玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

職業倫理と「人としての倫理」

2007年10月03日 | 光市母子殺害事件
橋下弁護士のブログを読んであきれた。

橋下徹のLawyer’s EYE : 原告今枝弁護士へ

思い付きを並べた散漫な長文で、引用しようにもどこを選べばいいか迷う。
橋下弁護士の考え方が端的にあらわれた一行だけ引用しよう。

簡単に言うと、「弁護士の職業倫理の前に、人としての倫理がまずあるだろう」と。

私はこれを読んで「なるほど橋下氏が弁護士失格と言われるわけだ」と納得した。
たぶん多くの人が「弁護士の職業倫理の前に、人としての倫理がまずある」という橋下氏の言葉に何の問題も感じないだろう。私は職業倫理と「人としての倫理」を対立させる誤解(あえて誤解と言い切ってしまおう)が「世間」の感情的な弁護士批判の元になっているように思う。
(余談だが「人としての倫理」という言葉はちょっとおかしい。「人」の倫理のほかに「ライオンとしての倫理」とか「電車としての倫理」とか「山としての倫理」が存在するだろうか。「人として」などと大げさにせず「基本的な倫理」とか「社会倫理」でいいはずだ。「人として」を強調するのは「批判する奴は人間失格」という決め付けが隠れているようで嫌な感じがする)


「プロフェッション」という言葉がある。
…と書いてはみたものの、実は私自身プロフェッションの意味について充分に理解しているわけではない。以前ある本でプロフェッションの特質について書かれているのを読み「なるほどそういうことか」と感心したのを覚えているが、その本が誰が書いた何という本だったのかどうしても思い出せない。ネットや図書館で少し調べてみたものの、あの本ほど納得できる説明は見つけられなかった。
だから、以下に書くのは素人の手探りである。

プロフェッションの歴史的発展
 プロフェッションの概念は、西欧社会の中でどのように形成されてきたのであろうか。語源的には、プロフェッションは、プロフェス(Profess)--信仰を告白する--という言葉から派生したものであって、非常に宗教的ひびきをもった言葉である。また沿革的にも、初期のプロフェッションは教会と強い結びつきがあったといわれる。
(中略)
初期のプロフェッションは教会の強い影響のもと大学の中で育ってきたのであり、中世ヨーロッパの大学は、それゆえにプロフェッションのための訓練所でもあったのである。このことは、当時の大学が、一般に神学(Theology)・法学(Law)・医学(Medicine)、の三つの学部から成っていたこと、そして当時のプロフェッションが、聖職者・弁護士・医師に限られていたことによっても知ることができよう。


第18回日司連中央研修会 基調講演法律家としての倫理
倫理的な法律家とは、「プロフェッションのあり方について、見識を持ち、正しい法実践をすることのできる法律家」だという。そして、プロフェッションとは、「学識に裏付けられ、それ自身一定の基礎理論をもった特殊な技能を、特殊な教育または訓練によって習得し、それに基づいて、不特定多数の市民の中から任意に呈示された個々の依頼者の具体的要求に応じて、具体的奉仕活動を行い、よって社会全体の利益のために尽くす職業」のことを言う。


弁護士という職業は誕生したときから神と自らの良心への誠実を誓うプロフェッションだった。プロフェッションの根本は高度な専門知識と厳しい職業倫理である。職業倫理は「人としての倫理」を無視したものではない。聖職者のプロフェッションも弁護士のプロフェッションも医師のプロフェッションも、人としての倫理をはみ出すものではなくむしろ素朴な倫理観を専門知識と良心によって深めたものである。
たとえば聖職者は信仰を通じて世の中のために善行を行う。神は善であり、神の命じることは善である。もし彼が「神が悪を命じる」ことがあると信じるようになれば聖職者でいられないだろう。
同じように弁護士も法秩序の正義と弁護士の職業倫理を信じなければ職務を果たせない。職業倫理を守り、それを高めることによって正義が実現されると確信しなければ誠実な弁護はできない。そもそも「悪人(と世間からみなされる被告人)の味方となり代弁する」刑事弁護人の仕事は職業倫理と責任感の助けなしには困難だ。

