玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

「愚民」とか「B層」とか

2009年08月31日 | 政治・外交
台風が接近するなかで行われた選挙も無事に終了した。まずはめでたい。
永田町には一足先に巨大台風が上陸した。民主党308議席、自民党119議席。まさかの結果というべきかマスコミの予測どおりというべきか。

当選した候補者の方々、おめでとうございます。日本のためにがんばってください。
落選した広報車の方々、おつかれさまでした。
民主党と支持者のみなさん、悲願の政権交代がかなってさぞうれしいことでしょう。お祝い申し上げます。
自民党と支持者のみなさん、選挙の勝敗は政治家の倣い、いさぎよく敗北を認めて捲土重来をめざしましょう。「勝負は時の運」とも申しますが、運や「マスコミのせい」だけでは説明できない有権者の怒りや不満を肌で感じたことと思います。石破茂氏のように、自民党政治の何が間違っていたのか、何が足りなかったのか真面目に反省してください。

前の選挙で自分が何を言っていたのか、2005年9月のログを見てみたけれどとりあえず赤面するようなことは書いてなかったので安心した。
河村たかしとかタイゾー君とか麻生太郎とか、私が「面白いキャラクターだな、応援したいな」と思った政治家はどうも世間の受けが悪いようだ。日本人はあまりにも真面目すぎる、このままでは日本はつまらない国になってしまう… などと「社会が悪い(自分は賢い)」系の慨嘆をしてもしょうがないので、「自分の好みが偏っているか応援が足りなかったのだろう」と思って無理やり自分を納得させる。

明日は投票日 - 玄倉川の岸辺
選挙の結果がどうなるかは分からないが、有権者の多くが望んだものなのだから民主主義国における「正しい」選択なのであり、それが自分の意に沿わないものだとしても天命として受け入れるしかない。すでに投票前から世論調査を見て有権者をバカ呼ばわりしているコラムニストやら「有識者」がいるが、烏滸の沙汰である。
そんなことに費やすエネルギーがあれば自分たちの敗因を分析して次回選挙の勝利のために役立てればいいのに。
いや、そもそも彼らはまだ負けてさえいないわけだが。

4年前に書いたことだが今回もそのまま使えそうだ。
私は選挙で負けた側が有権者を馬鹿にしたり罵倒したりするのが嫌いで、なんとも卑怯で恥知らずな態度だと思っている。どうやら前回選挙ではその手の負け惜しみが多かったらしい。特にアンチ小泉・自民党の人たちが「B層」なる言葉を「愚民」の言い換えとして使う例が目立った。実にくだらないことである。
思い切りおおざっぱな言い方をすれば、有権者の半分は「平均以下」に決まっている。知能や収入だけでなく、背の高さとか体重とか容姿とか学歴とか読書量とか運動能力とかどんな指標を持ってきても、たいていの場合はおおむね正規分布に沿って「半分は平均以下」になると思っておけば間違いない。
政治にマニアックな興味を持っていろんなことを言いたがる人は「自分は世の中のことが(政治家より・一般の有権者より)よくわかっている、ひとかどのものであるぞ」という意識があるはずだ。そういう人が自分の意に沿わない投票行動をした人を見るとバカみたいに思えるのは仕方がない。なにしろ政敵の支持者の半分は「平均以下」なのだから、バカにする相手には事欠かない。「あいつらはバカだ(俺は利口だ)」と吹聴したくなるのもわからなくはない。
だがそれは「地球といいながら表面の半分以上は海じゃないか!」と嘆いてみせるのとかわらない。地球表面積の70%が海であるのも、「有権者の半分は平均以下」なのも、もともとそういうものなのである。「金持ちにも貧乏人にも一票、利口者にもバカにも一票」というのが普通選挙の本質だ。「愚民」やら「B層」を諸悪の根源と決め付けて嘲笑しても何も始まらない。

投票所という神殿(その2)

2009年08月27日 | 政治・外交
麻生総理の「金がないなら結婚しないほうがいい」発言について書こうかと思ったけどとりあえずやめた。なんだかキナ臭い匂いがする。本気で怒っている人がずいぶんいるらしい。地雷原注意、くわばらくわばら。
私は結婚したいとかできるとか思ったことがないので、怒っている人たちの気持がよくわからない。「麻生さんの真意はたぶんこうだから、そんなにカッカして叩くことないんじゃないの?」などとうかつに擁護すると自分も地雷を踏んでしまいそうだ。基本的な価値観(結婚や政治的態度)について逆鱗に触れると恐ろしいことになる。
逆鱗に触れた一例として、「無駄だから選挙に行かない」と書いたブログへの批判を見てみよう。

選挙には行かない - TAKUYAONLINE
はてなブックマーク - 選挙には行かない - TAKUYAONLINE

続・選挙には行かない - TAKUYAONLINE
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元の記事について特に感想はない。正直言ってちゃんと読む気もしない。「あなたの理屈には興味ないけど、要するに棄権するってことですね」と思うだけだ。ところが、はてなブックマークでは批判的なコメントが山のように付いた。冷静な忠告というより感情的な拒否、ほとんど罵倒とか人格否定に近いものもある。「棄権する」と言っただけでこんなに叩かれるなんてちょっぴり気の毒に感じてしまった。ただの棄権に四の五の理屈つけて正当化したからいけないのか、真面目に投票に行く人をバカにしたのが悪いのか。批判する人の気持もわからなくはないが、これではほとんど民主主義信仰、投票の崇拝だ。
以前にも投票行為の崇拝について「ちょっと変だなあ」と思い記事を書いたことがある。

投票所という神殿 - 玄倉川の岸辺
投票率向上を呼びかけるポスターなんかに「あなたの一票が日本を変える」といった言葉が書かれているが、20年以上も生きていれば自分の「一票」が大河に加わる一滴の雨粒程度の意味しか持たないことはいやでも思い知らされる。
結果の見えない接戦ならまだしも、どの党が勝つか、誰が当選するか初めから分かっている選挙でわざわざ投票に行く動機を見つけるのは難しい。
(中略)
現代社会における「投票」の意味とは、ローマの皇帝崇拝のように「社会への服従を形式によって示す」行為じゃないかと思う。
いつも真面目に投票に行く人はアナーキストでもテロリストでもないだろう(たぶん)。己が小さな砂粒に過ぎないことをわきまえ、直接の利益がないことを承知しつつ、少なからぬ時間と労力を使って投票所に足を運ぶのはまさに「議会制民主主義」の神殿への礼拝だ。
幸いなことに現代の日本では棄権したからといって闘技場でライオンと戦わされることはないが、ブログで「投票に行く気がない」と書くと生真面目な議会制民主主義信者から批判されることになる。


