気象庁は31日午後、東京でも桜(ソメイヨシノ)が開花したと発表した。
気象庁が桜の開花宣言を行うのは日本独特の習慣だと聞いたことがある(本当かどうかは知らない)。
たしかに、花が咲いているかそれとも蕾のままなのか、自分の目で見れば即座にわかることであり何も気象庁のお墨付きを得る必要はない。とはいえ、気象の変化を表す指標のひとつとして花の開花日は必要なデータなのだろう。学問的に必要とされる観測を、マスコミを筆頭に国民の多くが春の到来を告げるものとして待ち望んでいるというのは、考えてみればなかなか風流な話である。
テレビのニュースで、気象庁の職員が東京での定点である靖国神社の桜を観測する映像を見た。
彼はいかにもプロらしく、一本の桜をあちこちから眺め、双眼鏡などを使って蕾の様子を仔細に観察していた。
…いや、そんなに熱心に見なくても、テレビの画面越しにいくつか花が咲いてるのが見えるんですが。
おそらく彼は郷里の両親に見てもらうため、テレビ的においしいシーンを演じて自分が写る時間を増やそうとしたのだろう。いまどき珍しい親孝行で立派な青年である。ご両親もさぞお喜びだろう。知らんけど。
時間をかけ納得いくまで桜を観察した彼は、しばらく考えた後、決然として携帯電話を取り出し、なにやらうれしそうに専門用語を交えつつ上司に開花状況を報告した。
携帯を切った彼にテレビ局の記者がたずねる。
「今のは開花宣言ですね」
「はいそうです。本日、桜が開花しました」
おお… 周囲の人たちから微かなどよめきが上がり、拍手が自然発生する。
照れくさげにちょっと頭を下げる気象庁職員。いかにも日本的な、見ていて気持いい場面であった。
さて、ここからが本論である(前置きが長すぎ)。
なぜ、そのとき靖国にいた人たちは自分の目で見た「桜の開花」そのものよりも「開花宣言」のほうを喜んだのか?
開花宣言を聞いて拍手した人たちは、ほぼ間違いなく自分の目で桜を見たときには拍手しなかったはずだ。
彼らはおそらく意識的に拍手したのではない。開花宣言を聞いたときに無意識的に大きな喜びが生まれたのだ。ではその喜びはどこから来たのか。少々大げさだが、「心理的抑圧からの開放」と言ってみる。自分の見た桜は、すでに蕾は大きく膨らみすでに開いた花もいくつか見つけられる。だが、これを自分ひとりの判断で「開花」と言いきってしまっていいのか。隣の人に「ようやく咲きましたね」と話しかけたら「え、まだ咲いてませんよ」と不審顔されるかも知れない。そんなことになったら恥ずかしい。気象庁がお墨付きを出してくれるまでは黙っていよう。
と、まあそんな気弱な人がいるのかどうか知らないが、つまりは「開花宣言」によって桜の開花という現象が公認され、社会的な共通認識となるのである。「開花宣言」を聞いたときに拍手した人たちは、それまで内に秘めていた「開花(春の訪れ)の喜び」が人々すべてに頒ちあわれたことを喜んだのだろう。自分ひとりで喜ぶよりも、「大勢の人が喜ぶ」ことを喜ぶ。これは愛である。というと大げさだが、日本古来の和の心であり、人間らしい優しさである。
ここでエントリを終わらせたら、なかなか「いい話」なのだが(どうでしょうか)、ひねくれものの私はもう少し頭の中でいじってみる。自分の喜びを自分のものとして主張できないというのは、自我の弱さ、未熟さを表している。気象庁のお墨付きを期待するのは権威主義であり、国民がお上意識から抜け出していない証拠だ。
…ふむ。もっともらしい話だが、そういう類の「良識的」な話を語るのは私の任ではない。朝日新聞の記者さんにでも書いていただこう。私はこの話を私自身が気にしていることに結びつける。つまり、「リスナーへの裏切り」論だ。
