玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

常識と「世間の空気」

2007年09月27日 | 光市母子殺害事件
光氏母子殺害事件の弁護団に「人として許せない」と憤っている「普通の」人たちに読んでほしい。

元検弁護士のつぶやき: 「世間」、「常識」、「社会一般」等について コメント欄

No.95 名無しさん さんのコメント | 2007年09月27日 00:13 | CID 82280  (Top)

自分なりに考えてこと、感じたことをまとめてみました。

Q:刑事弁護士の職責とは
A:被告人の利益を主張すること

Q:検察の職責とは
A:被告人の罪を追求すること

Q:裁判官の職責とは
A:刑事弁護士と検察の主張を検討したうえで、適切な刑を下すこと

Q:刑事裁判における正義の実現とは
A:事実を明らかにすること、その事実に基づいて適切な刑が下されること

Q:事実を明らかにする(事実に近づく)ために必要なことは
A:弁護士、検察、裁判官がそれぞれの職責を果たすこと

Q:犯罪者を弁護するのは正義に反するのではないか
A:弁護士が被告人の利益を主張しなければ事実は明らかにならないし、正義も実現されない

Q:何があろうと人を殺した以上は死刑が適当ではないか
A:現在の司法制度は殺意の有無や犯行の計画性などの事情を考慮している

Q:なぜ事情を考慮するのか
A:考慮しなければ、正当防衛で人を殺しても死刑になる

Q:世間の感覚では死刑にするのが当然だ
A:世間には、死刑にするべきと考える人もいれば、そうでない人もいる

Q:現行の法律は民意から乖離しているのではないか
A:法律は民意に基づいて選ばれた議員によって作られている
  本当に民意から乖離しているのであれば、いずれ改正される


付け加えるなら

Q:被告は真実を語る義務があるはずだ
A:黙秘権は憲法38条1項で定められている

Q:目には目を、歯には歯を。凶悪犯にはそれにふさわしい刑を与えよ
A:残虐刑の禁止は憲法36条で定められている

本来これらは義務教育で身につける常識でなければならないのに、実際は学校でも社会(マスコミ)でも十分に教えられていない。
逆に憲法と刑事訴訟法について知識を持たず、あるいは知っていてもそれを否定して感情論を叫ぶ人たちのほうが多数派のようだ。「普通」の「一般人」が作る「世間の空気」はこうだ。

  「悪党はこいつだ! 悪党を吊るせ! 悪党の味方には石を投げろ!!」(典型例 

私はキリスト教徒ではないけれど、「罪なき者まず石を投げよ」と言ったキリストも、自らを省みて恥じた民衆も実に立派だと思わずにいられない。

総裁選「盗撮」は憲法違反か

2007年09月26日 | 政治・外交
自民党総裁選における杉村議員の投票「盗撮」を憲法違反だと批判するブログが多い。

 日本テレビ、自民党総裁選で「盗撮」、無記名投票を有名無実のものに:Garbagenews.com
 痛いニュース(ノ∀`):日テレが杉村太蔵の投票を盗撮→「麻生に投票した」と報道
 。(仮)記日折骨 | マス”ゴミ”と呼ばれる覚悟の上とお見受けいたす。
 オレンジのR+: 日テレが杉村太蔵の投票を盗撮→「麻生に投票した」と報道
 盗撮ってレベルじゃねーよ at gomlog
 ひつまぶし。 lω・`)
 Aの日記 福澤アナ、また涙の謝罪をするのかな


この事件についての15条4項違憲説は間違いである。どれくらい間違っているかといえば、
 「クジラを魚だと思う」
 「コウモリを鳥だと信じる」
 「タラバガニをカニだと主張する」(参照
といったレベルである。つまり
「一見してそう思うのは無理もないが、いつまでも言い張るのは恥ずかしい」

やけに偉そうな言い方をしてしまった。
間違いと断定した奴(私のことだ)は何者かというと、憲法について勉強したのは大昔のこと、高校の公民が最後である。専門的な知識など何もない。もちろん権威も信頼性もない。「なんだ、素人のたわごとか」と切り捨てる人はこれから先を読んでも時間の無駄である。


日本国憲法15条

条文

  1. 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

  2. すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

  3. 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。

  4. すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。


総裁選「盗撮」が憲法違反だと主張する人たちは日本テレビが第四項「投票の秘密」を侵したと批判している。
なるほど、「すべて選挙における」と書かれているからには、自民党総裁選挙にも適用されると思うのは自然なことだ。
だが、本当にそれで正しいのだろうか。実際のところ、日本で行われている「すべて」の選挙で投票の秘密が守られているだろうか。
国会で行われている投票・採決の方法を見てみよう。

内閣総理大臣指名選挙 - Wikipedia

日本では、内閣が総辞職した場合、日本国憲法第67条の規定により、国会において文民である国会議員から内閣総理大臣を選出しなければならない。

内閣は国会法64条により衆議院と参議院に内閣の総辞職を通知する。本会議において議長から議員に通知を受けたことを報告し、その後直ちに記名投票による内閣総理大臣指名の議決を行う。

衆議院議長
議長選挙は無名投票であり(規則第3条第2項)、半数を得たものを当選人とする(規則第8条)。

参議院議長
議長選挙は単記無名投票である(規則第4条第2項)。

衆議院規則 第六節 表決
第百五十一条 議長が表決を採ろうとするときは、問題を可とする者を起立させ、起立者の多少を認定して、可否の結果を宣告する。

  議長が起立者の多少を認定しがたいとき、又は議長の宣告に対し出席議員の五分の一以上から異議を申し立てたときは、議長は、記名投票で表決を採らなければならない。
 (略)
第百五十二条 議長が必要と認めたとき、又は出席議員の五分の一以上の要求があったときは、記名投票で表決を採る。

参議院規則 第6節 表決
第137条 議長は、表決を採ろうとするときは、問題を可とする者を起立させ、その起立者の多少を認定して、その可否の結果を宣告する。
  議長が起立者の多少を認定し難いとき、又は議長の宣告に対し出席議員の五分の一以上から異議を申し立てたときは、議長は、記名投票又は押しボタン式投票により表決を採らなければならない。
第138条 議長は、必要と認めたときは、記名投票によつて、表決を採ることができる。出席議員の五分の一以上の要求があるときは、議長は、記名投票により、表決を採らなければならない。
 (略)
第140条の2 議長は、必要と認めたときは、押しボタン式投票によつて、表決を採ることができる。


以上のように、議長の選出(無名投票)以外の採決は「記名投票」「起立投票」(参議院のみ押しボタン式投票あり)で行われる。誰がどういう投票をしたか一目瞭然だ。大事な「投票の秘密」は無視されている。それなら国会の採決方法は憲法違反なのか。もちろんそんなことはない。何十年も続くあからさまな憲法違反(もしそうだとして)に誰も気付かないはずがない。

そもそもなぜ憲法に「投票の秘密」が規定されているか理解する必要がある。
一般の国民は建前としては主権者だが、実際はさまざまな圧力にさらされる弱い存在だ。A党支持を明らかにするとB党の支持者に怒られる。憲法改正論に賛成すると護憲論者に嫌われる。それが単に政治的意見の相違だけならいいが、生活への直接の圧力となり不利益を被る。そんな状況を野放しにしては政治的自由が萎縮し、民主主義が機能しなくなる。一般国民が投票の「選択に関し責任を問われる」ことのないよう15条4項「投票の秘密」規定が生まれた。

なぜ国会では「投票の秘密」が無視されるのか。
それは国会で投票するのは議員であり、政治のプロだからだ。
政治家は政治活動を行うことによって有権者に認められ議員の地位を得ている。政治は彼らの職業であり生活だ。政治的意思を公にして活動しなければ存在価値がない。その点「政治を目的に生きているわけではない」一般国民とまったく違う。
もちろん政治家にも一般人と同じく、いやそれ以上に強く政治的圧力がかかってくる。だがそれに負けるようでは政治家の資格はない。圧力をはねのけて政治的信条を守り、政策を実現するのが政治家の仕事だ。
強くあることが義務の政治家に一般人と同じ保護は必要ない。議員を政治のプロと認めた結果「投票の秘密」は無視される。
有権者にとっての利益を考えれば、ますます議員の「投票の秘密」を守る意味はない。自らの利益代表として送り込んだ政治家が誰を総理大臣に選びどんな政策を支持したか知るのは当然の権利だ。選択を隠そうとする政治家は信用できない。代議制民主政治において議員の特権として行われる投票は原則的に全て(国会の秘密会など例外はある)公開されるべきだ。そして、議員の選択は有権者によって評価され次の選挙での支持に影響する。一般国民とちがい政治家は「政治的選択について責任を問われる」存在なのだ。