二年前の記事だけれど、今読み返してもぜんぜん意見が変わってなかった。進歩してないな俺。
言いたいことはだいたい書かれているので、あらためて繰り返す必要はないだろう。戦前・戦中の日本で御真影(天皇の肖像写真)に恭しく頭を下げたように、現代日本の善良な市民はまちがっても神聖なる選挙をバカにしてはいけないのである。私も善良なる市民の端くれだから、いや中身はともかくなるべくそう見てもらえるように装っているので、もちろん「選挙って大事だよね、私もあなたもみんな投票しよう!」と言います。

信仰告白を済ませた後で、損得の面から他人の棄権について考えてみよう。
2000年の衆院選挙で当時の森喜朗総理は「無党派層は寝ていてくれればいい」と発言して大いに顰蹙を買った。民主主義のチャンピオン(擁護者)たるべき総理大臣としてあるまじき言葉なのは間違いないが、自民党総裁として党利党略を考えれば合理的である。
自分以外の有権者が「仲間・味方」であれば戦場(投票所)に駆けつけて力を貸してほしいし、「敵方」なら戦意を持たず家でおとなしくしてくれたほうが好都合だ。

「棄権する」と言った誰か(仮にA氏とする)を叩くということは、その人が自分に味方する、少なくとも刃を突き刺してくるような敵ではない、と期待しているのだと思う。でもちょっとそれは虫が良すぎる。もちろん憲法で秘密投票が保障されているから、誰に(どの党に)投票しようとA氏の勝手であり縛ることはできない。とはいえ、今行われている選挙のように情勢が一方的であれば「統計的にみて有権者の過半数は民主党支持だから、棄権を表明したA氏も民主党に入れる確率が高い」と推定するのは合理的だ。私が民主党支持者なら「歴史的選挙なのに棄権するなんてとんでもない!棄権する奴は責任感のないクズだ!」と煽る。投票を呼びかけるのは立派なことだけれど、動機としては森本首相の「無党派層は寝ていてくれればいい」と同じである。
仮に私が某カルト政党が大嫌いであり、自分の選挙区でカルト党の候補者が当落線上にいるとしよう。そのとき私はカルト党の支持者集会を見て「この人たちが全員投票してほしい」と思うだろうか。はなはだ怪しい。むしろ「集団食中毒か何かで全員棄権してくれたらいいのに」などと良からぬことを考えそうだ。そんな状況でも自分の利害を二の次にして「誰もが投票してほしい」と願うのは生真面目な民主主義信者だけだろう。

今の感覚からすれば意外に思われるだろうが、棄権が無責任ではなく意識の高さ、政治的プロテストと賞賛されたころがあった。戦後長く続いた「自民党一党独裁」時代のことである。
自民党政権は保守的なサイレントマジョリティに支えられて磐石を誇っていた。プロ野球でジャイアンツがV9を飾り、実力でも人気でも他のチームを圧倒していたのと重なる。社会党を中心とした野党勢力は「アンチ自民」のインテリ層と労組などの組織票が頼りで、投票率が低ければ低いほど有利になる状況だった。まさに「無党派層は寝ていてくれればいい」である。
まともに力勝負をしたら勝ち目がないから、野党支持者がサイレントマジョリティ(自民党支持者)に対して「選挙なんてダサい、どうせ結果は見えてるんだから、日曜日にはもっと楽しいことしようぜ!」と呼びかけるのは理にかなっている。私もおぼろげに覚えているが、悪びれずに「投票なんて行きません」と言い切る若者がカッコよく見えた時代が確かにあった。

私は民主主義の支持者として有権者の政治意識や投票率が高まることを願う。
だが個人の棄権に対して「けしからん」と怒る気にはなれない。棄権を含めた個人の自由を尊重するのも大事だ。先人が苦労して勝ち取ってくれた貴重な権利を無駄にする愚か者を吊るし上げるよりも、自分の一票をどう使うか考えたほうが前向きである。みなさん選挙に行きましょう。

そのうち何とかなるだろう

2009年08月26日 | 政治・外交
決戦は日曜日、4年ぶりの総選挙。
でもあまり何か言いたい気分にならないのはなぜだろう。

「勝負が見えてる」
どの選挙予測を見ても民主党が圧勝するらしいし、無理やりこじつけて「潮目が変わった」と言いたがる変な人も見かけない。それぞれの選挙区では好勝負とか人間ドラマが見られるのだろうが、選挙情勢全体としてはそれほど面白い見ものではない。

「スター不在」
郵政選挙は小泉選挙でもあった。小泉が動けば政治が動き選挙が動いた。
政治家としての評価、人間としての好き嫌いは人それぞれだが、特異なスター性(カリスマ)を持っていたことは誰もが認めざるをえない。今回の選挙は麻生自民党と鳩山民主党の対決で、どちらも毛並みのいいお坊ちゃま、大富豪である。キャラクターとしては麻生氏が露悪的、鳩山氏が夢想的だけれど、私には違いより似ているところが目立つ。コントラストがはっきりしないから対決の構図も盛り上がらない。天衣無縫で峻厳冷酷な小泉とひたすらまじめな岡田という前回選挙のほうがシャアとアムロみたいで絵になった。イカンザキとか太陽神とかのネタキャラ(失礼)もいたし。

「浮かれるマスコミ」
私はアマノジャクなので、スポーツイベントでも芸能ネタでも政治問題でもマスコミが盛り上げようとすればするほど冷めてしまう。前の選挙のときは「小泉嫌い、なんとか足を引っ張りたいけど小泉ネタだと視聴率が取れる」というマスコミのツンデレ的ジレンマが面白かったけれど、今回は「歴史的選挙」に手放しで浮かれているようである(最近テレビの政治報道を見ないのでよく知らないが)。往来でベタベタするバカップルみたいで嫌だ。

Meine Sache ~マイネ・ザッヘ~: 勝利に酔いしれるマスコミ
選挙というものがムードに左右されるのは仕方のないことで、古くはマドンナ旋風が吹き荒れたり、新党ブームに沸いたり、むしろムードに流されない選挙はありませんでした。小泉旋風もムードで、今回もムードです。

しかし特にムード性の強い前回と今回の選挙におけるマスコミの役割は180度違います。4年前の郵政選挙では、マスコミは意志を持たない拡声器にすぎませんでした。しかし今回はマスコミの意志こそすべてであり、個々の政治家や政党など、その駒にすぎません。

今回の選挙の勝者は民主党ではありません。マスコミです。

昨日紹介した朝日新聞の天声人語は、「久しぶりに、いや初めて『歴史』に関与している感慨を覚える」と書いていましたが、恐らくこれは誇張ではなく本音です。今マスコミは、高揚感に浸っているのです。4年前の雪辱を果たし、自らのペンとカメラで民心を操り、うだつの上がらない政党に大勝利をもたらした自らの力に酔いしれているのです。