ところが橋下弁護士は、弁護士の職業倫理が「人としての倫理」とは別に存在していると思っているようだ。(「弁護士の職業倫理の前に、人としての倫理がまずあるだろう」
もし弁護士の職業倫理が基本倫理に反したものであるなら問題だが、もちろんそんなことはない。橋下弁護士が「世間」に光氏母子殺害事件弁護団への懲戒請求を煽る根拠に利用した「弁護士倫理規定」を読んでも「人として」許せないようなことは書かれていない。弁護士の職業倫理が「人としての倫理」を基にしているのは当然であり、それはパンなしのトーストが存在しないのと同じだ。

橋下弁護士が光市母子殺害事件弁護団の手法に倫理的問題があると考えているなら、まず弁護士倫理規定を用いて批判すればよかった。第一条には「弁護士は、その使命が基本的人権の擁護と祉会正義の実現にあることを自覚し、その使命の達成に努める。」とあり、「過度の情報公開が被害者家族の基本的人権を侵している」といった批判をすることは充分可能だ。「『社会正義の実現』のために世間に対して説明責任を果たせ」という批判だってできなくはない。
あるいは橋下弁護士が「弁護士倫理と『人としての倫理』の間に容認できないズレや矛盾がある」と考えるなら、彼がすべきなのは弁護士倫理を基本倫理に沿うように改めることだ。橋下弁護士が引用した佐藤彰一教授はそのようなことを言っているのだろう。具体的な改善案がどんなものになるかわからないが、理にかなうものであれば弁護士からも「世間」からも歓迎されるはずだ。

だが橋下弁護士は弁護士倫理の向上・改善を呼びかけるより、弁護士倫理を(一時的に?)放棄して「人としての倫理」に従えと叫ぶ。
彼のいう「人としての倫理」とは「世間」や「空気」のことだろう。弁護士倫理に畏れを抱かず、世間に媚びるのを邪魔する障害物とみなしているようだ。橋下弁護士の文章からは弁護士の職責の重さ、職業倫理の厳しさが感じられない。私が「弁護士失格」と感じたのは彼が「自分が弁護士であること」「弁護士倫理を守ると誓ったこと」を忘れた無責任な弁護士批判をしているからだ。
職業倫理を軽んじるものは誠実な職業人とはいえない。「信仰告白」を語源としたプロフェッションであればなおさらのことだ。橋下弁護士が「弁護士倫理など二の次でいい、人としての倫理のほうが大事だ」と考えるなら、バッジを外して一般の道徳家として生きるほうが彼自身にも依頼者にも幸せだろう。


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5 コメント

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法廷侮辱罪の導入 (サルガッソー)
2007-10-03 02:18:51
もともとの発端は喋々結びやドラえもん、死体復活の儀式といった荒唐無稽な弁護(被告主張)に対する怒りが発端であったと考えます。
現状の日本ではそのような行為に対して、
規制がなかったために弁護士の素行の問題であるとして懲戒騒ぎに発展したのでしょう。
いわゆる「PTSDの傷害容疑で刑期水増し」に匹敵するウルトラCであると考えます。
罰したいけど根拠がないからひねり出した。
そこに誰でも申請できてしまう不備が合わさっているのが本質では。
ここは原点に返って法廷での主張内容によっては罰せられるべきか否かというそもそも論に戻るべきです。
当然規制されるとしても事後法となるので今回のケースには適用できませんが、
日本人は個人を罰してスッキリしてしまうことが多すぎます。もっと発生の原因となるシステムを改善すべきでしょう。
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Unknown (egg)
2007-10-03 08:41:38
いつも興味深く拝読させていただいております。御目汚しかとは思いましたが、初投稿させて頂きます。
私は橋下弁護士の懲戒請求の呼びかけについては、特に問題を感じておりませんでしたので、ご主張を拝見して目から鱗が落ちる思いでした。有難うございました。
とは言え、少年の弁護団の行動にはやはり問題を感じずにはいられません。
以下、問題点について述べさせていただきます。
1.現弁護団は、前弁護団に対する責任追及を行わないのか。
 今回、差戻審に至って新たな主張が行われているようであります。今回の主張内容が真実であればやむを得ないと私も考えますが、逆にいうと、従来の弁護団は十分に少年の弁護を行っていなかったということに帰着します。今回の新しい主張により、裁判が長期化するのは必定です。この点についての責任は誰も負わなくて良いのでしょうか。前弁護士に対する責任追及が行われないのであれば、仲間内のかばいあいと見られても仕方がないのではないでしょうか。

