玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

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9分間の奇跡

2006年04月29日 | テレビ鑑賞記
今まで見たなかでいちばん刺激的な映像のひとつ。
手に汗にぎり、アドレナリンが湧き上がり、見終わった後にはぐったりする。

YouTube - C'etait Un Rendezvous (Claude Lelouch)

Fresh News Delivery - フェラーリ275GTBが無許可でパリの公道を爆走する伝説の9分間
冒頭からアクセル全開で小気味いいエキゾーストノーストを響かせるこの映像は、「男と女」の監督クロード・ルルーシュが自らの愛車フェラーリ275GTBの フロントノーズにカメラを取付け 、友人のF1ドライバーモーリス・トランティニアンにパリの公道を許可なしで爆走させた伝説の9分間である。けっこう深い。ちなみに公開後、監督は逮捕されたそうだ。

そりゃ逮捕されるよな。
それにしても…

……
………
真似をするバカが出ないことを祈る。
これは奇跡の映像だ。そして、同じ奇跡は二度とは起きない。

「男と女」そして RENDEZVOUS
 そしてもう一本の映画「ランデヴー」もクロード・ルルーシュが、多分、身銭を切って個人的に作ったものだと思われます。なんとたった9分間のドキュメンタリーです。ストーリーもナレーションもBGMもありません。アメリカの自動車雑誌カーアンドドライバーが「自動車の映画の中で、いままで見たこともない最高のものの一つ」と評しています。
 たった9分間、たった9分間ですよ、この映画は。そしてこれは、どんなコンピュータグラフィックで作られたものをもはるかに凌いでいます。やらせではなくて現実の映像なんだということを説明しなくても誰でもわかるからです。36年前といえば、全てがアナログの時代だったのです。この二本の映画を作ったクロード・ルルーシュの自分の車フェラーリ275GTBのフロントノーズに撮影カメラをくくりつけ、早朝のパリ、凱旋門を正面に見える場所から、アクセル全開でスタートします。それだけを聞けば、なんだと思うでしょう。しかし、見ればどんな人も言葉を失います。このフェラーリはアクセルをゆるめません。赤信号であろうが、通行人が横切ろうが、前方をバスや車がふさごうが、この9分間一度も止まりません。いくら早朝で、今の日本に較べれば車が少ないとはいえ、パリのメインストリートを撮影のための交通規制なしに、フェラーリをアクセル全開でやり続けるということは計画だててもできないことでしょう。アクセルを踏みつづけていることは響きわたるV12サウンドとカメラが物語っていますし、一応計画されたコースを走るつもりだったのでしょうが、その場の道路状況によってアドリブで変えている雰囲気がよく伝わってきます。一発勝負の一か八かの映画をよくやったものだという感想を持つと同時に、誰もが見た後はニヤニヤしてしまいます。
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竹島問題の未来

2006年04月28日 | 「世に倦む日日」鑑賞記
私は「世に倦む日日」のファンなので、たまに同意できる(部分がある)記事が出るとうれしくなる。たとえば去年のロッテ優勝を喜びバレンタイン監督を祝福する記事がそうだ。あの文章は皮肉も揶揄もなしに「心のこもったいい文章だな」と思えた。
もしthessalonike2氏が100%完全におかしなことしか書かないのならそれは愚者か狂人の仕業であり、突っ込みを入れても面白くもなんともない。

…と書いたけれど、まずはいつものように味わい深い文章を賞味させてもらうことにする。

世に倦む日日 : 国際司法裁判所の竹島ジャッジメント - 六カ国協議へ差し戻し
竹島周辺の海底地名問題について、日本のマスコミは4/22の日韓事務次官交渉で韓国が6月の国際会議で名称変更提案を行わないことで合意したと報じていたが、案の定、韓国側が言っていたとおり、合意はなく、名称提案する可能性を韓国の国会で外交通商省第一次官(柳明恒)が言明した。
私は「合意はあったけれど韓国が(「愛国者」の圧力に負けて)ひっくり返した」のだと思う。
それにしても、「案の定、韓国側が言っていたとおり」という文章は味わい深い。thessalonike2氏の脳内のデフォルト設定では「韓国が正しい」にチェックが入っているようだ。
ネット右翼は日本の外務省の弱腰を非難しているが、柳明恒を地下駐車場まで追いかけるように東京から電話で緊急指示したのは安倍晋三である。「弱腰」の主は安倍晋三であり、現場で交渉を担当した谷内正太郎ではない。
小泉総理や麻生外相の責任を無視して安倍官房長官を批判するというのは、私にはよくわからない。thessalonike2氏は安倍氏がよほどお嫌いらしい。
そして現在の関心は、それでは国際司法裁判所で日韓が争う事態になった場合はどうなるかという論点に移っていて、ネットの一部でも詳細に予想が議論されている。韓国側も国際司法裁判所を意識して手を打ち始めたようだが、私の推測を言うと、恐らく判事が判決を出すのは容易ではなく、可能性としては、日本の民事裁判の事例のように、裁判所が調停に入って両国に和解を促すという方向になるのではないかと思われる。
私には国際司法裁判所がそこまで軟弱で政治的だとは思えない。
「日本の民事裁判の事例のように」判決を避けて和解をさせたがるのは日本の裁判所の特異性だ。当事者どうしで解決できないからこそ裁判に持ち込まれるのであって、裁判所本来の仕事は判決を下すことである。その責任から逃げるようでは国際司法裁判所の存在価値が問われることになり、判事たちはそんなことを望まないだろう。
私が客観的な立場の第三国の判事なら問題解決をどう提案するかと言うと、六カ国協議の場で議論して決めろと言うだろう。これは責任回避の態度だが、複雑な歴史が絡む難しい問題を簡単には結論は出せないし、どちらか一方に与して韓国からも日本からも嫌われたくない。
「どちらか一方に与して韓国からも日本からも嫌われたくない」と考えて責任逃れするような判事は「客観的立場」とは呼べない。むしろコウモリ的立場と呼ぶべきだ。本当に客観的な第三者なら、結果がどちらの利になろうとも合理性に沿って判断するはずだ。
「六カ国協議の場で議論して決めろ」というのはまさにthessalonike2氏らしいファンタジーだ。六カ国協議は北朝鮮問題を話し合う場であり、日韓問題(あるいは米韓問題、日露問題、中韓問題…)まで取り上げていては収拾が付かなくなる。thessalonike2氏の想定する「客観的な立場の第三国の判事」はそんなこともわからないほど愚かなのだろうか。いくらなんでも馬鹿にしすぎではないか。

