玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

「ダ・ヴィンチ・コード」と「カリオストロの城」

2008年09月10日 | 本の感想
「ダ・ヴィンチ・コード」と「ルパン三世・カリオストロの城」には共通した物語上の矛盾がある(以後ネタバレあり)。



「ダ・ヴィンチ・コード」では秘密結社「シオン修道会」の総長であるレオナルド・ダ・ヴィンチが「真の聖杯の秘密」を守り伝えたことになっている。「真の聖杯」とはキリストの血筋、すなわちキリストとマグダラのマリアの間に生まれた子供と子孫の存在だ。カトリック教会は教義を守るために真実を隠し、シオン修道会を弾圧してきた。レオナルドは壁画「最後の晩餐」でヨハネとされる人物を女性の顔に描き、画面に描かれるはずの杯(いわゆる聖杯)を描かないことで「秘密」を暗号化した。これがレオナルドの暗号、すなわち「ダ・ヴィンチ・コード」である。小説中で描かれたそのほかの暗号はソニエールが考えた「ソニエール・コード」であり、お宝に近付くのを邪魔する障害物でしかない。

…ところが、重大な秘密を明かす壁画「最後の晩餐」が描かれたのはどこかというと「ミラノの修道院の食堂」なのである。まさにバチカン(ローマ教会)のお膝元だ。レオナルドも実に大胆なことをしたものである。暗号が見破られないという絶大な自信を持っていたのか。
仮にそうだとしたら自信過剰もいいところだ。ソフィーは「真の聖杯」やシオン修道会について何も知らなかったけれど、ラングトンに説明されるとすぐに隠された真実に気付いた。これでは暗号というよりは明号(容易に解かれる暗号)である。まして鵜の目鷹の目で異端に神経を尖らせていたバチカンの専門家が見逃すはずがない。
それならバチカンは「最後の晩餐」が隠された真実を明らかにする恐るべき絵だと知っていてあえて放置したのか。「最後の晩餐」が完成したのは1498年だが、約130年後の有名な宗教裁判ではガリレオ・ガリレイが有罪宣告されている。地動説を押しつぶしたローマ教会が「聖杯の秘密」を暴露する絵の存在を許すはずがない。
公開裁判はできないとしても、修道院の食堂にある壁画を書き直させたり破壊するのは簡単なことだ。「最後の晩餐」は耐久性に難があるテンペラ画の技法で書かれており、実際に20年足らずで顔料が剥離している。バチカンが「この壁画は失敗作だ、全部はがして誰かに新しく書き直してもらえ」と命じれば、あるいは食堂で火事が起きていれば、レオナルドの暗号(ダ・ヴィンチ・コード)はこの世から消え去っていた。
「修道院」の「多くの人が見ることのできる」壁画に「シオン修道会について最低限の知識があればすぐに気が付く形で」暗号が書かれていればとっくの昔にバチカンの手で破壊されていたはずである。皮肉にも「最後の晩餐」が存在すること自体が「ダ・ヴィンチ・コード」なるものが幻であることを明らかにしている。

「追い求めていた宝が非論理的な存在だった」という点で、「ダ・ヴィンチ・コード」と「カリオストロの城」は似ている。
「カリオストロの城」の最後で明らかになった「宝」は湖底に沈むローマの遺跡だが、その湖はどんな湖かといえば、そのままカリオストロ城の水道に使えるくらい水が澄んでいるのである。たぶん透明度は20mくらいあるだろう。
遺跡はそれほど深い場所に沈んでいたわけではない。取水口のすぐ下の階段で降りられるのだから、せいぜい10mというところ。


(3分8秒ごろ)

あれほど巨大な遺跡が湖底にあれば数百年の間に必ず誰かが見つけるはずだ。湖に近付くことが禁じられていたとしても、飛行機が発明されたら秘密を守る術はない。
…というか、カリオストロ伯爵自身がオートジャイロを愛用し湖上を飛び回っている。晴れた日には湖底の遺跡が白く輝いていたはずだ。目の前にあるお宝に気付かなかった伯爵はよほどの間抜けである。伯爵が本当にそれほど間抜けなら「カリオストロの城」全体が茶番になってしまうから困る。だから「湖底のローマ遺跡」は映画全部をぶち壊しかねない危険物なのだ。