私にとって不思議だったのは、タモリや中島みゆきのリスナーでない人たちが「タレントの勝手な都合で番組を降板するのは、リスナーへの裏切りだ」と怒りの声を上げていることだった(その他に「プロなら最後まで責任を果たせ」という「プロ芸能人」論もあった。これについては機会があれば別に書きたい)。番組を聴いて楽しんでいる人(リスナー)が降板のニュースを聞いてがっかりし、怒りの声を上げる、というのならわかる。だが、番組を聞いてない人たちがなぜ?その疑問については「擬似友情」の幻想を壊されたくないという感情を軸に一度考えてみたのだが、今回は別の視点から駄文を書き連ねてみようと思う。
彼らの気持は、自分の目で桜の開花を確かめるよりも「開花宣言」を喜んだ人たちの気持と根っこは同じなのだ。以下はただの想像だが、「リスナーじゃないのに裏切りを怒っている人」の気持はこういうものなのではないか。
降板宣言を聞く
↓
「リスナーの人たち、さぞ失望し怒っているだろうな」と想像する
↓
「想像上の、怒っているリスナー」に同情し、自分もその気持を共有したいと思う
↓
いつの間にか、自分がリスナーになった気持ちで批判するようになる
「開花宣言」のときには、「自分の喜びが人々の喜びになるのを喜ぶ」という心の動きがあったが、「降板宣言」の時には「(想像上の)リスナーの怒りを自分の怒りとして共有することを喜ぶ」という心の動きがあったのではないか。
自分と「みんな」とで感情を共有したい、というのは人間として自然なことだ。人の和、愛、協調、平和、そういった良き物は「共感への願望」から生まれる。だが、もしも「みんな」が架空の存在であった場合、共感もまた架空のものとなる。
「降板宣言」の場合、私の目には本来の「リスナー」の姿が見えてこない。もともとそれほど多くの人が聞いている番組ではないからだろう。だが、「リスナーに共感していると思っている人たちが共感しあっている」姿は目に付く。共感の起点になるはずの当事者(リスナー)をさしおいて部外者どうしが共感しあっている姿は、私には不思議にも不気味にも感じられるのだ。
なんだか長々と書いたわりには結論がはっきりしなくて大変申し訳ない。
実は私がこのエントリで書きたかったことのほとんどは、「空気の研究」(山本七平)に書かれている。どうかよろしければ、いや、ぜひお読みください。日本人論の古典といっていい名作です。
気象庁が桜の開花宣言を行うのは日本独特の習慣だと聞いたことがある(本当かどうかは知らない)。
たしかに、花が咲いているかそれとも蕾のままなのか、自分の目で見れば即座にわかることであり何も気象庁のお墨付きを得る必要はない。とはいえ、気象の変化を表す指標のひとつとして花の開花日は必要なデータなのだろう。学問的に必要とされる観測を、マスコミを筆頭に国民の多くが春の到来を告げるものとして待ち望んでいるというのは、考えてみればなかなか風流な話である。
テレビのニュースで、気象庁の職員が東京での定点である靖国神社の桜を観測する映像を見た。
彼はいかにもプロらしく、一本の桜をあちこちから眺め、双眼鏡などを使って蕾の様子を仔細に観察していた。
…いや、そんなに熱心に見なくても、テレビの画面越しにいくつか花が咲いてるのが見えるんですが。
おそらく彼は郷里の両親に見てもらうため、テレビ的においしいシーンを演じて自分が写る時間を増やそうとしたのだろう。いまどき珍しい親孝行で立派な青年である。ご両親もさぞお喜びだろう。知らんけど。
時間をかけ納得いくまで桜を観察した彼は、しばらく考えた後、決然として携帯電話を取り出し、なにやらうれしそうに専門用語を交えつつ上司に開花状況を報告した。
携帯を切った彼にテレビ局の記者がたずねる。
「今のは開花宣言ですね」
「はいそうです。本日、桜が開花しました」
おお… 周囲の人たちから微かなどよめきが上がり、拍手が自然発生する。
照れくさげにちょっと頭を下げる気象庁職員。いかにも日本的な、見ていて気持いい場面であった。
さて、ここからが本論である(前置きが長すぎ)。
なぜ、そのとき靖国にいた人たちは自分の目で見た「桜の開花」そのものよりも「開花宣言」のほうを喜んだのか?