このような考えからすると、自民党総裁選の議員投票が無記名投票であることのほうが異常である。
国会の議長選挙は無記名投票だが、議長は公平中立にして非政治的であることが求められる。プレイヤーではなくジャッジだ。特別な事情によって無記名投票が行われるのは理解できる。だが自民党総裁はまさにプレイヤー代表だ。内閣総理大臣が記名投票で選ばれるのだから、自民党総裁(河野洋平以外すべて総理大臣になった)を選ぶのも記名投票であるべきだ。
それならなぜ現在の総裁選が無記名投票なのかといえば、派閥支配の遺産だろう。かつては各派閥が所属議員を押さえ込み好き勝手な投票を許さなかった。自由投票も秘密投票も形だけのことである。あまりにもガチガチで何のために選挙をするのかわからない。せめて「自由」で「民主」的な姿を装うために、ボス支配の隙間として無記名投票が必要だったのだろう。何らかの事情で、あるいはやむにやまれず、派閥の命令に逆らって投票する議員がいても建前は無記名投票なので(実際はほとんどバレているのだが)お目こぼしできるのだ。
昔はどうあれ、現在の自民党は派閥支配を固めれば政権は安泰、という状況ではない。参議院では野党に過半数を奪われた。多くの国民は派閥支配を当然だとも好ましいとも思っていない。弱小派閥の麻生候補は予想外に善戦し、当選した福田総裁は派閥支配を否定した。

asahi.com:「強い派閥」今は昔 中間議員、麻生氏へ
■中間議員、麻生氏へ

 「得票数をご覧になってどう思われましたか。派閥の数合わせ、とおっしゃいましたが、そうでなかったと証明されたんじゃないですか」

 23日夕、自民党本部。新総裁に選ばれた福田氏は記者会見で、「派閥談合」批判を意識して自らこう語った。

 福田氏330票、麻生氏197票。両院議員総会で開票結果が読み上げられると、会場に拍手が起きた。とりわけ沸いたのは、敗北した麻生氏の陣営だった。

 福田氏支持を打ち出した8派の所属議員は計300人余り。無派閥を含め、21日時点の朝日新聞の取材で「福田氏支持」は253人。態度を明確にしていない議員が79人いたが、福田氏が獲得した議員票は254票どまり。中間的な立場だった議員が、麻生氏に雪崩を打った結果だ。麻生選対の幹部も「(全体得票の)上限は170票ぐらいと思ったが、夢のまた夢の数字に到達した」と驚きを隠さない。

 「いまの自民党に対する批判票だ。派閥でものごとを進めていくことに民意から批判があり、それが国会議員票にも影響した」。21日には態度を明かさず、結局、麻生氏に投票した高村派の若手はこう声を潜めた。

 もっとも、01年総裁選で小泉前首相が予想を覆す逆転勝利をとげて以来、総裁選での派閥の結束は乱れ続けた。03年には津島派の前身である旧橋本派が分裂、06年は派閥横断の「安倍雪崩」が起き、派閥会長は存在感すら示せなかった。今回も、そんな流れは止まっていない。

派閥支配が過去のものになれば、派閥の束縛から議員を守るための無記名投票はもはや必要ない。有権者、自民党支持者への説明責任を重視するなら総裁選挙の議員投票は当然「記名投票」で行われるべきだ。

さらに言えば、そもそも政党は私的団体なので憲法の参政権規定は適用されない。
さまざまな会社・組合・同好会・町内会・PTA等で全ての採決が無記名秘密投票により行われているかといえば、もちろんそんなことはない。適当に話し合ってなんとなく決めたり、挙手したり、発声したり、はたまたクジで決めたりといったさまざまな方法が使われる。そこに憲法15条4項の出番はない。
自民党総裁選にしても、無記名投票が用いられているのはあくまで党則の規定によるもので憲法とは無関係である。自民党員が党紀改正を望めば総裁選出を記名投票で行うことも、クジで選ぶことも、現職の指名に任せることも可能だ。

厳密に言えば私的行為であっても「間接運用説」によって憲法の「私人間効力」が認められる場合がある(・ )。
私にはよくわからないが、公人中の公人である国会議員の互選が「社会的権力による一般国民への人権侵害」に当たるとは思えない。私にはどう考えても自民党総裁選挙が無記名投票である必要が見つからない。

以上、日本テレビの総裁選投票「盗撮」が憲法15条4項違反にあたらない理由を書いた。
「盗撮」批判としては憲法問題のほかに「杉村議員のプライバシー問題」と「自民党党則を無視したマナー問題」がある。この二つについては私も問題ありと思う。とはいえ、私自身の(そして大多数の国民の)利害と直接のかかわりはない。あくまでも杉村議員・自民党と日本テレビの間のことだ。公人の政治活動を伝えるのは公益性がある。熱心な自民党支持者か、プライバシーとマナーに特に敏感な人たち以外が大騒ぎする必要はないだろう。



コメントされる方へのお願い。
この記事では日本テレビ「盗撮」批判のうち15条4項の違憲問題のみを取り上げています。
それ以外、具体的には「盗撮」の是非(プライバシーとマナーの問題)についてのご意見はほかの記事のコメント欄をご利用ください。
記事の趣旨にそぐわないコメントは移動あるいは削除します。

日本テレビ「盗撮」批判に見るマスコミ不信

2007年09月26日 | ネット・ブログ論
「不可視型探照灯」の erict さんから日本テレビの総裁選挙「盗撮」問題についてトラックバックをいただいた。

不可視型探照灯:権力による「アーカイブ」への介入を、皆が許さないために

以下は erict さんへの返信である。


トラックバックありがとうございました。
正直なところ私も日本テレビのやったことを全面的に認めているわけではありません。盗撮まがいのやり方が多くの人の顰蹙を買うのは当然だと思います。とはいえ、ネット上の日本テレビ批判があまりにも見当違い(憲法15条云々)で度を越しているので「日テレのやったことにも意味がある」と主張する記事を書きました。個人的には現在2ちゃんねるやあちこちのブログで行われている日テレ批判の三分の一くらいの強度が適切だと思います。

マスコミが情報を溜め込み、特定の目的で選別して政治家・政党・政策etcを叩くために利用する危険は以前から存在します。自分たちの思想と目的を明らかにして行うならまだしも、公平中立を標榜して煽るのは性質が悪い。受け手がマスコミの、いやマスコミに限らずさまざまな勢力の煽りに簡単に乗らない慎重さを身につける必要があります。
残念ながらネット時代になってかえって煽りに乗る人の数が増え熱量が上がったように思えて不安です。煽りに乗せられてもあとで冷静さを取り戻してくれればいいのですが、少なからぬ人たちが煽りに乗せられたことを認めたくないのか、それとも第一印象が強すぎたのか、いつまでも同じ考えにこだわり続けるようです。

マスコミと権力の癒着については私はよくわかりません。免許事業であるテレビと政府・政党・官僚が密接な関係を持つことは容易に想像できますが。今回の「盗撮」も、総裁選というイベントを盛り上げるための仕込み、あらかじめ予定されたハプニングであったように思えます。
日本テレビが「盗撮」の目的について明らかにしないのは、面白半分でやったといえば視聴者から批判され、確信犯だといえば自民党ににらまれ、どちらの立場をとることもできず逃げているのだと想像します。私としては安易にふざけたり頭を下げることなく「総裁選の無記名投票はおかしい」と批判する確信犯の立場を明確にしてほしいと願っています。

彼らがいかに「世間に貢献する報道」を多数行ったとしても、わずかばかり「説明不足」を怠るがばかりに発する「不信感」が世間に蓄積され、増幅されたときに、権力がこれそとばかりに差し出した手が放つのは、メディアへの強烈なバックドラフトだろう。

日本テレビは今こそ、この説明責任を果たすときだ ↓
■「日本テレビ取材・放送規範」作成について (日本テレビ:プレスリリース) より

〈人権の尊重〉
取材・放送は、人権を尊重し、不当に名誉を傷つけたり、不当にプライバシーを侵害してはならない。
(中略)
一、 放送すべき公共性が認められる場合以外に、プライバシー侵害に当たるような隠し撮りをしてはならない。
 → 世間にいくら批判されようとも、今回の報道の重要性を、その必要性を。社会への貢献性を地道かつ愚直に話すべきだ。国民が、市民が権力によるメディアへの介入を許さないために。