ここまではthessalonike2氏独特の不思議な発想に突っ込みを入れてきたけれど、最後の段落には私にも共感できる部分がある。
国際司法裁判所の調停や判決は、日本の右翼が期待するほどには日本にとって有利な結論にはならないだろう。
(略)
国際社会に竹島の領有権を認めさせようとする日本の外交営為が、逆に韓国の竹島領有を固定化し永続化させる方向に作用することは、十分にあり得る展開ではないかと私は考えている。
この文章の前半には同意しないが、後半には考えさせられるものがある。
用心深い政治家は「前進」や「成功」がより困難な状況を生み出す可能性について考えておく必要がある。
私自身は竹島問題の未来についてこのように想像している。
「国際司法裁判所は筋の通った(つまり、日本の主張を全面的に認めた)判決を下す。だが韓国は判決を無視して『完全な主権回復の象徴』である『独島』を死守しようとする」
つまり、トルコが占拠している北キプロスやイスラエルが占領している東エルサレムのような状況だ。
なにしろ、大統領自ら「国際法よりも『独島』を守る」と言ってしまう国である。ポーカーに例えるなら、韓国の手札はワンペアなのにフルハウスを持っている日本に対抗してレイズ(賭け金を増加させること)し続けたあげく、負けを認めることも降りることもできなくなったような有様だ。何よりも韓国式「プライド」を重んじる彼らがゲームのルールを守りおとなしく敗北を受け入れるとは到底信じられない。
竹島問題で強硬論を主張する人たち(thessalonike2氏よぶところの「右翼」)が「韓国を国際司法裁判所に引っ張り出せば日本は勝利し、竹島は日本に返ってきて『竹島問題』は解決する」と思っているとしたらそれは甘すぎる。竹島問題の本質は「韓国問題」であり、韓国が日本にとってまともな国になる(あるいは、日本が韓国にとってまともな国になる)まで本当に解決することはない。

(追 記)
あまりバカバカしいので書き落としてしまったが、thessalonike2氏の最終的な結論はこうだ。
日本が国際外交で竹島を奪還したいと考えるなら、日本は中国と仲良くしなくてはならない。それが必須条件だ。
実にくだらない。
仮に中国が日本に味方して韓国を説得する、あるいは圧力をかけるとしても、「独島愛」あふれる韓国民と韓国政府が納得するはずがない。なにしろあの小さな島が愛国心と民族の独立の象徴になってしまっているのだから。それこそ六カ国協議の参加国すべて(日米露中・北)が「竹島を日本に返せ」と要求したとしても、韓国民の熱く燃え上がる愛国心に燃料を与えるだけだろう。必要なのは韓国政府と韓国人の「独島」への執着を冷ますことだ。それがどうすれば可能なのか、残念ながら私にはわからないけれど。
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コトバと文字と情報と

2006年04月26日 | ネット・ブログ論
考えてみると、「耳で聞くコトバ」と「紙に印刷された(モニターに写る)文字の連なり」とは物理的には全く違うものである。
全く違うものから同じような「意味」「情報」を取り出す(組み立てる?)脳の働きは不思議だ。
うまくできない人がいるのも当然のような気がする。

みやきち日記:ネットリテラシーやメディアリテラシー以前に、「プチ文盲」な人が多くないか
塾の講師を長年やっていて気づいたのが、文字から情報を取り出して理解することができない子がたくさんいるということ。その能力の低いこと、もはや文盲に近いです。あたしは便宜上こうした子たちを「プチ文盲」と呼んでいます。