「自民党の劣化」
私は前から麻生ファンなので心情的には応援したいのだけれど、どうも「なんか違う」と感じることが多くてしらけてしまう。具体的には民主党へのネガティブキャンペーンとか右傾化(真正保守念仏)だ。国旗切り貼り問題なんてそんなにこだわるようなネタじゃなかろうに(話のマクラに使うだけならいいけど)。

なんかつまんねーなー盛り上がらないなーとぶつくさ言ってたら、生粋さんが私の思っていることをすっかり書いてくださった。

生粋の気が向いたら書く日記
 来週の選挙
 酷いアジビラ
 国民は愚民か否か

民主党はあてにならないし自民党は劣化一直線。4年ぶりの選挙なのに期待より不安のほうが強く、季節は夏なのになぜか冷たい風が吹く。本当にこれでいいのだろうか。いや、ダメだバカだと言ってもしょうがないので、とにかく今の民意とか政治とかはこういうものだと認めたうえでなんとかかんとかやっていくしかない。「ゼニのないやつぁ俺んとこへ来い 俺もないけど心配すんな みろよ青い空白い雲 そのうちなんとかなるだろう」


YouTube - だまって俺について来い ハナ肇とクレイジーキャッツ [STEREO]

「フレフレ少女」見たよ

2009年08月24日 | テレビ鑑賞記
投票日まで一週間切ったし選挙のことでも書こうかなと思ったけど、いろいろめんどくさいのでフレフレ少女について。
おもしろかったよフレフレ少女、かわいいよ素敵だよガッキー。

「フレフレ少女おもしろかった」とか言うと目の肥えた映画好きの方々から白い目で見られそうですが、うるせーんだよオタクどもが!ひとさまの好みにケチつけるんじゃねえ!…などとキレるのも暑苦しいので普通に言い訳します。映画館で1800円(だっけ?)払って見たら腹立つだろうし300円でビデオ借りたとしてもその金で「ドロリッチ買って喜んで飲んだらカロリーが気になって一時間ジョギングしたら汗だくでシャワー浴びたら気持いいぜ」体験したほうが満足感高そうだけどつまり要するに夏の夜にテレビで見て暇つぶしするにはうってつけのアイドル映画としてたいへん結構でした。

この映画がどういう経緯で作られたものなのかぜんぜん知らないけれど、「ガッキーの学ラン姿が見たい!」というマニアックな誰かの欲望をかなえるためだと考えるとストンと腑に落ちるし、その誰かさんはすごく正しい!先見の明がある!あんたはエラい!と賞賛するのにやぶさかでない。以下ストーリーとか設定とか無視して新垣結衣さんのコスプレ映画として論じる無礼をどうかお許しください(誰に謝ってるんだ)。

画面に最初に登場したガッキーは女子高生ということでセーラー服を着ているのだけれど、正直言って微妙である。私はこの映画の存在をこれまでテレビCMだけでしか知らず、ガッキーの年齢(撮影当時20歳)とか雰囲気からして大学の応援団の話なのかな?と思っていた。まさか女子高生で攻めてくるとは思わなかった。無理があるだろjk
新垣結衣さんは顔立ちも「かわいい」というより「すっきりした美人」であり、なにより手足がすらりと長い。セーラー服を着て教室で座っているよりスーツ着てメガネかけて教壇に立つほうが似合ってる。メガネ…美人教師…タイトスカート…いやいやそれはエロすぎだから!ガッキーアイドルだから!まったく男って奴はバカでスケベだから困る(って自分だろ)。

「なんだかなあ」と思って見ていたセーラー服はあくまでオードブルで(贅沢だなー)、この映画の本質はあくまでも学ランガッキーにある。ところがガッキーはなかなか学ランを着てくれない。ほのかな恋とか仲間集めとか地獄の合宿とか応援団精神とかどうでもいいから早くしろ早く。ガッキーの入浴シーン(といっても顔だけ)を忘れずに入れた製作者のサービス精神は高く評価できる。

汗と涙の応援団合宿でがんばったガッキーは暑苦しい先輩(内藤剛志)に認められて団服、つまり学ランを手渡される。よくがんばったガッキー、こぶしを握り締め目に涙を浮かべて応援していた私(嘘)も感動した。だから早く学ラン姿を見せてくれ。ちなみに、学ラン授与の儀式は二代目スケバン刑事が暗闇指令からヨーヨーを手渡されるシーンのオマージュである。     (←信じるなよ!)
学ラン姿のガッキーは期待にたがわずよく似合っていてカッコいい。素敵だ。やはりアイドル映画はコスプレしてなんぼである(セーラー服を含む)。ガッキーのセーラー服姿を微妙にしていた要素、つまりスッキリした美貌や手足の長さが学ランにピタリと決まって見映えがする。うる星やつらの竜之介とか「鈴木くんと佐藤くん」(変)の佐藤藍子とか、学ラン美少女は何人かいたけれどガッキーはそのすべてを超えた。ガイアがガッキーに輝けと囁いている。

学ランガッキーに大満足してその後のストーリーはよく覚えていない。というかクライマックスで野球部が勝とうと負けようとどうでもいい。あくまでも応援団(とガッキーコスプレ)の映画なのだから。むしろライバル校の応援団長が見せる硬派ぶりとか応援団文化のほうが面白かった。今でもあんなに気合の入った硬派がいるのだろうか?絶滅危惧種に指定してただちに保護すべきだ。私が高校生のころ(大昔)にはすでに応援団は「モノズキな連中だなー」と憫笑されていたように思う。自分も体育会とか硬派とか苦手な軟弱者だったので「ダサい、野蛮だ」と決め付けていた。だが今になってみると硬派の文化というのそれはそれで味わい深い。ヤンキー文化の源流としてシーラカンスとかオオサンショウウオのような存在感がある。応援団はたぶん旧制高校から続く日本独自のものなのだから、硬派一直線の高校生は自分は伝統文化の担い手なのだという誇りを胸にひたすら男磨きにはげんでいただきたい。

ばなな居酒屋論争(バナナ大戦編)

2009年08月23日 | 日々思うことなど
「全てを破壊し、全てを日本社会劣化論で繋げ!」「スピリチュアル?10年早ぇよ!」

「スーパー銭湯の世界」
「新幹線の世界」
「スーパーマーケットの世界」
「高級ブランド店の世界」
「中華料理店の世界」
「一つ星レストランの世界」
「病院の世界」
「家電配送業者の世界」

そして「チェーン居酒屋の世界」
9つの世界を巡ってきた「世界の破壊者」仮面ライダーバナナの旅もいよいよ最終章へ!
ついに勃発するバナナ大戦!
真の敵は誰だ?
最後に生き残るのはどのバナナだ!?




