玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

いまさら「ダ・ヴィンチ・コード」

2008年08月29日 | 本の感想
「ダ・ヴィンチ・コード」がベストセラーになったのは2004年だからもう4年前になる。
なんだかダメな臭いがしたのでずっと食指が伸び動かなかったのだけれど、このあいだ図書館で見かけて借りてみた。

ルーブル美術館のソニエール館長(実は秘密結社「シオン修道会」最高幹部)が閉館後の館内で射殺されるのが小説の発端となる。この殺人事件とダイイング・メッセージからしてコケおどしだ。
対立するカルト教団の暗殺者がとどめを刺そうとしないのが間抜けだし、撃たれた老人があんなに回りくどくて滑稽なダイイング・メッセージ(ウィトルウィウス的人体図の実演)をとっさの機転で残すなんてバカらしいにもほどがある。あまりにもアホ臭いので暗殺者と撃たれた側がグルなのかと思ったらそうじゃなかった。
警察の捜査が始まり、主人公のラングトン教授が現れるがこいつが作者の操り人形、個性も魅力もありゃしない。お話が面白ければ主人公がデクノボウでも気にならないが、残念なことにそうではない。「ハーヴァード大学宗教象徴学教授」という肩書きだがその地位に見合う知性は見せてくれない。雑多な知識の断片を小出しにするだけだ。
主人公の仲間は二人、フランス警察の女性捜査官(暗号の専門家)ソフィーとイギリスの宗教学教授ティービング。
ソフィーも個性が薄いが、美人という設定なのでまあいいや。エンターテインメントには色気が必要だ、特につまらない小説には彩りがあったほうがいい。といっても、エロチックなシーンはない。
ティービングはいちばん個性がある。十字軍の昔から続く秘密結社「シオン修道会」の研究者(というよりマニア)であり、爵位を持つ大金持ち。この爺さんが実質的な主人公といっていい。

敵はカトリックの伝統主義的な一派「オプス・デイ」の指導者と修道僧。小説中でオプス・デイは狂信的カルトとして描かれており、これはてっきり作者の創作なのだろうと思ったら実在する教団だった。こんな書き方をして作者は名誉毀損で訴えられなかったのだろうか。
オプス・デイ代表アリンガローサは例のごとく個性が薄いが、冒頭の事件で暗殺者となる修道僧シラスは特異な性格と容姿だ。カルト教団の狂信者であり、先天性色素欠乏症で白い髪と赤い瞳を持つ。内側に棘の付いた皮ベルトを身に付け、痛みをこらえ血を流して神の救いを求める。
シラスの設定はこのように魅力的なのだが、どうも期待したほどに活躍してくれない。アルビノであることも狂信者であることもストーリー中で生かされない。スター・ウォーズのエピソード1で魅力あるダース・モールがいまひとつ活躍せず、騒がしいだけのジャー・ジャー・ビンクスがヒーロー扱いなのを思い出してしまった。EP1を見た観客の9割は「ダース・モールは生きろ、ジャー・ジャーは死ね」と思ったはずだ。

ルーブル美術館館長暗殺事件はラングトンに濡れ衣が着せられそうになる。そこにソフィーが現れて半ば無理やり逃亡させる。実はソフィーは館長の孫娘であり、祖父からシオン修道会の運命を託されていたのだ。彼女にはラングトンの助けが必要だ。
…このあたり(全体の5分の1くらい)からいよいよダメ臭が強くなってくる。なんだか行き当たりばったりで、太古から続く秘密結社の凄みが感じられない。こんな間抜けなシオン修道会ならとっくの昔に滅び去っていただろう。

ルーブルを脱出したラングトンとソフィーはソニエールの隠した「聖杯」へと導く鍵を手に入れ、ティーピングに頼る。その後は要するにマクガフィンをめぐる追いかけっこ。
驚いたのは追いかけっこばかりの一日でストーリーが決着すること。「ダ・ヴィンチ・コード」という題名から重厚な作品なのかと思ってたのでがっかりした。これは私が勝手に期待したのが悪いので、単なるオカルト風味の「24」だと思えば腹も立たない。
そう、まさに「24」風味なのである。壮大なお話のように見せかけて実はハリボテ、「ガジェットを撒き散らしてにぎやかにすればお客は喜ぶだろう」という作り手の割り切りが見える。「よくできたエンターテインメント」と言うこともできるし「所詮エンターテインメント」とけなすこともできる。私の場合「24」は最初からエンターテインメントと思ってみたからそれなりに楽しめたが(パート2でうんざりして見るのをやめた)、「ダ・ヴィンチ・コード」には「薔薇の名前」のような重厚さを期待したので肩透かしを食った。

そういえばテサロニケ大先生が「ダ・ヴィンチ・コード」について書いていた。

世に倦む日日 : 『ダ・ヴィンチ・コード』 (1) - 方法としてのインディジョーンズ
ところが実際に読んでいると、叙述と描写がプリミティブと言うか、表現や筆致に何となく成熟した印象を受けないのである。文章に奥行きと味わいがない。小説と言うよりも映画の原作のドラフトが一本書き上がった感じ。ひょっとしてこの作家はかなり年齢が若いのではないかと疑っていたら、案の定、64年生まれの40歳だった。具体的に感じたところを言えば、登場人物の言葉に重さや深みがないのだ。例えば、作品の中で重要な位置を占める英国人宗教学者のティービング、それからフランス司法警察警部のファーシュ、悪役で重要な配置を受け持つアリンガローサ司教。この辺の人物描写がどうにも浅くて物足りなく感じる。いかにも「米国人から見た欧州(各国)人」の典型的なキャラクターであり、ハリウッド的演出で軽いのだ。

