タレントとして人気が出てCMやバラエティに出るのだろうか。そのときは普通の女の子の「リンさん」ではなくタレントの鈴木凛としてある程度シビアな目で見てしまうだろう。彼女に売れてほしいようなそうでもないような、なんだか微妙な気持ちでリンさんを眺める木曜日である。

人の心が戦争を起こす

2009年02月01日 | 日々思うことなど
タイトルそのままで、本当は何も付け加えることはないのだけれど。
人の心が戦争を起こす、というのは「君の心が戦争を起こす」からほとんどそのまま頂いた。

Amazon.co.jp: 君の心が戦争を起こす―反戦と平和の論理 (カッパ・ブックス): 羽仁 五郎: 本

実を言えば、この本を読んだのかどうか覚えていない。
高校生くらいのときに図書館に並んでいるのを見たような気がする。そのときは「自分は選挙権もないコドモなのに『君の心が戦争を起こす』なんて言われてもなあ」と戸惑い、いくらか反感を覚えた。だから実際には読んでいない可能性のほうが高い。
あれから長い時間が経ち、自分もいつのまにか社会の中軸を担うとされる世代になった。正直なところ実感はないが、「俺は自分だけが大事で、社会のことなんて考えたこともないよ」と公言すれば白い目で見られることはわかっている。同世代で政治家になったものがいて、注目されるジャーナリストがいて、大金を動かす実業家になったものもいる。運命のサイコロが10回連続で6を出せば、バッジをつけて国会に座っていたりテレビでニュース解説をしていたり六本木ヒルズの社長室に納まっていたのは自分だったかもしれない。力を持つものには平和を保つ責任がある。私自身は地位も財産も何も持っていないけれど、選挙で一票を投じる「有権」者だ。
そんな風に思うと、なるほど羽仁五郎は正しかった、戦争を起こすものがあるとしたらそれはまさに自分の心だ、人の心だ、と思わずにいられない。

人の心、というのは思考と感情を合わせたものだ。
だがそれだけではない。「思考と感情」というとつい自分で意識する部分だけを思ってしまうが、無意識や本能、さらには肉体の状態まで含めて考えたときはじめて本当の「人の心」に近付くことができる。自分でわかっている「自分の心」は氷山の一角でしかない。
人間は人と交わらないと暮らしていけないから、誰でも自分の心と他人の心について知り、うまく折り合いをつけて幸せを得られるようにと願う。とはいっても、自分の心でさえなかなかわからないのだから、他人の心のうちを見定めたり都合のいいように動かすのは至難の業だ。まことに「人の心は測り難し」と嘆息するほかない。
そこで専門家の出番となる。人の心について知る、人の心に働きかけて幸せを得る手伝いをする、そういうことを仕事にしている人はたくさんいる。心理学者と精神科医を筆頭として、そのあとにカウンセラー・宗教家・占い師・セラピスト・教育者… といった顔ぶれがずらりと並ぶ。
その中で忘れてならないのが「小説家」だ。登場人物を自然に動かし、読者に楽しんでもらえるストーリーを作るには人の心をよく理解する必要がある。まして、目の肥えた読み手をうならせ「これは文学だ」と認めてもらうには並外れた洞察力と繊細な指先が必要だ。

このところ二回続けて村上春樹の「エルサレム賞」受賞をめぐる問題について書いてきた。
何度も言うけれど私は村上ファンではなくむしろアンチに近い。それなのに「とりあえず村上春樹が何を言うのか静かに見守れ、勝手な理想や要求を押し付けるな」と言わずにいられなかったのは、文学者であり「人の心」に並外れた洞察力を持っているはずの人物に対する最低限の敬意からである。

一部の「平和と正義を愛する人たち」が期待するようなわかりやすい抗議の姿勢を見せることは実は易しい。ステロタイプな「良心の声」、怒りのポーズ、プロテストの言葉はそこらじゅうにあふれている。ネットで検索しておいしいところを切り張りし、ムラカミハルキ風の味付けをして「さあどうぞ」と差し出せば、「よくやった」とほめてくれる人もいるだろう。
だが村上春樹はそんなことをしないだろうし、彼のファンも望まないはずだ。文学者が特別な場所で何かを言うとしたら、それは彼自身の声でなければならないし、可能な限り「人の心」に訴えることを望むだろう。「政治的な正しさ」を考慮するのはその後のことで、まったく考慮しないことだってありうる。

「人の心が戦争を起こす」というのは、裏返せば「人の心を動かせば戦争を止められる」ということだ。
政治的な「義太夫の旦那」が好むやり方、つまり「政治的に行動する、政治的アピールをすることで人の心を動かそうとする」のは順番が逆である。もちろん、アジテーションによって人の心が動かされることもあるだろうし、それに長けた人は自分のやり方でやればいい。だがそれが「たったひとつの冴えたやりかた」であるはずがない。
たぶん村上春樹はエルサレム賞受賞スピーチで自分の言葉、自分のやり方で人の心を動かし、平和が生まれる土壌を耕すことを望むだろう。土が固すぎて石ころだらけなら、せめて弱々しい芽に水を与えようとするだろう。
世界中の人々に叫んで大向こうをうならせるよりも、イスラエルに住む自分の読者に向けて静かに語りかけると思う。仮にイスラエルに村上春樹の読者が5万人いるとして、彼らの心の固有振動数に合わせた言葉で風を送り共振させることができれば大きな力となる。

Tacoma Bridge



タコマナローズ橋 - Wikipedia

私が村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチに期待するものがあるとしたら、イスラエルの村上ファンを、彼らの心をそよ風のようにやさしく、あるいは突風のように強く揺り動かすことだ。風が生温いとか「神風」のような大嵐でないことに不満をもらす人もいるだろう。だが風が吹けば悪い空気をわずかでも入れ替えることができる。私にはそれで充分だ。