リンク先で「プチ文盲」と呼ばれているのはどうやら「知的咀嚼力と知的意欲が低い」人たちのようである。この場合「文盲」という言葉を使うのは違うような気もする(「差別語」うんぬんの問題ではない)。世界中の文盲の人たちの多くはいろいろな理由で教育の機会に恵まれなかっただけであり、彼ら自身の学習意欲は必ずしも低くはないだろうというのが私の想像である。「学習意欲の低い人」を文盲と呼ぶのは豚肉を忌避するムスリムを「偏食」と呼ぶのと同じくらい違うのではないか。

いや、私の書きたかったのはそういうことではなかった。
私自身もある分野においては「文字から情報を取り出して理解することができない」のであり、その分野での学習意欲も低く、みやきち氏の呼ぶところの「プチ文盲」の一人なのだ。

私は音譜が読めない。
それはもう全く読めない。「ポッポッポッ、はとぽっぽ」とか「大きなのっぽの古時計」とか、簡単な旋律の童謡でさえ音譜を見て頭の中に音を響かせることができないのだ。ちょっと恥ずかしい。
それでは音痴なのか、と聞かれると「たぶん違うと思いますけど…」と自信なく答える。とある事情で(信者でもないのに)教会のクリスマスミサの聖歌隊に加わりガウンを着て賛美歌を歌ったことがあるけれど、音程がはずれていると注意されたことはなかった。カラオケは苦手だが歌っているときに聞き手が逃げ出したり耳をふさがれたことはない。つまり私は天地神明に誓って音痴ではないのである(本当か?)。
もっとも、学校で音楽の成績は悪かった。小学校ではリコーダーの課題に泣き、中学校では調性の概念がわからなかった(今でもわからない)。高校では音楽を選択せず、大人になってからマラカス以外の楽器を手にしたことがない。

私の場合は音痴ではない(たぶん)けれど音譜が読めない。
みやきち氏の呼ぶところの「プチ文盲」は会話能力はあるけれど文章が読めない。
SF的想像力を羽ばたかせれば、パラレルワールドの私は言葉ではなく音楽でコミュニケートする世界で学習障害者として苦労しているのかもしれない。その世界で人々は会話の代わりにハミングし、ビジネス文書に文章ではなく音譜を書くのだ。
とても楽しそうで美しい世界だが、そこに移住したいとは思わない。私はこの世界のブログに文章を書いていくらかでも読者に楽しんでもらえることを幸せに思う。
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「韓国の新聞は盧武鉉大統領を批判してはならない」

2006年04月25日 | 「世に倦む日日」鑑賞記
これこれ、「世に倦む日日」はこうでなくっちゃ。

世に倦む日日 : 盧武鉉談話の正論 - 韓国は日本の右翼に妥協してはならない
盧武鉉大統領が竹島問題に関する特別談話を発表した。盧武鉉大統領が日韓関係について公式に主張を発表するのは初めてであり、韓国の大統領が、国内で、日韓関係についてメッセージを発信するのも恐らくこれが初めてだろう。しかも単なる書面のリリースではなく、テレビで生中継しての異例のものだった。テレビで確認したかぎり、盧武鉉大統領は下を見て文書を読み上げるのではなく、正面のカメラに向かって演説しており、今回の発表に対する並々ならぬ決意が示されている。しかも中身がきわめて強硬だ。これまで、外国の政治指導者が、特に直後の訪日等の予定もないのに、日本との外交上の問題について自国内で特別な談話を発表するのを聞いた経験がない。異例中の異例のものである。特に盧武鉉は大統領であり、単なる政治指導者ではない。国家元首である。日本であれば天皇陛下の地位にあたる。隣国の元首が、国家を代表して、日本の政府と国民にあてて重大なメッセージを発表した。襟を正して傾聴すべきだ。

私も襟を正してthessalonike2氏の文章を拝読しよう、と思ったが残念ながら着ているのがユニクロで買ったジャージなので襟はなかった。
盧武鉉大統領の談話そのものについては「ふーん」と「やれやれ」の中間程度の感想しか持てない。これまで言ってきたことを2割がた強めてみました、というだけであり、市場にインパクトを与える新商品とは言えない。すれっからしの韓国ウォッチャーにしてみればむしろ期待はずれだろう。
だが盧武鉉談話についての「世に倦む日日」記事は違う。いや、thessalonike2氏がこういう反応をするだろうということは私にとって予想可能だけれど、それでもやはり面白くてたまらないのだ。いったいなぜだろう。
日韓の珍味のコラボレーション、キムチ風味のクサヤというところか。ニッチ商品だけどやみつきになる人はどっぷりとハマる。
この特別談話は前日から予告されていたものであり、朝の9時半にテレビで生中継というスケジュールも半日前に明らかにされていて、ニュースとして日本国内に伝わっていた。だから私もNHKの衛星放送が番組を編成して中継を入れるだろうと予想して、期待して待機していたのだが、NHKは中継放送を入れなかった。これは非常に不可思議な事実であり、事の真相を訝しんでしまう疑惑である。安倍晋三から手が回って中継を阻止されたのだろう。
「安倍晋三から手が回って中継を阻止されたのだろう」
うーん、何度読んでも味わい深い。この一言だけでごはん三杯はいける。