レオナルドの暗号は幻であり、湖底のローマ遺跡はありえない。どちらも存在自体が物語全体と矛盾する。
だがこの点を除くと「ダ・ヴィンチ・コード」と「カリオストロの城」に似ているところはほとんどない。
はっきり言って「ダ・ヴィンチ・コード」は駄作、せいぜいよく言って「オリジナリティーのないオカルトネタだけが売りの凡作」である。キャラクターに魅力がなく、ストーリーは凡庸で、文章は稚拙。再読する価値はないし、一度も読まなければそのほうがいい。
「カリオストロの城」は何度も見てしまう傑作だ。作られてから20年以上経つが、今でも毎年のようにテレビのゴールデンタイムで放送される。私はたぶん10回以上見ている。「またカリオストロかよ」などと文句を言いつつチャンネルを合わせ、「炎のたからもの」の流れるオープニングで構図とタイミングの完璧さに感心し、カーチェイスが始まるとすっかり見入ってしまう。あとは「何と気持ちのいい連中だろう」まで一直線だ。

「ダ・ヴィンチ・コード」を読み終わると「こんなつまらない話を長々と書きやがって」と呆れ(読むほうが悪いのだが)、「それならなんで『最後の晩餐』が残ってるんだよ」と文句を言いたくなる。「カリオストロの城」は最初から最後まで楽しませてもらったから、ありえないローマ遺跡が現れても気にならない。むしろ素直に感動する。仮に「金銀宝石を詰め込んだ地味な宝箱」が出てきたらカタルシスがなくてがっかりするだろう。さすがに宮崎駿はわかっている。

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2008年09月01日 | 本の感想
ネットで感想を見て回ったら評判いいんですね、「ダ・ヴィンチ・コード」って。
普段あまり本を読まない人が「これはすごい、面白い!」と感じるのはわかるけれど、読書好き・小説好きと思われる人までほめている、時には絶賛してるのを見て驚いてしまった。

他の人の感想を見ると、「シオン修道会」「聖杯探求」「レンヌ・ル・シャトーの謎」といったキリスト教的オカルトが受けているようだ。その気持はよく分かる。私もコリン・ウィルソンの本(「世界不思議百科」)で初めて「レンヌ・ル・シャトーの謎」を知ったときは興奮した。
それでも、キリスト教や中世史、秘密結社と陰謀論について多少の知識を得るとその手のお話が「歴史の真実」というより「トンデモ」に近いものだとわかってくる。新説を聞かされて興奮するより「ネタとして楽しめるか」を基準に評価するようになってしまう。汚れちまった悲しみに、というかなんというか。
それはともかく、「ダ・ヴィンチ・コード」に書かれているキリスト教史とオカルトはネタとしても底が浅いようで、多くの批判を浴びている()。オカルト初心者が「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」という作者のハッタリに感心してしまうのは無理もないが、せっかくオカルトに興味を持ったのだからこれをきっかけに広大なオカルト・トンデモの世界を探検して楽しんでほしいと思う(ただし足元と頭上には気をつけて)。

私の場合「シオン修道会」や「聖杯探求」についてある程度の免疫がついていたので(澁澤龍彦とコリン・ウィルソンのおかげ)、作者のハッタリに感心するよりも「大風呂敷をどうやってたたむのか」ばかり気になった。そうなるとダン・ブラウンの小説技術の問題になる。これがはっきり言ってダメなのである。とにかく素人臭い。
かといってぜんぜん楽しめないかというとそんなことはない。扶桑社ミステリー文庫か二見文庫で月並みな海外ミステリの一冊として出るのなら別に文句はないが、「衝撃の問題作」として一冊1890円の上下刊(単行本)として出されると「ちょっと勘弁してくれ」と言いたくなる。さらにそれが大ベストセラーになってしまうと「ベストセラーに良本なし」という言葉を思い出してしまう。