2.今回の主張が本当に真実を表しているのでしょうか。
 どうも十分な説得力をもった主張には感じられません。現弁護士団が当該主張内容を真実だと信じているのであれば已むを得ませんが、そうでないとすれば、判決を引き延ばす為だけの弁護権の濫用行為に思えて仕方がありません。想像に想像を重ねた議論になってしまいますか、弁護士倫理、社会倫理をどのようにとらえても、共感しづらいと言わざるを得ません。一般論として、被告人の弁護の為であればどのような戦略、戦術、行為も正当化されるのでしょうか。そこには自ずから限界があるのでしょうか。(今回のケースにひきつけて言えば、弁護団の主張は彼ら自身真実であるとは思っていないのではないかという想像を前提にしての話です。)


我ながら、主旨が不明瞭な感が否めませんが、玄倉川の岸辺様はこの点についてどのようにお考えになるのでしょうか。

引き続き今後のエントリを楽しみにしております。
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人としての倫理 (南郷力丸)
2007-10-03 08:42:41
凡例
 絞首刑を執行する刑務官は、その職業倫理の前に、人としての倫理がまずあるだろう。
 死刑執行を命ずる法務大臣は、その職業倫理の前に、人としての倫理がまずあるだろう。
 警察の狙撃部隊は、その職業倫理の前に、人としての倫理がまずあるだろう。
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大変失礼しました (egg)
2007-10-04 20:18:28
私の疑問点は概ね橋下弁護士が既に主張されているようですね。大変失礼いたしました。
上述の通り、私としては彼の疑問についてやはり、その内容に違和感は感じません。(すちゅわーです様の議論を一部拝見して2の疑問の上半分については現時点では情報不足の為、留保致します。被告人の弁護の為であればどのような戦術・戦略をとっても良いのかという点については未だ、疑問をぬぐいされません。1については同業同士の為か、認識が甘いように感じました。但し、橋下弁護士の疑問も後付けの部分があるようですね。)
玄倉川様が主張されるように、疑問を伝える形式、或いは批判する手法には問題があると思いますが、逆に言えは内容には議論すべき点があり、現時点では私は、問答無用で済ませるべきでも無いように考えています。すちゅわーです様の議論を完全に拝見してから、私自身再度この問題を考えてみたいと思います。引用先を完全に把握せずに、投稿してしまい、申し訳有りませんでした。
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法廷侮辱罪とは (ルクス)
2007-10-17 02:18:03
法廷侮辱罪とは、法廷を攻撃する者に対して適用されるものです。
ですから、現在審理中の、一方の当事者が出してきた主張にたいし、裁判官が判じないうちから「そんなの嘘に決まっとる! ワーッ」などと喚く連中にこそ適用されるものです。

例えば、テレビ局の責任者が逮捕され禁固刑、局には莫大な罰金が課せられるということならありえます。
しかし、一見荒唐無稽な主張をしたという理由で弁護士が法廷侮辱罪になんかなりません。なぜなら、よく調べたらそれが本当だったとわかることもあるから、よく調べる前にはねつけることを認めることは絶対に許されないのです。ビリーミリガン事件なんてどうなるんだ?
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