日本のブログで韓国のマスコミに呼びかけるのも妙だが、韓国の新聞は盧武鉉大統領を批判してはならない。主権と独立の防衛は国家と民族にとって何より重要なものだ。ホーチミンは「民族の自由と独立ほど尊いものはない」と言った。結束して日本の右翼排外主義と対決せよ。歴史認識での妥協は再びの侵略の容認に繋がる。

さすがだ。「韓国の新聞は盧武鉉大統領を批判してはならない」と言い放つクールさに痺れる。
thessalonike2氏は「正しい」ことは批判してはならないとお考えなのだろうか。私は批判に耐えることが正しさを証明するのだと思う。多くの批判を受け、それをはね返してこそ正しさは磨かれ強くなる。
かの相対性原理にしても、世界中の科学者はいろいろな実験を行ってアインシュタインの過ちを見つけ出そうとしている(そして成功していない)。批判が許されない存在とは、宗教の信者にとっての神と同じことだ。thessalonike2氏は韓国の新聞に盧武鉉を信仰せよと命じるつもりなのだろうか。

「主権と独立の防衛は国家と民族にとって何より重要なものだ。ホーチミンは「民族の自由と独立ほど尊いものはない」と言った」
thessalonike2氏は日本の主権と独立についてどのようにお考えなのか、と問うてみたい気持がつい湧き上がるが、そんなことをしても坂田利夫に「バカな真似して恥ずかしくないんですか!?」と聞くのと同じくらい無意味であり野暮というものだろう。今はただthessalonike2氏の味わい深い文章を鑑賞するだけにしておこう。
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勝って兜を脱ぎ捨てる

2006年04月25日 | 政治・外交
千葉県補選の件。
マスコミの多くは太田氏の勝利を「民主党勝利」「自民敗北」として「格差社会への国民の怒り」「潮目が変わった」とか書いている。
私は「そうかな?」と疑問に思う。

選挙自体の勝敗について疑問はない。民主党候補の太田氏が勝ち、自民党に所属し公明党が推薦した斎藤氏は負けた。
だがその票差は1000票にも満たないものであり、ほんのちょっとのことで逆転した可能性が高い。
さくらさんが惜しんでおられるように、武部幹事長考案の「最初はグー、さいとうけん」とか83会(マスコミの呼ぶところの「小泉チルドレン」)の大量投入とか、有権者に「去年の勝利に驕る自民党」の悪印象を与え嫌われるようなことをしなければ斎藤候補は勝ったかもしれない。

一議席と候補者のことではなく、「自民党」と「民主党」の勝敗はむしろ選挙後に決まるのだと思う。
議席そのものは(候補者と選挙関係者には失礼だが)国会における一票にすぎない。

接戦に敗れた(苦戦した)原因、有権者の意識、自分たちの強みと弱み、他党の動向…
「戦闘」後の情報分析をしっかり行い、確実に対処できる党こそが今回の補選で真の利益を得ることになるだろう。
その点、「勝利」後にテレビで見かける民主党幹部や議員たちの姿は浮かれていて頼りない。私の目には「勝って兜の緒を締めよ」という言葉を知らない人たちのように見えてしまう。
何だか「ああ勝った勝った、やれやれ」と兜を脱いで祝勝の酒盛りをしそうな雰囲気だ。桶狭間の今川軍かよ、と突っ込みを入れたくなる。

その中で小沢代表だけはいつもの仏頂面をそれほど崩すことなく、なにやら腹に一物ありそうで不気味だ。政治家としての賞味期限切れを危惧された小沢氏だが、お子様っぽさが無いという点において民主党の中で大いに異彩を放っている。
民主党がこの先どうなるかはわからないが、小沢一郎は今川義元のように油断して首を取られることはなさそうだ。
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アジテーターに堕した花岡信昭氏

2006年04月23日 | 政治・外交
率直に言わせてもらえば、馬鹿じゃないかと思う。

花岡信昭ウェブサイト - my weblog : 「竹島」日韓軍事衝突を見たかった
領土を獲得するのに、「話し合い」で決着するなどということはまずない。フォークランド紛争でときのサッチャー首相は英国海軍艦隊を派遣、戦闘の末に奪取した。これが当たり前の国の当たり前の姿である。それができなかったところに日本の「国家の基本的対応が備わっていない、敗戦国ショックを引きずったままの状況」があった。

 本来は、韓国が警備隊を乗り込ませたときにこちらも兵を送って奪い返すのが「通常の」やり方なのだが、平和国家・日本はそれをしなかったのである。国家の主権が侵害されようと、なすすべもなく見ているだけだったのだ。これは北方領土でも基本的には同じであって、もし、自衛隊派遣となれば、国民のどれほどが支持するかと考えると、なんともおぼつかないのである。

 竹島の場合、半世紀にわたって韓国の実効支配が続いているわけだ。日本側がいかに古文書を持ち出して、日本の領土でございますと主張したところで、半世紀も放っておいたら、国際社会は認めるだろうか。