ディケイドを見ていない人にはぜんぜんわからないネタでごめんなさい。ディケイドとよしもとばななはぜんぜん関係ないけど「最初は期待されたのにどんどん駄作化」とか「通りすがった先でゲストキャラを道具扱い」とか「独りよがりな主人公」とか「○スボスが本人」とか似ているところも多い気がする(こじつけ)。

ネタ元
劇場版仮面ライダーディケイドみてきた. - triggerhappysundaymorning
あまりにもグダグダ! 映画『仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー』 - 俺の邪悪なメモ


シリーズ化して何度も書いてきた自分が言うのもなんだが、ばなな居酒屋論争の「事件」そのものは本当につまらないことである。社会にも、それどころか当の居酒屋にも実害はほとんど(まったく)なかった。たぶん居酒屋の店長は事件そのものを覚えていないと思う。酔った客がトラブルを起こすのは日常茶飯事だし、ばなな氏の文章を信じれば「みな怒るでもなくお会計をして店を出た」のだからむしろ物分りのいいお客さんである。「ばかみたいにまじめな」店長さんも、ネットで騒ぎになっていることを知ったらさぞ驚くだろう。

私にとって尽きせぬ興味を与えたのは、どうでもいいつまらない「事件」がなぜこれほどまでに多くの人の関心を集め、怒りに火をつけ、語りたい欲望を掻き立てるのかということだ。
最近マスコミやネットで超新星級の輝きを放った大事件といえば酒井法子覚醒剤問題である。この事件も今のところ社会への実害はほとんどない。CM契約していた企業や出演作がお蔵入りになったテレビ局映画会社レコード会社はお気の毒だが、一般人には関係ない話である。
ところが、4年ぶりの総選挙とか水害とか生活の根幹に関わる大問題よりも、シャブPのりP問題のほうがずっと話題性が高い。おもしろくて話し出したらやめられないとまらない。これを安っぽい野次馬根性とか愚民化とか批判するのは簡単だけれど、私は「人間ってあんまり合理的にできてないな、そこが面白いな、不思議だな」と思うのである。

前の記事でばなな居酒屋論争に火がついた理由を人の心の中にある「ズルさセンサー」の働きとして説明(妄想)したけれど、これって要するに「みんなをムカつかせたから叩かれた」ということである。わざわざ理屈を付けて説明(?)する必要はなかったのかもしれない。
だが、パソコンの調子が悪いときただ「具合が悪い、変だ、ダメなパソコンだ」と悪態をつくだけではつまらない。自分なりに調べて「グラフィックドライバーが悪さしてる」とか「メモリーが足りない」とか原因を探るのが面白い。デバイスマネージャーを開いたり、イベントビューアを眺めたり、さらには物理的にケースを開けてケーブルやコンデンサを確認したり。メカニズムやシステムの働きをすこしでも理解して説明できるようになると、自分がなんだか利口になったような気がする(たぶん勘違い)。

私は最近「心のモジュール論」とか「怒りや喜びのスイッチ」とか社会心理学的な考え方に興味を持っていて、世の中のいろいろなことに当てはめてみたくなる。のりP事件はともかく、麻生総理と自民党の不人気ぶりとか、惨敗必至の自民党がどんどん右翼イデオロギー色を強めている理由とか、もっともらしく楽しく説明できたらいいなと思っている。ただ思っているだけで考えるのがめんどくさくなったら投げ出す予定だけど(ダメすぎ)。

バナナ居酒屋論争(ズルさセンサー編)

2009年08月22日 | 日々思うことなど
暑い夏をますます(局地的に)熱くしたばなな居酒屋論争。
私の最初の見立てでは「ばなな氏が叩かれるのは間違いないけれど、『お客様は神様』意識をもった人たちが店長を批判するだろう」「7:3くらいで議論が分かれるんじゃないか」と思っていた。ところが、2ちゃんねるでもあちこちのブログでもばなな叩きが圧倒的だ。たぶん95%くらい。ばなな惨敗。

この問題(というほど大げさなものじゃないが)の本質は日本人誰もの中にある「甘え」と「真面目」の対立だと以前に書いた
今もその見方は変わっていないのだけれど、圧倒的なばなな叩きが起きたからといって「クソ真面目でつまらない奴が多すぎる」などと批判するつもりはない。いくら世の中が世知辛くなっても(だからこそ?)「甘えたい気持」は残り続ける。ばなな氏を批判している人も、実は心の中に「甘え」を少なからず隠しているに違いない。ばなな批判が圧倒的になったのは、ばなな氏の文章によって読者の心のスイッチがバタバタと動かされ、「真面目」回路に大量の電流が流れただけだと思う。ちょっと状況や報告者の態度が違えば、読者の「甘え」回路に電流が流れて「融通の利かない居酒屋けしからん!」という叫びがこだましただろう。

それでは「真面目」回路に大電流が流れたのはなぜだろうか。
いきなり話は大きくなるが、数十万年に及ぶ人間の心の進化に理由があると思う(マジで)。
とはいっても、私は生物学も心理学も何も知らない素人である。以下に書くことはあくまでも素人のたわごとと思って読んでください。

人間の心とは、ひとつのCPUですべての情報処理が行われる単純なメカニズムではなく、特定の働きをする「モジュール」がたくさん組み合わさってできている。

心のモジュール性 - Wikipedia

たとえば遺伝的欠陥や頭部の怪我で「顔認識モジュール」が損なわれた患者は、他の知的機能は健在なのに家族の顔も見分けられなくなる。計算モジュールが働かなくなると一桁の足し算もできなくなり、空間認識モジュールが弱ると方向音痴になる。
人間は社会的動物だから、心の「モジュール」のなかには社会の中で生きていくのに必要な機能を果たすものがあるはずだ。私は「ばなな居酒屋論議」のなかでひとつの心理モジュールが重要な働きをしたと思う。それは誰かのズルい行動や考えかたを見とがめる「ズルさ検出モジュール」である。

問題にされたエッセイのなかで、ばなな氏は居酒屋における自分たちの行動を正当化しようとしている。そして要求を拒んだ店長をバカ扱いし、クビになるだろうとか店がつぶれるだろうとか書いて貶めている。
自己正当化自体は、それこそ誰もが毎日やっていることである。ばなな氏の文章が一見して公正だとか無理もないとか共感を呼ぶものであれば何も問題はなかった。ところが、ネットで紹介されたとたんにばなな氏の評判は炎上した。なぜか。
ばなな氏の文章の底に、通奏低音のように「ズルさ」が鳴り響いているからだ。
この間東京で居酒屋に行ったとき、もちろんビールやおつまみをたくさん注文したあとで、友だちがヨーロッパみやげのデザートワインを開けよう、と言い出した。その子は一時帰国していたが、もう当分の間外国に住むことが決定していて、その日は彼女の送別会もかねていたのだった。
 それで、お店の人にこっそりとグラスをわけてくれる? と相談したら、気のいいバイトの女の子がビールグラスを余分に出してくれた。コルク用の栓抜きはないということだったので、近所にある閉店後の友だちの店から借りてきた。
 それであまりおおっぴらに飲んではいけないから、こそこそと開けて小さく乾杯をして、一本のワインを七人でちょっとずつ味見していたわけだ。
 ちなみにお客さんは私たちしかいなかったし、閉店まであと二時間という感じであった。
 するとまず、厨房でバイトの女の子が激しく叱られているのが聞こえてきた。
 さらに、突然店長というどう考えても年下の若者が出てきて、私たちに説教しはじめた。こういうことをしてもらったら困る、ここはお店である、などなど。
 私たちはいちおう事情を言った。この人は、こういうわけでもう日本にいなくなるのです。その本人がおみやげとして海外から持ってきた特別なお酒なんです。どうしてもだめでしょうか? いくらかお金もお支払いしますから……。
 店長には言わなかったが、もっと書くと実はそのワインはその子の亡くなったご主人の散骨旅行のおみやげでもあった。人にはいろいろな事情があるものだ。