小説の内容そのものがそうだが、あのスピルバーグの冒険娯楽映画『レイダース-失われた聖櫃』を見ている気分になる。

まさに大先生のおっしゃるとおり。
先に大先生の批評を読んでおけば過剰に期待して失望することもなかったのに。「世に倦む日日」ファン(複雑な意味で)を自認する私としては言い訳のできない過ちでありました。

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 いまさら「ダ・ヴィンチ・コード」(2)
 「ダ・ヴィンチ・コード」と「カリオストロの城」

信濃毎日新聞の「代理出産」批判社説

2008年08月23日 | 代理出産問題
新聞の社説で「代理出産」(私は寄生出産と呼ぶ)をこれだけ明確に否定したのを初めて見た。
「代理出産」依頼者ばかりに肩入れした感傷的なマスコミ論調とは雲泥の差だ。信濃毎日新聞よくやった。

信濃毎日新聞[信毎web]|社説=代理出産 法による禁止を急げ
 日本人男性がインドで依頼した代理出産をめぐり、トラブルが表面化した。代理出産で7月に誕生した赤ちゃんが、無国籍状態となり、インドを出国できなくなっている。

 体外受精には第三者の卵子が使われ、インド人の代理母の子宮に移植された。インドの貧しい女性を産む道具にした、とみられても仕方ない。

 生まれた子どもの「親子関係」は複雑だ。将来、この事実をどう受け止めるのか、心配になる。

 今回の事例は、代理出産が想定を超えた形で広がっている一端を示している。

 妊娠と出産には、命の危険が伴う。そのリスクを第三者に負わせる代理出産は、問題が多い。

 代理母となる女性の心身の負担は相当なものだ。危険を承知で引き受けたとしても、それが自発的な意思とは言いきれないケースも想定される。

 経済的な理由や、親族が家族関係の中で断れないでいる可能性も排除できない。

 日本では、学会の指針で代理出産を禁止している。実際は、海外で日本人夫婦の代理出産が広がっている。国内でも、下諏訪町の根津八紘医師らの手で実施している現実がある。

 新しい法律を定めて、禁止するほかない。その上で、限定的に道を開くかどうかを検討すべきだ。

 日本学術会議の検討委員会も今春、法律による代理出産の原則禁止を求める報告書をまとめた。

 政府と国会の動きは鈍い。代理出産の是非は与党内でも意見が分かれる。

 その間にも代理出産の“実績”は積み重ねられていく。論議を急ぐ必要がある。

 代理出産をどう考えるかは、個人の生命倫理観や、家族観とも深くかかわる。法制化の作業と並行して、この問題をめぐり、社会の中で幅広い議論がされていくことが重要だ。その際、子どもの福祉を最優先に考えることを忘れてはならない。

 生殖補助医療の進歩は著しい。ビジネスとして行われている面もある。経済的な余裕があれば、今や独身者でも子どもを持てる。娘に代わって50代や60代の母親が、「孫」を代理出産した事例も国内で公表されている。

 子どもにとって、親とは何か。どんな家族のかたちが望ましいのか。子どもを持ちたいという願いのために、第三者に犠牲を強いることは許されるのか-。立ち止まり、問い返す時に来ている。


「代理母」の人権と健康を特に問題視する私が大いにうなずいたのは以下の部分。

「インドの貧しい女性を産む道具にした、とみられても仕方ない。」
「妊娠と出産には、命の危険が伴う。そのリスクを第三者に負わせる代理出産は、問題が多い。」
「代理母となる女性の心身の負担は相当なものだ。危険を承知で引き受けたとしても、それが自発的な意思とは言いきれないケースも想定される。
 経済的な理由や、親族が家族関係の中で断れないでいる可能性も排除できない。」
「新しい法律を定めて、禁止するほかない。その上で、限定的に道を開くかどうかを検討すべきだ。」

よくぞこれだけはっきりと書いてくれました。ありがとう信濃毎日新聞。
明確に「代理出産」を批判する社説を長野県の新聞社が書いたことにも意味がある。長野県といえば、日本産婦人科学会が禁止した「代理出産」を強行する「諏訪マタニティークリニック」(根津八紘院長)の所在地だ。もしかしたら地元では「学会の無理解にめげず、先進的な医療を実行する立派な先生」というイメージなのかと思っていたが、今回の社説でそうでないことがわかった。信濃毎日社説を読んだ根津院長はいったいどんな顔をしただろうか。