 だから、今回は格好のチャンスだったのである。海上保安庁の調査船が堂々と調査を行い、これを妨害されたら、正当防衛として対抗し、さらに自衛隊が出動する。軍事衝突が一度起きれば、今度は政治決着への道が模索され、竹島問題は一ランク上がることになる。

 日本の領土と主張している以上は、相手が力でくるなら、こちらも力で奪い返さなくてはならない。何度も繰り返すが、これが当たり前の国の当たり前の対応なのであって、なんら不思議なところはない。
ウィニングラン未放映問題では花岡氏の結論支持した私だが、こういう愚かしい文章を見ると本当にうんざりする。

誤解のないようにあらかじめ言っておくが、私が愚かしいと断じたのは花岡氏の「軍事力で竹島を奪還すべき」という主張ではない。いや、この主張そのものには決して賛成しないけれど、「結果として日本にメリットがない」というレベルであって、愚かしいとまでは言わない。

私が強い嫌悪感を抱いたのは、花岡氏が自衛隊派遣(竹島への防衛出動)について「国民のどれほどが支持するかと考えると、なんともおぼつかない」と認めておきながら、「海上保安庁の調査船が堂々と調査を行い、これを妨害されたら、正当防衛として対抗し、さらに自衛隊が出動する」ことを「格好のチャンス」としていることだ。
この発想は関東軍と同じだ。石原莞爾と何の違いもない。事件が起きたら(関東軍の場合は自分で事件を起こしたのだが)それを拡大し国民感情を煽りたてようということだ。無責任きわまる機会主義であり、日本の運命を勝手に賭け代にしてバクチを打とうということだ。

花岡氏はお気楽にも「軍事衝突が一度起きれば、今度は政治決着への道が模索され、竹島問題は一ランク上がることになる」と書いているが、軍事衝突(戦争)とはパンドラの箱であって、それが開かれたあと花岡氏が決め込んでいるような都合のいい結末に落ち着くという保証はない。だからこそ明治天皇は日清戦争に同意せず、伊藤博文はぎりぎりまで日露の衝突回避を模索し、山本五十六は最後まで日米戦争に反対したのである。
山本五十六にはこういうエピソードが伝えられている。
○連合艦隊最終打合せでの山本と指揮官たちの応酬の言葉
山本「ワシントンで行われている対米 交渉が妥結したならば、ハワイ出動部隊はただちに反転して帰投せよ」
南雲忠一中将など何人かの指揮官「それは無理な注文です。出しかけた小便は止められません」
山本「もしこの命令を受けて帰れないと思う指揮官があるなら即刻辞表を出せ。百年兵を養うは、ただ平和を守るためである

その時歴史が動いた「シリーズ真珠湾への道 <後編> ~山本五十六 運命の作戦決行~」
軍事力行使の重さを理解していれば、「格好のチャンスだったのである ~ 軍事衝突が一度起きれば」などという無責任な発想は生まれてこない。残念ながら、花岡氏は昭和初期に関東軍の暴走を応援した愚かなマスコミのレベルから大して進歩していないようだ。

花岡氏が本当に「竹島問題を一ランク上」げたいのなら、ご自分のペンの力で読者に、国民に訴えればよいのである。国民意識が変われば日本政府の態度も変わり、日本が行動すれば世界はそれに反応せざるを得ない。
具体的に言えば、憲法改正と「竹島への防衛出動」の正当性をあちこちの媒体(新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・ネット…)で語ること、これこそが氏の「ジャーナリスト」たる職分ではないか。
「格好のチャンスだったのである ~ 軍事衝突が一度起きれば」などと書いて恥じない輩は、私に言わせてもらえばジャーナリストを名乗るに値しない。むしろ無責任な野次馬、あるいはアジテーターと呼ぶほうがふさわしい。
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から騒ぎの果て

2006年04月23日 | 政治・外交
どうなるか心配したけれど、穏当な決着となり喜ばしい。

日韓、竹島問題で合意・測量は中止
日韓双方が領有権を主張する島根県の竹島(韓国名・独島)周辺での海洋調査計画を巡り両国が対立していた問題は22日、双方が譲り合う形で決着した。外務省の谷内正太郎次官と韓国の柳明桓(ユ・ミョンファン)外交通商第1次官が21日に続き、ソウルで会談し、日本が海洋調査を中止する一方、韓国は竹島周辺の海底地形の韓国名表記を6月の国際会議に提案しないことで合意した。両国の排他的経済水域(EEZ)の境界画定交渉を5月中にも再開することも決めた。

 小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題などもあり、冷え込んでいた日韓関係をさらに揺さぶった今回の問題は海上保安庁が調査計画を公表して以来、1週間ぶりにようやく収束する。ただ、竹島領有権の本質的な問題は残っており、今後も両国関係の火種になりそうだ。