最初の殺人事件とダイイング・メッセージが馬鹿らしいことは前にも書いた(Amazonの書評で同じことを言ってる人がいた)。ミステリ好きならこの時点で「あれ、変だぞ」と警戒する。
その後もコント並みに安っぽい。ハーヴァード大学教授の主人公と暗号の専門家であるはずのヒロイン英国王立歴史学会員の宗教史学者が、レオナルド・ダ・ヴィンチのもっとも有名な「暗号」に頭をひねり悩むのである。私のような素人でもすぐに「これは鏡映文字だ」と分かる。こういう間抜けな仕掛けを見せられると作者の頭が悪いのか、あるいはよほど読者を見くびって書き飛ばしたに違いないと思ってしまう。
同じように安っぽい仕掛けが何度も続き、「ディズニーランドに行ったつもりが花やしきだった」という違和感とともに読み進めることになる。何も花やしきが悪いわけじゃないが、花やしきの入場券をディズニーランドのチケットとして売るのはよろしくない。そういえば大昔の「タモリ倶楽部」で「ディズニーランドを紹介」と称して花やしきでロケをした回があった。あれはもちろんギャグである。

「ダ・ヴィンチ・コード」ははっきり言って「以前から知られたオカルトネタを小道具に使った三文小説」でしかない。元ネタの「レンヌ・ル・シャトーの謎」が英国で出版されたのは1982年(邦訳は1992年)、「謎」を紹介した「世界不思議百科」(コリン・ウィルソン)が邦訳されたのは1989年だ。とっくに手垢が付いている。それなのに衝撃的な新説のごとく宣伝され受け入れられるのを見ると変な感じがする。どこかの国で「ノストラダムスの大予言」がブームになったら多くの日本人は「いまさらノストラダムスかよ!遅いよ!1999年に恐怖の大王は来なかったよ!」と思うはずだ。オカルト好事家にとって「シオン修道会」も恐怖の大王と同じく「とっくの昔に来なかった」ネタである(シオン修道会 - Wikipedia)。

単なる三文小説がなぜ世界的大ブームになったのか。キリスト教国で話題になるのはわかる。オカルト業界では知られた説でも素人さんには耳新しい。驚き感心し「歴史のタブーを暴く真実の書」と勘違いする人が出るのも無理はない。とはいえ、ブームがそのまま日本でも再現されたのは不思議なことだ。欧米でブームになっても日本では受けないものは珍しくない。日本にキリスト教信者は少なく、もちろんキリスト教タブーもない。タブーを暴く快感もない。
たぶん多くの日本人はもともとキリスト教に納得できない奇妙さを感じていて、その理由を説明してくれる何かを求めていたのだろう。「処女懐胎とか復活・昇天を信じる変な宗教」の「奇妙さ」をそのまま受け入れるのは難しく、オカルトと陰謀論で味付けした「ダ・ヴィンチ・コード」が口に合ったのだ。
日本料理が口に合わない外国人でも「テリヤキ」なら食べられる、おいしいと感じるようなものだろうか。外国人がテリヤキを好きになるのはいいが、「テリヤキがすべて」「テリヤキこそ日本料理の本質」と勘違いされると困る。真面目なキリスト教徒、特にカトリックの人たちが「ダ・ヴィンチ・コード」に抗議するのも無理はない。

キリスト教の「秘められた歴史の真実」(と称するトンデモ)が受けたのはまだわかるが、「ダ・ヴィンチ・コード」が「小説としてよくできている」という評価は私にはわからない。エンターテインメントは面白ければいいんだ、自分は楽しめたからこれはよくできた小説だ、というだけでは納得できない。「ダ・ヴィンチ・コード」がよくできているとしたら、スティーブン・キングやマイケル・クライトンの小説は神業である。
人様の好みをとやかく言うのは野暮なことだが、私の場合「ダ・ヴィンチ・コード」の「間違い」よりも小説として出来が悪いことに腹が立つので、どうしても文句が出てしまう。
本好きの多くがオカルト知識を持たないのは仕方ないけれど、小説としての程度はちゃんと見きわめてほしい。日本で「ダ・ヴィンチ・コード」が得た「週刊文春 2004年ベスト10」第一位、「このミステリーがすごい! 2005年度版(2004年)ベスト10」第4位という名誉は過大評価もいいところである。「ミステリチャンネル」と「本の雑誌」はベストテンに選んでいない。これが見識というものだ(参考資料「2004年度 ベスト本」)。


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 『ダ・ヴィンチ・コード』を読みました。
 カトリック信者が読んだ『ダ・ヴィンチ・コード』 - カトリックせいかつ。
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