ご意見に完全に賛成します。
説明責任を求められているのはマスコミに批判される政治家・官僚・一般企業・医療関係者・法曹etc… だけではありません。マスコミ自身が説明責任を果たさないことへの不満、不信感が特にネットで高まっています。 あいまいな根拠や些細な意見の違いであっても、批判の対象がマスコミ(関係者)であればネットで多くの賛同者を集めるのは容易です。いくつか例を挙げるなら

  新聞記者ブログ連続炎上
  日の丸ウイニングラン未放映事件
  元・女子アナのブログ炎上
  元・全国紙政治部長がモーニング娘。批判→ブログ炎上
  そして今回の 日本テレビ「盗撮」事件

光市母子殺害事件では弁護団が「世間の空気」に逆らったと批判されましたが、いつの日かマスコミが「空気」を操れなくなったとき、強烈な怒りが彼らにぶつけられることになるでしょう。それが権力と民衆が直結したポビュリズムの形になるのか、それとも権力不信とマスコミ批判が一体化したアナーキズムの形になるのかはわかりませんが。
私は荒っぽいことが嫌いな臆病者なので、マスコミ不信が破滅的なものになる前に現在のマスコミのあり方と受け手の両方が変わることを願っています。

あえて日本テレビの「盗撮」を賞賛する

2007年09月25日 | 政治・外交
杉村太蔵議員が自民党総裁選で投票する様子を日本テレビが「盗撮」した。
憲法まで持ち出した批判がネットで盛り上がっている。

痛いニュース(ノ∀`):日テレが杉村太蔵の投票を盗撮→「麻生に投票した」と報道
⊂⌒⊃。Д。)⊃カジ速≡≡≡⊂⌒つ゜Д゜)つFull Auto | 日テレの盗撮により、杉村太蔵は麻生に投票した事が判明
【2ch】ニュース速報アワーズ:【日テレ】マスコミの「麻生に投票した議員」狩りが始まる!杉村太蔵議員の総裁選投票用紙を盗撮
日本テレビ、自民党総裁選で「盗撮」、無記名投票を有名無実のものに:Garbagenews.com
こころはどこにゆくのか? - 「制止する人間が一人もいない」問題

このことについてはすでに書いたので、未読の方がおられたらこちらから先にお読みください。

だんだん「光市母子殺害事件弁護団への懲戒請求殺到」に似てきた。
少し考えれば大した問題じゃないとわかるのに、刺激的な単語や映像(「ドラえもん」「盗撮」)に気をとられた多くの人が怒りをたぎらせる。気持ちはわかるが、もうちょっと落ち着いてほしい。
典型的な「盗撮」批判としてGarbagenews.comの記事を取り上げる。

日本テレビ、自民党総裁選で「盗撮」、無記名投票を有名無実のものに:Garbagenews.com

杉村太蔵議員は俗にいう「小泉チルドレン」の一派ともされ、選挙前の打ち合わせで福田派に賛同するよううながされて席を立ったことが伝えられるなど、どちらに投票するかに注目が集まっていた。しかし投票そのものが「無記名投票」で行なわれる以上、だれがどちらかに投票したかは秘されるべきである。公開されてしまっては投票そのものが恣意的なものになり、公平性に欠けてしまう(自分が選挙に参加する際、記名投票だったらどう思うかを考えれば容易に理解できよう)。

ナイーブすぎる。
もともと自民党総裁選挙では投票以前に大多数の議員が旗幟を明らかにし、票読みされている。会場での議員投票自体はセレモニーに近い。
それも当然で、彼ら国会議員の職業は政治なのだ。自分がふさわしいと思う候補が選ばれるようにするのが彼らの仕事である。「私はこの人が適切だと思う、なぜなら~」と説明し、同志を増やさなければ彼らの責任を果たすことはできない。政治を職業としない一般人と一緒くたに考えるのは間違っている。

公開の場で行われたことや、公務員の公選選挙でないこと(あくまでも自民党の総裁という、グループ内の長を決める選挙)から、今回の盗撮行為は公職選挙法の第225条「選挙の自由妨害罪」及び第227条「投票の秘密侵害罪」には該当しないものと思われる。しかし実質的に一国の総理大臣を決める選挙に結果が直結することから、解釈的に準適用されうるのでは、とする意見もある。

さらに日本国憲法第15条の4では「すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問われない」とあり、憲法の精神に反することは間違いない(第15条の主文は公務員選定・罷免について言及されているが、1から3が「公務員」とわざわざ明文化しているのに対し4のみそれがないことから、選挙制度そのものの精神に対するものと解釈)。

国会で行われる「内閣総理大臣指名選挙」は記名投票で行われるが、これも憲法違反になるのだろうか。
もちろんそんなことはない。総理大臣指名選挙を秘密投票にしろ、という意見は聞いたことがない。

国民に不利益となるような国政を追求したり、社会的に問題があるような事情について「取材」という名前で盗撮行為が行われた場合、問題行為には違いないが「報道の自由」「表現の自由」を盾にしたり、情状酌量の余地はあるだろう。しかし今回の場合、単なる好奇心、視聴率稼ぎや世情のあおりたてのためだけに行なわれた行為であり、釈明の余地はない。マスコミが常日頃から主張している「社会正義」からもっとも遠い行為であることは間違いない。

「公式の場で、オープンスペースでやっているのだから問題はない」と今回の日本テレビの行為を肯定する意見があるとすれば、「ならばアイドルのステージで、舞台真下からスカート内を盗撮しても良いのか」「海水浴場の水着姿の女性を特殊な赤外線カメラで撮影して良いのか」と反論できよう。もちろん良いはずはない。

くだらない。
「アイドルのパンツや海水浴客の水着写真には公益性がない」
「政治家の政治行動を伝えることは公益性がある」
実に単純な区別である。

これら二例は極端な例であるが、その場がおおやけの場であっても「被写体が『見られたくない』と考えて、意図的に隠しているもの」をその被写体の意図に反して、しかも「特殊な器材」で撮影している以上、倫理的はもちろん、法的にも問題があることは明らかである。

杉村議員と自民党が「『見られたくない』と考えて、意図的に隠して」いたのかどうか疑問だ。
杉村議員については放送されることを了解しているという情報もある(未確認)。
自民党の見解は明らかではないが、会場に多くのカメラを入れ壇上で投票用紙に記入させるという形式からして「秘密」よりは「公開セレモニー」の要素が強い。議員たちも「自分を写してくれ」と願いこそすれ「目立ちたくない、写さないでくれ」と思うものは少ないだろう。
とはいえ、何らかの事情で誰に投票したのか隠したいと思う議員もいるだろうから、そういう人の投票を撮影し放送するのは問題なしとしない。

仮に今件がまったく問題なく正当化された場合、おおやけの場にいた場合にはどんな器材を用いられて撮影されたとしても、「報道の自由」「表現の自由」を盾にされ、何の文句も言えなくなってしまう。これを「自由」と呼ぶべきなのか、それとも「解釈の暴走」と呼ぶべきなのか、判断は人それぞれだろうが……。

「撮影」と「放送」は区別して考えるべきだ。
マスコミが取材するときは許される範囲で最大限の情報を集めるのが当然である。撮影を禁止されなければ何でも写せばいい。遠慮していたら撮るべきものまで撮りそびれてしまう。
撮影した素材を編集し放送にかけるときは取材対象者の要望を聞く必要がある。「どうしてもこれが写るとまずい」のであればモザイクをかけるとかそのシーンをカットするとか配慮する。
とはいえ、公益性が高い情報だと判断すればそのまま伝えなければならない。「取材対象からの信頼」と「社会への義務」を適切にバランスをとるのがマスコミに求められる倫理である。


公益性の問題については erict さんが考察しておられる。

不可視型探照灯:「放送すべき公共性」とは何か?
この規範を適用して放送したというのであれば、「真相報道バンキシャ!」の番組作成班としては、

今回の杉村議員の投票行動については、公が知るべき公共性が認められる。

よって、公共性が認められることを認識した上で、隠し撮りを行って報道した。

ゆえに、今回の報道内容は公共性の認められる内容であり、人権侵害には当たらないと考えたうえでの報道だ

ということなのだろう。福沢氏のエッセイにまで、この報道内容を引用して記述されているのだから、それなりの覚悟と考えをもって報道した、という解釈すら成立するのだ。
生半可な覚悟じゃ報道できないはずですからね、こういう盗撮報道は。むしろ逆説的に言えば、単なる野次馬根性で盗撮し報道した、というのであれば大いに問題があるということを指摘しておく。