冷静に考えれば、「代理出産」という医療技術には倫理的・社会的に大きな問題があることは明らかだ。だが、これまでのマスコミ論調では「依頼者の心情が…」とか「国民世論が…」といった情緒ばかりに気を使って問題点を指摘するのに及び腰だった。
仮に日本が「代理出産」を認めるにしても、国民が「代理出産」によってどんな問題が起きるかを知り、それについて充分に対策し、それでも起きてしまう問題を引き受ける覚悟が必要だ。ところが、マスコミのほとんどは冷静に問題点を指摘することよりも世論(という名の情緒)に迎合した生温い報道に明け暮れていた。これではダメである。
ローンで買い物をする時には、売り手は支払方法や総支払額についてはっきり説明し、買い手はちゃんと理解したうえでハンコを押す。売り手が説明をごまかしていたら周囲の人間が買い手に注意してあげるべきだ。ところが、「代理出産」をめぐるこれまでの報道のほとんどは「売り手」のごまかしに目をつぶり、ひどいものだと詐欺の手助けまがいの提灯持ちをしていた。これではどうしようもない。

向井・高田夫妻の「代理出産」が注目を集めてから5年、ようやくまともな「代理出産」批判記事が出た。本来なら日本学術会議の答申が出る前に「代理出産」の問題点を知らしめるのがマスコミの役割のはずで、遅すぎる印象は否めない。それでもお気楽な「代理出産」肯定・容認が過半数を占める世論に冷水を浴びせる社説を書いた信濃毎日新聞は立派である。これが風穴になって「代理出産」の危うさを指摘する論調が広がることを望む。

「代理出産」依頼者の本質

2008年08月16日 | 代理出産問題
「代理出産」に対する読売新聞のスタンスがよく分からない。
単に考えが浅いのか、それとも容認と否定の間で揺れているのか。
とはいえ、インドの事件を単なるハプニングではなく「代理出産」の是非について考えるきっかけとするのは結構なことだ。

想定外の代理出産 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
父「独身」 インド「野放し」 子は無国籍

 日本人男性医師が、インドで現地の女性と代理出産契約を結び女児が生まれた問題では、独身者が実施し、女児の国籍が不明確になるなど想定外の事態が次々と明らかになっている。代理出産のあやうさが、浮き彫りになった形だ。(イスラマバード支局 佐藤昌宏、科学部 長谷部耕二、大阪地方部 山村英隆)

法制化遅れる対応
 「想定外のことが起きてしまった。同じようなことが起きないよう、対応を急ぐべきだ」。鴨下重彦・東大名誉教授は、危機感を募らせる。自身が委員長を務めた日本学術会議の検討委員会で今年4月、法律による代理出産の原則禁止を求めた報告書をまとめたばかりだったからだ。

 検討委では、比較的自由に代理出産の契約ができる途上国へ出向く「代理出産ツアー」が問題視されていた。しかし、配偶者のいない男性が外国の女性に依頼して子供を持つことまでは想定していなかった。

 このため、今回の問題の発覚を受けて、早急に法制化の議論を始めるよう訴える声があがっている。

 日本学術会議の金沢一郎会長は15日、「国をあげて問題解決に向けて動き出してほしい」との異例の談話を発表した。談話では、水面下の代理出産で生まれてくる子供たちの福祉が懸念されるとして、法整備を急ぐべきだと訴えた。

 しかし、今回の事例後も、政府の動きは鈍い。保岡法相は同日、代理出産の是非について「しかるべき所(国会)で検討されることだ」と述べ、ただちに法整備に着手する姿勢は見せなかった。

 国会では「代理出産の法整備を進める超党派勉強会」が「早ければ臨時国会で、限定的に代理出産を認める法案の提出を目指す」というが、国会議員全体では関心は薄いのが現実だ。

 一方、海外での代理出産を防ぐには、国内での実施を容易にするべきだとの声も強まっている。

 国内で代理出産の実施を唯一公表している、長野県の根津八紘医師は9日、自身のホームページ上で、「国内で禁止しても海外に活路を求め、今回のようなケースはいくらでも起こり得る」と指摘。その上で、「一定のルールのもとに代理出産を認めるべきだ」と主張する。

 代理出産は、病気などで子宮を失った女性を妻に持つ夫婦にとって、実子を得る最後の手段だ。厚生労働省が昨年行った調査でも、国民の54%が代理出産の容認の意向を示している。代理出産の是非について社会的合意をした上で、一刻も早い法制化が必要だ。

印での代理出産費用 米の5分の1
 インド政府は、初めて代理出産が行われた翌年の2005年、代理出産に関する指針を示した。指針は代理母の年齢制限や依頼者の費用負担などに触れているが、事実上野放し状態だ。

 このため、貧富の差が激しいインドでは、貧しい女性らの間で代理出産が商業化している。現地の雑誌や新聞などには「健康で容姿端麗な30歳未満の代理母を募集中」といった広告が、堂々と載る。代理出産の現状を調べた厚生労働省研究班の報告書によると、インドでの費用は1万~1万2000ドル(110万~133万円)で済み、米国のわずか約5分の1だという。

 研究班は昨年、米、英、仏、韓国、台湾の代理出産をめぐる現状を調べた。それによると、5か国・地域のうち最も規制が厳しいのは仏だ。94年の「人体尊重法」で民法典に「代理出産禁止」、刑法典に「仲介禁止」の条項を追加した。

 米国では、連邦法はなく首都と18州が法律を設けて対応している。うちネバダ州など14州が代理出産を容認。首都と3州で、金銭授受を伴う代理出産が処罰の対象だ。英国は代理出産は禁じていないが、85年に法律で仲介や広告・宣伝に罰則を設けた。