 合意内容は(1)韓国はドイツで6月に開催する海底地形の名称に関する委員会で韓国名表記を提案しない(2)中断したままのEEZの境界画定に関する交渉を5月中にも局長級で再開する(3)日本は予定していた海洋調査を中止する――の3点。
記事を読むかぎりでは、日本政府は一切の見返りを与えることなく「韓国による海底地形の名称提案」を阻止したことになり、見事な外交的勝利といえる。
「EEZの境界画定に関する交渉」の再開が韓国への見返りと取れないこともないが、「靖国問題」でも見られるように日韓交渉ではほとんどの場合「都合が悪くなると交渉を拒否する韓国」「韓国をなだめすかす日本」という構図となる。日本は常に交渉を求める立場である。また、韓国が海底地形の提案をしないのであれば、日本が「海底地形名称に関する小委員会」にあわせて測量を行う必要はない。やはり日本政府は韓国に何も与えていないと見るべきだろう。
もともと韓国政府の態度が極度に自己中心的かつ視野が狭く不合理だったので、彼らが多少なりとも理性を取り戻せば日本の提案を受け入れるほかないことは明らかだった。
日経の記事には「双方が譲り合う形で」と奇妙なことが書かれており、TBSのニュースでは「日本が測量を中止」と、まるで韓国におそれをなして引き下がったかのような見出しを付けていた。マスコミがこの決着の意味を理解できないのだとしたら愚かだし、わざと曲解して「日本外交の失敗」を演出したのだとすれば悪質だ。


それにしても、韓国政府と「愛国的」韓国民はあれほどまでに興奮し大騒ぎしていったい何を手に入れたのだろうか。

【海洋調査】柳次官「大韓民国の存続をかけてでも」
 独島(日本名竹島)近海水域における日本の海底探査計画に端を発した韓日間の問題を解決するため、交渉に当たっている柳明桓(ユ・ミョンファン)外交部第1次官が21日、これまでに例のない強硬な発言を繰り返し注目を集めた。柳次官は交渉を控え、記者らと懇談し「大韓民国の存続をかけ、物理的な力を動員してでも(日本の探査は)防がねばならない」と話した。外交官としての33年の経歴を持つ柳次官によるこの発言は、会談会場の内外で大きな話題となった。

 柳次官はまた、別の場所で「今日は手加減しない」とも話した。日本の外交官らは普段慎重な言動で知られる柳次官の「非外交的」な発言に、驚いた様子だったと伝えられる。それだけに、一連の発言は今回の事態に対する韓国政府の厳しい姿勢を反映したものとの見方もある。
柳次官は「大韓民国の存続をかけ、物理的な力を動員してでも」と息巻いていたのに、結局は日本の提案を丸呑みすることになってしまった。一体何のためにあれほど強硬な姿勢を誇示したのかわけがわからない。
私の目には、彼らは勝手に空騒ぎして恥をかいただけのように見える。
もしかしたら韓国の方々は「我々の真摯な怒りが『独島』侵略の悪辣な野望を打ちのめした」と勝利の喜びに沸いているのかもしれない。だとすれば、私が「いや、日本政府の目的は『測量すること』ではなく、『海底地形名称 に関する小委員会』で…」と言っても彼らの耳に入りはしないだろう。

そういえば、かの「世に倦む日日」thessalonike2氏は韓国政府を全面的に応援していた。

世に倦む日日 : 盧武鉉大統領の正論とその前提 - 日韓基本法としての村山談話
現在、竹島(獨島)はまさに韓国の国家と国民の統合の象徴であり、中国の万里の長城と同じであり、日本の皇室と同じ意味の存在である。

盧武鉉大統領は、4/20の演説で「過去の侵略戦争で得た占領地に対する権利を主張する人たちがいる」と述べ、「ひたすら『和解しよう』との言葉だけでは解決できない難しい状況に直面している」と日韓関係についての厳しい情勢認識を示した。この発言は4/20のNHKの7時のニュースでも放送された。大統領の主張は一年前に発表した談話から変わっていない。私はこの談話と大統領の姿勢を基本的に評価し支持する立場であり、私も一年前の主張から特に変わってはいない。

thessalonike2氏と韓国の「愛国者」たちは激烈な言葉で「敵」を批判する態度においてよく似ている。「敵」を攻撃するのに夢中になるあまり、結果がどうなるかを見誤るところもそっくりだ。
いや、もしかしたら彼らは「結果から逆算して考える」ようなやりかたを不純で小賢しいと感じているのかもしれない。
マンガや小説の登場人物としては「ひたすらに『正しい』ことを追求し結果がどうなろうと知ったことではない(あるいは、すべてを『敵』の責任にする)」と考える直情的な人間は魅力的だが、現実世界で隣人として付き合うのはたいへん疲れるものである。
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「弁護」の意味を知らないthessalonike2氏