我々国民・市民の知る権利に応えるという名目で、彼らの考える「放送すべき公共性」をとして、今回の「盗撮報道」を行ったのだ。

たしかに、公共性(公益性)の判断なしに単なる野次馬根性で「盗撮」したのであれば見さかいなく暴走する危険性をはらんでおり危険だ。日本テレビの批判への対応に注目する必要がある。もし杉村議員や自民党が抗議してきて(その可能性は低いと思うが)簡単に謝罪するようなら、私も「なんだ、興奮して浮かれただけなのか」と大いに失望し、そのときこそ日本テレビを批判する。

単に「自民党だから・・・」「杉村議員だから・・」という安直な考えで、今回の報道を批評すべきではない。今回のような「盗撮報道」を、あなたが「公人」とメディアに看做されたときに、盗撮を行われても問題視しないのか?ということなのだ。

また、今回の投票行動における盗撮は、自民党の投開票会場だけではなく、一般的な市区町村における議員・首長指名選挙、衆・参議院議員選挙の投票所でも、同様の盗撮行為、投票行動を映像媒体などに記録できるということを如実に証明した、といっても過言ではないだろう。

この日本テレビにおける盗撮行動を支持する・しないは、あなたの胸先三寸次第なのだ。

個人的には今回の報道を「盗撮」と呼ぶことに疑問がある。
多くの記者、テレビカメラを入れたイベント会場であり、秘密のはずの投票が壇上で行われている。明らかに「どうか写してください、自民党に注目してください」という積極的な意図がある。こそこそ「盗み撮る」という表現はふさわしくない。
私の好きな女性アイドルに例えれば、プライベートを隠し撮りすれば「盗撮」にまちがいないが、コンサートの舞台でパンチラがあったとしてそれは「お宝」ではあるが盗撮とは呼べない。ついでに言えば、ミニスカートで舞台に上がるアイドルが「見られても問題ないような対策」をしてなければそのほうが驚きである。コンサートのパンチラで見えるのはパンツではなくてもっとつまらない何かだ。BUBUKAとかエロ系ゴシップ誌の見出しは誇大広告ばっかりだ、けしからん!
…話がそれた。

公人と「盗撮」の問題については、公人が公人たるゆえん、その人の職業にかかわる分野についてのプライバシーはゼロではないにしても一般より制限されるものと考える。一口に公人といっても狭義と広義(みなし公人)があり、政治家、それも国会議員はまぎれもなく狭義の公人のうちに含まれる。みなし公人(芸能人等)より制限は強い。政治家が隠そうとする政治活動、たとえば他党の政治家や財界人との密会に強引な取材をするのは公共の利益にかなう。今回の総裁選投票「盗撮」についても私はそのような例のひとつと考える。
一般市民の投票にまでマスコミの盗撮行為が広がるのではないかという心配は私には杞憂に思える。そもそも誰が一般人の投票行動に興味を持つだろうか。単純に報道価値がない(視聴率が取れない)からやらないだろう。仮にどこかのマスコミがやったとしても明らかに憲法15条違反であり言い訳のしようがない。もちろん私も批判する。

ネット上での「世論」は日本テレビ批判の強度が50~90%ほどのようだ。
私自身、きのうの時点では「ちょっと問題かな」と思い20%くらい批判的だったが、考えていくうちに「特に問題ない」「問題があるとしたら杉村議員・自民党と日テレの間のことで第三者は関係ない」「むしろ総裁選が秘密投票なのがおかしい、記名投票で公開すべきだ」という思いが強まり、今では10%ほど「盗撮」を賞賛する気持になっている。
日本テレビよくやった。ついでに「総裁選の議員投票を記名式にすべき」とキャンペーンしてくれ。

総裁選二題 ‐麻生氏の健闘と日本テレビの「盗撮」‐

2007年09月24日 | 政治・外交
次の総理大臣が福田康夫氏に決まった。
ご当選おめでとうございます。日本のために適切な政治をしてくれることを望みます。

安倍総理(もうすぐ前総理になる)は政権キャッチフレーズ「美しい国」に見られるように理想主義的なところがあり、それなのに閣僚や官僚の不祥事が連続し、政権運営がごたごたして眼高手低の感があった。安倍氏の理想に共感した人やとりあえず見守ってきた人たちもだんだん付き合いきれなくなって求心力が落ち政権を投げ出す憂き目にあった。
福田氏は間違っても浮ついた理想家という印象ではないし、ユーモアのセンス(安倍氏にはこれが足りなかった)があり皮肉が冴えている。とりあえず安倍氏よりは人間的に余裕がありそうだ。実は討論会などで短気なところも垣間見えるのだけれど、そのあたりをコントロールできれば国民に「この人で大丈夫なのか」という不安を与えることはないだろう。

私は以前から麻生太郎ファンであることを公言しており、今回の総裁選も麻生氏が勝つことを願わなくはなかったけれど、正直言って安倍氏の辞任表明直後に本命視されていたときから「今回は難しいだろうな」と思っていた。安倍氏に近すぎたし、弱小派閥だし、国民的期待も今ひとつ盛り上がってないし、小泉さんが推せば勢いがつくだろうけど二人はそういう関係ではなさそうだし、どうも勝てそうな気がしなかった。
とはいえ、福田氏出馬表明後の惨敗予想からの盛り返しは見事である。まさに「とてつもない」麻生太郎の「底力」(負けた後でほめられてもうれしくないだろうが)。テレビ討論でも各地の演説会でも福田氏より政策力とコミュニケーション能力に優れ人気が高いことを示した。
それならなぜ勝てないのか、おかしいじゃないか、しょせんは派閥の論理だ古い自民党だと怒る人もたくさんいるが、私はそうでもない。「美しい」安倍氏の後に「とてつもない」麻生氏では地に足がつかないようで(私自身は麻生氏の現実感覚を信じているけれど)不安を感じる人が多いのはむしろ当然だ。若い高揚(安倍氏はそれを維持するのに成功しなかったけれど)のあとには年を経た冷静さが求められる。

麻生氏の得票が福田氏の半分以上なら総裁候補の座を維持できるだろうし、そうであることを願っていたけれど、福田氏330票に対して麻生氏197票というのは期待以上の健闘だ。特に一般党員の投票で福田氏を上回ったのは大きい。

自民党総裁選、党員投票では麻生氏が福田氏上回る : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
 党員投票を実施した35都道府県に限ると、党員票の合計は、麻生氏が25万3692票(50・3%)で、福田氏の25万613票(49・7%)をわずかに上回った。

とはいえ、参院選で大敗していよいよ危機感が高まった自民党としては福田氏の後に使える「人気者カード」を作っておきたかったという事情がある。もし麻生氏が今回の得票すべてを自分の実力だと信じれば(そんなことはないだろうけど)、次の総裁選で思わぬ苦戦をするだろう。



ところで、日本テレビの番組で杉村太蔵議員(通称タイゾー)が麻生氏に投票する様子が画面に写されたそうである。

痛いニュース(ノ∀`):日テレが杉村太蔵の投票を盗撮→「麻生に投票した」と報道

痛いニュースやはてなブックマークで多くの人が「盗撮だ」「投票の秘密を侵す」「憲法違反だ」と怒っている。
だが私にはそれほどまで憤慨する理由がわからない。

盗撮

未確認情報だが、2ちゃんねらーが日本テレビに問い合わせたところ「投票後に本人(タイゾー議員)に取材を行い、公表の許諾を取ってある」とのこと(コメント26番)。


投票の秘密

公党の党首選挙における国会議員の投票行動を秘密にする必要があるのだろうか。私はむしろ記名投票にして公開してほしい。国会における内閣総理大臣指名選挙は記名投票である。

内閣総理大臣指名選挙 - Wikipedia
  衆議院と参議院で記名投票による内閣総理大臣指名の議決を行う。


憲法違反

憲法15条第4項には「すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。」と書かれているけれど、これは公務員の地位と選挙を規定した条文の第4項である。

日本国憲法第15条 - Wikipedia

条文

  1. 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
  2. すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
  3. 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
  4. すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

自民党には多くの議員が所属し政党補助金も受け取っているから半ば公的な組織ではあるけれど、もちろん自民党総裁の地位は公務員ではない。総裁選挙に公職選挙法は適用されない(かつてはあからさまな買収が横行していた)。15条4項が総裁選に適用されるとは思えない。