 韓国は、「営利目的以外は認める」「全面的に認めない」とする二つの法案の審議を予定。台湾は、代理出産を禁じていたが、容認に向けて動き出している。

 また調査では、仏をのぞく各国で、代理出産を希望してインドや東南アジアに渡航する例が、明らかになっている。女児が生まれたクリニックでは、依頼者の2割が外国人という。

卵子提供者と代理母は別々のインド人
 日本人男性は昨年春から米国の医療機関に照会するなど、代理出産で子供をもうける準備を始めた。昨秋に結婚し、11月にインドに渡って、代理母と契約した。卵子の提供者は代理母とは別のインド人だった。

 その後、男性は先月上旬に離婚、女児は同25日に誕生した。同国グジャラート州内の市役所は出生届を受理したものの、出生証明書には、男性の名前が記されているだけだ。

 インド市民権法は、両親の一方がインド人ならインド国籍を取得できるとしている。だが、インドPTI通信によると、代理母は女児の母親になることを望んでいないという。女児がいったん代理母の娘となって国籍を取得するのは容易ではなさそうだ。

 日本の国籍法では、出生時に結婚している父か母が日本人なら、日本国籍となる。結婚していない場合、母が外国人でも、父が出生前に認知届を居住地の市区町村に出していれば、日本国籍が得られるが、男性はその手続きをしなかった。

 インド国籍がない女児は、パスポートが発給されない。インド政府が「渡航証明書」を出せば、出国は可能とみられる。ただし日本への入国には、日本のビザが必要だ。保岡法相は、15日の閣議後の記者会見で、「入国を認める方向で対応したい」と前向きだが、新たな問題も持ち上がった。

 女児が現在いる西部ラジャスタン州の高等裁判所は12日、インド政府や州政府に対し、4週間以内に女児の状況を裁判所に報告するよう命じた。地元の福祉関係団体が今回の代理出産を「人身売買だ」として、女児の人身保護請求を出したからだ。少なくとも審理終了まで、女児は国外に出られない可能性がある。



読売の記事には矛盾がある。
書き出しで「代理出産のあやうさが、浮き彫りになった形だ。」と警告しながら中段で「国民の54%が代理出産の容認の意向を示している。代理出産の是非について社会的合意をした上で、一刻も早い法制化が必要だ。」とするのは「危ないのは分かってるけど国民が容認してるんだから合法化しろ」と煽っているようにも読める。まさかそんなつもりではないだろうと信じたい。

「海外での代理出産を防ぐには、国内での実施を容易にするべき」という一部の意見は「代理出産」解禁の為にするものでしかない。記事中にも「代理出産の現状を調べた厚生労働省研究班の報告書によると、インドでの費用は1万~1万2000ドル(110万~133万円)で済み、米国のわずか約5分の1」「仏をのぞく各国で、代理出産を希望してインドや東南アジアに渡航する例が、明らかになっている。女児が生まれたクリニックでは、依頼者の2割が外国人」という現実が書かれている。
日本国内で「代理出産」を認めれば、社会が依頼希望者を後押しし、彼らの望みを肯定することになる。国内で「代理母」を見つけられなかったり、あるいは費用の負担に耐えられない依頼希望者が海外の「安価な代理母」に飛びつくのは間違いない。
国内での「代理出産」容認は海外における「代理母」利用を減らすのではなくむしろ増やすだろう。本当に海外での代理出産を防ぎたければ、フランスのように国外犯を含めて厳しく禁じるしかない。

逆に言えば、日本国内で「代理出産」を認めるのであれば、日本人が海外で「代理母」を買うこと、外国人が日本に来て「代理出産」サービスを利用することも認めなければならない。
「代理出産」容認派は「自分の子供をほしいと思う気持ちは我慢できない」「誰にでも(他者の子宮を借りて)自分の子供を持つ権利がある」といった優しげなことを言う。それならば依頼者や「代理母」を国籍や経済状態で差別すべきではない。
公共自転車を無料で気楽に借りるように、自分たちの受精卵を誰かに生みつけて「すばらしい新世界」を作り上げよう。妊娠・出産という危険な仕事は健康だけがとりえのお人よしか貧乏人、いや失礼、「ボランティア」にアウトソーシングすればいい。子宮は天下の回りものだ。

もちろんこれは反語である。
私自身はいわゆる「代理出産」(個人的には寄生出産と呼ぶ)には倫理的・社会的に大きな問題があり、原則として禁止すべきだと考えている。
いったん容認・解禁してしまうとさまざまな問題が頻発することが目に見えている。インドの事件は「想定外」と言われているけれど、「これくらいのことを想定しないで代理出産を議論するなんてちゃんちゃらおかしい」のである。車を買うときに車両本体価格だけ考えて税金やガソリン代、保険料や駐車場利用費を忘れているようなものだ。

インドの事件に驚きあわてる人たちを見ると、「代理出産」の本質についてわかってる人はほとんどいないのだなと痛感する。
なんだかえらそうなことを言ってしまったが、そういう自分自身も本当は代理出産の現実をよく知っているわけではない。SF好きの習慣で「代理出産が認められた社会では何が起こるか」考えてみたら「トラブル続出」という答えしか出てこなかっただけのことだ。必要なのはむしろ想像力なのかもしれない。だが、多くの「代理出産」容認派は依頼者側ばかりに同情して想像力を使い果たしているので「想像力が足りないのは依頼者の心情を無視する反対派のほうだ」と言われそうだ。