2006年04月21日 | 「世に倦む日日」鑑賞記
thessalonike2氏は文章を書くとき辞書を引かないのだろうか。

世に倦む日日 : 護憲派の愚行と自失 - 人権派弁護士における政治的緊張感の欠如
今回の安田好弘と足立修一の問題は、二人が被告人の人権の擁護にのみ妄執狂奔して、正義を実現する弁護士の使命を忘れ、無視逸脱していることである。
それは違うだろう。
あの事件の弁護士たちのやっていることは「被告人の人権の擁護」というより自分たちの死刑廃止論のアピールだ。
あんなやり方では裁判官の心証を悪くするだけであり、弁護の成功は望めない。彼らにとっては被告が死刑になろうとなるまいとそのこと自体は二次的な問題であり、自分たちの主張を社会に宣伝できればそれでいいのだろう。
彼らは殺意を否定しているのだから、もし被告人が死刑になれば「『冤罪で殺された』被告は死刑制度の犠牲者だ」と宣伝することができる。むしろそうなったほうがメリットがあると考えているのかもしれない。



弁護人は弁護を通じて社会正義を実現しなければならない。
この主張自体に異論はないけれど、18日のエントリにあった「弁護活動の目的の第一は被告人の量刑軽減ではなく、正義の実現と真実の解明ではないのか。」という主張とはまったく違う。thessalonike2氏は以前の文章を取り消されたほうがよろしいのではないか。
あらためて説明する必要もないことだが、弁護という言葉の意味は

 「その人のために申し開きをして、その立場を護ること。その人の利益となることを主張して助けること。」 goo国語辞典

である。被告人にとって法廷における利益とは何だろうか。何よりもまず「量刑の軽減」であろう。
まさか「あの」被告人が「自分の刑を軽くするより社会正義の実現を望みます」と言うはずもない。


thessalonike2氏の
  18日の主張 量刑軽減ではなく、正義の実現」
  20日の主張 弁護を通じて社会正義を実現」

たった二日で主張をがらりと変えて平然としているthessalonike2氏の神経の太さには感服するほかない。

(追 記)
読み返してみるとなんだかピンボケな文章なので追記します。

thessalonike2氏の
18日の主張 「量刑軽減ではなく正義の実現を」 = 弁護不要論
20日の主張 「被告人の人権の擁護にのみ妄執狂奔して、正義を実現する弁護士の使命を忘れ、無視逸脱している」 = 弁護過剰論

玄倉川の主張 「あの事件の弁護士たちはまともな弁護をしていない」 = 弁護不在論


(追 記 その2)
弁護団への批判は根拠のない憶測でしかないと納得したので取り消します。(玄倉川の岸辺 書きたくはない
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社会主義的弁護士を望むthessalonike2氏

2006年04月20日 | 「世に倦む日日」鑑賞記
最近は全然見ていなかった「世に倦む日々」だが、finalventさんが取り上げていたので久しぶりに読んでみた。

世に倦む日日 : 本村洋の復讐論と安田好弘の怠業 - 山口県光市母子殺人事件
弁護士だから被告人の量刑を軽くするべく尽力するのが当然だという議論もあるが、裁判が正義と真実を明らかにするものであり、弁護士もその司法の大義に仕える一部であるのなら、弁護活動の目的の第一は被告人の量刑軽減ではなく、正義の実現と真実の解明ではないのか。
これはひどい。
私は法律の知識ゼロだが、thessalonike2氏の「裁判が正義と真実を明らかにするものであり、弁護士もその司法の大義に仕える一部であるのなら」という仮定がそもそも変だと思う。Wikipediaにも
「弁護士(べんごし)とは、法的手続において当事者の代理人として法廷で主張・立証等を行うほか、各種の法律に関する事務を行う職業、またはその資格を持った人である。当事者の代理人として委任契約で報酬を得る。」
と書いてある。弁護士は弁護を引き受けた相手(被告)のために活動するのであって、「司法の大義に仕える」ものではなかろう。
昔読んだソルジェニーツィン「収容所群島」には、「被告人の量刑軽減ではなく、正義の実現と真実の解明」のために働く「社会主義的な」弁護士の姿が描かれていた。彼らはほとんど検事の助手のような仕事をしており、時には法廷で検事よりも激烈に被告を弾劾したというが、thessalonike2氏は万が一ご自分が被告席に立たされたとき、そのような弁護士を望むのだろうか。
私だったら嫌だ。私なら有働弁護士に依頼する。本当は田代弁護士に頼みたいのだが、どうやら彼女は女性からの依頼しか引き受けないようで残念だ。