仮に日本テレビの映像が杉村議員や自民党の了解を得ず放送されたならプライバシー侵害の問題が生じるが、自民党はともかく杉村議員の了解は取ってあるようだし、自民党総裁=次の総理大臣を選ぶ選挙で国会議員が誰に投票したかという情報は公益性があり放送する価値があると思う。
念のため言っておくけれど、もちろん私は一般国民の投票の秘密は厳守されなければならないと信じている。投票所の外で「あなたは誰に投票しましたか」と聞く出口調査も問題だ。
だが、公人である国会議員が半ば公的な組織である政党の党首を選ぶのに秘密主義である必要はないはずだ。誰に投票したか公表することによって恩賞人事や報復が起きる可能性はあるが、自民党議員という政治集団では「誰が誰に投票するか」は最初からおよそ明らかなのだ。記名投票で利益を失うのは面従腹背する者だけだろう。かつてのように派閥の締め付けが厳しければやむにやまれぬ面従腹背も「造反有理」だが、現在は小選挙区制の影響で派閥の力が低下しており、議員はかなり自由に投票できる(麻生氏の健闘にもそれが表れている)のだから面従腹背に積極的な意味を見出すことは難しい。

自民党が「議員投票は秘密投票で行う」と決めたのならそれはそれでいい。無理に公開投票を要求するつもりはない。だが自民党員でも議員でもない一般人が日本テレビによる杉村議員の投票行動公開に憤るのは不思議である。
むしろ情報公開を歓迎すべきではないか。

「正義」の創造

2007年09月22日 | 光市母子殺害事件
私には正義とは何なのかよくわからない。
世の中には「多数派の意見(世間の風)」と正義を同一視しているかのような橋下弁護士のごとき人もいる。私はその手の「世間主義」にはまったくうんざりしているけれど、「それならお前の考える正義とは何だ」と問われてもうまく説明できない。


以前の記事で「弁護団への懲戒請求殺到問題」について書いた。その問題に深く関わる「光氏母子殺害事件」差し戻し控訴審で被害者遺族が意見陳述を行った。

中国新聞ニュース:「供述が真実とは思えない」 遺族に無念と怒り
 光市母子殺害事件の弁護団と、本村洋さんは二十日の公判後、広島市内で記者会見し、五月から三回の集中審理を振り返った。弁護側は「主張が証拠に基づくものと立証できた」と評価し、本村さんは「死刑判決を出してほしいという思いを新たにした」と述べた。

 弁護団は中区の弁護士会館で記者会見。弁護団長の本田兆司弁護士は「事実を証明するために弁護してきたが、主張が証拠に基づき立証できた」と自信を見せた。

 被告を死刑にするよう求めた本村さんの意見陳述に対し、安田好弘主任弁護人は「前提の事実が違う。真実が何かもう一度、知ってほしい」と説明。立証の自信を問われると「100%の立証はできたが、300%の立証ができないと裁判所は認定してくれない。さらに理解を求める」と述べた。

 被告と面会を重ねた今枝仁弁護士は「異常とも言える注目を受け、非難や偏見にさらされ正直つらかった」と心境を吐露。「遺族を傷つけたならおわびしたいが、真実を明らかにするため全力でやってきたことは信じてほしい」と言うと泣き崩れた。

 一方、本村さんは市内のホテルで会見。「被告は水に描くがごとくの発言ばかりで、真実を話しているとは思えない」と疲れた表情をみせた。

 涙を交え謝罪と弁解を繰り返した被告に対し、「検察官の質問には敵意をあらわにし、心から改心している人間と思えない。死刑判決を出してほしいという思いを新たにした」と力を込めた。

 被告が法廷で「生きて償いたい」と訴えたことについては「生きたいと思うのは当然。それでもなお命で償わなければいけない罪の大きさを知ってほしい」と述べた。

 被告が罪と向き合い反省することを常に望んできた本村さん。「二人の命をあやめてまだ反省できないのかと思うと非常に残念。私の気持ちが伝わっていないのかなと思う」と無念さをにじませた。(鴻池尚、門戸隆彦)

私は事件と裁判について語る言葉を持たない。
事実がどこにあるのか、被告に更正の余地があるのか、適切な量刑はどのあたりか、詳しい情報を持たないし正直に言って知りたくもない。おぞましい事件の詳細を追及し判断を下す苦行は司法の専門家たちに任せたい。事実に基づいた厳正な判決が下され、それが被害者遺族と被告の双方が納得できるものであることを願う。

気になるのは「被害者遺族の意見陳述」報道だ。
私の見た限りでは20日のテレビ朝日系「報道ステーション」と日本テレビ系「NEWS ZERO」(ニュースゼロ)がトップニュースとして取り上げていた。特にNEWS ZEROは本村氏の意見陳述を中心に長時間をかけ、最後にはスタジオのタレントが涙ぐんでみせるという演出まで付いていた。「弁護団への懲戒請求殺到」に表れたように世の中には本村氏に強く感情移入している人が多いようである。日本テレビの番組構成はまさに視聴者が望むとおりのものだったのかもしれない。
私にはワイドショーまがいのあざとい視聴率稼ぎに見えた。

あらためて言うまでもなく私は意見陳述を行った被害者遺族を批判しているのではない。あくまでもマスコミの扇情的な報道とそれを受け入れる「世間」のあり方に疑問を抱き、恐れている。
これまでこの裁判について知ることを意識的に避けてきた。知ったところで嫌な気持ちになるだけだし、どうしても知る必要があるとも思えなかった。だが、「弁護団への懲戒請求殺到」事件が起きて「この裁判の周辺でおかしなことが起きているようだ」と思いはじめ、意識してニュースを見ることにした。これまでは「光氏母子殺害事件」のテロップや本村氏の顔が画面に映るとすぐにチャンネルを変えていた。本村氏の話す姿をテレビ画面でじっくり見たのはほとんど初めてである。

これまで本村氏がマスコミを積極的に利用して被害者感情をアピールする姿を見てきて、いや、「見る」というよりは「遠くの視界の隅に入れる」くらいの見方なのだが、ぼんやりした印象を持つようになった。「この人は妻と子のために復讐の鬼になることを選んだのだな」というのがその印象である。本村氏の会見を見てその印象が変わることはなかった。
本村氏がどういう人物なのかは知らない。ヒーローとして心酔する意見も、亡き妻の尊厳を傷つけていることを批判する意見も読んだが、そのどちらが実像なのかわからない。
本村氏がどのような人であるかとは別に、この事件、この裁判において彼は復讐の鬼となることを選んだのだと私は思っている。そしてそれを批判するつもりはない。あれほど無残なやり方で妻子の命を奪われた男が復讐を決意するのは当然だ。私だって本村氏の立場であればそうするかもしれない。

本村氏の行動を批判はしないけれど、彼の意のままに動いているようなマスコミのあり方はどうかしていると思う。NEWS ZEROのような報道はあまりにも感情移入が強すぎて客観性を失っている。裁判で争われるのはまず何をおいても事実であり、法律であり、判例であるはずだ。被害者を無視すべきだとは言わないが、被害者感情の吐露が過半を占める裁判報道が適切とは思えない。


以下は一般論として書く。
犯罪の被害者(遺族)が犯人に怒りを燃やし復讐の鬼となるのは個人の自由だ。権利とさえ言っていい。
だが、報道や世論が「鬼」と化した被害者(遺族)に過剰に感情移入し英雄視する必要があるのだろうか。それが社会の倫理を高め良い方向に導くのだろうか。私にはそうは思えない。
光市の事件だけではなく、北朝鮮による拉致事件でもイラク人質事件でも「被害者(家族)を絶対化する」傾向が一部にあり、嫌な感じがしていた。拉致事件やイラク人質事件の場合は絶対化しようとする勢力に対して反対する勢力があり歯止めとなったが、光氏母子殺害事件の場合は「世間」の被害者遺族への同情・共感・一体化・賞賛・英雄視にとめどがない。

戦後社会はリベラルになり価値相対化され「善と悪」「味方と敵」の区別がしだいにあいまいになった。「日本は常に正義である」とか「自分の仲間(会社・業界・組合)以外は敵だ」といった考え方を維持するのは困難だし、そういった意見を公表すると偏狭と批判される。
だが、光市事件(北朝鮮拉致事件、イラク人質事件)のような「かよわい被害者と凶悪な加害者」の構図は別だ。被害者はあくまでも被害者であり、加害者は加害者である。けっして両者の立場が入り混じることはない。
無関係な第三者(観客)にとって「正義」や「味方」を信頼するよりも「被害者」に同情するほうが安全だ。「正義」はいつ仮面が落ちて醜い正体が明らかになるかわからないし、「味方」は裏切るかもしれない。だが殺人事件や拉致事件の被害者が「実は加害者だった」といったことはまず起こらない。
被害者はいつまでも被害者であり、それに同情する「私たち」(世間)は心優しい人間であり、被害者に同情しない(ように見える)連中は人間の心を失った悪党であり、それを糾弾する「私たち」(世間)は正義の味方なのである。実にすがすがしく単純明快だ。
この明快さ、自らの正しさを疑わない人たちの純粋さが私には恐ろしい。