多くの「代理出産」容認派は依頼者側の心情(主観)は理解しても「代理出産を依頼するのは実際のところどういう人たちなのか」知っているとは思えない。むしろ美しいイメージを守るために現実から目をそむけているのではないか。
マスコミのお涙頂戴報道や感動的な再現ドラマによって「代理出産」依頼者のイメージが作られている。「不幸な境遇にある、愛情豊かで責任感の強い人たち」というのが世間一般のイメージだろう。
インドの事件で明らかになったように、代理出産依頼者に対するポジティブなイメージには実は何の根拠もない。不幸でなくても、愛情が薄くても、責任感が無くても「代理出産」を依頼することはできる。いや、むしろそのほうが「代理出産」依頼へのハードルを乗り越えやすい。

「代理出産」依頼者の本質、「代理出産」を依頼するものとそうでないものとを分けるのは欲望である。
強い欲望さえあれば、不幸を装い、愛情豊かなフリをし、責任感ありげな様子を繕うことができる。あとは充分な資金と協力してくれる「代理母」・医師・コーディネーターを見つければいい。
逆に、どれほど子供がいなくて不幸でも、本当に愛情豊かでも、責任感が人一倍強くても、「代理出産」を欲望しなければ依頼者になれない。誕生日のサプライズパーティーなどと違って、周囲の人間が善意で勝手に「代理出産」を依頼することはありえない。
愛情や責任感はむしろ「代理出産」依頼を思いとどまらせる。心優しい人なら「代理母」から赤ん坊を引き離すのを残酷だと思う。生まれた子供に「代理出産」の悪影響が出ないか心配する。「代理母」の健康が損なわれないか、もしそうなったら責任が取れるのかと悩む。
愛情や責任感は「代理出産」依頼へのブレーキであってアクセルではない。アクセルは「欲望」そのものだ。
「代理出産」を利用する・利用したがる人たちはただ「自分の遺伝子を継いだ子供を持ちたいという欲望」が特別に強いだけだ。「愛情豊か」だの「責任感が強い」といったイメージはただの思い込み、根拠のない幻想である。

夏が終わる日

2008年08月12日 | テレビ鑑賞記
オリンピックには基本的に興味がないのであまり見ていない。
それでも開会式は少しだけ見た。30分くらい。
金を掛けてるのと気合が入ってるのはよくわかった。
中国の歴史と文化が豊かで素晴らしいのも納得した。
それでも手放しで興奮したり喜ぶことはできなかった。
むしろ見ているうちにだんだん淋しくなってチャンネルを替えた。

粗が気になったわけじゃない。会場にWindowsのブルースクリーンが出ようと「巨人の足跡」がCGだろうと、そんなことはどうでもいい。むしろご愛嬌である。
「画面は明るく華やかなのに、出てくる人たちみんなはしゃいでいるのに、見ているうちなぜか物悲しくなる」
この感じは何かに似ている。そうだ、毎年恒例のアレだ。
日が短くなりはじめ、天気予報で台風情報が流れるようになり、小学生が大量の宿題にてんてこ舞いする頃に放送されるあの番組。

24時間テレビ 「愛は地球を救う」 - Wikipedia
24時間テレビ 「愛は地球を救う」(24じかんテレビ あいはちきゅうをすくう)は、日本テレビ系列(NNS)の放送局が毎年8月下旬の土曜日から日曜日にかけて生放送で実施されている募金チャリティー活動を目的とする日本のテレビ番組である。通称「24時間テレビ」(英語表記:24HOUR TELEVISION "LOVE SAVES THE EARTH")。

そういえばオリンピックも24時間テレビもマラソンが目玉だ。まあこれは日テレが真似たのだけど。
あと二週間でオリンピックは閉幕し、子供たちの夏休みは終わり、セミは骸をさらす。
がんばれ日本、加油中国。

お客様目線の「代理出産」議論

2008年08月10日 | 代理出産問題
インドで日本人の「代理出産」依頼者によるトラブルが起きている。

代理出産の女児、帰国できず…父母が離婚、国籍なし : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
 日本人夫婦が、インド人女性に代理出産を依頼して女児が生まれる前、離婚したため、子供の母親や国籍が不明になっていることが7日わかった。

 離婚した元夫は子供を引き取る意向を示しているが、外務省は、出産女性を母とする日本の民法の判例に従い、日本人としての女児の出生届は受理できないという判断を元夫に伝えている。

 元夫が、子供を引き取るにはインド、日本国内の養子縁組に関連する法律の手続きを踏む必要があり、子供は現在、インドを出国できない状態だという。

 代理出産の是非については、日本学術会議が途上国への「代理出産ツアー」を問題視し、「代理出産は新法で原則禁止とすべき」との報告書を今年4月にまとめたが、その懸念が現実化した形だ。


私は「代理出産」(個人的には寄生出産と呼んでいる)には反対しているけれど、今回の事件に特別な関心はない。
記事にも書かれているように「日本学術会議が途上国への『代理出産ツアー』を問題視し、『代理出産は新法で原則禁止とすべき』との報告書を今年4月にまとめたが、その懸念が現実化した」のが今回の事件だ。すでに予想されたことであり、遅かれ早かれトラブルが起きるのは目に見えていた。驚くようなことは何もない。
依頼者の元夫婦がインドでの「代理出産」を選んだ経緯はよくわからない。