開花宣言を聞いて拍手した人たちは、ほぼ間違いなく自分の目で桜を見たときには拍手しなかったはずだ。
彼らはおそらく意識的に拍手したのではない。開花宣言を聞いたときに無意識的に大きな喜びが生まれたのだ。ではその喜びはどこから来たのか。少々大げさだが、「心理的抑圧からの開放」と言ってみる。自分の見た桜は、すでに蕾は大きく膨らみすでに開いた花もいくつか見つけられる。だが、これを自分ひとりの判断で「開花」と言いきってしまっていいのか。隣の人に「ようやく咲きましたね」と話しかけたら「え、まだ咲いてませんよ」と不審顔されるかも知れない。そんなことになったら恥ずかしい。気象庁がお墨付きを出してくれるまでは黙っていよう。
と、まあそんな気弱な人がいるのかどうか知らないが、つまりは「開花宣言」によって桜の開花という現象が公認され、社会的な共通認識となるのである。「開花宣言」を聞いたときに拍手した人たちは、それまで内に秘めていた「開花(春の訪れ)の喜び」が人々すべてに頒ちあわれたことを喜んだのだろう。自分ひとりで喜ぶよりも、「大勢の人が喜ぶ」ことを喜ぶ。これは愛である。というと大げさだが、日本古来の和の心であり、人間らしい優しさである。
ここでエントリを終わらせたら、なかなか「いい話」なのだが(どうでしょうか)、ひねくれものの私はもう少し頭の中でいじってみる。自分の喜びを自分のものとして主張できないというのは、自我の弱さ、未熟さを表している。気象庁のお墨付きを期待するのは権威主義であり、国民がお上意識から抜け出していない証拠だ。
…ふむ。もっともらしい話だが、そういう類の「良識的」な話を語るのは私の任ではない。朝日新聞の記者さんにでも書いていただこう。私はこの話を私自身が気にしていることに結びつける。つまり、「リスナーへの裏切り」論だ。
私にとって不思議だったのは、タモリや中島みゆきのリスナーでない人たちが「タレントの勝手な都合で番組を降板するのは、リスナーへの裏切りだ」と怒りの声を上げていることだった(その他に「プロなら最後まで責任を果たせ」という「プロ芸能人」論もあった。これについては機会があれば別に書きたい)。番組を聴いて楽しんでいる人(リスナー)が降板のニュースを聞いてがっかりし、怒りの声を上げる、というのならわかる。だが、番組を聞いてない人たちがなぜ?その疑問については「擬似友情」の幻想を壊されたくないという感情を軸に一度考えてみたのだが、今回は別の視点から駄文を書き連ねてみようと思う。
彼らの気持は、自分の目で桜の開花を確かめるよりも「開花宣言」を喜んだ人たちの気持と根っこは同じなのだ。以下はただの想像だが、「リスナーじゃないのに裏切りを怒っている人」の気持はこういうものなのではないか。
降板宣言を聞く
↓
「リスナーの人たち、さぞ失望し怒っているだろうな」と想像する
↓
「想像上の、怒っているリスナー」に同情し、自分もその気持を共有したいと思う
↓
いつの間にか、自分がリスナーになった気持ちで批判するようになる
「開花宣言」のときには、「自分の喜びが人々の喜びになるのを喜ぶ」という心の動きがあったが、「降板宣言」の時には「(想像上の)リスナーの怒りを自分の怒りとして共有することを喜ぶ」という心の動きがあったのではないか。
自分と「みんな」とで感情を共有したい、というのは人間として自然なことだ。人の和、愛、協調、平和、そういった良き物は「共感への願望」から生まれる。だが、もしも「みんな」が架空の存在であった場合、共感もまた架空のものとなる。
「降板宣言」の場合、私の目には本来の「リスナー」の姿が見えてこない。もともとそれほど多くの人が聞いている番組ではないからだろう。だが、「リスナーに共感していると思っている人たちが共感しあっている」姿は目に付く。共感の起点になるはずの当事者(リスナー)をさしおいて部外者どうしが共感しあっている姿は、私には不思議にも不気味にも感じられるのだ。
なんだか長々と書いたわりには結論がはっきりしなくて大変申し訳ない。
実は私がこのエントリで書きたかったことのほとんどは、「空気の研究」(山本七平)に書かれている。どうかよろしければ、いや、ぜひお読みください。日本人論の古典といっていい名作です。
>開花宣言を聞いて拍手した人たちは、ほぼ間違いなく自分の目で桜を見たときには拍手しなかったはずだ。
近所の桜のつぼみがついた時、ちょっと開いた時、満開になりつつあるのを発見した時、わざわざダンナの携帯メール「報告」に送る自分を見つめ直して照れてしまいました・・・
写真も撮ったりして。
ちょっと前は築地の小学校の花がきれいに咲いていたので、「桜が咲いてる!!」と学校の中に入れてもらい写真を撮ったら、小学生に「梅だよ。」と突っ込まれたことを思い出しました。
なんで日本人て桜とか梅とか見ると嬉しくなるんでしょうね?
私だけかな?