被害者はあくまでも被害者であり、人々から同情されるべきである。とりあえずそのことに疑問はない。
だが、無関係な第三者が被害者に同情し一体化することによって「正義」をわがものにするメカニズムは恐い。誰がいつそんな力を与えたのかと聞いてみたくなる。あなたたちはもともと単なる観客じゃなかったのか。
例として適当かどうかわからないが、経済における信用創造のメカニズムを連想する。

信用創造 - Wikipedia
銀行は預金を受け入れ、その資金を誰かに貸し出す。その過程で信用創造は発生する。以下は、そのプロセスの例である。

A銀行は、X社から預金1000円を預かる。
A銀行は、1000円のうち900円をY社に貸し出す。
Y社は、Z社に対して、900円の支払いをする。
Z社は、900円をB銀行に預ける。
この結果、預金の総額は1900円となる。もともと1000円しかなかった貨幣が1900円になったのは、Y社が900円の債務を負い返済を約束することで900円分の信用貨幣が発生したことになるからである。この900円の信用貨幣(預金)は返済によって消滅するまでは通貨(支払手段)としても機能する。このことはマネーサプライ(現金+預金)の増加を意味する。

さらに、この後B銀行が貸出を行うことで、この仕組みが順次繰り返され、貨幣は増加していく。このように、貸出と預金を行う銀行業務により、経済に存在する貨幣は増加する。

信用創造のメカニズムを「正義」の創造に置き換えてみる。
  「世間」の善良なる市民は被害者に「共感」のかたちで資本を貸与する。
  被害者は資本を「世間」に還流する(吸収される場合もあり、本村氏のように積極的に増幅する場合もある)。
  「世間」と被害者は資本(共感)を行き来させることによって何倍にも増幅させる。正のフィードバックだ。
  巨大化した資本(共感)はやがて自らの論理で動きだす。
  金が集まるのは価値がある証拠であり、共感が集まるのは絶対的な正しさを意味する。
  金で買えないものはないし、被害者への共感は常に正義である。
  それを疑うものは資本主義社会への反逆者であり、「人として許せない」異常な連中なのだ。

経済学に無知な私には無から有を生み出す魔法あるいはインチキのように思えるが、信用創造のメカニズムは活発な経済活動のため不可欠なものであるらしい。同じように社会において共感を増幅させて「正義」を創造するメカニズムは必要である。誰もが自分のことにしか関心を持たないようでは社会は成り立たない。
だが、信用創造もやりすぎればバブルになるように、共感による「正義」の創造も限度を超えると危険だ。自分たちで作り出した「空気」にやがて縛られることになる。第三者が「当事者の気持ちになって」客観性を失えば合理的な判断をするのは難しい。
さらに共感や「空気」を絶対視するようになると、冷静な態度をとる人を「人の心がない」と罵倒するようになる。こうなると信仰集団と紙一重だ。

20年ほど前に「無から有を生み出した」かのごときバブル景気に浮かれた日本社会は、やがて祭りの後の虚しさを痛感し甘い汁の後の苦汁をなめることになる。現代の「善良なる市民」たち、マスコミやネットで誰かが煽った「共感」をインフレートさせ「正義」の信用創造に手を貸している人たちが先人の失敗(20年前だけでなく70年前にもあったことだ)に学んで現実を見失わず限度を超えないように願う。

根津医師による「代理出産」アンケート

2007年09月14日 | 代理出産問題
いわゆる「代理出産」(私は寄生出産と呼びたい)の問題について批判を続けておられるblueskyblueさんからコメントを頂いた。せっかくなので記事として返信させていただくことにする。

玄倉川の岸辺 代理出産=「寄生出産」 コメント欄
根津医師から届いたとんでもない代理出産アンケート (blueskyblue) 2007-09-14 10:49:20

根津医師から、代理出産に関するとんでもない内容のアンケートが届きました。
詳細は拙ブログに全文を掲載しましたが、これでもなお代理出産したいという人間がいるとしたら異常と言う他ありません。
補償は考えているが、具体的には何も補償策を出さず、代理出産する側が脳内で補完しろということでした。
爺婆が死んでたり、代理出産に家族も文句を言わず、経済的にも豊かであり、出産にまつわるトラブルを家族はサポートしてくれて、挙げ句代理出産して死んだら家族は納得する。
こんな前提なのですが、もはや狂っているとしか思えませんでした。困難な出産を経験した母親として言わせてもらえば、女性を産む機械扱いしているのはまさに代理出産をさせる子宮のない女性、向井亜紀、そして根津医師らの代理出産を推進する人間すべてです。吐き気がします。


根津医師によるアンケートの内容はblueskyblueさんのブログでご覧ください。

 ぶるうすかい blueskyblue の向井亜紀マダム保健室 - 根津医師からの、代理出産に関する異常なアンケート


以下はblueskyblueさんへの返信。

blueskyblueさんこんにちは。
「アンケート」の内容はいかにも根津医師らしいなと思いました。都合の良い仮定で「希望」と「善意」を煽り、結果としてうまく行かなくてもがむしゃらに突き進む。「どんな形であれ女性が子供を産む(産ませる)こと=幸福」という確信というか宗教的情熱に近いものを感じます。

想像したくもないことですが、現実に不幸な事件が起きないと世間は「代理出産」の恐ろしさに気が付かないかもしれません。
少なくとも、ほとんどの人が「代理出産をする人」という言葉を聞いて依頼者(受精卵提供者)のことしか思い浮かばないあいだは無理です。
物理的事実として依頼者は出産しません、死のリスクを冒して出産するのはあくまでも子宮ドナーです。第一の当事者は依頼者ではなく「代理母」なのです。

第三者が「代理出産」の是非について考えるとき

  社会的影響      =4割
  ドナーの安全と幸福 =4割
  依頼者の欲望充足  =2割

くらいの割合であれば冷静でバランスが取れていると思えます。
残念ながら現在の世論多数派(「代理出産」容認派)の感覚では

  依頼者の欲望充足  =7割
  社会的影響      =2割
  ドナーの安全と幸福 =1割

みたいですが。

いくらなんでも根津医師の望むような都合のいい制度ができるとは思えません。その点は楽観視していますが「根津教」の広がりあるいはカルト化を憂慮します。それこそ女性の多様な生き方、幸福のあり方を否定するものです。

夏の終わり

2007年09月12日 | 政治・外交
安倍総理大臣が辞意を表明した。
とにかくびっくりした。藪から水、寝耳に棒である。

安倍氏への批判は内から外から右から左から前から後ろから溢れるだろうから、特に私が付け加えることはない。
いまはただ「何とも勿体ない」と惜しむばかりだ。
これは安倍氏を惜しんでいるのではなく、一年前に存在したはずの「高い支持率・政治への期待」があたら失われたことを嘆いているのである。

安倍内閣が発足した約一年前、マスコミ各社の調査で内閣支持率は70%を超えていた。
私自身は安倍氏の支持者ではないので「安倍氏のどこがそんなにいいんだろう」「なぜこんなに支持率が高いのか」と疑問に抱きはしたものの、知り合いが多額の遺産を相続したときのようなうらやましさを感じた。彼の未来は約束されているように見えた。
ところが、特に大きな失策をしたわけでもないのに安倍内閣の支持率はずるずると下がり続けた。たしかに年金問題は多くの国民の怒りを呼んだが、社会保険庁のいい加減な仕事ぶりは安倍政権のずっと以前から続いていることであり、安倍氏にだけ責任を負わせるのは少々酷である。そのほかには一連の「政治とカネ」問題と閣僚の失言が支持率低下の原因と思われるが、どれも一つ一つを取ればたいしたことのない問題だ。
安倍内閣の支持率低下は、まるで大きな池に満々と湛えられていた水がいつのまにか消え失せたような不思議さを感じさせる。あの水は賢く使えば飲み水にも農業用水にもなったのに。蒸発したのか地面にしみこんだのか、それとも水面と見えたのは蜃気楼だったのか。