インド代理出産:元妻が反論「代理出産には不同意」 - 毎日jp(毎日新聞)
 日本人の男性医師がインドで代理出産を依頼し生まれた女児が日本に帰国できなくなっている問題で、男性医師の元妻が毎日新聞の取材に応じ「代理出産に同意していなかった」などと話した。

 元妻によると、インドで代理出産の書類に署名させられたが、読む時間を与えられないまま署名を迫られ、後で同意書と知らされた。その後、子供が男性医師と自分との子であるよう装う出生証明書の偽装のため再渡航を求められたが断ったという。元妻は離婚の際「代理出産は私の意思とは無関係」と医師に書面で誓約させたと話している。【石原聖】


元妻によれば医師である元夫の強引なやりかたに問題があったようである。とはいえ、片方の言い分だけで判断することはできない。「2ちゃんねる」などで不確実な情報()をもとに議論が行われているが、どうも危なっかしい。
男性医師が帰国して、元妻とともに事情を明らかにしてくれることを望む。

インドの事件については今のところ「関係者と日印両政府が子供の幸せを第一に考えてくれることを望みます」というほかないのだが、この事件をめぐる世論には注目している。
「インド 代理出産」をキーワードにブログ検索すると多くの記事が並ぶ。そのほとんどが依頼者に批判的だ。

人生は面白い: これでは女の子がかわいそうだ
Matimulog: news:泥沼化する代理出産後始末
身勝手な代理出産 - SALT OF THE EARTH - 楽天ブログ(Blog)
無責任な代理出産 - ラビットらむのひとりごと - 楽天ブログ(Blog)
身勝手な大人たち - 雀千声

向井亜紀・高田延彦夫妻による裁判のときのような「依頼者は悪くない、依頼者の希望を踏みにじる政府・裁判所が悪い」という意見は見つからなかった。依頼者夫婦が離婚したことを無責任と責める声が多いようだ。
世論は流されやすいな、センチメンタルだな、と思う。
私自身は「代理母」の健康・人権が最も重い問題だと考えているので、依頼者側のトラブルにはそれほど関心をもてない。強く批判する気もない。むしろ「そりゃ生身の男女なら離婚することもあるだろう」と思う。
依頼者のどちらも子供の受け取りを拒否するようなら問題だが、今回は元夫が引取りを望んでいる。世論が本気で「代理出産」自体を肯定するのであれば、向井夫妻の場合と同じく「依頼者は悪くない、パスポートを出さないインド政府と戸籍を認めない日本政府が悪い」という意見が多くてもよさそうなものだ。
「依頼者夫婦の離婚」という、「代理出産」の本質(借り腹・寄生)とは無関係な部分で賛否が逆転するのは、多くの人が依頼者側の幸せしか考えていないことの表れだろう。

  ・ 向井夫婦のように依頼者が幸せ(本当はどうなのか知らないが)ならば「代理出産はいいことだ」
  ・ インドの事件のように依頼者がトラブルを起こすと「代理出産は問題だ」

どちらにしても、代理出産のいちばんの当事者である「代理母」への視線はない。あくまでも「お客様」の立場でしか見ていない。


「代理出産を原則的に禁止すべき」とする日本学術会議の答申が出たことで「代理出産」をめぐる世論は大きく流れを変えた。
これまでの「なぜ反対するのかわからない」「認めて当然」というお気楽な容認論は影を潜め、「代理出産には問題があるらしい」「慎重に考えるべきだ」と考える人が増えている。今回の事件でさらに慎重論・反対論は広がるだろう。
「代理出産」に反対する私にとって望ましい展開のはずだが、どうもモヤモヤしたものが残る。相変わらず世論が「お客様目線」で依頼者の側ばかりに感情移入する点は変わってないからだ。
仮にインドの事件が「代理母」側のトラブルだったら、「心優しい」日本国民は簡単に切り捨てそうな気がする。
たとえば「出産時の事故で代理母に障害が残った。依頼者に多額の損害賠償請求される」とか「代理母が子供の受け渡しを拒否した」といった事件が起きたときに「自己責任だろ」「契約を守れ」という声が多数派を占めるのではないか。そうでないことを望むが、私にはまだ「代理出産」について理解が広まったとは思えず、世論を信用できない。


私の知る限りネットにおけるもっとも熱心な「代理出産」肯定論者である "Because It's There" 春霞氏がまた無理やりな印象操作をしていた。

Because It's There 代理出産児、インドから出国できず~日本人夫婦が誕生前に離婚したことが影響
2.代理出産の是非については議論がありますが、海外に行って代理出産を依頼する日本人医師夫婦が少なくないと聞いていました。この報道を聞いて、やはり代理出産を行う日本人医師夫婦は少なくないという証左になったと思いましたし、医療情報に詳しい医師であるからこそ、米国での代理出産は費用の点から困難なので(米国在住の日本人は別。かなり多いと聞いています)、やはりインドでの代理出産を行ったのだろうと思いました。

注目すべき点は、代理出産の医学的妥当性がよく分かっている医師が、代理出産の当事者であるということです。自分の子を持ちたいという人としての願望は誰しも同じであることは根底にあるとはいえ、医師が代理出産の当事者である以上、医師も代理出産の医学的妥当性を暗に肯定した行動を行っていることをよく認識しておくべきです。