ばなな氏は自分たちのワイン持ち込みが立派なことでも正しいことでもないと知っている。だから「こっそりと」「気のいいバイトの女の子」にグラスを頼み、「こそこそ」飲んだのである。他に客はいなかったとか言い訳も並べている。店長が注意しに来たときも後ろめたさを感じていた。だから低姿勢で持ち込み料を払うと言ったり、「事情」を並べて弁解するのを避けたのだ。
ここまではいい。この程度のことなら「ズルさセンサー」が反応しない人も多いだろう。ばなな氏が「考えてみれば自分たちのやり方はまずかった、今後気をつけよう」と終わらせていればネットでけたたましい警報音が鳴り響くことはなかったはずだ。

ところが、ばなな氏は店を出たとたんに後ろめたさを忘れてしまう。いや、「後ろめたさを感じたこと」を屈辱としてすべての責任を店長の愚かさと日本社会の劣化に押し付ける。見事な手のひら返しだ。だがあまりにも都合が良すぎた。バナナの皮が滑る!
ここで、読者の心の中で予備的な警戒情報(「この人はズルい」)を出していたズルさセンサーが最大出力でアラームを鳴らす。ジリリリリリ…!
なんてことだ!これはひどい!恥知らずな!鏡を見てみろ!お前はズルい奴だ!!!


あくまでも形式的に考えれば、バイトとはいえ店員が一度黙認した持ち込みを店長が出てきてひっくり返すというのはけしからんことである。従業員教育がなってないと声高に批判することもできる。だが、実際には「店長けしからん」の声はばなな批判の陰にすっかり隠れてしまった。それはばなな氏の「ズルさ」の邪悪な輝きが圧倒的で、店長のミスや心得違い(あったとして)が昼間の星のように目立たないからだ。

自動販売機が故障していれば、それは設置者の責任だ。「金を入れたのに商品が出てこない」という客の抗議は大いに同情される。
それなら、ズルい客が自販機が故障しているのをいいことに不正に商品を引っ張り出そうとしたらどうか。「自販機が故障しているのが悪い」という言い訳は通じない。盗人猛々しいと呼ばれて大いに軽蔑されるのがオチだ。
ばなな氏の主観としては「金を入れたのに商品が出てこない」と抗議したつもりだろうが、ばなな居酒屋事件を知ったほとんどの人が「自販機の故障に付け込んでズルしようとした奴」としか見てくれなかった。私はそれも当然だと思う。
ズルさセンサーの感度と警報音の大きさはまことに恐るべきものである。これを「正義感」とか「公平の観念」とかきれいな言葉で表現したら迫力が伝わらない。子供が物心付いて「お兄ちゃんのケーキのほうが大きい!ズルい!」と抗議するときから偉大なるズルさセンサーは働き続けている。


参考 「安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方」 山岸俊男

ばなな居酒屋論争(その3)

2009年08月21日 | 日々思うことなど
まだまだ続くばなな居酒屋論争。
読者もいい加減うんざりしているだろうが、私も「ばななファンでも居酒屋好きでもないのになんで何回も書いてるんだろう」と思う。野次馬根性なのは間違いないけれどそれがすべてではない。私の琴線に触れる何かがあった。それは何かというと…

その前に、これまで書いたことの修正と補足をしておこう。
「ばなな 居酒屋 持ち込み に一致する日本語のページ 約 71,700 件」と書いたけれどこれは早とちりでした、ごめんなさい。Google様は賢くて親切なので、「ばなな」と「バナナ」を表記の揺れとみなして両方まとめて検索してくれる。結果として「バナナパフェが名物の居酒屋さん」みたいな情報も検索結果に含まれてしまう。
「"ばなな" 居酒屋 ワイン 持ち込み」で検索するとヒット数は「約 14,300 件」となり、こちらのほうが実態に近いはずだ(それにしてもすごい数だが)。

「持込を認めるのも認めないのも店の勝手」と書いたけれど、これは都会で客が自由に店を選べる場合の話である。小さな町でたった一軒の居酒屋が独善的な経営方針だと困る。客の多くが「持ち込み料払うから認めてほしい」と思ってるのに「絶対ダメだ」とがんばるのも変だ。そのあたりは柔軟にお願いしたい。

さて話を元に戻して。
私がばなな居酒屋論争に興味を持つ理由は、たぶん「城内・眞鍋ポスター事件」と同じだ。ばなな氏と城内氏は一見ぜんぜん似ていないけれど、私の目には彼らの本質がそっくりなのが見える(見間違いかも)。

気の毒な眞鍋さん、愚かな城内氏
勇敢な眞鍋さん、情けない城内氏
勇敢な眞鍋さん、情けない城内氏 (その2)
勇敢な眞鍋さん、情けない城内氏 (その3)
勇敢な眞鍋さん、情けない城内氏 (その4)

城内氏は「信念を貫く男」を自称する政治家である。
眞鍋かをりさんを自分と並べたポスターを作ろうと思い立ち、仲介者を通じて許可を取る(取ったつもりになる)。
眞鍋さんは「ポスターのことは何も聞いていない、特定の政治家を応援するつもりはない」と抗議する。
城内氏は「許可を得ている」と言い張って突っぱねる(後に「芸能活動に支障をきたしていることに大変心を痛めて」ポスター撤去)。
城内氏への批判が高まった後でようやく言い訳がましい謝罪をする。
「ポスターを貼る前になぜ眞鍋さんにお礼をしなかったのか(そうすれば行き違いが明らかになったのに)」とか「応援メッセージは誰が捏造したのか」といった重要な疑問には知らぬふり。