それにしても、この記事に対して多くのブックマークが集まっているのが不思議だ。私にとっては「変な人がいつものように変なことを書いている」というだけのことなのだが。


世に倦む日日 : 山口県光市母子殺害事件(2) - 良妻賢母だった23歳の弥生さん
何もかもが絶望的なこの日本で、本村洋は私にとって宝石のような美しい貴重な存在であり、この若い、優秀な優秀な優秀な優秀な男を、国会議員にしたいと希(こいねが)う。日本国憲法が想定する国民代表の理念型は、本村洋のような人間的資質をこそ具体要請しているのである。できればこの男を総理大臣にしてみたい。今すぐに日本国の運営を任せてみたい。
私のようにひねくれた人間は、このように大仰で手放しの賞賛を見るとつい「皮肉なのか?」と疑ってしまうが、どうやらthessalonike2氏は本気らしい。
本気であれ皮肉であれ、どちらにしても情緒過多でグロテスクな文章だ。
もしかすると「この手の文章が読者に受けるはず」という計算によって書かれたのかもしれないが、だとするとよほど読者を馬鹿にしている。まるで日刊ゲンダイのように安っぽく扇情的な文章なので読むうちに恥ずかしくなり、やがて怒りさえ沸いてくる。
最後の段落の
「だから弥生さんの写真を見ていると不思議であり、とてもいいものを見ている気分になり、何と惜しいことをしたのだろうという気分が自然に沸いてくるのだ。」
などという文章は、私には死者への冒涜としか思えない。「いいもの」とはいったいどういう表現だろう。
民主党の小沢代表が「靖国問題」について問われたとき「そもそも、あれ(A級戦犯)を祭るのが間違い」と語ったそうだが、なんだか似たような「生者の傲慢」「死者の尊厳の軽視」を感じていやな気分になる。
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一歩と百歩

2006年04月15日 | 日々思うことなど
「百歩譲って」
私はこの言葉が嫌いだ。
念のため左のサイドバーで「ブログ内検索」してみたが、自分では一回も使っていないことを確認してほっとした。

てっきり「百歩譲って」は「一歩譲って」の誤用だと思っていたら、goo辞書では「誤用」とはされていなかった。
Googleで検索してみると、「百歩譲って」は約 408,000 件ヒットするのに対し「一歩譲って」は約 34,800 件。「百歩」のほうが10倍も多い。
この言い方は昔からあったのだろうか?
私が子供のころは「一歩譲って」が普通の言い方であり、「百歩譲って」はわざと大げさな言葉を使うときにだけ用いたような記憶がある。もっとも、私は子供のころからやたらと物覚えが悪いのであてにはならない。

「一歩譲って」と「百歩譲って」の違いは、私の頭の中ではこのように映像化されている。

まず「一歩譲って」の場合。
二人の男が話し合っている。
そのうち興奮し、アメリカ映画によくあるようにお互いのつばがかかるほど顔を近づけて怒鳴りあう。
しばし怒鳴りあった後、自分たちのやっていることの不毛さに気付いた二人は苦笑いし、「一歩」の距離を置いて冷静な話し合いに戻る。
これが「百歩譲って」だとどうなるか。
場面の前半は同じだ。だが、お互いの距離が「一歩」であれば普通の声での会話が可能だが、「百歩」となるとそうはいかない。なにしろ、歩幅を60cmとすると百歩では60mである。とても普通に会話のできる距離ではない。
「百歩」の距離を置いた二人は自分の主張を声を限りに叫びあう。相手の言葉は風に流されてよく聞こえない。やがて機転の利くほうの男がハンドマイクを持ち出して相手を圧倒する。
私の感覚だと、「一歩譲って」は「会話のための適切な心理的距離を作る」という意味だが「百歩譲って」だと「会話の拒否」「一方的自己主張宣言」に近い。

たぶん、「百歩譲って」を何気なく使う人にはそのような意図はないのだろう。おそらく「一歩」よりも「百歩」譲ったほうがより謙虚であり、相手の(あるいはギャラリーの)心証を良くすることができる、と考えているのだろう。
だが本当にそうだろうか。私には「一歩譲って」よりも「百歩譲って」のほうがずっと攻撃的な言葉であるように思われる。
「百歩譲って」の「百」という言葉に具体性はなく、「大量に」という意味だろう。「百歩譲って」という言い方は、「自分は(考えられないほど)大量に譲歩をしたのだ、だからお前もそれに応じる義務がある」という脅迫の意図を秘めているように私には感じられる。

「一歩譲って」と「百歩譲って」の違いを無理やり具体的状況にしてみる。
町を歩いていて誰かにぶつかりそうになったとする。そのとき、「一歩」を横に譲って相手を通す動きは優雅で心地よいものだ。だが、もし相手が「百歩」譲ろうと全速力で走り去ったらどう思うだろう。私だったら「よほどひどく嫌われた」とか「自分のそばに爆弾でもあるのか」とか想像してずいぶん嫌な気分になる。
もちろんこんな極端な状況は「世にも奇妙な物語」以外で起きるはずもないが。

要するに、「一歩(あるいは三歩、五歩)譲って」であれば程がよいのに対し、「百歩譲って」はあまりにも大げさすぎるのである。本当にぎりぎり最大限の譲歩をするのならともかく、本当はぜんぜん譲る気がないのに「百歩譲って」を使うのは見苦しい。
外交交渉の場で北朝鮮がとんでもなく非常識なわがままを並べ立てたあげく、最後に「わが国は最大限の譲歩をした」と宣言する姿を思い浮かべてしまう。

そういうわけで、私はよほどのことがない限り「百歩譲って」という言葉は使わないことにしている。
本当は「百歩譲って」を使う人たちに口うるさく注意したいのだが、なにしろ多勢に無勢、ごまめの歯軋り、蟷螂の斧。
ここは「一歩」を譲って、ひとさまの言葉遣いに文句を言うのはやめておこう。

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