これこそまさに「お客様目線」の代理出産肯定論の見本である。
仮に「代理出産を行う日本人医師夫婦は少なくない」としても(本当かどうか知らない)、「医師が代理出産の当事者である」とは言えない。「代理出産」のいちばんの当事者は生命のリスクを負って出産する「代理母」とその家族だ。アメリカやインドに行って「代理母」を利用する日本人医師夫婦はあくまでも「代理出産サービスの利用者」でしかない。
「代理出産」が合法的な国で仮に(あくまでも仮定の話だと念押ししておく)女性医師・医師の妻・看護婦など医療関係者が率先して「代理母」を志願しているとしたら私も「代理出産の医学的妥当性」とやらを認めてもいい。だがそんな事実はないはずだ。私は何も調べていないけれど断言できる。
「代理母」をやらされ子宮を利用されるのは弱い立場の女性たちである。「代理出産」の本質は欲望に取り付かれた男女が妊娠・出産リスクを弱者に押し付ける寄生出産だ。

・ 代理母には貧しい女性がなるケースが多く、65万~162万円の金を手に入れることができるという。 (読売新聞

・ 代理母について10数年間ぼくがやってきた取材から浮かび上がった構図と今回もまったく同じだった。裕福な日本人と貧しいアメリカ人である。 (大野和基コラム 代理母インタビューの真実

お客様目線の「代理出産」議論にはもううんざりだ。

陰謀・陰謀論・陰謀論者

2008年08月05日 | 日々思うことなど
■ 陰謀
陰謀を空想したり計画するのは楽しい。
陰謀を実際に準備するのはいろいろ面倒くさい。
陰謀を成功させるのは難しい。長いあいだ秘密を守るのはたいへんだ。
いちばん簡単な陰謀はたぶん「陰謀論を広めて馬鹿を惑わせる」ことだろう。


■ 陰謀論
陰謀論のカタログを見ていると飽きない。暇つぶしに役立つ。

 陰謀論 - Wikipedia

誰かの説を後追いするよりも、オリジナルの陰謀説を作るほうがきっと楽しい。
陰謀論を誰もが納得する合理的な証拠で裏付けるのは難しい。だが、「証拠が見つからない・不合理である」こと自体が陰謀の証拠なので問題ない。陰謀論への情熱は高速増殖炉のプルトニウムのように「使えば使うだけ増える」エネルギーだ。


■ 陰謀論者
陰謀論者の99%は頑固な馬鹿である。
陰謀論者のご機嫌取りするのは物分りのいい顔をしたがる阿呆だ。
この場合の「馬鹿」は脳味噌の出来不出来ではなくて頭の使い方の問題である。学校の成績がよくて難しいことをたくさん知っていても、馬鹿げた考えに囚われたら馬鹿と呼ばれる。フェラーリで明後日の方向に全力疾走しても永遠に目的地に着かない。ボロ車でもまともな地図を見て走るほうがいい。
陰謀論受容度チェックは馬鹿とそうでない人を見分けるのに役立つ。
「陰謀論を信じ込む人」は「宝くじが当たると信じ込む人」の同類であり、思い込みと現実の見分けが付かない。あるいは意図的に混同する。そんな人にはなるべく近付かないほうがいい。

参考記事
 陰謀論の恐怖 - PledgeCrewの日記
 陰謀論批判と陰謀論批判批判 - 百丁森の一軒家・別館

 Dendrodium 陰謀論という名の断罪語

万能の説明

2008年08月03日 | 政治・外交
政治的に議論の分かれる問題に対して、簡単に「文化」を持ち出してほしくない。

保岡法相:「終身刑は日本文化になじまぬ」 - 毎日jp(毎日新聞)
 保岡興治法相は2日の初閣議後の記者会見で終身刑の創設について、「希望のない残酷な刑は日本の文化になじまない」と否定的な考えを示した。

 法相は「真っ暗なトンネルをただ歩いていけというような刑はあり得ない。世界的に一般的でない」と述べた上で、「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償うことを多くの国民が支持している」と死刑制度維持の理由を述べた。

 終身刑を巡っては、超党派の国会議員でつくる「量刑制度を考える超党派の会」が5月、死刑と無期懲役刑のギャップを埋める刑として導入を目指すことを確認している。

 保岡法相は00年7~12月の第2次森内閣でも法相を務め、在任中の死刑執行は3人だった。【石川淳一】


文化、それも形のない精神文化を自説の正当化のために持ち出すのは嫌いだ。卑怯なやり方だと思う。もちろんこれは日本文化とやらが私の口を借りて言わせているのではなく、自分がそう思うのである。
精神文化を持ち出して対立意見を批判するのは「神様がお許しにならない」とか「そんなこと言う奴は非国民だ」といった類の押し付けでしかない。追い詰められての苦し紛れならともかく、世論の圧倒的支持を受けている(はずの)死刑制度について文化を持ち出す必要はないはずだ。

形のない精神文化を持ち出せば、たいていのことは正当化できる。
例えば年金問題や医療問題。「老人を敬い大事にするのが日本の文化だ」ということもできるし、「若者のために年寄りが我慢するのが日本の文化だ」と主張することだってできる。どちらにも具体的な根拠はまるでなく、単なる言いっぱなしである。
なんにでも使える万能の説明には意味がない。無意味なことをもっともらしく主張するのは議論の邪魔だ。