よしもとばなな氏は「人が幸せで喜ぶようなことに向かって、それを当然だと思っている感じ」をもって、「他人の善を信じた上の融通」を利かせることが当たり前の世の中を作りたいと願う作家である。
たまたま友達と一緒に入った居酒屋で持ち込んだワインを飲もうと思い立ち、気のいいバイトの女の子に融通を利かせてもらう。
後で知った店長は「持ち込みは認められません」と注意する。
ばなな氏は「特別なお酒なんです。どうしてもだめでしょうか? いくらかお金もお支払いしますから……。」と粘る。
持込が認められなかったばなな氏は店を出て路上で楽しくワインを回し飲みする。
「もしも店長がもうちょっと頭がよかったら、私たちのちょっと異様な年齢層やルックスや話し方を見てすぐに、みながそれぞれの仕事のうえでかなりの人脈を持っているということがわかるはずだ。」「多分あの店はもうないだろう、と思う。店長がすげかえられるか、別の居酒屋になっているだろう。」とサービス業論・居酒屋経営論をぶつ。
「三十四歳の男の子が『まあ、当然といえば当然か』とつぶやいた」のを見て「いいときの日本を知らないんだなあ。」と慨嘆。


ご立派な理想と対照的な身勝手さ。
本来許可を取るべきタレント本人や店長を避けて、都合のいい相手(仲介者・バイトの女の子)を利用する虫のよさ。
既成事実(貼り出されたポスター、開けられたワイン)を作ってゴリ押ししようとするやり方。
自分の行動が顰蹙ものだと自覚していないところ。
ばなな氏と城内氏はまるで双子のようにそっくりだ。
なによりも癇に障るのは、ばなな氏と城内氏が他者のポリシーをちっとも尊重していないことである。
ばなな氏は「持ち込みは認められない」というお店(店長)のポリシーをまったく理解しようとしない。「いったい何のきりなのかよくわからないが」と太平楽にのたまうだけで、作家の商売道具である想像力をちっとも使わない。kd1さん(「ロックンロールに蟀谷を」)の想像力に完全に負けている。

「人にはいろいろな事情があるものだ」というくせに自分の事情のみを判断材料に加えておくれとな - ロックンロールに蟀谷を

城内氏も眞鍋さんの「特定の政治家を応援するつもりはない」というポリシーを踏みにじり、「取ったつもり」の写真使用許可を盾にとってゴネた。自分の信念を大事にするのは結構だが、他者には人それぞれ別の信念があると判らない政治家は存在自体が迷惑だ。

よしもとばなな氏が「『人が幸せで喜ぶようなことに向かって、それを当然だと思っている感じ』をもって、『他人の善を信じた上の融通』を利かせることが当たり前の世の中」を作りたい」と思っているのだとしたら、そのこと自体はたいへん結構である。だが、目の前にいる居酒屋の店長とか配送業者とかの事情をまったく配慮せず、馬鹿だアホだキチガイだかわいそうな人たちだと罵るだけでは「人に優しい世の中」ではなく「自分に優しい世の中」を望んでいるとしか思えない。
「まず貝より始めよ」 …じゃなくて「隗より始めよ」ということわざもあるが、よしもとばなな氏はご立派な理想を掲げて日本社会を説教する前に、自分自身が甘ったれたバナナ(スピリチュアル風味)にすぎないと自覚したほうがいい。

ばなな居酒屋論争(その2)

2009年08月20日 | 日々思うことなど
これまで2回「ばなな居酒屋事件」について書いてきたけれど、「多くの人がひとこと言いたくなるのは日本人の甘えとクソ真面目という特性が表れた事件だから」とか「人気作家のばななが叩かれてチェーン居酒屋が支持されるのはちょっと意外だ」といった周辺の話ばかりで、事件そのものについて語るのを避けてきた。

まず、事件そのものはひたすらいじましくてしょうもないことだから。
そして、自分の思うようなことはたいてい誰かが書いているから。
なによりも、「そのとき、その場で何が起きたのか」ちっともわからないから。

「『何が起きたのかわからない』って?よしもとばななが詳しく書いているじゃないか!」とお思いになる方も多いだろう。私も素直にうなずきそうになるが、本当にそうなのだろうか?
ばなな氏は偶然事件を目撃した第三者ではなく、まさに揉め事の当事者である。当事者による一方的な状況説明は事実というよりその人の「言い分」と思ったほうが間違いない。ばなな氏を真似れば「人にはいろいろな言い分があるものだ」。
当事者の言い分であっても、その人が自分に厳しく公平で客観的なものの見方をする人であればかなり信用できる。それでは、よしもとばななとはいったいどういう人なのだろう。
ばなな氏が公開している日記を見れば彼女の人間性の一端がうかがえる。ありきたりの常識に縛られず、自分自身の感性を大事にする芸術家だということがよくわかる。ばなな氏の素敵な日常をご紹介しよう(from 2ちゃんねる)。

スーパー銭湯に刺青隠さずに入ろうとしたら止められた。潰れるように呪いをかけた。 2001.11.07
後日談:友達なら止められた時に待ってくれるべきだろ、もうお前ら絶交な。2001.11.09

新幹線で自分の子供が騒いでたら注意された。日本終わったな。 2006.07.07
後日談:注意したのは榎木孝明のマネージャー、おめーだよ。覚えてるからな。2008.04.19

スーパーで注意してたのに子供が騒いでたら白い目で見られた。日本出て行くから別にいいけど。2007.03.11
家具を注文して設置の手配はしていなかったけど、クレーム出したらなんとかしてくれた。日本はアフリカ以上にいいかげん。2007.06.20
Via Bus Stop開店5分前に店に入ろうとしたら怒られた。この店もフランスみたいになったね。2009.02.23
39度の熱が出たので救急車呼んだら怒られた。看護婦はクソババー。 2009.05.06
運送業は自分の頭で考えない。生きがいを感じることのできない仕事。 2009.08.04

日記の表題は2ちゃんねらーが付けたもので、かなりの悪意が込められている。とはいえ、表題を差し引いてもばなな氏の武勇伝はインパクト抜群だ。「常識に縛られず、自分自身の感性を大事にする芸術家」と書いたけれどそれは言葉の綾で、正直に言えば「非常識で自己中心的な人だなあ」と思った。たぶんほとんどの人がそう感じるだろう。
「事件」を描写したばなな氏の文章はあくまでもよしもとばななの主観であり、出来事や登場人物には濃いばなな色のフィルターがかかっている。フィルターを外さなければ事実について何もわからないとさえ言える。

それでは具体的に「事件」について見てみよう。以下はじっぽさん(活字中毒R。)による引用を参考にしている。

まず、「初めて入った居酒屋で持ち込んだワインをこっそり飲んでいたら店長にとがめられた」という全体的な状況はそのまま認めていいだろう。疑う気になれば「この話全体がフィクションじゃないか」とも言えるが(なにしろ小説家である)、わざわざこんな情けない話を作る理由は思いつかない。どうせ話を作るならもうちょっとカッコいい話にするだろう。
 それで、お店の人にこっそりとグラスをわけてくれる? と相談したら、気のいいバイトの女の子がビールグラスを余分に出してくれた。コルク用の栓抜きはないということだったので、近所にある閉店後の友だちの店から借りてきた。
 それであまりおおっぴらに飲んではいけないから、こそこそと開けて小さく乾杯をして、一本のワインを七人でちょっとずつ味見していたわけだ。
 ちなみにお客さんは私たちしかいなかったし、閉店まであと二時間という感じであった。