高い支持率を生かせず守れなかった安倍氏を批判するのはたやすいけれど、私はむしろ国民の「人気者」に対する期待が安直すぎるのではないかと不遜な疑いを抱く。
恋愛にたとえるならば、一年後にはすっかり冷めてしまうような相手にのぼせ上がるのは若者の特権である。若さも未来も無尽蔵にあると信じられるならひとときの恋に情熱を費やすのも悪くない。
だが、今の日本社会の姿は「楽天的な若者」なのだろうか。むしろ「堅実な中年」に近いのではないか。
成熟した大人、自分の人生を大事に考える成人であればお付き合いする相手は慎重に見極め、後で期待はずれだとわかったときも相手を責めるばかりではなく「自分に人を見る目がなかった」ことを反省するはずだ。誰かに簡単にのぼせ上がり簡単に冷める、そんな安易な恋を繰り返すようでは「いい年をしてみっともない」と顰蹙をかう。

安倍氏の次の総理大臣が誰になるのかわからないけれど、国民の皆様におかれましてはどうか人格識見を吟味して「手のひら返し」せずに済むような堅実な支持(それが低い支持率であっても)を与えていただきたいと願う。

書きたくはない

2007年09月11日 | 光市母子殺害事件
ちょっと憂鬱である。
ブログに書きたくないことが溜まってしまった。
「書きたいことが溜まる」「書きたいことがない」という状態は普通だが「書きたくないことが溜まってしまう」のはめずらしい。
ちっともうれしくない。

書きたくないなら書かなければいい、というのはもちろん正しいけれど、古人曰く、「物言わぬは腹膨るる業なり」とか。モヤモヤした嫌な感じは固めて外に出さないといつまでも残る。
いったい何のことかといえば、「光市母子殺害事件弁護団への懲戒請求殺到」問題だ。

中国新聞ニュース:懲戒請求4千件超える 光母子殺害のTV発言波紋
 光市の母子殺害事件の差し戻し控訴審で、被告の元少年(26)の死刑回避を訴える弁護士への懲戒処分請求が四千件を超える「異常事態」になっている。きっかけは、橋下徹弁護士(大阪弁護士会)のテレビでの呼び掛けとされ、元少年の弁護団のうち四人が橋下弁護士に損害賠償を求め提訴。弁護の在り方をめぐって、刑事とは別の法廷で、弁護士同士が全面対決することになる。

 橋下弁護士は、五月二十七日放送の「たかじんのそこまで言って委員会」(読売テレビ)で「あの弁護団に対してもし許せないと思うなら、一斉に懲戒請求をかけてもらいたい。弁護士会としても処分を出さないわけにはいかない」と発言したという。

 放送後、広島を始め各地で弁護団メンバーへの懲戒請求が相次いだ。日弁連によると、七日昼までに十弁護士会、四千二十二件に達した。昨年一年間の全弁護士への申し立てが千三百六十七件で、突出ぶりがうかがえる。

 今枝仁弁護士ら元少年の弁護団側は訴状で「広範な影響力を持つテレビを通じて不特定多数の視聴者になされた発言。専門家による正しい知見であると認識されやすく、極めて悪質だ」と指摘。

 これに対し、橋下弁護士は、五日に記者会見し「世間は弁護人が被告を誘導して主張を変えさせたと思っている」とした上で「『刑事弁護はここまでやっていいのか』と思えば弁護士会への信用は損なわれる」と反論した。自ら懲戒請求しなかったことは「世間の感覚で出してほしかった」と説明した。

 今枝弁護士は「刑事弁護活動には、社会に敵視されても被告の利益を守らなければならない困難を伴う」と話している。

 最高裁判決は、本村弥生さん=当時(23)=の殺害、乱暴について「乱暴するため殺害を決意した」と認定。元少年も一、二審で殺意や乱暴目的を争っていなかった。

 しかし、広島高裁の差し戻し控訴審で、二十二人の新弁護団は「殺意はなく傷害致死にとどまる」と主張し、元少年も「甘えたいと思い抱きついた」と法廷で供述。死亡後の乱暴は「復活の儀式だった」との説明に、夫洋さん(31)は「聞くに堪えない」と憤りをあらわにした。

 ▽自ら傍聴の努力を 一審から公判の傍聴を続けている作家佐木隆三さんの話

 わたし自身も差し戻し控訴審で弁護団が主張するストーリーはあんまりだと思っている。しかし法廷を自分の目で見た上で、物書きとして原稿を書き批判している。今回、橋下弁護士はなぜ自分で懲戒請求をしないのか。テレビでけしかけるようなやり方には賛成できない。弁護団を許せないという意見も多いだろうが、自分で傍聴する努力もせずにテレビの情報だけで懲戒請求をしたという人がいたとすれば情けない。


「光市母子殺害事件の弁護団」については以前にも書いたことがある。

  社会主義的弁護士を望むthessalonike2氏
  「弁護」の意味を知らないthessalonike2氏

読み返してみてそれほど変なことを言ってなかったからとりあえず安心した。
ただ、「「弁護」の意味を知らないthessalonike2氏」で

あの事件の弁護士たちのやっていることは「被告人の人権の擁護」というより自分たちの死刑廃止論のアピールだ。

と断定したのは軽率だった。
弁護団の一員である今枝弁護士のコメントを読み、「死刑廃止論のため裁判を利用している」という憶測に根拠がないと納得したので批判を撤回する。
私自身は漸進的な死刑廃止論者であり、国民の多くが「死刑を廃止しても問題ない」と思う日が来ることを願っている。だが残念ながら光市事件弁護団の手法は(弁護人の義務への誤解が原因とはいえ)死刑廃止論への反発を生んでおり、「これでは逆効果だ」という苛立ちからつい八つ当たりしてしまった。
イデオロギーのためでなく職責として困難な任務を遂行している弁護士の方々にお詫びする。申し訳ありません。


ここまでの文章で私の「モヤモヤした嫌な感じ」の対象が光市事件の弁護団でないことは明らかだが、それならいったい誰に・何に対して不快感を抱いてるのか。
とりあえず「嫌な感じ」をキーワードにして並べてみた。

  ・ 「相手の立場に立って考える」
  ・ 世間主義

  ・ 死者の威を借りる生者

  ・ 批判と「黙れ!」の違い
  ・ 論理的な過ちの指摘と「人として間違っている」論
  
  ・ 弁護人の義務と「人として」論
  ・ 「正義の味方」と「法秩序の執行者」

  ・ リーガルマインドとプロフェッション

  ・ 光市殺人事件弁護団懲戒請求と「代理出産」
  ・ 「かわいそう」は無敵
  ・ 実感思考とシステム思考


一つひとつが私にとって難しい。実は「プロフェッション」という言葉の意味からしてよくわかってない。頭を振り絞って書いても結局は誰かの二番煎じか「意余って力足らず」になりそうだ。
ついでに気が重くなる理由を並べてみる。

  ・ こんなこと書かずに済めばその方がずっと幸せだ
  ・ そもそも自分には司法制度について知識がない
  ・ 特定の「悪党」を叩けばスッキリするような問題ではない
  ・ 何百万何千万人という「善良な一般人」を批判してもまさに蟷螂の斧
  ・ 「善意の人たち」の「純粋な怒り」を向けられるのが鬱陶しい
  ・ 人情の薄い奴だと思われたくない
  ・ 書いても楽しくなさそう
  ・ その他いろいろ

ますますモチベーションが下がった。
キーワードを見て何かを感じた方がおられたらご自分のブログなどで考察してくれないものか。誰かが「わが意を得たり!」という文章を書いてくれたら自分で書かなくて済むのに。
そんな虫のいい話はないか。
これまでブログをやっていて「書きたかったことを誰かに先に書かれて悔しい」と思ったことはあるけれど「自分の思っていることを誰か代わりに書いてほしい」と願うのは初めてだ。

北極星の孤独

2007年09月05日 | 日々思うことなど
誰もが知っているあの星、世界でただ一つの偉大な星は、孤独な星だった。


星新一 一〇〇一話をつくった人


「ショートショートの神様」星新一の今のところ唯一の伝記。
読み終わって思わず大きな溜息をついた。
星さんの作品の半分以上は読んだはずなのに、自分は星さんのことを何も知らなかった。
読書の楽しみを教えてくれた恩人に「ありがとうございました」の一言も伝えられなかったくやしさと申し訳なさ。
物理的な厚み(約560ページ)はもちろん、精神的にも重さを感じる本だった。