とらえどころのない精神文化ではなく、形のある文化的行為ならまだしも具体的な議論ができる。
たとえば演劇文化について語るのであれば、能や狂言、歌舞伎や新劇、宝塚や小劇場を持ち出していろいろなことが言える。逆に、具体的なことを何も知らずに「日本の演劇文化とは~」とぶつような手合いは演劇通から見下されるだろう。

保岡法相が終身刑の問題に対してどうしても「文化」を持ち出したいのであれば、一般的すぎて具体性のない「日本の文化」ではなく「刑罰文化」について語るべきだった。
「刑罰文化」という言葉を検索してもほとんどヒットしないけれど、ここでは「刑罰の歴史・精神史」という意味で使う。
日本の刑罰文化において本当に「終身刑は日本文化になじまぬ」のかといえば、ずいぶん異論がありそうだ。かつては流刑が死刑に次ぐ刑罰だったが、10年とか20年で娑婆に帰れる者もいれば、一生帰れない者もいた。公的な刑罰ではないけれど、座敷牢で死ぬまで飼い殺しにするようなことも行われた。
現代の人権意識からすれば流刑や座敷牢が非人道的なのは間違いないが、行われた当時はどちらも「殺すよりはマシ」な温情的刑罰・措置であったはずだ。保岡法相の「終身刑は日本文化になじまぬ」という説には大いに疑問がある。

そもそも「死刑の代替としての絶対的終身刑」を批判すること自体が「藁人形論法」なのかもしれない。
死刑を廃止・停止した国の多くで「仮釈放の可能性のある終身刑」が最高刑となっているそうだ。日本では「絶対的終身刑」導入を目指す動きがあるけれど、死刑廃止・停止派のなかで必ずしも主流ではない。「死刑か、絶対的終身刑か」という二者択一の論法はレトリックの罠である。

終身刑 - Wikipedia
仮釈放の可能性のある終身刑
終生という刑期の途中で、仮釈放による社会復帰の可能性があるものをいう。相対的終身刑(相対的無期刑)と呼ぶこともあり、ヨーロッパにおいては、多くの国でこれが最高刑となっている。

日本における絶対的終身刑の論議
日本においても、死刑廃止論に関連して、死刑の代替刑として絶対的終身刑の導入が議論されているが、死刑存置派の一部から「人を一生牢獄につなぐ刑(絶対的終身刑)は最も(緩慢な死刑であり)残虐である」といった意見[1]や刑務所の秩序維持や収容費用といった面からその現実性を疑問視する意見[2]もあり、国民の大多数の支持を得るには至っていない。

終身刑と無期刑
終身刑とは、刑期が終生に渡るものをいい、その刑期の途中での仮釈放の可能性がなく一生を必ず刑務所で過ごさなければならない刑のみを終身刑と呼ぶわけではないが、日本では仮釈放の可能性のない終身刑(絶対的終身刑)のみが終身刑と認識されることが多く、このため、「無期懲役は期間の定めのない懲役であり、終身刑とは別のものである」といった誤解が生じている。しかし、無期懲役の「無期」とは「期間を決めない」という意味ではなく、「満期が存在しない」という意味であり、満期が来ることがない以上、刑の執行は終生に渡って続くため、言葉の本来の意味としては、両者は同じである[6][7]。

同じ刑罰であっても、アジア圏のそれは「無期懲役」と訳されることが多く、欧米のそれは英語の life などに相当する語句が用いられているため「終身刑」と訳されることが多いことも、誤解や混乱を招いている一因である。



保岡法相は死刑の代替としての絶対的終身刑について「希望のない残酷な刑は日本の文化になじまない」と言ったそうだが、海外で自分の言葉がどのように報じられるか想像しなかったのだろうか。
死刑に批判的な海外メディアが「日本の法相『死刑は日本の文化』と発言」という見出しをつける可能性は高い。厳密に言えば誤解なのだが、かといって完全に間違っているわけでもないのが厄介だ。
10年ほど前に石田純一が「不倫は文化だ」と発言したとされて大いに顰蹙を買ったが、あれも実はマスコミによる歪曲だった。

石田純一 - Wikipedia
1996年10月、自らの不倫を非難するゴルフ場での芸能レポーターの取材に対して「文化や芸術といったものが不倫から生まれることもある」と発言、この発言がマスコミによって歪曲され「不倫は文化」発言として報道される。そのため石田自身は「不倫は文化」とは言っていない。

一度誤解されるとその影響を完全に消すことはできない。石田純一もいまだに「不倫は文化だ」と言ったことにされている。
「死刑」と「日本文化」のイメージを重ね合わせて伝えられるのは非常にまずい。「日本文化」は今や大事な輸出商品なのである。死刑という「多くの国で残酷な刑罰として否定された制度」を、繊細で美しい「日本文化」と結びつけるのはネガティブキャンペーンに等しい。
せっかく日本のマンガや料理、「カワイイ」ファッションやオタクカルチャーが輸出商品として育ちつつあるのに、「死刑は日本の文化だ」と誤解されるようなことを政治家に言ってほしくない。悪質な営業妨害だ。