気のいいバイトの女の子は本当に気がいいだけなのだろうか。どうもあやしい。
私には女の子が「ちょっと異様な年齢層やルックスや話し方」で「かなりの人脈」を持っていそうなばなな氏一行に気圧されて、ほとんどおびえた気持で「これ以上文句言われませんように」と祈りながらグラスを出したような気がしてならない。本当にあつかましい人は自分のあつかましさに気が付いていないことが多い。「親切な店員さん」が実は「困ったお客さんだ」と思いながら嫌々笑顔を作っているだけ、という話はよくある。
「お客さんは私たちしかいなかった」のに「こそこそ」していたのは、店に対してやましい気持を表している。ばなな氏一行は「気のいいバイトの女の子」を利用してグラスを手に入れたけれど、ちゃんと店の許可を得たわけではない。だから、その点で店側の手落ちを責めるのはちょっと無理がある。
厨房でバイトの女の子が激しく叱られているのが聞こえてきた。

ばなな氏の日記を見れば、彼女の表現がいろいろと大げさなのがわかる。「ありえないほど」とか「ものすごく」とか「涙がでるほど」といった大仰な言葉の延長として「激しく叱られている」という表現がある。私にはこの描写はあまり信用できない。
 さらに、突然店長というどう考えても年下の若者が出てきて、私たちに説教しはじめた。こういうことをしてもらったら困る、ここはお店である、などなど。
 私たちはいちおう事情を言った。この人は、こういうわけでもう日本にいなくなるのです。その本人がおみやげとして海外から持ってきた特別なお酒なんです。どうしてもだめでしょうか? いくらかお金もお支払いしますから……。
 店長には言わなかったが、もっと書くと実はそのワインはその子の亡くなったご主人の散骨旅行のおみやげでもあった。人にはいろいろな事情があるものだ。
 しかし、店長は言った。ばかみたいにまじめな顔でだ。
「こういうことを一度許してしまいますと、きりがなくなるのです」
 いったい何のきりなのかよくわからないが、店の人がそこまで大ごとと感じるならまあしかたない、とみな怒るでもなくお会計をして店を出た。そして道ばたで楽しく回し飲みをしてしゃべった。

ばなな氏はいかにも自分たちが冷静だったように書いているが、ビールを「たくさん注文」したり持ち込んだワインを「味見」していたのだからアルコールが入っていたのは間違いない。私の想像では、「たくさん注文」したビールをぐいぐい飲んでかなり出来上がっていたのではなかろうか。身勝手な人と同じく、酔った人ほど「自分は素面だ」と言いたがるものだ。
店長の年はそれこそどうでもいい話である。ばなな氏は40過ぎなのだから居酒屋の店長が年下であって何の不思議もない。わざわざ「どう考えても年下」と描写するあたりにばなな氏の年下を軽んじる意識が見える。
持ち込み自体の是非については「店による」としか言いようがない。個人的には持ち込み料をとればいいんじゃないの、と思うけれど、不正な持込を事後承諾させるような小ずるいやり方は認められない、という考えかたもわかる。
店長の「説教」や「ばかみたいにまじめな顔」もどこまで本当なのかわからない。ばなな氏がそう感じたことは事実としても、冷静な第三者が見ていれば「店長さんは丁寧に店の事情を説明し、愛想良く『持ち込みはご遠慮くださいね』とお願いしていた」と言うかもしれない。「都会のチェーン店」で店長を任せられるくらいであれば、最低限の接客技術は身につけているはずだ。

あるいは、店長はばなな氏一行を「この店にそぐわない客」と判断して二度と来ないようにわざと不快な対応をしたのかもしれない。大声でバイトを叱るのも、客に説教するのも、「お前らもう来るな」という強い意思の表現だとすればそれなりに合理的だ。「居酒屋で土曜日の夜中の一時に客がゼロ、という状況」はもしかしたらばなな氏一行が原因かもしれない。彼らの「ちょっと異様な年齢層やルックスや話し方」を不快に感じたほかの客が早々に店を出たり、入り口から一歩入って引き返した結果が「お客さんは私たちしかいなかった」だと考えるとつじつまが合う。
 もしも店長がもうちょっと頭がよかったら、私たちのちょっと異様な年齢層やルックスや話し方を見てすぐに、みながそれぞれの仕事のうえでかなりの人脈を持っているということがわかるはずだ。それが成功する人のつかみというもので、本屋さんに行けばそういう本が山ほど出ているし、きっと経営者とか店長とか名のつく人はみんなそういう本の一冊くらいは持っているのだろうが、結局は本ではだめで、その人自身の目がそれを見ることができるかどうかにすべてはかかっている。うまくいく店は、必ずそういうことがわかる人がやっているものだ。
 そしてその瞬間に、彼はまた持ち込みが起こるすべてのリスクとひきかえに、その人たちがそれぞれに連れてくるかもしれなかった大勢のお客さんを全部失ったわけだ。
 居酒屋で土曜日の夜中の一時に客がゼロ、という状況はけっこう深刻である。
 その深刻さが回避されるかもしれない、ほんの一瞬のチャンスをみごとに彼は失ったのである。そして多分あの店はもうないだろう、と思う。店長がすげかえられるか、別の居酒屋になっているだろう。
 これが、ようするに、都会のチェーン店で起こっていることの縮図である。

ばなな氏の居酒屋マーケティング論については「ご立派ですね」という感想だけにしておきたい。
顧客ターゲティングとか成功哲学とかギョーカイ人の人脈自慢とか、突っ込みどころはいくらでもありそうだが、私には知識もないし何よりめんどくさい。店長や居酒屋チェーン経営者の立場はいざ知らず、私が一人の客として思うのは「ちょっと異様な年齢層やルックスや話し方」で「かなりの人脈」をひけらかしたがるような手合いがたむろする居酒屋は願い下げだ、頼まれても行きたくない、ということだけである。
ばなな氏は件の居酒屋の未来を「多分あの店はもうないだろう、と思う。店長がすげかえられるか、別の居酒屋になっているだろう。」と予想している。予言が当たったのかどうか知るよしもないが、彼女がたいへん不快な経験をして「はやくつぶれるといいな、と小さな呪いをかけ」たスーパー銭湯は評判もよく繁盛しているようだ。結構なことである。

ばなな居酒屋論争

2009年08月19日 | 日々思うことなど
ばなな居酒屋問題がネットで燃え広がっている。すでにちょっとした事件といえる。

よしもとばななさんの「ある居酒屋での不快なできごと」 - 活字中毒R。
はてなブックマーク - よしもとばななさんの「ある居酒屋での不快なできごと」 - 活字中毒R。
痛いニュース(ノ∀`):「私が人脈持ってる人間だとわからないの!?」…吉本ばなな氏のエッセイを紹介したサイトが話題に
J-CASTニュース : ワインの居酒屋持ち込みはあり? ばななエッセイに賛否両論
livedoor ニュース - "わたしには人脈があるの"! よしもとばななの一言がネットで炎上!