あなたは北極星という星があることをご存知だろうか。
…と、聞いてみることさえ馬鹿らしい。
誰もが小学校の理科の時間に教わったはずだ。アークトゥルスやプレアデス星団の名前を知らない人はいても北極星を知らない人はいない。常に天の北極近くにあり、何千年、いや何万年ものあいだ旅人や航海者を導いた。
だが、実際に晴れた夜空の下で「北極星を指差してください」と言われたとき自信を持って答えられる人はどれほどいるだろう。私も調べたわけじゃないので本当のところはわからないが、たぶん正解率は半分以下だろうと思う。

  1. 北極星は天の中心にあるように思われているが、実は1度ほどずれた位置にある。北極星は空白(目に見えないような小さな星はあるが)の周りを回っている。

  2. 北極星はそれほど明るい星ではない。2等星であり、天空で一番明るい星であるシリウス(-1.5等)の25分の1の明るさだ。

  3. 北極星は孤独な星だ。所属するこぐま座には北極星より明るい星はない。おおぐま座やカシオペア座のように誰もが形を描ける星座ではない。


北極星の唯一性、知名度の高さと孤独さを、つい星さんの姿に重ねてしまう。
日本SF界の綺羅星を従える天の中心であり、多くの教科書に掲載される国民的作家、ショートショートの神様の名をほしいままにしながら、晩年は充分な名誉と尊敬を与えられない空しさと淋しさを感じていたようだ。
特に直木賞を強く望んでいたという。昭和35年下半期の直木賞候補になったものの残念ながら落選している。当時は安倍公房に比されることもあり、「新しい文学」の旗手として周囲から期待され自負もしていたようだ。それがいつのまにか「平易でわかりやすい」星さんの文章が「子供向けの軽い読み物」と誤解され、比類ない知性とユーモア、ニヒリズムが注目されなくなってしまった。
直木賞はともかくとして(筒井康隆も小松左京も山田正紀も神林長平もとってない)、大いに星さんのお世話になったSF界から賞が贈られていないのは淋しい。日本SF大賞にも星雲賞にも無縁だった。没後の98年に日本SF大賞特別賞を贈られているが、なぜ生前にできなかったのだろう。あまりにも偉大なので賞を差し上げるのはおこがましい、という意識があったのかもしれないけれど、受賞者一覧の中に星さんの名前がないのは不思議だ。

「SF界は星さんの功労に報いることが少なすぎた」と批判する私自身も、恩知らずの一人である。
83年に「ショートショート1001編」の偉業が達成されたとき、私は小遣いの多くを早川SF文庫と創元推理文庫SFシリーズに費やすSFファンの端くれだった。もちろん星さんの作品集の多くを(ほとんど文庫本で)そろえ、何度となく読み返している。80年代まで間違いなく星新一は日本のSFファンの基礎教養だった。
そんな私も、「1001編達成」のニュースを聞いたとき「すごい偉業だ」「星先生おめでとうございます」と喜びはしたものの、「どうしても読みたい」「読まなければ」と感じることはなかった。実際に読んだのかどうか覚えていない。原稿を受け取った編集者たちでさえ「1001編」の内容を覚えていなかったそうであり、特に印象に残るような作品群ではなかったのだろう。
「1001編」達成時すでに星新一の作家として力量が衰えていたことは否定できない。だがそれにしても、星さんの偉大な業績に目に見える形でSF界が応えることがなかったのはあまりにも残念だ。自分自身ハガキ一枚であってもファンレターを書いておけばよかったと悔やまれる。

「星新一 一〇〇一話をつくった人」の最終章から引用する。

 ぼくはサービスしすぎたかな―――。
晩年の新一が親しい編集者の前でしきりに口にしていた言葉だ。生前最後のショートショートとなった「担当員」(「小説現代」平成五年一月号)にも、「おむかえの係」に対して主人公が「サービスの、しすぎかもしれない」とつぶやく場面がある。
 幼いころから作家を目指していたわけではない。はじめからショートショート作家になろうとしていたわけでもない。直木賞候補となった年のインタビューでは、「ぼくはショート・ショート作家のレッテルを張られてしまったが、こんなブームはすぐ終わるでしょう。そしたら、本格的なものを書きますよ」(毎日新聞、昭和三十六年五月二十日夕刊)と語り、いつでもショートショート以外の「本格的なもの」長編小説でもなんでも書けることを示唆していた。
 ただ、世間はそうはさせなかったし、新一もまたショートショートに自分の居場所を確保した。やがて競争相手がだんだんいなくなり、自分の専門のようになってしまい、なおさらショートショートを書き続けた。(中略)あるときから、ショートショートを書き続けることは自分に課せられた逃れようのない宿命となり、責務となっていった。
(中略)
 乱歩が危惧した「量」が、新一を追い込んだ。「量」に目を奪われれば奪われるほど、「質」は曇り始めた。だが、人々が「量」を求め、新一もまた「量」が自分の存在理由だと考えた以上、途中で放棄するわけにはいかなかった。
 一〇〇一編達成は大きな節目となるはずだった。新一から親一への帰還、である。
(中略)
 しかし、新一は親一に戻ろうとして戻りきれない。戻りたくなかったし、戻れなかった。読者はいつまでも新一であることを要求し、何より新一自身がさらなる延命を欲した。一〇〇一編の業績が単なるギネスブック的な記録ではなく、文学的評価を得ていたならば、これまでの苦行の日々も報われたろう。賞賛の証ひとつで、人は人生を肯定的に総括できるはずである。表舞台から身を引いても安らかな余生を過ごすことができただろう。だがそれは、叶わなかった。一〇〇一編後も新一の「サービス」は続いた。(p529-531)

ここに書かれているように「ショートショート1001編」をなしとげてなお晩年の星さんには満たされない思いがあったのか。ファンの一人として信じたくはないが、それを否定することもできない。
私はただ10年後、20年後、いや100年後にも星新一の作品が読み続けられていることを願い、それを信じる。宇宙ステーションや火星で「おーい でてこーい」や「午後の恐竜」「処刑」を読み「20世紀の作品とは思えないほど新しい」と感激する読者がいることを疑わない。

星先生、どうか安らかにお眠りください。


以下は断片的に。

「星製薬の御曹司」という血筋の意味が昭和30年代まで大きかったことに驚いた。
私にとっては「星新一の父がやっていた会社」という認識しかないが、戦前は武田製薬や田辺薬品に並ぶ大手製薬会社だった。「作家・星新一」のデビューから新人時代にかけて「御曹司」の輝きが有形無形の助けになったのだろう。

父の急死で会社を引き継いだ星製薬社長時代、必死にあがいて悪戦苦闘していたのかと思っていたら案外そうでもなかったようだ。もちろん心労は激しかっただろうが「なにふりかまわず」という感じではない。考えてみれば、星さんは真珠湾攻撃のニュースを聞いたとき「これで受験科目から英語が外れる」と直感した(そして東大農学部に合格した)ほどの人である。状況判断と自己の能力の見極めが鋭い。星さんには会社の先行きに望みがないこと、自分に経営の才能がないことは明らかで、がむしゃらに頑張ることなど無意味としか思えなかったろう。

星新一には時代小説を集めた作品集がある。「殿さまの日」と「城のなかの人」の2冊だ。どちらも星さんらしい独自の視点と軽やかな文章が楽しく、何度となく読み返した。だが星さんに「時代小説のイロハを教えた」のが池波正太郎とは思いもよらなかった。池波さんのしわの多い風貌と星さんの童顔を思い浮かべると対照的である。だが、じつは生年月日でいえば3年8ヶ月ほどしか離れておらず、ほぼ同世代なのだ(池波=23年1月生 星=26年9月生)。

 「事前に何も聞かされていない池波は、新一からの予想外の質問の数々に困り果てた。二百三十年近く戦乱のなかった江戸時代の殿様は、いったいどんな一日を過ごしていたのか。微に入り細を穿ち、根ほり葉ほり、意外なことばかり聞いてくるのである。
 起きたら殿様はまずなにをするのか。伸びたヒゲは誰が剃るのか。寒い冬は火鉢に手をかざすのか。夏は扇子で涼をとるのか。武器庫の点検は毎日やるのか。借金でつぶれた藩はあるのか。幼児の死亡率が高いが、当時の子供観はどうだったのか。世代間の断絶はあったのか。今とどのように違っていたのか。十両盗めば首がとぶというのにおもしろ半分の泥棒がたくさんいたのはなぜなのか……。
 池波は戸惑いながらもあれこれと資料を調べつつ応じた。」(p415-416)

星さんのいかにも「若旦那」らしい遠慮のなさ、それに誠実に応える職人のような池波さんの優しさ。実に絵になる、魅力的な交流である。