ばなな 居酒屋 持ち込み - Google 検索

「ばなな 居酒屋 持ち込み に一致する日本語のページ 約 71,700 件」。びっくりである。
しょうもない話だから最初に話題となったはてな内だけで終わるだろう、と思った私はカルーアミルクよりも甘かった。前の記事で「はてな限定」とか「小町化するはてな」とか言ってごめんなさい>はてなの人たち

「事件」そのものについては、割とどうでもいい。誰もが納得するような正解は多分ないし、それでちっともかまわない。
それぞれの居酒屋が持込を受け入れる(拒否する)度合いが10段階で1~10のどのレベルであっても営業の自由だ。客は自分の好みやそのときの事情に合わせて店を選べばいい。今回の悲劇(?)は店と客のマッチングがうまく行かなかったことに尽きる。
「誰が悪い」論争はおいといて、個人的に興味深かったことを書く。

● 論争になるかと思ったらバッシングになった
よしもとばななといえば海外でも名の知られた人気作家である。女性を中心に熱心な読者も多い。 …と思っていた。
ばななファンの人たちが無理やりにでも居酒屋事件を擁護して一歩も引かず、あちこちで議論が起きるのかと野次馬根性で期待していたけれど、意外にもばなな氏を庇う声はほとんど聞かれずバッシングになった。そういえば、最近よしもとばななの小説が話題になった覚えがない。
私はよしもとばななの本を一冊も読んだことがないので、彼女の作家としての価値はわからない。
だが、ばなな氏は公式サイトを持っていて、そこで日記を公開している。言ってみればブロガーである。
私もブロガーの端くれとして言わせてもらえば、ばなな日記の文章はずいぶんひどい。とても有名作家が書いたものとは思えない。私がRSSリーダーに登録している一般人や芸能人のブログ日記のほうがよほどいい。ああいう駄文を垂れ流していれば、かつてのファンがばななバッシングに対抗して戦う気力をなくしても無理はない。

● チェーン居酒屋に集まる支持
「ばなな氏は悪いけど、堅物の店長も感心しない」という喧嘩両成敗的な意見がかなり出てくるかと思ったらそうでもない。むしろ「マニュアル通りにやった店長は正しい」的な支持のほうが多い。ちょっと意外だ。
居酒屋に何年も行ってない私が言うのもなんだが、「チェーン居酒屋」という業態は世間で愛憎入り混じった視線で見られているのかと思っていた。ばなな氏じゃないけれど「融通が利かない」とか、「実はそれほど安くない」「料理がまずい」「サービス悪い」とか、「従業員をコキ使ってる」とかいった悪い印象を抱く人もいるはずだ。ばななファンではなくて「アンチチェーン居酒屋」の人たちがばなな側に立って居酒屋批判をするかと思ったら、そういうことは起きなかった。意外に愛されてるなチェーン居酒屋。
ばなな氏のクレームを改善のヒントに生かして…的な意見をいくつか読んだ。

お客様を見るか、利益を見るか - タケルンバ卿日記
居酒屋業界の人達が、今回の「ばなな祭り」にヒントが隠されている事に気づいているのかな - 煩悩是道場

それぞれごもっともではあるけれど、「ばななバッシング・チェーン居酒屋支持」のネット世論を見ると、むしろばなな氏みたいに面倒な客を切り捨ててサービスのマニュアル化を徹底するほうがビジネス的に「正解」なのかなという気がする(居酒屋に行かない自分が言っても説得力ないけれど)。

「無邪気」な日の丸切り貼り

2009年08月18日 | 政治・外交
民主党が国旗を切り貼りして党旗を作ったそうだ。

日の丸党旗:民主新人の後援会が謝罪 党本部は厳重注意 - 毎日jp(毎日新聞)
 鹿児島県の民主党集会で日の丸を加工した「党旗」が掲げられた問題で、民主新人の後援会が18日、「誠に不適切だった」との謝罪文を発表した。候補には党本部から厳重注意があったという。

 この日、同県霧島市内であった出発式で新人候補は「第一声」の冒頭「事務所の不手際で支持者、関係者に多大な迷惑をかけた。岡田(克也)幹事長からも口頭で厳重注意があり、今後このようなことがないよう細心の注意を払う」と謝罪した。

 文書では、8日に同市の集会で「党旗」が掲げられた経緯を説明。支持者が日の丸を裁断し縫合して持参したものとし、「国旗の尊厳をおとしめる意図は全くなかった」と釈明している。


腹が立つというより情けなくなる。
特に疑う理由はないから、「国旗の尊厳をおとしめる意図は全くなかった」という民主党の説明はそのまま受け入れよう。だが、「意図は全くなかった」という無自覚にかえってヤバさを感じてしまうのだ。
ナショナリズムというのは国民をまとめるのに役立つけれど、同時に物の見方が狭くなったり外国嫌いに結びつきやすい危険性を秘めている。政治的・社会的に取り扱い注意の劇物だ。だが、無邪気に日の丸を切り貼りした民主党支持者も、それが壇上に大きく掲げられることに疑いを持たなかった候補者も、どちらもナショナリズムのシンボルを取り扱う注意深さに欠けていた。大まかに言って有権者の半分は平均より「右寄り」なのだ。切り貼りされた日の丸は右側の人たちを無用に怒らせ、民主党への信頼を損なうだけである。

1854年「日の丸」が日本国共通の船舶旗(日本惣船印)に選ばれたのは島津斉彬の進言によるものだそうだ。

日本の国旗 - Wikipedia
島津斉彬が進言した理由は、俗に鹿児島城内から見た桜島から昇る太陽を美しく思い、これを国旗にしようと家臣に言ったといわれている。

これは私の想像だが、鹿児島には「日の丸」に郷土の誇りを重ねて思い入れの深い人も多いのではないか。「日の丸切り貼り」は鹿児島の歴史や県民感情の点から見ても愚かなことだった。

とはいえ、新人候補の地方集会でのミスを民主党全体の問題のようにあげつらうのも大げさだ。鳩山代表は謝罪し岡田幹事長も厳重注意しているのだから、右のほうの人たちや自民党(支持者)は深追いしないほうがいい。あまりこだわると「戦前・戦中の御真影じゃあるまいし」と冷たい目で見られることになる。たかがシンボルされどシンボル。たしかに国旗の切り貼りはよろしくないが、モノをカミとして祀り上げるのも感心しない。